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大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2014年5月4日マタイによる福音書3:13-17

2014-06-13 16:49:24 | マタイによる福音書

2014年5月4日マタイによる福音書3:13-17
大阪東教会 2014年5月4日主日礼拝説教
マタイによる福音書3章13~17節
「祝福が降りそそぐ」    吉浦玲子伝道師

  ここにはまだ洗礼を受けておられない方もありますが、今日は洗礼というものについて少し考えてみたいと思います。宗教改革者で偉大な信仰者であったルターですが、ルターといえども、その人生の中にあって信仰が揺らぐときはあったようです。もうだめだ、と信仰が崩れ去るように思える時もあったようです。そのような危機の時、彼を支えたのは「自分は洗礼を受けたのだ」ということであったそうです。苦難の中にある時、自分の信仰が崩れてしまいそうな時、ルターはノートに「わたしは洗礼を受けた」という言葉を何度も何度も書いたといいます。

  わたしたちからみたら偉大な信仰者であったルターですが、そのルターでも自分自身の信仰に自信がもてず、揺れている時、それでも、ただひとつ確実なこととして「自分は確かに洗礼を受けたのだ」という事実があるとルターはいうのです。もちろん洗礼というのは、洗礼という儀式を受けることによって、呪術的な魔法のような力が働くわけではありません。洗礼をさずける牧師の言葉に特別な力があるわけではありません。

  しかし、それでありながらなお、洗礼とは決定的な神の恵みが与えられる出来事です。現実的には、自分でキリスト教のことを知り、学び、信仰告白して洗礼式に臨んだ、自分の意思で洗礼を受けた、そうであっても、実は洗礼というのは決定的に受け身の出来事なのです。一方的な神の恵みの出来事なのです。わたしたちが自分でキリスト教の教理を正確に理解をした、その対価として洗礼を授かるわけではありません。ただただ神の恵みであり、聖霊の働きなのです。

 その決定的な恵みの出来事を自分はたしかに経験した。そこにただひとつの確実なものがある、そうルターは考えたのです。自分の力で手に入れたものであるなら、まぐれってこともあるでしょう。その力はやがて衰えることもあるでしょう。そうではなく神の一方的な恵みとしてただ一度洗礼を受けた、そのことこそが信仰の唯一の確信である、そうルターは考えたのです。

  さて、今日は、マタイによる福音書のなかで、主イエスがご自身の意思で活動を開始された最初の場面となります。そこで主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を授かられます。

  先週、わたしたちが救われるために、天の国に入るためには、悔い改めないといけないと申しました。悔い改めとは、神様の方を向くことだと申しました。洗礼者ヨハネの洗礼はまさに当時の人々が悔い改めたしるし、神様の方を向いたしるしとしての洗礼でした。

  しかし、天の国に入るためにはわたしたちが悔い改めるだけでは十分ではありません。ヨハネの洗礼だけでは不十分なのです。神様の方を向いた私たちは、神様ご自身から罪をゆるしていただかないといけないのです。ヨハネの水の洗礼は神様の方を向いた、つまり悔い改めたしるしではありますが、それだけでは罪は許されず、救いにも至りません。ヨハネは偉大な預言者ではありましたが、人間です。人間には人間の罪を赦すことはできません。ですからヨハネは、自分の後から自分より偉大な方が来ると言っていました。あとから来る方は「聖霊と火で洗礼を授けられる」とヨハネは言いましたが、まさにその聖霊と火の洗礼によってこそ、罪が赦され、救いへと至る、神の国へ入るものとされるのです。

  今日の聖書箇所はそのヨハネの洗礼を、「あとから来られる偉大な方そのもの」であった主イエスが受けられるという場面です。

  ヨハネはヨルダン川のところまで主イエスがこられたとき、<この方こそ自分の後から来られる偉大な方だ>とわかったんでしょう。ヨハネにしてみれば、むしろ自分の方がこの方から洗礼を授けて頂きたいと思ったのは当然でしょう。

