ヒーメロス通信


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パレーシアステースとしてのプラトン、(後編)その一、小林稔季刊個人誌「ヒーメロス」18号2011年6月

2012年08月02日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(十)(後編)その一
小林稔



プラトンの哲学的試練
 『プラトン全集 十四 書簡集』(岩波書店)には十三の書簡が含まれている。そのなかの「第七書簡」をもとに論じてきたのであるが、この書簡はプラトンが七十四歳のころに書いたものであり、己の前半生を回顧したもので偽作の多いという書簡の中でも第七書簡は内容の上からも内容の上からも真作である可能性が高いと藤沢令夫氏はいう。「プラトン哲学の本質的な性格は、この前半生における苦渋にみちた生の選びそのものによって、決定的に方向づけられていることは疑いえない」と藤沢氏は著書『プラトンの哲学』で語る。今一度読み返しながら、ソクラテスとは様相を異にする、言い方を変えれば、ソクラテスの生き方を根底に据え、新しい哲学として発展させたプラトンの哲学的パレーシアを考察してみよう。
 前四二七年、ペロポネス戦争四年目の年、アテナイでプラトンは誕生した。アテナイとスパルタを盟主として民主制の国々と反民主制(寡頭制)の国々との戦争である。アテナイの降伏でペロポネス戦争は終結し、反民主派の「三十人政権」が立ち、そのうちの幾人かは親戚筋や知り合いがいたので、プラトンは政治参加をすすめられたのであった。しかし「三十人政権」は独裁権力をもち、反対派にある者を次つぎに処刑するという恐怖政治を示し始め、プラトンの期待は全て裏切られたことになる。さらにソクラテスと他の幾人かが、レオンという無実の者を処刑するためにサラミス島から連行するように命じるという、「レオン逮捕事件」が起きた。ソクラテスは命令に従わず家に帰ってしまった。前述した『ソクラテスの弁明』でソクラテスはこの政権が崩壊しなかったら命を落としていたであろうと述べている。民主派によって「三十人政権」はすぐに崩壊し、民主派の政権が復活を遂げた。藤沢氏によれば、「このときの深い衝撃こそは、このような不条理を根絶するためには、民主派と反民主派の抗争といったレベルを突き抜けた、国家のあり方の根本的な変革しか道はないとプラトンが考えるようになった、その起点をなすものである」という。ソクラテスが処刑された後、プラトンはソクラテスが自分にとってどのような存在であったかを自覚したであろうと藤沢氏は述べる。

わたしは、初めのうちこそ公共の実際活動へのあふれる意欲で胸いっぱいだったとはいうものの、それら法習の現状に目を向け、それらが支離滅裂に引きまわされているありさまを見るに及んでは、とうとう眩暈がしてきました。それでわたしは、直接それらについてだけではなく、広く国政全体についても、一体どうすれば改善されるであろうかと、考察することは中断しなかったけれども、しかし実際行動に出るについては、いつも好機を期して、控えているよりほかはなかった。『第七書簡』(325E‐326A)

 『ゴルギアス』は、プラトンが哲学を自分の天職と決めた四十歳ごろに書いた対話篇である。その中でソクラテスに語らせた、「(わたしは)ほんとうの意味での政治の技術を手がけている数少ない一人であり、現今の人々の中でわたしだけが、政治を実践しているのだ」(521D)という言葉は、十二年後に『国家』で「哲人王」という思想に結集させるプラトン自身の、政治と哲学に対する決意の表れとみてよいであろう。
 「わたしは国政にせよ個人生活にせよ、およそすべての正しいあり方というものは、哲学からでなくしては見きわめられるものではないと、正しい意味での哲学を称えながら、言明せざるをえませんでした。つまり、「正しい意味において、真実に哲学している部類のひとたちが、政治上の元首の」地位につくか、それとも、現に国々において権力を持っている部類のひとたちが、天与の配分ともいうべき条件に恵まれて、真実に哲学するようになるかの、どちらかが実現されないかぎり、人類は、禍から免れることはあるまい」(第七書簡326A-B)
という記述があり、すでに『国家』執筆以前に「哲人王」の構想があったことが知れる。「そういう意図を胸に
もって、わたしは、イタリアとシケリアへ赴きました」とすぐ後に記されているからである。プラトン三十七歳ごろのことであった。
 
