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ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

井筒俊彦『意識と本質』解読第十八回・「本質」肯定論第三型・小林稔

2013年08月13日 | 井筒俊彦研究

「本質」肯定論第三型・井筒俊彦『意識と本質』解読・連載第十八回(最終回)

小林稔

 「本質肯定論」を井筒氏は三つの型に分けて述べる。

 第一型

  普遍的「本質」(マヒーヤ)は実在するという立場。東洋哲学では宋学の「格物窮理」がこの領域に入る。すでにこの連載で紹介した。(第八回参照)

 第二型

  シャーマニズムや神秘主義の根源的イマージュの世界。象徴性を帯びたアーキタイプ(元型)として現れる。イブン・アラビーの「有無中道の実在」(第五回参照)や、スフラワルディ―の「光の天使」、密教のマンダラ(空海の真言)、ユダヤ教神秘主義カッバーラーの「セフィーロ―ト」(前回に紹介した)。

 第三型

  第一型、第二型が深層意識領域内で生起するのに対して、第三型は意識の深層だけでなく表層で、理知的に認知するところに成立する。構造を分析し、表層意識的に「本質」の実在を確認する。古代中国の儒学、とくに孔子の正名論、古代インドのニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派特有の存在範疇論などがある。

 この「意識と本質」解読では、第二型まで読み終えたことになる。

今回から、第三型を読み解いていこう。

 

p.293 ~317

 

 「本質」肯定論の第三型は、普遍的「本質」を深層意識ではなく、外的に客観的に実在すると信じる人の立場であると井筒氏はいう。われわれが目にする花々の背後に、唯一の普遍的な花自体なるものがあると考える。それは抽象的な概念としてではなく、感覚的事物の背後に普遍的「本質」があるという考えである。井筒は、この領域の第一人者としてプラトンを挙げる。「イデア」とは実在する普遍的「本質」であるという。実在する普遍者、経験的世界の事物を内在的に、あるいは超在的に、規定する普遍的「本質」がイデアであり、絶えず定義によって普遍者を言語的かつ理性的に定着しようとすると井筒氏はいう。アリストテレスが『形而上学』で述べるように、ソクラテスの関心の領域は倫理、道徳に関する事柄であり、自然的世界には関心を示さなかったが、定義の探求は本質の探究であり、感覚的事物の非感覚的本質を求めて止まぬ執拗な情熱の人であったと井筒氏はいう。すべての個物に共通のイデアがあるとするなら、イデアは倫理的事態、道徳的価値だけでなくあらゆるものにイデアを認めなければならない。プラトンのイデア論は普遍的「本質」実在論にまで発展したと井筒氏は主張する。

 東洋哲学を顧みると、まず孔子の正名論が浮かび上がるという。井筒氏の説明を追ってみよう。プラトン哲学とは思惟方法が著しく違うにもかかわらず、永遠不易の普遍的「本質」の実在性を信じ、それによって紛乱する感覚的事物の世界を構造化し秩序づけようとする根本的態度においては、イデア論と正名論とは一であると井筒氏は主張する。

諸子百家時代と呼ばれる古代中国の時代には、「名実論」が発達していた。「名」は言語、「実」は語の指示対象である実在する事物をいう。すべての語は一定の指示対象があり、この「名」と「実」の関係を、つまりどのように両者が本来結びつくのか、あるいは結びつくべきなのかを考えるのが、「名実論」の中心である。孔子は「正名論」として「名実論」の根本問題を提起したと井筒氏はいう。

「名を正す」とは「名」お「実」に合わせて「名」を使うような社会状況を作り出すことであるが、孔子にとって「実」とは個体としての物ではなく。物の「本質」を意味する。すべての事物に普遍的で永遠不易の「本質」がある。「名」は「実」に対して志向的に制定されたものであるから、本来は一対一の関係があるのだが、人間生活の現実においては「ずれ」が生じる。つまり「名」と「実」の不整合は孔子にとって社会秩序の混乱を意味していた。孔子の眼には「本質」喪失の時代が映し出され、そのような時代の潮流を防ぎとめるには「名」と「実」の間に齟齬のない状態に引き戻すしかない、「必ずや名を正さんか」という、「正名」の意味論的理念が生まれたと井筒氏はいう。例えば、「王」という語は王という「本質」を具現している個物にのみ適用されなければならない。王の「本質」を体現していない人を「王」と呼ぶとき、「名」と「実」の関係が乱れる。ということは「王」と呼ばれる人物は、王なるものの「本質」を自覚し、「本質」の体現者として存在し行動しなければならないということを意味する。孔子は社会生活だけでなく、家庭内においても、個人の内面においても「名」と「実」の不一致をいたるところで目撃する。

孔子の「正名論」は、若い時代のプラトンの「イデア論」と同様に主たる関心は倫理的価値である、つまり人間の倫理的、道徳的属性の「本質」のみを孔子は第一義的問題としたと井筒氏はいう。中期以後のプラトンのようにあらゆるものに「本質」、イデアを見ようとしたプラトンとは関心のあり方が異なっていた。しかし孔子以後の名実的思想の発展において倫理的価値だけでなく永遠不変の「本質」を認める普遍的「本質」実在論に展開していったと井筒氏はいう。

 荘子は孔子の「正名論」を否定した。老子を含め荘老の反「本質」主義は、禅の無「本質」的存在分節と同じ型に属するが、荘老の「本質」否定は意識的に衝突する点で、逆に正論を裏側から補説するものになっていると井筒氏は指摘している。

 それでは、荘子と孔子の「正名論」との差異はどのようなものであったのか見てみよう。

 不変不動の「本質」を倫理主義的階級組織に組み立てることによって、存在世界を一つの永遠的価値体系に作り上げてしまった孔子の世界像の前で、荘子は不自由な世界と嘆いた。そもそも、ものの「名」は社会的慣習に過ぎないのではないか、たまたま、の「名」で呼ばれているのであって、それでものが「本質」的に固定されてしまうような世界に自由はない。世界をそのようにみることは歪曲以外の何ものでもない。存在の真相はカオスだと荘子は主張すると井筒氏はいう。外側は分割されているがほんとうは一枚岩のようなもので、表の複雑な区劃はすべて見せかけのものである。その見せかけの区劃の線をコトバが引く。それを人はものと呼んでいる。その後の意味が、ものの「本質」と間違えられる。コトバの意味の指示する「本質」もまた恒常的で固定されたものができ上るが、荘子は、言葉に恒常性はないという。

 「夫れ、道は未だ始めより封(ほう)あらず。言は未だ始めより常あらず」

                          (「斉物論」第二)

(存在真相には境界線などまったくないし、言葉には、元来、意味の恒常性など全然ない)

