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ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

デリダ論序説(一)小林稔 詩誌「ヒーメロス」より掲載

2015年12月17日 | 井筒俊彦研究

デリダ論序説―その一

小林稔

 

 その難解で知られるデリダという思想家の書物を紐解くにあたって、彼の「 脱構築 」(deconstruction)として流布する理論を日本人、あるいは東洋人である私が理解しようとすることにいかなる意味があるのか。そこからこのデリダ論序説を始めたいと思う。

 現代思想のコンテクストにおいて東洋哲学を理論化しようと試みた井筒俊彦の後世に残した著作には、これからの哲学的思考に対してじつに多大な貢献をなしうる可能性が至るところに充満している。これから展開しようとるデリダへの私の解読の根拠を、私を鼓舞した彼の言説を基底に据えて叙述することが適切であろうと考える。

 井筒哲学の「共時的構造化」(詳細は後述することにする)の出発となる書物『意識と本質』の冒頭に、サルトルの「嘔吐」体験を記述している。意識は必然的にもの(存在者)への方向性を持ったものであり、「本質」把握をコトバによって把握する。井筒は、「絶対無分節者」の「存在」の表面にコトバによる分節線を引いて事物を作り出していくと表現する。そのような「本質」把握なしに「外」に向かえば、不気味な「存在」の渾沌の泥沼にのめり込んで「嘔吐」を催すしかない。それは「言語脱落」の体験を語っているのであり、言語脱落は「本質」脱落を意味する。そこには「怖ろしい塊り」(『嘔吐』で示された「存在」だけが残るのだと井筒はいう。このような「存在」分節作用は日常的世界の意識(表層意識)に深くかかわっているが、一度「言語脱落」が起こると、無分節的「存在」の世界に投げ込まれ『嘔吐』の主人公のように愕然とするしかない。彼は意識の深層を覗き込んでしまい狼狽するだけである。

 一方、東洋哲学では表層意識に現われる事物と生起する事態を深層意識の次元におき眺めることができることを根本原理とすると井筒氏は指摘する。このような哲学では、経験的世界の本質は「虚構」であるとする徹底的な「本質否定」の立場を取るが、「言語の本質喚起的機能]に重大な役割りを負わせていると井筒氏はいう。「本質」は実在しないが、あるように見せかけている意識を「妄念」とする。「表層意識が深層意識に転換し、絶対的無分節者が無分節のままで現われてくれば経験的存在世界においてあらゆる存在者を区別する本質はことごとく消えてしまう」と井筒氏はいう。

 デリダ論への前置きとしては長くなりすぎたが、ここで私が述べたかったことは、これから少しずつ明かしていくことになる「脱構築」(井筒氏は「解体」と記述)は西洋思想の解体であり、東洋思想では解体を前提とした、あるいはその基盤に成立する思想であるということである。近代化とは西洋化のことである。その限りで我々の世界は生活や思考基盤においても西洋化されている。そのようなコンテクストにおいて西洋思想の解体の後に、東洋思想が来るべき世界の思想にいかに寄与できるかが問われているのである。

 西洋思想の源泉はヘレニズムとヘブライズムにあることは既知のことであるが、西洋思想の解体がそれらの否定に直結するものではないことは留意しなければならない。ギリシアやユダヤの思想を取り込む方法論においてヨーロッパ独自のモード(仕方・流儀)やそれに対する西洋思想からの反発があったのだ。その意味では私たちは西洋思想との差異化を認知し、ギリシアやユダヤの思想の原像を新しく把握する必要がある。例を挙げるなら、プラトン学者、藤沢令夫が、「ギリシア以来の哲学の伝統の単純総括の風潮」(『哲学の課題』)で説いたように、「ギリシア以来今日に至るまで、西洋の哲学・形而上学の伝統はロゴス中心主義という大罪を犯してきた」というデリダはその誤りの根本を衝いて脱構築をするのだと藤沢は解釈する。「ロゴス中心主義」は「話される言葉」を「書かれた言葉」の上に優先させる「音声中心主義」と倒置され、「父権的なロゴスを立てる」という「男根中心主義」と倒置されるとするデリダの考えを、理に合わぬ異常哲学として断罪する。これをハイデッガーによって植えつけられたギリシア哲学への偏重であると主張している。ここではギリシア思想を取り込む西洋的モードに問題があるといえよう。デリダと同時代のミシェル・フーコーは晩年、ギリシア思想の西洋的解釈の問い直しとして、「自己への配慮」を中心に哲学の本来あるべき姿を分析したのであろうと私は考える。

 一方、先に挙げた井筒俊彦は、デリダの最も重要な哲学用語の「エクリチュール」に注目する。「一定の方向に向かう強い思想的傾向性」に「彼のエクリチュール論の独自性と創造性の根源」を認め「魅惑される」としながら、現代哲学の問題を喚起し東洋哲学との比較を通して考えようとした。つまりデリダの「解体」と東洋思想の特徴とする徹底的な「本質否定」の構造理念から、「解体以後」の言語学的哲学理論を構築しようとしたと私は考えている。

 かつて井筒は『意味の深み』という書物の「あとがき」で、若年のころから「意味の深淵」に心を奪われていたことを告白した。「シニフィアン」と「シニフィエ」の結びつきが「シーニュ」(記号)であるという一般記号学の立場、つまり「意味」に対する表層主義に不満を持ちつづけていた。「マラルメやリルケのような詩人たちの深層的意味世界の生成の秘密を、もし探り出すことができたら」と考えていた井筒が出逢ったのは、仏教の唯識哲学であった。それは後に彼の「言語アラヤ識」理論に発展していくものであったが、「ユングの心理学が、人間意識の底に潜む巨大な下意識的エネルギーの働きを指摘し、ジャック・ラカンが、無意識とコトバの奇妙な結び付きの重要な意義を強調し始めた」ころであったという。