 訪れたシケリア(シチリア)島はディオニュシオス一世の、僭主独裁政治下にあり、この王の義弟のディオンという二十歳くらいの青年がプラトンの弟子となるということが起こった。このことからプラトンは以後、波乱万丈な人生を送ることになる。ディオンは、プルタルコスの『英雄伝』(960A)にあり、ディオニュシオスの二人の妃のうちの一人、アリストマケの弟で、「魂の壮大さ、勇気、学ぶ能力という、非常に高い資質を持った少年であった」と『英雄伝』に記述されている。さらにプルタルコスによれば(フーコー『自己と他者の統治』からの引用)、青年らしい魂の純真さをもって、ディオンは、ディオニュシオスが自分が受けたのと「同じ教えを受けて」自分と「同様な感銘」を受け、「たやすく善の方向に向かうようになる」だろうと期待したので、ディオニュシオスにプラトンを会わせようとする。プラトンはシケリアに三度訪れたことになるが、この第七書簡は三度目の訪問を終えた七年後に、「暗殺され故人となったディオンの同士にあてて書かれた手紙である」と藤沢氏はいう。またイタリアではピュタゴラス派の哲学者アルキュタスという人物と交流し、後のプラトンの哲学にピュタコラス派の思想が大きく影を落すことになったとも藤沢氏は書き加えている。書簡から読み取れることは、宮廷での悦楽の生活に親しんでいたディオンが、プラトンに教えを受けるようになると「快楽やその他の放埓よりは、美徳のほうを、格段に尊重するようになって」(326B)、「彼の生活態度は、僭主制下の習俗にひたって暮らすひとびとの目には、だんだん重苦しいものに映るようになって」いったことである。プラトンは、独裁者は他の人々より勇気がないとか、正義の心を持った人の生活は幸福であるが不正な人々の生活は不幸であると説いたのだが、そのことでディオニュシオスを怒らせてしまった。王の怒りの危険を恐れ、ディオンはプラトンをギリシアに向うガレー船で送り返すことにしたが、ディオニュシオスはプラトンを殺すか、奴隷にせよと乗りこんでいたスパルタ人に命じた。王はディオンだけは愛顧と信頼を減らすことはなかったという。     
フーコーはプラトンとディオンのパレーシアの相違を説いている。「シケリアに何しに来たか」という独裁者の問いに、「立派な人間を探しに来たのだ」とプラトンは返答する。つまりディオニュシオスは立派な人間ではないことを伝えることになり、怒りをかい先述したように追放されたのであった。プラトンは独裁者に教える者の立場でパレーシアを実践したのだが、一方、ディオンは独裁者に意見を述べ、廷臣、義兄弟として、王に間違いがあれば反駁するという立場でパレーシアを行使したのである。暴君が登場し、その妻の弟が真実を述べるというシチュエーションは、『オイディプス王』における王とクレオンの関係に近いのではないかとフーコーは指摘している。クレオンは真実を言いに来るが、オイディプスは「私の王座を狙っているからであろう」と真実を聞こうとしない。「あなたはまずデルポイに行って、私があなたに神託を正しく伝えたか訊きなさい。あなた自身で真実を探しに行くがいい」とクレオンは言い放つ。ディオンは、プラトンの教えを伝えるために真実を伝えようとする人物と考えられる。フーコーはプルタルコスの『英雄伝』のディオンに関する記述を基底に論じているのであるが、プルタルコスはプラトンについてはパレーシアを行使したと言わずに、なぜディオンに関してだけパレーシアを行使したと言うのかをフーコーは考える。独裁者を取り巻いている廷臣たちとディオンの違いは、前者は追従者であるということが挙げられる。パレーシアとは、真理の内容そのものではなく、「真実の言い方」にあるとフーコーは指摘している。真実を言う一般的な分析は、言説の構造、目的性、効果など、また論証のための戦略、説得のための戦略、教育や議論のための戦略としてなされるのに対して、パレーシアは論証の戦略ではない。プラトンは論証を徳や正義について行うが、そこでパレーシアを行使するのではなく、ディオニュシオスに対する返答においてパレーシアを表明する。一方、ディオンは論証をせず単に意見を述べるだけである。つまり論証のための戦略ではないことが一つ目の問題である。二つ目の問題は、説得のための戦略でもないことである。つまり弁論術に属する一つの要素としてパレーシアを定義できない。以前にも指摘したように、弁論術は言説が真実であるかどうかというのでは、いかに真実らしく見えるかということが問題になるからである。パレーシアには説得は問題ではない。先述したプラトンとディオニュシオスとの対話には挑発や皮肉、侮蔑や批判があるが説得ではない。三番目に教育のあり方ではないこと分かる。パレーシアのうちには、何か教育法と真っ向から反するものがある。真理は暴力的かつ唐突、断定的かつ決定的
