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ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

ユダヤ教の成立と初期キリスト教への変容(つづき)小林稔個人季刊誌『ヒーメロス』19号

2012年08月19日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの
長期連載エセー『自己への配慮と詩人像』(十一)(中篇)



38 ユダヤ教の成立と初期キリスト教への変容(つづき)


司牧者(牧人)の権力の初期キリスト教での進化
 司牧者の権力が紀元後数世紀の間のキリスト教の文献の中でどのように現れてきたかをフーコーは検討している。クリュソストモス、キプリアヌス、アンブロシウス、ヒエロニムス、カシウス、ベネディクトスたちのテキストからフーコーはヘブライ的テーマがキリスト教において変容する四つのレベルを挙げる。
一、責任についての問題。牧人は個々の羊に心を配ることを先で述べたが、キリスト教ではすべての行動についての善と悪について羊たちに心を配るようになる。さらに罪と善行の交換、交流のシステムを設けているとフーコーはいう。最後の審判の日に羊飼いは返答を強いられることになる。あるいは群れが救いの道に至るのに手を貸すことで牧人自身の救いを見出すということになる。群れと牧人の強い精神的なきずなは、生命だけでなく、個人の行為の細部にまでかかわってくることをフーコーは指摘する。
二、従属ないし従順に関する問題。神はすなわち牧人であるというヘブライ的考え方では、従う群れは神の意志と神の法に従っている。キリスト教では、牧人と羊との関係を個別的かつ全体的な依存関係としてとらえているとフーコーはいう。ギリシア思想では従わなければならないのは、法であり、シテの意志であるからである。特定の人の意志に従うことがあるとしても、その人の理性に説得されたからである。キリスト教では、個人的な服従が問題になるのである。牧人の意志は法とは関係ない。カシウスの『共住修道制度』の中に、上司の無意味な命令に従うことによって自らの救いを見出すという話が多くあり、従属は徳と考えられた。対自的に行使される意志から解放してくれるものを、ギリシアのキリスト教ではアパテイアと呼び、個人が理性の力を借り自己の情念に対して行使する影響力のことをギリシアではアパテイアと呼んでいる。
三、牧人と羊たち一頭一頭の間の個的な面識関係。羊の群れの状態だけでなく、羊の一頭一頭についてどんな状態にあるか知っていなければならない。キリスト教において以前の牧人制を増幅したものが現れた、つまり、群れの一人ひとりの物質的欲求を知ること、群れの中で何が起こり各構成員が何をしているかを知っていること、各構成員の魂に中で何が起こっているのかを知り、隠された罪を知り、聖性への道にきちんと進んでいる
かを知ることが羊飼いに求められたとフーコーはいう。さらに、ギリシア世界で使われていた良心の究明と良
心の指導がキリスト教は採用したとフーコーは指摘する。良心の究明は、ピュタゴラス派、ストア派、エピクロス派の間では善と悪の日常的な貸借表を作成する手段として受け入れられていた。それを変質させて採用したのであり、それによって、克己心と自己の情念の統御への道にどのくらい進んだかを測定できるのである。良心の指導は、悲嘆に暮れているときや運命の急転に苦しんでいるときにアドヴァイス与えたのである。それは恒常的になされ、羊は四六時中導かれる状態にあった。指導者に魂の奥底まで開いてみせることが求められていたとフーコーはいう。紀元一世紀の苦行僧や修道僧のテキストに数多くみられ、またそれら技術の存在がすでにギリシア・ローマ文明の中に特異な現象として現れていたことをフーコーは注記している。
四、キリスト教の技術といってよい、良心の究明、告白、指導あるいは従属には、自己の抑制に向けて努力するように導くという目的があったとフーコーはいう。抑制とは死をさすものではなく、現世と自己の放棄のことであり、「一種の日常的な死」、「もうひとつ別の世界での生に道を与えるとされる死のこと」であるとフーコーは説明する。ギリシア思想の献身とは全く相違し、「キリスト教的な抑制とは自己対自己の関係のかたちのことであり、キリスト教にとって不可欠な部分であるとフーコーはいう。このような二つのゲーム、つまりシテとその市民のゲームおよび羊飼いと群れのゲームの両方をヨーロッパの近代国家と呼ぶものの中で巧みに結合させることによって、ヨーロッパ社会は悪魔的な社会になってしまったとフーコーは主張する。ヨーロッパの文明は複雑な知の体系(精神医学、医学、犯罪学、セクソロジーおよび心理学など)と、ソフィストケートされた権力(精神病院や刑務所、個人の統制にかかわるすべての制度の中で行使される権力)の構造を発展させてきたが、狂気、苦痛、死、犯罪、欲望、個別性といった根源的な経験はどのようなかたちで、知や権力と結びついているのかと問い、答えは見つからないが問題の提起を諦めるべきではないとフーコーは主張する。

 祭司、王、預言者
 先に司牧者の権力の特徴を示し、キリスト教によってどのように変容したのかを、フーコーの『全体的なものと個別的なもの』という書物に基づいて考えてみたが、ここで古代イスラエル国家の特殊性について、中山元氏の『賢者と羊飼い』(フーコーとパレーシア)などを参照しながら明確にしてみよう。
 関根正雄氏の論考『イスラエルにおける政治と宗教』によると、ダビデ・ソロモンによる王国形成以前のイスラエルは十二士族の連合としてのアンフェクチオニー(宗教連合)の形をしていたが、そのようなイスラエルに神ヤハウェを王とする思想があったかどうか、また王国拒否の思想が王国成立前にどのような意味で存在したのか、また王国滅亡後にそれらがどのような影響を与えたのかは中心的な問題であるという。
 イスラエル社会の誕生の記憶は、アッシリアと新バビロニアによる捕囚から民を故郷へと導いた後に聖書の「出エジプト記」が書かれていることから、脱エジプトをひとつの「メタファー」と考えるべきかもしれないと中山元氏はいう。神政国家のエジプトからの脱出を伝説化することで、自らのアイデンティティを構築したかもしれないと中山氏は述べる。例えばイスラエルは羊を犠牲にするが、農耕するエジプトでは禁じられていた。初期のイスラエルはポリスを形成し民主政治をするギリシアとも異なり、「支配者」が劣者に対して思いやりを持つ司牧者的な社会であったと中山氏はいう。

 イスラエルの司牧者である統治者は三つに分類することができると中山氏は指摘する。裁判人としての祭司と王と預言者である。モーセの律法では政治的主体は裁判人である。『申命記』にある「レビ人である祭司およびその時、任に就いている裁判人」という記述がある。レビ人とはヤコブ(イスラエル)とレアの子であり、イスラエルの十二部族の一つを形成し、その子にはモーセとアロンがいる。中山氏の説明によると、モーセは預言者であり律法を与える者であり王に相当する地位にあった。モーセの率いる共同体では政治的な指導者と宗教的な指導者の区別はなく、神政的な統治の下にあった。やがて『出エジプト記』に「祭司としてわたしに仕えさせるために、イスラエルの人々の中から、兄弟アロンとその子らすなわち、ナダブ、アビラ、エルアザルとイタマルを、アロンと共にあなたの近くに置きなさい」とあり、モーセの兄弟アロンを神は祭司とするこ
とでモーセの神政一致的な地位に亀裂を与えたことになると中山氏は指摘する。やがてレビ一族が祭司として
裁判を引き継いでいくことになる。彼らは、神の怒りが自然の災害や政治的な不運をもたらすと考えていたの
で、どのような契約を違反したのかを解明するのが祭司たちであった。つまり、個人の罪に対して共同体の連帯責任が問われるということである。マックス・ウエバーが『古代ユダヤ教』で述べているように、古代イスラエルの連合法が極めて倫理的に方向づけられる理由に、このことがある。連帯責任といっても、祖先への責任と共同体の成員の連帯責任があった。「ヤハウエというひとりの神との間で、神の命令に従うという契約を締結しているために、すべての信徒の〈魂のみとり〉が、政治的に重要な意味をもつ」と中山氏はいう。人々が切望したのは犠牲の奉納ではなく、「ヤハウエの意志と、この意志に反しておこなわれた過誤とを探求することだった」し、それが祭司の務めであったと中山氏はいう。また祭司は神の怒りを静めよ方法を知るため訪れる人々に、罪のカタログを用意して訊問し、「告白と懺悔とあがないを求めた」という。「祭司は共同体のすべての成員の利益のため、個々の信徒の魂に配慮し、律法に違反した者がいないかどうかを監視しつづける。違反した者がいた場合には、共同体全体に被害がおよばないように、その者を罰し、あるいは犠牲を捧げることで贖罪させる」、そのような任務を負った者が第一の司牧舎である祭司なのだと中山氏はいう。
 二番目の政治的主体として王の存在がある。モーセは王のような地位にあったが、預言者として死んだ。死後、自分の子供を指導者の座を継がせられなかったことから明らかであろうと中山氏は指摘する。イスラエルの共同体は規模の小さい国家であったので王は置かれず、士師が統治と戦争を指揮した。しかし内部の対立が激化しぺリシテ人との戦いがつづくとイスラエルも国家形成を進め、王朝を必要とするようになったと中山氏は説く。王の資格は、イスラエルの同胞から選ばれること、銀や金を大量に蓄えないこと、律法のすべての言葉と掟を守り、「この戒めから右にも左にもそれることなく、王もその子らもイスラエルの中で王位を長く保つこと(『申命記』一七章見二〇)である。しかし王を戴くことは人々が王の奴隷になることであると預言者が伝えていた。ユダヤの民はあくまで王国を望んだと中山氏はいう。サムエルは預言者として信頼を得、のちに祭司として、さらに士師してペリシテ人に勝利した。サムエルが年老いたとき、イスラエルの民は王制を求め始める。王制を望まなかったサムエルであったが、神の命令によってサウルという人物を探し出す。サウルに油を注ぎ王にしたサムエルであったが、自分の言葉に従わないサウルを見限り、ダビデに油を注いだのであった。ダビデは巨人ゴリアトのいるペリシテ軍との戦いで勝利した。サウルは嫉妬からダビデの命を狙うが、サウルの息子であるヨナタンとは友情で結ばれていた。サウルがペリシテ人との戦いで死んだ後、ユダの王になり、sの後、統一イスラエルの王になったのである。ダビデは軍の編成のため人口調査をしたが、「聖なる戦いにあっては勝敗を決めるのは神だから」、「聖戦の義に反する」ので、神はダビデを罰するためにイスラエルの民に疫病を下した。「ご覧ください、罪を犯したのはわたしです。わたしが悪かったのです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。どうか御手がわたしとわたしに父の家に下りますように」(『サムエル記 下』二四章一七)。王は神から羊たちを預けられた司牧者であり、自分自身を羊たちの幸福のためには犠牲にする覚悟を求めらてていたと中山氏は指摘する。
 第三の政治的主体は預言者である。神の言葉を聞き取る人であり、アッシリアによる前八世紀の捕囚のとき、ホセア、アモス、イザヤが、バビロニアによる前六世紀の捕囚のとき、ゼファニア、ハバクク、エレミア、エゼキエルが現れる。つまり、歴史の大きな「切れ目」のとき、預言者が神の言葉で民に警告を与えるのだと中山氏はいう。王の命令は律法に反するときもあり、民はそれにいつも従うとは限らずなかったが、預言者の命令には、神の絶対的な服従を命じるものであるから、預言者は王より高い地位に置かれるときがある。民が預言者の言葉に従うとは限らず、神が民の心をかたくなにし、預言者の言葉を聞かないようにすることもある、そのことを理由に民に罰を与えつづけることもあると中山氏は指摘する。何より特徴的なことは、神と直接に交流することができるが、その反面、自分の命を差し出してでも民の命を救おうとすることもある。
 預言者はどのようにして預言者になるのか。『エレミア書』では、神が特定の人を預言者として選び、拒むことができない様子が描かれている。主に命じられたことを語ると人々は預言者を恨み、迫害しようとすることがある。「預言は生命を賭した行為」であり、アテナイの民会で自己への配慮を怠っていることを非難するソラ
テスと、罪を告発するエレミアは命を危険にさらしてまで真理を主張することにおいて、二人ともパレーシア
ステースとして、民の改心を目指す姿は似ていると中山氏はいう。両者ともに、人々は耳を傾けようとしない。バビロニアの軍隊にエルサレムを包囲された住民に降伏を勧告する。ソクラテスに死刑を勧告する。中山氏はギリシアのパレーシアとヘブライの預言では大きな違いがあるという。ソクラテスは沈黙を選ぶことができるときにも道徳的な促しから真理を語ろうとする。裁判において真理を語るように強制された者はパレーシアステースと呼ばれないように、預言者は神から口に言葉を入れられ、強制のもとで真理を語るのであるから、エレミアはパレーシアステースとみなすことはできないと中山氏は主張する。
 改心することは、「預言者の資格を決定する」大きな目印となるというマックス・ウエーバーの指摘を、中山氏は引用する。また、ウエーバーによると、預言者は自分が救世主であるとか、模範的な宗教的達人であるというようなことは語らず、すべての人に課せられた倫理的要求と少しも変わることがないという。エレミアにとって、「予言されたことを実現させるのは、断じて予言者のじぶんの意志ではないのであって、むしろ肉声によって予言者に伝達されたヤハウエの決断、つまりヤハウエの「言葉」なのである」とウエーバーは述べる。古代キリスト教団とは異なり、預言者は自分を神の命令の道具や奴隷にすぎないと思っている。政治的民族共同体にいて、その運命こそが関心事であり、祭儀的ではなく倫理的に関心を持っていたとウエーバーは指摘する。むしろ古代末期密儀集団の影響が古代キリスト教にはあったのであろうと彼は指摘する。

