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ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

『「自己への配慮」と詩人像』(十三)『ヒーメロス』21号2012年7月20日発行より

2012年10月10日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(十三)
小林稔


41 前回までの総括

 十二回にわたって試行錯誤を繰り返しながら考察してきた私のエセーも、前回(第十二回)においてようやくボードレールを登場させることができた。この論考は現代詩との関連が見えにくいという非難に応えるべく入り口に辿りついたことになる。「主体と真理」という問題を一貫して論じるフーコーの、「いかなる歴史的形態において、西洋ではこの二つの要素の諸関係が取り結ばれてきたか」という問いの範疇に、「哲学と霊性」の考察がある。哲学が霊性を封じ込め、認識を重視してきた歴史の中で、十九世紀の哲学、とりわけヘーゲル、ニーチェなどにおいて霊性が噴出してき たというフーコーの主張に私は促され書き進めた。
前回取り上げたように、「当時の学問の歴史的状況に対して自分を顧みる」デカルトに対して、「現在のなかの一体何が、現在、哲学の考察にとって意味あるものであるか」を問うカントによって提出された問題、「哲学が自らの言説の現在性を問題化する」こと、「己の帰属性」を問うことは、現代哲学が今なお問いつづけている問題であるとフーコーは述べる。さらにこの「現在性」からボードレールが詩の概念として強烈に打ち出した「現代性」(モデルニテ)を論じ、ボードレールは、たんに古代を否定し「移り逝くもの」だけに関心を示したのではなく、むしろ古代から現在までの継承を感じ、失われたものとしての古代を、現在との対比において「移ろい逝くもの」に古代の影を映して愛着を持ちつづけたのであった。フーコーいわく、現代性とは「現在を永遠化する一つの意思」である。ボードレールから現代詩が始まったとするなら、その先端に位置し詩を書きつづける私たちは、彼から何を賦与されているのかを考えなければならないのであるが、この連載エセーの後半に十分に論じることになるだろう。
 なぜ「自己への配慮」が問題になるのか。主体がいかに知の対象となるのかという主体についての真理の
言説の考察を、主体が自己について語る真理の言説の考察に移したとき、フーコーにとって「自己への配慮」というテーマが浮上してくる。フーコーは主体が真理を語るとき、いかに権力のメカニズムが存在するのか
を考察することを中断し、古代ギリシア、ヘレニズム期ローマへと降りていき、「個々人が自分を性の主体として認識するようになる場合に用いられるもろもろの様式を研究すること」、つまり「主体の解釈学」を考察するようになった。そこで、フーコーがまず初めに取り上げたのが「自己への配慮」という観念である。
 デルフォイの神託「汝自身を知れ」こそが「真理と主体の関係の問題を創設した定式」とフーコーはいう。この神託の意味するところは諸説あるが、本来自己認識の原則ではなかった。自分の力を神の力と対決させてはならないという「中庸」を促すものであった。そこから自分に配慮せよというテーマを哲学的な俎上に初めて置いたのがプラトンであった。『ソクラテスの弁明』では、「君たちが気にかけているのは、財産や評判など山のようにある。なのに君たちは、自分自身のことは気にかけない」と「自己へ配慮」を、市民であろうがその他の人々であろうが触れ回るソクラテスが描かれている。それは神から授けられた使命であり、「最初の覚醒の契機」とソクラテスによって考えられていた。
 この「自己への配慮」という概念は紀元前五世紀から紀元五世紀の千年間、ギリシア、ヘレニズム、ローマ、そしてキリスト教の始まりまでを通して見られるものであり、「近代的主体という我々の存在様式も、その影響を受けている」とフーコーはいう。「自己に専念せよ」という呼びかけが厳格な道徳を生んだのであって、それはストア派や犬儒派に帰すべきであるが、逆説的にキリスト教道徳や非キリスト教的な近代の道徳に、つまりキリスト教の自己放棄と他者に対する義務という近代的な形式の、非・自己中心主義的道徳のなかに、厳格な規則が再び見られるようになったとフーコーは指摘するのである。
「デカルト的契機」とフーコーがいう論考で、デルフォイの神託「汝自身を知れ」が、それまでの「自己への配慮」(プラトン的契機)という観点から、「自己認識」の形式に移動したことを指摘する。「主体が真理に到達するために必要な条件」が「霊性」から「認識」に移行したことを意味する。十三世紀のトマス・アキナスの神学から十七世紀のデカルトまで、キリスト教との衝突を理解しなければならないとフーコーはいう。ここでフーコーは哲学におけるそれまでの「霊性」の重要性を力説する。「霊性」はフーコーの哲学自体を裏付けるものであるといってよいだろう。フーコーにとって「霊性」とは「探求、実践および経験の総体」であり、「真理への道を開くために支払う代価」である。真理を主体が得るには、主体をエロス(愛)の運動や修練の辛苦のなかで、現在の条件から引き離し、自己を変形させなければならないのである。認識行為は真理への道を開くことはない。「自己への配慮」こそが「霊性」によって真理を開く条件になったのである。つまりかつては、「哲学の問題」と「霊性の問題」が合致していたとフーコーはいう。(ただしグノーシス派とアリストテレスという例外を除いて)。これらを否定し、認識のみが真理を開く条件であるとするようになった日が「近代」の始まりの日であるといい、それ以降、「真理は主体を救うことができなくなるが、真理はそのままで主体を変容させることができる」とフーコーはいう。しかし「霊性」は「認識」に隠蔽されながらも生きながらえていた。先述したように十九世紀の哲学に再び現われ、それとともに「自己への配慮」が問題にされたのである。マルクス主義やラカンなどの精神分析においても「真理に到達することで主体において変化しうるものは何かという問題」は「霊性」に特徴的なものだとフーコーは指摘する。
「汝自身を知れ」から「自己への配慮」という観点において理論として始めて登場したテクストは、プラトンの『アルキビアデスⅠ』であることはすでに述べた。アルキビアデスがしなくてはならないことは、「身分上の特権、身分上の優位を、他者の統治に転化させること」であるとソクラテスはアルキビアデスに説く。「自己へ配慮する」ことは他者を統治すること(権力の行使)の条件として考えられている。プラトンのテクストでは、「自己への配慮」は政治的野心をもつ青年とその師との間の、愛に結びついた活動であった。師(ソクラテス)は相手に無知を気づかせる。「統治の目標」とは何かがわからないアルキビアデスに、「自己への配慮」を勧めるが、配慮すべき「自己とは何か」を考えさせる。つまり「統治しなければならない他者に適切に配慮することができるために〈私〉が配慮しなければならないようなこの自己とは、いったい何なのだろうか」という問いである。フーコーが「主体の問題」へと論を進める「主体とは何か」という問題である。『アルキビアデスⅠ』は「自己への配慮」を哲学的テーマとして最初に登場しただけでなく、プラトンの書物の中でも、それに関する理論を唯一、全体的にまとめたものである。しかし、プラトン以前にも「真理に到達するためには自己の技術は存在していた」とフーコーは指摘する。神々と接するときの自己の浄化や退却の技術、それは「人がそのおかれた世界から自らを切り離し、自らを引き上げる」ことである。後世のセネカの実践的哲学において重要な意味を付与している。ピュタゴラス思想の痕跡を、プラトンのみならず、ヘレニズム、ローマ期まで残しているとフーコーはいう。
 「私自身とは何か」の答えがテクストでは「私の魂である」という結論に達することになる。師であるソクラテスがアルキビアデスに言葉を使って導いているのは魂である。「身体的、道具的、言語的なあらゆる行動の主体とは魂である」。「主体としての魂」が自己に配慮することになる。したがってソクラテスはアルキビアデスの魂に配慮しているといえよう。それではソクラテス自身は自分に配慮しているのだろうか。それに答えるには、「師の占めるべき位置」を考えなければならないとフーコーいう。「自己への配慮とはつねに別の人(師)との関係を通る必要がある」。「師とは、主体が自分について行なう配慮を配慮する者であり、弟子にたいする愛のなかに、弟子が自分について行なう配慮を配慮する可能性を見いだす者」であり、「想念に対する無私の愛によって、師は少年が主体としての自分自身に行なうべき配慮の原理となり、モデルとなる」とフーコーは述べている。
 フーコーによる一九八二年のコレージュ・ド・フランス講義『主体の解釈学』の後半から、彼はパレーシア(率直な語り、リベルタース)概念を考察し始める。パレーシアとは「自己への配慮」に関する師と弟子の間になされる対話において、師に求められる行為(エートス)である。師は「言表行為の主体とみずからの行為の主体の一致として、現存しているのである。」しかしキリスト教では、魂を導かれるものの方に真実の語りは求められた。フーコーは亡くなる三ヶ月前までなされた最後のコレージュ・ド・フランスの講義『真理の勇気』までパレーシアを考えつづけたのである。最近(2012年二月二十五日刊)日本語への翻訳本が出版されたが、ソクラテスの死を賭けつらぬいたパレーシアの真理への探求に、自らの死を目前にしたフーコーの哲学的エートスに私は心をうたれたのである。この講義録では、他にキュニコス派の実存を述べ、哲学のある本質を突出させ、後のストア派の「実存の美学」や、キリスト教の修徳にも多大に影響を与えるものであり、ソクラテスとの比較において論じている。政治的パレーシアから哲学的パレーシアへの移行はフーコー批判を生じさせた。しかし、現在の政治を考えても容易に理解されるように、哲学は政治を内包した真理への道を拓いているといえよう。
「性行動は、そのさまざまな活動とそれにかかわる快楽は、どんな理由によって道徳上のつよい関心の対象になっているのか」。これはフーコーの最大の関心事の一つであったといってよい。古代ギリシアやローマにおいてはさまざまなテクストからもわかるように、「強制も禁止もない場合でさえも道徳上の関心がつよい」のである。つまりタブーと道徳は別のものなのに、性活動がいかなる道徳上の形式を構成してきたのかにフーコーは関心を抱いた。それは「ある実践の総体」と結びついた《生存の技法》と解さなければならないという。禁止事項からなる道徳の歴史ではなく「自己の実践をもとにして書かれる倫理的問題構成の歴史」から、どのような思考が生み出されたかをフーコーは考察したのである。
 ひとが主体について真実の言説を企てたのはなぜなのか、どのような代償を払って行なわれたのかをフーコーは考えるとき、三つの形式を取り上げた。すなわちプラトン主義的モデル、ヘレニズム的モデル、そしてキリスト教的モデルである。プラトン主義的モデルとは、要約すれば自己への配慮に向かわせるものは無知の発見から「自分自身を知ること」へと辿る。この「自己の認識は魂が自分自身の存在を把握するというかたちをとる」。「自己への配慮と自己の認識の接点にあるのが想起」ということになる。「魂が自分の存在を発見するのは、自分が見たものを思い出すことによって」である。
 次のヘレニズム主義的モデルとは何か。このヘレニズム・ローマ期に厳粛な道徳が作られた。キリスト教はこの道徳を利用し取り込んだとフーコーはいう。ヘレニズム的モデルは、自己の認識が「自己への立ち返り」という主題の中に場を見いだし、自然を知るためのひとつの手段であったとフーコーは述べる。ストア派は道徳、論理学、自然学の三つを体系におさめ、宇宙論や世界の秩序に関する思弁全体に結びつけ、認識という企てに実践を結びつけているとフーコーはいう。「一方では、すべての知を{生の技法}に従って組織し、自己に視線を向け直すことが必要だとだと主張」し、他方では「視線を自己に向け直す(立ち返り)ことを、世界の秩序、すなわち世界の一般的・内的な組織全体を踏破すること」に主眼を置いているとフーコーは、セネカの『自然研究』を考察する。世界の原因と秘密を探求する「私」は老人である。「人生が完成する地点」に急がなければならない。セネカは時間の浪費(時間の流失)に責めたてられている。「理想的な老い」を求め、「歴史的な知」(歴史的な認識)は遠ざけるべきだ、「人間の真の偉大さ」とは「自己を支配するという個人的な形式でしかありえない」。「舌の先に自分の魂を持って(死を覚悟して)、この世から立ち去るのを準備することである」とセネカは記す。またフーコーはストア派のもう一人の人物、マルクス・アウレリウスを述べている。マルクスにはセネカの「世界における自分の位置からの退却」はなく、「世界の内部に没入し」、世界の細部を「近視眼的視点」で調べつくす「微分的な視線」があるとフーコーはいう。「精神に現れる想念の対象をつねに定義し記述すること」(『自省録』)を掲げ、対象を裸形において吟味する。そうすることによって、「善の定義、自由の定義、現実的なものの定義」を銘記し、蘇らせるという霊的な「訓練のプログラム」であり、知的方法を定義するデカルトとは逆のものであるとフーコーは述べる。
 最後のキリスト教的モデルとは何か。三世紀から四世紀に確立したもので、「聖書」や「啓示」によって真理を知るためには心を浄化しなければならず、自己の認識によってしか浄化されない。自己を知ることと真理を知ること、そして自己への配慮の関係は循環的であるとフーコーは説明する。キリスト教における「自己認識の技法」では、内的な幻想、誘惑を払拭し、魂に広がる動きを解読する必要がある、つまり自己の釈義が不可欠であり、「自己を知るための釈義の方法」の目的は「自己の放棄」であるとフーコーはいう。これまで述べてきた三つのモデルのほかに、プラトン主義的モデルとキリスト教的モデルの中間にグノーシス的モデルをフーコーは挙げている。プラトン主義的モデルの「想起」のモデルと、キリスト教的モデルの釈義のモデルは最初の数世紀の間、互いに対立していたことをフーコーは指摘する。「存在の認識と自己の認知はおなじもの」であるというプラトン主義的考えと、「自己へ回帰することと真実についての記憶を取り戻すことは一つのこと」であるというグノーシス主義の考えは同一である。「キリスト教の境界地帯においてグノーシス派として現れて発展した」とフーコーは説く。
「自己への配慮」においてはその「諸形式にこそ、自己認識の諸形式の叡知性と分析の原則求めなければならない」。認識の形式は同一ではなく連続した歴史を作ってはならないとフーコーはいう。従って「主体を主体として構成する反省性の諸形式の分析論から始め、それを支える実践の歴史から始めなければならない」とフーコーは主張する。「自分自身を真理の主体として試練にかけるような試練」、「私はほんとうに私が認識している真理の倫理的主体であるのか」という問いをフーコーは取り上げている。ストア派の訓練に、「災悪の予期、死の訓練、そして良心の吟味がある」とフーコーはいう。「災悪の予期」(praemeditatio malorum)をフーコーが『主体の解釈学』で論究するところによると、古代ギリシア、ヘレニズム、ローマの帝政期まで「災悪の予期」の訓練は論議を巻き起こしていた。未来は「精神は未来によってあらかじめ心を奪われている」という否定的に考えられていた。つまり自由を奪うことになる。それに反して過去の思考は肯定的な価値を持っていたという。「記憶についての反省が、同時に未来に対する態度でもあると考えられるようになった」のはずっと後のことである。未来の思考が価値を持たないのは、「未来とは無」であり「未来に対して投影できるものは何ものにも基づかない想像」である。あるいは未来は先在するものであり決定されたものであると考える。自分に専念しない人は未来に心を奪われる。「記憶の訓練が未来の訓練より優越している」というコンテクストにおいて、ストア派は「災悪の予期」という訓練を真の言説を備えるために繰り広げたとフーコーはいう。予期しない出来事が起こったとき、備えがないと大きな苦痛を感じる。従って最もひどい災悪を考慮し、「それが起こりうるはずだと考える」。確率論ではなく予期の訓練によって不幸に対する訓練をしなければならない。「不幸はただちにすぐさま、時を移さずに起きる」という考えは未来に向かう思考ではなく、「未来を封鎖すること」、つまり「現在の思考訓練によって未来を無効にすること」なのであり、むしろ未来を現在としてシュミレートし、実在性を無効にすることであるとフーコーは解釈する。災悪は必ず起こることを覚悟し、現在の出来事の規模を査定すれば怖れは縮減するという考えである。「不幸としては無であるような現実の姿に引き戻されるように、思考を働かせなければならない」とフーコーは、セネカの『書簡集』から「死の省察」、「死の訓練」と「良心の吟味」を読み取っている。
このようなセネカの考察は、昨年の三・一一以来、私たちが受けた自然災害の恐怖から私たちの心身を守るための、未来における一手段に充分成り得るだろう。



