
花山天皇陵から北に向かい、北大路道を渡って、平野通を北上し、二つほど交差点を越えて、左に入ると、三条天皇北山陵が見える。
ここも花山天皇陵同様に閑静な住宅街の中にあり、目立たないようにひっそりと訪れる人もないような様子であった。

三条天皇は、前回に訪ねた花山天皇の弟で、父は冷泉天皇で、母は藤原兼家の娘藤原超子である。
一条天皇の譲位を承けて、寛弘8(1011)年36歳で天皇となった。ちなみに三条天皇は、一条天皇の東宮ではあったが、一条天皇よりも4歳年上であったことから「さかさ儲けの君」と言われていた。
在位期間中は、藤原道長の絶頂期であり、三条天皇も藤原道長の圧迫を受けて、在位わずか5年で退位している。
ちなみに退位の翌年、42歳にて崩御している。
在位期間中、これといった業績はないが、後拾遺和歌集など勅撰集に歌が残り、小倉百人一首にも「心にもあらで此世にながらへばこひしかるべきよはの月かな」という歌が選ばれている。
哀しい感じの歌で、そこには三条天皇の人生が歌われているのかもしれない。

さて三条天皇の陵であるが、天皇が亡くなった後、船岡山の西石陰にて火葬され、北山の小寺中に埋葬されたという。

しかしながら、長い歳月の間に、いつの間にか所在は忘れられてしまったようだ。江戸時代の文久の修陵の際には墓所の特定に至らず、長らく不明であったが、明治時代に入り、明治22年に現在の地を陵として治定されるに至っている。
この場所が三条天皇の北山陵と治定された理由はわからない。ただ、花山天皇陵と同様に円丘の周りを四角く濠でおり、おそらく近代になってかなり手を加えられたことは想像できる。

平安時代の天皇陵は、はるか古代よりもいっそう近代になって整備されたものが多いようで、近代天皇制の成立との関係が興味深い。
なお、三条天皇陵からさらに平野通を北へ向かうと、天神川のほとり、鏡石公園の奥に、一条天皇と三条天皇の火葬塚がある。
(以前「京都北山の火葬塚① ~一条天皇、三条天皇火葬塚、おまけ御土居公園~」で取り上げている。)
この三条天皇北山陵から鏡石通を下ると世界遺産金閣寺である。
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