 ユダヤ教の成立
 アッシリア帝国が勢力を拡大し、北イスラエルは前七七二年ごろ、首都サマリアが陥落し滅亡する。隣りの南ユダ王国は脅威を感じ、預言者イザヤの反対を押し切ってエジプトに支援を求めアッシリアに応戦するが、アッシリアのセンナケリブ王は大軍をパレスチナに派遣し首都エルサレムを包囲する。このとき預言者イザヤはエルサレムを守り救うという神の言葉を告知したが、預言が実現、神の御使いが現れ、十八万のアッシリア軍を撃ち、エルサレムは解放された。また「暴虐無法」なアッシリア軍には神の審判が下ると預言し、前六一二年ごろ、アッシリア帝国は新バビロニアによって滅亡したのであったが、まもなく南ユダ王国に新バビロニアによる滅亡の危機が訪れる。この時期に預言者エレミアが活躍することになる。前五九七年、新バビロニア帝国のネブカドネツァル王がエルサレムを占領し、第一回のバビロニア捕囚が始まる。南王国ユダの支配者や知識人、上流階級の人々だけであったと中山氏は述べる。『列王記 下』二五章一二に記述されているように、貧しい民の一部はブドウ畑と耕地に残されたのであった。前五八七年にエルサレムが陥落し、第二回バビロニア捕囚があり、前五八〇年ごろ第三回のバビロニア捕囚がある。アッシリア捕囚のときはさまざまな場所に離散させられたが、バビロン捕囚のときはバビロンにまとめて居留させられたのである。バビロニアはかつてのユダ王国をそのままにして入植させなかったので、捕囚者たちは故国を思い帰還できる日を待ち望んだ。捕囚印同士の絆はヤハウエの教えである。異国での生活の中で、自らのアイデンティティを明確にすることが求められた。割礼の慣習や安息日などの儀礼が「契約のしるし」として尊重されたのである。国を失った民は、宗教によって同一性を保ち続けたのである。前五三八年、新バビロニア帝国はペルシャ帝国に滅ぼされ、キュロス王によって捕囚民はエルサレムへの帰還を許されたのであった。ペルシャ帝国はそれぞれの民族が持つ宗教を重んじていたことによる。三度にわたるバビロニア捕囚によって古代イスラエルの宗教はユダヤ教へと確立していくのである。第一回バビロニア捕囚民の中にいたエゼキエルは、バビロンのケベル川の辺で召命を受け預言者になった人である。その生涯の大部分をバビロンで過ごし、故国の運命を憂えたのであった。先述したようにバビロニアはユダ王国に他の民の入植をしなかったので、望みをもつ捕囚民に対してユダとエルサレムの滅亡を告げていた。しかし、絶望に打ちひしがれた捕囚民を救済すべくイスラエルの復活を語る。
 前五三八年から捕囚民たちがつぎつぎに帰還し、前五一五年にようやくエルサレムが再建されたが、前四四五年ごろネヘミアが、前三九八年ごろエズラが、エルサレムに帰還し改革に着手して始めて宗教的かつ社会的な秩序が構築されるに至ったのであった。つまり、エルサレム神殿とユダヤの古い律法を軸にしてユダヤ教を確立していったのである。中山氏によると、ネヘミアは「異民族と混血の住民の排除」をし「イスラエルの純
潔を確保」し、さまざまな宗教的な改革をした。エズラはモーセの律法の書を会衆の面前で朗読したり、異民
族との結婚が「ユダの民が犯した最大の悪事である」とし、彼もまた「イスラエルの純血を高めるための作業を遂行した」と中山氏は指摘する。このように「純血のユダの人々の間で、閉じられた教団宗教としてユダヤ教が形成されて」いったのである。ペルシャの支配下においてアイデンティティの根拠となったのは、「安息日、割礼、食物規定を中心とする律法の体系は、その後さまざまな異民族によって支配されながら、どこにおいて
も、ユダヤ人がユダヤ人であり続けるための基盤となった」と『聖書時代史旧約篇』で述べる山我哲雄氏の言葉を引用している。二度にわたる捕囚によってユダヤ人として集結したのであったが、他の民族から孤立する「不気味な存在」(ラート『旧約聖書神学Ⅰ』)の国家を形成したのである。

 旧約聖書の記述は捕囚修了後に書かれたと一般的には信じられている。ユダヤ民族としてのアイデンティティを歴史の形態で書き、それらを思い起こすことで未来の時間を、民族の進むべき道を過たずに見つめたのである。それにしても、聖書のエクリチュールは、特に預言者の記述はこれまで論じてきた古代ギリシアのエクリチュール、例えばプラトンのそれとは何という違いであろう。哲学と宗教の違いとして見過ごすわけにはいかない。文学表現として『エレミア書』や『エゼキエル書』などを読むとき、想像力に富む言語力に圧倒されてしまうのである。このようなエクリチュールをなしえたユダヤ性とはどのようなものなのか。
 マックス・ウエーバーは『古代ユダヤ教』の「第一章イスラエル誓約共同体とヤハウェのまえがき」において、ユダヤ人の独自性は、社会学的に見ればパーリア民族()であることに由来するという。とは社会的環境世界から遮断されている客人民族のことであり、「環境世界に対するユダヤ人の態度の本質的諸特徴……(略)……自由意志によるユダヤ人居住区の存在や対内・対外道徳という二重道徳のつかいわけはすべてこの存在から由来すると見られる」と主張する。意識と旧約に見られる選民意識とは表裏一体のものではないかと私は思う。ウエーバーは、第二章で「ユダヤ的パーリア民族の成立」という表題でになった歴史を捕囚前と捕囚後に分け論じている。メソポタミアやエジプトのような巨大な国家が拡張政策を開始すればイスラエルは不安に駆られる。シリアやアッシリアが行った冷酷無情な戦争は、預言の神託の中に政治的な地平線を陰鬱に色取っていく。古代のすべての王は政治的決断を神託によって決定するが、宮廷内の問題であり、民衆に向かって語るものではなかったが、都市国家エルサレムにおいては事情は異なるとウエーバーはいう。預言の多くは国家や民族の運命を相手とし、時には王と敵対することもある。
 ウエーバーは預言者(翻訳では予言者と表示されている)の神託は無報酬であったことを指摘する。それゆえ完全な精神的独立を勝ち得たのであり、「預言者がその時として戦慄すべき神託を聴衆に投げつけるのは、主として誰の依頼も受けずに内面から押し動かれておこなう、ひとの依頼に応じてなされるのはまれなのである」。また、ウエーバーはホセア、イザヤ、エレミア、エゼキエルなど大部分の捕囚前の預言者は、エクスタシスにおちいる者であり、私的生活行状からして彼らは奇人である、禍が切迫しているという理由でヤハウエの命令で独身を通したエレミヤ、ヤハウエの命令で娼婦と結婚したホセア、ヤハウエの命令で女子預言者と交わったイザヤが解読できると指摘する。

ユダヤ教における分派の出現
 マケドニアがフィリッポス二世のもとで軍事的統一国家を形成し、アレクサンドロス三世に引き継がれると、世界帝国の建設に着手していった。前三三三年ごろ、ペルシャ帝国を滅ぼしたアレクサンドロスの死後、エジプトにプトレマイオス一世は新しくマケドニア人王朝を開きプトレマイオス朝を統治する。パレスチナはその支配下に入るが、シリアを支配するセレウコス朝との対立に巻き込まれていく。このような中でパレスチナはヘレニズムが浸透していくのであった。やがてユダヤはローマのポンペイウスによって征服され、ヘロデ王がエルサレムを占領しユダヤの王となる。このことでユダヤは完全にヘレニズム的な君主国家の支配下に置かれる。中山氏によると、ユダヤ教の内部でトーラー(律法)をめぐって諸派に分裂し競う合うようになったという。国家を経済的に支え、ヘレニズムを受け入れようとした貴族的な上流階級をサドカイ派と呼ばれる教義を
信じていた。トーラーは神によって選ばれた聖所で祭司を定期的におこなうことを主張した。ファリサイ(パリサイ)派は中産階級に支持があり、ユダのヘレニズム化に抵抗していた。霊魂が不滅であると信じていて、彼岸での善行の報いをうけることができるという考えは「キリスト教の復活の思想と響きあうところがあると中山氏は指摘する。サドカイ派は神はユダヤのものだけではないと考えていたという。「すべての人類の神としての神」を認め、「個人の魂が生き残り、あの世で応報をうけることを信じた」というイジドー・エプスタイン
の『ユダヤ思想の発展と系譜』を中山氏は引用している。エッセネ派は律法を完全に守ることを重視し、穢れた人々から遮断されて荒野で暮らす流派であると中山氏はいう。フィロンの『観想的生活・自由論』によると、エッセネ派は成人男性だけの未婚者の集団で、女性は男性の心の統一を乱すものとして敬遠する。魂を神と結びつけ瞑想して暮らすテラペウタイという集団もあったという。彼らはギリシア的なものにある純粋性を求めるようになったと中山氏はいう。ギリシアのオルフォイス教団のような霊魂観を持っていたらしいというから、ヘレニズム化の影響が認められるということであろう。その他にはゼーロータイという流派があった。神はヤハウエだけであり、ヘレニズム化に反対を唱える流派である。「アウグストゥスが元首に即位した前二七年、ヘロデはフェニキアに港湾都市を建造したが、その中央の小高い丘にはカイサルの神殿が建っていて、その中にローマの像やカイサルの像が遠望できたという。ユダヤ人には皇帝崇拝は忌まわしいものであり、拒否を通すことで自らの神学的根拠を付与したのだが、しかしゼーロータイは終末論をユダヤの政治的空間に持ち込みユダヤ国家の滅亡をもたらしたと中山氏は説明する。このユダヤ戦争にエッセネ派も加わり、結局姿を消していったのである。残ったのはファリサイ派の一派で、後のユダヤ教のラビの伝統の端緒となったと中山氏はいう。

 

ユダヤ教の成立と初期キリスト教への変容、小林稔個人誌『ヒーメロス』19号2011年10月25日発行から

2012年08月11日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの
小林稔個人季刊誌『ヒーメロス』19号2011年10月25日発行より

〔長期連載エセー〕自己への配慮と詩人像(十一)(前編)
小林 稔



38 ユダヤ教の成立と初期キリスト教への変容


 ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボーが一八七一年五月十三日付のイザンバールに宛てた、世間に流布する「見者の手紙」で記述したJe est un autre.「私とは一つの他者なのだ」というフレーズにおいて、Je suis un autre.とすべき表現をJe est un autre.と造語し、il(彼)とje(私)を入れ替えたことで言い表そうとしたことは、ルネ・デカルトのcogito ergo sum.「われ思う、ゆえにわれあり」のパロディであるが、ランボーの、いわゆる「他者の思考」を、私のこのエセー「自己への配慮と詩人像」の根幹である、ミシェル・フーコーの晩年の哲学思想、「真理と主体」のフィールドに移すとき、古代哲学における、ピュタゴラス派から引き継がれた「哲学と霊性」の問題が、キリスト教神学とスコラ哲学を経由し、デカルト、スピノザを通過して十七世紀以降の近代哲学に、とりわけ十九世紀のヘーゲルの『精神現象学』に噴出するのを見出すのである。
 デルフォイの神託gnôthi seauton(グノーティ・セアウトン)「汝自身を知れ」と表裏一体を成すepimeleia heautou(エピメレイア・ヘアウトゥー)「自己への配慮」という観念には、フーコーによれば紀元前五世紀から紀元五世紀の千年にわたる変容(哲学的な訓練からキリスト教的な禁欲主義の初期形態まで)が見られ、それ以降、霊性は認識の哲学によって隠蔽され、ニーチェやボードレールが「自己の美学」や「自己の倫理」の中に甦生させるまで、「汝自身を知れ」が思惟という貨幣の表に向けられて、「自己への配慮」という概念は転覆の機会をうかがっていたことになる。配慮すべき自己とは何か。主体は認識によって真理への到達を保証されない。「主体は自らを修正し、自
分自身とは別のものにならなくてはならない」とフーコーは霊性の原理を解明する。これこそがランボーの「他
者の思考」でなくて何か。(フーコーはこのことにはまったく言及していない。)霊性とは、「主体自身の上昇」運動によって「真理が主体に到来し霊感を与える」ものであるとフーコーはいう。エロース(愛)とアスケーシス(修練)。(すでにこのエセーで考えつくされた。)このような古代的な哲学が、なぜランボーという十九世紀の一詩人に現象したのか。ランボーは同時代の詩人たちの列から、神と崇めたボードレールからさえ、独り駆け抜けていったではないか。どこへか? この世の果てへか? 否、言語表現の彼方ではないだろうか。(この論考の後半、「詩人像」で究明することになる)。私は論を先に進めすぎたようである。これからキリスト教の誕生の基盤となったユダヤの思想に降りていかなければならない。司牧の権力とはいかなるもので、いかなる背景のもとに生まれたのか。来るべき詩にとって反抗が反抗たりえるのは、思考の変遷の証人たるかつての「生と思惟」において、肯定と否定の両義性に葛藤しながら、時代の趨勢をつくり上げてきた無数の精神の継承とその実践にある。