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キリスト教における結婚観と修道士の出現(十二)その2、個人詩誌『ヒーメロス』20号2002年3/25

2012年09月18日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの
長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』十二(その2)
小林 稔


41 キリスト教の確立における結婚観と修道士の出現

 試練としての生
 キリスト教においては、導かれる者(無知と堕落の次元にいる者と考えられていた)は言うべきことをもっていた。導かれる者が語るべき真理とは彼自身の真理であり、救いにとって必要不可欠なものとして、すなわち、自己練磨や自己変容の技術として司牧制的な綱領に義務として書き込まれたのだとフーコーはいう。西洋の「主体と真理」の関係にとってたいへん重要な意味を持つことになる。なぜなら、「共同体への個人の帰属のために必要な要素」になり、導かれる者が語る権利を持ったのは「告白の義務」によってだからである。それ以前の古代ギリシアやヘレニズム、ローマにおいても忠告を求めようとする人は自分自身について語るということがあったが、「道具的な義務」、つまり「友人に忌憚なく語ったり」、「神や裁判官の寛容を求めること」であった。主体は真実の言説に注意を払わなければならず与えられた真実の言説を聞くことから始まのであり、自分自身についての真実を語ることは必要なことではなかった。「真実を語ることのできる主体としてみずから
を試し、試練にかけるだけ」である。ソクラテスは知っていると思っていることを知っていないと示した。師の言説に真理があることを示すことになる。どのような根拠があって師の言説は正統性を保ちうるのか。それはパレーシアという概念であるとフーコーは述べる。「指導者は、言表行為の主体とみずからの行為の主体の一致として現前して」いなければならない。キリスト教における魂の教導はギリシア・ローマのそれとは厳然と区別されようになったのである。
生とは試練として受け取るべき不幸の長い連続であるという考え方はギリシアにおいて古くからある考え方であり、プロメテウスやオイディプス、古典悲劇や神話に描かれた試練がある。「神々と人間が衝突したとき神々が人間に送る不幸の総体として、試練が現われる」とフーコーはいう。この闘いには敗者である人間がいて「平和と平静さ」を神々はもたらしてくれる。ストア派の試練では神々との競い合いはなく「良き人々を育てるために必要」であり、「保護的な温情から」であるという。「自己を育成すること」、「自己を配慮しながら自らの生を生きなければならない」のだ。「理性的な神は、世界の秩序において、私のまわりにさまざまな出来事や危険と不幸の長い連鎖を配置した」、「私はこの不幸を、自己を完成してくれる試練や訓練として解読する」ということである。ところが、キリスト教においては「生は試練以上のものではない」と考える。信仰のためには死さえいとわない人々とローマ人に思われ、ユダヤ教徒にさえ、そのように思われていた。
中山元氏の『賢者と羊飼い』によると、キリスト教は「ユダヤ教に含まれていた司牧者の思想をそのままうけつぐことで、イエスの死に人間の罪を贖うという意味をつけ加えた」のであり、「キリストの死と復活の目的は、人間の罪の贖いにあり、救済にある」。また、キリスト教では身体が重要な意味を持つ。なぜなら「イエスの復活を通じて、個と普遍がひびきあう構造になっているからである」。「一、二世紀のキリスト教徒にとって、自分の信仰を証し、永遠の生を獲得するためのなによりも確実な道は、殉教することであった」という。つまり自己とはイエスの受難を反復すべき存在なのであった。中山氏は「自己についての新しい考え方を導入し、これを全く新しい問題」に変えてしまったという。それには、アレクサンドロス大王によるインドにいたる巨大な帝国の構築、もはやポリスの市民ではなく、コスモポリタンという概念が提出された時代であり、空間的な広がりは底知れぬ恐怖を人々にもたらしたであろうという。この一、二世紀という時代にはローマによるキリスト教徒の迫害はむしろ例外的であり、みずから死を求めた人々の方が多かったと中山氏は指摘する。
古典ギリシア・ローマ期の〈生の技法〉は、政治や宗教の領域ではなく、その残してしまった空洞に書きこまれたものであるとフーコーはいう。「ギリシアにおいて人間の自由は、自分自身に実践するテクネー(自己自身の技法)においてこそ、みずからを強制する手段を見出すのだ」。つまり「自己に専念せよ」という教えが立てられるのは〈生の技法〉という形式の内部においてなのである。先述したように、強制も禁止もない場合でさえ道徳への関心が起こったということである。しかし、ヘレニズム・ローマ期になると「自己への配慮」は〈生の技法〉にとって必要な要素ではなくなるとフーコーは指摘する。出発地点としての「自己への配慮」が逆転し、〈生の技法〉が「自己への配慮」の枠組の中にそっくり書き込まれてしまうようになる。つまり「生は試練とみなされなければならない」という考え方が打ち出される。そこから導きだされるものは、「自己の育成」であるとフーコーはいう。「自分に対して=自己に向かって生きる」ことである。それは「生存の根本的な投企である。理性的な神は、世界の秩序において、危険や不幸を〈私〉の周りに置いたが、それらを自己を完成させてくれる試練や訓練として解読することである。この時代(紀元一、二世)にギリシアに小説が出現し、そのようなテーマの物語が書かれるようになるが、そこから導かれるテーマは処女性=純潔であり、キリスト教的霊性にふたたび見出されるようになったとフーコーはいう。

初期キリスト教における女性の地位
 古代ギリシア・ローマ期と同様にキリスト教においても、〈道徳的主体〉は宗教改革以前は法制化と戦ったことは先述したが、キリスト教の到来とともに、自己との関係がまったく新しくなったという印象が強いと中山氏は述べる。イエスと同時代の人、フィローンというアレクサンドレイアのユダヤ人の哲学者によると、人間は身体をもつがゆえに、快楽に進む傾向をそなえていると考える。人間は身体的な存在としては
どうしても悪に傾くのである。それは身体が自己愛的なものだからであると中山氏は指摘する。フィローンは、良心が検察官として裁き、悔い改めを求めると考える。神に対して偽りのない良心の真摯さを示すことのできる状態をフィローンはパレーシアと呼んでいる。良心にやましさのないことがパレーシアの条件であった。
 中山氏のよると、ローマ帝国には世界各地のさまざまな迷信が紹介され、魔術的な奇跡を発揮するキリスト教もその一つと考えられていたという。さらにキリスト教徒たちに見られる「死を軽んじる」潔さが注目されてもいたという。キリスト教がローマの国教になるまでキリスト教徒に対する迫害が盛んに行われていたと一般には思われているが、実際は「みずから望んで死を求める奇妙な人々と見られていた」という。「自分の信仰を証し、永遠の生を獲得するための確実な道は、殉教することであった。」殉教する人々に女性が多かった。ギリシア時代やローマにおいては、結婚するまでは父親の管理下に、結婚してからは夫の管理下に置かれ、一部の個族層を除いては、ほとんどの場合女性の地位は低かった。しかし、初期のキリスト教時代においては女性が重要な存在と考えられていたのである。その理由としてキリスト教の教えでは、身体に注目することを中山氏は挙げている。「イエスの身体という、「一点」を通じて、個と普遍がひびきあう構造になっているからである」と中山氏は述べる。女性と貧困者を中心に、ローマ世界の限界を突破したことになると中山氏はいう。
 中山氏は『賢者と羊飼い』においてかなり詳しく女性の殉教を取り上げているので、ここでは割愛するが、それは「家父長的なローマの社会」に「女性という新しい主体の新しい自己のあり方は、ローマの世界をやがて征服していく力を発揮するように」なったのである。「死を覚悟したキリスト者の強さ」が「キリスト教の信仰がローマ帝国の支配体制を揺るがす力を秘めていることを明らかにするもの」であった。ローマ帝国は死を与えることで罰することができるが、キリスト教徒はみずからの死を勝利に変えて」しまったのだと中山氏は指摘する。。帝国の支配に抵抗したのは殉教する女性だけではなく、「支配者の内部から」も新しい抵抗が生まれた。『パウロ行伝』(パウロの伝道を描いているが虚構であるが影響力は大きいという)には、キリスト教の信者としては他の宗教に比べて女性の地位は高く、男性と平等であったことが記されている。他にも『ヨハネ行伝』、『使徒ユダ・トマス行伝』、『ペテロ行伝』があるが、「女性の純潔」と「社会的な効果」の関係が描かれている。それは「男性支配の対する挑戦」であり、「結婚を土台とする社会への批判」である。「性の交わりを断つ」ことは「世界の秩序に破壊的な影響を及ぼす」ことであった。

