ヒーメロス通信


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「意味分節の彼方。意識と存在のゼロ・ポイント」井筒俊彦『意識の形而上学』を読む・小林稔・連載第二回

2013年10月19日 | 井筒俊彦研究

井筒俊彦『意識の形而上学』(「大乗起信論の哲学」)を読む

来るべき詩学のために(二)

 

小林稔

 

連載第二回

 

意味分節の彼方。意識と存在のゼロ・ポイント。

 

 一切の言説は仮名(けみょう)にして実なく、ただ妄念に随えるのみにして不可得(コトバでは存在の真相は把握できない)なるを以ての故に、真如と言うも、また相(この語に対応する実相)の有ることなし。言説の極(コトバの意味指示作用をギリギリのところまで追いつめて)、言に依りて言を遣るを謂うのみ(コトバを使うことによって、逆にコトバを否定するだけのこと)……」(『大乗起信論』、カッコ内は井筒氏の説明)

 

東洋哲学における形而上学的思惟は、その極所に至って言語を超えた境地に到達し、言語の意味指示機能を喪失すると井筒氏はいう。しかし言語能力を否定するためにさえ、言語を使うことが必要なのである。生来言語的存在者である人間の、逆説的な宿命ではないかと彼はいう。そして『大乗起信論』は「コトバ」以前を言語的に定位し、言語の全領域、つまり全存在世界を捉えなおすことを試みようとする書物であると井筒氏は説明する。

 このような言詮不及の極限、つまり形而上学の極所に東洋哲学は名を案出してきた。例えば、「絶対」、「真」、「道(タオ)」、「空」、「無」などがあるが、本来は絶対に無相無名であるものを、便宜上、コトバの支配圏に曳き入れるための仮の名にすぎず、『起信論』では「仮名(けみょう)」と名づけていると井筒氏はいう。大乗仏教では、このような意識と存在のゼロ・ポイントを「真如」とよんでいるが、それぞれの文化的パターンの違いによって異なる名称で呼ばれる。意識と存在のゼロ・ポイントでは同様であるが、意味指示的には別物であると井筒氏はいう。

『意識と本質』を読んだ人であるなら、「分節」という言葉に馴染んできているであろうが、そうでない人のために、「決定的重要説を持つキーターム」である「分節」を考えてみよう。

仏教術語では「分別」という語を用いる。しかしこの語「分別」は、現代日本語では道徳的含意を与えるので、思想の純哲学的構造化を志向する言説には不適であり、「分節」という語を使うという。

 

 我々の実存意識の深層をトポスとして、そこに貯蔵されていた無量無数の言語分節単位それぞれの底に潜在する意味カルマの現象化志向性に促されて、なんの割れ目も裂け目もない全一的な「無物」空間の拡がりの表面に、縦横無尽、多重多層の分割線が走り、無限数の意味的存在が、それぞれ自分独自の言語的符丁を負って現出すること、それが分節である。    ( 井筒俊彦『意識の形而上学』 )

 「意味カルマ」とは「長い年月にわたる歴史的変遷を通じて次第に形成されてきた意味の集積」であると井筒氏はいう。意識と存在のゼロ・ポイントが文化によって言語が異なるので呼び方が異なるのだ。それだけでなく意味の集積内容も異なってくる。その文化の混合が新種を生み出すのである。例えばインドで生まれた仏教が、サンスクリットから移入した中国の漢字に訳され、さらに日本語に移される。そのたびに文化交流が起こってきたのである。

 意識と存在のゼロ・ポイントを指示することでは同じだが、「真如」と「道」(老荘思想)と「無」では言語的意味のカルマが違うので意味指示のアプローチが全く違ってしまうと井筒氏は指摘する。それらの仮名の意味するものは、「形而上学的思惟」において同じ「分節」の問題を提起する」と井筒氏はいう。私は、形而上学的なるものは言葉で語られるものとばかり思ってきた。つまり言葉で語られたものを形而上学と考えてきたのである。例えば「詩的なるもの」の気配を感じたときに、そこから言葉が意味をともなって私に訪れる。その言葉を書き留め詩作を完成させる。それが形而上学であるなら、「真なるもの」の理論を組み立てるだろう。しかし井筒氏が語るのは、形而上学的思惟の極限においてと強調する。言語の本来の機能は意味分節にあり、対象を分節することなしに意味指示的に働かないという。

 「詩的なるもの」と「詩」が異なるように、「形而上学的なるもの」と「形而上学」は異なると考えてよいのかもしれない。したがって仮名であれ「真如」と名づけた瞬間に、ぜったい無分節的な「形而上学的なもの」は本来の「無分節性」を失ってしまう。それゆえ『大乗起信論』では仮名に過ぎないと断って論を進めているのだと井筒氏はいう。「詩的なるもの」と「詩」が異なるように、「形而上学的なるもの」と「形而上学」は異なると考えてよいのだろうか。その疑問に対して井筒氏は次のように解釈する。「コトバ以前」を言語的に定位し、この言語の及ばない極限から、言語の支配圏である全領域、つまり全存在世界を射程に入れ、頂点からどん底まで検索し、その全体を構造的に捉えなおすこと、そこに形而上学の本旨があり、『大乗起信論』はその試みであると。

