ヒーメロス通信


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井筒俊彦『意識の形而上学』を読む。小林稔・連載第五回「心、心見ざれば・・・・・」

2013年11月13日 | 井筒俊彦研究

連載第五回

「心、心見ざれば、相として得べきなし

井筒俊彦『意識の形而上学』を読む。

小林稔

 

 

 『大乗起信論』における形而上学的思想構造では、存在論と意識論は同じ事態を二つの異なる視点から考察するにすぎず、存在と意識の深い相互浸透により完全に一致すると井筒氏は述べた。『意識の形而上学』第一部で考察した存在論を第二部では意識論的に論じていくのであるが、形而上学的構造は何も変わることがないと主張する。

 存在論におけるもっとも重要なキーターム「真如」は「心」に据えられる。全一的円を真ん中で上下に二分し上半分をA領域、下半分をB領域とすることは存在論の場合と変わらない。存在論ではA領域は存在の絶対無分節態、存在の非顕現態であった。つまり存在のゼロ・ポイントであるのに対して、「心」概念を導入する意識論では、A領域は意識の絶対無分節態、意識の非顕現態、つまり意識のゼロ・ポイントであると井筒氏は展開する。

 存在的「無」(絶対無分節態)を、意識論的ではその(無)の背後に「無」の原初的境位に把持する寂然不動の意識を想定せざるを得なくなると井筒氏はいう。これが意識のゼロ・ポイントだ。「無」の意識、すなわち「無」意識は心理学的な無意識を含みはするが、しかし普通の意味での無意識とは異なり、存在論的な実在性の形而上学的極限領域の「無」に、意識論的に対応する「無」の意識であると井筒氏はいう。現象的「有」意識への限りなき可能態としての「無」意識とは、「有」分節に向かう内的衝迫の緊張に満ちた意識の「無」分節態であると主張する。それゆえ「無」意識がそのまま自己分節して「有」意識にそのままそっくり転成することができるのだという。

 先に述べたA領域は「心真如」と名づけ、絶対無分節の次元における全一的意識とし、B領域は「心生滅」と名づけ、現象的意識態の形而下的本体をなす。A領域の上部に「仏心」を置き、B領域の底部に「衆生心」を置く。井筒氏によると、この構造は便宜上のことで、実際は上部の「仏心」と底部の「衆生心」には意味の不動性があるので注意が必要であるという。例えば、「衆生心」の双面性。一方では「一切衆生包摂的心」であり、あらゆる存在者を一つ残さず包摂する覚知の全一的広がりとしての意識であるが、他方では、全く意味の違う日常的意識である。この二つの意味、つまりB領域の現象的意識とA領域の形而上的意識が不思議な仕方で融合するという。B領域がA領域と自己矛盾的に合致する、つまり「衆生心」が「仏心」になることである。このような考えが「悉有仏性」思想に直結すると井筒氏は指摘する。

 このように自己矛盾的合致が理解を難しくするところである。それゆえ井筒氏は、「存在論から意識論へ」と進めてきた論考を再び存在論的視座を導入し、意識論と存在論を同時に並べて考察する必要を感じると主張する。もともと意識とは「……の意識」である以上、「原初的存在分節の意味論的構造」がそのようになっていると、井筒氏は『意識と本質』で指摘しておいたことなのである。存在論的に「真如」の非現実態と現象態が重要であったように、意識論的にも意識(=「心」)の非現実態と現象態のあり方が重要になり、しかも意識論的考察と存在論的考察を絡み合いもつれ合って展開する必要があると井筒氏はいう。

 そのようにして「衆生心」から井筒氏は論を進めていこうとする。「衆生心」とは現象意識としては隨縁起動する「真如」、あるいは「心」である。つまり現象面では「妄信」の乱動、その鏡面上に顕現する一切の存在者は妄象だが「衆生心」の本体は清浄無垢であると『起信論』では述べられている。つまり生滅流転する現象的形姿でありながら原初の清浄性はいささかも失われていないという意味であると井筒氏は解釈する。

 

 大海の水が風のために波浪を生じているときには、水相と風相とはたがいに不離の関係にあるからこれを区別することはできない。しかし水そのものは動性を有するものではないから、もし風が止滅するときには動相のみが止滅して、本来水の湿性は破壊されることがない。それと同様に、一切の衆生が本来そなえている「自性清浄心」が無明の風のために波浪を生じているときには、自性清浄心と無明とはたがいに不離の関係にあるからこれを区別することができない。しかし自性清浄心そのものは動性を有するものではないから、もしも無明が止滅するときには、無明にもとづく迷いの心相の相続は断尽されるが、水の湿性にも比すべき<心の本性としてそなわっている智慧の働き>は決して破壊されることはない。

                      『大乗起信論』の第一章の二より

 

