あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

2024年 日本旅行記 7

2024-07-12 | 
白馬出発の朝、昨晩の約束通りみんなでお宮にお参りに行く。
オトシの家から歩いて5分もかからない。
ボコっとした、丘とや小山と呼ぶには小さすぎるような、まるでそこだけ突き上げたような地形の中にその祠はあった。
小さいながらも鳥居があり、その奥にひっそりと、まるで息を殺すかのように建っている。
ナルホド、ゲームもスマホもパソコンも何もない子供達が、かくれんぼや鬼ごっこをして遊ぶのには恰好の場所だろう。
そうやってここで遊んだ子供達ご大人になって大きな仕事をする話なんだな。
ふと思い出したが自分の家の近所にも小さな神社があり、そこで草野球だの鬼ごっこだのして遊んだものだったな。
カモメが前の晩に語ったお宮の秘密では、みんなでお参りをしたらカモメが神隠しになり行方不明となってしまうものだったが、そういった事も起こる事なく無事にお参りをした。
祠の周りは冬が終わったばかりだからか、雪の重みで折れて落ちた枝が多いが荒れ果てたという感じではない。
小さいながらもやっぱりここにも氏神様がいるのをひしひしと感じた。



娘が迎えに来てオトシ宅を後にした。
この日は古巣のシャルマン火打で一緒に滑り、その後で友達の家に泊めてもらうことになっている。
白馬から糸魚川までの道は姫川に沿って狭い谷間を走り、糸魚川に近づくと一気に視界が広がる。
ニュージーランドのアーサーズパスからグレイマウスに抜ける国道と似た感覚である。
しばらく走ると左手に日本海が見え、道は海岸沿いを行き能生に入る。
今は合併して糸魚川市になってしまったが、僕がいた頃は能生町(のうまち)だった。
自分の故郷の清水もそうだが、日本中どこでも合併合併で小さな町や村が大きな市に吸い込まれてしまった。
文化というのは狭い地域から生まれるもので、大きな町に吸収されると地域特性は薄まりどこにでもあるようなつまらない街ができあがる。嘆かわしいことだ。
日本海を背にして能生川に沿って谷間をさかのぼっていく。
4月も半ばになると雪もほとんど無いが、谷を進むにつれ雪が出始めて、その奥にスキー場がある。
シャルマン火打というスキー場に居たのは娘が1歳か2歳かそれぐらいだったから20年前か。
僕はその時はニュージーランドで長距離バスドライバーをしていたが、過酷な労働に耐えかね仕事をやめたところだった、
そこに相棒JCの誘いがあり、半年間という期間限定の出稼ぎでシャルマンでパトロールをすることになった。
当時は日本円がまだ強く、1ニュージーランドドルが60円ぐらいだったような気がする。
豪雪地帯で名高い上越地方なので雪の降りかたもすさまじく、仕事はハードだがやりがいのある職場だったし、パウダー目当てで集まる地元ローカルとも仲良くなった。
寮では夜な夜なギターを弾きながら飲むという事を繰り返し、ローカルで楽器が出来る人を集め西飛山ブルースハウスという名前のバンドも結成した。
僕とJCが同じ部屋で、そこがみんなの溜まり場であり、横の部屋にいたのが圧雪係のダイスケだった。
カズヤの事も事細かく書いたから今井ダイスケの事も書かねばなるまい。
僕らが20代の頃、バブル最盛期でマウントハットとかメスベンでブイブイ言わせていた時にカズヤと一緒にいたのがダイスケだった。
僕とJCがその頃セットで動いていたように、ダイスケとカズヤも二人で一組のような間柄だった。
大きく違う所は、僕とJCは対等の関係だが、ダイスケ達は圧倒的な上下関係があり、殿様と家臣のような主従関係なのか軍隊の指揮官と兵卒のようなものかダイスケの言うことには絶対服従であり、まさに体育会系のノリだった。
そんなカズヤにとっては王様のようなダイスケも僕には可愛い弟であり、ニュージーランドでも御嶽にいた時もよく遊んだし、シャルマンの時も毎日一緒に過ごした仲なのだ。
若い頃には本当によく飲んでバカなことをやったものだが、ある日いつものように飲んでいたら誰かがジャンプして軒先の梁に頭をぶつけ、突発的に誰が一番強く頭をぶつけられるか選手権みたいなことが始まり、ダイスケとカズヤがジャンプして頭をぶつけて「痛え!」などと頭を抱え込むのを見てみんなでゲラゲラ笑ったりしたものだった。
よくあの時に死ななかったと思うが、若いというのはバカで無知で分別がなく、途方もなく明るい。
シャルマンではダイスケは隣の部屋で、僕が二段ベッドの下で布団の中で本なぞ読んでると、暇を持て余したダイスケが狭いベッドに潜り込んで来て「ひっぢさ〜ん、遊んでくださいよ」などと言いつつ太ももを擦り寄せ「気持ち悪いなーダイスケあっち行けよ!」とゲイのユーマが聞いたら喜びそうな事もされた。
そんなダイスケに会えるのも9年ぶりだ。





