ヒーメロス通信


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「自己への配慮」と詩人像(三)季刊個人誌『ヒーメロス』11号2009年9月25日発行から

2012年01月29日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの
エセー
「自己への配慮」と詩人像(三)
小林 稔



10 キリスト教世界と近代世界における実践と認識の起源

 プラトン‐ソクラテス的風土では、「汝自身を知れ」と「汝自身に配慮せよ」は「つがいのように」扱われてきた。ソクラテスが自分の使命とまで考えていた、ここで、「汝自身を配慮せよ」とはいかなることを意味するのかを整理しよう。「汝自身を配慮せよ」と呼びかけるのは、自分自身に配慮することを怠っているアテナイの市民たちがいたことを意味する。『ソクラテスの弁明』では、「偉大なポリスの一員でありながら、ただ金銭を、できるだけ多く自分のものにしたいというようなことに気をつかっていて恥ずかしくないのか。評判や地位のことは気にしても、思慮と真実には気をつかわず、たましい(いのちそのもの)をできるだけすぐれたよいものにするように、心を用いることをせず、考えてみもしないというのは」と語られている。つまり財産や評判、地位などに気にかけているのに、自分自身のことは気にかけていないということが述べられている。ソクラテス自身は、他人のことを気づかってはいるが自分自身のことを気づかっていない、つまり自分を犠牲にする哲学者として描かれている。「自己への配慮を覚醒の契機である」ととらえ市民たちに目を開かせる任務を持つ人である。つまり「師の占めるべき位置」があることをフーコーは指摘する。「自己への配慮」の概念は、歴史の過程で変遷があったことを明らかにすることが、この『主体の解釈学』という講義の目的であることに言及しながら、次のような概念が「自己への配慮」には含まれることを講義の初日で述べた。第一に、「自己への配慮」とは、自己や他人、世界に対する態度であること。第二に、自己に配慮することは他者、世界から「自己」へ視線を向け変える必要
があるということ。第三に、「自己への配慮」という考え方は、自己に対して行なう行動、自己の世話をし、自己を変え、自己を浄化し、変形し、変容させる行動であることである。
 このような自己への配慮の「定型表現」は、紀元前五世紀以降に顕れ、紀元四、五世紀に至るまで千年の間、つまりギリシア哲学、ヘレニズム哲学、ローマの哲学、キリスト教を貫く考え方である。さらに、ヨーロッパに構成された最も厳格な道徳が、キリスト教に帰すべきではなく、紀元前の数世紀から紀元後の初め(つまりストア派、犬儒派、エピクロス派の道徳)に帰すべきであるとフーコーはいう。「自己への配慮」という考え方は、道徳の母体となるような肯定的原則であったし、これらの規則はキリスト教の道徳にも非キリスト教的な現代の道徳にも登場してはくるが、前者の自己放棄の義務づけというキリスト教的な形式と、後者の国家や他者に対する義務づけという近代的な形式をとり、「自己への配慮」がないがしろにされ、否定的意味に変わってしまったと述べている。
「自己への配慮」という考え方が重視されなくなっていった理由の一つとして、「デカルト的契機」があるという。デカルトの方法は、「汝自身を知れ」を自己認識の方法として格上げし、自己への配慮の原則を格下げし、近代的な哲学的思考の領野から排除していったという。これらを哲学と霊性の問題としてフーコーが論述していることは、4 哲学と霊性ですでに取り上げた。しかしデカルト以降、主体が真理に到達するのが認識であるとするに至ったのであった。
 フーコーが言いたいのは、自己への配慮から生み出された厳格な道徳がキリスト教に受け継がれたが、自己への配慮は自己放棄へと変えられ、デカルトによってさらに変形させられ、自己への配慮は省みられなくなっていったということであろう。そのような意味で、自己への配慮はキリスト教世界や近代的哲学思考の起源になっていると思われる。キリスト教から近代的思考への移行はどのようになされたかは、後に詳しく論じていくことにしたい。
「自己への配慮」を哲学的主題として初めて俎上に載せたのはプラトンであることは、これまで述べてきた。そして、配慮が生の一時期、つまり思春期から成人への移行期に求められるべきことであるというプ
ラトンの教えから、ヘレニズム、ローマ期には人生全般の主題に変遷したというフーコーの指摘も紹介した。人生全般の主題となったことで、新たな配慮の概念が生まれたことをまとめてみよう。それは「立ち返り」というものであった。「主体が自己に対して行なう現実の運動」という疑念が内包されることになる。「主体は自分自身であるような何かに向けて移動しなければ」ならない。「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの命題とまったく相違していることは明白である。デカルトの「主体」は揺るぎないものとして肯定されているが、へレ二ズム、ローマ期の主体は、現在する主体からから抜け出し移動し、自分自身であるような何かを実践し探求していくものである。つまり移動と回帰という主題が生まれる。その主張は航海の比喩で語られることが多いことは前に述べたが、この航路が行くべきところは自己なのである。そこに辿りつくためには、「船の操縦に近いような知」が求められる。「観照的であると同時に実践的であるような知」である。
 船の操舵という概念はギリシア、ヘレニズム、ローマの文献にきまって見られるものであるとフーコーはいい、三つの技法を挙げる。医術と政治的な統治、それに自分自身の統治であると論じる。これらは実践的な知として考えられていた。医術と他者たちの統治と自己の統治は十六世紀まで、統治の活動に連結されたままであり、自己の実践では、「自己は人生という危険に満ちた航路の終着点」として現れるのである。キリスト教時代には、自己の救済は自己放棄のかたちをとり、「自己の排除や拒否」が見られ、「自己の放棄が、来世の生、光、真理、救済などに到達できるための本質的な契機をかたちづくっている」とフーコーはいう。さらに主体には三つの形式があるという。「私たちがそうでないような狂った主体」と「私たちが語り、労働し、生きている主体」と「私たちが私たち自身に個人的に直接向かっているような主体」であると分析するが、とりあえず、自己への配慮が自立した技法を確立し、生存全体を価値づけするようになったギリシア・ヘレニズム・ローマに戻り、具体的にどのような実践方法であるのかを考察してみたい。