 ギリシア教父たちの結婚観
 キリスト教の勢いが強まるにつれて、ユダヤ教ではキリスト教とは結婚に対する異質の考えを構築していった。中山氏は、ラビたちは「身体を神からの賜物として感謝とともにうけいれる姿勢だった」と指摘する。「性的な交わりと結婚の価値が高く評価されているのは、キリスト教の肉の理論に対抗するためだ」という。それに対してキリスト教においては、「霊と肉を対立させ、霊が肉より上位にあると考える傾向が傾向が強い」。肉が霊にとっての「牢獄」でるというプラトン的伝統が根を張っていることを中山氏は指摘する。
 中山氏が述べるように、二世紀以降のユダヤ社会では古典ギリシアやローマ帝国と同様に、男性だけが主体
としての地位が認められていた。夫による妻の支配は特権的であり、哲学においても男性支配の思想は動かしがたいものであったという。しかしキリスト教が国教になってからは女性の純潔と処女の問題が市民の性の問題と交錯してくるという。
 アレクサンドレイア、アンティオケイアで活躍した東方のギリシア教父たちと、ミラノ、ローマで)活躍した西方のラテン教父たちが結婚について、事故についていかに考察していたかを中山氏の『賢者と羊飼い』に教えられることを要約してみよう。
 まずアレクサンドレイアの司教であったクレメンスというギリシア教父。かつてアレクサンドロス大王が築いた街であり、プトレマイオス朝の首都でもあったアレクサンドレイアはクレメンスの時代には「地中海とアラビア世界を結ぶ巨大な商業都市であり、人々は自由を謳歌し、贅沢な生活と自由な性生活を享受していたという。クレメンスは彼の著書『パイダゴーコス』で信仰を導く「教導者」の立場から、食事に対する快楽主義や、衣服に対する贅沢を戒める。物質面だけでなくさらに行動面においても、姿勢や慎みのない笑いといった
「細かなふるまい」まで戒めている。当時の」キリスト教徒も女性たちは、夫との性的交わりを避けたいという希望が根付いていた」。クレメンスの論敵はグノーシスの二つの流派であった。とりわけ禁欲的なユリアス・カッシアヌスに反論する。カッシアヌスは、人間の誕生は原罪のために悪であり、性の交わりは罪を重ねるに過ぎないと主張し、禁欲を主唱した。しかしクレメンスは種族保存の立場から、身体は汚れたものではなく、「目的を実現する聖なる計画」の道具であると『ストロマテイス』で著している。イエスが人間の肉をまとった理由とした。先にも述べたように、キリスト教以前の社会におけるように、男性優位の他者の優位から、女性もみずからの身体と精神をもって倫理的な営みをするようになったのであり、キリスト教がもたらした大きな変変革のうちの一つであるとフーコーは指摘する。しかしクレメンスにおいては、互いの情愛を確認する場でなく、夫と妻が互いに快楽を与えあうことは禁止されていたと中山氏は指摘する。
 クレメンスの学校を引き継いだといわれるオリゲネスという人物。父を迫害でなくし、彼自身にも迫害の危機が迫っていた。それだけに彼の文章に緊張感が随所にあふれ、「読者を霊的な禁欲へと誘う強い意志に綱貫かれている」と中山氏はいう。グノーシスは派では、人間をプネウマ的、プシュケー的、ヒュレー的人間の三つのタイプに分類し、一番目は神と合一できる人間、二番目はその可能性が残されている人間、三番目は可能性が全く失われている人間とする。オリゲネスは「段階」は認めるが、だれでも神的な教育によって神とに合一の可能性があるべきであると考えた。彼は四つの段階に分ける。最下位の四番目は神の摂理を否定する者、三番目の段階は神のロゴスに授かっているがイエスのロゴスを信じていない者、二番目の段階はキリスト教を信じている素朴な信者、最高の段階は「すべてのもの神を神として戴いている者である。人間はこの段階を一段一段上昇していくことができると考える。あるいは逆に下降することもありえる。「死すべき人間の生活の全体が、苦悩に満ちたものと」なる。子孫を残すための性欲を自然的な衝動と認めながらも、「罪の種」となるものでもあり、この事実を逆手にとって「自分の節制の意思を鍛えることができる。人間の生は一つの〈競技〉なのだ」とオリゲネスは考えていたという。この戦いを通じて「魂の器」から「霊の器」へと変身することができる。彼の理論にもプラトンの影響が見られる。魂は不滅であり、転生の理論は導かれる。「キリスト教では魂は不滅ではなく、彼岸において霊的な身体とともに復活するものである。このためオリゲネスにはつねに異端においがつきまとう」と中山氏は指摘する。オリゲネスは人間の本性が善と悪によって決定されているという宿命論に、人間の自由意志と神の摂理で対抗したという。クレメンスもオリゲネスも、性的な欲望に対して「穢れ」を見出していることには変わりはない。魂は肉とも交わりで「不浄」は避けられないが精神を高めることで浄化することができると考えていた。人間は原罪から免れることはないが、「この原罪をぬぐって、人間の救済の道へと進ませる力のある者がただひとり存在する。イエスである。」イエスは「男に触れたことない処女と、処女の上に臨んだ精霊と影で包んだいと高き方のみに由来するものとして、汚れのない体の内にこられた方」(オリゲネス『ローマ信徒への手紙』)の力によって、人間はこの汚れから救われるのだと彼は考えていたという。
 オリゲネスの影響下にある教父として中山氏はニュッサのグレゴリウスという人物を挙げる。バシレイオス、グレゴリオスと並んでカッパドキアの三教父と呼ばれる一人である。彼は結婚が社会の基盤であることを認め
ながらも、家庭は欲望と悪徳に染まるところだと考えている。「生の始まりであるとともに死の始まりである」。したがって死よりも強いのは処女性である。処女の身体は堕落する以前のアダムに近づくという。処女は子孫を生むことを停止することで原罪を消すとさえいう。結婚の放棄が自己への配慮と同じ意味を持つことを中山氏は注目する。それは『主体の解釈学』でフーコーが指摘していることでもある。プラトンがソクラテスで描いた自己への配慮という主題が、フィローンやプロティノスに引き継がれ、キリスト教の始まりまでつづいていると述べる。グレゴリオスでは「自己への配慮が結婚からの解放(独身)によってはじまる」とフーコーはいう。つまり、禁欲主義と自己への配慮がつながっているのである。当然ながら自己への配慮は、変容していくのである。グレゴリオスにとって「結婚という生は、情念と嫉妬に脅かされる危険な生であった」と中山氏はいう。
 一方、結婚を賞賛する神学者にアンティオケイアの貴族出身にクリュソストムスという人物がいた。アンティオケイアの享楽から信徒たちを守るのが家庭であると考えた。クリュソストムスにとっては子孫を残すこと
は重要ではなかった。キリストによる復活の望みがあるからである。結婚することは姦淫を避け、欲望を抑え、貞節を実行し、妻に満足を与えることで神を喜ばせるものであると考えていたという。結婚が家庭と社会を安定させる要因であると理解した。キリスト教ではアダムとイブ以来、常に女性は男性に従うものであるという男性の優位性を示しつづ
けてきた。しかし、クリュトリアヌスは平等なものに作り変えようとしていたと中山氏はいう。自分の愛と役割を示すことに相互性があるという考え方は、「自分の有徳性を示す非対称な相互性にすぎない」と中山氏は主張する。クリュソストムスが妻を愛するのは神の掟を定めたからである。女性の従属的な位置はキリスト教の教義のうちでさらに確固としたものとなり、理論的に強化される」と中山氏はいう。

 ラテン教父の結婚観
 結婚の称揚は初めのころに起こったが、すぐに処女の称揚に変わっていったのは、ここまでの文章で理解されよう。これから述べるローマ帝国の西方においても同様の傾向が見られるのである。そこには聖書にある原罪の問題が横たわっているからだ。カルタゴのテルトゥリアヌスは、豊かな社会で暮らす日常生活、例えば化粧や装身具の濫用を警告する。女性はイブ以来男性にとって誘惑の源泉であるからだという。身体自身を飽くとすることはないが、「純潔であることがたんに肉体だけでなく、世俗放棄の外的かつ内的な態度をふくみ、その態度は、ふるまい、ありかたについての規範によって補充される」(フーコー)のである。テルトゥリアヌスは結婚に肯定的であるが肉体的欲望は忌まわしいものであると考えていたという。彼にとって女性が最も高い位置にあるのは殉教に向かうときであるという。そのような考えの背景には、女性不信と肉体の否定の理論がもとになっていると中山氏は解釈する。
 ノウァティアヌスは処女が禁欲を守ることは天使をもしのぐと考えていた。なぜなら天使には肉という自然性がないが、処女は肉の自然を制するからである。彼にとっても殉教と処女性は強く結ばれていた。「自分自身であること」「あるがままの自分を喜ぶこと」という、女性を批判し、ソクラテス以来の若者愛を称揚する表現を意識的に、あるいは無意識的に使うと中山氏はいう。
 ミラノの司教を務めたアンブロシウスは結婚を断念し、処女の生涯を送ることを勧めたという。巨大な富を所有し社会の高い階層にある女性に、富への欲望を克服することを貞節のまず最初にするべきこととして求めたという。それは「教会の経済的な目的にとって好都合であったからでもある」と中山氏は指摘する。それを支えていたのがマリア信仰である。マリアの処女懐胎とイエスの出産後も処女であった。「マリアの処女の身体は人間と神を結ぶ特権的な場であった」と中山氏はいう。
ローマの貴族でキリスト教に改宗した一族、デメトリアス・アニキウス家の娘、デメトリスは結婚を拒んだ。そこで彼女は三人の人物に手紙で助言を求めた。ペラギウスとヒエロニュムス、そしてアウグスティヌスである。彼らはキリスト教界の主要人物である。彼らの書簡から、キリスト教にとって処女の身体がいかなる意味をと価値が付与されているのかを中山氏は考察している。
ペラギウスは「人間は神から与えられた本性とみずからの意志によって善をなしうる」と主張したという。デメトリアスが禁欲の背活を決意したことを賞賛したが、それだけでは十分ではなく、純潔の誓願によってさらされる危険を指摘する。自分の想念を絶えず警戒しなければならない。「心のあらゆる巨悪の起源は想念である」(ペラギウス『デメトリスへの手紙』)自分の内部から生まれたものが、善良なものか、邪悪なものか、それらの起源を識別しなければならないと主張する。つまりこれは《自己の解釈学》と呼びうるものであり、ひとりで実行するのは困難であると中山氏はいう。後には修道院が役割を果すことになる。
ヒエロニュムスもペラギウスと同じように、禁欲の誓いの危険性を軸としているという。処女性を守ることは殉教と同様の営みであることを主張する。そのために武装し戦う必要がある。働くことや出歩くことも禁じられ、家においても家族や訪問客とも出会わないようにし、心を神の言葉も「座」とするように求められたと中山氏はいう。一種の監禁状態を強要するが実行できるものではないという。他の司教の言葉に惑わされないこと、「異端」の教えに誘惑されないことをデメトリアスに求めた。
アウグスティヌスにとって処女の純潔は両義的な意味を持っていたと中山氏はいう。純潔の貞潔と結婚の貞
潔のどちらも善であると考える。比較するなら前者の方がより善である。しかし処女の純潔が引き起こす問題を指摘する。「われわれは、多くの聖なる処女たちが、多弁で、好奇心が強く、酔っ払いで、口論好きで、貪欲で、高慢なのを知っている」(アウグスティヌス『結婚の善』)と意図して語る。アウグスティヌスは乾坤を飽くとする考え方に抵抗すると同時に、子孫を残し、教会の存続を守りという伝統的な考えは時代遅れであると考えた。アウグスティヌスにとっては結婚より純潔が望ましいことであった。結婚は処女のままで節制を保てない者のために認められた一種の「治療」の手段であると考えていたと中山氏はいう。情欲はいかなる聖者であろうと根絶できないと考えていた。しかし情欲は悪である。そのために結婚という手段が必要であると考える。結婚によって節度を持つという、「悪の善用」を容認せざるをえなかったのである。
アウグスティヌスにとっては、目的そのものである善と、目的を作り出すための「手段」として利用すべき善の二つがあったと中山氏は解説する。知恵や健康、友愛などは前者であり、学識、食物、飲み物、睡眠、結婚、性的結合などは後者であるという。例えば友愛のために、結婚や性的結合が必要である。アウグスティヌスは結婚には三つの善があると主張した。誠実さと子供と秘蹟である。男性にとって女性は「聖なる絆」のパートナーであろうと、女性が作られたのは「子どもを産むため」と考えていることも忘れてはならないと中山氏はいう。アウグスティヌスは『神の国』という著作で、天国ですでにアダムとイヴは性行為を行っていたと考えていた。アダムが罪を犯すまで、手によって種子を地に蒔くように、恥じることなく生殖行為をしていたと述べている。それではアダムの罪とは何か。堕落とは何か。それは自らの自立的な意志をもつことである。その結果、アダムは自分の身体を制御する力を失ったのだとアウグスティヌスは指摘していると中山氏はいう。意志の自立を望むがゆえに、体の一部が命令に従うことを拒む。そして無花果の葉で意志に反抗する部分を隠すのでる。人間の性器が不従順の象徴的な器官なのであると中山氏は解読する。その器官が動くためには欲望が必要となる。情欲なしに生殖はできない。「性器の自立的な動き」をリビドーと呼ぶ。フロイトによって有名になった「性的な衝動」を意味する言葉であるが、アウグスティヌスは、「神によって定められた限界を超越した人間の傲慢な意志と欲望の結果として生まれたもの」と考えていたと中山氏はいう。アウグスティヌスの取っての原罪とは、「アダムが神に抵抗して自分の意志をもつという不従順な行動を示したことで「園」を追われた」ことを意味する。すべての人間は情欲をもつことで原罪を反復することになる。結婚とは情欲を手なずけるとき、父親や母親が感じる情欲がアダムの原罪を反復し、子供に伝えるものである。とはいえ、原罪は結婚からではなく、情欲から引き継がれるとアウグスティヌスは『ユリアヌス駁書』で叙述している。なぜなら不具になって生まれてくる子供は、人間に罪があって生まれてくるのでなければ神の善性にふさわしくないではないかと同書で論じている。中山氏が言うように、アウグスティヌスでは「すべての自然的要素が罪過の言葉で語られるようになった」のである。このようにアウグスティヌスのよって深められた問題は、結婚を拒否することで個人で解決できるものではなくなった。そこで登場したのが導き手である修道士である。

修道士の役割
 中山氏によると、アントニオスという人物が、財産を投げ捨てエジプトに一人で旅立ったのは二八五年であったという。後に彼にならって砂漠に住む人々が後につづき、「処女の身体」から「修道生活」に重要な「装置」を写すことになる。「経験する」ことのなかでキリスト教の教義が鍛えなおされることになったのだと中山氏はいう。修道院に入るときに求められるものは、世俗的な世界だけでなく所有という考え方そのものの放棄であり、自己を放棄し他者に服従することが求められた。意志や思考まで捨てなければならないのはなぜか。人間の思考には三つの源泉がある。神からのもの、悪魔からのもの、私たち自身からのものである。悪魔が人間の心に悪しきものを注ぎ、善きものに見えるようにしてしまう。これはカッシアヌスの『霊的談話集』に書かれていることで、そこで使われている、「よい小麦と悪い小麦」の見分け方や、純粋な本物の金貨とそうでない貨幣の見分け方を述べているが、ストア派のセネカがすでに利用していた記述であると中山氏は指摘する。だが、ストア派とキリスト教の自己吟味では大きな違いがある。「ストア派では主体が自己を享受し、自分の行動原則を確立するために、不適切なものを排除することが重要な課題だった。ところがキリスト教では自己の欲望の
真理と起源を認識し、悪しきものを排除することを目的として自己の吟味が行われる」と中山氏はいう。したがって自分の思想を師に告白することが求められたという。「善い考えの裏に悪しき考え、悪魔からきた考えを隠していないかどうかを吟味すること」である。自分の心の内面について真実を語るというパレーシアにおいて、精神の禁欲が検証されるのであり、フーコーはこの技術が西洋の歴史にさまざまな形態をとって登場するという。その技術の特徴を六つに要約している。
一、犯した罪深い行動を単に告白することではなく、イメージ、表象、意志、欲望が明らかにされる。二、点検は記憶によるものではなく、「自己のたえざる管理によって行われる」。監視する自己と監視される自己との関係である。三、自分の思考を真理の基準で判断するのではなく、真理の性格を暴くことが求められる。思考が外見と異なるものを隠していないかどうかを吟味する。四、主体の心に生まれる表象、思考、欲望が神ら来たものか、悪魔からきたものかを明らかにする。五、精神に訪れた思考や表象を絶えず点検するために、かたりつづける。つまり言語化しなければならない。六、自己を放棄することを目的とする。主体は他者に服従し、心の中の出来事を他者に物語る。これはキリスト教徒にとっては悪魔の世界から神の世界への移行であり、「他者の王国」、「他者の法則」への移行であるとフーコーは述べる。
 修道院のような特別に隔離された場所だけでなく、一般の教会においても告白は求められていたと中山氏はいう。「自分の思考の真理を公に認めることを意味」する告白は、エクソモロゲーシスと呼んでいた。二世紀にはキリスト教の内部で制度的なものとして確立され、「神の赦しが教会の聖職者を通じて与えられる教会儀礼」となっていたという。過去の自己を明らかにすることで、自己から離脱すること、自己を破壊すること」であり、主体が新しい自己と新しい関係を結ぶことであると中山氏は解釈する。つまりストア派では私的であった自己の吟味が、キリスト教では公のものになったのである。「人々の面前で自分が死に値する罪を犯したことを告白し、悔悛する」。「これ以上の罪を犯さないために、死ぬ用意があることを」示さなければならず、「自己を犠牲にしても、自己の真理を語ることが求められる」と中山氏は述べる。

