ヒーメロス通信


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連載エセー④井筒俊彦『意識と本質』解読。「不二一元論的ヴェーダーンタ哲学」

2012年07月03日 | 井筒俊彦研究
井筒俊彦『意識と本質』解読。
小林稔


連載/第四回

 前回では、「本質」否定の考えが広く東洋思想の基底にあることがわかった。

『大乗起信論』では、「一切の言説は仮名にして実なく妄念あるのみ」とする。
       井筒氏は、遺作となった『意識の形而上学』でさらに深く追求している。

ナーガールージュナ(龍樹)の中観思想
存在者は実在性がなく、ただ「縁起」という相関関係において存在性を保つ。

禅の考え方
     「本質」抜きの存在分節を実証的に認知しようとする。
     「本質」を喚起するコトバを「本質」抜きで使う。

上記のような事柄を『意識と本質』(岩波文庫)をテクストにして検討した。

今回は、シャンカラの不二一元論的ヴェーダーンタ哲学から始めてみよう。

P26-P29
不二一元論的ヴェーダーンタ哲学
 仏教と同様に「本質」否定から始めて最後にはそれと正反対の結果に辿り着くという不二一元論とはどういう考え方なのか。仏教では形而上学の極点に「空」や「無」が置かれるのに対して、ここではその極点にブラフマン(梵)という最高度にリアルな実在を据えると井筒氏は説明する。現実の世界が分節された「存在」であふれているが、真の姿では決してなく、絶対無分別であるものが私たちの表層意識を通して屈折し、ゆがんで現われた偽りの姿、虚妄の映像であるとする点では、仏教となんら変わることがないという。実際にはないのにあると見えるのは、「名」が意味的に指示する「本質」を妄念し、ものとして立てるからであるという考えまでは仏教の考えとは相違ない。しかし、シャンカラは、絶対無分別の実在者(ブラフマン)が限定された形で現われるから、あるように見えると考える。つまり「我々の経験世界は、我々自身の意識の「忖託」(何かに所属していないものを、所属しているように押し被せること)的働きによって、さまざまに分節されて現われるブラフマンの仮象的形姿にほかならない」という考えであると井筒氏は解釈する。

どこにも分節線のない絶対一者が、分節された形で我々の表層意識に映るのだ。絶対一者が客観的に自己分節するわけではない。
                         『意識と本質』Ⅰ

 私たちが深層意識に下りていき分節された形が払拭されたなら、絶対無分別者の実在者が現われる。深層意識からかんがみれば現実の全ての事物は虚妄に過ぎず、ブラフマンの「名と形」的な歪(ひずみ)であり、ブラフマンの限定的現われである限り、経験的事物にある種の実在性が認められると井筒氏はこの不二一元論を説明する。たいへん解りにくいが、井筒氏は別の角度から言い直している。つまり、「個々別々の事物の個々別々の「本質」は虚妄であるが、そのかわり彼(シャンカラ)はすべての経験的事物に唯一絶対の「本質」を認める」のだろうという。「本質」の無性を追いつめながら、最終的には「形而上学的絶対有」に辿り着く。仏教哲学とこのヴェーダーンタ哲学、終着するところは前者は絶対無分節的無であるのに対して、後者は絶対無分別的有と別れるのである。
井筒氏は『超越のことば』においてさらに詳しく論究している。その中の「Ⅴマーヤー的世界認識」では、「存在世界はひとつの巨大な意味的「幻影」(マーヤー)である」というシャンカラを含めた古典的不二一元論があり、「東洋的主体性のあり方の根源的現成形態」としての「マーヤー的意識の基底構造」を「それ本来の哲学論理的整合性において解明し」、「その思想内容を、東洋的言語哲学の根源形式に関連づけて、読みなおそうとすること」を主題として論述するという。
「マーヤー的主体なるもの」は普遍的な思想であるが、特に東洋では「無常観」として受け留められてきた。世界や存在を虚妄とする感性は情緒的な気分を生み出し、通俗的(俗締的)哲学を生んだ。しかしヴェーダーンタの不二一元論は、「マーヤー哲学」として通俗的哲学に対立すると井筒氏はいう。存在の虚妄性は、意識の段階によって見え方が異なってくるという。事物事象が「自己同一的にそのもの自体」と把握される俗締(通俗)的段階から、「哲学的思索の進展につれて」存在性の基盤を奪われ、「相互相関的」になり「夢幻的性質を帯びてくる」。大乗仏教では最高位に達すると「全存在が空化され無化される」と井筒氏は説明する。不二一元論においても仏教と同様に、俗締から真締(哲学的)への移行を辿るという。しかし仏教と異なるところろは、ヴェーダーンタでは、経験的世界の存在的他者は俗締敵段階においてすでに夢幻化されていること、さらに仏教における「真締的知の極限」では「存在が一挙に空化される」が、ヴェーダーンタでは「真締的知の極限において存在は絶対化され有化される」ということであると井筒氏は説く。それ(有)は俗締的段階で経験する「有」ではない。絶対的否定において覚知される「有」であり、「有性の極」を「ブラフマン」とヴェーダーンタでは呼ぶという。
このようにして井筒氏は不二一元論を解釈していくのだが、これ以上ここで進めることはしない。関心のある人は『超越のことば』を読むことを勧める。『意識と本質』の解読に戻ろう。

仏教哲学では、「本質」はどこまで追っても「無」であり、「現象界の存在者は縁起のみ有」であるが、一方では「一切の存在者に共通する絶対唯一の「本質」という考え方が、東洋哲学の本質一般において、一つの典型的な思惟形態を提示している」と井筒氏は主張する。イスラームのイブン・アラビーの存在一性論もその一つであるという。

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