なので、相手は沈黙するか怒ることになり、独裁者の場合はパレーシアを投げた相手を殺そうと企てることになる。四番目は、ある種の議論の仕方ではあるが、そこには闘争的な構造があるということ。一方でプラトンが教えを述べ、ディオニュシオスは議論によって説得されず教えられもせず、打ち負かされることもない。王は言説の勝利を暴力の勝利に置き換えてしまったのである。
 このようにパレーシアは言語戦略には属さないとすれば、パレーシアはどこに位置づけるべきか。パレーシアとは、「真実を言うことや真実を言ったことが、真実を言った人の身に大きな犠牲を引き起こす、あるいはその可能性や必然性があるような条件において〈真実の語り〉がなされる場合」に存在することになる。フーコーの分析を紹介してきたが、フーコーは結論として真実を語る中で支払う代価は「死」であり、真実の語りが「自分自身の存在を犠牲にすることになる、ということをすすんではっきり受け入れた上で、主体がすすんで本当のことを語ろうとする瞬間」であり、極論すれば「パレーシアスト(パレーシアステース)とは、ほんとうのことを言ったことによって死ぬことを受け入れる者」であるという。
 プラトンはイタリア・シケリアへの一回目の旅を終え、前三六七年、再びシケリアに到着する。前後の歴史的関係を、『プラトン全集 14 書簡集』の巻末の解説を参照し、手短に要約しておきたい。ディオニュシオス一世が急死し、ディオニュシオス二世が僭主王に就き、ディオンはディオニュシオス一世の妻、アリストマケの弟であることはすでに述べたが、彼らの父がヒッパリノス一世と呼ばれた人で、ディオニュシオス一世の死後、姉の息子であるヒッパリノス二世を王として擁立したかったのであるがかなわなかった。そのときからディオン対ディオニュシオス二世との対立構造が生まれる。ディオンはディオニュシオス二世にプラトンの訪問を勧め実現する。プラトンは政治顧問として「シケリア内の諸都市に再植民する案や僭主制を立憲王国に転換する案を勧告したり、法律前文の起草に協力したり、学問の奨励にもつとめたと」という。しかし、プラトン到着四ヵ月目にはディオンは追放され、プラトンは王にさしとめられていたが、カルタゴ戦争が起こり始めたこともあって帰国を許された。カルタゴ戦争がおさまるとディオニュシオス二世からプラトンに招待状が送られた。ディオンの帰国が許されないのは約束に反するとして訪問をプラトンは断る。しかし前三六一年、軍艦でプラトンを迎えに来たという。これが第三回目のシケリアの旅になる。僭主に哲学を教えることが目的であった。しかしディオンの帰国は見送られる。プラトンは「真実の哲学」を問答すると、王の哲学への熱心さは虚妄であったことが分かる。王はディオンの財産を没収しようと企てるが、それに憤慨したプラトンは帰国を申し出るが許されず、滞留させられた。そのころ傭兵隊の暴動が起こり、首謀者はヘラクレデスという噂が立ち、プラトンはその一味であると思われ、城外退去を命じられた。身の危険を感じたプラトンはタラスのアルキュタスに手紙で救助を求め、王の同意を得てオリュンピアに戻った。その後、ディオンは兵を集結し、ディオニュシオス二世の留守中のシュラクサイを攻め、二世はイタリアに逃亡した。一方、ディオンはヘラクレイデスの離反に会い、シュラクサイを捨てる。ディオンが撤退すると二世は反撃を繰り返し、ヘラクレイデスがディオンを迎え入れ鎮圧する。またもやヘラクレイデス派が反乱を起こすので提携を断念。ディオンの部下が早まってヘラクレイデスを殺してしまう。こうした動揺につけこんだカリッポスの一味が策略によってディオンを暗殺することになった。ディオンの甥に当たるヒッパリノス二世がディオンはと組みシュラクサイを奪回する。歴史的背景はこのくらいにしておこう。
 フーコーによると、ディオンがディオニュシオスを追放した後にディオン自身が暗殺されるという状況下で、第八書簡は書かれているという。ディオニュシオスとディオンのそれぞれの派が対立する中で、「ディオンの身内ならびに同士の諸君に」という書き出しで書簡は始まる。第七書簡の二つのくだりと連結して、フーコーは第八書簡からパレーシアを検討しようとする。第七書簡の二つのくだりとは何かを明らかにしてみよう。一つ目は哲学者が君主に助言を与える場合、どのような条件において哲学はロゴス(言説)以外のものになるか。「現実における現実的な活動」はどのようにして成り立つか、あるいは「哲学的言説にとっての現実の試練としての政治への関係」が問題であった。ポリティア(政体)についての助言はせず、シュラクサイに存在するポリティアのフォネー(声)を聞くように助言している。また、「政治の領域における助言者は医者のようにあるべ