 司牧者のパラドックス
 フーコーによると、「思考の解釈学を通じて自己について真理を言うという原則」があり、聖書というテクストをめぐる解釈学の長い伝統がキリスト教世界にはあったが、その対象が自己である信念に向けられるようになった。「修道士たちは、自己を解釈するという新しい義務のうちにおかれた」と中山氏は指摘する。自己を探り、自己の真理を発見し、その真理を語るという義務である。真理を語ることは悪魔を追い出すことであり、隠したいと思うことは、その思考が悪魔からきたものという証拠になると考えられていた(カッシアヌス『共住修道制規約』参照)。「師への絶対的服従という関係の枠組のうちで遂行する。この関係の規範となるのは、主体が自己の意志と自己自身を断念することにある」(フーコー『自己の技法』)という。指導がある規則の内面化を目的として行われ、達成されれば指導は終了し、その内面化に成功した人物が指導にあたる。目的が満たされなければ指導者の正しさが問われることになる。これが古代ギリシアの指導関係であるが、修道院では目的に従って賢者が指導するということはなくなる。「修道士はつねに指導者を必要とする。永続的な自己の吟味が必要とされるために、完全に自己を統御できる状態、師にふさわしい状態というのは、絶対に達成できないと考えられた」という。指導者はその有能性において選ばれるのではなく、従属することに価値があるために指導が行われると中山氏はフーコーを参照し要約している。他者の吟味を受ける義務は、「人間の自律的な能力に対する強い疑念」がある一方で、謙虚な姿勢を生む源泉」にもなったであろうと中山氏はいう。しかしそこにはいくつかの逆説が見られると指摘する。一つ目は、平等と排除に関するものである。司牧舎はすべての羊の群れを失わないようにしなければならない。すべてを救済するには、悪しき羊を排除しなければならない。「一頭の病める羊が群れに病を伝染しないように」(ベネディクトス『戒律第二章』)である。しかし、「九十九頭の健康な羊より一頭の病める羊を優先しなければならない」という子羊の喩えがある。二つ目は、指導者が指導に専念するあまり、自己への配慮を忘れてしまうことが起こる。しかし他者への配慮を怠ると群れからの信頼をなくす。自己への配慮をおろそかにすると指導者の資格を失うことになる。三つ目は、司牧者が内的な純粋さを喪失する場合である。
魂の指導は信仰における弱者の気持ちを理解するためにその人物に成り変わり、誘惑を感じ取ることであるという。中山氏はグレゴリオスの『司牧規則書』(グレゴリウス一世・五四〇‐六〇四・修道院の魂の配慮の規則を定めている)から教会にある洗盤の記述を挙げている。多くの手の汚れを落とした洗盤は汚れていくように、「永遠の門に入ろうとするならば、この洗盤と同じように、司牧舎の心にみずから感じている誘惑を打ち明け、そして思考や行為の〈手〉の汚れの落すことができる」。しかし司牧舎は告白された誘惑の攻撃に負け汚れるのも確かである。つまり、羊のためにみずからの命を落とす用意を求められているのだと中山氏はいう。「ひとりの迷える羊のために命を落としたら、群れの他の羊たちの救済はどうなるのだろうか」。司牧舎の資格が喪失されるという逆説。四つ目に、司牧者には思想の純粋性が求められるが、あまりにも汚れのない場合には、ある種の傲慢さをもたらし、それが落とし穴となることがないのかと危惧するのである。つまり司牧舎は自分の弱さを隠さないほうがよいというのである。「弱さもまたこの魂の配慮という営みに不可欠な要素だということになる」と中山氏はいう。このようなパラドックスを通じて、修道士と指導者の間に権力関係が築かれていくが、最終的には神の手に委ねるしかない、完成することがないとフーコーは解釈する。

 優れた師の条件
 中山氏によると、優れた師の条件はアガペー(愛)を備えていること、弟子の思想を解読する能力をそなえていること、魂の動きや悪霊の策略を熟知していることである。「他者の魂への配慮の根本は、他者へのアガペーである」という。次は他者の心を読む能力であり、弟子の心のうちを読み取り、欲望を追い払うことができるが、自発的な告発の機会を奪うということもあったという。最後は識別能力である。しかし優れた師がいつも求められていたのではなく、絶対的服従を重視するので、非合理的な命令であるほうがよい場合もあるという。「自己の放棄と従属の価値が非人間的なまでに高まっていた」ことを示す逸話を中山氏は挙げている。
 中山氏は、修道院における自己放棄の特徴を三つ指摘する。一つ目は、自己放棄がそれ自身、目的化されているということである。他者に服従することそのものが、魂の善き状態青示し、信仰の深さを明かすものであり価値をもつと考えられていた。二つ目は、弟子に命じるのは師であるという関係はなく、誰でもが命じることができ、服従しなければならないという構図が成立した。三つ目は、命令に従うだけでなく、命じられないことをしないことも求められたという。自分の判断で行動してはならないということである。修道院における服従は、帝政期における法への服従とは根本的に対立するものであるとフーコーは指摘する。「古代の教育的であった自己の支配とはまったく逆の場所に到達するからである。自己を支配せず、自己のうちで常に師がすべてのものについての師が支配しているようにすることである」。(フーコー『純潔の闘い』)自己の真理を語る目的は自己を統治することではなく、他者の権力に服従する主体を形成することの条件になってしまったと中山氏は述べる。師が語り弟子が聞いたというソクラテス的な真理を語ることとは正反対の状態にあると指摘する。初期キリスト教では、ローマの男性優位社会、身体軽視の思考に、女性の重要性で抵抗したキリスト教徒たちであったが、神への純潔を強調するあまりに処女の純潔を持ち出してから、現実軽視の機運が高まり殉教者が増加していく。これらは、キリストという神の子が肉体をまとってこの世に出現したことで身体の優位性が明かされたが、キリストの母親マリアが妊娠をしない出産であったこと、つまり処女出産であったことから、アダムの原罪を消し去ることができず女性蔑視の誘因になってしまったといえよう。

 中世解釈者革命と世俗化
 ヨーロッパ社会を席巻する「生‐権力」の実態を解明する上で、ヨーロッパがいかに形成されていったかという歴史を辿りなおさなければならないのだが、ここで長々と記述する紙幅はない。歴史の書物に委ねることにして、話を中世に進めよう。六世紀にユスティニアヌスの命令によりトリポリアヌスによって編纂された『ローマ法大全』が十一世紀末に「再発見」され研究対象にされた時期が、グレゴリウス七世の改革運動の時期と重なる。それは「ヨーロッパの最初の政治的な革命であり、世界全体に形を与えなおすこと」であったと、佐々木中氏は、その著書『夜戦と永遠』の第二部「ピエール・ルジャンドル、神話の厨房の匂い」でグレゴリウス七世の言葉を引用しながら述べる。佐々木氏の主張を要約してみよう。ハインリッヒ四世との政治的紛争、「カノッサの屈辱」で世に知られているが、西洋法制史と中世スコラ哲学を専門とするルジャンドルによれば、「ヨーロッパの法律主義の本質的な集成」である「グラーティアヌス教令集」(十二世紀)における達成は革命といってよく、「敢えていえば、地球は変わったのだ」という。何が行われたというのか。発見されたローマ法の研究に法学者たちや注釈者たちが熱中し、読解し、写本を作り、修正していったのだ。このような作業が二百年以上つづいたのであり、データ化され「文書の合理的客観化」された。「この法テクストの文書化・合理化・客観化そして階層化は、後戻りできない制度的なアウトラインを作り出した」のであり、「無味乾燥な近代官僚制の世界、書類の、文書の、資料の、データの、情報の世界が、ここに歴史上はじめて到来した」とルジャンドルの意思を佐々木氏は代弁する。政治的・法的テクストを客観的文書化・情報化することにより、「効率化」ということがヨーロッパの規範になったのだ。今日の効率の世界、管理経営的世界、われわれの整理術の、検索の、情報の、データベースの世界の起源は、「一つの文章は、無限に書き直せる」という「書かれたものの合理的な客観化という方向において」教会法とローマ法を相互浸透させた「グラーティアヌス教令集」の編纂にあるとルジャンドルは主張する。中世解釈者革命は「情報技術革命」であり、キリストを隠喩する〈生ける文書〉を侵食していくと佐々木氏はいう。なぜなら情報やデータベースによって解決できるのであれば、歌や儀礼は不必要だからである。
宗教からの解放を世俗化と呼ぶ。中性解釈者革命が始まりである。「ラテン・キリスト教自体のなかに、その非宗教化を産み出すような原因があったのである(ルジャンドル)。「世俗化以前の中世ヨーロッパにおいては、近代国家にあたる政治組織を見出そうと思えば、それは〈生ける文書〉たる〈教皇〉を〈父〉とする教会以外にない」と佐々木氏はいう。中世における教会は、近代における教会のようではなく、「キリスト教共同体」、ヨーロッパ大に広がる「キリストの身体」であり、「有機的身体としての政治的社会」であり、解釈者革命によって合理的な制度を持つ政治社会であったと佐々木氏は述べる。「個々人の生の管理すらも行っていた」という。
「ヨーロッパの規範体系は、逆説的にもスコラ学が開花し始めた時代にはすでに、神なしで済ますことができるようになっていた(ルジャンドル)」。「〈準拠〉は無限に書き直せるものになり、〈生ける文書〉は抽象的な、可塑的な、中立的な、透明なものにならなくてはならなかった。かくして宗教は衰退し、そこに〈国家〉が誕生する」と佐々木氏はいう。しかし「世俗化は逆説駅にもまだなお宗教的な概念なのであり、西洋人の〈絶対的準拠〉を操るのに役立っているのだ」(ルジャンドル〉。「近代国家には、教会法とローマ法の結合によって生み出された法的擬制がまるごと保存されている」と佐々木氏はいう。〈生ける文書〉と『グラーティアヌス教令集』から、〈国家〉と〈法権利〉へと移行する。つまり近代国家は「キリスト教規範空間」の内部にいまだにありつづけている。世俗化という概念は、このキリスト教規範空間の更新と延命と拡大のためのアリバイとして機能したということである。まさに不在証明であって、世俗化によって近代政治制度のなかにキリスト教は不在であることになった)という。ヨーロッパで生まれた制度は「脱宗教化」され、「客観化」され、「中性化」したと見なされ、それゆえ普遍的であり、世界大に拡大することが可能であり、グローバルな世界が誕生したと佐々木氏はいう。さらに「解釈者革命によるテクストの客観化=情報化は、最終的に<国家>を掃討する。われわれの〈国家〉を打倒せんとする言説は、〈生ける文書〉と『教令集』の情報革命のあいだにすでに存在した齟齬の、歴史的な余波であり効果にすぎなかった」と佐々木氏はいう。ここからグローバリゼーション下の「管理経営」や「マネージメント」という現代的な問題につなげていくが、フーコーのいう「生‐権力」の発生を追うにはこれ以上、佐々木氏のルジャンドル論を読み進めずに、フーコーのテクスト、『知への意志』を読み込まなければならないだろう。

参考文献
フーコー『性の歴史』全三巻 新潮社
フーコー『全体的なものと個別的なもの』フーコー・コレクション6 ちくま学芸文庫
中山元『賢者と羊飼い』筑摩書房
関根正雄『イスラエルにおける政治と宗教』(岩波講座世界歴史2)
マックス・ウエバー『古代ユダヤ教』みすず書房
ラート『旧約聖書神学1』日本キリスト教団出版局
荒井献『原始キリスト教の成立』(岩波講座世界歴史2)
ブルトマン『歴史と終末論』岩波書店
フーコー『主体の解釈学』筑摩書房
カント『啓蒙とは何か』岩波文庫
湯浅博雄『応答する呼びかけ』未来社
佐々木中『夜戦と永遠』以文社
井筒俊彦『超越のことば』『意識と本質』岩波書店


詩と霊性、連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』個人季刊誌「ヒーメロス」20号2012年3月25日

2012年09月10日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの
〔長期連載エセー〕
自己への配慮と詩人像(十二)その1
小林 稔