  「ヨハネは、それを思いとどまらせようとしていった「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」」

  ヨハネの言うことはある意味もっともです。主イエスこそ、神から遣わされた神の御子ですから、罪を赦す洗礼を授けるのは主イエスのほうであると考えるのが当然です。

  しかしイエスはお答えになります。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」

  今は、とめないでほしい、とおっしゃる言葉の中の「今は」という「今」は、まだ主イエスの十字架と復活による救いの業が成就されていない「今」です。洗礼者ヨハネはこのときはまだ、主イエスがこれからどのような救いの業のなさるのか、そのためにどのような歩みのなさるのか知りませんでした。主イエスは、これから公の神の国の宣教生活にはいられますが、その道は十字架への道でした。その道がまっとうされたとき、罪の赦しの業は成就するのです、その十字架への歩みをまっとうすること、それが主イエスがここでおっしゃっている「正しいことをすべて行うこと」です。

  しかし尚不思議です。十字架への道を歩まれる主イエスがなぜわざわざ洗礼を授かる必要があったのか、やはりそれだけではわかりかねます。

  しかし、それはわたしたちのためでした。主イエスはヨルダン川での洗礼をうけたのち、<正しいこと>をすべて行われ、十字架による救いの業を成就されたのち、マタイによる福音書28:19「だからあなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」と言われます。救いの業が成就されたとき、まさに洗礼者ヨハネがいっていた聖霊と火による洗礼が実現したのです。そして主イエスは弟子たちへ「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言われています。すべての人たちが父と子と聖霊の名によって洗礼をうけ、救いにあずかるように、すべての人が洗礼を受けるようにと主はおっしゃいました。その洗礼ということを主イエスは、ご自身の公の宣教生活の最初において、先取りしてご自身の身を持ってお示しになったのです。私たち自身の、神と共にあるあたらしい生活の第一歩が洗礼から始まったように、主イエスご自身の宣教活動も洗礼によってお始めになったのです。わたしたちと同じような者となってくださり、洗礼をお受けになってくださった。罪びとであるわたしたちと同じ立場になってくださったのです。

  主イエスが洗礼を受けられ、水から上がると「天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降ってくるのをご覧になった」とあります。

 さいしょに洗礼をうけたからといって何か特別なことがおこるわけではないといいました。肉体的に、また物理的にはそうです。しかし、実際に天は開けるのです。それは主イエスの洗礼だけではなく、わたしたちひとりひとりの洗礼においてもそうだったのです。天が開ける、まさに天の国の扉がわたしたちに向かって開いたのです。神の恵みによって洗礼を受ける者は救われるのです。実はわたしは天が開いたのを目撃しました。というと変な話ですが・・・。

  わたしがある教会で役員をさせていただいていましたときのことです。その教会ではだいたい年に数名の受洗者が与えられていました。役員としてわたしが洗礼式のサポートを初めてさせていただいたときのこと、はじめてのことでわたしはたいへん緊張していました。礼拝の中で洗礼式が近付いてくると、幾たびも頭の中で<受洗される方がひざまづくときのひざあてを、このタイミングでさしだして>、とか<洗礼盤をこうもって牧師の横に立って>・・とかいろいろ緊張しつつ頭の中で反復しながら、受洗される方方と並んで座っていました。いよいよ洗礼式が始まり、牧師が、おそらく教団の式文の序詞の、はじめの言葉を読み始めた時、「あ、天が開けた」ってわたしは思いました。本当にそう感じたんです。別に会堂の天井に穴があいて光が差し込んできたわけではありません。うまくいえませんが、でも、いままさに、天の国の扉が開いたって思ったのです。現実に光は指してきていませんが、いま恵みの光が上からさーっと射しているいると感じました。まさに鳩のように霊が降ってきている、そう感じました。ぱっと聞くと怪しげに思われるかもしれません。しかし洗礼を授かるってこういうことなんだ、とその時思いました。

