大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2014年6月1日マタイによる福音書4:18-22

2014-06-13 18:23:45 | マタイによる福音書

大阪東教会 2014年6月1日主日礼拝説教
マタイによる福音書4章18~22節
「あなたは何を捨てますか」    吉浦玲子伝道師

 今日の聖書箇所の主イエスのお言葉はただひとつ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」です。この言葉は、2000年前の4人の漁師たちだけに語られた言葉ではありません。いま会堂にいるわたしたちすべてが神によって「わたしについてきなさい」と声をかけられた者たちです。意識なさっていようとそうでなかろうと、わたしたちはすでに神に召され、「わたしのあとについてきなさい」といわれているのです。だからこそ、いま、わたしたちはここにいるのです。
 しかし、今日の聖書箇所を読んで、私自身がどうしてもひっかかるのが、呼ばれた漁師たちがすぐに網をすてて従った、というところです。また、舟と父親を残して従った、というところです。漁師にとって網を捨てること、あるいは舟を残す、この残すという言葉も捨てるという言葉と同じ意味なのですが、舟を捨てるというのは、生活のすべてを捨てるということに他なりません。それまでの生活の基盤をすべて放棄するということです。それもすぐに、です。何年かかけて準備をして、ということではないのです。
 私たちには私たちの生活があり、その生活基盤を根底から変えることは容易ではありませんし、もし、神がそのように何もかも捨てて自分に速やかに従うことを求められるのであれば、そんなことは到底できないという反発も覚えます。

 昔、ある牧師が自分が牧師になるために献身した時の話をなさいました。先生は、献身した当時、普通に会社に勤めておられたそうです。30代の半ばで、学校に行っているお子さんが三人おられた。ちょうど家も買って、3800万円のローンを抱えた直後のことだったそうです。さあこれからますますはりきって家族のために働くぞ、そんな家庭も仕事も充実した壮年期に入ったところでの、召命、牧師になれという神の召しだったそうです。でもその方は、その神の召しにしっかりと応えられました。
 また、昨年、大阪東教会に夏期伝道実習に来られたS神学生からも似たような話を聞きました。S神学生の同級生の話でした。その方は小さなお子さんを抱え、奨学金と借金でほそぼそと一家で生活をしながら神学校に通っておられるそうです。
 こういう話を聞くと、すごいなと思います。すべてを捨てて献身をする、本当にすごいことだと思います。わたし自身も会社を辞めて献身をしたものです。ある意味、それまでの生活すべてを変化させたともいえるのですが、わたしの場合は子供も大きかったですし、それなりに準備の期間もありました。だから今日の聖書箇所のペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネが、すぐさま、すべてを捨ててイエスさまに従った、そこを読むと、すごいなあとちょっとコンプレックスを感じます。お子さんを抱えて献身した方々を偉いなあと思います。
 でも、今日の聖書箇所は、ペトロはえらかったな、アンデレはえらかった、わたしたちも少しは見習いましょうね、というだけのお話しではありません。
 そもそも神は必要な時に必要な人を召されます、それは断固としてそうされます。伝道者としての献身という場合は特にそうです。
 神様がそう決めたらもうそうなってしまうんです。
 人間の側の覚悟の問題ではありません。人間には拒否することはできません。
 教会学校でお話しすることが多い物語にヨナ書のヨナの話があります。たいへん廃頽した大都会、罪に溢れた町ニネベにいって伝道しなさいという神の召しから逃げていくヨナの話です。海に放り出されて魚にのみこまれてしまうちょっとユーモラスなヨナの話は、物語としてもおもしろく、子供たちに話がしやすいところがあります。
 実際、そのヨナのように、わたしたちもほんとうに神から召しを受けている時、逃げても逃げても神は追いかけてきます。神様はある意味、執念深いです。
 ひとりひとりに召しを与えられる神様はその召しから絶対に逃がさない神でもあります。
 そのような召しを「強いられた恩寵」という言葉で表す時もあります。ある意味、人間からみると有難迷惑ともいえます。でもそんな有難迷惑の恵みとしての召しからわたしたちは逃れることができません。