39 詩と霊性
 
 ミシェル・フーコーの、一九八二年のコレージュ・ド・フランスの講義で哲学と霊性について述べた箇所があり次のように述べられている。真と偽があり、「ありうるものにしているものについて問う思考の形式」、「主体が真理に至ることができるようにするものを問う思考の形式」を哲学と呼ぶとすれば、「主体が真理に到達するために必要な変形を自身に加えられるような探求、実践、経験は霊性と呼ぶことができるように思われる」と。これらは認識ではなく「真理への道を開くために支払うべき代価」であり、「主体は自らを修正し、変形を加え、自分自身とは別のものにならなければならない」、つまり「主体の立ち返り(コンヴェルシオン)なしに真理はありえない」と主張する。それは主体の上昇運動であり、エロース(愛)の運動であるという。さらに「自己の自己自身に対する働きかけ(アスケーシス)」が要求される。西洋の霊性は、エロースと修練(アスケーシス)という形式によって、真理を受け入れられるために主体はいかに変形されるべきかが考えられてきたのだという。フーコーは「真理に対する反作用」と呼んでいるが、霊性は主体に天啓を与え至福を与えるもの、魂の平穏を与えるものであると述べる。「真理とそれへの到達には、主体自身を完成させ、それを変容させるも
の」であり、「認識行為に霊的な行為のあらゆる条件、あらゆる構造が担わされた」というグノーシス派の運動
を例外とするが、ピュタゴラス派やプラトン、ストア派犬儒派、エピクロス派、新プラトン主義者を通じて哲学と霊性は切り離されていなかった。ここにもアリストテレスという例外者はいるが、「自己への配慮」はその際の必要条件であったとフーコーはいうのである。
 数世紀を越え、真理への道を主体が到達できるのは、霊性ではなく認識だけであることを認めた日を真理の歴史の近代が始まった日であるとフーコーはいい、象徴的な意味で「デカルト的契機」と呼ぶが、デカルトひとりが問題なのではなく、真理と霊性を分離させたのは科学ではなく、デカルト以前のトマス・アクィナスとスコラ学、つまりアリストテレスに基盤を持つ神学によって進行した、とフーコーは指摘する。それは、「キリスト教から出発して普遍的な射程を持つ信仰を基礎づける合理的な思索として自らを規定することで、同時に一般的な認識する主体を基礎づけた」のであるが、「認識する主体は、神のうちに自らのモデルと、絶対的到達点、もっとも高い完成の水準を、つまり同時に自らの創造者とモデルとを見いだしていた」のだという。「知るという能力をあまねく賦与されている主体の照応」を要因として、哲学的思考は従来随伴していた霊性という条件から乖離し、そこから自由になり、分離した」のであろうとフーコーは推測している。つまり分離は「神学的思考と霊性の要請のあいだ」にあったのである。デカルトの十七世紀には、逆に霊性の探求が提起されてもいたとフーコーはいう。スピノザの『知性改造論』があり、「認識の哲学と、主体が自ら行なうその存在の変容の霊性とのあいだに」霊的な問題が残っていることをフーコーは指摘する。さらに十九世紀の哲学、ヘーゲル、シェリング、ショーペンハウアー、ニーチェ、フッサール、ハイデガーたちが「認識の行為が霊性のさまざまな要請とどれほど結びついたままであったかということが分かる」とフーコーはいう。十九世紀の哲学がいかに霊性という問題を再提起し、「自己への配慮」を問題にしていたのかを、倫理の低迷した現代のわれわれの問題として考える必要があるとフーコーは主張するのである。
 
『知への意志』(「性の歴史」第一巻を刊行したまま八年間の沈黙していることに関する「ルモンド」紙のインタビュー「生存の美学」で、フーコーは次のように答えた。準備された計画によってたんに展開すればよい時が来たと思ったが、書き始めたら退屈で死にそうになったのだと。本を書くことは終りにたどりつかない危険をおかすという経験を欠落させるべきではないと思い、そこで計画を変更したという。このインタビュー以前の一九八〇年の「インコトリブート」誌の「ミシェル・フーコーとの対話」では「書物を書くのは、私が自分がこれほどまで考えたがっているしかじかの事柄について、正確にはどう考えてよいかまだわからないからなのです」という。つまり書くことは充実した経験であり、「やり遂げたとき、自分自身が変化をこうむっているなにものか」なのだという。書き終えたとき考えていたことを変容させる実験者なのだという、同じことを考えないという意味で。フーコーは自分を哲学者だと思っていないとさえいう。「制度的な意味での哲学者ではなかったバタイユ、ニーチェ、ブランショ、クロソフスキーらにフーコーは衝撃を受けたことを述べ、彼らが最高の重要性をもたらしたのは、「彼らの問題が体系の構築ではなく、個人的経験という問題だったという点」にあったのだと指摘する。「ニーチェ、バタイユ、ブランショにとって、経験とは、〈生きることが不可能なもの〉にもっとも近いような生の地点に到達しようとしていることだった」のであり、「最高度の強度であると同時に、最高度の不可能性」であったと指摘する。彼らの経験は「主体を主体自身からひきはがす機能をもっており、主体が自分自身でなくなってしまうか、自分の無化ないし解消へと向かうようにする機能をもっている」、つまり「主体を主体自身からひきはがす限界経験」であり、フーコー自身も自分の本を私自身から引き離す直接的経験として構想させてきたと述べる。「自己への配慮」は逆説的に言って自己から剥離することをいう。

 私の問題は、われわれが何であるかという経験をすることであり、私とともに特定の歴史的内容をつうじてそうした経験をするよう他の人々を招待することでした。われわれとは何であるかという経験、すなわちたんにわれわれの過去であるばかりでなくわれわれの現在であるものの経験をするよう、われわれの近代性(モデルニテ)の経験をし、そこから自分が変容して出てくるような経験をするよう招待
することだったのです。これは、書物をたどり終えたときに、問いかけられている当のものと新たな関係のかずかずを結ぶことができるようになるということを意味します。……(中略)……経験とはまったく一人でおこなわれるものでありながら、それが十全なかたちで
おこなわれるのは、経験が純粋な主観性から逃れ、他者が、経験を正確にやり直すとまでは言いませんが、少なくともそれを交叉し横断しなおすことができる限りにおいてなのです。(「ミシェル・フーコーとの対話」)

 さらにフーコーの形成に影響を与えた著者たちに話が及んでいく。一九五〇年代の初め、現象学と実存主義、主体の哲学をかかげたサルトルが主流であったが、ブランショ、バタイユ、ニーチェはそこから解放させてくれた存在であったという。フーコーは実存主義とは異なるものを探し、彼らの書物に出会ったという。それは「主体という範疇、その優位、その創設機能を問い直すことであり、そうした作業が思弁に限定された場合は、それが何の意味も持たないだろうということ」を確信したのである。「主体を問い直すということは、その現実的な破壊、その解体、その破裂、まったく別のものへのその転換、こうしたものへと到るような何かを経験することを意味していた」のである。このエセーの冒頭で述べたように、別の自分になることであった。

 フーコーによると、「現代の哲学とは、二世紀前に、かくも不用意に投げかけられた問い、『啓蒙とは何か』(カントが「ベルリン月刊」に載せたテクスト)に答えようと試みる哲学である」という。カントのこのテキストによって、一つの問い、「私たちが今そう在るところのもの、私たちが今考えていること、私たちが今おこなっていることを、少なくとも部分的には決定してしまったその出来事とは何なのか」という問いが思考の歴史のなかに入りこむことになった、とフーコーは主張する。そこで提起されているのは「現在についての問い」であり、「今何が起こっているのか」、「この今とは何なのか」という問いである。フーコーはデカルトとの相違を、『方法序説』を例に取り出し述べている。デカルトは、当時の学問の歴史的状況に対して自分を顧みている。つまり「現存しているものとして布置のなかに哲学的な決定のための動機を見出すこと」であることに対して、カントは「現在のなかの一体何が、現在、哲学の考察にとって意味あるものであるか」を問うている。哲学者自らが「哲学へと関わるプロセスの担い手」であり、要素であると同時に行為者なのである。「哲学が自らの言説の現在性を問題化する」ことである、つまり、カントの主張は己の帰属を問うことであるとフーコーはいう。
フーコーは『性の歴史Ⅱ 快楽の活用』で当初の計画を変更したことに次のように述べている。古代において性行動が、「強制も禁止もない場合でさえ」どのような理由によって道徳上の関心の対象になったのか。「要するに禁忌と道徳的問題構成とは別々のもの」であることを指摘する。「どのように、なぜ、いかなる形式において、性の活動が道徳的領域として構成されたのか?」を考えることが「表象の歴史とは対照的に、思索の歴史の課題」である。「人間存在が自分は何であるかを、自分は何をなすかを、そして自分が生きる世界を、《問題として構成する》、その場合の諸条件を規定すること」であるとフーコーはいう。ここでフーコーが言おうとすることは、右で述べたカントのテクストの「現在についての問い」と同様のものであろう。
「啓蒙」の原義は「光で照らされること」である。カントの「啓蒙」の問題の提起の仕方は「徹底的にネガティヴ」であり、「脱出」や「出口」として定義しようとしているとフーコーは指摘する。「脱出」とは「未成年」からの脱出である。カントは、私たちが未成年状態にあると考える。それは「誰か他人の権威を受け入れてしまうような、私たちの意志の状態のこと」であり、自分自身に責任があるので「自分が自分自身に対して実行する変化によってしか」、そこからの脱出は不可能であるという。カントによると、「未成年状態にあるというのは、書物が悟性の代わりをつとめるときであり、精神的な指導者が良心の代わりをするとき、医者が私たちの節制について、私たちの代わりに決めるとき」である。「知る勇気をもて、知る大胆さをもて」という標語を持つものであるとカントは主張する。「啓蒙は、したがって、ひとびとが啓蒙は集団的に構成するプロセスであると同時に、また個人的に実行すべき勇気の行為であることになる」とフーコーは解説する。
 人間が未成年状態から脱出する二つの条件がある。一つは「服従せよ、そしてあなたはあなたが望むだけ論議してよい」というものである。フーコーによれば、「これは理性がそれ自身以外の目的を持たないような理性の使用について言われるもの」であるという。また、カントは理性の私的使用と公的使用を区別する。公的使用において自由であり、私的使用において服従すべきだという。前者は「社会において演ずべき役割を、果すべき役職を持っているとき」であり、後者は「理性を使用するためにのみ、ひとが論議するとき、理性ある人類の構成員としてひとが論議するとき」、自由で公的なものになるという。そしてこのようなときこそ批判が必要なのであるとフーコーはいう。カントの『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』はそうした関連で強調すべきであるとフーコーは考えている。
カントの『啓蒙とは何か』というテクストの新しさとは何か。フーコーによれば批判的省察と歴史についての考察とのターニングポイントに位置し、「カントによる自分自身の企ての現代性についての反省」であるという。一人の哲学者が、「認識との関わりにおける自分自身の仕事のもつ意義、歴史についての省察、その時だからこそ物を書くというその単独な〈時〉についての個別的な分析を結びつけて述べたのはカントが初めてであった」とフーコーは主張する。ここには〈現代性(モデルニテ)の態度を見て取れるという、フーコー自身の思考への態度を重ね合わせて読み取ることができるといえよう。〈現代性〉ということでフーコーはボードレールを浮上させ、我々が「十九世紀における現代性の最も先鋭的な意識の一つを認める」というボードレールにおける現代性をフーコーは解き明かそうとする。フーコーが哲学から文学(詩)へと移行させている意味を私たちは深く読み取らなければならない。
 
 ボードレールは、現代性を「一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもの」と定義しているが、それを受け入ることではなく、一定の意思的で困難な態度を取ることであり、「永遠的な何か」を彼方にではなく、背後にでもなく、「その瞬間自身の裡に、捕まえること」を目論んでいるとフーコーはいう。
 湯浅博雄氏は『応答する呼びかけ』において、ボードレールの「移ろいゆくものへの愛」を論じている。「古典的な美はなりよりも〈永遠なるもの〉への憧憬」であり、「万人にとって永久に美しい、と思われるはずの普遍的なもの」であるが、「ボードレールは近代的・現代的な美を、永遠性の要素と偶然性の要素が二重化している美として定義している」という。普遍性という面はあとから伴われるものであって、まず「個別性と単独性の面である、「このものの独特な美しさ」が際立つ。それは初め「一般的な美の観念やコンセプトに適合せず、はみ出しているけれども、しかしやがては広く多くの人々に浸透していく。そして古典的な美とは「言葉の名づける能力を信仰するところに基盤がある」という。「〈存在するもの〉は名づけられることによって、傷つきやすいものであること、壊れやすく朽ちてゆくものであることを免れる」。つまり、「一般性をもち、普遍的に現存するものとなる」のである。しかしボードレールは現代的な美を、〈移ろいやすい美しさ〉と考えようとしているといい、「ひとりの人間があるとき(いま)、あるところ(此処)で、ある特有な状況において生きる経験の独特さ」は文学が絶えず気づかい発見し直すべきものであり、「現代の文学は独特さとしての実存の特異性、他に代えられない唯一性にあたう限り触れようとすべき」であるということを、ボードレールは文学の使命としてそれを最初に認めた人であったと湯浅氏は述べている。湯浅氏が指摘するように、ボードレールには「詩人の内面における深い喪失感」が絶えずあり、オスマンによるパリ改造計画によって多くの建物や街路が取り壊され風景が一変することによる故郷を追われたという想いが起こる。『パリ情景』の「白鳥」に書かれているように、古代への、理想への観念に強く捉われているが、たんに憧憬で終るのではなく、現代の時間に、例えばパリで偶然に見かけた「通りすがりの女に」、神話上の人物を見い出し、「共感と憐れみを込めて」呼びかける。つまり、湯浅氏はボンヌフォアの考えを引用、「唯一の、かけがえのない現実とは、これこれの事象、しかじかの存在であると」という言葉を挙げ、古代の永遠性に対する現代の個別性、単独性としての「実存=人生というものは、〈いま〉であり、〈此処〉であるなにかと切り離せない」のだ。「現代の文学は実存の特異性、他に代えられない唯一性にあたう限り触れようとすべき」であり、「ボードレールはおそらく文学にそういう使命を認めた最初のひとりであった」と湯浅氏はいう。
一方、フーコーにとって「現代性とは、逃げ去る感受性の事象ではなく、現在を永遠化する一つの意志」
なのである。しかし神聖化することではなく、現代性の人は「流行が歴史的なもの裡に含み得る詩的なものを、流行の中から取り出す」とボードレールは述べているのであり、「〈現実的なもの〉を尊重すると同時に侵害する自由の実践に直面しているような修練なのだ」という。それは自分自身に対して打ち立てる関係のあり方であり、禁欲主義と結びついているのだ。ボードレールはそれを「ダンディズム」と呼んでいた。「自分自身の身体、自分の行動、自分の感情と情熱、自分の生活を芸術作品と化すダンディの禁欲主義」、それは「自分自身の発見、自らの秘密および自らの隠された真理の発見へと向かう人間」ではなく、「現代的な人間とは、自分自身を自ら創出する人間のことである」とフーコーは主張する。さらに「現実的なものと取り結ぶ自由の戯れ、自己の禁欲的な練り上げ」を、「ボードレールは社会全体の中で、あるいは政治体の中で成立する」とは考えず、芸術と呼ぶものでしか起こりえないと考えているのだとフーコーはいう、まさにフーコーが晩年探求した「生存の美学」である。現代詩の源流がボードレールを起点とする根拠がここにある。「自己への配慮」から無縁になった日本の現代詩人の反主体的でレトリカルな詩に私は辟易するしかないのである。「自己への配慮」とは自己を慈しむことや自分探しをすることとは無縁である。今ある自己を無化し、修練のすえに自己に回帰することである。現実から視線を逸らし自己から可能な限りはなれた言語表現で架空の現実を作ることではない。フーコーは倫理を喪失した現在、ある意味で自由から自らの手で倫理を構築しようとした古代ギリシア人のように、生存の美学を創出しようとキリスト教時代を超え、古代ギリシア・ローマの系譜を紐どこうとしたのである。フーコー自身が断っているように、啓蒙の十八世紀末の出来事や〈現代性の態度〉を要約しようとするのではなく、「現代に対する関わり方、歴史的な存在の仕方、自分自身の自律的な主体としての構成という、三つのことがらを同時に問題化するようなタイプの〈哲学的な問い〉が〈啓蒙〉に根ざすものであることを強調したかった」とつけ加える。つまり今も引き継がれた「啓蒙へ結びつけている絆」は、「一つの絶えざる再活性化なのだ」ともいう。このような態度は、一つの〈哲学的エートス〉であり、歴史的な存在の絶えざる批判であると主張する。エートスとは「個人の有り様を、生存様式を変容させ、変形させることであるとフーコーは定義する。生き方において哲学者と詩人は共有する概念を持つことになるのである。