 ここでデリダのエクリチュールなるものを井筒はどのように考えていたのかを考えてみよう。デリダにおいては、「書く」という言葉の意味の「驚嘆な拡張解釈」である。「世界」はすでに「書き込まれた」エクリチュールの構成物であると考えている。「思惟と言語の深い関わり」を考えさせるものであると井筒はいう。「現実」や「世界」を「テクスト」と読み変える作業をする。「存在する」ということは「テクストの織り出し」である。表現の問題ではなく、「新しい角度から、新鮮な視線を対象に向けるということ」だと井筒は解釈する。つまり「現実」を「テクスト」と読みかえたとたんに「現実」は解体され違ったものとして現われる。「現実」という言葉で考えていては見えなかったものを引き出してくれるということである。「テクスト」は「織もの」の語源的に含む。世界内に織り込まれた私は、公共としての織りもののなかで、自分の「テクスト」を織リ加えていく。「織る」とは「書く」ということであり、書く」ことで「テクストを織り出していく力をエクリチュールという」とデリダ自身が定義していると井筒はいう。それは、我々が「書く」ことによって世界を変革していく可能性を賦与する考えだと私は思う。私はデリダを知る以前から、「書く」ということをそのように考えていた。それはランボーから教えられた「書く」ことの意味である。デカルトのコギトをもじり、「我、書く、故に我在り」と主張し、バト、デリダ、フーコー、ラカンなどに、この原理が根本的意義を持って働いていると、アメリカの文学理論家スコールズは指摘する。現代哲学的にいえば、「私は自分が生産するテクストである」ということになると、il n´a pas de hors de texte(テクストの外には何もない)いうデリダの言葉は「テクスト」の有意味性を示唆するものであると井筒はいう。「テクスト」の有意味性とは何か。ロゴス的意味、プラトン的ロゴス的意味は完全に否定されていると井筒は指摘する。意識の彼方に客観的に存在する実在性を否定するということだ。「指示対象」を排除し、相対的シニフィアンと相対的シニフィエの関係に還元することであると井筒は解釈する。「指示対象」を失った「シニフィエ」の立ち昇る意味、それは同時に「シニフィエ」の「シニフィアン」からの遊歩であり、「テキスト」の有意味性とはこのようになると井筒氏は解釈する。「指示対象を取り払う」ことには各人の存在論的立場の問題がある。デリダはそこに、defféranns(相異・繰り延べ)の概念の導入があると井筒はいうがどういうことか。現存する事物は現存する事物が残した「痕跡」である。大乗仏教でいう「幻影」であるがデリダはそういわない。「痕跡」を残した事物はどこへいったか。後を追っても現存する事物に行き当たらない。「繰り延べ」である。見失われたロゴスは「始原」(アルケー)を追い求めるが永遠にたどり着くことはない。したがってエクリチュールは必然的に「書くことの、歓喜に充ちた彷徨」であり、「始原」も「終末」もなく生のテクストを書いていくことになる。もし「始原」や「終末」や「中心」の確立した世界があるとすれば、それは死の世界である。つまり「書物」だとデリダはいう。話者は自分の言うことを耳に聞き了解する。彼のこころは、つまり「意味」は彼の意識に現存していると、フッサールはいうが、デリダはこのロゴスの絶対的現存の現成を否定する。「発声」と「意味」了解の接合点にかすかな遅延をみるのだと井筒は説く。つまり「相異」defférannsの介在を見てしまう。この一瞬に現存するかと思われたロゴスは現存せず、無がしのびこむ。すべての有のなかにははじめから非有が浸透しているから、それは有ではなく、有の「痕跡」なのだと井筒はデリダを解き明かす。デリダは「ゼノンの飛矢」の飛びつづける矢、つまり現在の状態に目を向けると矢の動きは実在性を否定されるという矢のパラドクスで、「今」は「非有」の「痕跡」を己の構成そのもののうちに含みこむものとして、いかなるものも、「現存」しないと結論する。しかし「現存の不可能性」は単純に「現存」がないということではなく現存は可能だが、その可能性はいつまでも現勢化しないということであると、つまり「現存」の際限のない繰り延べであると井筒はいう。

 ヨーロッパの文化伝統では、エクリチュールがパロールの従属的位置に置かれてきたのは、アルファベットはパロールを書き写す道具であるというアルファベット自体の構造によると井筒はいう。先述したプラトン学者、藤沢令夫の指摘するように、プラトンの対話篇『パイドロス』において文字に書かれる言葉の限界の論述は、「書物に対しては質問しても、書かれてあること以外には答えてくれないという当然の指摘」をしているに過ぎず、「話されている言葉ならどのようなものでも、文字言語の限界と欠陥を免れている」とはいわれていないのであるという。プラトン第七書簡においても、「もしそれが書かれたり語られたりするとすれば、この私によってこそもっともよく語られるだろうという。ここでも書くことと話すことはまったく同列である」と藤沢は主張する。再度、井筒氏の論説に戻れば、パロールの基底にはエクリチュールがあるとしてデリダは「原エクリチュール」と呼んでいることからすれば、「パロールは極めて不完全なエクリチュールである」といえるという。これは、ヨーロッパ思想の言語における伝統を逆転させるものであると井筒はいう。いわばデリダはアルファベットの限界、エクリチュールはパロールの道具に過ぎないという宿命に挑戦しようとしていると考えられよう。東洋では「書く」ことの意義が表音文字アルファベットとは根本的に異なることを井筒は指摘する。「文字そのものの形象性に、美的価値や精神的価値を認める中国のエクリチュールは、アルファベットとは比較にならない重要性を持っている」と井筒はいう。中国の思想史の発展過程において、老子のようなエクリチュールの敵視の思想が現われたことがあったが、「エクリチュールの怪物的な恐ろしさを痛感すればこそ」であると井筒氏は指摘し、「漢字、平仮名、片仮名を持つ世界一複雑な文字システムを作り出した日本人の「書く」意識の中から、デリダを越えて、新しいエクリチュール論」が現われることを井筒は期待しているのである。

