あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

2024年 日本旅行記 6

2024-06-29 | 
白馬4日目の朝は古瀬家で迎えた。
前の晩は炭火焼バーベキューに加え、暗くなってからは焚き火で盛り上がったのである。
カズヤと火を囲んで色々と話して、夜は居間で愛犬のフクちゃんと一緒に寝た。
朝早くに娘が仕事に行き、次いでミホが用事で出かけるのを見送り、子供達が学校に行くのを見送った。
カズヤがコーヒーを淹れてまったりと過ごしているとキョーコがやってきた。
話の流れからキョーコの事も書かねばなるまい。
あれはもう何年前になるのか。
2000年問題が一段落したらパソコンを買おうなどと思っていた頃だから1999年か、もう25年も前になる。
僕と相方JCは数年働いたアライというスキー場を追い出され、アルツ磐梯で働いていた時に同僚だった奴がパトロール隊長を務めるチャオ御岳というスキー場で働いていた。
もう今は営業していないスキー場だから言えるが、滑るという点においては本当につまらないスキー場だった。
コースは圧雪バーンのみで急斜面はほとんどなく、オフピステ?何それ?という具合で新雪を滑るのには程遠いスキー場だった。
名古屋からの客層を目当てにJR東海が作った新しいスキー場で、スキー場の所長は鉄道関係の人でスキー業界の事をほとんど知らない、そんなスキー場だった。
そこに来るお客さんも名古屋近辺から来る人で、雪道の事など全く知らないで夏タイヤにチェーンも持たずにやってきて、雪道でスタックしてスキー場に助けを呼ぶという有様だ。
それまで雪崩管理とか新雪の中でのコース管理作業や時にはコース外に外れた人の救難などヘビーな仕事だったが、そこではコース外には行きようのない場所なので主に看板やネットやロープの設置、怪我人の手当てやゴンドラで一気に上がって高山病になった人の対処(ゴンドラで下ればすぐに治るので下りゴンドラに乗せる)など、そんな仕事だった。
スキー場での仕事はつまらなかったが、その分僕らのエネルギーは違う方向に向いていった。
近隣のスキー場のスタッフに声をかけ週一でスキー場対抗バレーボールのリーグ戦を開催したり、パトロールのメンバーでバンドを結成して週一で近所の喫茶店でライブをやったり。
自分の働くスキー場があまりにつまらなかったので、休みの日には新穂高ロープウェイで滑ったり御嶽山に登って滑ったりもした。
ちなみに寮は山奥と言っていいぐらいの場所で最寄りのコンビニまで車で1時間という場所だった。
今は時効だから書くが、仕事が終わってから飛騨高山まで車で2時間かけて飲みに行き、飲んだ後にガチガチに凍った道を2時間かけて帰ってきて次の日に何もなかったように仕事をした。
スキーパトロールの待機所で馬鹿話をしていたら誰かが「フルーチェを腹一杯食いたい」などと言い出し、それならやろうという事になり、10リットルのフルーチェを待機中に作る『砂漠の果樹園大作戦』などという実にくだらない事に全精力をかけたりもした。
ちなみにカズヤと次の話で出てくるダイスケは近くの御嶽ロープウェイスキー場で働いていて、この当時もよく一緒に遊んだものだった。
みんな若かったな。
なんか青春の思い出話みたいになってしまったが、そのスキー場のインフォメーションで働いていたのがキョーコだ。
僕とJCが企画した数々のイベントにつきあってくれて一緒によく遊んだ昔の仲間で、若い頃はレースクィーンのアルバイトをしたというだけあってなかなかの美人である。
ちなみにそのスキー場で友達になって今でも連絡が途絶えないのはキョーコだけだ。
雪の上で出会った仲間達も年を重ねるとスキー業界から離れていき、いつのまにか音信不通となってしまう。
寂しくもあるが新しい出会いもあるし、そういうのも全てご縁というものなのだろう。
キョーコも今は飛騨高山に住んでいるが僕に会いになのか白馬を滑りになのかその両方なのか、とにかく3時間もかけて白馬に滑りに来てくれた。
カズヤもこの日は休みなので、案内をしてもらいがてら3人で八方尾根で滑る。
カズヤが先に滑り所々で止まりながら、地形の説明や雪の説明などを聞いていると、さすがベテランガイドだなぁと納得する。
多分本人は無意識のうちにやっているのだろう、滑って止まって話をするというタイミングが絶妙なのだ。
後ろを振り返りもせずにバコーンと一番下まで突っ走ってしまうトモヤとはえらい違いだ。
もともとスキーは上手いヤツだったが、スキーの技術だけでなく説明の仕方も上手くなったし、経験を積んで話す内容にも深みが出た。
若い頃に一緒にバカをやっていた時の自分達からは想像もできないぐらいに、互いに年を重ねたということなんだろう。