「いま、此処で咲き、やがて萎れ、枯れるひとつの花の独特な実存に注意をこらすよりも、花なるものの美しさそのものを希求する態度、けっして朽ちることのない、変化・生成しない本質=範型を探究する思考様式」にボードレールは異議を唱え、「存在することは、絶えず変化し、生成してやまないことにある」と考え、ボードレールは現代的な美を〈移ろいやすい美しさ〉と捉えたのである」と湯浅氏は解読している。〈移ろいやすい美しさ〉への注視と情愛に充ちた眼差しを実践するために、文学そのものが自らを変容していくだろうと湯浅氏はいう。「語りかけ」は単独性をなす他者の「呼びかけ」によって語りかける。「言葉はその本性からして一般性と普遍性へと向いていると思われるから」、独特さや特異性としての生存、生活、人生に接近することは不可能と思われ文学が避けてきたことであるが、現代の文学はそれをしなければならないのである。「言葉は特異ななにかを語ろうとすると、どうしても〈適合〉せず、自分の無力を思い知らされることになるが、しかしむしろ〈不適合〉であるからこそ語ることをやめないのだろう」と次の「ランボーにおける〈書くこと〉の経験」で湯浅氏は述べている。ボードレールはそれまでの、「一般性」と「普遍性」へと向けられた言葉の無自覚な使用を批判する。先述したように、「〈いま〉であり、〈此処〉であるなにかと切り離せない」ものに呼びかけるとき、「言語活動は自らを問わざるをえない」と湯浅氏はいい、ランボーの言語体験を解き明かしていくが、ここでは私はフーコーの主張する「実存の美学」と現代性を確認しておきたかったのである。バタイユにしろブランショにしろ、現代文学の主要な作家は書くことの不可能性に突き進んでいったこととボードレールの提起した現代性とは深く関わっているのだ。真理への到達が「自己への配慮」から霊性を認めるか、あるいは認識でだけであると認めるかによって哲学の概念が大きく異なる。フーコーが自分を哲学者でないといったのは、認識のみを認める哲学者ではないということであり、霊性を重視するフーコーがいう「これが哲学でなくて何か」というとき、自分を哲学者であると自負しているのである。私は哲学を詩に置き換えてみたいのである。「自己への配慮」のおける諸々の体験を経ずして、自己から離れ架空の世界を言語で構築し、あるいは認識によって世界を把握する現代詩の横行は、霊性とは距離を保つようになった私たちの思考(ものの見方)から由来しているのではないか。現代詩と哲学の疎遠に詩の衰退の兆候が起因すると、私が指摘するのは偏重だろうか。


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ユダヤ教の成立と初期キリスト教への変容(後編その二)小林稔個人季刊誌『ヒーメロス』19号

2012年08月31日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの
長期連載エセー『自己への配慮と詩人像』(十一)

38 ユダヤ教の成立と初期キリスト教への変容(後編その二)
小林稔



イエスのユダヤ教批判
 イエスはユダヤ教に革新をもたらしユダヤの社会を改革しようとしたのだが、歴史上のイエスを語る「伝承のイエス」とキリスト教教団で作られた「復活のイエス」を分離する必要があると中山氏は語る。前者はマタイ、マルコ、ルカの福音書から再構成しなければならないとはいえ、使徒たちの思い描いたイエス像であることを忘れてはならないという。イエスの思想をメタノイア(悔悛)とアガペーという観点から福音書にある譬えを中山氏は解読している。アガペーとは神の愛と呼ばれているが司牧的な愛の典型であるので、フーコーの
司牧者の概念を理解する上で深く考える必要があるという。
 『ルカによる福音書』(七章三七―五〇)の「罪深い女」の話を中山氏は挙げる。ファリサイ派の人の家で食事をするイエスの足許に近寄り、足を涙で濡らしてイエスの足に接吻し香油を塗った女がいた。イエスが預言者であるならこの女が誰か分かるだろうとファリサイ派の人がいう。イエスはその問いに直接答えず、金貸しの
喩え話をする。二人の人が金貸しから金を借りた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンを借り、返す金がないので金貸しは借金を帳消しにした。借りた二人のどちらが金貸しを多く愛するだろうか。イエスがシモンにそう尋ねると、イエスはうなずく。イエスは自分がこの家に入ったとき誰も足を洗ってくれなかった。この人の罪を赦されることは、自分に示した愛の大きさで分かるとイエスは言った。「あなたの信仰があなたを救ったとイエスは女に告げた。ここで問題になっていることは、公式の場に女は同席できないというユダヤ教の規律を犯して、姦通の罪を犯したかもしれない女が入ってきたことをファリサイ派の人々は非難する。女性の涙は悔悛(メタノイア)を表し、イエスは女性の愛(アガペー)の大きさを知り罪を赦したのであるが、イエスは娼婦と食事を共にし、足に触れされるという宗教上の罪を犯したことになる。中山氏は『ヨハネの黙示録』のマリアという女性と同一人物と考え論を進めている。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」とイエスが言ったとき、誰も石を投げるものがなく立ち去った話を取り上げる。律法を無視するイエスを指摘する。中山氏は荒井氏の指摘を紹介している。つまり、キリスト教がローマの国教となる以前は、信者は「背教者」としてキリスト教を否認したが、後に悔悛することで協会に受け入れられたことの隠喩である。女性に石を投げつける者がいなかったということは、「人間はもともと律法を守りきれるものではない、つまり人間は原初的に〈罪人〉なのだ、という人間の限界」を示しているのである。
 『ルカによる福音書』(一五章一一―三二)の「メタノイアを経験する若者の譬え」を中山氏は挙げている。それを紹介してみよう。ある人に二人の息子がいた。弟は父親から遺産を先にもらって異邦を旅してすべて使い果たす。ある人のところで豚の世話をして生きながらえた。ユダヤ人にとって豚は穢れた動物と考えられているから、弟は異邦人の奴隷になり、宗教的に汚れ、ユダヤ教神政体制から排斥された者になったことを意味していると宮本久雄氏は『福音書の言語宇宙』で指摘しているという。やがて弟は餓死に直面しメタノイアの経験をした。故郷と父を思い起こし故郷に帰る。父親は奴隷にまでなった息子を宴会を催して歓迎する。弟は律法で決められた贖罪を果していないといって兄は不服を唱えた。父親に長年仕えてきた兄にはこのように宴会を開いてくれたことなどない。先に取り上げた罪人の女を受け入れるイエスと同じ理屈である。「律法を守ったものに正当な評価と報酬が与えられるユダヤの律法主義を痛烈に批判しているのだと中山氏は指摘する。
 ユダヤの伝統的思考では死後の生は存在しないという。彼岸はなく冥界があるだけだと中山氏はいう。しかしイエスは本当の命はこの世とは別の生であると語る。この世だけで終らない別の命、来世での命、つまり神の国における命を語っていると中山氏はいう。

「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。そこでピラトはイエスに言った、「それではあなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。(『ヨハネの福音書』十八章)

 イエスは十字架に命を架けることで、自分の国が神の霊的な国であることを証明しようとしたと中山氏はいう。神の国とは貧しい人、飢えている人、泣いている人のための国であり、反対に迎えられない人とは、富んでいる人、満腹している人、笑っている人、褒められている人である。イエスは『出エジプト記』で犠牲に捧げられる子羊と自分を同一視し、旧約の物語を反復しようと姿勢をみせるものである。自らの生を放棄することでユダヤ教の正統性を奪い取ってしまうという戦略があるという、谷泰『「聖書」世界の構成論理』の解釈を中山氏は司牧者の論理二かなった解読として紹介している。永遠の彼岸にすべて望みを託すように導かれている。旧約の『イザヤ書』の第二イザヤに重ね合わせてイエスのメシアとしての使命を説いたと中山氏は指摘す
る。つまり旧約のキリスト教的読み替えが初期のキリスト教では行われていたということである。

パレスチナ教団とヘレニズム教団
 イエスは晩年にエルサレムに向かった。ユダヤ当局の腐敗を批判し、ローマに対する反逆罪で問われ、ローマ法によって十字架刑にされたといわれる。荒井氏は、先に取り上げたような「終末論的」特徴に対して「今日における神支配」を語ったのだという。イエスは、「律法を守ることにより、自己の、あるいは自己の属する共同体の義を立てて、それを救済に至る条件にしていこうとする」姿勢を、「律法学者、パリサイ(ファリサイ)人」の中に見出し、それを激しい批判の対象としたのだが、そのときユダヤ教の終末思想の、洗礼者ヨハネの神の国の概念を手がかりに明確化していったと荒井は主張する。直接的には政治的発言はしなかったが、宗教的言行が政治的文脈に関わらざるをえなかったのは当然であり、反体制的宗教家として、反ユダヤ的・反ローマ的王位僭称者として、体制の権力によって処刑されたと荒井氏は結論する。
 荒井氏によると、イエスの死後、エルサレムに彼をキリストと信じる最初の教団が成立しが、ガリラヤの諸地域に別にいくつかの教団が成立していたという。前者はエルサレム教団と呼ばれぺテロをはじめ、「ガリラヤ人」を中核にして十二人で構成されていたが、ルカのいう十二使途なるものや財産共有制度は実在せず、教会の理念であり史実ではないと荒井氏はいう。教団には祭司やファリサイ派の信徒たちも加わったが、ユダヤ教の主流派とは区別され、他のユダヤ人のように律法を遵守していたので、復活信仰を唱えても迫害の対象にはならなかったであろうと荒井氏は述べる。しかし教団内の少数ではあるが「ヘレニストたち」は律法違反の罪で迫害を受けた。まずステファノが捕えられ殉教の死をとげ、他の「ヘレニストたち」もエルサレムから追放されたことが知られている。
 先述したガリラヤの諸地方にいた他のいくつかの教団は「イエスの生に神支配を読み取り」イエスの奇跡物語を伝承し、伝道を行なった可能性があると荒井氏は見る。キリストの復活に立ち会ったという人々がいた。イスラエル預言者の召命体験に近く、「神はイエスを蘇らせた」という最古の宣言定式が生まれ、やがて「イエスは甦った」という信仰告白定式になったという荒井氏の主張には説得力がある。洗礼の祭儀においてイエスと共に甦るという現在時での救済の意味と、復活信仰と救済信仰が結ばれた将来時の救済の意味が生まれたが、これらは「ユダヤ教の黙示思想を前提とするキリスト信仰」であろうという。復活信仰はキリストの死を救済に結びつけ、キリストは「われわれの罪のために死んだという告白定式が生じてくる」。十字架の意味が二つに分類されるであろう。一つ目は「救済の現在性に強調点を置くヘレニズム教団に固有なキリスト論」、二つ目は「イエスの死をわれわれの罪の赦しとみなす贖罪信仰があり、旧約の預言の成就とみなす救済史観と結びついている」と荒井氏は分析する。「罪とは律法違反の罪である限り、罪の赦しとは律法からの自由」であるkとになり、「イエスにとっての神支配が、信徒たちにとってのイエス支配になった」のであると荒井氏はいう。しかしここで留まるなら新しい律法の授与者と変わらずユダヤ教と同じ閉鎖共同体に形成される可能性がある。がだ「ヘレニストたち」はユダヤの伝統主義に否定的に関わった可能性があると荒井氏はいう。それはどのようにしてかを考えてみよう。それにはパウロの伝道をもとにしてヘレニズム教団の実態に迫らなければならない。
 
