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ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

井筒俊彦『意識の形而上学』を読む。小林稔・連載第五回「心、心見ざれば・・・・・」

2013年11月13日 | 井筒俊彦研究

連載第五回

「心、心見ざれば、相として得べきなし

井筒俊彦『意識の形而上学』を読む。

小林稔

 

 

 『大乗起信論』における形而上学的思想構造では、存在論と意識論は同じ事態を二つの異なる視点から考察するにすぎず、存在と意識の深い相互浸透により完全に一致すると井筒氏は述べた。『意識の形而上学』第一部で考察した存在論を第二部では意識論的に論じていくのであるが、形而上学的構造は何も変わることがないと主張する。

 存在論におけるもっとも重要なキーターム「真如」は「心」に据えられる。全一的円を真ん中で上下に二分し上半分をA領域、下半分をB領域とすることは存在論の場合と変わらない。存在論ではA領域は存在の絶対無分節態、存在の非顕現態であった。つまり存在のゼロ・ポイントであるのに対して、「心」概念を導入する意識論では、A領域は意識の絶対無分節態、意識の非顕現態、つまり意識のゼロ・ポイントであると井筒氏は展開する。

 存在的「無」(絶対無分節態)を、意識論的ではその(無)の背後に「無」の原初的境位に把持する寂然不動の意識を想定せざるを得なくなると井筒氏はいう。これが意識のゼロ・ポイントだ。「無」の意識、すなわち「無」意識は心理学的な無意識を含みはするが、しかし普通の意味での無意識とは異なり、存在論的な実在性の形而上学的極限領域の「無」に、意識論的に対応する「無」の意識であると井筒氏はいう。現象的「有」意識への限りなき可能態としての「無」意識とは、「有」分節に向かう内的衝迫の緊張に満ちた意識の「無」分節態であると主張する。それゆえ「無」意識がそのまま自己分節して「有」意識にそのままそっくり転成することができるのだという。

 先に述べたA領域は「心真如」と名づけ、絶対無分節の次元における全一的意識とし、B領域は「心生滅」と名づけ、現象的意識態の形而下的本体をなす。A領域の上部に「仏心」を置き、B領域の底部に「衆生心」を置く。井筒氏によると、この構造は便宜上のことで、実際は上部の「仏心」と底部の「衆生心」には意味の不動性があるので注意が必要であるという。例えば、「衆生心」の双面性。一方では「一切衆生包摂的心」であり、あらゆる存在者を一つ残さず包摂する覚知の全一的広がりとしての意識であるが、他方では、全く意味の違う日常的意識である。この二つの意味、つまりB領域の現象的意識とA領域の形而上的意識が不思議な仕方で融合するという。B領域がA領域と自己矛盾的に合致する、つまり「衆生心」が「仏心」になることである。このような考えが「悉有仏性」思想に直結すると井筒氏は指摘する。

 このように自己矛盾的合致が理解を難しくするところである。それゆえ井筒氏は、「存在論から意識論へ」と進めてきた論考を再び存在論的視座を導入し、意識論と存在論を同時に並べて考察する必要を感じると主張する。もともと意識とは「……の意識」である以上、「原初的存在分節の意味論的構造」がそのようになっていると、井筒氏は『意識と本質』で指摘しておいたことなのである。存在論的に「真如」の非現実態と現象態が重要であったように、意識論的にも意識(=「心」)の非現実態と現象態のあり方が重要になり、しかも意識論的考察と存在論的考察を絡み合いもつれ合って展開する必要があると井筒氏はいう。

 そのようにして「衆生心」から井筒氏は論を進めていこうとする。「衆生心」とは現象意識としては隨縁起動する「真如」、あるいは「心」である。つまり現象面では「妄信」の乱動、その鏡面上に顕現する一切の存在者は妄象だが「衆生心」の本体は清浄無垢であると『起信論』では述べられている。つまり生滅流転する現象的形姿でありながら原初の清浄性はいささかも失われていないという意味であると井筒氏は解釈する。

 

 大海の水が風のために波浪を生じているときには、水相と風相とはたがいに不離の関係にあるからこれを区別することはできない。しかし水そのものは動性を有するものではないから、もし風が止滅するときには動相のみが止滅して、本来水の湿性は破壊されることがない。それと同様に、一切の衆生が本来そなえている「自性清浄心」が無明の風のために波浪を生じているときには、自性清浄心と無明とはたがいに不離の関係にあるからこれを区別することができない。しかし自性清浄心そのものは動性を有するものではないから、もしも無明が止滅するときには、無明にもとづく迷いの心相の相続は断尽されるが、水の湿性にも比すべき<心の本性としてそなわっている智慧の働き>は決して破壊されることはない。