 しかし、わたしたちの人生にはそのような神からの一見強制的な激しい召しだけがあるわけではありません。多くの場合、もっと静かな召しをうけています。日々、受けています。
 そしてその召しの前に主イエスはわたしたちをご覧になります。18節に「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった」とあります。主イエスはありのままの、ごく普通の彼らの生活をご覧になったのです。彼らは特別な能力や技術があったわけではありません、ごく平凡な漁師として日々つつましく生活をしていた。そのありのままの姿をご覧になったのです。21節にも「ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると」とあります。その主イエスのまなざしは私たちにも注がれています。ありのままの私たちをご覧になります。ペトロたちの人生は変わり映えのしない日々の連続だったかもしれません。先週も少しお話ししましたが、ガリラヤ地方、ガリラヤ湖のまわりはそれなりに土地としては豊かな土地でした。荒れ野ではなく、花が咲き、果物が実っていました。主イエスは植物を良く例え話に使われたのはそのような背景があるからかもしれません。そしてガリラヤ湖にも漁をできるだけの魚がいたのです。ですからパレスチナ地方としては自然の豊かな場所だったのです。そんな自然に恵まれた素朴な町で、つつましく暮らしていたであろうペトロたちです。極貧ではなかったかもしれませんが、だからといって豊かではなかったでしょう。人生の先に大きな希望があるわけでもない、そのような生活だったでしょう。彼らのそんな日々の辛さや悲しみ、そして折々の喜びも主イエスはわかっておられたでしょう。
 そして、私たちの悲しみも喜びもまた主イエスはご覧になられます。
 そしてそのうえで私たちにおっしゃいます。「わたしについて来なさい」と。
 その言葉は、ホイッスルを鳴らして、「さあ来なさい、集まりなさい」という号令ではありません。ひとりひとりに個別にかけられる言葉です。
 わたしたちは日々、その言葉に従い、主イエスのあとをついていかねばなりません。主イエスのうしろなのです。前ではありません。自分で歩いていて、困った時にはわたしのあとから急いでやってきて助けてください、というのではありません。
 でもここのところがやはり難しいのです。
 私たちはなるべく自分で歩きたいのです。そんな自分で歩きたい自分を捨てるというのが信仰の歩みといえます。私たちが捨てないといけないのは、網や舟や家族ではなく、まず第一に自分です。自分のプライドであり、やり方です。<私はぜんぜんだめな人間でプライドなんてありません>とおっしゃる人もあるかもしれません。でも逆に自分はだめだという思い込みに縛られていませんか?そのように自分を自分で勝手に規定してしまう、制限してしまう自分も捨てないといけません。
 一生懸命生きているとき、どうしてもこだわりもできてきます。わたしもどちらかというと、いろんなことにこだわります。これはこうでなくてはいけない、そんな自分自身のこだわりも捨てないといけません。
 自分で自分の人生に縛りをかけてしまう、そのような考え方も捨てないといけません。現実的には介護がある、子供がいる、住宅ローンがある、さまざまな縛りがたしかにあるのです。でもそれを絶対視するのではなく、そこから人生を考えるのではなく、主イエスに聞きながら歩むのです。そうするとき、主イエスの光が差し込みます、がんじがらめのように見えた生活に別の視点、光が入ってきます。先週の聖書箇所で「暗闇に住む民は大きな光を見」とありました、その光は私たちの生活に射し込んで来る光でもあります。
 でも、もちろんそれはとても難しいことでもあります。しかし少しずつ主イエスの後についていく歩みをしていくとき、私たちはわかっていくのです。昨日まで<私は自分はこうだ>と<こんな人間だ>と考えていた、その姿は本当の自分ではなかった、<これが自分の生活だ>と思っていた生活は本来の自分の生活ではなかった、と。ここはこうしないといけないと思い込んでいた、でも違うやりかたもあった、そういうことを主イエスに従っていくとき、わかってきます。そして、どんどんとわたしたちは自由に、大胆に生きていけるようになります。
 でもそのように歩む人は少ないのです。聖書の中でも主イエスの奇跡を目の前で見たり、自分自身が癒された人でも、イエスのあとについていった人は少ないのです。わたしたちもまた、おりおりに自分勝手な道を歩んでしまいます。せっかく自由にだいたんに朗らかに生きていく道を、主イエスが先だって歩んでくださっているのに、窮屈で暗い方向に私たちは歩んでしまいます。しかし、道を外れたとしても、主イエスは探しに来てくださいます。ですから安心していいのですが、できれば、主イエスのすぐ後を歩んでいきたいものです。