 言語的意味によって「渾敦」(こんとん)の表面に引かれた意味の区劃線を存在的区劃線と思い込み、恒常的な「本質」によって固定されたものの実在をそこに幻想する。ほんとうはすべて「存在の夢」なのだ荘子はいうと井筒氏は説明する。「存在の夢」でしかない事物に、正邪、善悪、美醜、などの区別を孔子のように設ければ、「本質」的に正しいと思い込んでしまうことになる。荘子の言わんとすることは、何もなかった地上に、人々がそこをよく歩くことによって、自ずと道ができ上がるようなものだということ。つまりすべては相対的なものにすぎず、そういう世界に人間は住んでいるということ。井筒氏によると孔子と荘子の違いは、思想展開の原点がそれぞれ別の意識層にあることからくるものだという。表層意識と深層意識の対峙、日常的、経験的意識の存在観と深層意識体験の存在観の対峙であるという。

 荘子の「混敦」は、存在が一切の「本質」的区別を失って無差別性を露呈する、つまり観照するということであると井筒氏は説明する。禅の無意識の成立過程を述べたとき井筒氏は三角形を使った。三角形の頂点に位置する、すべてが無のうちに消滅する、存在の無「本質」的分節の境位であると井筒氏はいう。したがって孔子の正名論は三角形の底辺部で成立する立場であり、それらのものの内部に「本質」を見る。つまり「コトバの志向性の方向の先端に、実在する永遠不易の普遍的本質を認める」ことになるという。孔子の場合には倫理的見地から独特な価値観と絡み合うゆえに、一般の「本質」の実在性の主張とは違うと井筒氏はいう。

孔子の正名論をもっと純粋に普遍的「本質」の実在論を主張するものに、インド思想のヴァイシェーシカ派ならびにそれの姉妹学派ニヤーヤの諸説があるという。それらは外的世界に内在する事物を、我々の感覚器官は、直接、無媒介的に認識する。ヴァイシェーシカにとって普遍者も外的に実在するものであって、人は個別者に内在する普遍者を、個別者とともに知覚するという。

 常識的な考えでは、外的にあるさまざまな花、それぞれが独自である点では同じである。この表層意識的認識体験から、花という抽象的概念(概念的普遍者)を取り出す。

ヴァイシェーシカでは、「不定知覚」という、花として認識する前の段階を想定する。花を見ているが花として見ていない。それが現存しているだけである。この段階ではこれとあれの区別はなされている。しかし、花としてのこれが、蝶としてのあれと区別されていない。「花」というコトバが意識に浮かんでいないのだという。不定的,無限的にが現れているだけであり「本質」規定を受けていないと考える。

認識の第一段階は、との言語以前の身体的接触であった、次の段階から反省すれば。

第二段階で初めて言語的認識となる。「花」というコトバが意識に浮かび、それが意識に浮かび、それがと結びつきは花であるものとして現れる。つまりは「本質」限定を受ける。そのように受け止めたは主観的体験として個物であるが、構造的には、普遍性にからみ付かれた個物、普遍者の内在する個体である。「ニヤーヤ・スートラ」では、語の意味対象とは、個体と形象と普遍者の三側面を一つにしたものである。個体としての花の認識は、それに内在する普遍者「花」を通じてのみ可能なのであると井筒氏は説明する。しかも井筒氏が注意を促すのは、ヴァイシューシカの認識論では、第一段階の「不定知覚」も第二段階の「限定知覚」も表層意識の領域で起こる事態であるということである。

 先に挙げた第一段階において「次の段階から反省すれば」という説明から、経験的「有」の未定態からの飛躍は何よって行われるのか興味あるところである。私には詩人の経験と類似したものがあるように思われる。その「限定知覚」の段階で現れる「本質」が表層意識内で意識され、外界に実在するものとして見られるところも詩人の経験と共通したところが感じられる。井筒氏は「本質」肯定論第一型と区別しているが、プラトンのイデア論も第三型としている。イデア論を形而上的に見るのではなく、あくまで外的な実在者と見る。しかしイデアを知るには現実において表層意識であれ深層意識であれ体験的プロセスが必要とされる。井筒氏が述べたリルケ体験、つまり「意識のピラミッド」の深部に存在者の深部を探ろうとすることとはいかなる違いがあるのだろうか。「深層体験を表層言語でしか解消されない」としても。かつて井筒氏は初期の論文『神秘哲学』でプラトンについて熱い言葉で述べた。イデアへの向上道と下降道があることを説いた。イデアとは感覚的世界のこの世から遠い永遠的世界に成立するものであり、そこにたどり着いたものはそこから感覚的世界に降り立つことで完成する。我々の見る事物はイデアの仮象と捉えるが、イデアにたどり着くにはこの世界での経験なくしてありえないだろう。

 孔子の正名論もプラトンのイデア論も、またヴァイシェーシカの認識論も井筒氏は第三型に入れている。それらは深層意識的「本質」を求めず、外界に実在する普遍者を想定するからである。外界に客観的に実在するという考えは、概念的普遍者に変成していく可能性を内蔵していると井筒氏はいう。そして表層的に働く思惟は、存在論と概念論を混同しがちであると井筒氏はいう。井筒氏の遺書となった『意識の形而上学』のあとがきで、井筒氏の今後の研究テーマを示すメモが掲載されている。そこではプラトン哲学についてさらに発展される意向が垣間見られるが、『意識と本質』を書きあげた時点では、東洋哲学における、認識と意識と存在のからみあいは複雑で多層的であり、構造を追求すればどうしても「本質」の実在性の問題に逢着するので、自然に概念論に転換するであろうと井筒氏は述べている。それは「概念構造理論」として新たな一章を必要とするであろうとも。

 十八回にわたって井筒俊彦『意識と本質』解読を掲載してきましたが、次回から新しく『意識の形而上学』解読をしていきます。

 

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連載エセー⑰存在の深層意識的言語哲学理論その二、井筒俊彦『意識と本質』解読。小林稔

2013年02月23日 | 井筒俊彦研究

 

連載/第十七回

 

「時間を超えたところから時間の流れに沿って起こってくる不断の世界創造。」

 

深層意識的言語哲学理論その2

小林稔

 

 「元型」イマージュの「想像的」エネルギーが表層意識にたどり着いたとき、象徴機能が働くが経験的現実全体をそっくりそのまま象徴化するものではないという井筒氏の指摘を前回において述べたが、一方、M領域(中間地帯)では全存在世界が一つの象徴体系を具現化する。経験的世界では有「本質」的分節によって認識しかかわりあう無数の事物かなるが、存在分節の根はもっと深く、意識の深いところで起こっていて、表層意識で見る事物の分節は、深層での第一次的分節の結果の第二次的展開に過ぎないと井筒氏はいう。