 パウロの伝道とヘレニズム思想
 ステファノの殉教の死を目撃したファリサイ派の若者サウロは、十字架に処された者をメシアと称えるのは神への冒瀆であると思った。エルサレム教団にも迫害の危険が迫り、使途以外はエルサレムを脱出しなければならなかった。サウロはこの迫害に参加するユダヤ教徒であった。サウロはダマスカス近郊で突如、イエスの声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」。地に倒れていたサウロは起き上がったとき眼が見えなくなっていることに気づいた。ダマスコニに住むアナニヤがイエスを幻に見て、サウロの目を癒すようにイエスから指示される。さらにサウロには異邦人に伝道する使命が与えられることを告げた。アナニヤはサウロのところに行き、イエスのことばを告げると、サウロの目からうろこのようなものが目から落ち、目は見えるようになった。サウロは洗礼を受け世界に向けて伝道を開始した。これが「パウロの回心(改心)」と呼ばれて
いる。小アジアのキリキア地方(現トルコ)、タルソス生まれのサウロはギリシア語読みでパウロと発音された。アンテオキオを中心に少なくとも三回の伝道旅行を行い、シリアからマケドニア・ギリシアに至る都市に教会を創設した。しかし、六一年ごろにはローマに護送され二年間、軟禁された後、スペインまで足を伸ばしたとも言われたが、六四年にネロ帝に迫害され殉死をとげた。彼が創設した教会に送ったとされる手紙が新約聖書に収録されている。荒井氏はそこからパウロの固有な思想を読み取っている。それによると、律法の聖性は認めるものの、「罪を個々の律法違反とは見ない。彼にとって罪とはむしろ、人間が律法を満たすことによって自己を立てようとするヒュプリス、一つの悪魔的な力」であると考えていた。パウロにとっての律法とは、「多くの場合その規則ではなく、その全体を意味する」。「罪が律法によって顕にされると言うと同時に、他方において人間はアダムにあって罪を犯した」。「神はキリストの十字架を通して、このような罪から人間を贖い出した。これがいわゆるパウロの福音」というものであると荒井はいう。この福音を受容することによって、神の側から無罪が宣告される。だから律法を守ることで神の義をえようとする姿勢を放棄しなければならない。このような姿勢が、エルサレム教団やヘレニズム教団からの批判の対象になったと荒井氏は指摘する。つまり信仰において人種や男女の壁は除かれ、すべてキリストの甦りに与っているということである。ヘレニズム世界の人々には受け入れやすい考えである。密議に参加して復活を体験し、神的なるものと人間の本来的自己との同一性を認識することで救済を見出し、「観念からの自由の中に欲情なき境地を確保できた」のであり、「ヘレニズム教団の中に、信徒はすでに復活した、すでに自由になった、すでに全き者になったと称して、このような知恵や認識を誇る者が出てくる」が、救済の超越性を一義的に信じ、自己と歴史の現実から離れて、「脱歴史的神秘主義」を激しく批判したと荒井氏は指摘する。キリストを信じる者も現実には肉であり、現実的には宗教的・社会的規定に従って生きていかなければならないが、当為(行為)は存在に至条件ではなく、「存在はすでに霊の賜物として与えられて」いて、これを「なお古きにある自己とこの世の中に貫徹していかなければならない」。

もしわたしたちが御霊によって生きているのなら、また御霊によって進もうではないか。互いにいどみ合い、互いにねたみ合って、虚栄に生きてはならない。(ガラテヤ人への手紙第五章二五)

 「存在の賜物」が「当為の課題」を基礎づけることになり、「律法は隣人愛に総括されて、積極的意味を獲得する」。このようにパウロにとって「キリスト者の生は途上の、変革の生」と認識される。しかし、「パウロにおける射程は自己の領域に留まり、社会・政治の領域にまで至らなかった」し、この世との妥協を拒否したが、この世の権威に対してはむしろ服従を勧めたと荒井氏はいう。古い自己と歴史を否定し超越すると同時に、自己と歴史を新しく肯定し、その中に内在していくというパウロの福音書理解は新しい自己理解であり、そこに否定と肯定、超越と内在の終末論的緊張を見ることができると荒井氏はいう。ヘレニズムの超越・普遍主義とヘブライズムの歴史的内在思想が逆説的に結合されていることを知ると荒井氏は指摘する。パウロは、「キリスト教が普遍的宗教になることを促進したと同時に、イスラエルの歴史から遊離して一つの神秘主義的セクトに陥ることを防いだと、荒井氏は説明する。パウロと時代を同じくするフィロンは、超越神の属性を人格化し人間と何らかのかかわりを持つ存在と見なしていた。ロゴスは世界の創造に与し、ヘルメスと同一視され啓示的役割を果すと考えられていたり、知恵(ソフィア)が神から遣わされて人間界に住み神の意志を伝えるが、それを受け入れられず、苦難を経て天に帰るという表象が見られると荒井氏は説明する。また「エジプトのユダヤ教の周辺に成立した思われるグノーシス主義では、ソフィアの堕落と救済が宇宙の創造と万物更新の原型と見なされている」。しかし「パウロは行動の原点を神の啓示に置いて、異国人ないしは諸国民の使途として伝道した」と荒井氏はいう。

 エピストロフェーとメタノイア
この私の論考においても中心的な課題である「自己への配慮」は、紀元前四世紀から紀元五世紀までギリシア哲学、ヘレニズム哲学、ローマの哲学、キリスト教の全体を貫いているとフーコーは指摘する。フィロン(紀
元二〇ー五〇)プロティノス(紀元二〇五―二七〇)やニュッサのグレゴリオス(紀元三三四―三九四)など、自己への配慮がキリスト教的禁欲主義に至るまで長い歴史があるとフーコーは『主体の解釈学』で述べる。しかし、紀元前の数世紀から紀元後の初めまでの道徳(ストア派、犬儒派、エピクロス派の道徳)、「西洋にかつて存在しなかったようなもっとも峻厳かつ厳格な道徳が構成された」「極度に厳格な道徳の母体となるような皇帝的原則であったが、キリスト教道徳にも非キリスト教的な近代の道徳にも登場する」。自己放棄というキリスト教的な形式を取ることもあれば、他者に対する義務という近代的形式を取ることもある。つまりキリスト教徒近代世界は非・自己中心主義の道徳の中に基礎づけたのだが、もともとは自己への配慮の義務によって誕生したのであるとフーコーはいう。
 自己自身への立ち返りという主題は、プラトンにおいてはギリシア語のエピストロフェー(方向転換)の概念という形で現れる。フーコーは四つの要素を挙げる。一、何かから離れる仕方として登場した。二、自分自身の無知に気づき、自己に配慮し、自己に専念することを決意することによって自己に回帰すること、三、想起へと導く自己への回帰から出発し、自分の祖国、本質、真理の、存在の祖国へと帰還することである。一は現世と来世の対立、二は牢獄、墓としての身体から魂を引き離すという主題、三は自らを知ることは真実を知ること、それは自らを解放することである。そして四、それらは想起の行為において結び合うとフーコーは分析する。次の時代、ヘレニズム及びローマの文化では、一、現世と来世の対立はなく世界への内在そのものにおいてなされることになる回帰である。私たちの権内にないものから私たちの権内にあるものへと移動されようとする。内在性の軸そのものにおける解放であり、「私たちが主人たりえないものからの解放、私たちが主人となるようなものに到達するための解放」なのである。二、身体からの切り離しではなく自己の自己への適合においてこそなされることになる。三、認識は重要な役割を果しているが、プラトンほど決定的で根本的な役割を果していない。プラトンにおいては想起という形で認識することが本質的な要素であったが、認識というより訓練、実践、鍛錬、アスケーシスが重要な要素になる。次にそれ以後の時代、三世紀以降、とりわけ四世紀以降にキリスト教において展開される立ち返りを考えたとき、前者二つとは全く様相を異にする。キリスト教は立ち返りをメタノイアという語で捉えていて、悔悛でありなおかつ変化、思考と精神の根本的な変化であるとフーコーはいう。一、突然の変異を含意するということ。「主体の存在様態を一撃のもとにひっくり返し、変容させてしまうような、特異な、突然の、歴史的であるとともにメタ歴史的であるようなひとつの出来事を必要とする。二、この立ち返りには移行がある。一つの存在型から別の存在型への、死から生への、暗闇から光への、悪魔の支配から神の支配への移行である。三、立ち返りが生じるのは、「主体の内部で断裂が生じる限りにおいてのみである」ということ。立ち返る自己は自分自身を放棄した自己であるということである。以前の自己とは何の関わりのないもう一つの自己に、新しい形式において再生することである。
 プラトンのエピストロフェーとキリスト教のメタノイアの間に位置するのが、ヘレニズムおよびローマ時代における哲学や道徳、自己の陶冶における立ち返りである。エピストロフェーは、ピュタゴラス=プラトン概念として紀元前四世紀には明確に練り上げられていたであろうとフーコーは推測する。それ以降のエピクロス派や犬儒派、ストア派の立ち返りはプラトン的な思潮の外部で深い変更を加えているとフーコーはいう。マルクス・アウレリウスやセネカやプルタルコスが「自己自身を見つめよ」というとき、「自分自身のうちに真理の種子を見出せ」というプラトン的な視線ではない。視線を自己に向けるとは他者たちから視線を逸らすということ、世界の事象から視線を逸らせるということを意味する。「他者たちにたいする不健全な好奇心に、自己自身の真剣な検討を置き換える」ことであるとフーコーはいう。「ゴールに向かう際の緊張について、恒常的なつねに目覚めた意識を持つこと」、到達しなければならないものは自己であり、「運動選手的なタイプの集中のことを考える必要があるとフーコーは指摘する。

 主体の釈義と自己放棄
 フーコーは『主体の解釈学』において、プラトン主義的モデルとキリスト教的モデル、そしてヘレニズム的モデルを対比して、それぞれの特徴を述べ、相互の反発と浸透を明確にしようとしている。以前にも解説した
が、ここで簡単に要約しながらキリスト教的モデルを検討してみたい。まずプラトン主義的モデルとは何か。自己への配慮と自己認識の関係は三点を中心に成立しているという。一、自分が無知であることに無知であったという発見。したがって自己を配慮しなければならない。二、自己への配慮は、配慮すべき自己を知ることを要求される。「魂は叡智界の鏡の中で自己を認知し存在を把握する。三、魂が自己を発見するのは想起によること。想起において自己への配慮と存在への回帰が魂の一つの運動の中で合流しまとめられている。
 紀元三、四世紀になると、キリスト教的モデルが形成されてくる。一、聖書に書かれていたり、啓示によって与えられる真理を知るには、心を浄化しておかなければならないが、「心は自己の認識によってしか浄化されえない」。「自己を知ることと自己への配慮の関係は循環的」である。二、魂と心の内部に作られる誘惑を認め、誘惑を失敗させること。そのためには自己の釈義が必要になる。三、自分自身に帰るのは、自己を放棄するためである。これら二つのモデルは当初は対立していたが、キリスト教の境界で発展したグノーシス主義において、プラトン主義的と呼ばれるものが取り上げられるということが起きたのである。「自己へ回帰することと真実についての記憶を取り戻すことは一つのこと」と彼らは考えていた。キリスト教の教会は釈義で対抗したとフーコーはいう。つまり霊性と修道院的な修徳主義はグノーシス運動との間に切断と分離を確保することにあった。魂の中に生まれる内的運動の本性と紀元を探り出す釈義的機能を与えてくれたのであり、自分の圏内に取り込もうとした。聖書に書かれた言葉や啓示によって与えられた真理を知ることが自己の認識に基づいて、神の言葉を知るには心を浄化していなければならないとフーコーは解く。つまり自己を知ることと真理を知ることと自己への配慮は循環的な構造になっている。しかしキリスト教の歴史の最初の数世紀に、プラトン主義的モデルはグノーシス主義といわれる運動に見出されるとフーコーはいう。プラトン主義的といわれるのは存在の認識と自己の認知は同一であるという図式であるからである。フーコーはこの二つのモデルがキリスト教を支配し、キリスト教によって西欧の文化史全体に受け継がれていったと考える。二つのモデルの間にヘレニズム的モデルがある。その厳格な道徳をキリスト教は利用し取り込み実践によって練り上げた、それが主体の釈義と自己放棄であったとフーコーはいう。グノーシスについては後半の詩人像で詳しく考察することになる。プラトン主義的モデルとキリスト教的モデルの間にあるヘレニズム的モデルからキリスト教は厳格な道徳を再び取り上げ練り上げたとフーコーは指摘する。
 
 キリスト教における魂の教導
 「何らかの主体に、あらかじめ定められた一連の技能を付与するような関係を教育的関係と呼ぶならば、話しかけられる主体の存在様態を変容させることを機能とするような真理の伝達を魂の教導と呼ぶことができる」とフーコーはいう。そして魂の教導という点で古代ギリシア・ローマの哲学とキリスト教の間に大きな転移や変容が起こっているとフーコーは指摘する。前者では、真理を語るとき問題となるのは常に師、つまり忠告を与える者が重要な役割を担うかぎりにおいて教育的関係に近いものであったといえる。「真理と真理の義務は師の側にある」。しかし、キリスト教では、「真理は魂を導く者に由来するのではなく、別の様態(〈啓示〉〈聖書〉〈福音書〉など)によって与えられる。もちろん導く者に責任や義務は発生するが、「真理や「真理の語り」の本質的な価値を担っているのは、あくまで魂を導かれる者」であるとフーコーは指摘する。魂を導いてもらうためには「真実の言説を自分自身に対してみすから言表すること、自分自身についての真実の言説をみずから言表することが必要なのであり、魂の教導と教育を分離し、教導される魂、導かれる魂にたいして、真理を語ることを要求する」。導かれる者だけが真理を語ることができ、保持することができる。つまり「キリスト教の霊性においては、導かれる主体こそが真実の言説の内部に現前し、この真実の言説そのものの対象として現前しなければならない」とフーコーはいう。古代ギリシア・ローマでは真実の言説に現前しなければならないのは指導者であった。「指導者は言表行為の主体とみずからの行為の主体の一致として現前している」のに比べて、キリスト教では、言表行為の主体は言表の指示対象でなくてならない、それが告白の定義であるとフーコーは要約する。


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ユダヤ教の成立と初期キリスト教への変容(後編その一)、小林稔個人誌『ヒーメロス』19号から

2012年08月26日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの
長期連載エセー『自己への配慮と詩人像』(十一)小林稔個人季刊誌『ヒーメロス』19号20011年10月25日より
小林稔
38 ユダヤ教の成立と初期キリスト教への変容(後編その一)