 デリダの批判し否定するのは、プラトン以来のロゴス中心主義の歴史である。井筒によると、ロゴスとは永遠不変の超越的実在であり、経験世界、現象界、の事物の背後に、それらを超越して存在する不変不動の形而上学的実在者の措定することである。したがって、脱構築(井筒は解体という)は存在のロゴス的構造に向けられたものである。ロゴス中心主義とはギリシア的形而上学の精神、つまりプラトンの「イデア」論が中世、近世を通してヨーロッパ思想史を支配し現代のフッサールに至るギリシア性の否定であるように見えると井筒はいう。このようなロゴス中心主義のデリダにおける「解体」(脱構築)作業に、井筒は根強い「ユダヤ性」を見る。その一つが「終末論への抑えがたい関心」とその否定である。終末論の否定とは「極限」の否定であり、「極限」は一方へは未来に、もう一方には過去に延びているという時間概念である。この「終極」と「始原」、「世界の終末」と「世界の創造」という宗教的な見方は哲学的にいえば、「全存在世界からの存在論的根拠剥脱」であると井筒は主張する。「始まりなく、終わりもなく漂い流れる存在者の何一つそれ自体であるものはない」ものとは、記号としてのみ存在することに他ならず、「痕跡」として充実を求め浮動することになると井筒はいう。そこにはヘーゲルが「夢見た終焉」は無限に延期されていく事態を、デリダはdifférance と名づけ、繰り延べられていくのだという。この概念は終末論から離され「デリダの存在論的全体を特徴づける重要な哲学的概念に転生する」、つまり「ロゴスの現前を否定する究極原理」になる。このような存在観には、「砂漠」を彷徨いつづける「ユダヤ人」の存在の中核にある「纏綿する不安の感触」があると井筒はいう。

 デリダのユダヤ性にもう一つの側面を井筒は指摘する。それは、「純哲学的な次元を超えたその彼方に、預言的な次元がる」ということである。ある哲学者との対談で「あらゆる形での終末論を私は否定するわけではない」、「預言者の霊感的言表のなかに内包される終末論だけは例外的に否定しない」と述べたという。しかし、真理の客観的、絶対的基準を探究する哲学的営為と、それを必要としない預言者の言葉とは一線を引かれねばならない。井筒によると、預言者のコトバは自分自身の終末論を含み、真理性の指標、絶対的価値基準を己のうちに持っていて、外的法廷の真偽に委ねることを拒否することである。デリダには絶対的価値基準があるのだろうかという問いに、対談では次のようにいったという。「自分が霊感を受けているという自覚はないが、自分のなかの深いところで、何かの到来を待っている。何かを探し求めてやまないものが、私のなかにあるのです。この探求が、たんにレトリックの偶然でないことだけは確実です。だからこそ、私のコトバは、一種の預言的な響きを帯びてくるのかも知れません」(井筒俊彦「デリダのなかのユダヤ人」より一部改変引用)。デリダの難渋な思想が多くに人々の心をひきつけてやまない原因に、彼のコトバの預言的響きの魅惑にあることは疑い得ないと、井筒はいい、それは彼のユダヤ性に淵源するであろうと書き記している。

 ここまで書き連ねて、私は詩を論じたい気持ちを抑えることができない。「世界は書き込まれたエクリチュールの構成物」であり、「書く」ことでテクストを織り出すことができるということ。「世界」を読み解くことと、自らのエクリチュールをもって世界に参入でき世界を変革することができるということ。これらは本来詩人がすべきことではないのか。かつてモーリス・ブランショの『文学空間』や『来るべき書物』を読んだとき、「来るべき詩」のためにかかれたものであるという思いが強かった。デリダに対してもなぜ論文で書かれるのかという疑問は拭いえない。井筒が先に述べたデリダのユダヤ性と深く関連する「預言者的な次元」は詩の本質と大いに関係があるだろう。詩と関わるインスピレーションはやみくもに言葉を羅列することではない。深いところで詩人の自己と結ばれているのだ。新興宗教などにみられるいかがわしい霊的な想念とはまったく違う。「哲学と霊性」でミシェル・フーコーが主張するように、哲学の原初的意味での精神性のことである。そうした哲学と同様に、詩も主体の生存と深いところで関連づけられるべきものなのだ。詩学と哲学の漸近線上に詩は成立する。詩人に内包する批評的精神と哲学は表裏一体であるが、詩人は経験において自らの他者とロゴスにおいて出逢うのではないだろうか。ロゴスにがんじがらめにされた精神を解き放ち屹立する言葉を、どれほど困難であろうと詩人は獲得しようとする。ロゴスを獲得するプロセスを重視すべきであり、そこに詩人の姿を見るべきである。先にも述べたが、井筒が「書く」(デリダのエクリチュール論に因んで)という論文の末尾で主張された、漢字システムのようなエクリチュールの大きな特徴を摂取し、平仮名、片仮名を加えた世界一複雑な文字システムを作り出した日本人の「書く」という意識のなかから、新しいエクリチュール論を生み出すことに加えて、その渦中に身をしっかりと据え、詩を書かなければならないと私は思う。

 

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評論集「来るべき詩学のために(一)」小林稔についての自註

2015年03月20日 | 井筒俊彦研究

評論集『来るべき詩学のために(一)』についての自註

小林 稔

  