11 セネカ(その一)視線を自己に向け直すこと、世界の組織全体を踏破すること

 セネカという後期ストア派の哲学者に『自然研究』という書物がある。自分自身に目を向けよという一
方で、「世界の百科全書的な知」に肯定的な価値を与えている。  
 


 私は、かつて世界中を歩きまわって、その原因と秘密を探り出し、他の人に知ってもらうために提示しようと決心したことがある。いつになったら私は、これほど多くのものに到達し、これほど散乱したものを拾い集め、これほど隠れたものを見通すことができるのだろう。老齢は背後から私を引きとめ、虚しい業務に費やされた年月を咎める。我々はなおさらいっそう熱心に取り組み、いたずらに浪費された年齢の損失を努力でもって補うべきである。夜を日に接ぎ、雑務を切りつめねばならない。持ち主から遠く離れたところにある財産への心配から解放され、魂のすべてが自分の自由になる状態にならねばならない。そして、魂は少なくともみずからの最期において、自分自身を顧みて観想するべきである。魂はそうするだろうし、そうするように促すだろう。そして日々、残された時の短さを計るだろう。失われたものは何であれ、今ある生を勤勉に活用することによって取り戻すだろう。徳に至るには、悔悛から出発するのが最も信頼できる道である。セネカ「自然研究 第三巻 陸地の水について 序」土屋睦廣訳