 クムラン教団と洗礼者ヨハネ
 エッセネ派の一派であろうクムラン教団が存在し、「死海文書」を所有していたことが近来、明らかにされた。荒井献氏の「原始キリスト教の成立」(『岩波講座世界歴史2』より)に教えられることを一部取り上げてみよう。現厳格な律法生活と信徒相互間の愛の倫理のもとに共同生活を営んでいたという。「終末に関する神の予言が実現されるという確信が持たれ」ていた。したがって彼らは自らを「選民」、「光の子」などと呼んでいた。「この世を倫理的二原理が対立抗争する場」と考えていた。クムラン教団には洗礼と聖餐という二つの礼典があった。「洗礼によって穢れが払われ、罪が赦されるとみなされた」。聖餐はパンと葡萄酒による会食であり、終末におけるメシアとの聖宴の先取り的性格があると荒井氏は指摘する。
 「洗礼者ヨハネ」がこの教団に関係があることは、思想が終末論的であること、洗礼が罪の赦しと虫美つけられること、活動範囲が「荒野」とヨルダン川であることを考慮すれば、死海の西北岸にあったクムラン教団の位置に近いことから事実であろう。しかし、ヨハネが行動を開始した時点でクムラン教団に所属していなかったことは明白であると荒井氏はいう。なぜならヨハネは単独で行動していて、「罪の赦しをえさせる悔改めのバプテスマは律法・戒律の遵守とは無関係であり、しかも一度限り施されるものであったので、直接ヨハネをクムラン教団に結びつけるわけにはいかないが、広義の洗礼教団の中に位置づけることは可能であろうと、荒井氏は指摘する。彼は「火でバプテスマを授ける」とはつまり、焼き亡ぼしてしまう「力あるもの」(神)の来臨が間近に迫っていることを予言するのであり、火によるバプテスマを免れる唯一の道は水によるバプテスマを受けて「悔改める」以外にないという。「来るべきものの前に、現在の生を規定する一切の過去的なものはその価値を失う。人間は生の志向を過去から将来に転換しなければならない。これがヨハネの悔改めの意味であろう」と荒井氏は明確に解釈している。ヨハネはすべてのユダヤの人々に悔改めを求めたのであり、一つの教団を設立する意図はなかったと思われるが、福音書には「ヨハネの弟子たち」という証言があり、特色は断食と祈りであったが、この弟子たちの中にイエスもいたと荒井氏はいう。ヨハネの死後にヨハネ教団が創設され、予言的メシア、神の先駆者として崇拝し、天的「光」、あるいは「言(ロゴス)」の位置にまで高めた可能性もあると荒井氏は主張する。

 ヘブライズムとヘレニズムの融合
 パレスチナにおけるヘレニズム化は当然予想され、エルサレムを中心とするユダヤ教はヘレニズムに対して否定的であったと荒井氏はいう。しかしガリラヤは民族主義に無関心であった地域であり、ヘレニズムに通じる精神風土が育まれた可能性があり、サマリアはエルサレムを中心とするユダヤ教から遮断されているが、ユダヤ教とは異なるサマリア教の周辺にはヘレニズム的混交諸宗教が発生していたという。その一つにグノーシス主義の父といわれる魔術師シモンとその宗教が数えられるという。シモン派がローマに広がっていた二世紀前半にはヨルダン川当方にマンダ教が成立していた。注意すべきことはマンダ教は「認識」(ギリシア語でグノーシス)を救済と見なしていたことであるという。「光の世から遣わされたマンダ・ダイエー(命のグノーシスという意)が、創造神の支配下で本来の自己=「隠れたアダム」を忘れている人間に、それを覚知せしめ、それを光の世に連れ戻す」という神話を有する。「このような反宇宙的二元論に基づいて救済の認識を説く宗教思想をわれわれはグノーシス主義という」と荒井氏は説明する。しかし、神話がユダヤ教から取られているのでマンダ教をユダヤ教から切り離し異教とするのはできないという。ヘレニズム・ユダヤ教にはパレスチナとその周辺のユダヤ教と、それ以外のディアスポラ・ユダヤ教では事情を異にする。アレクサンドリアのユダヤ教は前三世紀に始まる『旧約聖書』のギリシア語訳、『七十人訳聖書』があった。初期キリスト教の聖典に採用されたという。フィローンこそがヘレニズム・ユダヤ教の代表的人物で、律法をプラトニズムによって解釈したユダヤ人哲学者であったと荒井氏はいう。「フィローンにおいて言(ロゴス)、世界の創造に与り、他方、ヘルメスと等置されて啓示的役割を果す」。エジプトにおけるユダヤ教の周辺に成立したというグノーシス主義、『ヨハネのアポクリュフォン』では、「神の諸属性の末端に位置するソフィアの堕落と救済が、宇宙の創造と万物更新の原型と見なされていると荒井氏は解説する。私はまだそれらの原典を読んでいないのでこれ以上の推論は控えるが、哲学のエクリチュールと宗教のエクリチュールの違いはどのように生まれるのか、主に中世に興隆したユダヤ哲学やイスラム哲学を紹介した井筒俊彦氏の著作『超越のことば』や『意識と本質』などを手がかりに、後半の「詩人論」でつきつめて考えてみたい。最終的には詩のエクリチュールの独自性を追求しようとするものである。プラトンを読んできて旧約聖書に触れるとき、明らかに違うのは「真実の語り」であろう。詩とは一詩人の生涯=生き方と結ばれている以上、社会や世界や他者に対する批判や感慨を込めた表現=言葉が繰り広げられるであろう。預言者たちの表現は文学に近いと思わせる。哲学からも神学からも独立した詩表現をこれから考えていきたいと思う。

 終末論とメシア思想
 「後期ユダヤ教の宇宙論は、人間の運命を世界の運命とおき返ることによって歴史化された」とブルトマンは『歴史と終末論』で述べる。「二つの世の観念が循環する時代という概念にとって代り、それと共に真の終末論が確立された」という。彼によると、多くの民族に見出される「世界の終り」についての神話は、「世界の歩みを自然の年次的な周期性との類似に基づいて考えることによって得られたもの」であり、「天文学上の発見から発生するもので」あり、一廻りの終りが新しい「世界―年」の終りとなる、つまり循環するものと考えられていた。さらにヘラクレイトスは「世界の経過を不変の法則にしたがう生成と消滅とのリズムとして、言い換えれば、常に信仰する不断の流れと考え」、「根本的に合理化した」とブルトマンは解釈する。
 世界―年の歩みは自然的な経過(四季の到来のように)と考えられていたが、後に「それらの時期はその中に住む人間の世代の性格に従って区別され、自然の成長における凋落と消滅の思想が、人間の堕落、悪化という思想に変形された。つまり黄金、銀、青銅、鉄の時代というように描かれた。「それぞれの時代がある金属と結びついた一柱の星の神によって支配されているというバビロンの伝統に源を発している」とブルトマンは指摘する。ネブカドネザルの夢をダニエルは解き明かし、

 王よ、あなたは一つの大いなる像が、あなたの前に立っているのを見られました。その像は大きく、非常に光り輝いて、恐ろしい外観を

もっていました。その頭は純金、胸と両腕とは銀、腹と、ももとは青銅、すねは鉄、足の一部は鉄、一部は粘土です。あなたが見ておられたとき、一つの石が人手によらずに切り出されて、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。こうして鉄と、粘土と、青銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、夏の打ち場のもみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなくなりました。ところがその像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちました。(ダニエル書第二章)

 王は金の頭で、後にあなたに劣る国が起こり、その次に青銅の国が全世界を治める。足の一部は粘土、一部は鉄なので分裂した国である。鉄と粘土は合い交わることがないので、相合することはない。これら王たちの世に神はいつまでの滅びることのない一つの国を立てる。一つの石が人手によらず山から切り出され、鉄が石と、青銅と、粘土と、銀と、金とを打ち砕いたのを、王が見たのはこのことであり、大いなる神が後に起こることを王に知らせたのである。
 ダニエルは王ベルシャザルの元年に夢を見て、夢のしるしを述べた。

 わたしは夜の幻のうちに見た。見よ、天の四方から風が大海をかきたてると、四つの大きな獣が海からあがってきた。その形は、おのおの異なり、第一のものは、ししのようで、わしの翼をもっていたが、わたしが見ていると、その翼は抜きとられ、また地から起こされて、人のように二本の足で立たされ、かつ人の心が与えられた。見よ、第二の獣は熊のようであった。これはそのからだの一方をあげ、その口の歯の間に、三本の肋骨をくわえていたが、これに向かって『起きあがって多くの肉を食らえ』という声があった。その後わたしが見たのは、ひょうのような獣で、その背には鳥の翼が四つあった。またこの獣には四つの頭があり、主権が与えられた。その後わたしが夜の幻のうちに見た第四の獣は、恐ろしい、ものすごい、非常に強いもので、大きな鉄の歯があり、食らい、かつ、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは、その前に出たすべての獣と違って、十の角をもっていた。(ダニエル書第七章)

 ブルトマンによると、ここでは「四つの帝国が四匹の獣として描かれているばかりでなく、最後の帝国、すなわちアレクサンドロスからセレウコス四世、若しくはアンティオコスまでの諸王を含むセレウコス王朝の物語の梗概が述べられている」。第一の獣はバビロニア、第二の獣はメディア・ペルシャ、第三の獣はギリシア、最後の獣はローマを表している。第四の獣は天上の会議で裁かれ殺される。夜の幻のうちに見ていると「人の子のような者が天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来るとその前に導かれた。このようにダニエルはさまざまな夢を見るが、終末の到来を告げる黙示であり、終末の日に死者たちは「いと高き者の聖徒のために」審判を受ける。「いと高き者の聖徒」とはイスラエルの民である。世界の二つの時、現在の「世」と来るべき世として対立する二元論が、ユダヤの黙示文学的な思想において展開されているとブルトマンは指摘する。
 旧約には世界の終りにつづく救いの時に関する終末論は、ダニエル書をのぞいてないとブルトマンはいう。二元論は創造者としての神の観念と矛盾するし、神によるさばきは全世界のさばきに就いて語っていない。艱難は黙示文学的文書では来るべき終りのしるしであるが、罪多き国民に下された罰であるから歴史化されている。「メシアへの希望は特に宇宙的神話論に源を発しているように思われる」が、「救いの時に期待されている支配者はダビデ家出身の王でなければならない」ので歴史化されている。歴史の終りは歴史そのものには属さない。終りは歴史の完成ではなく歴史の終止である。新しい創造が古い世界にとってかわり、しかも二つの世の間には何らかの連続がないとブルトマンは説明する。旧約と決定的相違のある、後期ユダヤ教の終末論は、宇宙論的な主題そのものが重要であり、時代の特徴であった堕落のしるしが、世界の終りのしるしとなったという。メシアの出現は「人」の神話論的な像によっておきかえられ、死者のよみがえりと最後の審判が起こる。ブルトマンによると、「新約において旧約の歴史観と黙示文学的な歴史観が二つ共に保存されているが、それも黙示文学的な歴史観が優位を占めるような仕方においてである」。
 
 そこでイザヤは言った、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ。おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。その子が悪を捨て、善を選ぶことを知るころになって、凝乳と、蜂蜜とを食べる。それはこの子が悪を捨て、善を選ぶことを知る前に、あなたが恐れているふたりの王の地は捨てられるからである。(イザヤ書第七章)

 主は勢いたけく、みなぎりわたる大川の水を彼らにむかってせき入れられる。これはアッスリアの王と、そのもろもろの威勢とであって、そのすべてにはびこり、すべての岸を越え、ユダに流れ入り、あふれみなぎって、首にまで及ぶ。インマヌエルよ、その広げた翼はあまねく、あなたの国に満ちわたる。(イザヤ書第八章)

 終末論に対応して現れる救済者の表象は、受肉や神が肉体を具えた子を生む神格化という思想は、ヤハウエの特質と矛盾するのでイスラエルでは排除されたと、マックス・ウエーバーはいう。救世主についての思弁が他の諸宗教からとられ「密儀教・秘伝」へ導く思想を定位しようとすることヤハウエの尊厳を傷つけることになるのでありえなかったし、被造物である救世主を予言から引き出すことができるとすれば、「ダビデの再臨」、あるいはダビデ一族から出た子孫であるが、あるいは超自然的方法、メソポタミアで発見されるような、父親なしで生まれてくる奇跡の子を出現させたのが、右記の引用にある「インマヌエルという子の予言」であるとウエーバーは指摘する。このイザヤ書の記述はイエスを予言したものとしてキリスト教側では尊重したのであったが、ユダヤ教では否定されるべきものであった。

 歴史の断絶としての終末論
 「新約においては旧約の歴史観と黙示文学的な歴史観が二つ共に保存されているが、それも黙示文学的歴史観が優位を占めるような仕方においてである」とウエーバーはいう。神の支配が間近に迫っていることと、イエスが「「自分の時を決断の時と解していたこと」、自分の使信を人々がどのように受け留めるかにかかっている。「さばきはことごとく最後の審判に集中されているのであって、すべての人がその前で自分のなした技について責任を負う」とイエスは考えていた。イエスが呼びかけるのは、「不義で罪深い世代」(マルコによる福音書八・三八)の、個々の人間であり、イスラエルの未来やダビデ家の復興の約束を語ったりしていないとウエーバーは指摘する。『マルコによる福音書』や『テサロニケ人への第一の手紙』や『コリント人への第二の手紙』や『使徒行伝』などに見られる世界の来るべき終りについてのメッセージが新約を貫いて表現されている。なぜなら「キリスト教団はユダヤ人から旧約をうけとり、自らを「神のイスラエル」、「選ばれた民」、離散している十二部族として理解していたからである」とブルトマンは指摘する。つまり、選ばれた祖父からダビデにいたる神の導きの物語と見られていてイエスの派遣を通してダビデと歴史の目標を結びつけている。しかし、「新しい神の民と古い神の民との間には系譜的な関係は存在しない。原則的に相容れない、なぜならアブラハムは異邦人を含めたユダヤ人すべての信者の父だからであり、この連続は歴史から生じたのではなく、かみによってつくられたものであるとブルトマンはいう。新しい民のために旧約の約束が成就される、旧約は歴史として読まれずに啓示の書として読まれる。神の計画とは、「キリストの受肉、十字架上の死、復活及び栄光化ではじまり、異邦人の回心とキリストのからだとしての教会の形成によってつづいて起こり、期待される最後のことがらの起こるにいたって尾張に達するものである」とブルトマンは主張する。キリスト教はキリストの死に基礎を置くから、実際に歴史をもたない。「世界の時が終って終末がさし迫っているいま、この民がどうして歴史をもち得ようか」とブルトマンはいう。彼らにとってこの世界はけがれと罪の領域であり、自分の国籍を天にもつがゆえにキリスト者にとって他国に過ぎないのだとブルトマンは説く。つまり、社会と国家に責任はもたず「自分を世界から清く保って、「責むべきところなく、むくで、まがったよこしまな世代のただ中できずなき神の子となり、この世の光として人々の間に輝く」(『ピリピ人への手紙』二・一五)のようにならなければならないのだとブルトマンは説明する。禁欲と聖化との消極的倫理だけを発展させていくのだという。



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