  実際、すべての人が洗礼をさずかったとき、天は開いたんです。皆さんの上に救いの光が差し込んできたのです。鳩のように霊が降って来たのです。ルターが洗礼を受けた、それだけが自分の支えだと語るような奇跡が起こったのです。まだ洗礼を受けておられない方が洗礼をおうけになるときもそうです。天が開け、光がさし、霊が降り注がれます。

  そして今日の聖書箇所で言いますと、その天が開けたのち「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえます。これは、イエスさまだから、神様がおっしゃったのでしょうか。もちろん、そうです。でも、イエスさまはさきほどもいいましたように、ご自身が洗礼をさずかられたのは、自分ののちに生きる弟子たちに手本を示すためでした。主イエスを信じて救い主と受け入れて、主イエスを手本として洗礼を授かる者にも、やはり同じように天の声はいうのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。

  主イエスに従い、主イエスと共に歩く時、わたしたちもまた神に愛される神の子とされるのです。神の心に適う者とされるのです。主イエスのゆえに、わたしたちは、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神に言っていただけるのです。そんな祝福がわたしたちにも注がれるのです。 

 しかし洗礼をさずかったのち、わたしたちはやはり罪を犯します。神を悲しませることを幾度も行います。だからといって、じゃあそんなあなたをわたしはもう愛さないとはおっしゃらないのです。そんな罪を犯したあなたは、もう今日からわたしの心に適わないとはおっしゃらないのです。

  ひとたび主イエスを救い主を受け入れ、主イエスを手本として洗礼を授かったのちは、その人のことを、神は変わらず「愛する子」としてくださり、「心に適うもの」といってくださるのです。罪にまみれた私たちを、なお父と子と聖霊の名によって洗礼を授かったものとして、丸ごと、責任を負ってくださる、すでにその責任を十字架によって取ってくださったいるそれが神の救いの業です。そのことのゆえにわたしたちは神の「愛する子」であり、「心に適うもの」です。そのことは永遠に揺るぎないことです。わたしたちのほうが、わたしなんてもう神様から愛されるに値しない、神様の心には到底適わないと思っていても、神の目からは違います。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」です。

  ですから、現在、洗礼を授かっておられない方が、いつの日かその恵みにあずかれますようにと祈ります。天が開け、神の祝福が降りそそぐ恵みにあずかっていただけますように。神様が良き時を備えてくださいますよう祈ります。ただし、いま洗礼をうけておられないことを負い目のようにお感じにはなられませんように。お一人お一人の上に、神の道が必ず備えられています。そしてすでに洗礼を受けている方々は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の祝福が片時も離れることのないことを覚えてください。そしていっそう神へ感謝をしつつ日々を過ごしていただきたいと思います。

 


2014年4月27日マタイによる福音書3:1-12

2014-06-12 18:43:51 | マタイによる福音書

大阪東教会 2014年4月27日主日礼拝説教
マタイによる福音書3章1~12節
「すぐそこにある天の国」    吉浦玲子伝道師

 わたしたちは先週、イースターの礼拝をお捧げし、主イエスのご復活を祝いました。2000年前の最初のイースターからのちの世界、つまり、主イエ・キリストの十字架の業によってわたしたちの罪の赦しが成就したのちの世界に生きているわたしたちにとって、罪による裁きとか罰というと何か遠いことのように感じられないでしょうか?主イエス到来前の旧約の時代の怖いことのように感じられませんか?
 それに対して、今日の聖書箇所では、たいへん厳しい言葉が連なっています。最後に火で焼き払われるというような脅しの言葉までありますが、これは悔いあらめない人への言葉です。
 この言葉を聞いて、わたしは関係ないと思われるでしょうか。なんとなくむずむずするような、あるいは不安にかられるような気がしますでしょうか。
 気をつけないといけないのは、聖書のこのような箇所を間違って読みますと、恐ろしい終末観によって恐怖を与えて、信じさせるある種のカルト信仰のようなことになってしまうということです。むかしありました、ハルマゲドンが来るといって恐怖を与えていた宗教団体が。そのようなことにならないように気をつけながら聖書を追っていきたいと思います。