シャルマンに着くとダイスケの妻のアスカが僕ら親子を迎えてくれた。
アスカも同じ時代をニュージーランドで過ごした仲間で、クラブフィールドにも出入りしたし家にも来た事があり、今では週に何日かスキーパトロールをして何日かは雑貨TREEというお店をやっている。
アスカがニュージーランドに来ていた時は娘がまだ3歳か4歳かそれぐらいだったのだろう、アスカは覚えているが当然ながら娘は覚えていない。
今シーズン半ばに娘がシャルマンを滑りに行くというので連絡して、その日は一緒に滑ってくれてその晩にアスカの泊めてもらったという間柄だ。
この日はやはりニュージーランドで一緒の時代を過ごしたエリが来ていて、アスカ、エリ、僕ら親子の4人で滑った。
お互いの近況や共通の友達の話、スキー場の状況や取り巻く人間関係など話は止まらない。
久しぶりに来た昔の職場では滑るうちに、ああ、そういえばここの地形はこんなだったなあ、ここではこんな出来事があったなあ、などと思い出す。
アスカはお昼からお店を開けるというので先に下り、我らは山頂のレストランで昼飯を食い、その後も数本滑る。
若い深雪はせっかく来た他所のスキー場なのでまだまだ滑りたい、エリはのんびり山菜など取りたい、そして僕は山頂からの景色を眺め若い頃に過ごした思い出にどっぷりと浸りたい、と三者三様なのでしばらくは自由行動。
バカな上司の下で働く人生の理不尽さも味わったが、それ以上に楽しい仲間との思い出も多いし、大雪の中で汗だくになって作業をしたことや死人を搬送した事など、酸いも甘いも苦いも辛い経験も全てが鮮明に呼び起こされる。
そういった経験全てが今の自分の心の中核となっている。
ここで働いたのは20年前だが、16年前に僕はイベントで再び訪れている。
ニュージーランドのブロークンリバーとの交流イベントで、当時パトロールだったヘイリーやクラブキャプテンのブラウニー、スキーガイドのヘザー、スキーメーカーのアレックス達と1週間を過ごした。
オフピステを滑るフリーライドの大会の走りのようなもので、これは伝説のイベントとなり同じ顔ぶれで集まることはもうないだろう。
懐かしい顔が揃った写真をオトシが送ってくれたので貼り付けておこう。




午後も早い時間にスキー場を後にして、温泉に浸かり世話になった親父さんに挨拶をして山を下る。
この親父さんも前はシャチョーと呼ばれていたが今では息子に代を譲りカイチョーになったようだ。
夕方まではのんびりと地元の道の駅やアスカの雑貨屋を見て回る。
雑貨屋では手染めのTシャツや手ぬぐいなど扱っていて、手染めのワークショップなどもやっている。
ここも地元に溶け込み地に足がついた暮らしをしている。
当時一緒にバンドをやっていたサイトーデンキという人が、今晩は用事で来れないからとわざわざアスカの店にウィスキーを手土産に来てくれた。
地元の電気屋さんで斎藤電気だが僕はこの人の下の名前をしらない、だが昔の仲間がこうやって会いに来てくれるのは嬉しいものだ。
ダイスケとアスカの家は店から車で5分ぐらいで、大きな家で部屋もたくさんあるので僕も娘も友達のエリもみんなそこに泊めてもらうのである。
海岸からちょっとだけ入った所にあり、海が見える家はサーファーのダイスケにはもってこいなんだろうな、古い家を綺麗に改装してある。
ダイスケは娘が働く八方尾根スキー場で圧雪の仕事をしていて、僕が来る日もひょっとすると仕事かもなんて言ってたが、休みが取れて家で待っていた。
娘はスキーパトロールで昼間の仕事、ダイスケは圧雪で夜の仕事なので面識は無いが、無線の声はお互いに聞いた事があるという関係だ。