 空海は、そうした存在分節の過程を逆に辿っていき、意識の本源にたどり着いたところを、彼の著作『十住心論』では「自心の源底」(法身)と呼び、大日如来として形象化する。したがって、空海にとっては、存在界の一切が究極的、根源的には大日如来のコトバであると井筒氏は説明する。

 

「名の根本は法身を根源となす。彼より流出して、しばらく転じて世流布の言となるのみ」                                                                       空海『声字実相義』

 

 井筒氏のよると、大日如来のコトバとして展開する存在リアリィテーは、絶対的究極の一点において「空」であり、龍樹以来の大乗仏教に属するが、他の諸派に対して、空海の「空」は「肯定的側面」を強調するものである。大乗仏教の「空」、すなわち「絶対無分節者」は、形而上学的「無」の側面と、現象学的「有」に向かう側面に分かれる。空海にとっては、「法身」すなわち「無」は「有」の充実の極であり、「有」のエネルギーは外に発出しようとするという。その生起の始点において、「法身」は根源的コトバであり、絶対無分節のコトバであって、あらゆる存在者の意味の意味、全存在の「深秘の意味」であり、無数の意味に分かれ深層意識内に顕現するが、その一時的意味分節の場が言語アラヤ識で一度分節されると、「想像的」形象として顕現する場が意識のM領域であると井筒氏はいう。「深秘の意味」が言語アラヤ識に直結する最初の一点、コトバの起動の一点を真言密教では、絶対無分節者が分節に向かって動き出し第一歩、「ア」音として捉える。「阿字真言」「阿字本生」であると井筒氏は説明する。「ア」音は大日如来の口から最初に出る声である。その声とともに意識が生まれ、全存在界が現出するという。

 

「凡そ最初口を開く音に、みな阿の字あり。もし阿の音を離るれば、すなわち一切の言説なし。故に衆声(しゅうしょう)の母となす。凡そ三界の語音は、みな名に依り,名は字に依る。故に悉曇(しったん)のア阿字を衆字となす。まさに知るべし、阿字門真実の義も亦是(かく)の如く、一切の法義の中に偏ぜり」 空海『大日経疏』

 

 このような深層意識的言語哲学というものは普遍的現象は、ユダヤ教神秘主義やカッバーラ(十二世末頃からヨーロッパに起こったユダヤ教神秘主義)の言語哲学と根本的ヴィジョンは同じであると井筒氏はいう。「コト」は言であり事であるという、つまりコトバと事物を同一視するのは日本語だけでなく、ヘブライ語も同様である。それらは存在世界の「深秘」構造を考える。表層意識の経験的世界を存在世界とは見ずに深層意識の見る深秘の世界としての存在世界を、神のコトバの世界、神的言語の自己展開とする。コトバこそ神をして創造主たらしめる秘密の存在エネルギーと考えると井筒氏は説明する。カバリストの思想は、基本テキスト『ゾーハルの書』では、神の絶対的創造性が「無」の深淵から働き出してくる神のコトバのエネルギーとして捉えられているが、それは神のコトバの源泉である「無」が神自身の中にあることを示唆していると井筒氏はいう。「無」を神の外に置くか、神の内に置くかは大問題を引き起こした。カッバーラーでは、神の内的構造それ自体の中に「無」の深淵を見て、その「無」が「有」に転換する。その転換点がコトバであるとするという。語の構成要素として子音や子音の組み合わせに存在分節的機能を認める。子音だけを語の第一次的形成素(語根)とするのは、セム系言語一般の通則であり、これを神の世界創造、あるいは神の自己顕現の通路と考え、そのうえに象徴的言語理論を立てるのはカッバーラーの特徴であると井筒氏は指摘する。

 

「太始(はじめ)に言(ことば)あり、言は神とともにあり、言は神なりき。」 『ヨハネ福音書』

 カバリストにとって一切万物の始源にコトバがあったのであり、コトバは神であったという文字通りの意味であるが、「はじめに」というコトバは時間的始まりを意味しないと井筒氏はいう。我々にとっては「時間」であるが、カバリストにとっては、どの一点を取っても「はじまり」であり、神の創造の業は、時々刻々に新しく、しかも同一の過程を通って我々自身の内部に実現しているという。「時間を超えたところから時間の流れの中に向かって起こってくるこの不断の世界創造の過程を、神的コトバの自己展開とする」カッバーラーの存在論と、真言密教のそれは、コトバが根源的に存在分節の動力であるという点で、共通する特徴があると井筒氏は主張する。

 

 井筒氏の説明によれば、カッバーラーにおいては、「アーレフ」の一文字が自己展開して他の二十一個の「文字」になり、相互に組み合わされて無限数の語を作り出すという。空海の阿字真言は、「ア」は一個の母音であるが、「アーレフ」は「ア」という母音そのものの発音を起こす開始の子音であるという。「アーレフ」から語にいたるコトバの自己展開の全過程が神自身の自己展開であり、神の内部の深みで起こる事柄である。この神の内部で形成される「文字」結合体の意味を、カバリストは意識のM地帯に立ち現われる「想像的」イマージュとしての追体験、あるいは同時体験していくだけであるという。コトバの自己展開の過程の初段階で経験的世界成立以前に神の名の世界が現成する。それは存在「元型」ばかりからなる独自の超現実的世界であり、それらの「元型」を「セフィーロート」と呼ぶという。「セフィロート」とは経験的現実の世界の中で出合うすべての事物の永遠不易の「元型」であるという。

 

 ラビ的ユダヤ教とカッバーラー

 井筒氏によると、ラビたちの思想は『旧約』時代以後の主流であった。神を絶対的超越性に追い手順化しようとした。つまり、地上的、人間的匂いのつきまとう一切の神話的表象を神から取り除こうと、律法から神話的形象、象徴的イマージュを一掃することに努力したが、それに反抗するようにして、十二世紀後半、フランスのラングドック地方のユダヤ人の間に起こり、十三世紀には南フランス、スペインを中心として精神主義的一大運動を形成し、今日に至ったという。カバリストたちはラビたちの合理主義に反抗し、シンボルの氾濫のうちに神の実在性を読み取ろうとした。シンボルとはカバリストたちのとって「神の内面が外面に現われるに際して取る根源的イマージュ形態であるという。

 神は絶対無限定的な存在エネルギーで、内から外に発出されるいくつかの発出点があり、その充溢は発出点において無限定のエネルギーが限定される。それがカバリストの見る「元型」であると井筒氏は説明する。「元型」は様々なイマージュを生み出す。その神の内的構造を原初的に規定するそれらの「元型」が彼らのいう「セフィロート」であると井筒氏は解く。無限定のエネルギーが限定される「元型」の数は誰にもわからないが、便宜上、十個に限定した「セフィロート」こそが、相互聯関形態を取って神的生命の自己表現の形を提示するという。言語的には、「セフィロート」は「セフィー」の複数形で「数」を意味し、「セフィロート」は、ユダヤ神秘主義の基本文献第一の「宇宙形成論」(西暦三世紀、作者不明)で、存在形成的能力を内蔵する神秘的数を意味したと井筒氏はいう。十二世紀に「清明の書」で完全にカッバーラー化され、神的「元型」という意味での「セフィロート」に展開されたと井筒氏は説明する。