 主イエスの先行者として洗礼者ヨハネが現れて「悔い改めよ。神の国は近づいた。」と言ったとあります。ヨハネは新約におけるエリヤであると言われます。のちほど、その服装や生活の様子が描かれていますが、それはまさに預言者エリヤを思わせるものです。しかし預言者でありながら、預言の内容は旧約の預言者たちと少し異なるのです。旧約の預言者、多くの場合、国家の破たんといった悪いことがおこることを知らせました。もちろん、究極的な救いについても知らせましたが、それは未来のこととして知らせたのです。
 しかしヨハネは「天の国は近づいた」と言っています。遠い将来のことではなくすぐそこに天の国がきている、と言っているのです。天の国とは神の国であり、救いのことです。旧約の預言者の天の国、あるいは救いは、未来のことでした。しかしそうではない、この箇所の英語の訳では、be at hand。手のうちにある、というんです。
 そして天の国が近づいたんだから、みんなで喜び祝いなさいと言ったかというとそうではないのです。「悔い改めよ」です。
 天の国に入るためには悔い改めないといけないのです。
 勘違いしていけないのは、わたしたちがしっかり反省したり、立派な人間になったり、やくざではないですが真人間になったら天の国に入れるのかというと違います。そうなるとわたしたちの行為や努力が重要になります。
 そうではない。
 教会に長く来られている方はお聞きになったことがあるかと思いますが、悔い改め、回心と言いますが、それは自分の向きをかえる、回心の回の字は回るです。心を回す。すなわち心を神様の方へ向ける、ということです。
 天の国がすぐそこまで来ている、神様がたくさんの祝福、プレゼントを渡そうとしている、そちらのほうに顔を向けなければ、その恵みにはあずかれないということです。せっかく目と鼻の先に天の国が来ている、それを見ようともしなければ、恵みはないということです。
 民数記21章に、罪を犯した民が主から送られた炎の蛇にかまれて多くの死者がでたという場面があります。そのとき、モーセは民のために主に祈ると、青銅でできた蛇を掲げなさいと言われました。その青銅の蛇を旗竿につけて掲げると、その青銅の蛇を見上げた人は蛇にかまれても死ぬことはなかったとあります。蛇にかまれて苦しんでいた人々は、そこで特別な行為をする必要はなく、ただ蛇を見上げれば助かったんです。
 それと同じように、神の方を見上げよ、とヨハネは言っています。
 しかし、青銅の蛇を見あげるだけのようなことでありながら、実際、悔い改めは難しいのです。ここではファリサイ派やサドカイ派の人々へヨハネが厳しい言葉を放っています。彼らもヨハネのところに洗礼を受けにきたのですが、ヨハネには、本当に心から悔い改めているとは思えなかったのでしょう。ファリサイ派やサドカイ派は悔い改めの必要も感じていなかったのでしょう。自分たちはそのままで天の国に入れると思っていたんです。アブラハムの子孫である、律法を良く知っていて、神の民の支配者である自分たちが救いから漏れるはずはないと思っていた。
 しかしそうではない、悔い改めはすべての人に必要なのです。悔い改めないとどうなるか、それは端的に言うと、終わりの日に裁かれるということです。最初に申しました火で焼き払われるということになります。わたしたちが罪赦されて、救われる、ということと、裁きというのは背中合わせのことです。イエスさまは世を裁くためではなく救うために来られた、というのは確かにその通りです。それは主イエスご自身が裁きの権能をもっておられるから、そうおっしゃることができるのです。しかしまた、裁きはなくなったとはおっしゃっていないのです。来るべき裁きにおいて、わたしたちが裁かれないように救ってくださった。