 そしてその歩む目的は「人間をとる漁師にしてあげよう」ということです。人間をとる漁師、それは人間を神の方へ、救いの方へ導く漁師ということです。それはなにも直接的に伝道をする、教会に導くということだけではありません。それぞれの生活の中で、わたしたちの家族を、また隣人を神の光の方へ導くということです。
 私はむかし、いまでも多少そうなんですが、自分みたいなものがクリスチャンだというのは、かえって反伝道的なことなのではないかと思っていました。あんな人がクリスチャンなの~?!と、かえって私を見た人がキリスト教に反発を覚えないかと思っていました。ですから、できるかぎり隠れキリシタンというか、あんまり人前ではそういう話はしないようにと思っていました。
 でもそういう心配はしなくていいのです。なぜなら、「あなたは人間をとる漁師になりなさい」と主イエスはおっしゃっているのではありません。「人間をとる漁師にしてあげよう」とおっしゃているのです。主イエスご自身が私たちを漁師にしてくださるのです。私たち自身が努力をして漁師になるのでもなく、漁師にふさわしくならねばならない、ということではないのです。だから安心していいのです。

 ただ、もちろん主イエスが私たちを漁師にしてくださるのですが、私たちもまた私たちと出会うひとりひとりの姿と向き合わないといけなくなります。主イエスがわたしたちひとりひとりのありのままの姿をご覧になってくださったように、わたしたちも、ひとりひとりと真実に出会い、交わらないといけなくなります。
 ビジネスライクな付き合い、形式的な付き合いでは、すまされなくなります。私たちは本当の意味での人間関係を要求されるようになります。肩書きや立場ではなく、その人そのものと出会わないといけなくなります。でもそれは幸いなことでもあります。会社に長くいて感じたことですが、もちろん優秀な人、力のある人は、影響力が大きいです。たくさんの人が周りに集まります。しかし、それほど役職も高くない、目立っている人でもない、でも、なんとなく周りに人がたくさん集まってくる人というのもいます。そういう人というのは地位や立場ではなくその人自身の人間的な力で、豊かな交わりができる人なのです。定年退職をしたあと、つまり肩書きや立場がなくなったとき、そういう人はたぶん役職が上で優秀だった人より、豊かな人生を送るだろうなと思います。

 私たちも人をとる漁師となる時、自分自身の本来のあるべき人間として人と向き合う存在とされていくでしょう。しかもそれは自分自身の力でそうなるのではなく、主イエスがそうしてくださるのです。そして、それは家族や身近な人に対してもそうです。自分の子供だ、だからこうあるべきと見ていた子供の本当の姿を見ることになります、自分の親なんだからという枠で見ていたけれど、そうではなく一人の人間として見ていく、ようになります。それは場合によっては苦しいことであるかもしれません。しかし、そのような漁師として私たちは召されていくのです。

 そのためにも大事なことは、「主イエスについていくこと」です。自分自身を捨てて、ただただ主イエスに従っていくことです。
 その姿、、、仮に時に道に迷い、自分本位な歩みをして、繰り返し失敗をしたとしても、そのような歩みをしているあなたをきっとだれかが見ているでしょう。そのような私たちであっても、そんな私たちの歩みの前におられる方へ、わたしたちに先立って歩まれている方へと、やがて目を向けてくださる人が起こされるでしょう。なぜなら、主イエスご自身が、わたしたちをそのように召して人間をとる漁師としてくださっているからです。