 

 十の「セフィロート」の解説(P261)

第一は「ケテル」(王冠という意味)。存在流出の究極的始原。純粋「有」、絶対的「一」である。仏教でいえば「空」、すなわち「真空妙有」の「妙有」的側面にあたり、一切の「多」を無分節的に内蔵する。

第二は「ホクマー」すなわち「叡智」。仏教の「般若」に相当する。カッバラーではこれを神の自意識とする。際限のない空間に独り燦爛と輝く巨大な太陽。太陽からの光線が結晶して経験的事物の「元型」になる。矛盾し相容れないものも、この「元型」の中では一となる。神は一者として自らを覚知する。

第三はビーナー。神が自らを映して内面をあるがままに観想する。神は自らのうちに多者を見る。最初の存在分節が起こる。神的実在の一者性それ自体の中に起こる事態で、神の内面事態としては多者も一である。ここで成立する存在論敵様態は、密教の次元では「種子」である。「ホクマー」が父であるのに対して、「ビーナー」は母である。神の内面の女性的要素とする。

第四は「ヘセド」つまり「慈愛」である。「ビーナー」を母とする最初の子供。神の創造性の肯定的側面。律法の領域では「…せよ」という命令になる。人間の性質では、善。物質界の元素では水。理想的人間像ではアブラハムにあたる。

第五は「ゲヴ-ラー」すなわち「厳正」。神の存在賦与には厳正な制限が課せられるので、存在エネルギーの抑止力として現われる。律法的には「…するなかれ」という否定命令。人間の性質に現われては,悪。物質元素の中では火のイマージュ。イサクが元型を具現。

第六は「ティフエレト」すなわち「美」。一切の事物は「元型」的存在の次元において融合と調和をする。禅の無「本質」的分節の事態とよく似ている。すべての「セフィロート」のエネルギーがここに集まる。「神の心臓」。

第七は「ネーツァハ」すなわち「把持」。永遠不断の持続性。存在流出の連続性。「ティフエレト」に流入して融和しあった「元型」エネルギーの充溢が「ネーツァハ」という新しい「元型」となって現われてくる。

第八は「ホード」すなわち「栄光」。神に源を発する存在エネルギーは「ホード」のこの屈折力を通ってはじめて一切万物を「元型」的に分節する。

第九は「イェソード」すなわち「根其」。「ティフエレト」から発出して二分し、存在流出の男性的側面を具現する「ネーツァハ」と、女性的側面を具現する「ホード」が再び結合し生起する新しい「元型」。性質は徹底的に男性的で、形象的には男根。宇宙に遍満するダイナミックな生殖力。

第十は「マルクート」すなわち「王国」。神の支配する王国。最下に位置する。すべての「セフィラート」のエネルギーが一つになってここに流れ込む。この下には被造界が展開する。神の国に上る登り口、または神の家の敷居。神の内の女性的原理とされる。神自身の内面に働く根源的な女性的な要素。そのヴィジョンは、神が神自身の内面で、神自身と結婚するという「聖なる結婚」というヴィジョンに展開する。この点でヒンドゥー教の性力派タントラ、シヴァ紳のタントラ、道教の性愛的側面に著しく接近する。神の中で神と結婚する女性はユダヤ人の霊性的共同体としてのイスラエルに変貌して現われる。

 これら十個の「元型」が相互に聯関して作り出す全体システム(有機的体系)によって明らかにされる。

 

 次回、連載第十八回につづく。

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連載エセー⑯存在の深層意識的言語哲学理論その一、井筒俊彦『意識と本質』解読。小林稔

2013年01月11日 | 井筒俊彦研究

連載/第十六回

存在の深層意識的言語哲学理論その1

小林稔

 

 前回(連載第十五回)では、井筒氏の考案した深層意識領域の構造モデルを辿ってみたが、ここで復習しさらに井筒氏の説明を読み進めてみよう。

 深層意識領域全体を円柱とその底に逆さにつけた円錐で表す。円錐の頂点は意識のゼロポイントである。逆さになった円錐の底面と接するその上にある円柱の一番下の層が、言語アラヤ識の領域である。仏教の唯識哲学から井筒氏が借用して説明する領域である。意味的「種子」(ビージャ)が「それ特有の潜勢性において隠在する場所」でありユングのいう集団的無意識あるいは文化的無意識の領域に該当し「元型」成立の場所であると井筒氏は解釈する。この言語アラヤ識の層の上に「想像的イマージュの場所」がある。その上が表層意識の領域であるから、言語アラヤ識領域と表層意識の領域の間にあることから、井筒氏は中間的意識空間をM領域、あるいはM地帯と呼んでいる。

 言語アラヤ識領域の元型がM地帯において、根源的形象、すなわち「元型」イマージュとなり表層意識領域(経験的世界)に出てシンボルとなる。M地帯は強烈なエネルギーが充満する内部空間であり、「創造的」エネルギーを保持したまま、シンボルは経験的世界にやってくる。このエネルギーの照射を受けると、平凡な日常的事物がたちまち象徴性を帯びて、今まで見た物質的事物がただの物質的事物ではなくなってしまうと井筒氏はいう。しかし井筒氏は、このような「元型」イマージュの機能は二次的なものであり、言語アラヤ識の生み出すイマージュは経験界に実在する事物のイマージュが圧倒的に多いが、しかし本来、「元型」イマージュは外界に直接の対応物をもたない。つまり、表層意識に上がっていかない。たまたま表層意識に現われても幻想になってしまうという。

 このような「元型」イマージュが本来の場所であるM地帯で果す役割とはどのようなものであるのかを、Ⅹ(P220~)で井筒氏は考察している。今回はそこを読みとっていきたい。

 

深層意識的世界像 

「元型」のイマージュの「想像的」エネルギーが表層意識にまで昇っていくとき、表層意識の次元における事物が異様な光彩を帯びて象徴化されるが、世界の事物のすべてを、つまり経験的現実全体を象徴化するのではないことに井筒氏は注意を喚起する。部分的、局所的であり、存在世界をそっくり一つの象徴的体系に変貌させることはないという。しかしM領域においては一つの象徴体系をなしていて、現実の存在世界が見慣れぬ姿で現われるという。経験的世界と同じ事物があっても存在分節がまったく違うので、存在視覚をまったく異にし、性質も機能も違うのであり、それが深層意識的世界像といえるものである。