トラベルの語源はトラブルであり、旅をしていると色々な困難にぶちあたるものだ。
病気や怪我という健康面から、窃盗スリ置き引き強盗という犯罪がらみのものまで色々ある。
そしてそういうものは思いもがけぬ所で起こるものだ。
今回の旅ではスキーシーズン終わり近くで雪もそんなにないだろうからガンガン滑るつもりはなく、道具も自分のブーツだけ持ってきてスキーは誰かの板を借りようと思ってやってきた。
初日はトモヤのスキーを借りたがあまり調子よくないので、二日目からはカズヤの所で試乗用の板を借りた。
この金具が自分が使っているものとは違うものなので、慣れない道具に戸惑っていた。
そこそこの斜度のある場所を滑っていたら、いきなりスキー板が外れ転んでしまった。
外れたスキー板はずーっと下の方まで行ってしまい、幸いに誰に迷惑をかけることなく平らな場所で止まった。
そこまで片方のスキーで滑って回収したのだが何かしら違和感がある。
改めて体をチェックすると、大きく息をすると脇腹が痛む。
どうやら肋骨にヒビが入ったようだが、肋骨のヒビというのは対処法はなく、衝撃を与えると折れてしまうので無理をしないように注意するぐらいだろう。
ちなみに友達のえーちゃんは肋骨にヒビが入り、その後でっかいくしゃみをして完全に折るという荒技なのかマヌケなのか、まあそういう事例もある事を身を持って証明した。
僕の場合は軽い怪我で済んだが、もしもこれが大きい怪我でそれこそパトロールの世話になるような事になって、娘に搬送されたりしたら、それはそれで話題のネタに事欠かないが娘に一生頭が上がらなくなるところであった。
この肋骨のヒビは普通の生活をしていたらなんてことないが、寝返りをするときに痛むというのが帰国まで続いた。



この日は娘が仕事だったので一緒に滑る事はできなかったが、作業の様子など仕事ぶりを見た。
竹ポールの束を担いで滑るのはパトロールにとって当たり前の仕事だが、20年以上前に自分がやっていた仕事を娘がする事は素直に嬉しい。
自分の人生が家族に肯定されるような感覚だ。
ここで書いておくが、僕は娘に「スキーパトロールになれ」とは言っていない。
それどころか人生の選択について「こうなりなさい、これをやりなさい」などと言った事は一度もない。
冗談で「そんなにスキーをしたきゃあスキーパトロールになりゃいいじゃねーか」とは言ったが最終的には自分の選択だと思っていた。
一時はスキーから離れてしまったこともあり、このままスキーをしないのも娘の人生だから仕方ないかと思ったこともあった。
大学卒業を機に白馬で働いてみたい、というのは自分の意思だったので知り合いに頼んで仕事を紹介してもらったがこれは業界に入るきっかけを作ってやっただけだ。
知り合いがいない所に行くのは不安だろうから、オトシとカズヤに何か困った事があるようなら手伝ってやってくれと頼んだが、彼らに面倒をかけることなく奴隷契約をすることなく昨年のシーズンを無事に終え、自分の力でスキーパトロールの仕事を見つけてきた。
娘が語る仕事の話やゲレンデの説明を聞いているだけで、きっちりと仕事を理解しているのが分かる。
そこに至るのには周囲の先輩方の助けもあっただろうし、頼りない同僚トモヤや一緒に働く仲間の存在もある。
ニュージーランドとは違う、良くも悪くも日本の体育会系の組織の中に身を置くことで人間として大きく成長したのではなかろうか。
これもそれもあれも全てご縁なのであり、娘には娘のご縁があるのだとつくづく思うのである。



昼飯を3人で食べカズヤは先に下り、午後はキョーコと一緒に滑る。
昔はヘタクソなスノーボーダーでブロークンリバーのメイントーに四苦八苦していたキョーコだが、相当滑り込んだと見え当時とは比べものにならないぐらい上手くなっていた。
前回会ったのは何年前なのか覚えていないが、二人でじっくりと話をするのも久しぶりだ。
互いの生活のこと、コロナ禍のこと、ビジネスやインバウンドのこと、人生観や社会観のことなどリフトに乗りながら話をした。
ロープトーと違ってチェアリフトはおしゃべりができるのがいいな。
心の方向性が同じ人とは、どんなに離れていてもすぐに繋がることができるので話が早い。
キョーコもしっかりと自分の軸を持っていて、キョーコの立場でこの世界で生きている、まあ当たり前と言えば当たり前の事なんだが、そんな彼女の軸を話してみて感じたのである。
後日、飛騨高山でいよいよ自分の店を開くという連絡があった。
高山駅から徒歩8分、築180年の古民家を生かしたリラクゼーションサロンで7月7日オープン、楽リラクゼーション惣助店というのが正式名称だそうな。