2014年5月25日マタイによる福音書4:12-17

2014-06-13 18:00:09 | マタイによる福音書

大阪東教会 2014年5月25日主日礼拝説教
マタイによる福音書4章12~17節
「光が差し込んだ」    吉浦玲子伝道師

 主イエスは洗礼者ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれたとあります。ここで、ヨハネの逮捕とイエスの移動の関係というのは明確にはわかりません。そのときのイエスさまの心情というものもうかがい知ることはできません。ご自身が洗礼をお受けになったヨハネが捕らえられた、そののちから主イエスは公の宣教活動を開始された、その事実だけが記述されています。
 しかしながら、主イエスがヨハネの逮捕に心を痛められたことは容易に想像できます。そもそもヨハネは悪事を働いて捕らえられたのではありません。むしろ悪事をなしていたのはヘロデであって、そのヘロデに対して、正しいことを言ったからヨハネは捕らえられたのです。そのことを悲しみ心痛められたのは当然でしょう。
 ただ、ここで言えますことは、主イエスの宣教の開始、それは、先見者としてのヨハネの活動の終焉の時に、イエスが具体的な活動を始められた、それが神の時であったということです。そして神の時というのは、かならずしも華々しい明るい中にあるのではないということです。さあ行け!という心躍るような思いで主イエスは宣教を開始されたわけではないのです。陰鬱な状況の中で、しかしなお神によって押し出され、宣教の道を歩み出されたのです。私たちにおいてもそうです。大きな変換点、新しい歩みというのは、時として、大きな挫折や痛みのなかから、はじまります。それはこの大阪東教会のこれまでの歩みにおいてもそうだったのではないかと思います。
 ここで「退いた」とありますが、イエスさまはヨハネが捕らえられたのでガリラヤに逃げたのではありません。もしそうであれば、ヨハネを捕えたのはヘロデですから、そのヘロデの領土であるガリラヤはたいへん危険です。ですから、ヘロデを恐れるのであればガリラヤには向かわれないはずです。ここでガリラヤに行かれたのは、それは後に出てきます預言の成就のためです。ここでもイエスさまの歩みがそのまま神のご計画の中にあったということを示しています。
 ちなみにヨハネが捕らえられたというときの<捕らえられた>という言葉は<引き渡された>という言葉でもあります。この言葉は、これは後に主イエスご自身が祭司長たちに捉えられた時にも使われる言葉であり、ピラトに引き渡されたときに遣われた言葉でもあります。したがって、ここでは、洗礼者にして先見者であるヨハネの運命と、すべてを成就なさる主イエスの歩みが重ねられているもいるのです。つまり、ヨハネはヨハネの役割を、また主イエスは主イエスの歩みを、それぞれに神のご計画の中でなしたのだということが暗示されています。

 そして、ここではさらにイエスはカファルナウムに来て住まわれた、とあります。なぜ主イエスがナザレからカファルナウムに移られたのか、その現実的な理由はわかりません。しかし、ここでもこの地がゼブルン、ナフタリの地であった、その地名に大きな意味がある、と、この福音書の著者は預言の引用から考えています。この移動においても、イエスが預言者たちが預言した内容通りに、つまり神のご計画に基づいて、その活動を開始されたのだということをマタイは語っています。
 さて、その15節からのイザヤ書の預言の引用でも、はっきりとわからないところがあります。異邦人のガリラヤとはどこか、そして暗闇に住む民とはだれなのか、死の影の地に住む者はだれなのか?厳密に特定しようとすると、学者によってさまざまな意見があります。ただ、ガリラヤというのはユダヤの一地方でしたが、ここはイスラエルの北のはずれであるという土地柄から、歴史的に他国から侵入され従属を余儀なくされてきた土地です。そのために、宗教的に、また民族的にさまざまなものが混在していました。「異邦人のガリラヤ」というのはそういった経緯から、たとえばエルサレムの人々から見たら、下げずまれていたガリラヤ、ユダヤの純粋性に乏しい不純な混血した地域ということによる蔑称です。そこに住む人に対して、神を知らない人々、神から離れている人々という軽蔑が投げかけられている言葉でもあります。
 しかも当時のガリラヤ地方というのは貧しい小作人が多かったようです。またイエスさまがお住まいになったカファルナウムは平野で豊かな土地だったのですが、海抜がマイナス200メートルくらいで夏などは暑いところだったようです。ハエや蚊などの虫が大量に発生して病気なども媒介したようです。貧しい人、病の人の多い地域、そのようなところから主イエスはそこから伝道を始められたのです。

