大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

マルコによる福音書第6章1~13節

2022-06-19 12:37:55 | マルコによる福音書

2022年5月22日日大阪東教会主日礼拝説教「神を妨害していませんか」吉浦玲子

 主イエスは会堂長ヤイロの娘を癒された後、故郷に帰られました。その故郷の会堂で御言葉を語られました。それを聞いて人々は驚きました。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われる奇跡はいったい何か。」彼らは確かに主イエスの言葉を聞き、その業を見たのです。それはとても通常の人間の考えのようにも行いのようにも見えませんでした。それは神の業だったからです。

 当時、律法は先生について習うものでした。その先生の権威によって語られる言葉に権威が与えられました。しかし、当然ながら、主イエスはだれか先生から教わったことをお話になったわけではありません。神の言葉を、神であるご自身の権威に基づき、語られました。しかし、人間は、目の前で、神の言葉を聞いても、神の業を見ても、そこに神の権威を認めず、人間の権威を求めるのです。現代で言えば、独学で勉強をし研究をして、そしてその研究内容がとてもすぐれていたとしても正当な評価を与えられないということに少し似ています。出身大学や教授や学閥といったバックボーンによって評価されるような感じです。

もし主イエスが高名な律法学者から学んだということを知ってその話を聞いたなら、人々は主イエスを故郷の名士として受け入れたかもしれません。貧しい大工のせがれが立派な大学を出て博士号をとって何か賞を受賞して故郷の母校で記念講演をするようなことであれば皆が歓迎したといえるのです。

 人間は人間の権威に弱いということは、たしかにそうなのですが、そこには深い罪があります。人間にとって神を神として認めること、神から来たものを神から来たものとして認めることは難しいのです。聖書の言葉を、生きていくためのヒント、疲れた日々にちょっと慰められる言葉、含蓄深い言葉として受け取ることはできても、神の言葉、神が今日、自分に語られている言葉として受け取ることは難しいのです。

 「人々はイエスにつまずいた」とあります。この「つまずく」という言葉は教会内の用語としてよく使われます。ギリシャ語の原語には「腹を立てた」というニュアンスがあります。「私は牧師につまずいて教会に行くのが嫌になった」とか「教会の人間関係につまずいた」ということがよく言われます。実際、たしかにそこに牧師のいたらなさもあれば、人間関係のまずさがあったのでしょう。それを正当化することはけっして許されません。しかしまた、「つまずく」というのは、石につまずいたり、段差につまずいたりするわけです。つまり足元のものにつまずくのです。この地上のものにつまずくのです。つまずいて「この石め」と腹を立てるのです。故郷の人々は、主イエスに対して「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と言います。ここにはすでに父ヨセフが死んでいることが含まれ、またあえて「マリアの息子」と言っていることから、主イエスの出生にまつわる疑惑、正式な結婚前にみごもっていたこと、父が誰なのかといったことがらもひょっとしたら含まれているかもしれません。そういったことも含めて故郷の人々は、すでに主イエスを自分たちはよく知っていると思っていたのです。逆に、知っている範囲で理解しようと思ったのです。

 特にプロテスタントの弱さと敢えて言っていいと思いますが、プロテスタントは頭で理解しようとする傾向が強いところがあります。しかしまた同時に皆さん自身良く感じておられると思いますが、信仰は理屈ではありません。聖書に描かれている数々の奇跡や処女懐胎、復活を理屈では理解できません。それはやはり神秘なのです。私たちは神秘を神秘として受け止め、理性を超えた信仰において神を信じています。洗礼を受けるとはそういうことでした。だからといってそれは思考停止ではなく、神の現実を私たちが霊的に知ったということでもあります。そして同時に、私たちはもちろん神から与えられた理性を用いても神のことを知ろうと努力をしていくのです。

 しかしともすれば、理性が勝ちすぎてしまうこともあります。そこで神の業を神の業として受け入れられない、いや場合によっては神の業を阻害してしまう、そういうことが起こります。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」とあります。これは驚くべきことです。これは主イエスの力が弱いということではなく、あまりに心がかたくなな人間の前では神の力が発揮されてもそれをはじいてしまうということです。ある牧師は面白いたとえをおっしゃっていました。あまりにデータ量が多いとコンピュータがフリーズしてしまうことがあります。神の恵みを考え受け取るためのデータ領域や回線量が小さければ、私たちもせっかくの神の恵みを受け取ることがなかなかできません。このことは教会においても起こりうるのです。

 ここ二年以上もコロナの禍が続いています。最初の緊急事態宣言発令以降、教会はそれまで通りの活動ができませんでした。礼拝すらクローズされることもあり、それまで当たり前に行ってきた様々な諸集会も行えなくなりました。教会の活動が制限され、大事な人と人の交わりもできなくなりました。しかし、不思議なことが起こったのです。多くの教会で、むしろそれまで以上に洗礼者が与えられたのです。洗礼者が与えられなくても、それまで礼拝から離れていた人がむしろみ言葉を求めてくるということがあったのです。活動が制限されているにもかかわらず、なぜか礼拝を求める人が新たに起こされたのです。礼拝出席者自体は減っていても、新しい人、戻ってきた人がいるのです。私たちの教会も同様です。神が働いてくださったのです。いや逆に考えますと、それまでの教会の在り方が、人間の思いで動いていて、むしろ神の働きを阻害していたのではないか、そうも思えます。伝道のために、教会の成長のために、と良かれと思ってやってきたことが、実は人間の勝手な思いで行われていて、むしろ主イエスの働きを阻害していたともいえます。今、私たちはそういうことを謙遜に受けとめ、これからの教会の在り方を考えていかねばならないと思います。それはまた個人の信仰生活においても同様です。