今回の旅では『人に会って話をする事』というのが一つのテーマでもある。
人と話をするのでもたくさんの人でワイワイというのもあるし、二人だけでじっくりと、というのもある。
人と人が会えば『場』と言うものが生まれ、そこで会話の内容も決まっていく。
バカ話や与太話もあれば、これからの世界についてとか人生とはなんぞやといった哲学的な話もある。
自分が望むような話の展開にならないこともあれば、思わぬことからとても有意義な言葉が生まれることもある。
ばくぜんとした想いが言語化することにより、より明確なビジョンとなるのも人と出会い『場』からうまれる。
そういう意味でも、今の世に必要なことは人と会って話をすることなのだ。
キョーコとの久しぶりの再会で一緒に滑り楽しかったが、それ以上に人と会って話をする重要性にも気づいた1日だった。

晩飯はオトシが焼肉屋へ連れってくれた。
僕としてはオトシに丸投げで、連れて行ってくれる所に行くだけだ。
楽だし僕にとっては知らない所だらけだし、下調べも一切しないので常に新しい発見がある。
焼肉屋の名前も忘れてしまったが、ちゃんとしたお店なのだが何故かその日は僕らだけの貸切状態で、オトシ家族ともゆっくりと話ができたのが嬉しい。
帰ってきてから再びワイワイと飲むわけで、オトシの家には常に誰かがいる。
そこに居合わせたのはカモメという若い女の子で、デザインとかをやっているオトシの弟子なんだそうな。
村ガチャのデザインも手がけているし、『一期一会を何度でも』というコピーライトも彼女のアイデアだという。
「おお、そうか、オトシにも弟子ができたか、じゃあ俺の孫弟子だな。」
「はいオトシさんの68番目の弟子です」
「そんなにいるのか?大安売りじゃないんだから増やせばいいってもんじゃないだろうに。だいたいオトシ、お前は弟子って言葉の意味が分かっているのか?」
「ハイ、その辺は充分に理解しております。師匠」
どこまで本当か分からないお調子者の弟子にはかける言葉もない。
酔っ払った席で孫弟子カモメが面白い事を言い始めた。
オトシ宅のある集落は8世帯あり、そのすぐ近くには小さな祠があり、そこで子どもの頃に遊んだ人が何かしら大きな事をやりとげるという噂話なのか本当なのか、とにかくそういう話がある。
それを聞いたカモメの頭の中に、映画のストーリーのようなイメージが湧いた。
聞いて面白い話だったので、記録がてらその場でプロレタリア万歳の収録をした。
実は何回かオトシ宅で収録をしたのだが声が聞こえなかったり、酔っ払いすぎてハチャメチャになったりで使えなかったのだ。
3回目の正直、夜も更け酔いもかなり回っているがなんとか録音もできた。
そのお宮に隠された秘密とは・・・。



そこのお宮で遊んだ子どもは大人になって色々な業界で成功するという話があるので、僕らみんなでお宮にお参りに行った。
その際ふとしたはずみでカモメの姿が見えなくなってしまった。
みんながカモメを探すが見つけられない、同時にカモメはそこにいてみんなに呼びかけるがみんなにはカモメの姿が見えないらしくどうしても見つけられない。
時を同じくしてオトシのビジネスが軌道に乗り大成功を収め、スノーボードは爆売れで村ガチャも大繁盛、挙げ句の果てにハリウッド映画になるなんて大きな話も持ち上がる。
その時にオトシは隠されたお宮の秘密を知ってしまう。
そこのお宮では大成功をする人もいるが時々神隠しにあう子供もいて、そういった子供達の犠牲の上に成功が成り立つというものだった。
秘密を知ったオトシは悩みに悩む。
大成功をしている裏には行方不明になったカモメがいる。
カモメを救うのかそのまま成功の道を取るのか。
苦渋の決断の結果、オトシはハリウッド映画のオファーを断る。
その瞬間、今までの大成功が夢のように崩れていき、お宮でカモメが一人横たわる。

大まかなあらすじはそんな具合であるが、それをカモメが面白おかしく語ってくれた。
確かに短い映画になりそうなストーリーである。
では次の日の朝にみんなでその祠にお参りに行こうと決まり、その晩はお開きとなったのである。

続く

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