 これは、セネカはすでに六十歳を越えていたが、年下の親友でシキリアの勅任管理者ルキリウスに宛てた書簡の形式で書かれている序文の一部である。私は何をしようとしているのか自問し、その答えとして世界の原因と秘密を探り出すことを挙げている。その後のセネカの考察をフーコーは四つの運動に分割し分析している。第一は、年齢のこと。老年期こそ人生の充実期であるということである。老いという主題は重要は要素になる。「人生をできるだけ早く駆け抜けなければならない」という考えはストア派に共通したものである。セネカは実際にこのとき老いていたが、彼が言いたかったのは実際の年齢というより、まさに人生の充実期としての老年である。つまり自分自身だけを気づかうために、それ以外の諸事をすばやく終了してしまうように主張する。人生の時間は浪費にすぎない。その損失を努力で補うべき時を、魂が自分の自由になる状態を早く確保しなければならない。「逃げ去る動きにおいては、自分を観照することに目を向ける」ことが大切である。フーコーは「時間の流出」という概念でとらえている。悔悛があり、視線を自分に向け直す。セネカはそのことを「労苦」と呼んだ。第二に、自分以外のものを遠ざけるべきであるという。具体的に何を遠ざけるのか。セネカは「歴史的な知」というのである。右の引用の後でセ
ネカは、アレクサンドロスたちの英雄の略奪行為、ハンニバルが老人になっても戦争をやめなかったこと
などを挙げ、何がなされたかを研究するのではなく、何をなすべきかを考えたほうがよいという。「諸国民や諸都市を自分の支配下に置いた者は無数にいるが、自分自身を支配できた者はきわめて少ない」と述べる。第三に、「歴史家たちの物語を読むと、もろくはかない勝利にこそ偉大さがあると取り違えてしまう危険がある」ということをセネカは主張する。歴史的な範例が持つ真の価値をセネカは強調しているのだと、フーコーはいう。つまり遠ざけなければならない例は、自己を支配することの偉大さを示すために示されたのであった。
 歴史がほんとうの偉大さを教えないのなら、真の偉大さとは何であるか。セネカはいう、「運が与える脅威や希望から心を超越させること、何ものも期待に値しないと思うことであり」、「明朗な心で逆境に耐えられること、まるで起こるのを待ち望んでいたかのように耐えられることである」と。「偶然の出来事から高く精神を超越させ、人間であることを忘れず、幸福な時には、それは長続きしないものと知り、不幸な時には、君がそう思わなければ不幸ではないと知ることである」。フーコーはそれらを三つの伝統的な闘争方式としてまとめている。第一に、悪徳に打ち勝つこと。内的な闘争。第二に、苦境や悪運の中でも平静心を保つこと。外との闘争。第三に、快楽と戦うこと。逆境や誘惑との闘争。さらに良識なるものを加え、第四に善なる精神を追求すること。第五に、自由にこの世から去り、舌の先に魂を持つこと(死を覚悟して)。後者の二つは死を重視することであるとフーコーはいう。
 偉大なものとは何か。この世から去る準備をすることである。「このことは、ローマ市民の法に基づいてではなく、自然の法に基づいて人を自由にする。さらに、自分の奴隷であることから逃れ出た者は自由である」とセネカはいう。自由であることは隷属から逃れることである。それは自己への隷属である。「自己を隷属させているものから解放しなければならない」とセネカはいろいろなテキストで述べているとフーコーは指摘する。隷属から抜け出す方法として、セネカは、多くを要求しないこと、自分自身に利益をもたらすのをやめることを挙げている。後者は「金銭上の手当てや労働の報酬や報いなどに付与しがちな価値からの解放されること」とフーコーは解釈する。人間は自分に対して何らかの義務を課し、利益を得ようとする。「自己の義務と報酬のシステム、負債=活動=快楽というシステムの中で生きている」とフーコーはいう。このような自己との関係から解放されなければならないのである。その点で「自然界を考察することは有益である」という。「汚れたものから遠ざかり、魂を肉体から引き離し、自然の隠された事柄で鍛えられた精神の巧妙さは、平明な事柄でも劣らず有効であろう」とセネカは述べる。