その存在分節の基礎単位が「元型」イマージュであると井筒氏はいう。表層意識と無意識の中間地帯である深層意識であるとともに、存在論敵には物質的、物理的リアリティーと純粋精神的リアリティーの中間に位置する第三のリアリティーであるという。言語アラヤ識にひそむ意味「種子」の潜在エネルギーの発動により、無分別の存在リアリティーが分節され事物や事象が現出する。そのようにして起こるイマージュのうち、即別性を持つものと非即物性を持つものに分かれ、前者は表層意識に出て、事物の有「本質」的認知に参与し、後者は経験的事実性に裏打ちされないイマージュでM領域に本来の場所を見出すことになると井筒氏は説明する。私たちは一般に目の前の事物をイマージュ抜きで見ていると考えるし、後者のイマージュが表層意識に現われたとき夢まぼろしとして処理してしまうが、M領域の存在構造を、マンダラのような深層意識的絵画を見ても表層意識的に見ているだけで深層意識的に感応することはないという。しかし深層意識的事態として受け止める人たちもいる。彼らは後者に比重を置いている。理論的展開をし言語哲学を生み出す可能性があると井筒氏はいう。それは普通の言語哲学ではなく、深層意識的言語哲学であるという。空海の阿字真言やイスラムの文字神秘主義などである。

 

「天使学」angelologie

 ヒルマン(アメリカのユング派心理学者)が「コトバのあたらしい天使学」という言葉を使って、深層意識的言語哲学を発展させた。コルバン(フランスのイラン学者)の影響のもとで叙述した。ヒルマンによると、コトバなるものには「天使的側面」があり、普通一般の意味の他に異次元的イマージュを喚起する意味がある。この異次元的可能性を語の「天使の側面」と名づけた。そこに焦点を合わせ言語哲学を展開させた思想家が東洋にもいると井筒氏はいう。シャマニズムが一つの例であるが、広く、呪文、祈祷、ダーラニー、マントラのかたちで発音された言葉に、霊力を想定するところはどこにでも言語呪術は生きているという。例えば、ユダヤ人が神の真の名「ヤハヴェ」を口にすることを避ける理由は、発音された言葉に促され言語アラヤ識から立ち昇る「想像的」イマージュが意識のM領域に立ち籠め、人を威圧するからであるという。このようなコトバの呪術的力を、深層意識を表層意識と混同し、M領域に出現する「想像的」イマージュを、ただちに外界の存在現象と同一視してしまうところに問題があると井筒氏は解く。しかし同一視してしまうことこそ、コトバの呪術的特徴なのである。理性的であろうとする近代人には言語呪術言語は未開人的現象としか映らない。東洋思想の伝統のなかでそれを「元型」的「本質」観想に基く言語哲学にまで発展させた思想家たちには、上記の二つの存在次元の混同はないと井筒氏はいう。つまり、言語呪術とは、一次的には、深層言語空間への「想像的」イマージュ、つまり「元型」イマージュの喚び出しであり、第二次的には、表層意識の認識機能に作用し、表層意識の世界像を「元型」イマージュ的に変貌させる可能性があるということに過ぎないと井筒氏はいう。

 ユダヤ神秘主義カッバーラーの「セフィロート」と呼ばれるものは、根源的イマージュの構造体系をあくまで神の内部における存在構造の形象化であって、経験的世界の存在構造と考えているわけではなく、経験的世界とのつながりは、経験的事物の「元型」的「本質」を形象的に呈示することにあると井筒氏はいう。つまり「セフィロート」は象徴的に呈示することである。「有無中道の実在」を説くイブン・アラビーの、それを神の自意識の内部分節とする立場も同様であるという。空海は、コトバの深層意識的機能を、呪術的側面と存在論的側面を同時に注目し、ついに「真言」の哲学に至り深層意識的言語哲学を確立したのであり、彼らは大筋においては同じであると井筒氏は捉えている。

 井筒氏は「セフィロート」やマンダラの「元型」イマージュ的構成を語る前に、P220から、イマージュの生起自体をめぐる深層意識的言語理論をさらに詳しく語ることになる。

 

 次回、第十七回では本書のやま場を迎える。つづく。

 

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連載エセー⑮『意識と本質』解読。「元型」イマージュを生む言語アラヤ識と中間地帯(M)

2012年12月07日 | 井筒俊彦研究

連載/第十五回

「元型」イマージュを生む言語アラヤ識領域と中間地帯(M)

 小林 稔

 

  シャマンの超現実的ヴィジョンに哲学的意義を認め、シャマン的神話を変成させ、そこに存在論的、形而上学的思想を織り込んでいくためには、第三段階のシャマン意識をさらに越えた哲学的知性の第二次的操作が要る。古代中国の思想界では、荘子の哲学が、シャマニズムの地盤から出発し、シャマニズムを越えた人の思想だ、と井筒氏はいう。(P199)

  「想像的」イマージュは、深層意識的イマージュであり、「本質」論のつながりでは、事物の「元型」(アーキタイプ)を形象的に提示するところに成立し、つまり、「元型」の形象化を通して事物の本質を露呈させることなのだと井筒氏は指摘する。

 今回は『意識と本質』のⅨ(P205)から読み解いていこう。

 「元型」とは人間の実存に深く喰い込んだ生々しい普遍者であると井筒氏はいう。フィリップ・ウィールライトは、ゲーテの「根源現象に結びつけ、真の詩的直観のみが、世界内の事物をそれらの「元型」において把握する、「具象的普遍者」と呼んだという。個々に事物を個々の事物としてではなく「元型」で把握する、つまり「元型」は「想像的イマージュ」として深層意識に自己を開示する「本質」であるということであると井筒氏は解く。カール・ユングは彼のいう「集団的無意識」が「元型」的に規定された構造を持つといっているといっているのだということを井筒氏は指摘し、「元型」とは、集団的無意識」または「文化的無意識」に深みにひそむ、一定の方向性をもった深層意識的潜在エネルギーであるという。

 「元型」イマージュは人間の存在経験の方向をあらかじめ規定するもの(原初的)であり、事物の「本質」であっても、どのようなイマージュとして現われるかは誰にもわからないものであり、このような「元型」イマージュ的「本質」とプラトンのイデア的「本質」とはまったく違うものであると井筒氏はいう。文化ごとに顕現形態が違うのはもちろんのこと、同一文化内でも複数のイマージュ群が生まれるが、それでも一つの「元型」方向性を感得できるし、「本質」を象徴的に提示すると井筒氏は解く。古代中国の「易」の全体構造は、転地の間に広がる存在世界の「元型」的真相を、象徴的に形象化して呈示する一つの巨大なイマージュ的記号体系であると井筒氏は読み解く。そして聖人の深層意識に映し出される存在世界は、一切事物と事態の「元型」的形象のマンダラとして現成するという。