 16節には「暗闇に住む民」という言葉があります。イザヤ書と微妙に言葉が違っています。マタイはあえて、「住む」という言葉を使ったのです。暗闇のなかにとどまっている人々ということです。つまり、この暗闇に住む民とは、まさに神から離れた民、神を知らない民です。
 暗闇と言えば、小学生の時、九州の実家近くのそろばん塾に通っていました。夕方から夜の時間帯でした。冬の時期ですと、帰りはすっかり真っ暗でした。当時、子供達は懐中電灯で道を照らしながら帰りました。いまは、夜道を懐中電灯を照らしながら帰るということはしないですよね。さすがに私の実家の近くも、今は夜に懐中電灯つけることはありません。当然、街灯もあればいろんな灯りがあるんです。ちょっと関係ありませんが、数年前に、わたしの実家から徒歩五分のところに、大きなユニクロができていたのにはショックをうけました。私の実家近くは田んぼが多かったんですが、いまはまったく田んぼはありません。田んぼやら、ぼた山やらがあった場所にユニクロがどーんとできていてほんとうにびっくりしました。だいたい、ここ20年くらいでしょうか、都会と地方の差がなくなってきています。どこにもユニクロがあってマクドナルドがあります。24時間営業のコンビニが深夜でも明るく光をともしています。もちろん、地方でも、もっと郡部に行くとまた違うのですが。
 しかし、日本の多くの土地が明るく、闇がない、清潔で機能的な町になっています。
 特に都会では、クリスマスでない時期でも、年がら年中綺麗なイルミネーションが輝いています。これは多くの人が言っていることでもありますが、このきれいな街並み、その人工的な明るさは、本当の意味での闇を隠すものでもあると思います。ほんらいそこにあるはずの闇、影というものをみえなくしてしまっている。この明るい清潔な町で多くの人が精神を病み、自殺をしています。
 私たちは、このような現代の町で、闇を失ってしまった世界で、自分の中にある闇も分からなくなっているように思います。人工的な光のなかで、自分たちが本当は暗闇の中に住んでいることを知らず、本当の光へと向かえないままに破滅に向かっている、そのような人々が多くいるのではないでしょうか。

 数年前、ある青年が洗礼を受けました。彼は薬物依存の過去を持っていました。警察に捕らえられ執行猶予中でした。なにより彼自身がその依存症のために苦しんでいました。彼はその告白の中で、自分は、昔、自分が王様のように思っていた、好きなように生活をしていた、でも気がつくと、薬物に支配され、とんでもない地獄のようなところに落ちていた、そのどん底のなかで神と出会った、と語りました。正確に言いますと、そのどん底で苦しさのあまり助けを求めたとき、たしかに答えてくれたものがあり、平安を得たそうです。その答えてくださった方が聖書の神であったことを、その後、依存症の更生施設に置いてあった聖書を手にとってわかったそうです。
 わたしたちは彼を特別な人だと考えることはできません。彼が「異邦人のガリラヤ」といえる薬物依存の暗闇の中で苦しんでいたように、私たち一人一人もまた、主イエスを救い主と受け入れる前は、それぞれの闇の中にいたのです。異邦人として、神から離れた者として暗闇に住んでいたのです。

 ところで、マタイによる福音書の著者はユダヤ人として福音書を書きましたが、主イエスの宣教のはじめが「異邦人のガリラヤ」であったと記しています。つまり、ここには主イエスの宣教は異邦人へ及ぶことが暗示されています。つまり「死の影の地に住む者に光が射し込んだ」とありますが、この光は全世界に及ぶことを著者は暗示しています。そして、マタイによる福音書の28章にある「すべての民にのべ伝えよ」という大宣教命令につながる「すべての民」への出来事が、主イエスの宣教のはじめにおいて暗示されています。