 わたしたちは主イエスを救い主として受け入れた時、たしかに神のほうへ目を向けました。悔い改めました。それからの日々はどうでしょうか。
 折々に自分中心になっていないでしょうか。神から目をそらしていないでしょうか。日々悔い改めているでしょうか。
 さきほど悔い改めは青銅の蛇を見上げるように簡単なことといったことと矛盾するのですが、悔い改めは簡単であって難しいのです。ファリサイ派でなくても、悔い改めは難しいものです。
 たとえばわたしはいのしし年でして、そのせいかわかりませんが、猪突猛進といいますか、けっこう、やりだすと走り出す方です。けっして根はまじめな人間ではないのですが、やりだすと一生懸命やってしまうところがあります。根はまじめではないので、肝心なところでさぼったりするのですけど。ひとまずは一生懸命やるんです。でもこの一生懸命というのは曲者です。
 一生懸命の中には、一生懸命になっている自分にこだわる性質があります。自分が一生懸命やっている、と思う時、それはだんだんと自己満足になっていくんです。自分ではそんなつもりはないんですけど。とにかく一生懸命やってるんだからいいでしょう?という言いわけにもなっていく。
 そうしてるうちに神様から知らないうちに離れていきます。神様より、一生懸命やっている自分が中心になってしまう。そうなると周りとの関係もうまくいかなくなります。自分は一生懸命やっている、なのにあの人はなんなんだ?と思います。
 むかし教会の奉仕のことで、まあ私は一生懸命やっていたんですけど、今思うと、多くの人を傷つけたと思います。こちらは一生懸命であれをこうしたら良い、あれもこんなふうにしない、とガンガンやっていました。他の方はそれがプレッシャーではなかったかと思います。特に気の弱い方はけっこうわたしのことを怖がっておられたと思います。ある先輩からは「あなたの奉仕の仕方には喜びがない。喜びのない奉仕なんてやめなさい」って叱られました。でも、わたしがやらないで誰がやるんだという勢いでやっていました。自分が神から離れていることに気付けなかった、悔い改められなかったんです。
 そしてその勢いで、ある時、ある方に対して、奉仕のことに関して批判的なことを言ってしまいました。言った内容自体はけっして筋の通らないことではなかったんです。無茶苦茶厳しい物言いをしたとも思えなかったんです。でもやはり言い方に配慮がなかったんです。自分に一生懸命で余裕がなかった。つまり相手への愛がなかった。厳しいことであっても愛があれば、相手に通じますが、そのときは通じなかった。その方はずいぶん傷つかれました。涙を流されました。今思っても、胸の痛むことでした。
 自分は自分の一生懸命を振りかざしていて、神様の方を見ていなかったんです。自分の一生懸命を盾にして戦っていた。信仰を盾にはしていなかったんです。
 自分の正義を振りかざしていたファリサイ派と変わりません。
 しかし、どなたもそれぞれの性格や生活状況において違いはありますけど、それぞれに神様から目をそらす危機があります。主イエスはふたたび来られます。その時、私たちは、主イエスから目をそらしていないようにしないといけません。日々悔い改めて生きていかないといけません。

