ヒーメロス通信


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元型」イマージュと言語アラヤ識 小林稔評論集『来るべき詩学のために(一)』より

2016年01月21日 | 井筒俊彦研究

連載/第十五回

「元型」イマージュを生む言語アラヤ識領域と中間地帯(M)

 小林 稔

 

  シャマンの超現実的ヴィジョンに哲学的意義を認め、シャマン的神話を変成させ、そこに存在論的、形而上学的思想を織り込んでいくためには、第三段階のシャマン意識をさらに越えた哲学的知性の第二次的操作が要る。古代中国の思想界では、荘子の哲学が、シャマニズムの地盤から出発し、シャマニズムを越えた人の思想だ、と井筒氏はいう。(P199)

  「想像的」イマージュは、深層意識的イマージュであり、「本質」論のつながりでは、事物の「元型」(アーキタイプ)を形象的に提示するところに成立し、つまり、「元型」の形象化を通して事物の本質を露呈させることなのだと井筒氏は指摘する。

 今回は『意識と本質』のⅨ(P205)から読み解いていこう。

 「元型」とは人間の実存に深く喰い込んだ生々しい普遍者であると井筒氏はいう。フィリップ・ウィールライトは、ゲーテの「根源現象に結びつけ、真の詩的直観のみが、世界内の事物をそれらの「元型」において把握する、「具象的普遍者」と呼んだという。個々に事物を個々の事物としてではなく「元型」で把握する、つまり「元型」は「想像的イマージュ」として深層意識に自己を開示する「本質」であるということであると井筒氏は解く。カール・ユングは彼のいう「集団的無意識」が「元型」的に規定された構造を持つといっているといっているのだということを井筒氏は指摘し、「元型」とは、集団的無意識」または「文化的無意識」に深みにひそむ、一定の方向性をもった深層意識的潜在エネルギーであるという。

 「元型」イマージュは人間の存在経験の方向をあらかじめ規定するもの(原初的)であり、事物の「本質」であっても、どのようなイマージュとして現われるかは誰にもわからないものであり、このような「元型」イマージュ的「本質」とプラトンのイデア的「本質」とはまったく違うものであると井筒氏はいう。文化ごとに顕現形態が違うのはもちろんのこと、同一文化内でも複数のイマージュ群が生まれるが、それでも一つの「元型」方向性を感得できるし、「本質」を象徴的に提示すると井筒氏は解く。古代中国の「易」の全体構造は、転地の間に広がる存在世界の「元型」的真相を、象徴的に形象化して呈示する一つの巨大なイマージュ的記号体系であると井筒氏は読み解く。そして聖人の深層意識に映し出される存在世界は、一切事物と事態の「元型」的形象のマンダラとして現成するという。

 井筒氏は深層意識構造を説明している(P214)。最下の一点は意識のゼロポイントであり、その上の層が無意識。深層意識領域は全体が無意識層だが、意識化に向かう段階を考えて、この領域を無意識の領域とする。その上が意識化に次第に向かう胎動を見せる領域である。ここが言語アラヤ識の領域であると井筒氏はいう。意味的「種子」(ビージャ)が潜勢性において隠在する場所である。唯識哲学から井筒氏が借定したものである。ユングの、集団的無意識の領域であり「元型」成立の場所であるという。その上の領域に「想像的」イマージュが生起し、神話と詩の象徴化作用の機能を発揮する領域である。しかし、井筒氏によれば、この領域は象徴化だけでなく他の働きもあるという。チベット密教の専門家であるという、ラウフの分析では、深層意識のイマージュ現象を三つのプロセスで解いていると井筒氏はいう。①「元型」→②「根源形象」→③シンボルとする。

 無意識の領域に成立する「元型」は、無意識と経験的意識の中間地帯で「根源形象」、つまり、「想像的」あるいは「元型」的イマージュとなって形象化する領域であり、「元型」的イマージュが表層意識の領域に出て記号に結晶したものが「シンボル」である。つまり、「シンボル」は本来、強烈なエネルギーの充満する深層意識領内で生起するが、ここで「想像的」エネルギーを保持したまま、「シンボル」は経験的世界にやってくる。このエネルギーの照射を受けると、平凡に見えていた日常的事物がたちまち象徴性を帯びていく。花はもはやただの花ではない。井筒氏が語りたいのは、この「元型」イマージュの第二次的機能ではなく、「元型」イマージュのそれ自体の第一次的機能であるという。