 17節に「そのときから」とあります。まさにそのときから、なのです。決定的な出来事がおこったということです。「悔い改めよ、天の国は近づいた」これは3章2節の洗礼者ヨハネの言葉と同じです。意味としては同じなのです。しかし、決定的に違うことがあります。ヨハネは先見者として言葉通り「近づいた」ということを語りました。しかし主イエスは成就される方です。この天の国が近づいたということが、そのときから、まさに成就したのです。先週、K牧師がおっしゃったように、天の国はすでにいま駅のホームに入って来た列車のように、すぐに目の前にあるのです。扉が開かれるのはあと少しあとですが、もう発車のベルも鳴っている、すでにここにあるのです。まだ先の遠いことを言っているのではなく、ほんとうに臨場感にあふれた、手をかざせば届くような近さに迫っている、それが主イエスの伝えられた、いや成就された天の国です。
 だからこそ悔い改めるのです。神の方を向くのです。人の作った光ではなくまことの神を光を見るのです。真の光を見る時、私たちは自分の闇とも向き合います。しかしそれは幸福なことです。真の光によって私たちは自分の闇を雪のように白くしていただくのです。私たちは毎週、礼拝の中でざんげの祈りを致します。それは私たちの悔い改めの心を表すものです。すばらしいことです。
 しかし、忘れてならないことがあります。私たちは私たちの意思で、車に乗り、電車に乗り、歩いて、礼拝に来ていますが、まず先だって、神が私たちを招いてくださっていたということです。
 私たちが暗闇の地にすむものであることを、そのご自身の光によって明らかにして下さった。主イエスご自身が私たちに触れてくださったということです。さきほど申しました青年が、自分から聖書を読んだのではない、まず神に呼ばれた、そう告白していた、そのようなことがわたしたちにひとりひとりにもおこっているのです。
 そうでなければ、神のほうから触れていただかなければ、私たちは自分ではわからないのです。人工の光にだまされてしまうのです。暗闇にいたものが、本当の光を見ることができる、そのために、主イエスご自身が私たちを招いてくださる、触れてくださる、そのことを感謝して覚えたいと思います。その、まことの光を与えてくださる主イエスに感謝しつつ、なお、主イエスに触れていただき導いていただく、新しい一週間を生きていきましょう。


2014年5月11日マタイによる福音書4:1-11

2014-06-13 17:30:05 | マタイによる福音書

大阪東教会 2014年5月11日主日礼拝説教
マタイによる福音書4章1~11節
「逃れられない誘惑」    吉浦玲子伝道師

 わたしたちが礼拝の中で、さきほど共に祈りました「主の祈り」、そのなかに「われをこころみにあわせず悪より救い出したまえ」という言葉があります。この「こころみ」は「誘惑」とも訳せますし、「試練」とも訳せます。試練であれ誘惑であれ、私たちは人生において逃れることはできません。そしてその逃れられないこころみにおいて、往々にして私たちは負けるのです。サタンに膝を折り誘惑に屈するのです。あるいは試練の中、自分と神を見失います。そして「主の祈り」の中では、「われらをこころみに打ち勝たせてください」とは祈っていません。「こころみにあわせず」と祈っています。私たちはほとんどの場合こころみに勝つことはできない弱い人間だからです。だから<こころみにあわせないでください>なのです。
 <いやいや私は100戦連勝でこころみに勝ってます>そういう方もおられるでしょうか。おられたら、それは大変立派です。しかし、はっきり申します。連勝できるようなこころみはこころみではありません。こころみというのは、打ち勝ちがたいものなのです。100戦連勝のうち、たしかに何勝かは打ち勝たれたかもしれませんが、ほとんどはあなたにとって、それはこころみではなかったのです。
 私たちは試練であれ誘惑であれ、負けて、そこに囚われてしまう時、罪の中、悪の中へ、とりこまれてしまいます。だからこそ、「こころみにあわせず」、しかし、もしこころみにあってしまって負けたとしても、なお、あなたが-父なる神が-私たちを救い出してくださいと祈るのです。
 私たちはこころみに勝てませんが、地上でただお一人すべてのこころみに完全に勝利された方がおられます。イエス・キリストです。今日はその主イエス・キリストがこころみにあわれた場面です。