生存の技法
 フーコーは『性の歴史』(全三巻)の第二巻「快楽の活用」の序文で次のようにいう。「強制も禁止もない場合でさえも道徳上の関心がつよい、という事態がしばしば起こっている」、つまり「禁忌と道徳的問題構成とは別々のもの」であることから、「いかなる形式において、性の活動が道徳領域として構成されたか」という問題をギリシア文化やギリシア・ラテン文化に対して問い、「ある実践の総体」と結びついているのであろうと考え、「生存の技法」と名づけている。それは「自分の生を、ある種の美的価値をになう、また、ある種の様式基準に応じる一つの営みと化そうと努力すること」であるという。このような「自己にかんする技術」はキリスト教の司牧権力の行使によって、あるいは後の教育、医学、心理学の実践に統合され、重要性と自立性をなくしてしまったが、再び考察されなければならないものであるとフーコーは述べる。
 「古代にはどのようにして性の活動と快楽が、ある《生存の美学》を働かせながら、自己実践をとおして、問題として構成されたか」を証明するため、古典期古代に始まり最初の数世紀のキリスト教時代まで遡って考えようとした。その研究成果が、古典期ギリシアの文化に当てられた「快楽の活用」であり、西暦の最初の二つの世紀に当てられたのが第三巻「自己への配慮」であった。この私のエセー『自己への配慮と詩人像』ではすでに論じられたが、キリスト教思想との比較において、ふたたびギリシアの古代や紀元後の二世紀のヘレニズム文化を要約して示し比較することによって、キリスト教思想の特異点を浮上させてみたいと思う。

 
 キリスト教性道徳との相違点
 フーコーによると、キリスト教は、性行為の価値に悪や原罪や失墜や死を結びつけ、生殖中心の一夫一婦制を唱え、したがって同性愛なるものを激しく糾弾し、禁欲と永遠の処女性に高度の道徳的で宗教的な価値を与えた、という真実らしい考えが恒常的になされているという。そのことに対してフーコーは、初期キリスト教が古代の道徳哲学から借用した緊密な連続性を挙げる。キリスト教のテキスト、アレクサンドレイアのクレメンスの著『教育者』には、古代哲学から借用した性と悪の結合、同性愛への非難などが見られるという。さらに長いスパンで見れば、キリスト教倫理と近代ヨーロッパ社会の道徳を特徴づけたものには、すでに古代ギリシア・ローマ思想の中核に現れていたと主張する。西暦一世紀のギリシアの医師アレタイオスによって記された遺精に関する書物やアプレイウス、エピクテトスなどの書物からいくつかの例を挙げている。さらにプラトンの『饗宴』に描かれたソクラテスに禁欲のある模範例をフーコーは述べる。多くの男たちに求愛された少年アルキビアデスの美しさに対して、ソクラテスは自制力で距離を保っていた。やがて少年の美しさが消え、青年に成ったアルキビアデスにソクラテスは声をかける。つまり自己抑制は知恵の一つの形式に結びついて、真理の存在に近づけてくれる活用なのである。「性の禁欲と真理への接近とのあいだの関係という主題群がすでにはっきり強調されている」とフーコーは指摘する。性行為に関する古代道徳の寛容さと性行為に対する生殖以外の厳格な拒絶といった簡単な図式で考える一般論に牽制をかけているのである。
それでは何が違うのか。「古代ギリシア・ローマにおける厳格さのこれらの主題は、社会面や世俗面や宗教面
の重要な禁止事項が線引きをしていたかもしれないもろもろの分割とは合致していなかったという事態」に注目すべきであるとフーコーはいう。一般的に道徳が要請するのは禁止や強制力をもつ義務である。キリスト教や近代ヨーロッパの歴史はそれらを示している。しかし古代においては違っていた。以前にもこの論考で取り上げたが、同性愛に寛容な社会において彼らは自らの倫理を築き上げようとしていたのである。しかし見落としてはならないのは性行動に関する道徳的省察に特有な「不均衡」であるとフーコーはいう。つまり道徳が差し向けられるのは男性であって女性ではない。しかし極端に厳格な拘束を女性は強いられていたという事実。つまり「男性によって考えられ、書きしるされ、教示され、しかも自由民たる男性に差し向けられた道徳、男性側の道徳なのである」とフーコーはいう。女性は客体であり、一人の男性の権力下にあるときのみ教育し管理するが、他の男性の権力下に置かれたときは感知しない。つまりは男性本位の行為についての入念な磨き上げであり、自分の権利と支配力と権威と自由を用いる際の男性に向けられる道徳であるとフーコーはいう。
 「何らかの行動が《道徳的》だと言われるためには、それを、ある規則や、ある法律や、ある価値に合致する、一つの行動もしくは一連の行動に帰着させてはならないのである」とフーコーはいう。なぜなら、道徳的行動とは場所としての現実と規範との関係を含むが、自己との関係を含むものであるからである。自己との関係とは、《道徳的主体》である自己であり、自分自身の道徳的完成という価値をもつ存在様式である。そのためには自分を抑制し、試練にかけ、変革しようとする。そして《鍛錬》あるいは《自己の実践》をともなうからである。一方で、行動の全領域を含む規範を活用し、服従を求め、違反すれば罰する権力機構がある。こうしたなかでは道徳的主体は法に関係し、怠れば罰する。これをキリスト教のモデルと考えるのは誤りで、宗教改革以前のキリスト教徒たちは法制化と戦ったのである。
 古代ギリシア・ローマにおいてもキリスト教においても重要であったのは、自分を道徳的主体として組み立てるために個人に求められるものを考える必要があるとフーコーはいいたいのである。自己との関係の形式、それを磨き上げる技術、認識すべき客体としての自己への専念する際の鍛錬と実践であり、倫理に方向づけられる道徳も、キリスト教では規範へ方向づけられる道徳も重要であったし、両者には競争と対立、あるいは和解があったとフーコーは述べる。「古典期ギリシアにおける思索から肉欲にかんするキリスト教の教義および司牧者準則の設定にいたるあいだに、どのようにして主体が明確なものとなり、姿を変えたかを検討することが重要である」とフーコーはいう。古代からキリスト教に借用された教義は、「ソクラテスは誘惑と戦う砂漠の教父ではない」ように、あるいは「女装したアガトンに対するアリストファネスの笑い(喜劇『女だけの祭り』でアガトンを登場させた)は、性的倒錯者の価値剥奪と共通点を持たない」ように、連続性を形づくっている結論を引き出すことはできないとフーコーはいう。一筋縄ではいかない古代とキリスト教思想の継承と変貌を知るためには、キリスト教がどのようにしてヘブライ思想の変革として登場したのかを見なければならない。


司牧者権力の四つの命題
 フーコーは、ヨーロッパ社会での政治権力の形態は時代が進むにつれ集権化されたという通念に対して、それとは逆行するもの、つまり中央集権国家への推移とは別に、権力に関わるもう一つの権力に注目する。それは、「個人を対象としながらしかもその個人を継続的、恒常的に支配するための政治技術、個別化を行うものとしての権力のことであり、フーコーは牧人権力(司牧者の権力)と呼び、その起源を古代史上における様相をしようとする意図を『フーコーの〈全体的なものと個別的なもの』という書物で述べている。
 古代オリエント社会(エジプト、アッシリア、ユダヤ)では、神自身が「羊飼い」であり、君主もまた「羊飼い」の称号を受けていた。しかし、「牧人のテーマを発展させ増幅させたのはやはりヘブライ人であったとフーコーはいう。古代イスラエル民族の父といわれたアブラハムは牧人としてパレスチナを流浪していた。後に神と格闘し勝利したヤコブは神からイスラエルと命名され、後に民族名をイスラエルとすることになった。さらに後代に、イスラエル統一王国の第二代王ダヴィデは牧人の名で呼ばれ、神が家畜の群れを呼び集める役目を託した。ユダヤ教の旧約聖書には羊飼いについての話が数多く表されている。フーコーは左記の挙げた書物で、ギリシアの政治思想との比較を通じて司牧者権力の四つの典型的な命題を取り上げている。
 一つ目は、「牧人は大地にではなくむしろ家畜の群れに対して権力を行使する」ということ。神々が大地を所有し、それが人々と神々とのあいだの関係を規定していたギリシア人と比べると明確になるが、ユダヤ思想は、羊飼いである神と家畜の群れの関係が起源的であり根源的であるという。
 二つ目は、「牧人が自分の群れを呼び集め、みちびき、引き連れていく」ということ。羊の群れに比喩される人々は、牧人として比喩される首長の存在と行動によって存在する。ギリシアでは立法者が人々の抗争を解決すると退き、シテ(都市)の存続が可能であるという法律を所有している。対立より統一に重きを置く考え方はギリシア思想にもあるが、ユダヤ思想の牧人が呼び集めるのは「離散した個」であるとフーコーはいう。
 三つ目は、「牧人の役割は自分の群れの安全を確保することである」ということ。ギリシア人は「優秀な首長を暗礁から船を守り続ける舵取りにたとえていた」が、牧人は救うだけでなく「慈愛が恒常的で、個別化され、かつ最終的であるか否か」に問題の中心があったとフーコーはいう。牧人は群れが渇きや飢えに苦しまないように心を配らなければならないからである。このような「個別化された慈愛」「出エジプト記」の注釈書にある、「なにゆえヤハウェはモーゼを人民の羊飼いにしたか」をラビが説明する箇所では、「モーゼはたった一頭の迷った羊を探しにいくためであっても自分の群れを離れる必要があったのだ」と記されていることをフーコーは挙げている。ギリシアの神には群れの世話を日々することは求められていなかったという。
 四番目に、「権力の行使はひとつの義務であると考えられていたこと」。ギリシアの首長もすべての人々の利益を考え決定を行うことが求められていたが、そうした首長の義務は栄誉としての義務であった。戦争で命を賭け戦わなければならないが、彼の犠牲は不死という能力によって償われていたとフーコーはいう。牧人の慈愛はいわば「献身」に近いものであり、群れの利益のためにすべてを行うことであるという。羊が眠っているとき牧人は見張っていなければならないのである。こうした献身には、全体のおいても細部において個別的な配慮を前提としているとフーコーは述べる。


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パレーシアステースとしてのプラトン、(後編)その二、小林稔季刊個人誌「ヒーメロス」18号2011年6月

2012年08月06日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの
長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(十)
パレーシアテースとしてのプラトン、(後編)その二、


パレーシアのプラトン的特徴
内戦勃発時に書かれたといわれる第八書簡には、二つの注意すべきテクストがあるとフーコーは述べる。ディオニュシオス一世の跡継ぎとディオニュシオス二世の跡継ぎ、さらにディオンの跡継ぎ(息子)、これら三人の王たちを宗教的機能のもとに一つにすることをプラトンは望んでいると指摘する。その仕組みは法律の存在と機能を保証するものであるとフーコーはいう。後の著作『法律』で反映される「法の番人」である。

わたしとしては、ともかく現在わたしは一応、薬と思われているところを、歯に衣着せず、ひとつの公平な立場か正論を用いて、打ち明けてみることにいたしましょう。というのは、つまり、ここでは僭主のなった側と、僭主に服従させられた側とを、それぞれひとりずつに見立てて、二人に対してのつもりで、調停官風に問答を交しながら、わたしは以前からの忠告を、繰り返そうというわけです。(第八書簡354A)

右に引用した箇所は、パレーシアの表明とも行使とも言えるような領域にいることを示しているとして、フーコーはさらにテクストを読み進めながらプラトンの助言の特徴を取り出していく。最初に直接自分が語るのではなく、故人を媒介にして自分が語ることの権威を強調するということがある。ディオンという死者、生命を危険にさらし真実を語った、つまりひとりのパレーシアテースを介入させる。それはプラトンが自分の語りを無効にするように見えるが実はそうではなく、ディオンはプラトンに生前、師として育てられていたから、プラトンがパレーシアを行使していることに変わりはない。「亡くなった人物を登場させ、今語られつつある物事を効力あるものとする」のは、ギリシアの雄弁術によく用いられる修辞学の方法であるとフーコーは指摘する。しかし、プラトンは雄弁術として活用しているのではなく、パレーシアの行使において活用しているのであり、プラトンのパレーシアの特徴であるとフーコーいう。次に、「今現在」という彼の表現にあるように、プラトンのパレーシアは「状況と状況についての言説であると同時に、恒常的なものの原理に結びついたもので」あり、その緊張を引き起こすところに特徴があるとフーコーは指摘する。例を挙げると、「隷属と自由とは、そのどちらかが行き過ぎた時、大きな悪となる」とプラトンはいう。その後で、「神に対する隷属や服従はまったく節度のあるものだが、人間に対する隷属は常に度が外れている」と加える。フーコーは「一般的な原則への参照と、個別的な状況への参照とのあいだで緊迫するパレーシアの言説」がここに見られるとフーコーは述べる。三番目の特徴は、政治的対立を超えた全ての人たちに、ひとりの人に対するように語るということである。「国家に処方と法を押しつける一般的な言説」であると同時に「一人一人にある種の操行、やり方を獲得させるような説得の言説」であるとフーコーはいう。四番目の特徴はシケリアにいる二つの党派に「diaitêtês」として語りかけるということである。「diaitêtês」とは、調停者のことであり、裁判以外の場所で頼れる調停者である。つまりプラトンは各党派間の調停者、国家のための医学的養生法を与える者としてパレーシアを行使するのである。(「diaita」には調停と養生法の二つの意味があるとフーコーは指摘する。)