12 セネカ(その二)唯一の可能な世界で生きたいのか、死にたいのかという選択


 天上には途方もなく広大な空間があり、それを所有することが我々の魂には許されている。しかし、それができるのは、魂が肉体から最小限のものだけをみずからにともない、すべての汚れを払い落として、身軽になって軽やかに、みずからに満ち足りて飛び立った時である。そこに到達したとき、魂は養われ、成長し、あたかもいましめを解かれたかのよう二、その起源に帰る。そして、自分が神性を持っている証拠として、魂は神的なものに喜び、他者としてではなく自分自身のものとして神的なものにさずかる。さらに魂は、星々が沈んでは昇るのを静かに眺め、これほど異なっているそれらの軌道が互いに調和しているのを見る。各々の星がどこで最初に地球に光を見せるのか、星の[軌道の最高の]頂点はどこにあるのか、どこまで沈むのかを観察する。魂は熱心な観察者として個々のことを探索し、探求する。どうして探求せずにいられようか。魂はそれらが自分と関わりがあることを知っているのだから。「自然研究 第一巻 序」土屋睦廣訳



 自己への隷属から逃れるために自然研究がなぜ必要なのか、自然研究がなぜそれを保証してくれるのかをフーコーに示唆されながらまとめてみよう。
「自然研究第一巻の序」では哲学を、人間にかかわる哲学と神にかかわる哲学に分ける。人間は何をなすべきかを教える哲学と、天上では何が起きているのかを教える哲学に分類する。「まず自分自身を吟味し、考察すること、そして次に世界を吟味し、考察すること」の順に述べられることが、セネカのほかの書簡でも一般的である。つまり、人間に関する哲学を神にかかわる哲学が補充し完成する形をとって考察が進められることを意味している。人間にかかわる哲学は人生の道を照らし出す光明の役割を果たす。しかし、神にかかわる哲学は「闇から私たちを引き離し、光源にまで導いてくれる。だからそれは主体の現実的な運動、魂の現実的な運動」であるとフーコーは言い、この運動の三つの特徴を説明する。一つは、自分から身を引き離す運動であり、欠点や悪徳からの離脱を果たす。二つ目は、光がやってくるところ、神へ私
たちを導く。神との本性の共有、神と共同して働く地点へ至る。三つ目は、神との本性の共有にまで導くこの運動で、私たちは最も高い地点に昇りつめた瞬間に、自然の最も奥深い秘密に分け入ることができることである。この瞬間にも私たちはこの世界を離れることはない。つまり高みから地上に視線を向けることになる。そこで知ることになるのは、善と見えていたものの卑小さであり、富や快楽や栄光などは真の大きさを取り戻す。とるにたらないはかないものであることを知る。「私たちの生存は、空間と時間の中のひとつの点にすぎない」ことがわかるのである。「現実の生存を正確にはからなければならない」。このような自然認識が自己への配慮、あるいは自己認識における役割をフーコーは次のように結論づける。
 第一の結論は、セネカの自己認識には、自然を認識するか、自分自身を認識するかという二者択一がないということ。自分自身を知るためには、自然に対する視点を必要とすること。ひとつの点にすぎない私たちの内面性などは問題にならないのである。第二の結論は、自然についての知が開放的な効果をもっていること。それは、理性(神との本性の共有)としての自己と、個人的な要素としての自己の間に最大限の緊張を獲得することが、自然についての知の第一の効果であり、第二の効果は、自己の観照お確実にするということだとフーコーはいう。
「視線で世界全体を踏破すること」は後退の運動(地上からの上昇)によって可能になるが、自己から目を逸らすことではない。神のいる地点で神性にさずかることができるのである。いわば徳を持った魂は「世界全体と交流し、その出来事や行為やプロセスを構成するものすべてを観照するように注意を促すのである」。「世界から離れるのではなく、世界に組み込まれることによって、内面の秘密のほうへ目をそらすのではなく、世界の秘密を探索することに魂の徳があると、フーコーはセネカの「道徳書簡集」のエクリチュールから読み解いている。
 第三の結論は、世界全体への俯瞰的視線からの権利が描かれていること。プラトン主義的なタイプとの類似と相違があることをフーコーは指摘する。フーコーはまずプラトンとの類似点を、『道徳書簡集』や『人生の短さについて』な中から取り上げている。身体は魂を圧迫し苦しめ、鎖につなぐ。しかし、哲学が現れ、自然を前に呼吸するように命じられ、地上を放棄し、天空によって再生を果たすことなど、そのいくつかを述べている。しかしプラトンのようなエロスと想起による霊的な上昇運動ではなく、身体を高
く上昇させ、全体的な秩序ある世界、私たちの置かれた世界を俯瞰するのである。視線の可能性では、プ
ラトンが『国家』で展開した魂の選択という考え方に近いという。しかし、ここでもまたプラトンとの違いは明白である。「人間が生まれようとするとき、どのようなタイプの人生を送るかを選ぶ資格をあたえられることがある」のに対して、世界はひとつしかなく、そこに入りたいか、出たいかを選ぶ権利しか与えられていないのである。マルキアという、子供を失った女性を慰めるために書かれた「マルキアに寄せる慰めの書」をテクストにフーコーは論じている。
三年前、息子メティリウス(年齢は二十五歳前後と推定)を亡くし、哀惜の念を抱き続けている婦人に宛てた『マルキアに寄せる慰めの書』をセネカは叙述した。すでに、もうひとりいた息子にも先立たれていた。父親コルドスは、ティベリウス帝の時代政治家であり歴史家でもあり、反逆の罪をきせられ食を断ち自決していた。娘マルキアは、父の遺した『年代記』を復権させ、公共の図書館に収めていた。そのような立派な行いをした彼女が、息子を亡くした悲しみから立ち直れずにいるのを見て、セネカは書簡の形式で著述したのであった。
 セネカはマルキアに説く。嘆きは悪癖に比すべきものである。本人には嘆きをやめることは恥ずべきことと思われていよう。「およそ悪弊というものは、生じ始めようとする時期に抑制されない限り深く根を下ろすものである。そのように悲哀や不幸感は増殖され、「不幸な精神の歪んだ快楽に変じる」。初期のころであれば治療は穏やかな薬で抑えられるが、慢性化したら困難を極める。「誰よりも不幸な母親と見られるなどという、あまり歪んだ栄誉を得たい」と思わないようにとセネカはマルキアに説く。さらに不幸から立ち直った女性の例を挙げる。ここでも人生を航海に譬える手段をセネカは使っている。「人生が順風満帆の航路」をたどっているときは「雄々しくふるまっても、大して天晴れな行為とはいえない」、逆に、揺るぎなく、しっかりと足を地につけ、初めの轟音に驚きはしても、降りかかるすべての重荷を担っていただきたい。運命を憎み蔑む気持ちを強くするには、何よりも平静な心を保つことです」という表現、不幸を乗り越えた婦人の例を示す箇所で、このような表現がなされている。