                      『大乗起信論』の第一章の二より

 

 「自性清浄心」とは「仏心」の別名であり、AがBに転成し、意識(=心)が無分節を離脱して現象顕現の境位に移行しても、その本性(自性清浄心)を保持したままであると井筒氏はいう。これを存在論的に読み直せば、「真如」がその無分節的本性を保持しつつ形而下的存在界に厳然として存在する。したがって現象界(B領域)における「真如」のあり方が問題になってくると井筒氏はいう。『起信論』では「体大」「相大」「用大」の三つの概念がある。「体」とは本体を意味し、時間的空間的限定を超えて変わらないと井筒氏は指摘する。「大」は全包摂的・無制約的超越性を示唆する意味があるという。

「相大」とは数限りない様相という意味。「相」とは本質的属性の意味。Aでは見られなかった属性があると説かれている。つまり「真如」のB領域における自己分節があるということを示す。「真如」が存在分節単位に分裂し、経験界の事物事象を現出させていくことは、一切の人間的経験を意味化していく「アラヤ識」的根源能力としてのコトバの働きの現われであると井筒氏はいう。この存在創造性を指して『起信論』では「真如」を「如来蔵」と呼んでいるという。「用大」の「用」とは「相大」が画面に発動する根源的作用あるいは機能を意味するという。「三大」とは「体大」「相大」「用大」を指す。

 現象的世界を肯定的に見るか否定的に見るかは、意識の意味分節機能を肯定的に見るか否定的に見るかにかかっていると井筒氏はいう。『起信論』では多くの場合、否定的な見方をする。意識の言語的分節機能は「妄念」と考えられ、現象的世界は「妄念」かた立ち上がる虚像に過ぎない。

 

「一切諸法はただ妄念に依りて差別あるのみにして、もし心念(妄念、意識の意味分節機能)を離るれば、一切の境界の相(=対象的事物としての現象的形姿)無し。」

「是の故に、一切の法(現象的「有」)は鏡中の像(=鏡面上に見える映像)の如く、体(=実在する本体)の得べき無きがごとく、唯心にして虚妄なり。心(妄心)生ずれば、即ち種々の法(現象的「有」)生じ、心滅すれば(=分節意識が機能しなくなれば)即ち種々の法滅するを以ての故に。」

「一切の法は皆、心より起り、妄念より生ずるを以て、一切の分別(=現象界の一切の分節的「有」は、自分を分別するのみ。心、心を見ざれば、相として得べきなし)

 

 井筒氏はこれら『起信論』から引用して本質的「無有」性を説明する。最後の「心、心見ざれば、相として得べきなし」とは、「客観的事物の世界は分節意識そのものの自己顕現に過ぎない。だからそれを外側から眺めている認識主体(=心)は、結局、自分で自分の内側を眺めているにすぎない」「心が心を見る」ことがなければ、「全存在世界はそのまま雲散霧消して蹤跡をとどめない、と」。

 

 これらが徹底的な否定面でありながら、『起信論』では「如来蔵」的観点からすべての分析的「有」を「真」として肯定する、つまり「心真如」は存在世界の形而上学的本体として一切の存在者の根底に伏在し、あらゆるものを存在可能性において包含していると井筒氏は指摘する。それではどのような起因でそうなるのか。そこには主体の問題があるに違いない。井筒氏は第三部で明確にするであろう。その前に構造面をしっかり掌握していなければならないのだ。

 井筒氏はプロティノスを引用することが多い。例えば、

 

 「一者」は全宇宙の絶対無的極点。一切の存在者を無限に遠く超越して、言亡慮絶の寂莫たる超越性の濃霧の中に身を隠す独絶者。それでいてしかも「一者」は「万有の父」として、一切者を包摂しつくして一物たりとも余すところがない。自らを、「有」の次元に開叙するとき、あたかも巨大な光源から光が四方八方に発散するごとく、縹渺無限宇宙を顕現し、また反対に自らを収摂するときは、一切の存在者を自己に引き戻し、全世界を寥廓たる「無」の原点に帰入させて一物も余すところがない。

                    井筒俊彦『意識の形而上学』p43

 

他のものによって創造されたものは、自分を生み出した原因のうちに在り、逆に原因は自分の生み出したすべてのものの中に在る、しかもそれらのものの中に散乱して存在するのでなしに、それらの窮極的源泉、窮極的基底、として、それらのもの全ての中に存立する。

                   井筒俊彦『意識の形而上学』p83

 

書かれている主旨もさることながら、井筒氏の叙事詩的文体に私は感じ入る。井筒氏の三十代に書かれたという『神秘哲学』を読んだ時の感動は晩年の文体にも少しも失われていない。