  無意識の領域のすぐ上にあるのが言語アラヤ識の領域であることはすでに触れたが、そこではいろいろなイマージュを生み出しているが、その多くは経験界に実在する事物のイマージュであると井筒氏はいう。これら、外界に対応物を持つイマージュは、経験界の現実の事態に刺激を受けて発生し、そのまま表層意識に上昇し、そこで事物の知覚的認知を誘発する。しかし、「元型」イマージュは外界に直接の対応物を持たないと井筒氏はいう。例えば、神話の主人公の英雄のイマージュや、仏教のイマージュ空間に咲く花は現実の花に「似ている」が現実の花の直接のイマージュではない。したがって「元型」イマージュは表層意識まで到達しないで、言語アラヤ識と表層意識の中間地帯にとどまる。ここが「元型」イマージュの本来の場所であると井筒氏は説明する。禅においては、ここに現われる不思議なものは虚妄で根拠のないものとする。禅宗第五祖、弘忍(601-674)は坐禅する初心者に向かっていったという、坐禅していると瞑想状態にあるお前の目の前に、あるときは巨大な光が燦然と輝きながらお前の身体から発出し、あるときは仏陀が肉身の姿で現われる、また多くの不思議なものが猛烈なスピードで互いに変融し合う有様が見えるが、静かに心を保ち、決して注意を払ってはならない、それらはすべて虚妄で無根拠なのであり、お前自身の妄念の働きで見えるだけなのだからと。(『修心要論』)

 シャマニズムや密教では、このようなイマージュに意義を認めるという正反対の立場であると井筒氏はいう。それではそれらは、言語アラヤ識と表層意識の中間地帯、意識のM領域で果す役割とはどのようなものなのかを、井筒氏は次の章、(P220)で考察する。

 

 

次回、第十六回につづきます

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井筒俊彦研究『「神秘哲学」』再読 第十回 小林稔

2016年01月15日 | 井筒俊彦研究

第四章 知性の黎明

 

   ホメロスは天に近く、ヘシオドスは地に近い

不気味な怪物が猛威を振るった時代に幕を降ろした光あふれる神々の支配する世界は、知性の誕生を告げる世界でもあった。「ギリシアが精神的には確かに一度、このような清澄の高層圏を通過したことを人は忘れてはならない」と井筒は主張する。混沌から神々の世界の光を生み出したことは、以後の、例えばプラトン哲学に見られるような、ギリシア文化の成熟の一歩になったと言えるだろう。

 ヘシオドスという詩人にして思想家の特徴は、現実主義であることである。世界の実相を単に描くだけでなく因果的に説明しようとする。根本原因を説明するために神話を選び出す。井筒によれば、切実な人生問題に神話によって思想的解答をすることは神話のメタモルフォ―ゼであるという。彼は予言者であり、現実の救済を心に留める。彼の『神統記』は神々の系譜における秩序である。世界開闢と生成を理性的統一において説明することが彼の意図であった。現実の世界悪を世界善に転成させる宗教的倫理的枢軸として、「正義」の思想を置く。「正義」はゼウスの意志と同一である。「正義」の思想はホメロスにすでにあったが、それは客観思想であるのに比べて、ヘシオドスのそれは主観的であり、世界と人類を救済する根源力であり、「正義」という神体をゼウスの愛娘として新たに創り出したのである。

 

 ギリシア抒情詩の先駆者ヘシオドス

 ヘシオドスには、ホメロスにない反省的思惟と、人間および人間を取り巻く世界に対して個人的判断を下そうとする知性的欲求を併せ持っていると井筒はいう。それはヘシオドスには「我の自覚」があるということであり、それを極度に推し進め、詩華に開花させたのが紀元前七世紀から六世紀末の抒情詩であったという意味では、ヘシオドスはギリシア抒情詩人たちの先駆者であったと言えるという。抒情詩の生まれる背景には、現実批判をする個人的知性活動の始まりがあったが、ついにはヘシオドスの世界観さえ否定するに至ったのである。自然神秘思潮によって超個人主義に翻転するまではつづいたのであった。

 

