ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

行水、小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月

2012年07月05日 | 小林稔第3詩集『白蛇』
小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊行より

   行水
   小林稔



       夏の樹々の葉叢(はむら)のすきまから、きらきらと き

      んいろの光が戯れている。
 
       アキオはランニングシャツを脱いだ。それから 半ズボン

      を腰から落としたとき、太腿から踵へ、ひんやりとした直線

      状の感覚が走ったように思った。

       庭に、母がしつらえた盥(たらい)が置かれてある。

       アキオは真裸になることを ためらった。が、やがて、十

      三年の時の流れが 背中から消えていくように、アキオには

      思われた。

       日の光が 瞳を貫き、視界を黒く塗りつぶしていく。

       アキオは一切を脱ぎ捨てると、庭に出た。盥の浅い水に腰

      を沈めて、両手で水をむすんだ。蝉の鳴き声にも耳をくれず、

      水に反射する光を見ていた。両足を盥の縁にかけ、肩を水に

      浸す。アキオは 気恥ずかしさに顔を赤らめた。

       あのブロック塀に、誰かの眼差しを感じても、アキオは自

      分の眼差しを 自分の身にひそめてしまうに違いない。

       アキオは姿勢を直すと、首筋に生温かい微風が通り過ぎる

      のを知って、半身をくねらせるのだった。

       背後に物音がする。突然、我に返った十三歳のアキオは振

      り返る。父が立っていた。眼前には萎(な)えた父の陰茎が

      あった。

       一瞬のことではあったが、見知らぬ男がいることに 畏怖

      の念を禁じることができなかった。真裸の父を見たのは こ

      れが初めてで 最後であった。


       十八歳の誕生日を迎えた穐男(アキオ)は、縁側に腰を降ろ

      して、あのときと同じ庭を見つめる。擦れ違いざまに見ただ

      けの父の肉体から、離反し、背いてきた。自分と父を断ち切

      らせたものは何だったのだろう、と穐男は しきりに考えた。


       昼下がりの庭を、宵闇が足音を忍ばせ 迫ってきて 縁側

      の石に足裏を落とし 物想いにふける穐男を すっぽりと包

      み込んだ。


コメントを投稿