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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

飛鳥寺西方遺跡 平成29年度調査 現地説明会

2018-03-11 22:56:02 | 現地説明会
 平成30年2月25日(日)
 毎年、この時期に発掘調査の説明会が行われている飛鳥寺西方遺跡で、この日現地説明会が開催された。昨年度は、仕事の都合で参加できなかったが、今年は、都合がついて何とか行くことができた。

 飛鳥寺西方遺跡は、飛鳥時代の饗宴広場であった槻樹の広場を確認するために、2008年から発掘調査が継続してされており、今年で10年目を迎えることとなった。

 今年度は、調査区が1~3区設けられており、説明は3区の調査区で行われた。

 【1区】

 

 

 1区では、掘立柱の建物跡と石組み溝が検出されている。建物跡については、東西に展開する横長の建物であり、調査区を越えて外部に広がっており、建物の長さは確認されていない。ただ、見る限りかなり細長い建物であったようである。
 また、石組み溝についても東西に敷設されており、これも調査区の外部に伸びている様子であった。この1区に東側で行われた飛鳥京跡の発掘調査でもこの石組み溝とつながる遺構が見つかっている。石組み溝は少なくとも21m以上はあったと推定されている。

 

 柱穴は、隅丸方形をしており、90~135cmをはかる。ただ、穴の深さが比較的浅いのは、後世遺構面の上面が削られてしまったことによるらしい。

 

 これらの建物跡の発見で、飛鳥寺西方遺跡の大きさが、想定よりもさらに西の方に広がっていることがわかった。

 【2区】

 

 2区では、焼土を包含した土坑が見つかっている。

 

 平成25、26年度の調査のときにも焼土を伴った土坑が見つかっ「飛ているので、その遺構と関係があるのかもしれない。(参考「飛鳥寺西方遺跡 現地説明会」

 【3区】

 

 3区では、集石遺構と掘立柱の建物跡が見つかっている。集石遺構の敷き詰められた石が、人頭大の石や拳大の礫などが不整形に敷き詰められており、これは後世に攪乱を受けたためではないかとのこと。

 

 おそらく、この辺りには一面石が敷き詰められていたと考えられそうである。

 また、調査区の東側で、2間×3間の掘立柱の建物跡も検出されている。

 

 壬申の乱の軍営が築かれ、また天武、持統朝には饗宴が行われたとされる。こういったことと関係のある施設なのかもしれない。

 

 今回の発掘調査で、飛鳥寺西方遺跡の範囲は、もともとの想定よりも西側に広がることが確実となった。また、建物跡もいくつか見つかったことで、もともと建物はないと考えられていたが、どうやら近くの水落遺跡や石神遺跡ほどではないにせよ、いくつかの饗宴に伴う施設が建っていたことが想定されるとのことである。
 残念ながら、今回も槻樹の根っこは見つからなかったが、10年に及ぶ発掘調査の結果、ここに「槻樹の広場」と思われる石敷きの饗宴施設があったことが明らかになった。

 今回で、飛鳥寺西方遺跡の発掘調査は一区切りとのこと。さて、来年からこの時期、どうやって過ごそうかな。

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