 洗礼者ヨハネは来るべきイエスの到来に備えて悔い改めを促す先見者でした。水で洗礼を授ける人でした。しかしあとから来られるイエスはもっと偉大な方だ、と言います。そうです、あとから来られる方は神ですからもちろん偉大です。聖霊と火で洗礼を授ける方です。ここに恐ろしい裁き人のイメージがあります。ヨハネはひょっとしたら、来るべきイエスをそういうイメージを持っていたかもしれません。しかし、実際は主イエスはみずからご自身が代わりに裁かれる方としてやってこられました。みずからが裁きの火を受けられ、つまり十字架にかかり裁かれ、わたしたちに聖霊を授けられた。そして教会を作られた。

 ですから、わたしたちは手に箕をもって来る方に怯える必要はないのです。ペンテコステに聖霊を与えられた教会につながり、また日々、悔いあらめながら生きていく時、主がふたたび来られる日は喜びとなります。もちろん悔い改めきれない、そんなこともあるでしょう。自分では気がつかず犯している罪もあるでしょう。それらのこともすべて祈りの内に主に委ねていくとき、主イエスご自身がわたしたちに悔い改めるべきことを示してくださいます。そしてそのような日々を過ごしながら、終わりの日に裁きを座をしっかり見上げましょう。
 


2014年4月20日ルカによる福音書24章13~35節

2014-06-12 18:25:03 | ルカによる福音書

大阪東教会 2014年4月20日主日礼拝説教(イースター礼拝)

ルカによる福音書24章13~35節

「心を燃やして」    吉浦玲子伝道師

 今日の聖書箇所では「暗い顔」をしている人が出てきます。
 わたしも小さいころから20代くらいまでの時期、「暗い」ってよく言われました。あまり明るい顔はしていなかったんです。むかし、ネクラという言葉がはやっていましたけど、その「ネクラ」でした。ただ社会生活をしていて、「ネクラ」というレッテル付けされると、社会人としてやりにくいので、ある時期から、職場で仕事するときとか、人と接するときは、出来る限り明るくしてました。が、心の底は、ずっと「ネクラ」でした。

 逆にですね、本当のところは、なんでこんなこの世の中に生きていて、明るくしてられるのか良く分からなかったのです。太陽に向かってすくすく育ってニコニコしてる人なんて、ちょっとこの人おかしいんではないかと思っていました。自分の方がおかしかったんですけど。
 では、なぜ人間は暗くなるのでしょうか。それは端的に言って、「希望が見いだせないから」ではないでしょうか。挫折した時、不幸な出来事に遭遇した時、私たちは当然暗くなります。痛みや傷の大きさによって、またその痛みや傷の種類によって、そこからの回復の時間は変わります。しかし、なかなか回復できない暗さというのもあります。つきつめて考えると未来に希望が持てないと感じる時、現在は特に不幸ではなくても暗くなるでしょう。せめて若くて健康であれば、まだ将来に希望を見いだせるかもしれません。でも現代においては若年層でも希望は持ちにくいようです。仮に希望を見出したとしても、その希望は突き詰めていけば、やがて死、この地上における命の終わりによって絶たれます。

 今日の聖書箇所に出てくる暗い顔をした人たちも、希望を失っていました。でも彼らは主イエスの復活の出来事をすでに聞いているんです。主イエスはよみがえられた。それを聞きながら、暗い顔をしている。さらには復活された主イエスご自身と話をしているんです。それなのに彼らは暗い顔をしていました。なぜでしょうか?なぜなのかご一緒に読んでいきたいと思います。