第五章 虚妄の神々

  理性的批判の目

 紀元前七世紀初頭までには、ギリシア人は著しく自覚的自意識的になり、つまり理性的反省期に入り、人生の究極的諸問題に真剣に取り組み始めるようになったと井筒はいう。前章でも述べたように、現実主義的なヘシオドスは、ホメロス的神々の矛盾の多い伝来の神話を整理し秩序づけようとした最初の人であった。ホメロスの叙事詩は本来、純粋な芸術の神として鑑賞されるべきものであると井筒は主張する。しかし、その芸術の神として拝する者には完璧の至美を開示する神々が、宗教として全ギリシア民族に受容されたところに、ホメロスの宿命があったと井筒はいう。したがって、オリュンポスの無秩序性は本源的なものである。通常の宗教と呼びうるものではない。それは人間的で解放的であり、愛憎の情熱、放恣性欲は官能の享楽に耽溺させるので、彼ら神々を人間から区別するものは不老不死の一言であると井筒は指摘する。擬人的性格は顕著な特徴なのである。このようなオリュンポスの神々に理性的批判の目を向けること自体がはなはだしい矛盾であり、矛盾を指摘すればすべてを破壊しない限り終らない。ヘシオドス的神学は結果的には改悪ですらある。ホメロスとヘシオドスを一括して、「ホメロス・ヘシオドス的」神々と呼び慣らし、理性的反省期に入ったギリシア人にどのように映じたかを考えてみたい、なぜならギリシア哲学の発生は、オリュンポス神学に反撥し対立した新宗教思潮に直接端を発するものであるからと井筒はいう。イオニアの哲学者たちの凄まじいオリュンポス神糾弾は、神々の不合理と矛盾にあった。イオニアの哲学者たちは、宗教を解さぬ合理主義者なのでななく、深く宗教を理解するがゆえに、愚劣で低級なおsリュンポス神に我慢できなかったのだと井筒は指摘する。

 

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「間文化意味論の試み」 小林稔評論「意識の形而上学」(井筒俊彦)を読む

2016年01月08日 | 井筒俊彦研究

井筒俊彦『意識の形而上学』(「大乗起信論」を読む・第四回

小林稔

 

間文化意味論の試み

 

『大乗起信論』では意識論と存在論は「密接不離の絡み合い」として進展すると井筒氏はいう。つまり思想の中心軸をどちらに置くかによって、意識面と存在面のどちらかが表面に表れるのだが、本性的に『起信論』(『大乗起信論』を以下このように表記する)は唯心論の立場を取るので意識の面に根底を置き哲学を構築していかざるを得ないと井筒氏はいう。

 

大乗の実体とは、一切の衆生が内にそなえている心(「衆生心」)に他ならない。一切の世間の法(迷い)と出世間の法(悟り)はことごとくこの「衆生心」の中に含まれているのであって、この「心」にもとづいて大乗の義理を明らかにすることができる。           『大乗起信論』第二章 問題の所在

 

 井筒氏によると、衆生心とは「一般大衆の心」であり、上記した文は意識論に置くという姿勢の宣言であるという。このように決定的に唯心論的思想コンテクストにおいて存在論はどのような位置を占めるのであろうかと井筒氏は問い、言語的意味分節は意識分節と存在分節の双面構造であると指摘し、『起信論』の「忽然念起」を引用し説明している。

 

 いつ、どこからともなく、これという理由もなしに、突如として吹き起る風のように、こころの深層にかすかな揺らぎが起り、「念」すなわちコトバの意味分節機能、が生起してくる、という。「念」が起る、間髪を入れず「しのぶのみだれかぎりしられ」ヌ意識の分節が起る、間髪を入れず千々に乱れ散る存在の分節が起り、現象世界が繚乱と花ひらく。意識分節と存在分節との二重生起。        井筒俊彦『意識の形而上学』

 

『起信論』には唯「心」論的思惟傾向があるため、つまり存在概念の中に意識性が深く浸透しているために、ここでの存在論は人間的であり、主体的・実存的であり、情意的ですらあると井筒氏はいう。井筒氏はこの論考で『起信論』で使われた「心」を「意識」と置き換えて展開することを次のように説明する。「心」と「意識」に間には意味上の大きな差異がある。意識とは現代思想における文化的普遍者としての「意識」である。そのホンヤクの意義を考え、意図的に積極的に意味のズレを利用し、東洋哲学の世界における、一つの間文化的意味論の実験を試みるのだと井筒氏はいう。このように「意識」を仏教術語の「心」と置き換えることで、思想のダイナミズムを生み出そうとする。それは意味の「ズレ」を解消するのではなく、相互の働きかけを通じて「心」を活性化させ「意識」に深さを加え我々の言語意識をアラヤ識の育成に向かって深めていくになると井筒氏は説明している。