ダイスケと再開を祝しビールなど飲んでいると夕方になり地元の友達が続々と集まってきた。
大工のノブさんはスキー好きなローカル代表みたいな人で、20年前からよく知っている間柄でダイスケの家の改装をしたと言う。
そしてパンチ家族。
パンチは僕がパトロールをしていた時に一緒に働いた仲間で、当時からパンチパーマだったのでパンチと呼ばれ今でも愛称はパンチである。
その当時は若くて独り者だったが、今は奥さんと娘二人で幸せそうだ。
他にも山菜を採ってもってきてくれた友達がいたり、魚のお造りを作ってくれた友達もいた。
この日の今井家の食卓はヤバかった。
なにがヤバイって、海の幸山の幸が所狭しとテーブルに並ぶ。
山の幸で言えばコゴミ、タラの芽、タケノコ、その他名前を忘れてしまったが、茹でてあったり、天ぷらにしたり。
旬の物の旨いこと。旬とは季節ごとの食材の一番美味い時であり、四季がある日本ならではのものだ。
そして山菜の旬は悲しいほどに短い。
ある時にはとんでもなくたくさんあるが、時間が経つとあっというまに育ちすぎて食べごろを過ぎてしまう。
その瞬間の旨さを最大限に引き出し、季節ごとの大地の恵みに感謝をする、というのが和食の基本であり日本の芯だと思う。
海の幸は皿に大盛りのカニが何杯分だろうか、それも全部剥いてあって食べる状態で並んでいる。
カニというものは美味いが剥くのに手間がかかり、気がつくとみんな無言でカニを剥く作業に徹するなんてことが宴会ではあるのだが、今回は大工のノブさんが全て下ごしらえで剥いてくれた。
さすが大工だけに手先が器用なのか、前回娘が一人で来たときもカニをたらふくご馳走になったようだ。
そして鯛や地元の魚のお造り、カワハギなのかウマヅラハギなのか刺身をキモを醤油に溶かして食すも美味、甘エビのまた甘いこと、そして食いきれないほどのカニ。
カニはアスカが地元の漁師の子供にスキーを教え、そのお礼にいただいたものらしい。
こんなふうな物と労働力の交換は本来の人間社会では当たり前にあるものだ。
極め付けはワカメ。
ワカメなんてものは実にありふれた食材であり、味噌汁の具がない時に乾燥ワカメを使ったりもする。
ただこの日のワカメはそんじょそこらのワカメと違う。
その日にダイスケが海に入って採ってきたものだ。
旬のワカメがこれほどまでに旨いものとは。まさに感動する美味さであり娘もびっくりしていた。
日本人はもっと海藻を食べるべきだと僕は常日頃から思っている。
食物繊維もビタミンもミネラルも豊富な健康食で、海に囲まれた日本ではどこでも取れる。
今回日本に帰った時も、北海道の昆布のプロに連絡をして昆布をたくさん買ってきたし、アオサやその他の海藻類をお土産に持ってきた。
とにもかくにもそういった食材が食卓に並び、新潟の旨い酒がある、文字通りご馳走だ。
ご馳走とは高い食材を遠くから運んでくることではない。
自分が走り回り、旬の旨いものを用意して客人にもてなすことだ。
ダイスケが自ら海に入って採ってきたワカメ、ノブさんが剥いてくれたカニ、友が作ってくれたお造り、別の友人が採ってきてくれた山菜、地元産の米。
食べ物に囲まれてなんと豊かな土地なんだろう。
貧しいとは物が無いことではなく、有り余るほどの物がありながら足りないと嘆く心の状態を貧しいと言うのだ。





「今日の食材は全部この辺で採れたものなんでよう」ノブさんが自慢気に言った。
こういうおらが自慢は大好きだ。
これだけの食材が取れる土地に根付く友の顔ぶれを見て、僕は今回何度目かの日本は大丈夫だなという気持ちを感じた。
食料自給率が低いと言われる日本だが食べ物が無いわけではない。
要は今の西洋文明主体の生活を続けるのには自給率が低いわけであって、実際に品目別に見ればコメの自給率は100%だ。
だからと言ってパンをやめてコメを食えばいいという短絡的な考えではない。
社会構造の話だが食料自給率が低いからなんとかせにゃいかんと、生産側を変えていく方に目を向けがちだが同時に消費側も考えなくてはならない。
年間2000万トンとも言われる廃棄食材いわゆるフードロスを減らすというのも一つの鍵だが、それには利権にまみれた食品業界の闇に光を当てる必要がある。
基本に戻ってそこにあるものを食う、その時にあるものを食うという当たり前の考え方、これは思考の問題なのでもある。
日本食が世界遺産になる話があるが、世界遺産というブランドでその本来の考え方が薄まってはいないか。
ただ単に美味い不味いという話ではなく、根底には自然をコントロールするのでなく四季の変化に人間が合わせる生活、そして海の恵み大地の恵みを慈しむ心、ひいては人それぞれが持つ生き様、その上で味を追求する探究心や技術の向上、人をもてなすという上での茶の湯の心、そういったもの全てを包括したものが日本食である。
この晩の食卓にはそれら全てがあり、日本食の真髄をまじまじと見せつけられた。
だから日本は大丈夫だと感じたのであり、その根底にあるのは大きな人間愛だ。
それにしてもこの晩のダイスケのはしゃぎっぷりはすごかった。
僕が来たのがそんなに嬉しかったのか、ダイスケ節が炸裂して僕らは大いに飲み食いし大いに笑った。
あまりに笑いすぎてヒビの入った肋骨が折れるかと思ったぐらいだ。



続く

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2024年 日本旅行記 6 | トップ | 2024年7月18日 Porters »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事