『起信論』の「心真如」もそれと全く同様に、一切事物の窮極原因として、それらの中に本体的に存立しているという。つまりその窮極原因から、意味分節意識の創造性の働きで、存在分節単位としての「有」が数限りなく現象してくるというのだ。

 

 

次回第六回

「空」と「不空」について。

 

 

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間文化意味論の試み・井筒俊彦『意識の形而上学』を読む・第四回・小林稔

2013年11月01日 | 井筒俊彦研究

井筒俊彦『意識の形而上学』(「大乗起信論」を読む・第四回

小林稔

 

間文化意味論の試み

 

『大乗起信論』では意識論と存在論は「密接不離の絡み合い」として進展すると井筒氏はいう。つまり思想の中心軸をどちらに置くかによって、意識面と存在面のどちらかが表面に表れるのだが、本性的に『起信論』(『大乗起信論』を以下このように表記する)は唯心論の立場を取るので意識の面に根底を置き哲学を構築していかざるを得ないと井筒氏はいう。

 

大乗の実体とは、一切の衆生が内にそなえている心(「衆生心」)に他ならない。一切の世間の法(迷い)と出世間の法(悟り)はことごとくこの「衆生心」の中に含まれているのであって、この「心」にもとづいて大乗の義理を明らかにすることができる。           『大乗起信論』第二章 問題の所在

 

 井筒氏によると、衆生心とは「一般大衆の心」であり、上記した文は意識論に置くという姿勢の宣言であるという。このように決定的に唯心論的思想コンテクストにおいて存在論はどのような位置を占めるのであろうかと井筒氏は問い、言語的意味分節は意識分節と存在分節の双面構造であると指摘し、『起信論』の「忽然念起」を引用し説明している。

 

 いつ、どこからともなく、これという理由もなしに、突如として吹き起る風のように、こころの深層にかすかな揺らぎが起り、「念」すなわちコトバの意味分節機能、が生起してくる、という。「念」が起る、間髪を入れず「しのぶのみだれかぎりしられ」ヌ意識の分節が起る、間髪を入れず千々に乱れ散る存在の分節が起り、現象世界が繚乱と花ひらく。意識分節と存在分節との二重生起。        井筒俊彦『意識の形而上学』

 

『起信論』には唯「心」論的思惟傾向があるため、つまり存在概念の中に意識性が深く浸透しているために、ここでの存在論は人間的であり、主体的・実存的であり、情意的ですらあると井筒氏はいう。井筒氏はこの論考で『起信論』で使われた「心」を「意識」と置き換えて展開することを次のように説明する。「心」と「意識」に間には意味上の大きな差異がある。意識とは現代思想における文化的普遍者としての「意識」である。そのホンヤクの意義を考え、意図的に積極的に意味のズレを利用し、東洋哲学の世界における、一つの間文化的意味論の実験を試みるのだと井筒氏はいう。このように「意識」を仏教術語の「心」と置き換えることで、思想のダイナミズムを生み出そうとする。それは意味の「ズレ」を解消するのではなく、相互の働きかけを通じて「心」を活性化させ「意識」に深さを加え我々の言語意識をアラヤ識の育成に向かって深めていくになると井筒氏は説明している。

したがって「意識」といっても個々人の心理機構ではなく超個人的・形而上学的意識一般の、純粋叡知的覚体といいうるものであると井筒氏はいう。ユング心理学の集団無意識の「超個」性を考えてみるとよいと指摘する。集団的無意識とは、集団的アラヤ識の深層における無数の言語的分節単位に見られるように、超個人的共同意識を想定し、主体を汎時空的規模に拡大し全人類(一切衆生)まで広げて考える必要があると井筒氏は解釈するのである。「一切衆生」包摂的な意識フィールドの無限大の拡がり、と彼は表現し、これが『起信論』は「衆生心」と呼んでいるのだという。このような意味で「意識」は「存在」と完全に相覆うことになる。

 このようにして『起信論』はさらに進められるが、この間文化的意味論の試みについて井筒氏は追記する。古代中国が仏教の経典や論書を組織的に漢訳した時の、古典中国語に生起した間文化意味論的事態や、イスラーム文化史の初期、アッバース朝の最盛期に、ギリシャ哲学の基本的典籍が大規模な組織でアラビア語に翻訳された時の古典アラビア語に生じた事態は、まさに間文化意味論性の重大な意義を私たちに教えている。今、実践しようとしている試みが巨大な規模で、自覚的・方法論的に行われるなら井筒氏の唱える「言語アラヤ識」は注目に足るだけの汎文化性を帯びるだろうと彼自身主張している。彼が残りの人生をかけた「共時的構造化」の壮大な哲学の構想が浮かび上がっていたであろう。