 今日の聖書箇所の少し前、24章の最初のところになりますが、週のはじめの日に主イエスの墓にいった婦人たちが主イエスの遺体のないことに気付きました。そして天使たちと出会いました。天使は主イエスの復活の出来事を伝えました。その天使が語った復活の出来事を9節で婦人たちは「11人とほかの人皆に一部始終を知らせた」とあります。
 この「暗い顔」をしている人たちは、婦人たちから一部始終を聞いた人たちのメンバーです。新共同訳ではわかりにくいですが、13節の二人の弟子が、というのは話を聞いた彼らの内の二人ということで、12節から継続した物語になっています。
 彼らは復活の出来事を信じられなかったのです。主イエスが死んでしまい希望を絶たれた状態で暗い顔をして、おそらく彼らの家があったエマオへと向かっていました。60スタティオンというのは1スタディオンが185mですからだいたい11キロくらいの距離です。その道を歩きながら二人は一切の出来事を話しあい論じ合っていたのです。当然、主イエスの十字架の死について話し合っていたのでしょう。堂々巡りの結論の出ない、実りのない議論だったことでしょう。
 そこにイエスご自身が近づいてきて一緒に歩き始められた、とあります。すっと近づいてこられたんですね。そして一緒に歩いてくださった。でも弟子達にはイエスさまだと分からないんです。不思議な場面です。似たような場面がヨハネによる福音書の20章14節にあります。復活のイエスご自身と出会ったマグダラのマリアもまた、目の前におられるのが主イエスだとわからないのです。
 ここで間違ってはいけないのですが、主イエスの復活という時、主イエスは肉体をもって復活されたということです。復活の出来事を、主イエスが弟子たちの心の中によみがえったとか、主イエスの教えを守る時、主イエスが私たちと共にいるというような精神論で理解するのは間違いです。主イエスは身体を伴って復活されたのです。
 にもかかわらず、この暗い顔をした弟子達も、マグダラのマリアも、最初、復活の主イエスをイエスさまであると認識できなかったのです。さきほど申しましたように、復活の主イエスと出会うことは、肉体をもった主イエスと出会うことです。しかし、その体は見えても、信仰を伴わないと、そこにまさに神である主イエスがおられることを認識できないのだということを示しています。復活は精神論ではないと言いながら、信仰を伴わないと認識できないということは、矛盾しているように感じられるかも知れません。しかし、これは矛盾ではありません。もう少し聖書を読んでいきたいと思います。

 18節から彼らは主イエスご自身にエルサレムで起こった出来事を話します。そしてその話の中でわかることは、19節に「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした」つまり彼らは、イエスさまが特別な人、力ある人であることは理解していたんです。また、21節に「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」ともあります。つまり、他の弟子たち同様、彼らも、主イエスがローマに支配されていたイスラエルを解放してくれると期待していたんです。でも、これは厳しい言い方をしたら、彼らの勝手な希望だったんです。主イエスご自身は一度も、自分が政治的な意味で王になるとかローマを倒すなんてことはおっしゃってはおられなかったのですから。
 そしてまた彼らは復活の出来事についても語ります。イエスの遺体が見つからなかったこと、婦人たちに天使が現れたことなどを語るのです。
 その言葉を聞いて、主イエスはおっしゃいます。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」
 「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く」この暗い顔していた弟子たちは、もちろん、まだ主イエスが見えていないのですから、たしかに物分かりが悪く、心が鈍いと言えます。ただここで救いがあるのは、彼らのことを、主イエスは信仰のない人たち、とは言われなかったんです。信仰のない、箸にも棒にもかからないとは言われなかった。
 彼らに主イエスは聖書、ここでいう聖書は旧約聖書ですが、そこから説明を始められた。主イエスご自身が聖書研究会をしてくださっているというのはすごいことです。その話を聞きながら、彼らの心が少しずつ変化していったと思われます。彼らの光を失っていた目に輝きが戻り、表情にも生気が戻って来たのではないかと思います。少しずつ、彼らは明るさを取り戻していきます。

 彼らは、主イエスに共に泊ってくださいと申し出ます。そしてそこでの食事の席で、主イエスがパンを裂いたとき、二人の目が開け、イエスだと分かったとあります。この食事の場面も不思議なのです。ほんとうは主イエスは客人なのですから、食事の提供を受ける側です。しかし、むしろ主イエスは主人のようにふるまっておられる。テーブルマスターとしてパンを裂かれたのです。
 このパンを裂いた、というのは、聖餐を暗示しています。さらに前の箇所に戻れば、二人の弟子に聖書を主イエスが教えられている場面は説教を示していると言えます。
 「物分かりが悪く、心の鈍かった」弟子たちに、主ご自身が聖書を語り、そして聖餐の食卓についてくださった、そして彼らの目は開かれたのです。真の信仰が与えらてその目が開かれたのです。
 今日、教会において、私たちは礼拝をお捧げして、説教を聞き、また聖餐にあずかります。その原型が今日の聖書箇所に記されていると言えます。主イエスご自身が説教をされて、聖餐を執行してくださった・・・なんと贅沢な礼拝!、2000年前は良かったなあと思われるかもしれません。
 しかし、今日、たとえば、説教をしているのは主イエスではなく、この補教師であるわたしであり、来月、聖餐を執行してくださるのは千里丘に住んでおられる隠退牧師です。しかしながら、やはり説教者や聖餐執行者は、主イエスご自身ではなくても、この礼拝の場には主イエスがおられます。
 私たちが物分かりがよくて、心が鋭ければ、それがわかるのです。もちろん、目に見えるというわけではありません。それは信仰において認識するのです。さきほども申しました復活の主を見るには信仰が必要といいましたが、それと同じです。そう言われても、と、なにか煙に巻かれたような気がなさるでしょうか。