 悪魔がでてまいります。聖書には悪魔やサタンといったものがよく出てまいります。現代人はこういうものをばかにします。悪魔やサタンを、自分の中の悪へ向かう力のことであると解釈する人もいます。それは間違いではありません。私たちの中には悪へ向かう、神から離れようとする力がたしかにあります。しかし、それだけではないのです。この世界には明確に悪魔やサタンの力は働いています。それを甘く見てはいけないのです。しかも悪魔やサタンは、倫理が荒廃した神から遠いところに働くのではないのです。神の祝福があるところに往々にして働くのです。そして神から人を引き離す力として働きます。教会において問題がおこったり、教師が不祥事を起こしたりする、そこ働く力を軽く見てはいけないのです。サタンが働く時、もともと揉めていた教会ではなく、円満だった教会に一気に亀裂が入る、そんなことがおこります。そもそも神から遠いところにあるものを神から引き離す必要はなく、むしろ神と円満な関係にあるところに悪魔やサタンの力は働きます。私たちは十分に注意をしないといけません。

 今日の聖書箇所には、3つの悪魔の誘惑が出てまいります。ところで、普通いかがでしょうか、悪魔の誘惑と言ったら、富や権力をちらつかせて人を堕落させるようなイメージがないでしょうか?あるいは快楽、特に性的な誘惑でもって人を堕落させるようなイメージがないでしょうか?今日の聖書箇所の誘惑はそういう意味では、わかりにくいといいますか、あまり悪魔の誘惑のようには思えません。あえていえば三つ目の誘惑だけが、悪魔の誘惑っぽく見えます。
 しかし、やはりこの三つの誘惑はわたしたちが陥りがちな典型的な誘惑としてここに記されています。
 まず最初の誘惑の前に、イエスは悪魔から誘惑を受けるために霊に導かれて荒れ野に行かれたとあります。霊によって、つまり神によって、です。
 私たちが誘惑にあうのも、試練に合うのも突き詰めれば、神によって、なのです。これは、考えますと、神様、どうしてそんな誘惑や試練にわたしたちをあわせられるのですか?と言いたくなることです。なんでこんなひどい目に神様は私をお合わせになるのか?それは理解しがたいことのように思えます。
 しかしいまはそれに触れずに先を見ていきたいと思います。イエスさまは断食をなさっていた。40日間、当然、空腹であるのです。すると誘惑するものが来て、「神の子なら石がパンになるように命じたらどうだ」と言うのです。イエスさまは飢えておられる、肉体の危機なのです。そのようなときパンを食べることがいけないことには思えません。石をパンに変えることは、もっともなことのように思えます。
 しかしイエスさまは、申命記の中の言葉を使っておっしゃいます。「人はパンだけでいきるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
 「人はパンだけでいきるものではない」たいへん有名な言葉です。キリスト者でなくても知っている言葉です。この言葉は今日、もう一か所お読みしました聖書箇所に含まれています。この箇所は、モーセがエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を率いて神の助けでエジプトを脱出して、乳と蜜の流れる約束の地をめざして旅した40年の歳月のおわりにモーセが語っている場面です。40年の荒れ野の旅は、水がない、食べ物がない、さまざまに民の間でもめごとがおこる、あるいは周囲の部族と衝突をする、たいへんな旅でした。その40年間、神に従って、モーセは歩みました。極めて反抗的な民を率いてきたモーセは、結局、自分自身は約束の地に入れないのです。自らは入れない約束の地を前にして、民へモーセは説教をしている、万感の思いを込めて民に語っている、その中の言葉です。