 

次回、第五回では間文化意味論的思考が奮起され、第二部の「存在論から意識論へ」が始められていく。

 

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小林稔・「真如」ー世界現出の窮極の原点 井筒俊彦『意識の形而上学』を読む。連載第三回

2013年10月25日 | 井筒俊彦研究

井筒俊彦『意識の形而上学』(「大乗起信論」を読む。第三回・世界現出の窮極の原点としての「真如」

小林稔

 

 『意識と本質』では、「絶対無分節者」と呼んで無本質なる領域を措定していたが、ここでは「形而上学的なるもの」と置き換えられている。「形而上学」という言葉の意味に多少違和感を感じた私は、手元にある国語辞典(講談社)を調べてみた。

 「形而上」とは「形を超えるもの。感覚ではとらえられないもの。思惟のみでとらえられる窮極的なもの。哲学で、経験の範囲をこえ、自然的、物理的存在をこえた感覚的に知覚できないもの」と書かれている。「形而上学的」とは神秘的な、直接感覚にたよれない直観的な、しかも奥深い意味をもっているさま」という記述が見える。

井筒氏は「形而上学的思惟の極限に至って、言語が、その意味指示的有効性を喪失してしまう」のは「極限的境地においては、形而上学的なるものは絶対無分節だから」であるという。しかし「コトバの介入なしには、形而上学が存在論に展開することはありえない」ともいう。形而上学はコトバで書かれなければ形而上学とは呼ばないであろうと漠然と考えていた私は、井筒氏が形而上学なるものの極限、つまり絶対無分節的な形而上学的なるものを措定していることを知った。そして「大乗起信論」ではその領域を仮名(けみょう)ではあるが「真如」と名づけたのである。それは、プロティノスにおける「一者」、老荘の「道(タオ)」、ウパニシャッド・ヴェーダーンタ哲学の「ブラフマン」、イブヌ・ル・アラビーの「存在(ウジュード)」に相当する。またそれらには「存在次元」に降りてくるという点でも共通性があるが、その仕方はそれぞれが異なる。例えば、アラビーの「存在一性論」では、神(アッラー)はコトバの次元で「存在」と呼ぶが、その「存在」の窮極位をその存在の彼方に措定すると井筒氏は説明する。それはプロティノスの「一者」と同じであり、「全存在世界の太源」であるという。「神以前の神」は、「神」と呼び慣らすことはできない。だからアラビーは「存在」(ウジュード)という仮名(けみょう)を使うしかない。一切のコトバを超えた「存在」には「自己顕現への志向性が本源的に内在していると解釈する。その自己顕現に促されて「存在」はヴェーダーンタでいう『名とかたち」の存在次元に降りてくると考えるのだ。『意識と本質』ではもう少し詳しく説明されている。それによると、ヴェーダンータでは「一者がそれに内在する自己分節的性向に促されて積極的に分節展開し、他者となって存在的に顕現する」が、アラビーの「存在一性論」では「有無中道の実在」という中間領域を置く。「内的にはさまざまに分節された段階である」が、この中間領域でこれからの分節の方向を決定するという。したがってその下の段階である日常的経験世界においては、「本質」はその中間領域にあると考えられているという。つまり、我々の意識に映し出される中間領域のある「本質」は人の眼には実在的なのだ。アラビーの本質論は「本質」否定の立場でありながら、「本質」非有説と「本質」実在説の中間に属するといえるのは、このような理由によると井筒氏はいう。さらに詳しくは彼の著書『超越のことば』で説明されている。ここでは『大乗起信論』の「真如」の分節論を展開しなければならない。

 

「真如」の二重構造

 「真如」には、言語を超越し有意味的分節を拒否する面と、言語に依拠し無限の意味分節を許容する面があり、前者を「離言真如」、後者を「依言真如」と呼び、双方を同時に一つの全体として見なければならないと井筒氏はいう。分節的存在界は、根源的無分節「真如」自身の分節態に他ならず、この『大乗起信論』の「真如」の双面性はプロティノスの「一者」の形而上学と同様であると井筒氏指摘する。

 

「一者」は全宇宙の絶対無的極点。一切の存在者を無限に遠く超脱して、言亡慮絶の寂莫たる超越性の濃霧の中に身を隠す独絶者。それでいてしかも「一者」は「万有の父(パテール)として、一切者を包摂しつくして一物たりとも余すところがない。自らを、「有」の次元に開叙するとき、あたかも巨大な光源から光が四方八方に発散するごとく、縹渺と無限宇宙を顕現し、また反対に自らを収摂するときは、一切の存在者を自己に引き戻し、全世界を寥廓たる「無」の原点に記入させて一物も余すところがない。