 すべての神々および神々と並べ崇めるにふさわしいかぎりの他の神霊たちに、畏敬の念をもって祈願を捧げたうえ、諸君は味方の者たちにも離反者たちにも、おだやかにしかも手立てを尽して、呼びかけ説得しつづけるのを、けっして止めないでください。少なくとも、諸  君が、いまわれわれによって論じられたこれらの方策を、いわば『目覚めの枕辺に立つ神来の夢』とも受けとり、実地に手がけ、運よく、そしてまぎれもなく成就させるに至るまでは」(第八書簡357C-D)

 最後に挙げる四番目の特徴とは、自分が語る助言が現実に直面する挑戦、つまり自分の言説がほんとうか嘘かを現実が示すということを受け入れることである。引用した「今われわれによって論じられた方策」、つまりプラトンの助言を「目覚めの枕辺に立つ神来の夢」(哲学者は必要とされるときに訪れて語るべきことを語るの
であり、それは人間たちのもとを訪れる神の夢のようなもの=フーコー)と受け取り、哲学者が語りかけるの
は人間たちが目覚めている時であり、神の夢が真実を語るのは、努力して物事がはっきりした仕方で現実の幸
運に出会えた時であるとフーコーは読み解いている。つまり哲学者の助言は神の夢と同格であるとし、人間たちが目覚めている時に神の夢は現実に幸運をもたらすとプラトンはここで語っているのである。

政治との関連における哲学的な〈真実の語り〉
 フーコーは、プラトンの助言から解読できる三つの重要事項を、『自己と他者の統治』の二月二十三日の講義で語る。一つ目は哲学と政治の関係の基本的特徴である。哲学と政治の関係は、哲学が権力を行使する最良の方法に関して哲学が本当のことを語る能力に探し求めるのは間違えているということが分かることである。権力に対して言うべきことは何かではなく、権力との交わりの中で本当のことを語るということを考えなければならない。「政治的実践への関係」において、その関係性の中でのみ真実を語るということをフーコーは主張しようとしている。「政治的言説というものは、その真実において、また政治という場における、真実を見出すために必然的に行われるべきゲームの内部で、政治的行為というものがどうあるべきか、という点について思いをめぐらす必要はない」とフーコーはいう。つまり政治的行為について真実を語ることもなければ、政治的行為のための真実を語ることもない、あくまで政治的行為との関連において、政治的な人物との関連において真実を語るということになる。哲学は政治との関連で本当のことを語るべきなのであり、政治が行うべきことについて語らなければならないわけではない。近代または現代においても同様で、どのように統治すべきか、どのような決定を下すべきか、どのような法を適用すべきか、どのような制度を作り出すべきかを語る必要はないとフーコーはいう。しかし哲学が政治との関連において真実を語ることができるということは本質的なことであり、政治的実践と哲学が恒常的な関係を結んでいることは重要であるという。一見矛盾した論理であるが、政治的合理性と哲学の〈真実の語り〉は一致しない、にもかかわらず政治的実践との関連において哲学は現実の試練を受けることが重要なことであり、西洋における哲学と政治的実践の構成要素である。しかし、「獲得されるべき一致」と捉えてはならないとフーコーは主張する。逆に言えば、一致すべきと考えられてきた歴史があり、政治的合理性の方も自らひとつの哲学的教養として正当化してきた歴史があったのである。プラトンにとっては、「本当の問題が政治家たちになすべきことを語るということでは決してない」し、西洋哲学一般にとってもそうであろうとフーコーはいう。二つ目は「個別的なひとつの歴史的情勢」の出現が見出されるということである。フーコーは、個別的ではあるが、古代ローマ時代の末期まで支配的であった特徴であるとフーコーは述べ、プラトンの助言を二つに分けて考えている。ディオニュシオスにした最初の助言とディオニュシオスとディオンの友人たちにした助言。前者は国家の組織が占める位置、また制度、法律や司法が占める位置は限定的であるが、後者は広範囲で、同盟に関する問題、勝者と敗者の関係に関する問題、連合国家の関係や首都と植民地の関係に関する問題、服従した国家に対する統治の仕方に関する問題などである。要約すれば帝国の問題と君主制の問題、具体的にはシケリアという都市国家が他の都市国家同士の敵対関係や同盟、連合や植民地の仕組みなど古代ギリシア世界に近い世界の問題である。古代ギリシアの巨大な君主制国家がうち立てられた時以後、また地中海を被いつくすローマ帝国世界が組織された時以後に問題になる、政治的統一体をいかに組織すべきかという問題や具体的な政治的問題に引き継がれていくものであったとフーコーは解く。都市国家という政治的単位では考えることができなくなった政治的統一体、ある種の君主制というかたちでの統一体はどのようになされるべきであるか。個別的な問題に対するプラトンの助言でありながら、それは八世紀もの間に存続し、恒常化する新しい政治的現実に語りつづけたとフーコーは指摘する。
 一つ目の、政治的実践と哲学の一致しない恒久的な相関関係を明らかにすること。二つ目は、プラトンの時代に描き出される新しい歴史的・政治的情勢の中で君主自身が哲学者でなければならないというプラトンの主張とは何かということ。哲学的言説と政治的実践の不一致は、どのような場で見られるのか。キュニコス派はアゴラ(広場)や集会場などの公共の場であるのに対して、プラトンにとっては公共の場ではなく、君主の魂
であるとフーコーはいう。西洋の政治思想や哲学の歴史においてキュニコス派とプラトン学派の対立がつづい
ていくことになる。一方は公共の場であり、他方は君主の魂である。「哲学の語りは公共の場所にあって、君主
の行為や政治的行為に対して挑戦し、対決し、嘲弄し批判するものであるべきか、あるいは君主の魂に語りか
け、それを訓育すべきものなのか」という選択は、紀元前四世紀のディオゲネス(キュニコス派)とプラトン
の対立から始まったのである。

わたしは、国政にせよ個人生活にせよ、およそそのすべての正しいあり方というものは、哲学からでなくしては見きわめられるものではないと、正しい意味での哲学を称えながら、言明せざるをえませんでした。つまり、「正しい意味において、真実を哲学している部類のひとたちが政治上の元首の地位につくか、それとも、現に国々において権力を持っている部類のひとたちが、天与の配分ともいうべき条件に恵まれて、真実に哲学するようになるのかの、どちらかが実現されないかぎり、人類が、禍から免れることはあるまい」と。(326A-B)

第七書簡でこのように記述する以前に、プラトンは『国家』において「政治的権力と哲学とが一体化されるのでないかぎり、国々にとって不幸のやむときはないであろう」(473C-D)と、すでに書いていた。まるで政治と哲学の一致を説いているように見えて実はそうではなく、フーコーによれば。「哲学的な言説と哲学的な知と、
政治的実践との完全な一致」ではなく、「哲学を実践する人々と権力を行使する人々のあいだの一致なのである」。
哲学的な知が政治的行為や決定の掟になるということではない。「政治権力の主体が、同時に哲学的営みの主体でもありうるということ」であるとフーコーは解読している。つまり「哲学する主体の存在様態と政治を実践する存在様態との同一性についての問い」である。フーコーは次のように帰結する。「ある正しい政治の方針に従って他者を統治し得るためには、君主の魂は、本当の哲学に従って、本当に自らを統治できなくてはならない」ということである。このエセー『自己への配慮と詩人像』の最初に、『アルキビアデスⅠ』でソクラテスが政治家志望のアルキビアデスに教えた、他者を統治する者は自己を統治しなければならず、まず自己とは何かを知らなければならない」というテーマ、「汝自身を知れ」というデルポイの神託にこめられた「自己へ配慮せよ」という古い教えと直結しているのである。哲学することは、政治との関係において政治になすべきことを規定するものではないが、統治する者に対して自分がそうあるべき者として規定しなければならない。つまり政治家の存在様態を規定することができると、フーコーはプラトンのテクストを解読した。それは試練であり、哲学する主体との一致において、権力を行使する者の存在様態とはどのようなものか。フーコーはいう。以前、この論考でも論じたマルクス・アウレリウスは、プラトンの生きた時代から六世紀後になって、哲学者であろうとした君主として出現したのだ。彼は「哲学に対して、君主であるとはどういうことかを絶えず問いかけていた」のであり、哲学と政治の、一致ではなく交わる場所とは、君主の魂なのであるとフーコーはプラトンのテクストから読み解いているのである。

近代哲学と古代的な哲学のあり方
 ペリクレスを頂点に描き出される政治的パレーシアでは、市民を説得させるのは弁論術であった。ペリクレスの意見が国家の意見であり、成功するか、あるいは不成功かの危険は両者が共有すべきものであった。その直後にソクラテスという人物が現れるが、民会で民衆に呼びかけることは拒絶して街頭に立ち、日常言語で自己への配慮を語りつづけ、それがもとで命を落すようになるソクラテス像を描き出し、自ら哲学的パレーシアを行使したプラトンから明確に導き出される特徴をフーコーに従ってまとめてみよう。一つ目の特徴は政治に対する外在的関係である。統治者(権力者)に助言するための非政治的な仕方は、フーコーの言い方を借りれば、「政治との関係において自分自身の現実を試練にかけるということ」であるという。プラトンの『書簡集』がそれを明らかにする。二番目の特徴は弁論術への徹底的な排除である。政治に対しては外在性を保ちながら相関関係は絶えずあったことは、すでに『パイドロス』で検討した通りである。政治家が哲学者に対して他者であるとすれば、哲学者が語りかけるのはその他者に対してである。しかし、弁論家という他者は追放しなければならない他者なのである。「哲学は弁論術を犠牲にするという代償のもとでしか存在し得ない」とさえフー
コーはいう。弁論術と引き換えに、哲学が確証するのは、対話術と教育法である。三つ目は、魂の教導としての哲学の特徴である。これは『ゴルギアス』で示されたもので、魂の教導との関係の中で哲学的パレーシアが明確になる。ある種の「包摂、相互性、接合」といった関係であり、「性愛的でもあるような関係」であるとフーコーは解読している。これら三つの特徴(政治への関わり合い、弁論術の排除、他者の魂を求めること)は、ある視点からみるとペリクレス的パレーシアの機能の再度の捉えなおしといえるとフーコーはいう。勇気を政治体制に行使していたペリクレスに対して、ソクラテスやプラトンは対話術の原則に従って述べなければならなかったとフーコーは指摘する。またペリクレスは弁論術を駆使して他者を説得するのに対して、ソクラテスやプラトンは師が弟子に対して、魂だけでなく身体までも従わせるという、魂への働きかけを要求する。これら三つの特徴は、近代哲学となるべきものの根本的な要素や特徴といえるものが描き出されるとフーコーは主張する。自分自身による主体の変化や他者による主体の変化のうちに、自らが働きかける対象を見出すようなひとつの実践である哲学こそが哲学の近代的なあり方を構成するもの」であろうとフーコーはいう。この論考の最初の方で論じた「哲学と霊性」の問題をフーコーは示唆していると思われる。十九世紀の哲学が提起した再びの「自己への配慮」を配慮するようになったとフーコーはいう。真理から霊性を乖離させた神学については次回以降に論じていくことになるが、近代哲学も古代哲学も、政治の領域で何をなすべきか、いかに統治すべかを言うのは間違いであり、学問の領域において真偽を言うのは間違いである。さらに主体そのものの解放やその疎外の克服という目標を与えるのも間違いである。つまり哲学が政治に何をすべきかを語るべきではないということである。哲学は政治に対して「永続的で反抗的な外在性のうちにとどまるべきであり、ごまかしや欺瞞や錯覚に対して批判をすべきで、哲学は自分自身の真理についての対話術的なゲームを行うことになり、真実と虚偽を区別するべきではない。また哲学が疎外からの解放をするものと考えるべきではない。自己への関係が実際に変化することができるような、もろもろのあり方を決定すべきであるとフーコーは主張している。
 古代哲学をパレーシアという観点から見ると、哲学とはある種の行き方の選択であることが分かる。何をかを諦めることであるが、キリスト教の修練主義のような生き方の、ある種の浄化ではないとフーコーはいう。それはピュタゴラス派の伝統に根付いたものではあるが、その痕跡はプラトンにもあるものの、古代哲学から紀元二世紀の歴史の中で考えれば、恒常的なものではなく、哲学的な生は真実の表明であるとフーコーは考えている。さらに、統治者に語りかけることも恒常的に見られる。キュニコス派的な横柄さで批判することや、セネカのように君主に対する教育というかたちをとることもあり、紀元前一世紀と紀元一世紀のローマのエピクロス派のように政治的に反対の姿勢を示す集まりになる場合もあったとフーコーはいう。またはエピクテトスの学校が持っている機能があった。職業哲学者になるための教育のほかに、学問や教養を補うための研修や、旅人が旅の途中に立ち寄って意見を聞きにくることもあった。このようになされる古代哲学にはある種の限界が感じられ、空洞というかたちで、キリスト教思想、キリスト教禁欲主義、キリスト教的〈真実の語り〉がそこに雪崩れ込んで行くことのできるような、ある場所のような何かが姿を表すのが感じ取れるとフーコーはいう。キュニコス派の救済についてフーコーは詳しく例を挙げているがここでは割愛する。フーコーが言いたいのは、「ソクラテスよりも六世紀か七世紀後に、キリスト教の教えが、さまざまな形態のもとにそうしたパレーシア的機能の後を継いでそこから徐々に哲学を取り除いてゆくことになる」ということである。つまり政治的なパレーシアから哲学的パレーシアへ、そして哲学的パレーシアからキリスト教的司牧への移行である。近代哲学(十六世紀に再登場した哲学)においてパレーシアの基本構造が再び割り当てられたものとして、またキリスト教のうちに見出されるパレーシア――自己自身を語る義務と自らの救済――から再び取り戻したものとしてそれを考えることができないかとフーコーは問う。さらに十六世紀以降のヨーロッパの哲学の歴史を政治や科学や道徳についての真偽を述べる学説の連なりとしてではなく、〈真実の語り〉についての実践の歴史として考えることができるであろうとフーコーは主張する。「キリスト教司牧とは何か、その効果や権威の構造、〈神の言葉〉、〈聖典〉や〈聖書〉に対して司牧が押しつけていた関係をめぐって行われていた議論から近代哲学がどのように抜け出したかを考えてみるなら、また、十六世紀に、哲学がそうした司牧の実践の数々に対する批
判として立ち現れてきたという点を考えてみるなら、哲学が新たに姿を現してきたのはパレーシアとしてであ
る」と考えることができるのではないか。さらにデカルトの『省察』もまたパレーシアの試み、古代哲学のパレーシア機能を再び取り上げなおすという動きが見られるとフーコーは指摘する。
 すでに論じたように政治的パレーシアから哲学的パレーシアに移行があり、パレーシア的実践の繰り広げられる場所が政治の舞台そのものではなくなったとき、起こるのが哲学である。しかし政治の領域におけるパレーシアが消滅したのではなく、「ローマ帝国までを含めた古代ギリシア・ローマにおける政治制度の歴史を通じて、こうした政治的領域におけるパレーシアの行使という問題は提起されつづけのであり、常に新たに提起されてゆく」とフーコーは述べている。政治的パレーシアが哲学的実践の方へと派生していったことにより、哲学的言説や実践、また哲学的な生についてある種の方向転換が生じたのだとフーコーはいう。