 あなたが今まさに生まれようとしている時に、私が助言を与えるためにやって来たと想像するのです。「あなたが踏み入れようとしている都は、神々と人間が共有する都であり、すべてのものを包摂し、永遠に定まった法則に支配され、みずからの務めとして弛むことも尽きることもなく回転する天体の動きを制御する都です。……(中略)上天の壮観を見飽き、目を下に転じて大地を見やれば、また異なる姿をし、また違った驚きを与えるさまざまなものがあなたを迎えてくれるはずです。こちらにははてしなく広がる広漠とした平原が、また、あちらには雪を戴く稜線で大きく弧を描く山々の高く聳える山頂が見えます。……(中略)また、さまざまな地に位置する都市、自然の障害で閉ざされた国々を目にするでしょう。そのあるものは聳える山の山腹にひっそりと身を潜め、そのあるものは川岸に、あるいは湖畔に、あるいは谷間に不安げな姿で寄り添うように佇んでいます。……(中略)この地には、肉体を蝕み、精神を侵す無数の病があり、戦争や強奪、毒や難破、天候や肉体の不順、最愛の者への痛ましい愛惜、そしてそれを迎えるまでは安楽なものか刑罰や拷問の果てのものかが誰にも分からない死があるのです。どうしたいのか、心の中でよくよく熟慮し、考量してみなさい。この都に至るには、今言ったすべてのものを潜り抜けていかなければなりません」。生を得たいと、あなたはお答えになるでしょうか。……(中略)あなたはおっしゃるでしょう、「私たちは誰からもそのことで意見を聞かれた覚えはない」と。われわれのことはわれわれの両親がすでに意見を聞かれているのです。われわれの両親は、生の条件を承知した上で、その条件の下にわれわれを生んだのです。「マルキアに寄せる慰めの書」大西英文訳