昨年(二〇一四年)上梓した拙書『来るべき詩学のために(一)』の「はじめに」で、私は「哲学、神学のアナロジーにおいて」詩学を確立させようと書いた。そこにも示したように、その出発点は、ミシェル・フーコーのコレージュ・ド・フランスで一九八二年に行われた講義録『主体の解釈学』(筑摩書房)にある。その講義の冒頭で、フーコーは「哲学と霊性」について述べている。主体が真理に到達する思考形式を「哲学」と呼ぶなら、そのための必要な探求や実践、経験の総体を「霊性」と呼ぶことができるだろうという。主体自身には真理に到達する権利がなく、認識行為によって真理は与えられず、主体に修正を加え、別のものにならなければならない。つまり「真理は主体の存在そのものを問題にする代価を払ってはじめて与えられる」のだという。この立ち返り(コンベルシオン)において現在主体が置かれた条件から引き離す運動をエロス(愛)の運動とフーコーは呼び、自己の変形を可能にする働きかけが考えられたという。そして霊性が真理に到達したとき天啓を与える、つまり主体の存在を完成に導くものであるというのである。ギリシア、ローマの古典古代においては、グノーシス派とアリストテレスを例外として、「いかに真理に到達するか」という哲学的問題と主体の変形という」霊性の実践は結びついたものであったが、それから数世紀を経て、主体が真理へと到達できる条件が認識だけだと認めた日を境に近代に入ったと言えるとフーコーは解く。それを「デカルト的契機」とフーコーは象徴的に名づける。それ以後、真理は受け入れることができても主体を救うことができなくなったのだと主張する。実際はデカルト以前、アリストテレスを基盤にした聖トマスやスコラ哲学において真理から霊性を乖離させる作業が始まっていたのだという。それでは霊性は知からまったく消えてしまうのかというとそうではなく、スピノザの『知性改造論』に霊性の問題は継承されていた。認識の哲学と主体の変容の間に密接につながっていた。十九世紀の哲学、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガーなどにおいて、霊性の構造が認識の行為を主体の変容と結びつけられていたとフーコーは指摘する。哲学のみならずボードレールやランボーといった詩人たちの詩において霊性は受け継がれていると私には思われる。フーコーはマルクス主義や精神分析の領野においても「真理への到達としての霊性」という古典古代からの根本的な問題が問いかけられていると指摘する。特に現代の精神分析者ラカンにおいては、「精神分析の内部に、真実に対して支払う代価と主体に与える効果を出現させることで「自己への配慮」の伝統を再出現させたとフーコーは主張している。ギリシアのデルポイ「神託」、「汝自身を知れ」の「自己の修正」に「自己への配慮」を晩年に考察した。

 一方、鈴木大拙の『日本的霊性』を紐解いてみると、「霊性は普遍性をもっていて、……漢民族の霊性もヨーロッパ諸民族の霊性も日本民族の霊性も、霊性である限り、変わったものであってはならぬ」が「霊性の目覚めから、精神活動の諸現象の上に現われる様式には、各民族に相違するものがある」という記述がある。鈴木大拙の霊性とフーコーのいう霊性を比較検討してみよう。フーコーは霊性という語に「スピリテュアリテ」という語を当てる。その意味するところは先に述べた文から理解されよう。鈴木大拙は霊性の定義を次のようにいう。精神と物質という対立概念では矛盾が生じるが、その両者を内包した考えが霊性である。霊性の働きは倫理性をもちだす精神とは異なり、それを超越した無分別者である。「宗教意識の覚醒は霊性の覚醒であり、それはまた精神それ自体が、その根源において動き始めたということになる」。民族によって霊性の様式が異なるがというが、日本的霊性と呼びうるものは浄土思想と禅だと鈴木大拙は考える。外来の仏教がなぜ日本的霊性と言えるのか。鈴木大拙によると、仏教は日本文化財のうち最も世界的意義を持っていて日本的霊性の自覚の顕現であるという。仏教が日本に伝来してから千年以上経てば日本的なものになるに十分な歳月が経過しているといえる。「初めに日本民族の中に日本的な霊性が存在していて、その霊性がたまたま仏教的なものに逢着して、自分のうちから、その本来具有底を顕現した」と解釈する。インドで生まれた仏教は中央アジアを通り、実証第一主義のシナ文化の影響を受けて日本に入ってきた。また仏教は東南アジア方面からも入ってきたから、南方的性格も内包している。つまり日本仏教は北方民族的性格と南方的性格も、インド的直覚力もシナ的実証心理も具有し、日本的霊性が中枢になり、東洋を一つにして動かす思想になったという。それが一方では浄土思想になり、他方では禅として現われたのだと指摘する。それらはシナから日本に来たのであるが、伝来的性格を失って、鎌倉時代に日本的なものになったのだという。鎌倉時代になるまで、日本人は霊性の世界の自覚がなかった。古代の日本人は素朴な自然児で、反省的内観の機会が訪れてなく、平安時代には文化の各方面が華やかに展開したが、享受できるのは社会の上層部に限定されていた。平安朝の四百年は、鎌倉時代の霊性の自覚にとっての準備期間であった。武士の出現とともに「政治と文化が貴族的・概念的因襲性を失却して、大地性をもちえたとき、日本的霊性は自己に目覚めた」とうのが鈴木大拙の主張である。彼の『日本的霊性』について詳細な考察は別の機会に譲ることにして、ここでは哲学、宗教、詩学のアナロジーを指摘するにとどめる。ミシェル・フーコーのいう霊性は、あくまで哲学の領野での分析であるが、鈴木大拙の霊性は宗教の領野である。反対に古代ギリシアの哲学の歩みは、中心には絶えず内圧させながら神々との直接性からの離脱の過程にあると私は考える。しかし両者の霊性に共通するものは、「代価」をもって得られるという考えである。哲学にとって得られるものは真理であり宗教にとって得られるものは救済であろう。「いかに真理に到達できるか」という問題に対して、主体の変形を可能にする霊性が古典古代では結びついていたが、西欧においてはキリスト教の神学がアリストテレスを基底とする哲学的思考から霊性を引き離したのである。以後、デカルトにおいて霊性を否定し認識が哲学の主流になり、近代合理的思考が発展していった。