きだ」というくだりにフーコーは注目する。医者は病を知っていなければならない。病人と対話し、説得しなければならない。生き方や養生法や食養生を完全に変えるように納得させなければならない。危機が明らかになっていないうちにシュラクサイを苦しめている病を診断する。ディオニュシオス二世に植民地との間に友情と信頼の関係がなかったことをプラトンは指摘した。専制的で暴力的な体制であるペルシア帝国のキュロスの統治の仕方を肯定的に参照して説得に当たる。プラトンは、「キュロスは常に、最後の最後まで友であり続けた同盟国の助けによってそれ(帝国)を成し遂げた」、さらに「キュロスは王国を七つの地区に分け、それぞれ忠実な協力者をおくという計らいをした」と述べる。プラトンはもう一つの例としてアテナイを挙げる。ペルシア帝国の専制的な王国の体制とは別の民主制の体制である。イオニア同盟にあるようにあるように、植民地にはそこに住んでいた人々を元の場所に残し、土地の名士に権力を委ねたのだと述べる。このようにしてディオニュシオス二世に統治の仕方を変えるべきだと助言した。プラトンはディオニュシオス二世に自分自身についての訓練をしなければならないと助言する。「思慮深く懸命で、節度を保つ」訓練であり、「彼自身が自分自身と一致し調和する関係にならなければならない」ことであるとフーコーは説く。植民地との調和関係と同じことで、「それぞれのポリティアが持つ声はどのようなものであるかを理解し調和しながら統治することである」とフーコーはいう。Egkrates auto hautou(自分自身の主人)となれるように日々生きるべしということ(第七書簡331Eには「みずからがみずからに打ち克つ者と訳されている」)が定型化されていたのであり、「自分自身の欲望や欲求に関して自己を律すること、食べ物や酒や性的快楽に関する節制を意味するとフーコーは説明する。一般的な節制や徳ではなく「自己の自己に対するある種の権力関係である」とフーコーはいう。同盟国へのよき統治者という意味があるということであろう。プラトンが与えた助言は「現実的な意味で政治的であるよりは道徳的な一連の意見」であるということ、あるいは「哲学者であるべき者としての君主のあり方」を問題にしているということであるとフーコーはいう。
 二番目のまとまりを構成する助言をフーコーは以下にまとめている。ディオンの追放があり、ディオン派とディオニュシオス派の対立、ディオニュシオスの追放、ディオンの帰還と追放といっためまぐるしい出来事の変化を終え、残されたディオンの友人たちに向けてどんな助言ができるのかと、プラトンは述べている。プラトンは自らの助言を献酒という喩えで語る。一度目はディオンに、二度目はディオニュシオスに、そして今三度目の最も厳粛な献酒である、なぜならゼウスに向けられたもので、「救いをもたらす者としてのゼウス、救う者である限りにおいてのゼウスに向けられてもの」だからとフーコーはいう。ディオニュシオスに与えた助言と友人たちに与えた助言は何が違うのか。内戦が迫っている状況では国家のポリティアの問題が最重要になる。それには賢者に知恵を授かり法律の制定を依頼すべきであると助言する。妻と子を持ち、良い家系の出身である賢者を選び、立法者になってもらうのがよいとプラトンはいう。ディオニュシオス派とディオン派の対立や紛争が終了したとき勝者と敗者のあいだに差異をつくらないこと、勝者は敗者よりさらに法に従っているということを示すべきである、つまりプラトンは個人の道徳的育成を問題にしているのであり、理論的教育と道徳的教育が必要であるとフーコーはいう。ディオニュシオスは哲学についての文章を書いた。プラトンが語ったものの引き写しであったが、本来、プラトンには哲学の書物を書くことの拒否があったことも加わり、「政治的権力を行使する人間がもっている、理論的な知を非常に警戒していた」とフーコーは解く。理論的教育の主題は、「幸運でありながら不正であるよりは、不幸でありながら公正であるようにしなければならない」ということであるとフーコーはいう。ディオニュシオスは追放されたが生きていた、つまり不正でありながら幸運であったということ、ディオンはディオニュシオスを追放したが殺された。「好まれるべきはディオンの生き方であり、不幸であっても正義は常に守られるべき」であるというプラトンの主張が見られるという。魂と身体は別々のものであり、身体は死すべきものであることに対して魂は不滅である。「不滅の魂は死後、生きている間に何をしたかに応じて裁かれる、生前に不正を働いていれば、恐ろしい罰にさらされ、地上を長い間彷徨ように命じられる」(フーコー)というオルフェウス教的な理論である。フーコーによれば、哲学的教義を提出しているのではなく、古い教義を心得ておくべきだということである。「そうして非哲学的な言説、宗教的信仰と聖なる伝統の言説こそが政治家が参照すべき理論的背景を構成すべきである」。「先祖たちの生活様式を実践した時、その時こそしかるべく統治することができる」とプラトンは述べている。それは恐れであるとフーコーはいう。
統治する者は力を示すことによって、良き統治を保証されるのだ。統治する者はaidôs(慎みと敬意)を、自分の義務や、国家や今夏の法律に対する敬意である。「法の奴隷として自らを構成すること」(フーコー)、つまり統治する者の徳として理解しなければならないのである。
 