 『ゴルギアス』に先取りされた、キリスト教的自己の〈真実の語り〉
 プラトンが『ゴルギアス』で扱ったのは、権力者との関係や弁論家との関係ではなく、哲学と関わろうとする若者、その魂を形成しようとする若者との関係において哲学を定義し、描き出している点にあるとフーコー指摘、「弟子との間に打ち立てるべき関係はどのようなものであるか」を明確に定めているという。「弁論術について」という副題がつけられたこの対話篇では、「弁論術の本質は何か」という論議で、弁論術は追従の技芸であるから善に到達できないという結論に達するのであるが、フーコーによると、「弁論術から、魂の指導という別の移行」が見られ、キリスト教における告解と自らの救済へと導く、これまでとは違うパレーシアの形態が見出されるという。

 だがもし、不正を行ってしまったのなら、それを行ったのが自分自身であろうと、あるいは自分が面倒を見ている誰か他の人であろうと、とにかく不正を行なった者は、自分からすすんで、できるだけ早く裁きを受けることになる場所へ、行かなければならないのだ。ちょうど病気になったときには医者のところへ行くように、この場合には裁判官のところへね。それも、不正という病気がこじれてしまって、魂のなか深くまで膿み腐らし、これを不治とすることのないようにと、大急ぎでね。(『ゴルギアス』481-A)

 不正を行なった者は、自分自身であろうと他者であろうと裁きを受け、魂を浄化しなければならないという考えが述べられている。この論考の『パイドロス』論で見たように、魂がこの世での行いにより、死後裁かれ、人間や動物に転生するという考えがピュタゴラス派の思想の影響を受けていることを考えてみたが、ここにもその影響が濃厚である。フーコーは後のキリスト教が『ゴルギアス』を参照したかどうかは不明としている。「数世紀にわたる長く緩慢な進化についての問いがある」としながら、その進化とは他者を導くために語る権利や特権をもつ政治的パレーシア(ペリクレス的パレーシア)から、別のパレーシア、ポスト古代的といえるような、古代哲学以後の、自己自身にについて語るという義務、自己自身について真実を語るという義務によって自己自身の救済に導かれるキリスト教に見られるパレーシアが『ゴルギアス』の叙述に見出されるとフーコーは驚きをもって述べている。キリスト教に見られる告白を五、六世紀先取りしているように思われるが、実はそうではないことをフーコーは明かしていくのである。
 
 不正を弁護するという目的のために、その不正を行ったのが自分自身であろうと、両親であろうと、仲間たちであろうと、子供たちであろうと、あるいは、祖国が不正を行っている場合であろうと、弁論術は何の役に立たないことになるのだよ、ポロス。ただしひとが、反対の目的のために役に立つと解釈してくれるなら、話は別になるけれどもね。――すなわち、誰よりもまず自分自身を告発すべきであり、それに次いでは、身内のものでも、またその他友人たちの中で、それぞれの場合に不正を行うものがあれば、その者をも告発すべきであり、そして、その非行を包みかくさずに、白日の下に持ち出すべきであるが、それは裁きを受けて健全な者となるためである。そしてそのような際には、自分自身にも、ほかの人たちにも、卑怯な真似をさせないで、ちょうど医者に身をまかせて切ったり焼いたりしてもらうときと同様に、善きこと美しきことを求めながら、苦痛は勘定に入れずに、立派な男らしい態度で、眼をつぶって、その裁きに身を委ねるようにしむけるべきである。……(中略)……そうするにはまず、自分が自分自身の、あるいはその他、身内の者の告発人となり、
そしてその非行が明らかとなることによって、最大の悪である不正から解放されるようにという、その目的のためにこそ、弁論術は用い
るのでなければならない、というふうに解釈してくれるのならだね。(『ゴルギアス』480BーD)

「一般的に道徳的・市民的な良き振る舞いについての確かな規範」と解釈されるであろうが、ここでソクラテスが言おうとしていることはそうではなく、「魂の教導」というあり方から述べているとフーコーは読み解いている。「弁論術を用いて、自らの罪を認めに行き、それに結果する罰によって自らの治癒を手に入れるということではないか」という。「ソクラテスは自分に対してなされたいくつかの訴えに向かい合い、それを認め、罰を受け入れた」と多くの注釈者たちは主張する。過ちは病気のようなものであるという主題はプラトンや悲劇にもよく見られ、その起源はピュタゴラス派に起源を有し、浄化と治癒は交じり合ったものであると考えが見出されるという。また「魂の本当の変容は、法的な場面において、自分自身について本当のことを語ることと、他者に罰せられることで不正が正当なことへと変容するような場においてー―告白についての弁論術を通じてなされなければならない、という主題」があり、その後の千年にわたってなされる核心のようなものがあると考えられると多くの注釈者たちはいう。しかしフーコーはこの考えをきっぱり否定する。なぜなら法的な場における弁論術が不当なものから正当なものへと変容できるという考えはプラトン的な魂の教導からは程遠いからである。ソクラテスは不正を犯して裁判官のもとへ駆けつけたのではない。裁判官がソクラテスを訴えたのである。また、ソクラテスが罰を受け入れたのは、不正を犯し、不正を認めたからではない。「市民たちは法律を用いているが、その法律はそれ自体では正当であり、私を不当に断罪するために用いているのだ。もし私がそうして法律を逃れようとすれば、私自身が不正を働くことになるだろう。私が国家に対して持っている感謝、法律に対しての敬意、そうしたすべてのことによって、たとえ不正に訴えられているにせよ、わたしはそうして訴えや、それがもたらす結果から逃れるつもりはない。」フーコーは『ゴルギアス』のテクストを引用して、このように「これは全く告白の領域に含まれるものではなく、法に従わないという不正を犯さないために、法に従うということなのである」という。問題は不正を働く人間を正しい人間にすることであり、不正な人間を正しく見せることではないので弁論術は役に立たないということである。弁論術の別の利用法をソクラテスは語る。つまり自分自身を訴えるために、あるいは「かりに人が誰かに対して、害を加えなければならないのだとしてみよう。(自分が害を加えられないとしての話だが)、その敵が裁きを受けないように、裁判官のところへ行くことのないように工作しなければならない。もし裁判官のところへ行ってしまったら、その敵が訴訟に打ち勝って罰を受けないですむように、もし死刑に値する悪事を行っていたのなら死刑にならずに、むしろ悪人のままでいつまでも死なないように取り計らわなければならない。そのような目的のためなら弁論術は役に立つと思われるのだ。」(『ゴルギアス』481Aより要約)前者は自分の罪を訴えるため裁判のところへ行き、弁論術を利用すること、後者は不正な人間を不正な人間のままに閉じ込めておくことである。両者とも弁論術の有りえない馬鹿げた使用である。「不正な人間であるあなた方が正当な人間に変容できるのは、自分を罰する裁判官の前で自分自身についての真理を述べることによってではない」とフーコーは断言するのである。

性愛の術へと導くパレーシア
フーコーは『ゴルギアス』の中のもう一つのテクスト、「魂の教導を実際に働かせることができるような言説のあり方はどのようなものか」ということが分かる部分に説明を加えている。

いまかりに、ぼくの魂が黄金でできているとしたら、カリクレスよ、人々が黄金を検査するのに用いる医師の一つ、それもとびきり上等なのを見つけ出したときに、ぼくは大喜びするだろうとは思わないかね。つまり、その石というのは、ぼくがそれへ自分の魂をあてて調べてみたとき、ぼくの魂は立派に世話ができているということを、もしそれが認めてくれるなら、ぼくは満足すべき状態にあるのであって、ぼくにはもうほかの試金石は何もいらないのだということが、よくわかるはずのものだからね。……(中略)……ぼくの魂が思いなすことについて、君がぼくに何かを同意してくれるなら、そのことはもうそれで、まさに真理であるということが、ぼくにはよくわかっているからなのだ。というのはひとが相手の魂を検査して、それが正しい生き方をしているか否かを、充分に吟味しようとするなら、その人は三つの条件を――つまり、知識と、好意と、そして率直さとを、そなえていなければならないと、ぼくは思うのだが、君はそれらを三つとも、全部そなえているからなのだ。(『ゴルギアス』486D-487)

(フーコーは右の引用をもう少しつづけているが、ここでは省略する。)過ちを犯したときいかにすべきかという問題が論じられている。先ほどの引用につづいて二つ目になる。一つ目は裁判所に駆けつけて罪を告白することであり、二つ目は、「もし過ちが犯されたなら、それはわざと犯されたものではなく、それゆえそれを犯した者は改めて、あるいは新たに助言を必要とする、ということを認めなければならない。しかしそうした助言の後で、しかもその過ちの本質を教えられた後で新たに過ちを犯すのであれば、彼に対する唯一の罰は、彼を指導する人物に見捨てられるということ」であり、ここに見られるのは告白についての法的場面に見られるゲームとは関係がなく別のゲームを伴うものである。「それは、質問と答えというゲームを通じての、魂についての永続的な試練、魂とその性質についてのbasamos(試練)であるとフーコーはいう。右に引用した「率直さ」とはパレーシアのことであり、哲学者と弟子の間でなされる対話に求められるものとして語られている。フーコーによると、「正当なものが不当なものより好ましいというのは嘘である」というカリクレスを、「力への意思」の表明、ニーチェ的人間の先取りと解釈するのは間違いで、「善良で模範的な若者」であり、「もっとも強い者がもっとも弱い者に命令すべきである」などといった言い方はとてもありふれたことであるという。「ソクラテスがカリクレスという人物において関わり合っているのは、平等になってしまった体制のうちで、伝統的な闘争的ゲームを作用させたいと願っているひとりの若者」なのであり、「ニーチェ的な貴族制の前兆であるような代表者と関わり合っているわけではない」とフーコーは説明する。カリクレスは、弁論術によって平等を押しつける社会を不平等なものにしようとし権力を手に入れようとするのである。従って弁論術は法に向けられたものではない。なぜなら弁論術は法に抗して作用し、自らを正当化するには、純粋な闘争的ゲームとしてなのであるからとフーコーはいう。弁論家としてのカリクレスには、多数の人々を説得し、それに対して優位に立つべき人々と競合し、弁論術を使って最高の者となること望むというゲームとは別のゲームをソクラテスは提案する。右に引用された「試金石」の喩えをフーコーは次のように解釈する。「試金石はそれを用いて試験にかけようと望むものの真の姿がどういうものであるかを知ることを可能にし、またそのものが確かに自らそうであると主張しているものであるかどうか、そしてそれゆえ、その言説なり外見なりがそのありのままの姿にふさわしいかどうか示される」ものである。「他者によって魂に課せられる試練としての言説」、「言説がひとつの魂から別の魂へ試練として伝わる」ような言説をソクラテスは提案する。「親近性」によって本当の姿と真実とが示される。
 このような対話は二人で行うものであるとフーコーは指摘する。なぜなら、知識(エピステメー)と好意(エウノイア)と率直な語り(パレーシア)はそれぞれ異なっているからだという。カリクレスは知っていること、つまりエピステメーを用いながら、友情のエウノイアのもとに、パレーシアを駆使し、次第にソクラテスの言説が自分より優位を保つままに誘導され、語ることを諦めたカリクレスの沈黙のうちにソクラテスのエピステメーが表明されるという。哲学的言説にとっての真理とは、デカルトのように考える人と考えられたものとの、明証性ではなく、二人の言説の一致(ホモロギア)にあり、言説を保持する個人がエピステメー、エウノイア、パレーシアの三つの基準に従っていなければならないとフーコーは説く。ホモロギアが真理の形式と試練の場になるためには、「自分が本当だと考えていることを語ることを保証する知識(エピステメー)と、二人の対話者がそれぞれ相手に対して、「友情の範囲に属するような好意の感情(エウノイア)を持っていなければならない」。さらに「恐れや臆病や恥といった部類のものが、本当だと思われる事柄の表明を何も制限しないことが必要」である。国家の統一体の中で命令者と他の人々を結びつけるペリクレス的モデルの政治的パレーシアに対して、ソクラテス的モデルの哲学的パレーシアでは、師と弟子を結びつけることで、知の統一体、つまり〈イデア〉の統一体、つまり〈真実在〉そのものの統一体へと結びつけるのであり、前者は弁論術によって単一的な命令へ導き、後者は性愛の術へと導くものであるとフーコーは結論する。

