休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

葛城の国の古墳めぐり⑥ ~太田古墳群(弥宮池1号墳・小山2号墳)~

2023-08-10 00:24:10 | 古墳紀行

 平林古墳から、道の駅かつらぎをめざして歩きはじめる。途中、田園地帯を抜けていくが、ところどころに土が盛り上がったようなところが何カ所かあった。たぶん、古墳だろう。この辺りは、太田古墳群と呼ばれる群集墳があったようなので、それに属する古墳なんだろうと思う。

 そうしているうちに、大阪から奈良に向かう新しい有料道路、南阪奈道路に出る。この道路の建設工事の際も道路用地に多くの古墳があったが、道路の建設により消滅している。

 南阪奈道路をくぐって、道の駅かつらぎの方に出ると、ちょっとしたポケットパークの様な緑地があり、そこに、太田古墳群に属する弥宮池1号墳の横穴式石室と小山2号墳の家形石棺などが無造作に置かれている。

 

 写真は弥宮池1号墳の横穴式石室。

 

 太田古墳群については、約50基ほどの古墳からなる古墳時代後期に築かれた群集墳で、弥宮池支群、弥宮池北支群、弥宮池南支群、小山支群などで構成されている。南阪奈道路の建設に伴い発掘調査が行われている。その調査時に発掘された弥宮池1号墳の横穴式石室と小山2号墳の家形石棺と弥宮池5号墳の石棺の底石などがこの場所に移築され保存?されている。

 

 まず弥宮池1号墳であるが、移築された当初の写真を見たことがあるのだが、墳丘がきちんと復元されていて、周囲から独立したような感じだったのだが、いつの間にか、盛り土が流れてしまったうえに雑草が生えてきて、周りと溶け込んでいると言えばちょっと言いすぎかな。(笑)

 

 石室の天井石は失われているが、側壁と奥壁、底石が残っている。古墳は26mほどの円墳で、石室の長さは、7mほどだそうだ。見ると奥壁の石は、切石等構成されている。鏡石らしきものもある。ただ、羨道の石は表面を平らにはしているが、奥壁の様な切石は使われていない。

 

 発掘調査の結果、家形石棺や木棺、土師器や須恵器、鉄刀などが出土しており、追葬などで3人以上埋葬されていたと考えられている。この古墳の築造は、6世紀後半の古墳時代後期に築造されたと考えられている。

 

 そして、その横に、今度は小山2号墳の家形石棺がこれも無造作に置かれている。

 

 小山2号墳は、これも南阪奈道路の建設に伴う発掘調査で見つかったもので、直径30mほどの円墳に、横穴式石室を持ち、その中には、2つの組合せ式の家形石棺が見つかっている。蓋にあるのが前棺で、蓋がなく身たけのが後棺である。

 

 この組合せ式石棺の蓋石がこの写真。

 

 この二つの石棺を比較すると、後棺の石棺の蓋には縄掛け突起が残っているのに対して、前棺の方はもはや縄掛け突起が消滅しており、棺自体も、平たくなっている。おそらく後棺の方が前棺よりも古い様式のものである。こうしたことから、もともとの被葬者は、後棺に埋葬されており、後に追葬されたのが、前棺という事になるのであろう。

 

 また、弥宮池5号墳の石棺の底石も同じくこの場所に移築されている。これも南阪奈道路の建設に伴う発掘調査で見つかったものである。

 しかし、この移築保存も考え物で、とりあえず別の場所に遷しておいといたらええわという根性が丸見えな感じ。考えれば1,400年もの風雪に耐えて残って来たものと考えるとせめて屋根なりつけてあげてほしいが・・・。

 奈良の人達は、1,400年の昔のものって、世界でも有数のものだと思うのだが、奈良の人には、そんじょそこらにあるので、有難味に欠けるんだろうなあ。

 もったいない。

 この後は、道の駅で休憩した後、いよいよ二塚古墳をめざすことにしよう。

 【地図リンク】

 弥宮池1号墳

 https://goo.gl/maps/Uk7eFdxBSffhwydb7

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 葛城の国の古墳めぐり⑤ ~平... | トップ | 葛城の国の古墳めぐり⑦ ~二... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

古墳紀行」カテゴリの最新記事