                       井筒知史彦『意識の形而上学』

 存在と意識のゼロ・ポイントでありながら、存在分節と意識の現象的自己顕現の、世界現出の窮極の原点であると井筒氏はいう。図形としての円を描き直径を横に引き、上をA、下をBとする。Aは「真如」を空間的に表したもの、Bを、言語と意識が「アラヤ識」をトポストして関わり合うことによって生起する流転消滅の事物の構成する形而下的世界とする。

Bの存在次元のみを実在世界とするなら、Bは「妄念」に転落し、Aだけが「真如」となる。しかし、A-B双面的な全体こそが「真如」であると覚知するならBは「妄念」の所産であることをやめ、現象的事物事象として働く真実性それ自体が、形而下的存在次元における「形而上学的なるもの」ということになる。「真如」は生滅流転の存在として機能しながら、清浄な本性を失うことがない。このような「真如」の側面を『大乗起信論』では「如来蔵」と呼ぶのだと井筒氏はいう。

 「真如」の抽象的な把握しがたさを哲学的に進めるためには、具体的形象のコトバに翻訳する必要があるとし、井筒氏は「心(しん)」を提出することになる。つまり唯心論的解釈を試みようとしている。それによって茫膜としていた意味の拡がりが一挙に活性化すると井筒氏は指摘する。一般的に『大乗起信論』は仏教的唯心論の代表作とされていることが、哲学的展開を推進する確信になっている。それでは唯心論とは何かが問われなければならないと述べ、第一部「存在論的視座」を終え、第二部「存在論から意識論へ」においてその問いから井筒氏は始める。つまり分析の中心が「真如」から「心」に移り、存在論から意識論に移ることになるだろう。

 

私の連載の第三回はここで終わり、次回第四回につづいていく。

 

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「意味分節の彼方。意識と存在のゼロ・ポイント」井筒俊彦『意識の形而上学』を読む・小林稔・連載第二回

2013年10月19日 | 井筒俊彦研究

井筒俊彦『意識の形而上学』(「大乗起信論の哲学」)を読む

来るべき詩学のために(二)

 

小林稔

 

連載第二回

 

意味分節の彼方。意識と存在のゼロ・ポイント。

 

 一切の言説は仮名(けみょう)にして実なく、ただ妄念に随えるのみにして不可得(コトバでは存在の真相は把握できない)なるを以ての故に、真如と言うも、また相(この語に対応する実相)の有ることなし。言説の極(コトバの意味指示作用をギリギリのところまで追いつめて)、言に依りて言を遣るを謂うのみ(コトバを使うことによって、逆にコトバを否定するだけのこと)……」(『大乗起信論』、カッコ内は井筒氏の説明)

 

東洋哲学における形而上学的思惟は、その極所に至って言語を超えた境地に到達し、言語の意味指示機能を喪失すると井筒氏はいう。しかし言語能力を否定するためにさえ、言語を使うことが必要なのである。生来言語的存在者である人間の、逆説的な宿命ではないかと彼はいう。そして『大乗起信論』は「コトバ」以前を言語的に定位し、言語の全領域、つまり全存在世界を捉えなおすことを試みようとする書物であると井筒氏は説明する。

 このような言詮不及の極限、つまり形而上学の極所に東洋哲学は名を案出してきた。例えば、「絶対」、「真」、「道(タオ)」、「空」、「無」などがあるが、本来は絶対に無相無名であるものを、便宜上、コトバの支配圏に曳き入れるための仮の名にすぎず、『起信論』では「仮名(けみょう)」と名づけていると井筒氏はいう。大乗仏教では、このような意識と存在のゼロ・ポイントを「真如」とよんでいるが、それぞれの文化的パターンの違いによって異なる名称で呼ばれる。意識と存在のゼロ・ポイントでは同様であるが、意味指示的には別物であると井筒氏はいう。

『意識と本質』を読んだ人であるなら、「分節」という言葉に馴染んできているであろうが、そうでない人のために、「決定的重要説を持つキーターム」である「分節」を考えてみよう。

仏教術語では「分別」という語を用いる。しかしこの語「分別」は、現代日本語では道徳的含意を与えるので、思想の純哲学的構造化を志向する言説には不適であり、「分節」という語を使うという。

 

 我々の実存意識の深層をトポスとして、そこに貯蔵されていた無量無数の言語分節単位それぞれの底に潜在する意味カルマの現象化志向性に促されて、なんの割れ目も裂け目もない全一的な「無物」空間の拡がりの表面に、縦横無尽、多重多層の分割線が走り、無限数の意味的存在が、それぞれ自分独自の言語的符丁を負って現出すること、それが分節である。    ( 井筒俊彦『意識の形而上学』 )