 世界を受け入れるか、出て行くかを選択する立場とは、「人生の閾(出入口)という地点にさしかかった賢者に、セネカが命じ、またみずからも目指すような立場と同じような立場」であり、「人生の終わりにさしかかり、人生が完成してしまったときに見いだされる知恵の形式と対称をなし、それにいわば先立つもの」で、「人生の理想的な完成、理想的な老いに到達したとき、ひとは生きるべきかしぬべきか、自分を殺したいか生き続けたいか、決定することができる」ということだとフーコーはいう。苦しみと偉大さをともに俯瞰したとき、神との本性を共有したときに可能になる選択であり、自然研究が大いに貢献するのである。私たちの生きる場所は、「神々と人間が共有する都」「天体の動きを制御する都」である。大地に目を向ければ、平原や山、河川、広大な森、海原、島々、巨大な海の生物、航海に出る船などをマルキアに示し、自然の壮大な景観に注意を喚起する。しかし、私たちの住む土地には、「肉体を蝕み、精神を侵す無数の病がある。人々の憎しみがあり、戦いがある。最愛の者との死の別れがある。これらを熟慮して、生きたいのか生きたくないのかを想像してみようと語るのである。
実際に、私たちは自らの選択でこの世に生まれてきたのではない。両親がこれらの「生の条件」を考慮し私たちに生を授けたのである。しかし、ひとたび生まれたうえは、自分の生を続けさせようと終わりに
させようと個人の選択に委ねられている。セネカは、息子を喪ったマルキアに何を伝えたかったのかを詳しく考えてみよう。
 愛する人への愛情の年を癒す治療法は私たちの手中にある。身籠った人を、今は不在の人と考えること、彼らを先に送り出し、やがて私たちは後を追うのだと錯覚させてみよう、とセネカはいう。死はすべての苦悩や苦痛からの解放であり、あの静謐に再び戻してくれるものである。貧窮の恐れもなく、心を蝕む欲望や、他人の幸福への嫉妬や他人からの嫉妬に苦しむこともなく、あらゆる災厄に耐えなくてもよい境地に彼は辿り着いたのである。「しかし、その死はあまりにも唐突であり、あまりにも若すぎた」というマルキアの悲嘆に、セネカは返答する。われわれは「生という、われわれが目にしているこの宿に放り込まれたのであって、すぐにでも次々にやって来る人に部屋を明け渡さなければならない」。時の流れそのものが迅速で人間の寿命があまりにも短いということだけでなく、人間界の事物はすべてはかなく崩壊は必定であり、無限の時間の流れからすればなきに等しいものである。広大な宇宙に比すれば、地球は点に過ぎず、人間の寿命など点にも満たないものである。われわれの生が十分であることが大切である。「最も短命な生と最も長寿の生の差はなきに等しい。彼は生きなければならなかった期間を生き終えたのである。人間に早すぎる死というものはない。人それぞれに終点が決められており、いかに努力しても先に延ばすことはできない。あなたの子息が先立たれたのは、神の計らいによるとお考えになること」と説く。ストア派の宿命論では、宿命とは宇宙のロゴスであり、摂理により統御されていると考える。このような考えではどのようん努力も無駄である。命は誕生した瞬間から死への歩みを始めている。「好ましいと思われる時期こそ危うく、脆い時期はなく、それゆえに、至福の時期にある人こそ死を願うべきである。過ぎ去ったもの以外、確かなものは何一つないからである」。
 精神の汚れに話が展開されると、セネカは徹底した悲観論者であることが読み取れる。「青年期に抱かせた期待をそのまま老年に至るまで抱かせ続けることはなく、たいていの場合、途中で歪んでしまう」とセネカはいう。さらに自然災害があり、老後の病気がある。さらにまた追放や自決がある。セネカはこれ