プラトンは、政治と哲学の実践的側面において乖離するものととらえずに哲学にとって政治は試練であると受け留めていた。それぞれの機能と役割を峻別し、哲学は政治においては君主への助言を目的とする。キュニコス派のように街頭での政治批判を実践するのではなく、「自己への配慮」を基軸に内面を探求する哲学の生へと導いていく。哲学の〈真理の語り〉と政治の実践は一致しないと考える。「哲人王」を掲げてはいるものの、『国家』や『法律』は直ちに政治に適用すべく書かれたものと考えるのは正しくない。プラトンは他者を統治
するための自己の統治を、政治家の志望の青年たちに説くソクラテス像を描き出す。自己の探求はあくまで他者との関わりの中で成立するものである。哲学的問答法(ディアレクティケー)は重要なファクターであり、書物としての哲学を否定した理由の一つになる。文学と哲学の関係も同様に考えることができると私は思う。幼少時に詩に親しむことの大切さを随所で説きながらも、詩人追放論として注釈者に指摘される隔絶はプラトン哲学の確立に必要であったと藤沢氏は指摘した。今日、詩が実践的な詩人の生から生み出されるものと考えるなら詩は哲学によって試練を受けるべきものであると私は考えるのである。(詳細はこの論考の「詩人像」で論じよう。)
哲学はエクリチュールではなく対話から見出される真理であると考えたプラトンの時代とは大きく相違し、活字文化の現代においては対話よりエクリチュールの可能性が格段と増加している。真理を文字で示すことではなく、思考し、書きながら真理を見出していこうとする「実践的エクリチュール」の文学的行為は、モノローグも思考においては自分との対話と考えるなら、書物の読解を通じて時空を超えた他者との対話やエクリチュールの他者への発信、意見交換をすることで、プラトンの哲学的問答法の契機につながるのではないかと私は考える。情報社会とも呼ばれる今日、情報として流出する言葉は、プラトンの言う書物の言葉と近い存在である。自分自身で思考(対話)しないかぎり〈真理の語り〉とはならないのである。「飛び火によって点じられた燈火のように」とは、私にとって詩人がものする実践的エクリチュールの中に見出される言葉そのものである。自らの哲学を対話篇に書くことにより、プラトンは時代を超えて読み手=私の魂を誘導したといえよう。

〈参考文献〉
『プラトン全集14書簡集』(岩波書店)・『自己と他者の統治』ミシェル・フーコー(筑摩書房)
『プラトン全集5饗宴 パイドロス』(岩波書店)・『プラトン全集1ソクラテスの弁明 パイドン』(岩波書店)
『プラトン全集9ゴルギアス』(岩波書店)・『プラトン全集11国家』(岩波書店)『賢者と羊飼い』中山元(筑摩書房)
『プラトンの哲学』藤沢令夫(岩波書店) 〈次回からキリスト教についての考察を予定しています〉



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パレーシアステースとしてのプラトン、(後編)その一、小林稔季刊個人誌「ヒーメロス」18号2011年6月

2012年08月02日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(十)(後編)その一
小林稔



プラトンの哲学的試練
 『プラトン全集 十四 書簡集』(岩波書店)には十三の書簡が含まれている。そのなかの「第七書簡」をもとに論じてきたのであるが、この書簡はプラトンが七十四歳のころに書いたものであり、己の前半生を回顧したもので偽作の多いという書簡の中でも第七書簡は内容の上からも内容の上からも真作である可能性が高いと藤沢令夫氏はいう。「プラトン哲学の本質的な性格は、この前半生における苦渋にみちた生の選びそのものによって、決定的に方向づけられていることは疑いえない」と藤沢氏は著書『プラトンの哲学』で語る。今一度読み返しながら、ソクラテスとは様相を異にする、言い方を変えれば、ソクラテスの生き方を根底に据え、新しい哲学として発展させたプラトンの哲学的パレーシアを考察してみよう。
 前四二七年、ペロポネス戦争四年目の年、アテナイでプラトンは誕生した。アテナイとスパルタを盟主として民主制の国々と反民主制(寡頭制)の国々との戦争である。アテナイの降伏でペロポネス戦争は終結し、反民主派の「三十人政権」が立ち、そのうちの幾人かは親戚筋や知り合いがいたので、プラトンは政治参加をすすめられたのであった。しかし「三十人政権」は独裁権力をもち、反対派にある者を次つぎに処刑するという恐怖政治を示し始め、プラトンの期待は全て裏切られたことになる。さらにソクラテスと他の幾人かが、レオンという無実の者を処刑するためにサラミス島から連行するように命じるという、「レオン逮捕事件」が起きた。ソクラテスは命令に従わず家に帰ってしまった。前述した『ソクラテスの弁明』でソクラテスはこの政権が崩壊しなかったら命を落としていたであろうと述べている。民主派によって「三十人政権」はすぐに崩壊し、民主派の政権が復活を遂げた。藤沢氏によれば、「このときの深い衝撃こそは、このような不条理を根絶するためには、民主派と反民主派の抗争といったレベルを突き抜けた、国家のあり方の根本的な変革しか道はないとプラトンが考えるようになった、その起点をなすものである」という。ソクラテスが処刑された後、プラトンはソクラテスが自分にとってどのような存在であったかを自覚したであろうと藤沢氏は述べる。

わたしは、初めのうちこそ公共の実際活動へのあふれる意欲で胸いっぱいだったとはいうものの、それら法習の現状に目を向け、それらが支離滅裂に引きまわされているありさまを見るに及んでは、とうとう眩暈がしてきました。それでわたしは、直接それらについてだけではなく、広く国政全体についても、一体どうすれば改善されるであろうかと、考察することは中断しなかったけれども、しかし実際行動に出るについては、いつも好機を期して、控えているよりほかはなかった。『第七書簡』(325E‐326A)

 『ゴルギアス』は、プラトンが哲学を自分の天職と決めた四十歳ごろに書いた対話篇である。その中でソクラテスに語らせた、「(わたしは)ほんとうの意味での政治の技術を手がけている数少ない一人であり、現今の人々の中でわたしだけが、政治を実践しているのだ」(521D)という言葉は、十二年後に『国家』で「哲人王」という思想に結集させるプラトン自身の、政治と哲学に対する決意の表れとみてよいであろう。
 「わたしは国政にせよ個人生活にせよ、およそすべての正しいあり方というものは、哲学からでなくしては見きわめられるものではないと、正しい意味での哲学を称えながら、言明せざるをえませんでした。つまり、「正しい意味において、真実に哲学している部類のひとたちが、政治上の元首の」地位につくか、それとも、現に国々において権力を持っている部類のひとたちが、天与の配分ともいうべき条件に恵まれて、真実に哲学するようになるかの、どちらかが実現されないかぎり、人類は、禍から免れることはあるまい」(第七書簡326A-B)
という記述があり、すでに『国家』執筆以前に「哲人王」の構想があったことが知れる。「そういう意図を胸に
もって、わたしは、イタリアとシケリアへ赴きました」とすぐ後に記されているからである。プラトン三十七歳ごろのことであった。
 