 井筒氏は深層意識構造を説明している(P214)。最下の一点は意識のゼロポイントであり、その上の層が無意識。深層意識領域は全体が無意識層だが、意識化に向かう段階を考えて、この領域を無意識の領域とする。その上が意識化に次第に向かう胎動を見せる領域である。ここが言語アラヤ識の領域であると井筒氏はいう。意味的「種子」(ビージャ)が潜勢性において隠在する場所である。唯識哲学から井筒氏が借定したものである。ユングの、集団的無意識の領域であり「元型」成立の場所であるという。その上の領域に「想像的」イマージュが生起し、神話と詩の象徴化作用の機能を発揮する領域である。しかし、井筒氏によれば、この領域は象徴化だけでなく他の働きもあるという。チベット密教の専門家であるという、ラウフの分析では、深層意識のイマージュ現象を三つのプロセスで解いていると井筒氏はいう。①「元型」→②「根源形象」→③シンボルとする。

 無意識の領域に成立する「元型」は、無意識と経験的意識の中間地帯で「根源形象」、つまり、「想像的」あるいは「元型」的イマージュとなって形象化する領域であり、「元型」的イマージュが表層意識の領域に出て記号に結晶したものが「シンボル」である。つまり、「シンボル」は本来、強烈なエネルギーの充満する深層意識領内で生起するが、ここで「想像的」エネルギーを保持したまま、「シンボル」は経験的世界にやってくる。このエネルギーの照射を受けると、平凡に見えていた日常的事物がたちまち象徴性を帯びていく。花はもはやただの花ではない。井筒氏が語りたいのは、この「元型」イマージュの第二次的機能ではなく、「元型」イマージュのそれ自体の第一次的機能であるという。

  無意識の領域のすぐ上にあるのが言語アラヤ識の領域であることはすでに触れたが、そこではいろいろなイマージュを生み出しているが、その多くは経験界に実在する事物のイマージュであると井筒氏はいう。これら、外界に対応物を持つイマージュは、経験界の現実の事態に刺激を受けて発生し、そのまま表層意識に上昇し、そこで事物の知覚的認知を誘発する。しかし、「元型」イマージュは外界に直接の対応物を持たないと井筒氏はいう。例えば、神話の主人公の英雄のイマージュや、仏教のイマージュ空間に咲く花は現実の花に「似ている」が現実の花の直接のイマージュではない。したがって「元型」イマージュは表層意識まで到達しないで、言語アラヤ識と表層意識の中間地帯にとどまる。ここが「元型」イマージュの本来の場所であると井筒氏は説明する。禅においては、ここに現われる不思議なものは虚妄で根拠のないものとする。禅宗第五祖、弘忍(601-674)は坐禅する初心者に向かっていったという、坐禅していると瞑想状態にあるお前の目の前に、あるときは巨大な光が燦然と輝きながらお前の身体から発出し、あるときは仏陀が肉身の姿で現われる、また多くの不思議なものが猛烈なスピードで互いに変融し合う有様が見えるが、静かに心を保ち、決して注意を払ってはならない、それらはすべて虚妄で無根拠なのであり、お前自身の妄念の働きで見えるだけなのだからと。(『修心要論』)

 シャマニズムや密教では、このようなイマージュに意義を認めるという正反対の立場であると井筒氏はいう。それではそれらは、言語アラヤ識と表層意識の中間地帯、意識のM領域で果す役割とはどのようなものなのかを、井筒氏は次の章、(P220)で考察する。

 

 

次回、第十六回につづきます

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連載エセー⑭「意識と本質」(井筒俊彦)解読。シャマン的実存。「本質」実在論第二型について。

2012年11月27日 | 井筒俊彦研究

連載/十四回

シャマン的実存。「本質」実在論第二型について。

小林稔

 P180~

 

「本質」実在論第二型、元型的「本質」論について。

  人間の意識はイマージュ生産的であって、深層意識だけでなく表層意識においても今イマージュに満ちていると井筒氏はいう。深層意識では経験的世界の具体的な事実から遊離し働くという特性を示すが、表層意識では、経験的事実に密着した即物性を特徴とすると井筒氏は指摘する。井筒氏によると、表層意識というものは外界の事物の感覚的認知を第一次的な機能とするので、イマージュの大部分は実在する事物に裏打ちされているので、感性的イマージュの介在を意識することはないという。目の前に木があると木の意識が成立する。イマージュの参与に気づかないが、木の実在しない場所で意識に木が現象するとき、そこに働く木のイマージュに気づくことから、初めから木のイマージュは存在していたという。外的事物を認識し意識することが、根源的にはコトバ(内的言語)の意味分節作用にもとづくものであり、内的言語の意味「種子」の場所を、言語アラヤ識という名で深層意識に定位したのである。言語学でラングと呼ぶ言語学的記号の体系のそのまた底に、複雑な可能的意味聯鎖の深層意識的空間を措定することが正しければ、表層意識的に、目前に実在する一本の木を意識する場合にも、認識過程に言語アラヤ識から湧き上がってくるイマージュが作用しているといえようと井筒氏は説き、言葉の意味作用とイマージュは結びついている。語の意味作用とはイマージュの喚起作用に他ならないという。

 目前のⅩを見て木として意識することは、Xのあり方に促されて木という一つの意味「種子」が言語アヤヤ識内で発動することで始まる。つまり、この意味「種子」の現勢化がイマージュを生み出すのである。直接無媒介的に認識するわけではない。人間の意識は「想像的投企」(エドワード・ケイジー)に充たされるといえると井筒氏は指摘する。言語アラヤ識内で、一つの「種子」が自体的にどのように構成されているか、他の「種子」とどのような聯関に立っているかによって現出するイマージュも変わってくる。同じ日本語を話す日本人の言語アラヤ識から湧出する木のイマージュには共通形状があり、一定の型が認められ、その型が固定されるとき、木の「本質」が成立すると井筒氏はいう。

 井筒氏の「言語アラヤ識」の措定は井筒哲学の基軸の一つだと私は確信する。そして私が確立しようとする「詩学」に活用できる中心概念であろう。

 井筒氏の記述を改めて引用してみる。

 「何らかの刺激を受けて、アラヤ識的潜在性から目覚めた意味「種子」が、表層意識に向かって発動しだす時、必ずそれは一つ、あるいは一聯の、イマージュを喚起するもの」である。「個々の語(コトバ)の意味作用とイマージュとの間には、ほとんど宿命的な緊密な結びつきがある。」『意識と本質』(p184)

  「何らかの刺激を受けて」とはどういうことかを考えなければならない。私たちのすべての経験が言語アラヤ識の深層意識内に蓄積され、「ひそかに発動し」意味「種子」が現勢化を待っているのだ。それが何らかの合図を受け、イマージュを形成するとき、言語(ラング)の一定の型を伴って現勢化すると井筒氏はいう。