 パレーシアのプラトン的特徴
内戦勃発時に書かれたといわれる第八書簡には、二つの注意すべきテクストがあるとフーコーは述べる。ディオニュシオス一世の跡継ぎとディオニュシオス二世の跡継ぎ、さらにディオンの跡継ぎ(息子)、これら三人の王たちを宗教的機能のもとに一つにすることをプラトンは望んでいると指摘する。その仕組みは法律の存在と機能を保証するものであるとフーコーはいう。後の著作『法律』で反映される「法の番人」である。

わたしとしては、ともかく現在わたしは一応、薬と思われているところを、歯に衣着せず、ひとつの公平な立場か正論を用いて、打ち明けてみることにいたしましょう。というのは、つまり、ここでは僭主のなった側と、僭主に服従させられた側とを、それぞれひとりずつに見立てて、二人に対してのつもりで、調停官風に問答を交しながら、わたしは以前からの忠告を、繰り返そうというわけです。(第八書簡354A)

右に引用した箇所は、パレーシアの表明とも行使とも言えるような領域にいることを示しているとして、フーコーはさらにテクストを読み進めながらプラトンの助言の特徴を取り出していく。最初に直接自分が語るのではなく、故人を媒介にして自分が語ることの権威を強調するということがある。ディオンという死者、生命を危険にさらし真実を語った、つまりひとりのパレーシアテースを介入させる。それはプラトンが自分の語りを無効にするように見えるが実はそうではなく、ディオンはプラトンに生前、師として育てられていたから、プラトンがパレーシアを行使していることに変わりはない。「亡くなった人物を登場させ、今語られつつある物事を効力あるものとする」のは、ギリシアの雄弁術によく用いられる修辞学の方法であるとフーコーは指摘する。しかし、プラトンは雄弁術として活用しているのではなく、パレーシアの行使において活用しているのであり、プラトンのパレーシアの特徴であるとフーコーいう。次に、「今現在」という彼の表現にあるように、プラトンのパレーシアは「状況と状況についての言説であると同時に、恒常的なものの原理に結びついたもので」あり、その緊張を引き起こすところに特徴があるとフーコーは指摘する。例を挙げると、「隷属と自由とは、そのどちらかが行き過ぎた時、大きな悪となる」とプラトンはいう。その後で、「神に対する隷属や服従はまったく節度のあるものだが、人間に対する隷属は常に度が外れている」と加える。フーコーは「一般的な原則への参照と、個別的な状況への参照とのあいだで緊迫するパレーシアの言説」がここに見られるとフーコーは述べる。三番目の特徴は、政治的対立を超えた全ての人たちに、ひとりの人に対するように語るということである。「国家に処方と法を押しつける一般的な言説」であると同時に「一人一人にある種の操行、やり方を獲得させるような説得の言説」であるとフーコーはいう。四番目の特徴はシケリアにいる二つの党派に「diaitêtês」として語りかけるということである。「diaitêtês」とは、調停者のことであり、裁判以外の場所で頼れる調停者である。つまりプラトンは各党派間の調停者、国家のための医学的養生法を与える者としてパレーシアを行使するのである。(「diaita」には調停と養生法の二つの意味があるとフーコーは指摘する。)