 「意味カルマ」とは「長い年月にわたる歴史的変遷を通じて次第に形成されてきた意味の集積」であると井筒氏はいう。意識と存在のゼロ・ポイントが文化によって言語が異なるので呼び方が異なるのだ。それだけでなく意味の集積内容も異なってくる。その文化の混合が新種を生み出すのである。例えばインドで生まれた仏教が、サンスクリットから移入した中国の漢字に訳され、さらに日本語に移される。そのたびに文化交流が起こってきたのである。

 意識と存在のゼロ・ポイントを指示することでは同じだが、「真如」と「道」(老荘思想)と「無」では言語的意味のカルマが違うので意味指示のアプローチが全く違ってしまうと井筒氏は指摘する。それらの仮名の意味するものは、「形而上学的思惟」において同じ「分節」の問題を提起する」と井筒氏はいう。私は、形而上学的なるものは言葉で語られるものとばかり思ってきた。つまり言葉で語られたものを形而上学と考えてきたのである。例えば「詩的なるもの」の気配を感じたときに、そこから言葉が意味をともなって私に訪れる。その言葉を書き留め詩作を完成させる。それが形而上学であるなら、「真なるもの」の理論を組み立てるだろう。しかし井筒氏が語るのは、形而上学的思惟の極限においてと強調する。言語の本来の機能は意味分節にあり、対象を分節することなしに意味指示的に働かないという。

 「詩的なるもの」と「詩」が異なるように、「形而上学的なるもの」と「形而上学」は異なると考えてよいのかもしれない。したがって仮名であれ「真如」と名づけた瞬間に、ぜったい無分節的な「形而上学的なもの」は本来の「無分節性」を失ってしまう。それゆえ『大乗起信論』では仮名に過ぎないと断って論を進めているのだと井筒氏はいう。「詩的なるもの」と「詩」が異なるように、「形而上学的なるもの」と「形而上学」は異なると考えてよいのだろうか。その疑問に対して井筒氏は次のように解釈する。「コトバ以前」を言語的に定位し、この言語の及ばない極限から、言語の支配圏である全領域、つまり全存在世界を射程に入れ、頂点からどん底まで検索し、その全体を構造的に捉えなおすこと、そこに形而上学の本旨があり、『大乗起信論』はその試みであると。

 

 老荘的思惟では、意識と存在のゼロ・ポイントを「道」や「無名」という仮名で呼ぶ。ただ「無」の空々漠々たる拡がり、渺茫たる絶対無分節の浄域であり、荘子は「混沌」の神のイメージを描くと井筒氏はいう。「混沌」とはいろいろなものが混在している状態委ではなく、何も存在していない非現象の、絶対無分節の「無物」空間を意味する。そこには「混沌」の、ノッペラボウの神がいて、友人である神がその顔の表面に「穴」をほって目と鼻と口を作ったがそれらが開いたとたん「混沌」の神は死んでしまったと荘子は語っている。井筒氏によると、この話は、絶対無分節から分節態へ、非現象性から現象性への存在的次元転換であるという。

 ウパニシャド・ヴェーダ―ンダ哲学では「形而上学的なるもの」は「梵」(ブラフマン)と呼ばれると井筒氏はいう。「梵」も窮極の境地(意識と存在のゼロ・ポイント)では無分節で、それを特に「上梵」(無相ブラフマン)、それに対立する現象的分節態におけるブラフマンを「下梵」(有相ブラフマン)と名づけるという。その「名色論」は有名で、シャンカラの不二一元論的ヴェーダーンダ哲学では「下梵」が我々の現象世界の「名とかたち」の存在次元であることを強調していると井筒氏は説明する。「かたち」とは外形だけでなく、ものの属性、用途など限定的に構成する一切を意味するという。

 カオス状の未分の塊りである「無物」空間の表面に言語的分割線を引くのが分節であり、名をつけることによって一つ一つのものが有意味的存在モナドとして現象する、つまり意味分節単位の網目構造として力動的な全体性を構成すると井筒氏は主張する。コトバの介入なしに形而上学が存在論的に展開することはなく、「形而上学的なるのも」の「無」的極限は「名」の排除という形で否定的にコトバに関わってくるのだという。意識と存在のゼロ・ポイントを考えれば、言語の意味分節機能において「真如」と同様である。

