ヒーメロス通信


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連載エセー③「井筒俊彦『意識と本質』(精神的東洋を索めて)解読。」

2012年07月01日 | 井筒俊彦研究

連載エセー③井筒俊彦『意識と本質』(精神的東洋を索めて)解読。

連載/第三回
小林稔


 詩が経験的日常に亀裂を与えるものとして到来するなら、その根源は神学的にいえば天の彼方であろうが、もともと実在する場所ではないのであるから、先ほど述べたアラヤ識の深層構造から説明することも可能であろう。意味エネルギーに満ちあふれた「種子」が、何かの瞬間に表層意識に浮上し、詩の言語として詩人に訪れる。「何かの瞬間」とは、主体が「社会制度的表層言語」から解き放たれていなければ掌握できない瞬間ではある。下意識であるがゆえに一種のインスピレーションともいえるが、主体自身が意識できないだけで、経験の堆積から必然的にもたらされる恩寵のようなものである。すべての経験がアラヤ識に蓄積される。したがって真の経験をすることなくして恩寵はないであろう。

 前置きは長くなったが、この『意識と本質』解読を始めよう。


P.7~9
共時的東洋哲学の構造

 人間知性の正しい行使、厳密な思考の展開、事物の誤りのない認識のために、「定義」の絶対的必要性をソクラテスが情熱をもって強調して以来、思惟対象あるいは認識対象の「本質」をきわめるということが西洋哲学伝統の主流の一部となって現在に至った。
                     『意識と本質』Ⅰの冒頭

 本質を究めることが哲学の第一歩である。しかし東洋哲学においても「本質」は重要な役割を果していると井筒氏はいう。「本質」が提起してきた哲学的問題を東洋哲学全体を通して論じようとすると彼はこの書物で述べる。方法論として、「東洋哲学全体を、その諸伝統にまつわる複雑な歴史的聯関から引き離して、共時的思考の次元に移し、そこで新しく構造化しなおしてみたい」と井筒氏は論考の意図を述べる。これが世に知られている井筒俊彦の「共時的構造化」である。私たちの「意識」が「本質」をいかに捉えるか、「本質」の実在性・非実在性の問題について考察したいと彼はいう。
 あらゆる事象において「本質」を捉えようとする内的性向が私たちにあり、表層意識の構造の中に組み込まれている。「本質」を把捉するのが「意識」であり、私たちは、コトバの意味機能の指示に従って表層意識において無反省的(本能的)に把捉すると彼はいう。

P9~15
サルトルの「嘔吐」
 「意識には内部なるものはなく、意識は己れ自身の外以外の無いものでもない。意識を意識として成立させているものは、この絶対的な脱走であり、固定した物であることのこの拒絶だ」というサルトルの著作『フッサール現象学の基礎理念』を引用し、脱走といっても何かに向かって滑り出していくのであるから、『嘔吐』でいうなら「あそこのあの樹」は一つの個物である以上、「Ⅹを何かであるものとして把握する」のだから、本質把握以外の何ものでもない」のであって、やみくもに「外」に出て行けば、「渾沌の泥沼にのめり込んで、嘔吐を催すしかないだろう」と井筒氏は読み解く。つまり存在の深淵を覗いてしまった、言語脱落体験なのである。井筒氏によると、人間の意識は、コトバの意味を辿って分節し、「存在者」を作り出していくものである。「およそ名があるところには、必ずなんらかの形での「本質」認知がなければならないから、言語脱落は「本質」脱落を意味するのだと井筒氏はいう。そうであるなら、彼がいうように言語脱落と「本質」脱落の後には「存在」そのものが残ることになろう。「ぶよぶよした、奇怪な、無秩序の塊りが、怖ろしい淫らな(存在の)裸身」(『嘔吐』引用からの引用)が「嘔吐」を催すことになる。意識は必ず志向性をもち、「本質」を己れの外に見るものだ。志向性をもたない意識は混乱状態を招くのは必然であると井筒氏はいう。
 筆者(井筒氏)がサルトルの『嘔吐』を持ち出したのは、言語の「存在」分節作用が日常的意識に深く関わっているこというためである。根源的「存在」には名前がなかったが、名の出現とともに、つまり「言語によって無分節の{存在}が分節されて存在者の世界が経験的に成立する」が、我々の日常世界ではそれらに気づかず、自分を主体、取り巻くものを客体と考えているのだと彼は述べる。
 『嘔吐』の主人公が絶対無分節の「存在」の前に立ち狼狽する状況が描かれているが、東洋の哲学から見れば、この次元での「存在」こそが「神あるいは神以前のもの」であり、「東洋の哲人とは、深層意識が拓かれて、そこに身を据えている人である」と井筒氏はいう。そこは言語脱落、「本質」脱落の世界(深層意識)であり、「本質」のない世界と言語のよって分節された、無数の「本質」のよって形成された世界(表層意識)と鋭く対立しつつ、一つの「存在」世界の地平のうちに均衡を保っていると、井筒氏は結論する。

