鳥の声
2010-10-11 | 庭
この時期、ニュージーランドの夜明けは遅い。
デイライトセービング(夏時間)が始まったばかりだからだ。
だいたい明るくなるのは6時過ぎぐらいだろうか。
朝5時過ぎぐらいになると一番鳥が鳴き始める。
ヒネとミカンが起きて行動を始めるのも6時くらいだろう。
それぐらいになると様々な鳥が活動を始め、家の周りは鳥の声に包まれる。
先日、知人が日本に一時帰国した。
彼女曰く、帰国したときに泊まった家がバイパスのそばだったので24時間車の音がうるさかった。ニュージーランドに帰ってきて、鳥の声で目が覚めるのが嬉しいと。
なるほどなあ。分かる気がする。
ある場所にいれば当たり前の事が、別の場所では当たり前でなくなる。
時に違う環境に実を置くことにより、今まで当たり前だと思っていたことの有り難さに気付く。
水道の水を美味しく飲めることだって、そこにずーっといれば当たり前の事になり感謝の気持ちも生まれないだろう。
別の場所へ行き、常に水を買うような状況を体験することにより、美味しい水道水が飲める幸せを感ずるのだ。
病気やケガがあるから健康であることの喜びを感じるのと一緒だ。
特に若い時に世界へ出て違う体験をしてみることはいいことだ。
ボクも23年前にニュージーランドへ来ていろいろな経験をした。だから今のボクがある。
その時に会った人は40代の日本人夫婦。オーストラリアで何年か住んでいたが暮らしにくくなってきたのでニュージーランドに移ってきたと言った。
その人達の話を聞いて思った
人間は自由なんだ。
今まで『こうでなければいけない』と思いこんでいたことが『あ、これでもいいんだ』『ああ、こういうのもありなんだ』というような。
目からウロコがはがれるような、肩の力が抜けるような、そういう経験は必要である。
以前会った日本の若者は常に「日本の常識では考えられない」とぼやいていた。
そりゃそうさ。ここは日本じゃないんだから日本の常識は通用しない。
日本には日本の常識があり、ニュージーランドにはニュージーランドの常識があり、南米に行けば南米の常識がある。
自分の狭い価値観から抜けられなく、自分に都合の良い『当たり前』だけを求める。
こういう人は、日本の常識=世界の常識ではない、ということを再認識する必要がある。
常に日本の常識に縛られていたら、この国にいても何も見えないし何も感じ取れないだろう。
別れるときに彼に言った。
「君とは二度と会わないだろうけど、がんばりな」
ありがたいことに最近はこういう人にも出会わない。
そういうふうにできているんだろう。
「お父さん、ちょっとこっちへ来て」
深雪がベッドルームから呼んでいる。
時間は6時半、日はまだ昇っていないが空はだいぶ明るくなっている時間だ。
深雪はまだベッドの中にいるが、窓が大きく開いている。
「おはよう、なんだ、窓を開けて寝たのか?」
「ううん、鳥の声がたくさん聞こえるから窓を開けたの」
「そうか、いいだろ鳥の声で目が覚めるのって」
「うん、たくさんいるよね。これは何の鳥?」
「お父さんにも分からない。朝もっと早い時間だと別の声もきこえるんだぞ。ポッポーっていうような声だな」
「ふーん」
昨日はいつもより早く寝たので、今朝早起きしたのだろう。
時間が変われば環境は変わる。時間と空間はひとつのものだから。
違う環境で人に言われてではなく、自分からこういうことに気付く。
大切なことだ。
起きてきた深雪に聞いた。
「オマエ、さっき鳥の声を聞きながら何を考えていた?」
「うんと、遠くの鳥と近くの鳥が話をしてたの。何を話しているのかなって、聞いてたの」
「ウム、よろしい」
鳥たちのさえずりに混じりヒネとミカンの鳴き声も聞こえる。
同族に囲まれヤツらも幸せなことだろう。