 ヴェーダ―ンダと中国、日本の思想の関係よりずっとかけ離れた思想伝統にある、人格一神教的啓示宗教のイスラームのコンテクストでは、上記のような言語分節の概念が形而上学的にどのような働きをしているのかを井筒氏は解読していく。『意識と本質』でも説明したように、イスラーム哲学は西暦十三世紀になってギリシア哲学一辺倒から脱出し、イスラームの独自性を創出していくようになった。中心人物はイブヌ・ル・アラビーであり、その形而上学は「存在一性論」である。

 イスラームでは存在性・実在性の窮極の境位にいるのは神アッラーであるが、アラビーの「存在一性論」では問題は複雑になると井筒氏はいう。宗教と信仰のコトバが神と呼ぶものを、彼(アラビー)は哲学のコトバで「存在」と呼び、しかもこの「存在」の窮極位を存在の彼方に置くのだと井筒氏は説明する。すべての存在の始まりに神があるのではなく、神より以前にある存在を考える。「実在性と思考の彼方」を考えたプロティノスの「一者」と同じであるが、それは無名無相、一切の「……である」という述語づけを受けつけず、「神である」とすら言えないと井筒氏は解釈する。コトバを超え「名」を超えるこの真実性(存在)には、自己顕現への志向性が本源的に内在しているという。ヴェーダ―ンダ哲学では先に見たように、無名無相の「存在」は「名とかたち」の存在次元に降りてくるが、ここでは第一段が「アッラー」としての自己顕現であり、コトバの介入がこの段階で始まっていると井筒氏は指摘する。伝統的なイスラームの教義では、「神名論」と名づけ、無名無相の絶対的真実性が「名とかたち」によって自己分節する最初の段階が「アッラー」でありそれに続いて無数の下位的「神名」が出現し、現象的存在世界を作り出すとするが、伝統的なイスラームの教義では、「神名論」と名づけ、「神名」は神的「属性」として扱われると井筒氏はいう。つまり「神名論」は言語意味的分節論であり、コトバの介入なしには存在の分節があり得ないことを明確に主張していると井筒氏は指摘する。

 このように「名づけ」がものを存在の場に呼び出す例をいくつか挙げて、言語意味分節論は東洋哲学の大潮流の一つの精髄であることを我々に教示してくれた。ここから井筒氏は、『大乗起信論』の「真如」の分節論的構造に深く迫っていこうとする。

 

『意識の形而上学』(「大乗起信論」)を読む。第二回を終える。

つぎの第三回は、「真如」の二重構造について読み解いていく。

 

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井筒俊彦『意識の形而上学』を読む・小林稔、連載第一回、双面(ヤヌス)的構造

2013年09月26日 | 井筒俊彦研究

井筒俊彦『意識の形而上学』(「大乗起信論の哲学」)を読む

来るべき詩学のために(二)

 

小林稔

 

連載第一回 「真如」と「アラヤ識」における双面(ヤヌス)的構造

 

 先の、十八回にわたる「連載エセー『意識と本質』解読」につづいて、十年後に書かれ遺稿になった『意識の形而上学』を読んでいきたいと思う。前書を精読した後では、この難解と思われた書物も、今の私には比較的入りやすいものになっている。三、四年前に読んでいた時の難解さは和らいでいるものの、そのテーマの大きさと、重要性は一段と大きくなっている。必然的に、私の来るべき詩学の完成に向けてインパクトを深く与えるものになっているようである。(中公文庫版『意識の形而上学』をテクストにする。)

 第一部の序において、『大乗起信論』のテクストがいつどこで誰によって書かれたか不明だが、大乗仏教の書物としては名声高いものであり、六世紀以降の仏教思想史の流れにすこぶる大きな影響を賦与していると井筒氏は紹介する。漢訳本から日本語に置き換えられた書であるからには言語はサンスクリットであろうが、あるいは当初から中国語で書かれた偽書の可能性もあるという。そう述べた後で、井筒氏は『意識の形而上学』を執筆する指針を明らかにする。それによると、本質的に宗教書である『大乗起信論』を仏教哲学書として読み、そこから生起する哲学的問題を分析しようとするものだという。

 前回の連載の折にも触れたが、彼の主張する東洋哲学の共時的構造化の一資料として、「それの意識形而上学の構造を、新しい見地から構築してみようとする」試みであるとする。彼の「共時論的構造の把握」とは、現代に視点を置き、我々にとって古典を有意義にしていこうとするものであるが、一種のテクストの読み直しを迫るものといえよう。

 

 貴重な文化的遺産として我々に伝えられてきた伝統的思想テクストを、いたずらに過去のものとして神棚の上にかざったままにしておかないで、積極的にそれらを現代的視座から、全く新しく読みなおすこと。切実な現代思想の要請に応じつつ、古典的テクストの示唆する哲学的思惟の可能性を、創造的、かつ未来志向的、に読み解き展開させていくこと。