したがって「意識」といっても個々人の心理機構ではなく超個人的・形而上学的意識一般の、純粋叡知的覚体といいうるものであると井筒氏はいう。ユング心理学の集団無意識の「超個」性を考えてみるとよいと指摘する。集団的無意識とは、集団的アラヤ識の深層における無数の言語的分節単位に見られるように、超個人的共同意識を想定し、主体を汎時空的規模に拡大し全人類(一切衆生)まで広げて考える必要があると井筒氏は解釈するのである。「一切衆生」包摂的な意識フィールドの無限大の拡がり、と彼は表現し、これが『起信論』は「衆生心」と呼んでいるのだという。このような意味で「意識」は「存在」と完全に相覆うことになる。

 このようにして『起信論』はさらに進められるが、この間文化的意味論の試みについて井筒氏は追記する。古代中国が仏教の経典や論書を組織的に漢訳した時の、古典中国語に生起した間文化意味論的事態や、イスラーム文化史の初期、アッバース朝の最盛期に、ギリシャ哲学の基本的典籍が大規模な組織でアラビア語に翻訳された時の古典アラビア語に生じた事態は、まさに間文化意味論性の重大な意義を私たちに教えている。今、実践しようとしている試みが巨大な規模で、自覚的・方法論的に行われるなら井筒氏の唱える「言語アラヤ識」は注目に足るだけの汎文化性を帯びるだろうと彼自身主張している。彼が残りの人生をかけた「共時的構造化」の壮大な哲学の構想が浮かび上がっていたであろう。

 

次回、第五回では間文化意味論的思考が奮起され、第二部の「存在論から意識論へ」が始められていく。

 

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「経験世界の事物の本質はどこからくるか」井筒俊彦『意識と本質』より

2015年12月29日 | 井筒俊彦研究

連載/第十一回
小林稔

Ⅶ P139-153
 経験世界の事物の「本質」はどこからくるのか。


 井筒氏は、「本質」を媒介としない事物の分節なるもの、つまり無「本質」的分節を、形而下的、形而上的全体的側面において構造化し、禅的分節論の全体的構造の中に正確に位置づけ、「禅らしい生命の躍動」を露呈しようとする。
 トーマス・マートンの禅の定義、「禅とは主体と客体の彼方なる純粋有の存在論的意識であり、あるがままの存在を直接無媒介性において、じかに捉えることである」という記述は、根本的に静的であって力動的ではないと井筒氏はいう。深い瞑想に沈みこんだ意識の観照性に究極する。主体としての我もなく、客体としての物もなく、脱自的意識の地平に顕現してくる純粋存在、存在そのもの、に当然として見入る無心の目、マートンの脳裏にはプロチノス的一者観照の恍惚の追走的形象が浮かんでいたかもしれないと井筒氏はいう。
 しかし、それは禅の体験の一部分に焦点を合わせたもので全体ではない。井筒氏は、全体的にダイナミックな認識論的・存在論的過程、あるいは出来事として捉えられなくてはならないという。
 修行道としての禅は、見性体験を頂点とする三角形として形象化される。底辺の経験的世界、頂点に向かう向上道(未悟)と、経験的世界に向かう下降道(已悟)。このプロセスにおいて「本質」は変貌して現われてくると井筒氏はいう。彼は、この未悟→悟→已悟という形で措定したものを、分節(Ⅰ)→無分節→分節(Ⅱ)という形に置き換えてみる。分節(Ⅰ)と分節(Ⅱ)は同じ世界であるが、無分節をへているかいないかによって内的様相を異にするという。分節(Ⅰ)は有「本質」的分節、分節(Ⅱ)は無「本質」的分節であるからである。


 「而今の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住して、究尽の功徳を成せり。空劫已前の消息なるがゆえに。而今の活計なり。朕花未崩の自己なるがゆえに、現成の逸脱なり。山の諸功徳高広なるをもて、乗雲の道徳、かならず山より涌達す。順風の妙功、さだめて山より逸脱するなり。」正法眼蔵山水経、道元禅師