 その後、主イエスは特に選ばれていた十二人の弟子たちを呼んで宣教に向かわされました。そこにはとんでもないことが書かれています。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして下着は二枚着てはならない」と主イエスは命令されたのです。これはどういうことかというと、宣教をするとき、人に頼りなさいということなのです。無力な者として宣教をしなさいということです。衣食住を自分で最低限整えてから、また何かあった時のセーフティーネットを準備してから、宣教しなさいというのではなく、身一つで、ただ人に頼って歩みなさいとおっしゃるのです。かなり極端な命令です。これはペンテコステの後、弟子たちが宣教を始めますが、それに先立つ実地演習のようなものです。これは宣教者としての根本を弟子たちに教えるためのものでした。

 何より神の御子である主イエスご自身が身一つでこの世界に来られたのです。貧しい飼い葉桶に産着を着せられ寝かされ、無力な赤ん坊として世話をしてもらう存在としてこの世界に来られました。神の言葉を宣教する者もまたそうなのです。与える者は与えられる者なのです。与えられることのできない人間は与えることもできないのです。若い時は教会で熱心の奉仕された方が、歳をとってなかなか奉仕ができなくなる、それを恐縮に思ってひどく辛く感じる方がおられます。さらに歳を取ったり病になって、本当に何もできない寝たきりになることもあります。ただただ周りの人から助けられて生きている、しかし与えられ、世話をしていただいて生きていくということは、そのことを通して神の恵みをむしろ豊かに与えられているということです。いろんな意味で、辛く感じる状況であっても、自分の力を超えた神の力がそそがれているといえます。

 宣教者はまさに自分の無力の内に神の力のみに頼って歩みなさいという主イエスのご指示なのです。これは専任の伝道者、牧師だけのことではありません。本当の力は、自分が無力とされたとき、神が働いてくださる力です。自分の知恵、自分のスキルで生きているとき、そこには神の奇跡は起こりません。しかし必ずそれでは立ちいかなくなる時が来ます。エリートのファリサイ派であったパウロがダマスコ途上で打倒されたように、神に打倒される時がきます。その時私たちは知ります。自分の知恵、スキル、力と思っていたことがそもそも神が与えてくださったことであることを。そしてそれらが取り去られたとき、なお新しい知恵と力が与えられることを。

 弟子たちは、主イエスから汚れた霊に対する権能を授かり宣教に向かいました。彼らは多くの悪霊を追い出し、病人を癒しました。宣教は、聖書の知識を講義することではなく、いまここに生きて働いておられる神の力を証しするものです。現代において悪霊を追い出すとか病の癒しということは多くはなされません。しかし、闇の中にいる者、希望を失っている者に、まことの命を与え新しく生かしてくださる、その神の現実を今日においても宣教していきます。今日の聖書個所の前にありましたように死んでいたものが生きる、その神の力を伝えます。何より私たち一人一人がそのようにして生かされている者だからです。滅ぶべき者が希望を与えられて生きている、その証をもって、その証だけをもって私たちは歩みだします。しかしまたその証がせせら笑われ、あるいは無視されることもあります。聖書が昔生きていた人が書いた含蓄深い生きるヒントを与えるものとしてしか読まれないことがあります。故郷の人々が主イエスを受け入れなかったように、弟子たちも、また今日のキリスト者も理解されないときがあります。主イエスは「あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落しなさい」とおっしゃいます。宣教する者はその土地の人々に生きていくための必要を頼って宣教をしなさいとおっしゃいましたが、神の言葉を受け入れようとしないところであれば、足の裏の埃すらもらってはならないということです。埃すら捨てて来いということです。主イエスは、理解されるまで受け入れられるまで頑張りなさいとはおっしゃっていないのです。神の言葉は無理矢理に説得して受け入れられるものではないからです。さきほど申しました牧師のたとえで言えば、コンピュータがフリーズしている状態ですから、それは神によってリセットしていただくしかないのです。

 私たちは今日、神に与えられた力と環境において、できる限りのことをなします。自分で神の御業を小さなものにすることなく、神ご自身が生き生きと働いてくださるように、私たちを整えていただきましょう。コンピュータのたとえ話で言えば、初めて月着陸をした宇宙船を導いていたのは、今日のパソコンよりももっと性能の悪い信頼性の低いコンピュータでした。信頼性が悪いものでしたから、三台のコンピュータで計算させて、すべての値が一致しないときは、多数決で二台の結果が一致していればそれで決定していたそうです。主イエスは弟子たちを二人一組で宣教に送り出されました。これは助け合えということです。人間一人の働きは小さなものだということです。しかし助け合えば、かつてのちっぽけなコンピュータを使って月にまで行ったように、私たちはどこまでもいくことができるのです。推進エネルギーは主イエスが与えてくださるのです。私たちはただイエス・キリストによって力を与えられ、未来に向かって、驚くような遠いところまで導かれます。