 「自性清浄心」とは「仏心」の別名であり、AがBに転成し、意識(=心)が無分節を離脱して現象顕現の境位に移行しても、その本性(自性清浄心)を保持したままであると井筒氏はいう。これを存在論的に読み直せば、「真如」がその無分節的本性を保持しつつ形而下的存在界に厳然として存在する。したがって現象界(B領域)における「真如」のあり方が問題になってくると井筒氏はいう。『起信論』では「体大」「相大」「用大」の三つの概念がある。「体」とは本体を意味し、時間的空間的限定を超えて変わらないと井筒氏は指摘する。「大」は全包摂的・無制約的超越性を示唆する意味があるという。

「相大」とは数限りない様相という意味。「相」とは本質的属性の意味。Aでは見られなかった属性があると説かれている。つまり「真如」のB領域における自己分節があるということを示す。「真如」が存在分節単位に分裂し、経験界の事物事象を現出させていくことは、一切の人間的経験を意味化していく「アラヤ識」的根源能力としてのコトバの働きの現われであると井筒氏はいう。この存在創造性を指して『起信論』では「真如」を「如来蔵」と呼んでいるという。「用大」の「用」とは「相大」が画面に発動する根源的作用あるいは機能を意味するという。「三大」とは「体大」「相大」「用大」を指す。

 現象的世界を肯定的に見るか否定的に見るかは、意識の意味分節機能を肯定的に見るか否定的に見るかにかかっていると井筒氏はいう。『起信論』では多くの場合、否定的な見方をする。意識の言語的分節機能は「妄念」と考えられ、現象的世界は「妄念」かた立ち上がる虚像に過ぎない。

 

「一切諸法はただ妄念に依りて差別あるのみにして、もし心念(妄念、意識の意味分節機能)を離るれば、一切の境界の相(=対象的事物としての現象的形姿)無し。」

「是の故に、一切の法(現象的「有」)は鏡中の像(=鏡面上に見える映像)の如く、体(=実在する本体)の得べき無きがごとく、唯心にして虚妄なり。心(妄心)生ずれば、即ち種々の法(現象的「有」)生じ、心滅すれば(=分節意識が機能しなくなれば)即ち種々の法滅するを以ての故に。」

「一切の法は皆、心より起り、妄念より生ずるを以て、一切の分別(=現象界の一切の分節的「有」は、自分を分別するのみ。心、心を見ざれば、相として得べきなし)

 

 井筒氏はこれら『起信論』から引用して本質的「無有」性を説明する。最後の「心、心見ざれば、相として得べきなし」とは、「客観的事物の世界は分節意識そのものの自己顕現に過ぎない。だからそれを外側から眺めている認識主体(=心)は、結局、自分で自分の内側を眺めているにすぎない」「心が心を見る」ことがなければ、「全存在世界はそのまま雲散霧消して蹤跡をとどめない、と」。

 

 これらが徹底的な否定面でありながら、『起信論』では「如来蔵」的観点からすべての分析的「有」を「真」として肯定する、つまり「心真如」は存在世界の形而上学的本体として一切の存在者の根底に伏在し、あらゆるものを存在可能性において包含していると井筒氏は指摘する。それではどのような起因でそうなるのか。そこには主体の問題があるに違いない。井筒氏は第三部で明確にするであろう。その前に構造面をしっかり掌握していなければならないのだ。

 井筒氏はプロティノスを引用することが多い。例えば、

 

 「一者」は全宇宙の絶対無的極点。一切の存在者を無限に遠く超越して、言亡慮絶の寂莫たる超越性の濃霧の中に身を隠す独絶者。それでいてしかも「一者」は「万有の父」として、一切者を包摂しつくして一物たりとも余すところがない。自らを、「有」の次元に開叙するとき、あたかも巨大な光源から光が四方八方に発散するごとく、縹渺無限宇宙を顕現し、また反対に自らを収摂するときは、一切の存在者を自己に引き戻し、全世界を寥廓たる「無」の原点に帰入させて一物も余すところがない。

                    井筒俊彦『意識の形而上学』p43

 

他のものによって創造されたものは、自分を生み出した原因のうちに在り、逆に原因は自分の生み出したすべてのものの中に在る、しかもそれらのものの中に散乱して存在するのでなしに、それらの窮極的源泉、窮極的基底、として、それらのもの全ての中に存立する。

                   井筒俊彦『意識の形而上学』p83

 

書かれている主旨もさることながら、井筒氏の叙事詩的文体に私は感じ入る。井筒氏の三十代に書かれたという『神秘哲学』を読んだ時の感動は晩年の文体にも少しも失われていない。

『起信論』の「心真如」もそれと全く同様に、一切事物の窮極原因として、それらの中に本体的に存立しているという。つまりその窮極原因から、意味分節意識の創造性の働きで、存在分節単位としての「有」が数限りなく現象してくるというのだ。

 

 

次回第六回

「空」と「不空」について。

 

 

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