 二

井筒俊彦は『意識と本質』の後記で、七十歳間近になって、実生活だけでなく哲学や思想の世界においても、「ふるさと」という言葉が懐かしい響きを持ち始めたと書く。この書物の始まりは、雑誌「思想」一九八〇年六月号から一九八二年二月号に原稿を依頼されたことによる。一九六九年にイランの王立アカデミー教授としてイランに滞在し一九七九年のホメイニによるイラン革命が勃発しため帰国することになった。その翌年から『意識と本質』の「思想」への掲載が始まったことになる。帰国を余儀なくされた彼であったが、「後記」を読むと、若いころからヨーロッパの文学と哲学に強く傾倒していたことが知れる。一方で「東洋的なるもの」の関心を持ち続け、おのれの「実存の根」は東洋にあったと、このとき自覚したのだという。それは「自分の哲学的実存の根源」からの新しい出発を決意し、「生涯の転機」と考えたことによる。イラン滞在中から幾度となくエラノス学会に出席し世界の宗教学者と交流があった。そこで西洋人の学者が述べた、「西洋人は東洋の叡智を内側(西欧)から把握しなければならい。そこに新しい『知』の展開の可能性が秘められている」という言葉を聞き、井筒氏は東洋人である自分自身がおのれの哲学的伝統を内側(東洋)から主体的実存的に了解しなおし、「東洋的磁場のなかから、新しい哲学を世界的コンテクストにおいて生み出していく努力をし始めなければならない」と思ったという。「科学技術に基づく西洋的文化パラダイムが、事実上、人類文化の共通パラダイムになり、その基盤の上に人類が地球社会化への方向を目指して滔々と流れつつある現在、徒らに西洋を無視して東洋だけを孤立させて論じることは無意味だし、また実際上そんなことは不可能に近い。…(中略)…人類の現在的状況では、東洋哲学といっても、どうしても西洋哲学が深く関わってくる」と主張する。それだけでなく、明治時代以来、西欧化の道を驀進してきた日本人の意識は自覚することなくもはや西洋化し、哲学の分野となれば、我々の知性の働きを根本的に色づけているという。したがって、とりたてて比較哲学を唱えなくても、現代的意識の地平で考究すれば、すでに東西思想の出逢いが実存的体験の場で生起し、東西比較哲学がひとりでに成立してしまうのではないかというのが井筒氏のスタンスである。

哲学と宗教の錯綜した領域に、複雑に絡み合いながら相違する地点がある。いずれにせよ、「霊性」を問題視するとき、「霊性」を排除してきた中世の神学、近代哲学以降、現代哲学の領野で再び考慮されることになり、詩の領域にまで私は確認しようとしているのだが、主体の変形、つまり生の変革としての「代価」なしには成立しないことが知れる。具体的には主体の人生における何ものか、思考や行為と引き換えに得られる真理であり、救済であり、ポエジーの存在を認めることである。今回の私の拙書を『来るべき詩学のために(一)』としたのは、「生の変革」において始められる詩は、付録としてつけた「デリダ論序説」のエクリチュール概念を詩作の中心に据えようとする私の詩行為(エートス)と言えるものである。

井筒氏は言語学的哲学に絶えず関心を寄せていた。哲学や宗教学を研究対象としてのみ考えるのではなく、哲学の領野に活用させようとするものである。西洋の現代哲学は過去の哲学を現代的意義を探りながら、一種の誤読を恐れず現在時に引きずり出し、新しい哲学の可能性を試みていることに井槌氏は注目していた。「はじめに」で、詩は詩人の行為の場で生み出されると私が引用したように、詩は詩人の生活(現実)から生み出されるものである。私が言おうとすることは、フーコーの指摘する原初的な哲学にいつも結びつけられていたとする「霊性」や宗教を生み出すもとになる「霊性」と、「生の変革」から出発する詩学とのアナロジカルなテーゼである。井筒氏の仏教の論究は唯識に基づく言語を中枢としている。一般に宗教は倫理的な側面、いかに生きるかという道徳的な観点から説かれる「教え」を示すものと考えているであろう。つまり、「こころ」の有り様を問題にする。しかし井筒氏は「こころ」を意識に、「分別」を「分節」に置きかえることによって、現代哲学の言語に向かう関心を、仏教における言語観から新しい「知」の地平を拓こうとしていたのだ。詩の領野においても、十九世紀のフランス詩から、具体的に言えばボードレール、ランボー以降に提出された詩の問題はヨーロッパの思想の終末を示すものであり、接木すべき東洋の思想の必要性を示唆している。哲学においても同様である。ジャック・デリダの「脱構築」は、仏教の本質「否定」の次元から考えられるものがある。先述したように西洋的思考に基づき、我々の内なる東洋的思考を掘り起こさなければならないだろう。インドで発祥した仏教は先述したように、アジアの広い地域の文化と練磨しながらついに日本に辿り着いた。西洋文化もまたギリシアを発祥の地としながら、ヨーロッパの広大な地域の文化と交流し、普遍性をもちえた。井筒氏の構想した「共時的構想化」、つまり西洋と異なり、有機的構造をもたなく、全体的統一性のない様々な民族の思想可能体を「未来志向的に創造的原点」となる形に、有機的統一体に纏め上げよう」とする試みは、ギリシアを含めた東洋哲学である。古代におけるギリシアとアジアの交流を考えるなら、西と東に向かった思想の道が、哲学と神学と詩学の領野で統合される日が来るのかもしれない。


井筒俊彦『意識の形而上学』を読む。小林稔・連載第八回

2014年01月26日 | 井筒俊彦研究

井筒俊彦『意識の形而上学』を読む。連載第八回

来るべき詩学のために(二) 小林稔

第三部「実存的意識機能の内的メカニズム」p103

 いよいよ『大乗起信論』の最重要課題「個的主体性」のテーマに入る。いよいよといおう。そう、『起信論』自体が元来「個的主体性」を目的にして記された経典であることは、『起信論』の第一章「この論を著す理由」を読めば直ちに理解されることであろう。井筒氏は「個的実存意識の力動的メカニズムの考察」と呼んでいる。ここまで形而上学的意識構造論を展開してきたが、その十分な理解の上でなければ「個的主体性」への適切な理解には辿りつけないのだ。人は井筒氏の難解な解説を読まずに直接経典に向かうべきと考える人もいようが、どれだけの深い読みができるかは疑問である。つまり現代哲学の視点に耐ええる思索のみが今日の生きた思想(エートス)になるのであるからである。井筒氏の書物の読後に原典を読み返すと、原典そのものの意味が自然と理解されていくのだと思う。

 詩作行為は、ランボーの主張である「生の変革」と関連づけたびたび私が論じてきたことである。「生の変革」とはいえ、ランボーが思索をやめアフリカの商人になったような、現実に特別な何かをすることだけを意味するのではなく、「意識の変革」は世界を言葉で掌握しようとする、あるいは言葉によって真実の姿を開示しようとする詩作との関連においては、「意識の変革」こそが必要とされる。井筒氏のいう「個的主体性」は詩作行為にとって最重要事である。仏教哲学では「生」の構造を明かすことに始終するだけであるが、認識することから実践(詩作)が導かれるのである。