 而今の山水(今眼前にする山水)は、経験的世界で見る山水(分節Ⅱ)とは同じであって同じでない。而今の山水は、「ともに法位に住して」(一定の存在的位置を占めて)、「究尽の功徳を成せり(全体露見的な働きを示す)。「空劫已前の消息なるがゆえに」、「朕花未崩の自己なるがゆえに」、そのようなことが起こるのだと道元はいう。「而今の山水」は、山と川として分節されていながら山であること、川であることから超出して(「本質」に束縛されずに)自由自在に働いているのだ、ということになると井筒氏はいう。つまり分節(Ⅰ)は有「本質」的に分節された山や川であるのに対して、分節(Ⅱ)は無「本質」的に分節された山や川なのである。(カッコ内の解説は井筒氏による)


「老僧、三十年前、未だ参禅せざる時、山を見るに是れ山、水を見るに是れ水なりき。後来、親しく知識に見(まみ)えて箇の入処有るに至るに及んで(すぐれた師にめぐり遭い、その指導の下に修行して、いささか悟るところあって)、山を見るに是れ山にあらず、水を見るに是れ水にあらず。而今、箇の休歇(きゅうかつ)の処得て(いよいよ悟りが深まり、安心の境地に落ちつくことのできた今では)、依然(またいちばん最初の頃と同じく)、山を見るにただ是れ山、水を見るにただ是れ水なり」(『続伝燈』二十二、『五燈会元』十七)。

 清原惟信が禅者として己の生涯を振り返り三つの段階に分ける。第一段階は、禅の道に入る前の時期。普通の人として自己の外なる世界を見つめる。世界は有「本質」的に分節されている。第二段階は、参禅してあらゆる事物が「本質」の留金を失う。「本質」結晶体が融けて流れ出す。分節線が拭き消される。見る主体はそこにはない。すべてが無「本質」。第三段階は、再び有の世界。無化された事物が有化され現われる。第一段階と同様に分節された世界である。しかし本質は戻らない。山や川には本質がない。このような山水を「而今の山水」といったのである。(井筒氏の解釈)。本質(Ⅰ)では、言語アラヤ識にひそむ「種子」の作り出す「本質」を基に行なわれる。我々の常識的世界、存在的不透明性の世界である。このような「本質」決定は誰が、何が決定するのかが問題になると井筒氏はいう。
 常識的世界では、本質ははじめから各々の事物に備わったものだ。創造主なる神を措定する一神教的世界では「本質」決定は神がする。イスラム哲学では、神が宇宙を創造したとき、まず「存在」という無限定のリアリティーを創っておいて、それを「本質」によって様々に限定していったという論と、それとも第一に様々な「本質」を創っておいて後からそれに存在性を与えたとする論に別れ、スコラ哲学上の大問題になったのだと井筒氏は指摘する。十三世紀以降のグノーシス哲学では、神そのものを無限定的「存在」リアリティーとし、それの様々に異なる自己限定態として事物の存在を考え、そのように限定された形で抽象的に把握し仮構する、と考えるので、イスラムも仏教に近くなるという井筒氏の主張するところは十分納得できよう。(カッコ内の解説は井筒氏による)
 

 仏教は神の創造を前提としない。しかし「本質」を備えている。そうであるなら、事物の「本質」は一体どこからくるのか。(井筒氏)

 仏教では、人間の倒錯した意識の働きによって「本質」は現われると考える。「本質」は仮構であり虚構である。このような表層意識の働きを妄念と呼ぶ。(井筒氏)

 
 「唯だ妄念に依って差別あり。もし妄念を離るれば唯だ一真如なり」(法蔵『妄尽還源論』)

 
 意識が「本質」仮構的に働きさえしなければ、存在は粉々たる分節の様相を消して、その本質的「一」性に返るということでもあると井筒氏はいう。分節(Ⅰ)から無分別に向かう向上道への第一歩は、経験界の事物のすべてはほんとうは無「本質」であると悟るときであり、そこでは意識のどのような深層次元が拓かれ、どのような存在風景が現出するのだろうかを井筒氏は考察していきたいのだと語る。たいへん興味深いことである。
 次回から禅の本格的解明に入る。心して向かわなければならないだろう。




次回、第十二回につづく。

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「空と不空について」 『意識の形而上学を読む』小林稔

2015年12月27日 | 井筒俊彦研究

連載第六回

井筒俊彦『意識の形而上学』を読む

小林稔

 

「空」と「不空」について

 

