ヒーメロス通信


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井筒俊彦『意識の形而上学』を読む。小林稔・連載第八回

2014年01月26日 | 井筒俊彦研究

井筒俊彦『意識の形而上学』を読む。連載第八回

来るべき詩学のために(二) 小林稔

第三部「実存的意識機能の内的メカニズム」p103

 いよいよ『大乗起信論』の最重要課題「個的主体性」のテーマに入る。いよいよといおう。そう、『起信論』自体が元来「個的主体性」を目的にして記された経典であることは、『起信論』の第一章「この論を著す理由」を読めば直ちに理解されることであろう。井筒氏は「個的実存意識の力動的メカニズムの考察」と呼んでいる。ここまで形而上学的意識構造論を展開してきたが、その十分な理解の上でなければ「個的主体性」への適切な理解には辿りつけないのだ。人は井筒氏の難解な解説を読まずに直接経典に向かうべきと考える人もいようが、どれだけの深い読みができるかは疑問である。つまり現代哲学の視点に耐ええる思索のみが今日の生きた思想(エートス)になるのであるからである。井筒氏の書物の読後に原典を読み返すと、原典そのものの意味が自然と理解されていくのだと思う。

 詩作行為は、ランボーの主張である「生の変革」と関連づけたびたび私が論じてきたことである。「生の変革」とはいえ、ランボーが思索をやめアフリカの商人になったような、現実に特別な何かをすることだけを意味するのではなく、「意識の変革」は世界を言葉で掌握しようとする、あるいは言葉によって真実の姿を開示しようとする詩作との関連においては、「意識の変革」こそが必要とされる。井筒氏のいう「個的主体性」は詩作行為にとって最重要事である。仏教哲学では「生」の構造を明かすことに始終するだけであるが、認識することから実践(詩作)が導かれるのである。

「個的主体性」のテーマでは「アラヤ識」が論理の独壇場になると井筒氏は前置きする。先に述べたように、「心真如」(A領域)と「心生滅」(B領域)の中間地帯(Ⅿ)に「アラヤ識」が位置するからである。それは「実存意識のダイナミックな機能磁場として縦横に活躍し始める」からであると井筒氏はいう。ここで新しい一対のキータームとして「覚」と「不覚」が登場する。「覚」はさら二分して「始覚」と「本覚」を形成する。原典では<心の本性に対する覚知の義>という項目でこれら四つのタームを細かく述べているが、井筒氏は「覚」と「不覚」を分析し、「不覚」形成のプロセスを述べたのちに「始覚」と「本覚」を解説するという、原典の異なった順序で行っている。理解をしやすくするためである。

「覚」と「不覚」について。

井筒氏によれば、「覚」と「不覚」は「アラヤ識」の働きの本質的二側面にほかならないという。また「覚」と「不覚」は、「心真如」と「心生滅」という意識の形而上学的構造上の区別を、個的実存意識の次元に反映し、個的実存意識の形で再現するところの「アラヤ識」の機能フィールドであると指摘する。『起信論』のアラヤ識は、他の唯識哲学におけるアラヤ識とは異なり、本性的に双面性を有している。つまりアラヤ識の内部に、相対する狭義の「アラヤ識」と「如来蔵」の両方を秘めているがゆえに、エネルギー溢れる場になり得ていることは井筒氏の指摘するところである。実存意識がA領域の心真如に向かう「覚」は、極限に達したとき、そのまま踝を翻しB領域に向かう。「自性清浄心」との合一を体験した実存意識はB方向に向かい、A・Bの両方を無差別的に、全一的に、綜観する境地に達しなければならないと井筒氏はいう。Aの極点に達することがそのままBの深層を覚知すること(AとBの同時的覚知)になるような実存的意識状態が現生したとき、それを「覚」というと井筒氏は指摘する。絶対無分節的「自性清浄心」との合一を「離念」といい、それが「覚」の第一条件であるとするなら、大多数の人にとって「覚」は至難の事であり、「不覚」の状態に留まらざるを得ないだろうと井筒氏はいう。しかもA・Bが同時に、ということに留意しなければならないだろう。構造を説明するときには部分的に扱うため、空間的に説明する必要があるが、時間的に見れば同時になされることを井筒氏は指摘していると考えられる。

「不覚」からの脱出こそが『起信論』の提出する倫理学になり、「ほとんど不可避的に、実存的個の倫理学的プロブレマティークの領野に曳き入れられていく」と井筒氏は指摘する。それこそが私の構想する詩学の中心的場になるが、井筒氏はあくまで哲学的思惟において、構造論的に分析していくのである。

 まず我々が脱出すべき「不覚」を『起信論』はさらに分析していく。「不覚」を「根本不覚」と「枝末不覚」に区分する。「根本不覚」を井筒氏は根源的・第一次的「不覚」と呼び、「枝末不覚」を派生的・第二次的「不覚」と呼ぶ。井筒氏によると、前者は真理を如実に照見できないという「無明」の状態をいう。「真如」(心)の真相を全一的意識野において覚照する能力がないことであるといそれに対して後者は、「真如」の覚知の中に認識論的主・客の区別・対立を混入し、そこに生起する現象的事象を心の外に実在する客観的世界と考え、それを心的主体が客体的対象として認識する、という形に構造化して把握する意識の在り方であると井筒氏は説明する。過不足のない言説であるが、簡単にいえば、「妄念」である外的世界を真実性の世界と誤認し、その結果、迷いの渦に巻き込まれていく実存の在り方を「枝末不覚」というと井筒氏は解説する。また、「根本不覚」は形而上学的「不覚」であり、「枝末不覚」は実存的「不覚」であると説明する。「実存的意識機能の内部メカニズム」を展開する本書の第三部では、後者の「枝末不覚」が主役である。そして妄念の世界に実存意識を巻き込んでいくプロセスを九段階にわけて「大乗起信論」では解かれているという。「アラヤ識」の妄念的機能フィールドは九つの段階的様相を持つということであると井筒氏はいう。

 『大乗起信論』では九の段落を「三細六麁」という。「三細」はほとんどきづかれないようなかすかな深層意識的心機能であり、「六麁」とは粗大な表層意識的心機能であると井筒氏はいう。この九つの段階の分類される「妄念」を次回にまとめてみよう。

 

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