「個的主体性」のテーマでは「アラヤ識」が論理の独壇場になると井筒氏は前置きする。先に述べたように、「心真如」(A領域)と「心生滅」(B領域)の中間地帯(Ⅿ)に「アラヤ識」が位置するからである。それは「実存意識のダイナミックな機能磁場として縦横に活躍し始める」からであると井筒氏はいう。ここで新しい一対のキータームとして「覚」と「不覚」が登場する。「覚」はさら二分して「始覚」と「本覚」を形成する。原典では<心の本性に対する覚知の義>という項目でこれら四つのタームを細かく述べているが、井筒氏は「覚」と「不覚」を分析し、「不覚」形成のプロセスを述べたのちに「始覚」と「本覚」を解説するという、原典の異なった順序で行っている。理解をしやすくするためである。

「覚」と「不覚」について。

井筒氏によれば、「覚」と「不覚」は「アラヤ識」の働きの本質的二側面にほかならないという。また「覚」と「不覚」は、「心真如」と「心生滅」という意識の形而上学的構造上の区別を、個的実存意識の次元に反映し、個的実存意識の形で再現するところの「アラヤ識」の機能フィールドであると指摘する。『起信論』のアラヤ識は、他の唯識哲学におけるアラヤ識とは異なり、本性的に双面性を有している。つまりアラヤ識の内部に、相対する狭義の「アラヤ識」と「如来蔵」の両方を秘めているがゆえに、エネルギー溢れる場になり得ていることは井筒氏の指摘するところである。実存意識がA領域の心真如に向かう「覚」は、極限に達したとき、そのまま踝を翻しB領域に向かう。「自性清浄心」との合一を体験した実存意識はB方向に向かい、A・Bの両方を無差別的に、全一的に、綜観する境地に達しなければならないと井筒氏はいう。Aの極点に達することがそのままBの深層を覚知すること(AとBの同時的覚知)になるような実存的意識状態が現生したとき、それを「覚」というと井筒氏は指摘する。絶対無分節的「自性清浄心」との合一を「離念」といい、それが「覚」の第一条件であるとするなら、大多数の人にとって「覚」は至難の事であり、「不覚」の状態に留まらざるを得ないだろうと井筒氏はいう。しかもA・Bが同時に、ということに留意しなければならないだろう。構造を説明するときには部分的に扱うため、空間的に説明する必要があるが、時間的に見れば同時になされることを井筒氏は指摘していると考えられる。

「不覚」からの脱出こそが『起信論』の提出する倫理学になり、「ほとんど不可避的に、実存的個の倫理学的プロブレマティークの領野に曳き入れられていく」と井筒氏は指摘する。それこそが私の構想する詩学の中心的場になるが、井筒氏はあくまで哲学的思惟において、構造論的に分析していくのである。

 まず我々が脱出すべき「不覚」を『起信論』はさらに分析していく。「不覚」を「根本不覚」と「枝末不覚」に区分する。「根本不覚」を井筒氏は根源的・第一次的「不覚」と呼び、「枝末不覚」を派生的・第二次的「不覚」と呼ぶ。井筒氏によると、前者は真理を如実に照見できないという「無明」の状態をいう。「真如」(心)の真相を全一的意識野において覚照する能力がないことであるといそれに対して後者は、「真如」の覚知の中に認識論的主・客の区別・対立を混入し、そこに生起する現象的事象を心の外に実在する客観的世界と考え、それを心的主体が客体的対象として認識する、という形に構造化して把握する意識の在り方であると井筒氏は説明する。過不足のない言説であるが、簡単にいえば、「妄念」である外的世界を真実性の世界と誤認し、その結果、迷いの渦に巻き込まれていく実存の在り方を「枝末不覚」というと井筒氏は解説する。また、「根本不覚」は形而上学的「不覚」であり、「枝末不覚」は実存的「不覚」であると説明する。「実存的意識機能の内部メカニズム」を展開する本書の第三部では、後者の「枝末不覚」が主役である。そして妄念の世界に実存意識を巻き込んでいくプロセスを九段階にわけて「大乗起信論」では解かれているという。「アラヤ識」の妄念的機能フィールドは九つの段階的様相を持つということであると井筒氏はいう。

 『大乗起信論』では九の段落を「三細六麁」という。「三細」はほとんどきづかれないようなかすかな深層意識的心機能であり、「六麁」とは粗大な表層意識的心機能であると井筒氏はいう。この九つの段階の分類される「妄念」を次回にまとめてみよう。

 

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『意識の形而上学』を読む「アラヤ識について」」小林稔・連載第七回

2013年11月22日 | 井筒俊彦研究

『意識の形而上学』を読む・連載第七回小林稔「アラヤ識について」

連載第七回

アラヤ識について

小林稔

 意識と存在の未分節態A領域の「心真如」と、意識と存在の分節態B領域の「心生滅」は本性的に流動的であり、両者の相互関係は微妙であると井筒氏は指摘する。AはBの自己分節態であるからBに転位し、Bは己の本源であるAに還還しようとする。『起信論』的に表現すれば、AとBは「非一非異」的に結ばれているということができると井筒氏はいう。

「衆生心」は、それ自体、絶対真実であり離念の境界として「不生不滅」をくり返している世界であるといわれるが、一方において、それは同時にさまざまに展開して「生滅」をくり返している世界である。したがって、現実のわれわれにおける心のあり方は、「不生不滅」と「生滅」とが和合して、しかも両者が一でもなければ異なるものでもないという関係にあると言わなければならない。われわれの現実におけるかかる心の構造をここに<アーラヤ識>と名づける。

                               『大乗起信論』第三章第一節の二の1より

 