                   『意識の形而上学』井筒俊彦「第一部Ⅰ序」

 

 このテクストの読み直しは井筒氏独自の考えではなく、彼の他の論文で自ら言っているように、「創造的に思索しようとする思想家があって、研究者とは全然違う目的のために、過去の偉大な哲学者たちの著作を読む」という傾向は現代ヨーロッパの思想界では、「一つの顕著な戦略」であり、一種の誤読とも考えられるが、そうすることによって「過去の思想家たちは現在に生き返り、新しい生を生き始める」と述べ、現代哲学者、ドゥルーズやデリダの名を挙げている。しかしながら現代日本の思想家たちは、自らの思索のインスピレーションを求める場所は東洋哲学の古典ではなく、マルクスやヘーゲルやニーチェといった西洋の古典であると井筒氏は不満を述べる。(井筒俊彦『意味分節理論と空海』参照)

 さらに私は、このようにして残された井筒氏の哲学書を、詩学を築くために誤読しようとしているのかもしれない。このエセーは少なくとも「詩とは何か」を考える導きとして、哲学や神学との差異を明確にするための、詩の実作者(私)からの読み直しなのである。

 

p14~

Ⅱ 双面的思惟形態

 

 『大乗起信論』には顕著な二つの特徴があると井筒氏はいう。意識(こころ)という非空間的な内的機能を主題としながら、形而上学的思惟を空間的に構想することと、思惟が至るところで双面〈ヤヌス〉的に展開することであると指摘する。思考展開の筋道は二岐に分かれ振幅を描きながら進んでいく、つまり直線的ではないという。詳細は後に論じていくとしながらも例を一つ挙げる。大乗仏教全体に共通する、「真如」と「アラヤ識」というキータームだ。

1、真如について井筒氏から教えを乞おう。存在エネルギーの全一態。絶対の無であり空であるという。一切の事物の本体と考え、全存在者の現象顕現する次元での存在者であり、また現象的自己展開でもあるという。「真如」と反対は「無明」であるが、それらがイコールで結ばれる事態があると『起信論』は考える。存在論的に双面性があるということ。しかもこの二極は徹底的に対立する、つまり相互矛盾的対立関係にある。現実はすべて妄念の世界と措定するのだ。そして相矛盾する二つの側面が「真如」において同時成立すると考える。この二重構造を超出して事の真相をそのまま無矛盾的に、同時に見通すことのできる人をこそが『起信論』の理想とする完璧な達人であると井筒氏はいう。矛盾したものを無矛盾的に見るという困難さがある。

2、「アラヤ識」について耳を傾けてみよう。『起信論』の「アラヤ識」が唯識哲学の「アラヤ識」とどのように相違するかが重要なテーマになると井筒氏はいう。「起信論」における「アラヤ識」は「真如」の非現象界と現象界の中間地帯として空間的に把握される。「真如」が非現象的「無」からいままさに現象的「有」的次元に転換し、経験的事物事象の形に乱れ散ろうとする境位、つまり意味分節体、存在分節体に変わろうとする場である。非現象態から現象態、逆に、現象態から非現象態に還帰する「真如」が必ず通過する中間地帯と考える。「アラヤ識」はこういう意味で双面的であるのだと井筒氏はいう。

 現象的事物の世界(経験的世界)を「真如」の本然性からの逸脱と考えるか、あるいは「真如」それ自体の存在展開と見るかで価値符号が正反対になる。前者は「アラヤ識」を限りない妄象現出の出現として「負」と捉え、後者は「アラヤ識」を「真如」の限りない自己展開の始点として「正」と見なすことになると井筒氏はいう。二方向の運動によって、存在分節否定の立場と存在分節肯定の立場に分岐することになる。この事態を「起信論」では「不生滅」(非現象性)と生滅(現象性)と和合して、「非同非異」(同一であることもなく相違することもない)という自己矛盾的一文で表現すると井筒氏はいう。そこから「起信論」では「アラヤ識」を「和合識」と名づけているという。第二部で詳しく論じているのを見るであろう。唯識哲学の「アラヤ識」と「起信論」独自の「アラヤ識」には同じものと相違するものがあるようだ。両面をこれから理解し、さらに井筒氏独自の「言語アラヤ識」を『意識と本質』その他の井筒氏の論説を読み直し、深く考えてみようと思う。

 意識という非空間的機能を時間性を離脱した空間的広がりとして構造化する「起信論」などに見られる思索は、西洋哲学にない東洋哲学独自のものであり心惹かれるものだ。

 

「『意識の形而上学』を読む」第一回終了。

 

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