 

 井筒氏が「本質」実在論の第二型の存在の有「本質」的分節について、ここで述べようとしている。有「本質」的分節といえ、すべては深層意識的事態であるから、基礎になるイマージュの成立領域やイマージュの性質も様々であると井筒氏は強調する。

さらに読み進めよう。

 我々の日常的意識は、日常的に働いている限り、根源的イマージュ性は表面に現われない。鏡に写った事物をそのまま見ていることに気がつかない。「鏡を打ち破れ」という禅の言葉を実践するのは容易ではない。なぜなら表層意識内で作用するイマージュの即物性、事物密着性が強固であるからであると井筒氏はいう。 だが、日常的意識のなさかに、突然、現実的事物との結合を離れて、現実性から遊離したイマージュがどこからともなく現われ、意識一面を奇妙な色に染めてしまうことがあると井筒氏はいう。「何らかの刺激で」意識が興奮したり、弛緩したりしたときこのようなことが起こる。このようなイマージュには現実的な裏づけがないので、無想の状態に引き入れる。井筒氏によると、東洋思想の精神的伝統では、シャマニズムが代表的な例として、このようなイマージュが重要な役割を担わされてきた。表層意識の立場からは妄想や幻想と見られても、深層意識の領域では真の意味での現実であると井筒氏は指摘する。

 常識的人間の日常意識に事物性から遊離したイマージュが姿を現わすと、異常現象や病的現象になるが、シャマンやタントラの達人のように、深層意識の超現実的次元を方法的に拓いた人たちだけが、この種のイマージュを活用できる術を獲得しているのだと井筒氏はいう。表層意識から深層意識への推移を最も原初的、最も明瞭な形で示すのは、シャマニズムであると井筒氏は主張する。なぜならシャマニズムは日常的意識とシャマン的意識が截然と分離しているからであるという。

 ここから、井筒氏は古代中国のシャマニズム文学の最高峰である『楚辞』を考察することになる。ともに辿ってみよう。

 井筒氏は、『楚辞』に現われるシャマン的実存には自我意識の三つの層、あるいは次元を異にする三つの段階からなる意識構造体が考えられるという。

一、経験的自我を中心とする日常的意識。

二、「自己神化」の過程において次第に開かれていく脱現実的主体性の意識。

三、純然たるシャマン的イマージュ空間に遊ぶ主体性の意識。

 『楚辞』の主人公である屈原は並み優れた人物だが、一の段階では普通の意識を持つ普通の人である。しかし、非凡な資質をもつゆえに社会から疎外された人物であるという自覚がある。自らを悲劇的実在として意識する。

 

……(略)

 世を挙げて皆濁り

我独り清(す)めり

衆人皆酔い

我独り醒めたり

……(略)

漁父曰く

聖人は物に凝滞せずして

能く世に推移す

世人皆濁らば

なんぞその泥を濁してその波を揚げざる

……(略)

 

屈原曰く

吾之を聞く

新たに沐する者は必ず冠を弾き

新たに浴する者は必ず衣を振るう

いずくんぞ能く身の察察たるを以て

物の文文(もんもん)たるを者を受けんや

 

寧ろ湘流に赴きて

江魚の腹中に葬らるるとも

いずくんぞ能く硈硈の白を以って

世俗の塵埃を蒙らんやと

 

漁父莞爾として笑い

(かい)を鼓して去り

乃ち歌いて曰く

滄浪の水清まば

以て吾が纓を濯(あら)うべし

滄浪の水濁らば

以て吾が足を濯うべし

遂に去って復た興(とも)に言わず

 

 全体を引用することは避けるが、世俗に妥協を許さぬ屈原の姿が描かれている。漁父はいう、並外れた資質をもつゆえ社会から疎外されているとはいえ普通の人間に過ぎない。彼の生きる世界もまた経験的世界である。詩人であるとはいえ、世俗のしきたりに従うがよいであろうと言っている。最後は道徳の問題になり、事実から遊離したイマージュは問題視されていないと井筒氏はいう。意識の三段階のおいて考えるなら、まず第一段は、経験的自我を中心とする日常的意識、第二段では日常的人間の主体からシャマン的主体性に変貌し、「聖なるもの」に近づくことのよって聖化されていく意識の主体的変貌が描かれていると井筒氏は指摘する。その神懸り状態が続く限りは神自身がシャマンの口を借りて第一人称で語るが、神が去った後はシャマンの人間の一人称に変わる。つまりシャマンと神は二個の独立したペルソナなのであって、しばしば神と人の「情事」にまで発展することもあると井筒氏は指摘する。

 のりうつった神が立ち去った直後のシャマン、神懸り直前のシャンには異常な興奮状態になり、経験の主体は神的主体であるが、直前と直後は経験の主体は人間的主体であると井筒氏は解く。人間的主体が住むところは当然人間的世界である。意識の第二段階においても慣れ親しんだ日常世界は目に映る。したがって第二段階の意識では山や木や水は名状し難い幽遠な様相を帯びると井筒氏はいう。神懸り前後の半ば神化された意識状態においては目前の自然的事物の現実に触発され、現実にありながら異次元的に遊離したイマージュ、つまり深層から立ち現われてきた「想像的」イマージュで描き出された心象風景ともいいえるものであるが、経験的存在とは別次元で活動するイマージュが立ち現われると井筒氏は説明する。

 

『九歌』「湘夫人」の冒頭の一説を井筒氏は引用する

  帝子、北渚(ほくしよ)に降(くだ)る

 目、眇眇(びょうびょう)として予(わ)れを愁えしむ

 嫋嫋(じょうじょう)たり、秋風

 洞庭、波立ちて木葉下(ち)る

 

(井筒氏の訳)

湘夫人とは湘水の女神、ここでは「帝子」天帝の御子という。湘夫人は、恋い焦がれるシャマンの設けた祭堂に降下せず、北の渚に降りる。遠い彼方に光る女神の姿。「神人合一」の期待が外れ、シャマンは人間的実存の次元に残る。彼の心は暗い悲しみに翳る。神を眺める彼の目は人間の目であり、しかし、意識はすでにシャマン的脱自状態にある。そんな彼の眼に映る自然は、上の詩句の最後の二行がそれである。これは普通の自然描写ではない。半ば「神化」されたシャマン詩人の意識に映じた心象風景である。

  このようにして見られ、言葉に換えられた風景描写が詩の言葉になっているのだが、ポエジー(という神とアナロジカルなもの)が詩人の心に降り、脱自的状態を作り言葉(表現)を創り出すことに似ていると私には思われるが、それはともかくとして、井筒氏が強調したいのは、外界に存在的根拠を持つ普通の事物も、経験的現実に裏打ちされない神々や妖鬼などと同資格で登場することであり、シャマンとは無関係の一般人から見れば幻想風景として登場するということである。シャマンの意識は経験的世界の現実とは、この第二段階ではつながっている。シャマンの目に眺められることのよって、経験的事物は「想像的」イマージュに変貌し、異次元のイマージュ空間に移されると井筒氏は指摘する。