 井筒氏によれば、A領域とB領域の結合の場所を『起信論』では「アラヤ識」と呼ぶという。一般的な唯識哲学と『起信論』の「アラヤ識」では顕著な相違がいくつかあるという。一番の違いは、唯識哲学では「アラヤ識」はB領域のみであるのに反して、『起信論』ではAとBに跨るということ。つまり「心真如」と「心生滅」の両領域にわたる。一つのフィールドの中に包摂し、両者を綜観的に一つの全体として見る、それゆえに「和合識」と呼ぶという。さらにもう一つの相違は、深層意識性を強調するか否かによると井筒氏は指摘する。唯識では「アラヤ識は「妄識」であり、意識の最下底、深層意識であるから、A領域とは関わることがなく、一切の人間経験の意味化の場所、存在現出のカオス的原点としての意識深層部位を「アラヤ識」として内部機構を追求していくのみであると井筒氏は説明する。それに対して『起信論』では、中間者的性格を規定するという。AとBの介在する中間領域をⅯ領域と呼ぶことにして、井筒氏は『起振論』的「アラヤ識」の「真」「妄」和合性を構造化して論じる。『起信論』ではなぜこのような中間領域を設け、そこに重大な機能をもたせるのかについて、井筒氏は、言語意味分節の理論から解明できるという。井筒氏は『意識と本質』においてアラヤ識の深層意識領域を言語アラヤ識と名づけ説明したが、この書物では一切使わずに解釈しているが、それほど違いはないであろう。Ⅿ領域が形相的意味分節のトポス(場所)であるということは、存在界の一切が予め先験的にそこに全部分節されていると井筒氏はいう。実存的個体主体にとって先験的とは、超個的であり形相的であることであり、存在カテゴリー群の網羅的・全一的網目構造であると指摘する。現象的「有」の世界はすべて元型的意味分節の網目を通過することによって型どられていくのだと井筒氏はいう。ユング哲学でいう元型と同じである。

 さらに井筒氏は中間領域Ⅿ(アラヤ識)をⅯ1「如来蔵」とⅯ2「アラヤ識」(狭義的意味)に分ける。Ⅿ1「如来蔵」は無限に豊饒な存在生起の源泉、Ⓜ2「アラヤ識」は限りない妄念的「仮有」の生産の源泉とする。B領域の存在分節態をA領域の本体そのものの自己展開として見るとき、Ⅿ領域は「如来蔵」(如来の宝庫)としてのポジティヴな面と、BのAの分裂的汚染態としてのネガティヴな面の両方があるということになる。

 ここまで辿ってきた構造的分析がつぎに向かうところは、「真如」の形而上学に基く個別実存の内的メカニズムの探究であると井筒氏はいう。それは最終章である第三部で展開することになる。私はここまで読み解いてきて絶えず念頭にあったことは、構造分析でそのプロセスは解明されてはきたが、これらのシステムはオートマティックに発生展開するものではないのではないか。そこに一個の主体の存在があって初めて成立するのであろうということである。次の章では個別実存の内的メカニズムが解明されるという。その言葉が意味するように、メカニズムであって、一人の主体の必然ではない。おそらくそれが解明されるのはエクリチュール(文学)の場になるだろう。哲学と文学の関係がどのようなものになるのか私は知らないが、哲学的思惟が文学(詩)を鼓舞し、多くのものを示唆するに違いない。哲学とスピリチュアリテ(霊性)という観点からフーコーも井筒氏も哲学の概念を大きく変えたと私は思う。さらに詩作をよりアクティヴに、あるいはダイレクトに生きることの改革と把握する詩人は、自らの生を代価に詩を実践の場としてとらえるであろう。そのような詩人が出現するならば、詩作はその実践として哲学を牽引していくことになるであろう。

 

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井筒俊彦『意識の形而上学』を読む。小林稔・連載第六回「空」と「不空」について。

2013年11月20日 | 井筒俊彦研究

連載第六回

井筒俊彦『意識の形而上学』を読む

小林稔

 

「空」と「不空」について

 

 真如とは、あらゆる存在の真の姿、心のあるがままの真実のすがたと『大乗起信論』に記されている。(筑摩書房「世界古典全集第七巻」からの引用)これは古代ギリシアから現代に至る哲学の本質である。私たち日本人は哲学というと、何か現実と離れた別の世界を思考する隠者の学問と考えがちであるが、哲学をする者も読む者も、そのような偏見を破棄しなければならないと私は思う。井筒氏の導きの後で『起信論』を改めて紐どくと、より近寄りやすく感じられてくる。私は『意識の形而上学』の中盤まで読みかつ書き留めてきたが、「空」と「不空」をまとめるにあたって、冒頭から『大乗起信論』を読み直してみようと思った。『意識と本質』においてもそうであったが、私は詩学との接点を探っているのである。というより読み進めればポエジーの聯想は止めどなく浮上してしまうのを抑えることができない。しかしここでは極力抑制して仏教哲学を読み解き、それを終えた時に詩学を確立してみよう。

『起信論』の序文では、「仏と法と僧との三宝に帰命する」とある。「法は真実のままに仏道を修業しつつある人たちである」。「すべてのひとびとが、仏に対する疑いの念を晴らし、邪な考え方を捨て去って、「大乗」に対して正しい信念を起こすように」願うからであると書かれている。大乗とは「ひとびとを悟りの世界に導く大いなる乗りもの」と書かれている。いわば超大型のジェット機のようなものであり、人類を悟りの世界に連れていくものだと述べているのだ。実際には「仏自らの体」である法をこの経典は伝えようとしているのである。第二章で、二種類の観点を明らかにする。つまり「大乗の実体とは何か」と、「いかなる義理によって大乗と名づけられるのか」である。

最初の観点。「大乗の実体」とは「一切の衆生が内にそなえている心」だという。この「衆生心」とは一般大衆のこころ(「意識」)であろう。「衆生心」には世間の法、つまり迷いと出世間の法、つまり悟りが内包されている。「衆生心」の真のすがたには前回述べた三大、「現実のさまざまに展開しつつあるすがたは」、大乗自体(体)と属性(相)とその働き(用)を示すものであるという。

二番目の観点。「衆生心」はなぜ大乗と呼ばれるのか。その理由の一つは、衆生心それ自体は「あらゆる存在の真なるすがた(真如)であり、それは悟りに到達せる仏の位にあっても、あるいは迷いの生存にあっても、つねに平等であり、悟りによって増加することもなければ、迷いによって減少することもないからである。」第二の理由は、「衆生心は本来、すでに悟りに到達せる覚者と全く同等のすぐれたる性質・功徳を具有しているからである。」第三の理由は、「衆生心の働きは、よく一切の世間と出世間とにおける善の原因と結果(因果)とを生ぜしめるからである。」と『起信論』の第二章には述べられている。そして過去の仏たちはこの大乗の教えによって悟りに達したのだという。