 真如とは、あらゆる存在の真の姿、心のあるがままの真実のすがたと『大乗起信論』に記されている。(筑摩書房「世界古典全集第七巻」からの引用)これは古代ギリシアから現代に至る哲学の本質である。私たち日本人は哲学というと、何か現実と離れた別の世界を思考する隠者の学問と考えがちであるが、哲学をする者も読む者も、そのような偏見を破棄しなければならないと私は思う。井筒氏の導きの後で『起信論』を改めて紐どくと、より近寄りやすく感じられてくる。私は『意識の形而上学』の中盤まで読みかつ書き留めてきたが、「空」と「不空」をまとめるにあたって、冒頭から『大乗起信論』を読み直してみようと思った。『意識と本質』においてもそうであったが、私は詩学との接点を探っているのである。というより読み進めればポエジーの聯想は止めどなく浮上してしまうのを抑えることができない。しかしここでは極力抑制して仏教哲学を読み解き、それを終えた時に詩学を確立してみよう。

『起信論』の序文では、「仏と法と僧との三宝に帰命する」とある。「法は真実のままに仏道を修業しつつある人たちである」。「すべてのひとびとが、仏に対する疑いの念を晴らし、邪な考え方を捨て去って、「大乗」に対して正しい信念を起こすように」願うからであると書かれている。大乗とは「ひとびとを悟りの世界に導く大いなる乗りもの」と書かれている。いわば超大型のジェット機のようなものであり、人類を悟りの世界に連れていくものだと述べているのだ。実際には「仏自らの体」である法をこの経典は伝えようとしているのである。第二章で、二種類の観点を明らかにする。つまり「大乗の実体とは何か」と、「いかなる義理によって大乗と名づけられるのか」である。

最初の観点。「大乗の実体」とは「一切の衆生が内にそなえている心」だという。この「衆生心」とは一般大衆のこころ(「意識」)であろう。「衆生心」には世間の法、つまり迷いと出世間の法、つまり悟りが内包されている。「衆生心」の真のすがたには前回述べた三大、「現実のさまざまに展開しつつあるすがたは」、大乗自体(体)と属性(相)とその働き(用)を示すものであるという。

二番目の観点。「衆生心」はなぜ大乗と呼ばれるのか。その理由の一つは、衆生心それ自体は「あらゆる存在の真なるすがた(真如)であり、それは悟りに到達せる仏の位にあっても、あるいは迷いの生存にあっても、つねに平等であり、悟りによって増加することもなければ、迷いによって減少することもないからである。」第二の理由は、「衆生心は本来、すでに悟りに到達せる覚者と全く同等のすぐれたる性質・功徳を具有しているからである。」第三の理由は、「衆生心の働きは、よく一切の世間と出世間とにおける善の原因と結果(因果)とを生ぜしめるからである。」と『起信論』の第二章には述べられている。そして過去の仏たちはこの大乗の教えによって悟りに達したのだという。

ここで解読する限り、衆生心とは「一切衆生包摂的心」であり、プロティノスのいう全宇宙的覚知体、「ヌース」に本質的に照応すると井筒氏は解釈する。しかし衆生心にはもう一つの意味がある。「普通の我々平凡人の日常的意識」でもあり、この両方の意味が一体化していると井筒氏は指摘する。衆生心がこのように自己矛盾的双面性を示したように、絶対無分節・絶対未現象態(A領域)における存在も自己矛盾的双面性があり、「如実空」(空そのもの)と「如実不空」(不空そのもの)という言葉で『起信論』は説明している。「心真如」(A領域)から「心生滅」(B領域)の存在論的価値づけを進めてきたが、それを逆転させBからAに関連して、「心真如」それ自体の本来的あり方を考察しようとすれば、「意識の形而上学の窮極処に踏み込む」ことになり、「アラヤ識」を避けて通ることはできないと井筒氏は考える。その序奏として「空」「不空」の概念把握をしているように思われる。

意識と存在のゼロ・ポイントの「心真如」(A領域)は「一切の意味分節を超絶して一点の妄染すらない」、これこそ「空」というと井筒氏は説明する。

 