 シャマン的自我意識の第三段階は、純然たるシャマン的イマージュ空間に遊ぶ主体性の意識である。この段階では始めから「想像的」イマージュなのでイマージュ化の過程は必要がないと井筒氏はいう。経験的世界で目にする事物はすべてある。山は、百神が住み山上には懸圃と呼ばれる神園を秘める崑崙山であり、若木と呼ばれる、高さ数千丈、大きさ二千余囲の神木である若木(じゃくぎ)と呼ばれる樹木もあるといった、経験的世界の事物の質料性の重みを感じさせないものばかりであると井筒氏はいう。つまり「想像的」イマージュの独自のあり方で存在し活動しているのだ。

  本物のシャマンは、「人間の魂にかけては偉大な専門家」(エリアーデ)であり、身体を抜け出した「魂」の旅するイマージュの国の地理を知り尽くしている。この「遠き国」に向かって魂を送り出す。この一時的にではあれ、肉体を脱出した彼の「魂」こそが、シャマン的意識主体であると井筒氏は指摘する。

  「遠遊」である、遥かなるイマージュ空間の旅路は、そこでの体験を言葉に移しシャマン的叙事詩となると井筒氏はいう。第一段階ではシャマンは人々の不義を憤り、わが身の不運に涙する人の形姿であった。その彼がここでは神話的世界の英雄になり登場する。

しかし、純粋イマージュの世界の世界は、シャマニズムだけでない。例えば、西洋のグノーシス、東洋のタントラ、密教のマンダラ空間があるが、マンダラのイマージュ空間は、密教的修行主体の脱自的意識である点が、第三段階の意識状況に符合すると井筒氏は指摘する。職業的シャマンは己のイマージュ体験の哲学的意味を問うことはなく、超現実的世界に「魂を遊ばせる」だけであるが、「魂の遊び」としてのイマージュ体験は詩的創造の源泉であり、自然に展開し神話になる。この神話こそシャマン的体験の言語的展開の場所であると井筒氏はいう。このような超現実的ヴィジョンに哲学的意義を認め神話を象徴的寓話に変え、存在論的、形而上学的思想を織り込んでいくためには、第三段階のシャマン意識を越え、哲学的知性の第二次的操作が必要であると井筒氏は指摘する。例として、荘子の哲学がある。シャマニズムの地盤から出発し、シャマニズムを越えた人の思想であると井筒氏は主張する。また荘周という思想家の「無何有(むかいう)の郷」の住人は原初的シャマニズムを超脱していると井筒氏はいい、『荘子』の冒頭に描かれる怪鳥、鵬(おおとり)、背の広さ幾千里、垂天の雲のごとき翼の羽ばたきに三千里の水を撃し、九万里の高さに上って天池に向かう鵬の宇宙飛遊は、「離騒」のシャマン的飛遊の絶えて知らぬ哲学的象徴性があると井筒氏は主張する。

中国を経て日本にたどり着いた密教的仏教もまた、「想像的」イマージュ体験を基に雄大な哲学的世界観にまで発展させた精神的伝統であると井筒氏はいう。例えば空海、金胎両部マンダラは意識と存在の深層に現成する「想像的」イマージュ空間の構造的提示であり、このようにイマージュ空間として自己顕現する存在リアリティーそのものの形而上学的秘儀を、思想家空海は探ろうとしたと井筒氏は解釈している。また、ユダヤ教神秘主義、カッバーラーや、イスラム思想のスフラワルディー系の照明哲学などがあると彼は指摘する。

 シャマニズムのイマージュ体験は、一般に詩作に行なわれる散発的に現われるイマージュを現実的世界の一部とする考え方とは違い、現実世界そのものの全体が、一個の渾然たる世界イマージュ的世界として顕現することを井筒氏は主張する。つまりイマージュ体験は一種の実在体験であるということである。意識も世界もイマージュ空間に転成してしまうことであると井筒氏はいう。もし経験的事物の実在性以上の実在性を認めるならば独特の存在論が生まれるであろうと井筒氏は説く。スフラワルディーは「形象的相似の世界」と呼んだという。「想像的」(イマジナル)な存在次元では、経験的事物のイマージュ、あるいは相似であるという意味で、我々の日常的世界で見聞し、行為した経験が基盤にあることが私には非常に興味深く感じられる。なぜなら詩人がイマジナルな世界を表出するとき、経験的現実の世界が描かれずに、観念的に走っているという非難を受けることがあるからである。経験的世界の出来事を主題にした詩は、読み手の共感が容易であることは理解できるが、詩が哲学的思惟からも考察するに匹敵するものと考えられるなら、井筒氏の論述は詩の実在体験において非常に示唆的であると私は考えるのである。

 神話から象徴的寓意に変成させ、そこに存在論的、形而上学的思想を織り込むには哲学的知性を必要とするという井筒氏の指摘は重要である。イスラームの神秘家スフラワルディーは「想像的」イマージュを、経験界の事物に似ているけれども、物質性をまったく欠くゆえに、フィジカルな手ごたえのある事物ではなく、それらとは似て非なる存在者と考えていると井筒氏は解く。これらの「似姿」(アシュバーハ)を「宙を浮く比喩」と呼ぶという。言語表現上の比喩ではなく、存在次元の移しによって、物質的、質料的な経験界の存在次元から、非質料的な存在次元に「運び移され」そこで異次元的に、「宙に浮いて」いる存在者であると井筒氏は解く。彼の哲学的信念においては、経験的事物の方が、経験世界で「比喩」と呼ぶものの比喩なのであり、経験的世界に実在する事物よりも遥かに存在性の濃いものとして現われるのだと井筒氏は指摘する。その他、シャマニズム、グノーシス、密教などの精神的伝統を代表する人々にとって、現実世界の事物こそ影のような存在に過ぎないのであると井筒氏はいうのだ。この「似姿」「比喩」と名づけたものは「イマージュ」と述べてきたものであるが、スフラワルディーにとってはれっきとした実在なのだと井筒氏はいう。さらに井筒氏は、それらは質料的事物の「粗大」性に対して、「微細」であるとイスラーム哲学では表現する。インド哲学のサーンキヤ哲学でも同様であるという。

 「想像的」イマージュは深層意識的イマージュであり、事物の「元型」(アーキタイプ)を深層意識に形象化として露見させると井筒氏はいう。「元型」の生起と活動が深層意識的事象であることはユング分析心理で理論的にも実験的にも明示されていると井筒氏は指摘し、次の説明で詳細に解説していく。

 

(次回第十五回につづく)

 

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