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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

飛鳥寺西方遺跡 現地説明会

2015-02-19 23:40:33 | 現地説明会
 先日、飛鳥寺西方遺跡の発掘調査の現地説明会が行われた。小雨の降る中ではあったが、多くの方が見学に来られていた。最近、遺跡や古墳の発掘調査の現地説明会に参加づいていて、飛鳥での現地説明会に参加するのは、小山田遺跡に続いて2回目である。

 飛鳥寺西方遺跡については、飛鳥寺の西側に広がっている遺跡であり、その遺跡の規模や構造を明らかにする目的で調査が行われている。現地説明会についても過去何回かおこなわれている。

 

 このあたりは、何度か歴史に登場しており、斉明天皇の時代には、飛鳥寺の西に須弥山の像を置いたという記述があり、また壬申の乱の時には、飛鳥寺の槻樹のもとに軍営が置かれていたとも記されている。また、天武・持統天皇の時代には蝦夷や隼人といった人たちを招いて饗宴を行ったと記されている。

 今回の発掘調査では、飛鳥時代の建物と思われる遺構が2つ東西に並んだ形で検出されている。

 

 西側の建物1である。
 南北2間、東西7間の建物跡が、ほぼ全面が検出されている。柱穴の位置がかなり不揃いであり、かなり急ごしらえで作ったのではないかと考えられるとのこと。

 

 柱穴の中の、オレンジ色になっているのが焼土である。ただし柱穴を抜き取った後混入したのではないか、つまり建物自体は、焼失してしまったのではなく、人為的に解体されたと見るのがいいようだ。

 続いて、建物2。

 

 半分程度しか今回の調査では検出されていないが、おそらく建物1と同程度の規模の建物跡ではないかとのこと。

 また、遺跡内では、砂利敷が検出されている。

 

 この砂利敷については、柱穴の上にを覆っており、柱穴を抜き取った後に敷かれたものであるらしい。建物の除却後は、広場か何かになっていたのかもしれない。

 これらの建物については、層位からみて飛鳥時代のものだとは考えるとのことである。新聞では、壬申の乱の時に大津方の軍営の跡ではないかという報道がなされていたが、直接、そのことを示すものが出ているわけではない。ただ、そういった建物の可能性があるという程度なのだろう。建物の幅がそんなにないことから、厩とかそんなイメージが沸いたがどんなものなのだろう。
 写真を見てもお分かりのように非常に柱穴が雑に掘られているし、柱間もまちまちである。説明では、一時的に作られた仮説的な建物であったのではないかとのことであった。

 調査区の隅で、写真のような土師器が埋まっているのを見つけた。

 

 宴等に使われていそうなものである。建物跡と同時期のものであれば、饗宴のための施設であったとも言えそうである。

 飛鳥寺西方遺跡については、今後も発掘調査の方は続けられていくとのこと。槻樹の跡が出てくればなあ何て声も現地では上がっていた。ちょっと夢のある話である。

 この遺跡の西方には、甘樫丘が見える。歴史的な風土を感じさせるものがある。
 
 

 遺跡の説明が終わるころには雨も上がり、少し晴れ間も見えてきたので、久しぶりに飛鳥散策をすることにしよう。

 


 
 

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