鳥の国、ニュージーランドの朝はゆっくりと明けていった。
デイライトセービング(夏時間)が始まったばかりだからだ。
だいたい明るくなるのは6時過ぎぐらいだろうか。
朝5時過ぎぐらいになると一番鳥が鳴き始める。
ヒネとミカンが起きて行動を始めるのも6時くらいだろう。
それぐらいになると様々な鳥が活動を始め、家の周りは鳥の声に包まれる。
先日、知人が日本に一時帰国した。
彼女曰く、帰国したときに泊まった家がバイパスのそばだったので24時間車の音がうるさかった。ニュージーランドに帰ってきて、鳥の声で目が覚めるのが嬉しいと。
なるほどなあ。分かる気がする。
ある場所にいれば当たり前の事が、別の場所では当たり前でなくなる。
時に違う環境に実を置くことにより、今まで当たり前だと思っていたことの有り難さに気付く。
水道の水を美味しく飲めることだって、そこにずーっといれば当たり前の事になり感謝の気持ちも生まれないだろう。
別の場所へ行き、常に水を買うような状況を体験することにより、美味しい水道水が飲める幸せを感ずるのだ。
病気やケガがあるから健康であることの喜びを感じるのと一緒だ。
特に若い時に世界へ出て違う体験をしてみることはいいことだ。
ボクも23年前にニュージーランドへ来ていろいろな経験をした。だから今のボクがある。
その時に会った人は40代の日本人夫婦。オーストラリアで何年か住んでいたが暮らしにくくなってきたのでニュージーランドに移ってきたと言った。
その人達の話を聞いて思った
人間は自由なんだ。
今まで『こうでなければいけない』と思いこんでいたことが『あ、これでもいいんだ』『ああ、こういうのもありなんだ』というような。
目からウロコがはがれるような、肩の力が抜けるような、そういう経験は必要である。
以前会った日本の若者は常に「日本の常識では考えられない」とぼやいていた。
そりゃそうさ。ここは日本じゃないんだから日本の常識は通用しない。
日本には日本の常識があり、ニュージーランドにはニュージーランドの常識があり、南米に行けば南米の常識がある。
自分の狭い価値観から抜けられなく、自分に都合の良い『当たり前』だけを求める。
こういう人は、日本の常識=世界の常識ではない、ということを再認識する必要がある。
常に日本の常識に縛られていたら、この国にいても何も見えないし何も感じ取れないだろう。
別れるときに彼に言った。
「君とは二度と会わないだろうけど、がんばりな」
ありがたいことに最近はこういう人にも出会わない。
そういうふうにできているんだろう。
「お父さん、ちょっとこっちへ来て」
深雪がベッドルームから呼んでいる。
時間は6時半、日はまだ昇っていないが空はだいぶ明るくなっている時間だ。
深雪はまだベッドの中にいるが、窓が大きく開いている。
「おはよう、なんだ、窓を開けて寝たのか?」
「ううん、鳥の声がたくさん聞こえるから窓を開けたの」
「そうか、いいだろ鳥の声で目が覚めるのって」
「うん、たくさんいるよね。これは何の鳥?」
「お父さんにも分からない。朝もっと早い時間だと別の声もきこえるんだぞ。ポッポーっていうような声だな」
「ふーん」
昨日はいつもより早く寝たので、今朝早起きしたのだろう。
時間が変われば環境は変わる。時間と空間はひとつのものだから。
違う環境で人に言われてではなく、自分からこういうことに気付く。
大切なことだ。
起きてきた深雪に聞いた。
「オマエ、さっき鳥の声を聞きながら何を考えていた?」
「うんと、遠くの鳥と近くの鳥が話をしてたの。何を話しているのかなって、聞いてたの」
「ウム、よろしい」
鳥たちのさえずりに混じりヒネとミカンの鳴き声も聞こえる。
同族に囲まれヤツらも幸せなことだろう。
鳥の国、ニュージーランドの朝はゆっくりと明けていった。