2014年5月4日マタイによる福音書3:13-17
大阪東教会 2014年5月4日主日礼拝説教
マタイによる福音書3章13~17節
「祝福が降りそそぐ」 吉浦玲子伝道師
ここにはまだ洗礼を受けておられない方もありますが、今日は洗礼というものについて少し考えてみたいと思います。宗教改革者で偉大な信仰者であったルターですが、ルターといえども、その人生の中にあって信仰が揺らぐときはあったようです。もうだめだ、と信仰が崩れ去るように思える時もあったようです。そのような危機の時、彼を支えたのは「自分は洗礼を受けたのだ」ということであったそうです。苦難の中にある時、自分の信仰が崩れてしまいそうな時、ルターはノートに「わたしは洗礼を受けた」という言葉を何度も何度も書いたといいます。
わたしたちからみたら偉大な信仰者であったルターですが、そのルターでも自分自身の信仰に自信がもてず、揺れている時、それでも、ただひとつ確実なこととして「自分は確かに洗礼を受けたのだ」という事実があるとルターはいうのです。もちろん洗礼というのは、洗礼という儀式を受けることによって、呪術的な魔法のような力が働くわけではありません。洗礼をさずける牧師の言葉に特別な力があるわけではありません。
しかし、それでありながらなお、洗礼とは決定的な神の恵みが与えられる出来事です。現実的には、自分でキリスト教のことを知り、学び、信仰告白して洗礼式に臨んだ、自分の意思で洗礼を受けた、そうであっても、実は洗礼というのは決定的に受け身の出来事なのです。一方的な神の恵みの出来事なのです。わたしたちが自分でキリスト教の教理を正確に理解をした、その対価として洗礼を授かるわけではありません。ただただ神の恵みであり、聖霊の働きなのです。
その決定的な恵みの出来事を自分はたしかに経験した。そこにただひとつの確実なものがある、そうルターは考えたのです。自分の力で手に入れたものであるなら、まぐれってこともあるでしょう。その力はやがて衰えることもあるでしょう。そうではなく神の一方的な恵みとしてただ一度洗礼を受けた、そのことこそが信仰の唯一の確信である、そうルターは考えたのです。
さて、今日は、マタイによる福音書のなかで、主イエスがご自身の意思で活動を開始された最初の場面となります。そこで主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を授かられます。
先週、わたしたちが救われるために、天の国に入るためには、悔い改めないといけないと申しました。悔い改めとは、神様の方を向くことだと申しました。洗礼者ヨハネの洗礼はまさに当時の人々が悔い改めたしるし、神様の方を向いたしるしとしての洗礼でした。
しかし、天の国に入るためにはわたしたちが悔い改めるだけでは十分ではありません。ヨハネの洗礼だけでは不十分なのです。神様の方を向いた私たちは、神様ご自身から罪をゆるしていただかないといけないのです。ヨハネの水の洗礼は神様の方を向いた、つまり悔い改めたしるしではありますが、それだけでは罪は許されず、救いにも至りません。ヨハネは偉大な預言者ではありましたが、人間です。人間には人間の罪を赦すことはできません。ですからヨハネは、自分の後から自分より偉大な方が来ると言っていました。あとから来る方は「聖霊と火で洗礼を授けられる」とヨハネは言いましたが、まさにその聖霊と火の洗礼によってこそ、罪が赦され、救いへと至る、神の国へ入るものとされるのです。
今日の聖書箇所はそのヨハネの洗礼を、「あとから来られる偉大な方そのもの」であった主イエスが受けられるという場面です。
ヨハネはヨルダン川のところまで主イエスがこられたとき、<この方こそ自分の後から来られる偉大な方だ>とわかったんでしょう。ヨハネにしてみれば、むしろ自分の方がこの方から洗礼を授けて頂きたいと思ったのは当然でしょう。
「ヨハネは、それを思いとどまらせようとしていった「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」」
ヨハネの言うことはある意味もっともです。主イエスこそ、神から遣わされた神の御子ですから、罪を赦す洗礼を授けるのは主イエスのほうであると考えるのが当然です。
しかしイエスはお答えになります。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
今は、とめないでほしい、とおっしゃる言葉の中の「今は」という「今」は、まだ主イエスの十字架と復活による救いの業が成就されていない「今」です。洗礼者ヨハネはこのときはまだ、主イエスがこれからどのような救いの業のなさるのか、そのためにどのような歩みのなさるのか知りませんでした。主イエスは、これから公の神の国の宣教生活にはいられますが、その道は十字架への道でした。その道がまっとうされたとき、罪の赦しの業は成就するのです、その十字架への歩みをまっとうすること、それが主イエスがここでおっしゃっている「正しいことをすべて行うこと」です。
しかし尚不思議です。十字架への道を歩まれる主イエスがなぜわざわざ洗礼を授かる必要があったのか、やはりそれだけではわかりかねます。
しかし、それはわたしたちのためでした。主イエスはヨルダン川での洗礼をうけたのち、<正しいこと>をすべて行われ、十字架による救いの業を成就されたのち、マタイによる福音書28:19「だからあなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」と言われます。救いの業が成就されたとき、まさに洗礼者ヨハネがいっていた聖霊と火による洗礼が実現したのです。そして主イエスは弟子たちへ「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言われています。すべての人たちが父と子と聖霊の名によって洗礼をうけ、救いにあずかるように、すべての人が洗礼を受けるようにと主はおっしゃいました。その洗礼ということを主イエスは、ご自身の公の宣教生活の最初において、先取りしてご自身の身を持ってお示しになったのです。私たち自身の、神と共にあるあたらしい生活の第一歩が洗礼から始まったように、主イエスご自身の宣教活動も洗礼によってお始めになったのです。わたしたちと同じような者となってくださり、洗礼をお受けになってくださった。罪びとであるわたしたちと同じ立場になってくださったのです。