ここで解読する限り、衆生心とは「一切衆生包摂的心」であり、プロティノスのいう全宇宙的覚知体、「ヌース」に本質的に照応すると井筒氏は解釈する。しかし衆生心にはもう一つの意味がある。「普通の我々平凡人の日常的意識」でもあり、この両方の意味が一体化していると井筒氏は指摘する。衆生心がこのように自己矛盾的双面性を示したように、絶対無分節・絶対未現象態(A領域)における存在も自己矛盾的双面性があり、「如実空」(空そのもの)と「如実不空」(不空そのもの)という言葉で『起信論』は説明している。「心真如」(A領域)から「心生滅」(B領域)の存在論的価値づけを進めてきたが、それを逆転させBからAに関連して、「心真如」それ自体の本来的あり方を考察しようとすれば、「意識の形而上学の窮極処に踏み込む」ことになり、「アラヤ識」を避けて通ることはできないと井筒氏は考える。その序奏として「空」「不空」の概念把握をしているように思われる。

意識と存在のゼロ・ポイントの「心真如」(A領域)は「一切の意味分節を超絶して一点の妄染すらない」、これこそ「空」というと井筒氏は説明する。

 

真如が<空>であるといわれるのは、真如が本来、一切の汚れと渉りあうことがないからである。真如は、一切の諸法を差別的認識によって把らえようとする立場からはとうていその真相に触れることのできないものであり、そこには虚妄の心念がないからである。真如の本性は、有でもなく、無でもなく、有にあらざるものでもなく、無にあらざるものでもなく、有にしてかつ無にあらざるものでもない。また一でもなく、異でもなく、一にあらざるものでもなく、異にあらざるものでもなく、一にしてかつ異なるものでもない。すなわち、われわれの思考形式におけるあらゆる手段をつくしてこれに近づこうとするも、かかる妄念にもとづいた差別的認識(「分別」)の尺度のよっては、その真相に触れることはできない。このような差別的認識を超越した真如のあり方を<空>と言う。したがって、もし妄心を離脱するならば、真如そのものには、実に否定さるべき何ものも存しないのである。

                  『大乗起信論』第三章第一節の一より

 

 人間には誰でも妄心なるものがあり、時々刻々、存在を「分別」(=意味分節)し、限りない現象的「有」を生み出して止まない。それらの事物はどれも「真如」とはピタリ合うものはない。だから「真如」の自性を歪曲して提示する意味分節の単位を一挙に払拭するために、どうしても「空」という概念を立てることが必要であると『起信論』は述べていると井筒氏はいう。「空ずべき空もなし」、そのことがまさしく「空」なのである。「なんという興味深いレトリックだろう!」と井筒氏は感嘆し、中国の荘子の「無無無」という「無」すら無化しようとした表現を思い起こしている。

「形而上学的なるもの」の窮極処を「空」や「無」で現象的「有」の実在性を絶対的に否定する表現で把握するのは、東洋哲学一般に通ずる特徴的アプローチであると井筒氏はいう。『起信論』では、それで終わらずに「不空」という概念を立てるのは、形而上学の最後の言葉ではなかったことを物語ると井筒氏は追記する。つまり、「心真如」を「空」とした観点から形而上学は方向を一変し、「心真如」の「有」的側面に向かい、一切の現象的存在者の絶対窮極的原因としての「心真如」が照射され、それに伴い、存在分節機能が発動すると井筒氏は説明する。ここでわれわれが目にするのは、以前の存在分節の世界であるが、この時点での現象界は「妄念」分節の所産ではない、全現象が「心真如」の自己分節、内的自己変様なのだと井筒氏はいう。表面的には何も変わっていないように見える。どのようにしてその差異を見極めるのかは、おそらく『意識の形而上学』第三部「実存意識機能の内的けカニズム」で説かれるであろう。しかしなぜ「心真如」がこのようなことが可能なのか。「すべて原因されたものは、自分の源泉としての原因の中に、始めから存在していたのだと『起信論』では述べられている。つまりプロティノスを引用して説明したように、現象的「有」は「心真如」の中に始めから不可視の存在可能態において、潜在的に、伏在していたと考えるからであると井筒氏はいう。元型的あるいは形相〈イデア〉的に潜在していたものが現勢化する、それが「心真如」の自己分節に他ならないと井筒氏解釈する。「心真如」は不生不滅の「真心」(しんじん)で虚妄性はまったくなく玲瓏たる諸相(=「浄法」)を無尽蔵にそなえている。その「浄法」が、「心真如」の自己分節という形で現象的存在者として顕現してくるという「心真如」のこの側面を「不空」と名づけるのだと井筒氏は指摘している。

「不空」と名づけられるべき「心真如」においては、井筒氏によれば「一切の現象的事物事象をあますことなく形相的存在可能性において包蔵している。あらゆるものがそこにあるイデア空間、言語アプリオリ的分節空間、全包摂的全一性において、一切が永遠不変、不動」」とも呼ぶべきものであるという。

『大乗起信論』のテクストでは、第三章「詳細なる説明」のうちの第一節「大乗に関する正義を明らかにする」の、さらにその一、「心のあるがままの真実のすがたにおいて把える立場」において、真如を「空」の方向から考察する立場(「如実空」)と、真如を「不空」の方向から考察する立場(「如実不空」)から真如を説明してきたのである。次の二、「心が現実にさまざまに展開しつつある世界において把える立場」と書かれていて、1から5まであり、その1、「心の生滅――現実における生滅心Ⓜ構造を心の本性の上に位置づけるための論述」と記され最初の項目が、《アーラヤ識の定義》となる。井筒氏の『意識の形而上学』第二部の最終章Ⅻは「アラヤ識」(p91)から、この(『意識の形而上学』を読む)連載第七回で突きつめてみよう。

 

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