真如が<空>であるといわれるのは、真如が本来、一切の汚れと渉りあうことがないからである。真如は、一切の諸法を差別的認識によって把らえようとする立場からはとうていその真相に触れることのできないものであり、そこには虚妄の心念がないからである。真如の本性は、有でもなく、無でもなく、有にあらざるものでもなく、無にあらざるものでもなく、有にしてかつ無にあらざるものでもない。また一でもなく、異でもなく、一にあらざるものでもなく、異にあらざるものでもなく、一にしてかつ異なるものでもない。すなわち、われわれの思考形式におけるあらゆる手段をつくしてこれに近づこうとするも、かかる妄念にもとづいた差別的認識(「分別」)の尺度のよっては、その真相に触れることはできない。このような差別的認識を超越した真如のあり方を<空>と言う。したがって、もし妄心を離脱するならば、真如そのものには、実に否定さるべき何ものも存しないのである。

                  『大乗起信論』第三章第一節の一より

 

 人間には誰でも妄心なるものがあり、時々刻々、存在を「分別」(=意味分節)し、限りない現象的「有」を生み出して止まない。それらの事物はどれも「真如」とはピタリ合うものはない。だから「真如」の自性を歪曲して提示する意味分節の単位を一挙に払拭するために、どうしても「空」という概念を立てることが必要であると『起信論』は述べていると井筒氏はいう。「空ずべき空もなし」、そのことがまさしく「空」なのである。「なんという興味深いレトリックだろう!」と井筒氏は感嘆し、中国の荘子の「無無無」という「無」すら無化しようとした表現を思い起こしている。

「形而上学的なるもの」の窮極処を「空」や「無」で現象的「有」の実在性を絶対的に否定する表現で把握するのは、東洋哲学一般に通ずる特徴的アプローチであると井筒氏はいう。『起信論』では、それで終わらずに「不空」という概念を立てるのは、形而上学の最後の言葉ではなかったことを物語ると井筒氏は追記する。つまり、「心真如」を「空」とした観点から形而上学は方向を一変し、「心真如」の「有」的側面に向かい、一切の現象的存在者の絶対窮極的原因としての「心真如」が照射され、それに伴い、存在分節機能が発動すると井筒氏は説明する。ここでわれわれが目にするのは、以前の存在分節の世界であるが、この時点での現象界は「妄念」分節の所産ではない、全現象が「心真如」の自己分節、内的自己変様なのだと井筒氏はいう。表面的には何も変わっていないように見える。どのようにしてその差異を見極めるのかは、おそらく『意識の形而上学』第三部「実存意識機能の内的けカニズム」で説かれるであろう。しかしなぜ「心真如」がこのようなことが可能なのか。「すべて原因されたものは、自分の源泉としての原因の中に、始めから存在していたのだと『起信論』では述べられている。つまりプロティノスを引用して説明したように、現象的「有」は「心真如」の中に始めから不可視の存在可能態において、潜在的に、伏在していたと考えるからであると井筒氏はいう。元型的あるいは形相〈イデア〉的に潜在していたものが現勢化する、それが「心真如」の自己分節に他ならないと井筒氏解釈する。「心真如」は不生不滅の「真心」(しんじん)で虚妄性はまったくなく玲瓏たる諸相(=「浄法」)を無尽蔵にそなえている。その「浄法」が、「心真如」の自己分節という形で現象的存在者として顕現してくるという「心真如」のこの側面を「不空」と名づけるのだと井筒氏は指摘している。

「不空」と名づけられるべき「心真如」においては、井筒氏によれば「一切の現象的事物事象をあますことなく形相的存在可能性において包蔵している。あらゆるものがそこにあるイデア空間、言語アプリオリ的分節空間、全包摂的全一性において、一切が永遠不変、不動」」とも呼ぶべきものであるという。

『大乗起信論』のテクストでは、第三章「詳細なる説明」のうちの第一節「大乗に関する正義を明らかにする」の、さらにその一、「心のあるがままの真実のすがたにおいて把える立場」において、真如を「空」の方向から考察する立場(「如実空」)と、真如を「不空」の方向から考察する立場(「如実不空」)から真如を説明してきたのである。次の二、「心が現実にさまざまに展開しつつある世界において把える立場」と書かれていて、1から5まであり、その1、「心の生滅――現実における生滅心Ⓜ構造を心の本性の上に位置づけるための論述」と記され最初の項目が、《アーラヤ識の定義》となる。井筒氏の『意識の形而上学』第二部の最終章Ⅻは「アラヤ識」(p91)から、この(『意識の形而上学』を読む)連載第七回で突きつめてみよう。

 

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