ヒーメロス通信


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連載エセー①「井筒俊彦『意識と本質』(精神的東洋を索めて)解読。」

2012年06月22日 | 井筒俊彦研究

井筒俊彦研究 井筒俊彦著『意識と本質』(精神的東洋を索めて)解読
小林稔

連載/第一回 

 哲学、神学のアナロジーにおいて「来るべき詩学」を確立させようとする私の不断の研究課題は、ミシェル・フーコーの哲学的導きを得て、近代西欧の文学から古代ギリシア哲学へと遡行することになったが、いまだその途上にある。一方、井筒俊彦氏の著作からも学ぶべき多くのことがあり、私はすでにその多くを読んできたのだが、彼の構想する東洋思想の「共時的構造化」(東洋哲学を時間軸から外し、範型論的に組み替えること)の範疇は、イスラム思想、ユダヤ思想、インド思想、仏教思想などと広範囲であり、そこから詩学を構成するのは至難の業である。ましてや学問の自立を目指すものではなくそれら諸々の思考から、類似的に示唆される言葉という存在形態と詩の成り立ちを考えていこうというものである。私は、特に『意識の形而上学』、『意識と本質』、『神秘哲学』、『超越のことば』などの書物を数度、年月を経て読んできた。詩が生み出される場は一詩人の「行為のレベルで獲得されるものである」(西一知)から、広い意味での経験が求められる。したがって詩を書くには難しい知識を必要としないという人たちも多いが、経験する一詩人の感受性に、歴史から学んだ多くの思考形態は当然影響を与えるだろう。日常の表層的意味をもてあそんで多くの読み手に共感を得て何になろうか。なによりも詩を書くことの意義に、「自己の探求」や「生の意味の探求」、「生の変革」を求めようとする私にとって、東洋的精神の源流を探ることは避けて通ることのできないものである。
 前置きはさておき、行き当たりばったりの感は否めないが、私はこのブログで井筒俊彦氏の『意識と本質』(岩波文庫版をテクストにする)を、見えない他者(ブログを開く人)に向かって読み解いてみようと思うのである。まずは私の深い読みを可能にするため、さらに同じテーマに興味を抱く読み手との共同研究を呼びかけるためにできるところまでゆっくり進めてみようと思う。疑問に感じたことや私の考えの間違いの指摘など、コメントを寄せていただければ幸いです。
 開始する前に、私が井筒氏の哲学の特にどのような箇所に興味を持っているのか、そのいくつかを示してみたい。まずそれは「言語アラヤ識」と彼が名づけた理論である。
                     (第二回につづく)©ISHINSHA


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