P19~P26
大乗仏教の本質否定
 聖人においても生きなければならないのは、この分節された世界である。しかし「本質」なるものを識別しない、つまり現存しているが、本当はないもの、「本質」は虚構に過ぎないという、「徹底的な本質否定」が大乗仏教の考え方であると井筒氏はいう。井筒氏は、「『般若経』以来、ナーガールジュナ(龍樹)の中観を通って唯識へと展開する大乗仏教の主流の、これが中枢的テーゼをなす空観である」と述べ、「言語の本質喚起的機能が重大な役割を背負わされている」と指摘する。心中の少しの乱れでも意識は振動し、事物の形姿が外界に浮上し、「本質」の幻影が見える、このような意識を仏教用語で「心念」あるいは「妄念」というと井筒氏は説明する。
 
 言語のこの側面(妄念)を指して『大乗起信論』は「一切の言説は仮名にして実なく、ただ妄念あるのみ」と説く。全ての言葉は本来、仮に立てられた徒なる名前だけであって、別にそれに対応する「実」、つまり「本質」があるわけではなく、ただ妄念の動きにつれて起こってくる、という意味だ。ここでは、言語が妄念の所産という形で提示されているが、むしろこの関係を逆にして、言語の働きで妄念が起こるといっても同じこと(だ)。
井筒俊彦『意識と本質』Ⅰ

 「本質」の徹底的な実在性の否定は、「無自性」あるいは「無我」という。ナーガールジュナ(龍樹)の中観でいうなら、あらゆる存在者が相関関係(縁起)にのみ存在性を保つものと考えられていると井筒氏はいう。
 「本質」が実在せず、虚妄(無)であるとするなら、現実世界に意味あるものは何もないということになる。井筒氏は、通俗的仏教から哲学としての仏教を区別する。形而上的体験における「空」には「真空妙有」という有的局面があるという。井筒氏の説明によると、「本質」が実在しなくても、現実世界には事物はあるという考えがある。夢や幻とは割り切れない、実在性を認める思惟傾向がある。いわば、「本質」抜きの分節世界を正当化するために、仏教は縁起というものを理論的に実践的に展開するという。この問題を真正面から取り組んだのが禅であると井筒氏は主張する。
 禅も「本質」を認めず、分節された存在者の世界は虚構の世界であり、仮象に過ぎないと考える。しかし現実の世界に手ごたえがあるとするなら、「本質」ぬきの分節が生起しているからである。従って「本質」抜きの流動的な存在分節を、実践的に認証することを禅は要求すると井筒氏はいう。ということは「本質」を通さない存在分節とは、もともと「本質」を喚起するように作られているコトバを、「本質」を喚起させずに使う、ということであると井筒氏は説く。とても関心をそそるテーマであるが、井筒氏はこの論文の後半で、この主題(禅)を詳しく論じることを予告してひとまず終えている。また、東洋哲学には大乗仏教と同じ出発点、「本質」否定から始めて、終着点を正反対にするシャンカラの不二一元論的ヴェーダーンタの哲学があるという。井筒氏は次にその問題を解説していくことになる。



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