らを「生の兵役」と呼んでいる。われわれは自分の生を選んだのではない。両親が選択したのである。「知らぬ間に与えられたのでなければ、誰も人間の生など受け取ろうとはしなかったでしょう。ですから、最も幸福なのは、この世に生を受けないこと、短命で生涯を閉じ、速やかに元あった姿に復することなのである」。「未来はことごとく不確かで、むしろ悪化する可能性のほうが高いという事実の他に、人間との関わりから速やかに解放された精神にとっては神々の住む天上界を目指してたどる道はきわめて平坦である」。「森羅万象を逍遥し、高く飛翔して、高みから人間界を見下ろすことに習熟したその精神は、肉体の桎梏を破り、肉体の外に出ることを切望し、肉体という、この狭い限界を厭わしく思うものです」。精神を肉体の牢獄と見なし、「知を求めることに、まっすぐ結びついているひとは、ほかでもなく、ただ死にゆくことを、そして死にきることを、みずからのつとめとしている」(プラトン『パイドン』)という思想に強い影響を容易に見出しことができる。
 最後に、セネカはマルキアの息子を享年から判断せずに、彼の徳性から判断するように忠告する。息子は、父親を喪った後、母親の保護の下で育てられ、結婚した後も同居して暮らした。「丈高く、容姿端麗で、頑丈な身体をした青年の彼」は母から離れること避け、兵役を忌避した。母の目に触れながら、女性への欲望にも勝ち、「神官職にふさわしい人物と見なされていたのは、この清浄無垢さゆえ」であったとセネカはいう。われわれを取り囲んでいるものは、「精神を縛める桎梏であり、精神にとっての暗部である。精神はそうしたものに埋もれ、窒息させられ、毒され、そうした虚妄のものの中に放り出されて、自分本来の真実のものから遠ざけられているのです。精神はそうしたものに引きずり下され、沈むまいと、肉体という重荷と始終格闘し続ける。精神はそこから降り立った元のところへと上昇しようとする」。したがって彼には永遠の平安が待ち受けていたのだという。墓にあるのは「彼にとって最も厄介だったもの、つまり骨と灰」である。彼は「浄福の魂の世界へと翔り去った」のであるという。それゆえ「上天の極みに居場所を与えられた人となった父君と子息の視線の下に置かれていると思いながら行動するように」いう。父や息子は死という不当な目にあったのではなく、運命から解かれ、来るべき時代、来るべきもののすべてが予見されている。父から語りかける言葉として、セネカは世界の秘奥を淡々と説いて見せている。セネカの視線はこの現実界からそらすことなく、自然研究へ向かった必然が十分理解できるのである。
 死者が獲得する予見がいかに大きなものであるかを伝える。人間が睨み合い闘いを終息できない地上の出来事や自然の変貌は、無限に続く歳月の流れの中で予見されるものである。「万物の共通の定め」とする、あらゆるものを瓦解させる星霜によってすべてのものは変化し続ける。山を平地に変え、岩塊を隆起させ、諸民族の交流を絶ち、大地の変動で都を埋めてしまう。洪水で生き物を壊滅させ、大火で燃え尽くしてしまう。宇宙が新たな営みを開始するために自壊し瓦解するときがくれば、大燃焼で燃え上がる。万物が初めの元素に回帰する。宇宙の永劫回帰という主題である。初期ストア派のピローンの「世界の永遠性について」によれば、宇宙は一つであり、生成原因は神である。消滅の原因は神になく、存在のうちにそなわる火の力と考えられた。時間の大きな周期に従って宇宙の再生が、技術をもったものの摂理によって成立すると考えている。大燃焼によって再生を周期的に繰り返すのである。そのような意味で宇宙は永遠と考えられていた。(セネカ哲学全集1『マルキアに寄せる慰めの書』の注を参照)


 次回は、後期ストア派のもう一人の人物、マルクス・アウレリウスを論じる予定。




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