 すべての神々および神々と並べ崇めるにふさわしいかぎりの他の神霊たちに、畏敬の念をもって祈願を捧げたうえ、諸君は味方の者たちにも離反者たちにも、おだやかにしかも手立てを尽して、呼びかけ説得しつづけるのを、けっして止めないでください。少なくとも、諸  君が、いまわれわれによって論じられたこれらの方策を、いわば『目覚めの枕辺に立つ神来の夢』とも受けとり、実地に手がけ、運よく、そしてまぎれもなく成就させるに至るまでは」(第八書簡357C-D)

 最後に挙げる四番目の特徴とは、自分が語る助言が現実に直面する挑戦、つまり自分の言説がほんとうか嘘かを現実が示すということを受け入れることである。引用した「今われわれによって論じられた方策」、つまりプラトンの助言を「目覚めの枕辺に立つ神来の夢」(哲学者は必要とされるときに訪れて語るべきことを語るの
であり、それは人間たちのもとを訪れる神の夢のようなもの=フーコー)と受け取り、哲学者が語りかけるの
は人間たちが目覚めている時であり、神の夢が真実を語るのは、努力して物事がはっきりした仕方で現実の幸
運に出会えた時であるとフーコーは読み解いている。つまり哲学者の助言は神の夢と同格であるとし、人間たちが目覚めている時に神の夢は現実に幸運をもたらすとプラトンはここで語っているのである。



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