 訪れたシケリア(シチリア)島はディオニュシオス一世の、僭主独裁政治下にあり、この王の義弟のディオンという二十歳くらいの青年がプラトンの弟子となるということが起こった。このことからプラトンは以後、波乱万丈な人生を送ることになる。ディオンは、プルタルコスの『英雄伝』(960A)にあり、ディオニュシオスの二人の妃のうちの一人、アリストマケの弟で、「魂の壮大さ、勇気、学ぶ能力という、非常に高い資質を持った少年であった」と『英雄伝』に記述されている。さらにプルタルコスによれば(フーコー『自己と他者の統治』からの引用)、青年らしい魂の純真さをもって、ディオンは、ディオニュシオスが自分が受けたのと「同じ教えを受けて」自分と「同様な感銘」を受け、「たやすく善の方向に向かうようになる」だろうと期待したので、ディオニュシオスにプラトンを会わせようとする。プラトンはシケリアに三度訪れたことになるが、この第七書簡は三度目の訪問を終えた七年後に、「暗殺され故人となったディオンの同士にあてて書かれた手紙である」と藤沢氏はいう。またイタリアではピュタゴラス派の哲学者アルキュタスという人物と交流し、後のプラトンの哲学にピュタコラス派の思想が大きく影を落すことになったとも藤沢氏は書き加えている。書簡から読み取れることは、宮廷での悦楽の生活に親しんでいたディオンが、プラトンに教えを受けるようになると「快楽やその他の放埓よりは、美徳のほうを、格段に尊重するようになって」(326B)、「彼の生活態度は、僭主制下の習俗にひたって暮らすひとびとの目には、だんだん重苦しいものに映るようになって」いったことである。プラトンは、独裁者は他の人々より勇気がないとか、正義の心を持った人の生活は幸福であるが不正な人々の生活は不幸であると説いたのだが、そのことでディオニュシオスを怒らせてしまった。王の怒りの危険を恐れ、ディオンはプラトンをギリシアに向うガレー船で送り返すことにしたが、ディオニュシオスはプラトンを殺すか、奴隷にせよと乗りこんでいたスパルタ人に命じた。王はディオンだけは愛顧と信頼を減らすことはなかったという。     
フーコーはプラトンとディオンのパレーシアの相違を説いている。「シケリアに何しに来たか」という独裁者の問いに、「立派な人間を探しに来たのだ」とプラトンは返答する。つまりディオニュシオスは立派な人間ではないことを伝えることになり、怒りをかい先述したように追放されたのであった。プラトンは独裁者に教える者の立場でパレーシアを実践したのだが、一方、ディオンは独裁者に意見を述べ、廷臣、義兄弟として、王に間違いがあれば反駁するという立場でパレーシアを行使したのである。暴君が登場し、その妻の弟が真実を述べるというシチュエーションは、『オイディプス王』における王とクレオンの関係に近いのではないかとフーコーは指摘している。クレオンは真実を言いに来るが、オイディプスは「私の王座を狙っているからであろう」と真実を聞こうとしない。「あなたはまずデルポイに行って、私があなたに神託を正しく伝えたか訊きなさい。あなた自身で真実を探しに行くがいい」とクレオンは言い放つ。ディオンは、プラトンの教えを伝えるために真実を伝えようとする人物と考えられる。フーコーはプルタルコスの『英雄伝』のディオンに関する記述を基底に論じているのであるが、プルタルコスはプラトンについてはパレーシアを行使したと言わずに、なぜディオンに関してだけパレーシアを行使したと言うのかをフーコーは考える。独裁者を取り巻いている廷臣たちとディオンの違いは、前者は追従者であるということが挙げられる。パレーシアとは、真理の内容そのものではなく、「真実の言い方」にあるとフーコーは指摘している。真実を言う一般的な分析は、言説の構造、目的性、効果など、また論証のための戦略、説得のための戦略、教育や議論のための戦略としてなされるのに対して、パレーシアは論証の戦略ではない。プラトンは論証を徳や正義について行うが、そこでパレーシアを行使するのではなく、ディオニュシオスに対する返答においてパレーシアを表明する。一方、ディオンは論証をせず単に意見を述べるだけである。つまり論証のための戦略ではないことが一つ目の問題である。二つ目の問題は、説得のための戦略でもないことである。つまり弁論術に属する一つの要素としてパレーシアを定義できない。以前にも指摘したように、弁論術は言説が真実であるかどうかというのでは、いかに真実らしく見えるかということが問題になるからである。パレーシアには説得は問題ではない。先述したプラトンとディオニュシオスとの対話には挑発や皮肉、侮蔑や批判があるが説得ではない。三番目に教育のあり方ではないこと分かる。パレーシアのうちには、何か教育法と真っ向から反するものがある。真理は暴力的かつ唐突、断定的かつ決定的
なので、相手は沈黙するか怒ることになり、独裁者の場合はパレーシアを投げた相手を殺そうと企てることになる。四番目は、ある種の議論の仕方ではあるが、そこには闘争的な構造があるということ。一方でプラトンが教えを述べ、ディオニュシオスは議論によって説得されず教えられもせず、打ち負かされることもない。王は言説の勝利を暴力の勝利に置き換えてしまったのである。
 このようにパレーシアは言語戦略には属さないとすれば、パレーシアはどこに位置づけるべきか。パレーシアとは、「真実を言うことや真実を言ったことが、真実を言った人の身に大きな犠牲を引き起こす、あるいはその可能性や必然性があるような条件において〈真実の語り〉がなされる場合」に存在することになる。フーコーの分析を紹介してきたが、フーコーは結論として真実を語る中で支払う代価は「死」であり、真実の語りが「自分自身の存在を犠牲にすることになる、ということをすすんではっきり受け入れた上で、主体がすすんで本当のことを語ろうとする瞬間」であり、極論すれば「パレーシアスト(パレーシアステース)とは、ほんとうのことを言ったことによって死ぬことを受け入れる者」であるという。
 プラトンはイタリア・シケリアへの一回目の旅を終え、前三六七年、再びシケリアに到着する。前後の歴史的関係を、『プラトン全集 14 書簡集』の巻末の解説を参照し、手短に要約しておきたい。ディオニュシオス一世が急死し、ディオニュシオス二世が僭主王に就き、ディオンはディオニュシオス一世の妻、アリストマケの弟であることはすでに述べたが、彼らの父がヒッパリノス一世と呼ばれた人で、ディオニュシオス一世の死後、姉の息子であるヒッパリノス二世を王として擁立したかったのであるがかなわなかった。そのときからディオン対ディオニュシオス二世との対立構造が生まれる。ディオンはディオニュシオス二世にプラトンの訪問を勧め実現する。プラトンは政治顧問として「シケリア内の諸都市に再植民する案や僭主制を立憲王国に転換する案を勧告したり、法律前文の起草に協力したり、学問の奨励にもつとめたと」という。しかし、プラトン到着四ヵ月目にはディオンは追放され、プラトンは王にさしとめられていたが、カルタゴ戦争が起こり始めたこともあって帰国を許された。カルタゴ戦争がおさまるとディオニュシオス二世からプラトンに招待状が送られた。ディオンの帰国が許されないのは約束に反するとして訪問をプラトンは断る。しかし前三六一年、軍艦でプラトンを迎えに来たという。これが第三回目のシケリアの旅になる。僭主に哲学を教えることが目的であった。しかしディオンの帰国は見送られる。プラトンは「真実の哲学」を問答すると、王の哲学への熱心さは虚妄であったことが分かる。王はディオンの財産を没収しようと企てるが、それに憤慨したプラトンは帰国を申し出るが許されず、滞留させられた。そのころ傭兵隊の暴動が起こり、首謀者はヘラクレデスという噂が立ち、プラトンはその一味であると思われ、城外退去を命じられた。身の危険を感じたプラトンはタラスのアルキュタスに手紙で救助を求め、王の同意を得てオリュンピアに戻った。その後、ディオンは兵を集結し、ディオニュシオス二世の留守中のシュラクサイを攻め、二世はイタリアに逃亡した。一方、ディオンはヘラクレイデスの離反に会い、シュラクサイを捨てる。ディオンが撤退すると二世は反撃を繰り返し、ヘラクレイデスがディオンを迎え入れ鎮圧する。またもやヘラクレイデス派が反乱を起こすので提携を断念。ディオンの部下が早まってヘラクレイデスを殺してしまう。こうした動揺につけこんだカリッポスの一味が策略によってディオンを暗殺することになった。ディオンの甥に当たるヒッパリノス二世がディオンはと組みシュラクサイを奪回する。歴史的背景はこのくらいにしておこう。
 フーコーによると、ディオンがディオニュシオスを追放した後にディオン自身が暗殺されるという状況下で、第八書簡は書かれているという。ディオニュシオスとディオンのそれぞれの派が対立する中で、「ディオンの身内ならびに同士の諸君に」という書き出しで書簡は始まる。第七書簡の二つのくだりと連結して、フーコーは第八書簡からパレーシアを検討しようとする。第七書簡の二つのくだりとは何かを明らかにしてみよう。一つ目は哲学者が君主に助言を与える場合、どのような条件において哲学はロゴス(言説)以外のものになるか。「現実における現実的な活動」はどのようにして成り立つか、あるいは「哲学的言説にとっての現実の試練としての政治への関係」が問題であった。ポリティア(政体)についての助言はせず、シュラクサイに存在するポリティアのフォネー(声)を聞くように助言している。また、「政治の領域における助言者は医者のようにあるべ
きだ」というくだりにフーコーは注目する。医者は病を知っていなければならない。病人と対話し、説得しなければならない。生き方や養生法や食養生を完全に変えるように納得させなければならない。危機が明らかになっていないうちにシュラクサイを苦しめている病を診断する。ディオニュシオス二世に植民地との間に友情と信頼の関係がなかったことをプラトンは指摘した。専制的で暴力的な体制であるペルシア帝国のキュロスの統治の仕方を肯定的に参照して説得に当たる。プラトンは、「キュロスは常に、最後の最後まで友であり続けた同盟国の助けによってそれ(帝国)を成し遂げた」、さらに「キュロスは王国を七つの地区に分け、それぞれ忠実な協力者をおくという計らいをした」と述べる。プラトンはもう一つの例としてアテナイを挙げる。ペルシア帝国の専制的な王国の体制とは別の民主制の体制である。イオニア同盟にあるようにあるように、植民地にはそこに住んでいた人々を元の場所に残し、土地の名士に権力を委ねたのだと述べる。このようにしてディオニュシオス二世に統治の仕方を変えるべきだと助言した。プラトンはディオニュシオス二世に自分自身についての訓練をしなければならないと助言する。「思慮深く懸命で、節度を保つ」訓練であり、「彼自身が自分自身と一致し調和する関係にならなければならない」ことであるとフーコーは説く。植民地との調和関係と同じことで、「それぞれのポリティアが持つ声はどのようなものであるかを理解し調和しながら統治することである」とフーコーはいう。Egkrates auto hautou(自分自身の主人)となれるように日々生きるべしということ(第七書簡331Eには「みずからがみずからに打ち克つ者と訳されている」)が定型化されていたのであり、「自分自身の欲望や欲求に関して自己を律すること、食べ物や酒や性的快楽に関する節制を意味するとフーコーは説明する。一般的な節制や徳ではなく「自己の自己に対するある種の権力関係である」とフーコーはいう。同盟国へのよき統治者という意味があるということであろう。プラトンが与えた助言は「現実的な意味で政治的であるよりは道徳的な一連の意見」であるということ、あるいは「哲学者であるべき者としての君主のあり方」を問題にしているということであるとフーコーはいう。
 二番目のまとまりを構成する助言をフーコーは以下にまとめている。ディオンの追放があり、ディオン派とディオニュシオス派の対立、ディオニュシオスの追放、ディオンの帰還と追放といっためまぐるしい出来事の変化を終え、残されたディオンの友人たちに向けてどんな助言ができるのかと、プラトンは述べている。プラトンは自らの助言を献酒という喩えで語る。一度目はディオンに、二度目はディオニュシオスに、そして今三度目の最も厳粛な献酒である、なぜならゼウスに向けられたもので、「救いをもたらす者としてのゼウス、救う者である限りにおいてのゼウスに向けられてもの」だからとフーコーはいう。ディオニュシオスに与えた助言と友人たちに与えた助言は何が違うのか。内戦が迫っている状況では国家のポリティアの問題が最重要になる。それには賢者に知恵を授かり法律の制定を依頼すべきであると助言する。妻と子を持ち、良い家系の出身である賢者を選び、立法者になってもらうのがよいとプラトンはいう。ディオニュシオス派とディオン派の対立や紛争が終了したとき勝者と敗者のあいだに差異をつくらないこと、勝者は敗者よりさらに法に従っているということを示すべきである、つまりプラトンは個人の道徳的育成を問題にしているのであり、理論的教育と道徳的教育が必要であるとフーコーはいう。ディオニュシオスは哲学についての文章を書いた。プラトンが語ったものの引き写しであったが、本来、プラトンには哲学の書物を書くことの拒否があったことも加わり、「政治的権力を行使する人間がもっている、理論的な知を非常に警戒していた」とフーコーは解く。理論的教育の主題は、「幸運でありながら不正であるよりは、不幸でありながら公正であるようにしなければならない」ということであるとフーコーはいう。ディオニュシオスは追放されたが生きていた、つまり不正でありながら幸運であったということ、ディオンはディオニュシオスを追放したが殺された。「好まれるべきはディオンの生き方であり、不幸であっても正義は常に守られるべき」であるというプラトンの主張が見られるという。魂と身体は別々のものであり、身体は死すべきものであることに対して魂は不滅である。「不滅の魂は死後、生きている間に何をしたかに応じて裁かれる、生前に不正を働いていれば、恐ろしい罰にさらされ、地上を長い間彷徨ように命じられる」(フーコー)というオルフェウス教的な理論である。フーコーによれば、哲学的教義を提出しているのではなく、古い教義を心得ておくべきだということである。「そうして非哲学的な言説、宗教的信仰と聖なる伝統の言説こそが政治家が参照すべき理論的背景を構成すべきである」。「先祖たちの生活様式を実践した時、その時こそしかるべく統治することができる」とプラトンは述べている。それは恐れであるとフーコーはいう。
統治する者は力を示すことによって、良き統治を保証されるのだ。統治する者はaidôs(慎みと敬意)を、自分の義務や、国家や今夏の法律に対する敬意である。「法の奴隷として自らを構成すること」(フーコー)、つまり統治する者の徳として理解しなければならないのである。
 
 パレーシアのプラトン的特徴
内戦勃発時に書かれたといわれる第八書簡には、二つの注意すべきテクストがあるとフーコーは述べる。ディオニュシオス一世の跡継ぎとディオニュシオス二世の跡継ぎ、さらにディオンの跡継ぎ(息子)、これら三人の王たちを宗教的機能のもとに一つにすることをプラトンは望んでいると指摘する。その仕組みは法律の存在と機能を保証するものであるとフーコーはいう。後の著作『法律』で反映される「法の番人」である。

わたしとしては、ともかく現在わたしは一応、薬と思われているところを、歯に衣着せず、ひとつの公平な立場か正論を用いて、打ち明けてみることにいたしましょう。というのは、つまり、ここでは僭主のなった側と、僭主に服従させられた側とを、それぞれひとりずつに見立てて、二人に対してのつもりで、調停官風に問答を交しながら、わたしは以前からの忠告を、繰り返そうというわけです。(第八書簡354A)

右に引用した箇所は、パレーシアの表明とも行使とも言えるような領域にいることを示しているとして、フーコーはさらにテクストを読み進めながらプラトンの助言の特徴を取り出していく。最初に直接自分が語るのではなく、故人を媒介にして自分が語ることの権威を強調するということがある。ディオンという死者、生命を危険にさらし真実を語った、つまりひとりのパレーシアテースを介入させる。それはプラトンが自分の語りを無効にするように見えるが実はそうではなく、ディオンはプラトンに生前、師として育てられていたから、プラトンがパレーシアを行使していることに変わりはない。「亡くなった人物を登場させ、今語られつつある物事を効力あるものとする」のは、ギリシアの雄弁術によく用いられる修辞学の方法であるとフーコーは指摘する。しかし、プラトンは雄弁術として活用しているのではなく、パレーシアの行使において活用しているのであり、プラトンのパレーシアの特徴であるとフーコーいう。次に、「今現在」という彼の表現にあるように、プラトンのパレーシアは「状況と状況についての言説であると同時に、恒常的なものの原理に結びついたもので」あり、その緊張を引き起こすところに特徴があるとフーコーは指摘する。例を挙げると、「隷属と自由とは、そのどちらかが行き過ぎた時、大きな悪となる」とプラトンはいう。その後で、「神に対する隷属や服従はまったく節度のあるものだが、人間に対する隷属は常に度が外れている」と加える。フーコーは「一般的な原則への参照と、個別的な状況への参照とのあいだで緊迫するパレーシアの言説」がここに見られるとフーコーは述べる。三番目の特徴は、政治的対立を超えた全ての人たちに、ひとりの人に対するように語るということである。「国家に処方と法を押しつける一般的な言説」であると同時に「一人一人にある種の操行、やり方を獲得させるような説得の言説」であるとフーコーはいう。四番目の特徴はシケリアにいる二つの党派に「diaitêtês」として語りかけるということである。「diaitêtês」とは、調停者のことであり、裁判以外の場所で頼れる調停者である。つまりプラトンは各党派間の調停者、国家のための医学的養生法を与える者としてパレーシアを行使するのである。(「diaita」には調停と養生法の二つの意味があるとフーコーは指摘する。)