 ところで、ペトロの手紙Ⅰの1章8節に「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」とあります。この言葉はペトロ喜びと驚きに満ちたものです。わたしたちは主イエスを肉眼でこの目で見ることはできません。しかしなお、主イエスがいまここにおられることを理解し、感じることはできます。
 物分かりが悪くて、心の鈍かった二人の弟子が、主イエスだと分かった瞬間、主イエスの姿は見えなくなったとあります。もう見える必要はなくなったからです。彼らははっきりと主イエスの十字架の贖いの業、復活のことがわかったのです。まことの信仰を得たのです。だから彼らはいつまでもの肉眼で主イエスを見ている必要はなくなったのです。彼らはイエスの弟子としてずっと行動を共にしていたのです。肉眼で主イエスを見ていたのです。でもそのときには本当のイエスの姿を理解することはできなかった。自分たちの都合の良いヒーロー、勝手に祭り上げた救い主として理解していのです。でも今は違います。本当のイエスの姿が見えたのです。死を乗り越えて、永遠の希望を与えてくださる方であることがわかったのです。それがわかった瞬間、肉眼で主イエスを見る必要はなくなったのです。
 そして彼らは言います。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」
 この燃えるというのはぼうぼうと激しく燃えるというのではなく、しずかに、しかし確実に燃えている状態です。今日、もう一か所お読みした聖書箇所に有名な聖句があります。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく(イザヤ書 42章1~4節)」という言葉です。弟子たちは、たしかに物分かりが悪く、心が鈍かった、しかし、そのような弟子達を主イエスは、神は、見捨てられたわけではないのです。箸にも棒にもかからない、不信仰ものとして切り捨てはなさらなかったのです。その希望を失って傷ついていた心を癒し、暗くかききえそうになっていた灯りをともしてくださったのです。柔らかな、あたたかい火、そしてけっして消えることのない火を彼らの心にともしてくださった。永遠へつながる火をともしてくださったのです。

 わたしたちもまた、主イエスによって、心に火をともされたものです。いま教会に皆さんは招かれてきている。ですから、すでに火をともされているのです。心を燃やされているのです。
 しかしなお、わたしたちは折々に「物分かりが悪く、心が鈍く」なります。そして暗い顔をします。消えない火をあたえていただいていても、この地上で生きる時わたしたちは、時に、物分かりが悪く、心が鈍くなります。そのようなわたしたちに、そっと主イエスは近づいてこられます。エマオへの道で弟子たちにさりげなく近づいてこられたように。私たちにはその時、それが主イエスとはわからないかもしれません。それは友人の顔をしていたり、偶然出会った人の顔をしているかもしれません。そのような人間を用いて主イエスは語られます。
 そしてその言葉は、やがて聖書の言葉になります。みことばになります。わたしたちはなにより礼拝において主イエスと出会い、言葉を聞きます。そこからわたしたちは力を得ていきます。心を燃やされます。今日はイースターです。心を燃やされたわたしたちには、いまここにおられる主イエスを感じることができます。その主と共にこのイースターを祝いたいと思います。