主イエスが洗礼を受けられ、水から上がると「天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降ってくるのをご覧になった」とあります。
さいしょに洗礼をうけたからといって何か特別なことがおこるわけではないといいました。肉体的に、また物理的にはそうです。しかし、実際に天は開けるのです。それは主イエスの洗礼だけではなく、わたしたちひとりひとりの洗礼においてもそうだったのです。天が開ける、まさに天の国の扉がわたしたちに向かって開いたのです。神の恵みによって洗礼を受ける者は救われるのです。実はわたしは天が開いたのを目撃しました。というと変な話ですが・・・。
わたしがある教会で役員をさせていただいていましたときのことです。その教会ではだいたい年に数名の受洗者が与えられていました。役員としてわたしが洗礼式のサポートを初めてさせていただいたときのこと、はじめてのことでわたしはたいへん緊張していました。礼拝の中で洗礼式が近付いてくると、幾たびも頭の中で<受洗される方がひざまづくときのひざあてを、このタイミングでさしだして>、とか<洗礼盤をこうもって牧師の横に立って>・・とかいろいろ緊張しつつ頭の中で反復しながら、受洗される方方と並んで座っていました。いよいよ洗礼式が始まり、牧師が、おそらく教団の式文の序詞の、はじめの言葉を読み始めた時、「あ、天が開けた」ってわたしは思いました。本当にそう感じたんです。別に会堂の天井に穴があいて光が差し込んできたわけではありません。うまくいえませんが、でも、いままさに、天の国の扉が開いたって思ったのです。現実に光は指してきていませんが、いま恵みの光が上からさーっと射しているいると感じました。まさに鳩のように霊が降ってきている、そう感じました。ぱっと聞くと怪しげに思われるかもしれません。しかし洗礼を授かるってこういうことなんだ、とその時思いました。
実際、すべての人が洗礼をさずかったとき、天は開いたんです。皆さんの上に救いの光が差し込んできたのです。鳩のように霊が降って来たのです。ルターが洗礼を受けた、それだけが自分の支えだと語るような奇跡が起こったのです。まだ洗礼を受けておられない方が洗礼をおうけになるときもそうです。天が開け、光がさし、霊が降り注がれます。
そして今日の聖書箇所で言いますと、その天が開けたのち「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえます。これは、イエスさまだから、神様がおっしゃったのでしょうか。もちろん、そうです。でも、イエスさまはさきほどもいいましたように、ご自身が洗礼をさずかられたのは、自分ののちに生きる弟子たちに手本を示すためでした。主イエスを信じて救い主と受け入れて、主イエスを手本として洗礼を授かる者にも、やはり同じように天の声はいうのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。
主イエスに従い、主イエスと共に歩く時、わたしたちもまた神に愛される神の子とされるのです。神の心に適う者とされるのです。主イエスのゆえに、わたしたちは、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神に言っていただけるのです。そんな祝福がわたしたちにも注がれるのです。
しかし洗礼をさずかったのち、わたしたちはやはり罪を犯します。神を悲しませることを幾度も行います。だからといって、じゃあそんなあなたをわたしはもう愛さないとはおっしゃらないのです。そんな罪を犯したあなたは、もう今日からわたしの心に適わないとはおっしゃらないのです。
ひとたび主イエスを救い主を受け入れ、主イエスを手本として洗礼を授かったのちは、その人のことを、神は変わらず「愛する子」としてくださり、「心に適うもの」といってくださるのです。罪にまみれた私たちを、なお父と子と聖霊の名によって洗礼を授かったものとして、丸ごと、責任を負ってくださる、すでにその責任を十字架によって取ってくださったいるそれが神の救いの業です。そのことのゆえにわたしたちは神の「愛する子」であり、「心に適うもの」です。そのことは永遠に揺るぎないことです。わたしたちのほうが、わたしなんてもう神様から愛されるに値しない、神様の心には到底適わないと思っていても、神の目からは違います。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」です。
ですから、現在、洗礼を授かっておられない方が、いつの日かその恵みにあずかれますようにと祈ります。天が開け、神の祝福が降りそそぐ恵みにあずかっていただけますように。神様が良き時を備えてくださいますよう祈ります。ただし、いま洗礼をうけておられないことを負い目のようにお感じにはなられませんように。お一人お一人の上に、神の道が必ず備えられています。そしてすでに洗礼を受けている方々は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の祝福が片時も離れることのないことを覚えてください。そしていっそう神へ感謝をしつつ日々を過ごしていただきたいと思います。