 すべての神々および神々と並べ崇めるにふさわしいかぎりの他の神霊たちに、畏敬の念をもって祈願を捧げたうえ、諸君は味方の者たちにも離反者たちにも、おだやかにしかも手立てを尽して、呼びかけ説得しつづけるのを、けっして止めないでください。少なくとも、諸  君が、いまわれわれによって論じられたこれらの方策を、いわば『目覚めの枕辺に立つ神来の夢』とも受けとり、実地に手がけ、運よく、そしてまぎれもなく成就させるに至るまでは」(第八書簡357C-D)

 最後に挙げる四番目の特徴とは、自分が語る助言が現実に直面する挑戦、つまり自分の言説がほんとうか嘘かを現実が示すということを受け入れることである。引用した「今われわれによって論じられた方策」、つまりプラトンの助言を「目覚めの枕辺に立つ神来の夢」(哲学者は必要とされるときに訪れて語るべきことを語るの
であり、それは人間たちのもとを訪れる神の夢のようなもの=フーコー)と受け取り、哲学者が語りかけるの
は人間たちが目覚めている時であり、神の夢が真実を語るのは、努力して物事がはっきりした仕方で現実の幸
運に出会えた時であるとフーコーは読み解いている。つまり哲学者の助言は神の夢と同格であるとし、人間たちが目覚めている時に神の夢は現実に幸運をもたらすとプラトンはここで語っているのである。



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パレーシアステースとしてのプラトン、季刊個人誌「ヒーメロス」18号から

2012年07月29日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの
長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(十)

37 パレーシアステースとしてのプラトン(中篇)
小林稔


真理を語る三つの審級とロゴス
私がここで論じようとするのは、古代ギリシアにおけるロゴスという概念である。神とロゴスとの関係はどのようなものであったか。『A.BAILLY DICTIONNAIRE GREC‐FRANCAIS HACHETTE』で「ロゴス」を調べると、言葉、発言権、理性、論理など多くの意味があるが、その中のrévélation divine(啓示)という項目に関心をもった。使われた例として『パイドン』(78D)が記載されている。「おのおのの存在の本来的なもの、すなわちわれわれが問いかつ答える過程を通じて、それのまさに何であるかを、言葉において示す(定義づける)そのものについてみてみるのだ」。つまり定義づけられるような言葉がロゴスであろう。日本語訳で読む限り、直接には神的な意味は伝わってこない。上記の辞書のすぐ後で、そのこと(啓示)からréponse doracle(神託の答)という意味がありピンダロスの「ピュティア」(4,105)で使われているとある。ロゴスが言葉や理性を意味するよ
うになる以前の原初的な意味として、私は神から示される言葉、または巫女や預言者が人間に伝える神の言葉を想起する。例えばデルポイの神託「汝自身を知れ」やオイディプスに示された予言である。しかし神々が運命の支配権を掌握するホメロスの時代から抒情詩の時代に個の意識が芽生え、やがて悲劇では神々と人間との対立・葛藤が主題になる。『賢者と羊飼い』で中山元氏は古代ギリシアにおける真理の三つの審級を論じている。中山氏は、フーコーの行ったカトリック・ルーヴァン大学の講演「悪を行い、真理を告白する」を基にして、古代の世界では、真理は神が明らかにするものだった分析する。神から告げられ、あるいは神から「かすめとる」には「真理の顕示」を必要とした。つまり儀礼的な手続きによって明らかにする必要があった。真理を語るものは権力を行使でき、それらには預言者や、供犠僧、夢占い師などがいた。真理を語る神と預言者、真理を語る英雄、真理を語る市民という時代順に変遷してきた三つの審級があるという。興味深いことに、ソフォクレスの悲劇『オイディプス王』には、このすべての審級が登場すると中山氏は指摘する。つまり、神と預言者の語る真理、そしてオイディプスとイオカステという英雄が語る真理、そして羊飼いと伝令という市民が語る真理である。アポロンは「テーバイの疫病の原因が、ライオス殺しにあることを明らかにするが、動機や犯人については沈黙する。預言者テイレシアスはアポロンの神託を受けて、真理を知っている。最初は真理を語ることを拒むが、「犯人の一味」とオイディプスから疑われたため真理を語る。しかし「あなたのたずね求める先王の殺害者は、あなた自身だ」というテイレシアスの言葉をオイディプスは信じようとしない。コロスもまた同様である。預言者という真理の審級に対しては、ポリスの法的な制度は機能しないのだ。ポリスの法的な機構で証明されるまでは神の語る真理は受け入れないことを意味する。つまり「真理の審級が神と預言者から、ポリスの市民たち(コロス)の審級に、そしてポリスの法的な機構に移行しつつあることを示すものと考えることができる」と中山氏は指摘する。真理を受け入れるには「証拠」が必要なのである。中山氏は、英雄の審級と奴隷と伝令の審級を詳細に論じているが、ここでは割愛し、「真理」を「ロゴス」という言葉で置き換えてみたらどうであろう。神の語る真理は預言者を媒介にして言葉で示される。神の真理で運命を掌握されていた時代から、英雄たちの時代を超えてポリスの市民たちが法的な機構(裁判と法律)のもとで真理を語る者になる。ロゴスが神から後退し、市民たちの場に置かれる。市民たちの中から正、不正に関わる倫理が要請され、真理を語る市民の行為がやがてパレーシアと呼ばれるようになったと中山氏は指摘する。それでは神の語るロゴスは消え去ったのであろうか。否、心の深層で生きつづけ、言葉(ロゴス)の二義的な意味作用として機能できる機会を窺っていたのではないかと私は思うのである。ソクラテス=プラトンの哲学的パレーシアがそれであり、〈善のイデア〉を最高峰とするプラトン哲学の確立ではないだろうか。プラトンが文学(詩)と哲学を峻別した、言葉(ロゴス)の存在意義とは何かをもう少し深く解読してみよう。

 先述した『パイドロス』後半の要約で明確になったように、プラトン(ソクラテス)は二種類の言葉を区別する。弁論(言論)の機能は魂の誘導にある。したがって魂の本性を理解しなければならない。弁論家は「神々のみこころにかなうことを語り、神々のみこころにかなう仕方でふるまうべきだ」という結論が示された。弁論術の内部矛盾が暴かれ否定される。弁論の技術の有無を考察し終えたソクラテスは、次なる話題が、「言論の技術」をいかに伝えるか、いかに書くべきであるかということが残された問題であると告げる。最初に、書くということの立派な条件とは何かを考える。言論の技術を生み出す者が必ずしも書かれたものが使う人に与える害や益をもたらすのかを判断できる人とは限らないという。書かれたものは記憶力を減退させる。文字の使用は記憶するためのものではなく、「自分の力で内から思い出す」想起のために使用すべきである。書かれた言葉によって言論の技術を教えたり、教えられたりすることはできない。書物はほんとうに必要とすべき人だけに話しかけるだけでなく、そうでない人にも話しかける。後者の場合はむしろ害をもたらすであろう。テクストの最終部では、言論(パロール)と記述(エクリチュール)の両者がどのような場合に立派なことであるといえるかという考察に入る。「真剣な熱意に値するものとして話が書かれ、語られることはない」とソクラテスは言い切るのである。「書かれた言葉の最もすぐれたものでさえ、ものを知っている人に想起の便をはかるだけのものである」というのだ。しかし、このような第一の言葉のほかにもう一つの種類の言葉を対置する。それ
は、「学ぶ人の魂の中に知識とともに書きこまれる言葉」であり、それは「生命をもち、魂をもった言葉」である。第一の言葉はそれ(第二の言葉)の影に過ぎないと語られる。第二の言葉においては、書く人も受け取る人(読む人)もたすける力をもった言葉である、つまり「一つの種子を含んでいて、その種子から新たな言葉が新たな心の中に生まれ、不滅の命を保つ」言葉であり、そのような言葉がたくわえられた覚書(書かれたもの)を書くことが立派な行為と考えられている。それを可能にするのが「哲学的問答法」であり、書かれたものに少しの価値しか見出させないプラトンが、対話篇として多くの書物を残した理由であろうと思われる。

 哲学的問答法(ディアレクティケー)
 ソクラテスを師と仰いだプラトンは、ソクラテスの道徳的パレーシアから哲学的主題を見つけ、いわばソクラテスの生き方に哲学的パレーシアを見出し、自ら哲学的パレーシアステースとして生き、より深めたイデア世界を構築したといえよう。「神々のみこころにかなう仕方で言葉を語る」というプラトンには、「哲学的問答
法の技術」のほかに立派な行為はないであろう。「自己に配慮せよ」と町行く人ごとに説いて歩いた実践の人、ソクラテスと、継承者プラトンとの相違は、プラトンにのみ存在する、「書くという行為」にあるだろう。あれほど多くを書きのこしたプラトンに、ハイデガーやデリダのような現代哲学者が、プラトンはパロールを重視し、エクリリュールを否定したという批判はありえないことである。(前回、このエセー「自己への配慮と詩人像(九)で論じたのでここでは繰り返さない。」書くことの全面否定ではなく、いかなる条件のもとに書くかということが問われなければならない。それにしてもプラトンの「第七書簡」にある、「教える者と学ぶ者が生活を共にしながら、その問題の事柄を直接に取り上げて、数多く重ねていくうちに、そこから、突如として、いわば飛び火によって点じられた燈火のように、学ぶ者の魂のうちに生じ、以後は、生じたそれ自身がそれを養い育ててゆくという、そういう性質のものなのです」という、プラトンが自らの著作について語った言葉は魅力的である。(もちろんプラトンは自らの著作という言い方を嫌うであろうが)、ここに哲学的問答法のすべてがあるといえよう。書簡はさらにつづき、上記したような文章を語るのは「私」(プラトン)自身が語ることこそふさわしい、なぜなら下手に書きたてられたら苦痛を感じるのは「私」自身であるからだという。「私」の著作がすべての人たちに伝わるのであれば「人類のために大きな福音」であろうが、実際は少数者に伝達されるであろう、なぜなら「わずかの示唆をたよりに自分で発見できる」者は多くないからである。そうでない人たちには「見当はずれに、この問題を不当に軽蔑する気持」や「何か厳粛なことを学んだとでもいったような、思い上がった空疎な夢想」を引き起こしかねないからである。フーコーによると、プラトンはこの書簡で「哲学は教育され得ない、つまり、ある人々にとっては示唆しか必要ではないのだからそれ(教育)は無益」であり、哲学は共同生活(スヌーシア)を通じて習得されるものであると考えていたという。「スヌーシアとは、共にいることであり、結合や接合のこと」であり、「性的結合という意味すらある」がここではそういう意味は一切なく「共存」という意味に取るべきであるとフーコーはいう。翻訳では「教える者と学ぶ者とが生活を共にしながら」としているが、フーコーは哲学する者と哲学の共存としている。「火の傍らにいる時のように哲学のそばにいて」と解釈している。つまり「哲学は魂自身を糧としなければならない」のである。「哲学が知識系のかたちで書かれ、伝達されるなら」危険なことである、なぜなら、先に述べたように「虚栄やうぬぼれや他者を軽蔑する心を持つようになる」からである。つまり、「哲学における現実は、哲学の実践のなかにある」。プラトンが提起するのは、「単なるロゴスとしてではなくエルゴン(行為)として思考しようとしたとき、一体哲学とは何なのか、という問題である」とフーコーはいう。プラトンにとって哲学は政治と深く関わりをもつものであるが、「人々に法を与え、その理想国家の拘束的なかたちを提示するのとは全く別のこと」である。第七書簡にはいくつかの問題が指摘できるとフーコーはいう。一つは書くこと(エクリチュール)の拒否である。「書くことの拒否は、それ自体onoma(言葉)やロゴス(定義、名詞や動詞の作用、等々)と通じて現れる認識を拒否することとして明らかにされ」、「書くことと、書くことに結びついたロゴスの拒否は、ロゴスそのものではなくtribéつまり実践、労苦、労役、そして自己の自己に対する苦心に満ちた関係のある種の形態の名においてなされ、書くことの拒否のうちに読み取るべきは、ロゴス中心主義の到来では決してなく、全く別のものの到来」、「哲学にとっての現実が、まさしく自己の自己についての実践に他ならないような哲学の到来」なのであるとフーコーは強調する。プラトンには『国家』や『法律』などの政治的な著作があるが、「全体主義的な政治思想の基礎や起源、重要なかたちを見ようとするのは見直さねばならない」とフーコーはいう。政治に対する哲学にとっての現実の試練とは、国家や人々に与える拘束的なあり方の言説ではなく、哲学の真面目さは、哲学にとっての現実そのものは自己が自己に対しておこなう実践のうちにあり、また認識の実践であり、そのあらゆる認識の様態を通じて上り下りし、互いに擦り合わされて、人は〈真実性〉そのものの現実を目の当たりにすることにあるとフーコーは主張する。




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