 

 老荘的思惟では、意識と存在のゼロ・ポイントを「道」や「無名」という仮名で呼ぶ。ただ「無」の空々漠々たる拡がり、渺茫たる絶対無分節の浄域であり、荘子は「混沌」の神のイメージを描くと井筒氏はいう。「混沌」とはいろいろなものが混在している状態委ではなく、何も存在していない非現象の、絶対無分節の「無物」空間を意味する。そこには「混沌」の、ノッペラボウの神がいて、友人である神がその顔の表面に「穴」をほって目と鼻と口を作ったがそれらが開いたとたん「混沌」の神は死んでしまったと荘子は語っている。井筒氏によると、この話は、絶対無分節から分節態へ、非現象性から現象性への存在的次元転換であるという。

 ウパニシャド・ヴェーダ―ンダ哲学では「形而上学的なるもの」は「梵」(ブラフマン)と呼ばれると井筒氏はいう。「梵」も窮極の境地(意識と存在のゼロ・ポイント)では無分節で、それを特に「上梵」(無相ブラフマン)、それに対立する現象的分節態におけるブラフマンを「下梵」(有相ブラフマン)と名づけるという。その「名色論」は有名で、シャンカラの不二一元論的ヴェーダーンダ哲学では「下梵」が我々の現象世界の「名とかたち」の存在次元であることを強調していると井筒氏は説明する。「かたち」とは外形だけでなく、ものの属性、用途など限定的に構成する一切を意味するという。

 カオス状の未分の塊りである「無物」空間の表面に言語的分割線を引くのが分節であり、名をつけることによって一つ一つのものが有意味的存在モナドとして現象する、つまり意味分節単位の網目構造として力動的な全体性を構成すると井筒氏は主張する。コトバの介入なしに形而上学が存在論的に展開することはなく、「形而上学的なるのも」の「無」的極限は「名」の排除という形で否定的にコトバに関わってくるのだという。意識と存在のゼロ・ポイントを考えれば、言語の意味分節機能において「真如」と同様である。

 ヴェーダ―ンダと中国、日本の思想の関係よりずっとかけ離れた思想伝統にある、人格一神教的啓示宗教のイスラームのコンテクストでは、上記のような言語分節の概念が形而上学的にどのような働きをしているのかを井筒氏は解読していく。『意識と本質』でも説明したように、イスラーム哲学は西暦十三世紀になってギリシア哲学一辺倒から脱出し、イスラームの独自性を創出していくようになった。中心人物はイブヌ・ル・アラビーであり、その形而上学は「存在一性論」である。

 イスラームでは存在性・実在性の窮極の境位にいるのは神アッラーであるが、アラビーの「存在一性論」では問題は複雑になると井筒氏はいう。宗教と信仰のコトバが神と呼ぶものを、彼(アラビー)は哲学のコトバで「存在」と呼び、しかもこの「存在」の窮極位を存在の彼方に置くのだと井筒氏は説明する。すべての存在の始まりに神があるのではなく、神より以前にある存在を考える。「実在性と思考の彼方」を考えたプロティノスの「一者」と同じであるが、それは無名無相、一切の「……である」という述語づけを受けつけず、「神である」とすら言えないと井筒氏は解釈する。コトバを超え「名」を超えるこの真実性(存在)には、自己顕現への志向性が本源的に内在しているという。ヴェーダ―ンダ哲学では先に見たように、無名無相の「存在」は「名とかたち」の存在次元に降りてくるが、ここでは第一段が「アッラー」としての自己顕現であり、コトバの介入がこの段階で始まっていると井筒氏は指摘する。伝統的なイスラームの教義では、「神名論」と名づけ、無名無相の絶対的真実性が「名とかたち」によって自己分節する最初の段階が「アッラー」でありそれに続いて無数の下位的「神名」が出現し、現象的存在世界を作り出すとするが、伝統的なイスラームの教義では、「神名論」と名づけ、「神名」は神的「属性」として扱われると井筒氏はいう。つまり「神名論」は言語意味的分節論であり、コトバの介入なしには存在の分節があり得ないことを明確に主張していると井筒氏は指摘する。

 このように「名づけ」がものを存在の場に呼び出す例をいくつか挙げて、言語意味分節論は東洋哲学の大潮流の一つの精髄であることを我々に教示してくれた。ここから井筒氏は、『大乗起信論』の「真如」の分節論的構造に深く迫っていこうとする。

 

『意識の形而上学』(「大乗起信論」)を読む。第二回を終える。

つぎの第三回は、「真如」の二重構造について読み解いていく。

 

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