 彼はいいます、たしかにたいへんな旅であった、と。それはこころみの連続であったからです。過酷な試練の連続でした。さきほどもいいました、水がない食べ物がない、命の危機と隣り合わせの旅でした。しかしその40年をへてモーセはいいます。あなた方のまとう着物は古びず、足がはれることもなかった、神の守りはたしかにあったではないか?
 水がなければ岩から水を出され、食べ物がなければマナを振らせてくださった、神は私たちの必要をすべてご存知の神である、そういうものはすべて整えられるのである。もちろん私たちは「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」と願うことができます。しかし、そういうことはもちろん神は与えてくださるのだ、そのうえで私たちは何をなすべきか、なにが大事か?それは主の口から出るすべて言葉によって私たちが本当に生きる者となることを知ることだ、とモーセは言っているのです。
 そしてこの箇所は二重写しになっています。この申命記は、モーセの死後、約束の地に入ったイスラエルの民が、やがて王国を作ります。ダビデ・ソロモンの栄光の時代ののち、結局、彼らは神から離れ神の裁きを受け、国は滅びます。バビロンの捕囚としてとらえられて行きます。その国家滅亡を経て、もう一度、はじめの信仰に立ち帰るために、信仰を言い表し、まとめられたのが申命記を含む書物でした。ですからこの申命記の箇所には、出エジプトをした、まさに大いなる神の恵みにあずかった後、試練にあったモーセの時代と、国家滅亡の廃墟の中にたち、ふたたび神に立ち帰ろうとする捕囚時代以降の時代、二つに時代を重ね合わせたイスラエルの民の思いが込められているのです。
 もういちど神の祝福を受けようではないか、何もかも失ったように思えるわれわれに、しかしなお、まだ神の恵みがあったではないか、着物は古びず、足ははれていない。確かに神はわれわれを試練にあわせられた、こころみにあわせられた、しかしまたそれも、ただ私たちが神の言葉によって生きる者とされるためのこころみであったのだ。
 あふれるほどに肉を食べ、おいしいお酒を飲み、豪華な住居に住んでいることが幸せなのではない、神の試みをうけつつ、神の訓練に耐えながら、神の言葉こそ、私たちが生きていくうえで一番大事なことであるということを知っていくことこそ幸せなのだ。
 そのモーセの言葉、あるいはバビロン捕囚以後の民の言葉を、このマタイによる福音書の中でイエスさまはおっしゃっているのです。

 そして、こころみの本質は、神の言葉こそが私たちをまことに生かすものであるにもかかわらず、理由をつけてその大事なものを別のものにすり替えようとします。教会に行くことより、もっと家庭を大事にしっかりしないといけないのではないか。聖書を読む時間があれば、困っている人を助けるボランティアをする方が大事なのではないか。さまざまに形をかえて一番大事なことをすり替えるようにこころみはなされます。家庭もボランティアももちろん大事です。場合によってはどうしても教会にこれない時もあるでしょう。しかし一番大事なことは何か、それを見失ってはいけません。

 二番目の誘惑もわかりにくいものです。悪魔は詩編の91編の12節の言葉を引用してイエスさまを誘惑しています。神を試すな、ということです。現実的には、自分が神を試しているかどうか、はっきりとはわかりにくいかもしれません。しかし私たちは往々にして神を試すのです。神がこれをしてくれるなら信じましょう、と、意識的に、あるいは無意識的に私たちは神を試すのです。自分の願いをかなえてくれたら神を信じましょう、私たちはいつも神の行動を査定し、評価しています。最初の誘惑のところで話をしたモーセの時代、モーセの後を継いだヨショアと共に約束の地に入ろうとした人々はヨルダン川を越えました。民がそのヨルダン川の水に足を踏み入れた時、ヨルダン川の水はせき止められて、水のない乾いたところを民は渡ることができました。彼らはまず、足をひたしたんです。彼らは神はほんとうに私たちを守ってくれるかどうか試しはしなかった。まず彼らはその冷たい川の流れに足を入れたんです。神を試すことなく、足を踏み入れる、私たちの信仰の在り方もそうでありたいものです。

 そして最後の誘惑、これは比較的分かりやすいと思います。権力や財産、欲望を神より優先してはいけない。もちろん普段私たちは、全世界の王になろうなんて思いはしません。しかし、ほんの少しの名誉、出世、ちょっとした見栄に弱いのです。そのささやかな欲望のため、神のことをおざなりする、でもまあちょっとだけだからと思う、でもそれはちょっとだけではないんです。

 ところで最初に申しました。私たちはほとんどの場合、こころみに弱い、誘惑に負けるのだと。たとえば先月お読みしましたペトロが主イエスを否認した話。ペトロもこころみに負けたのです。イエスさまが捕らえられ、イエスさまを置いて逃げた。しかし、そのこころみに負けるということを通じてペトロは自分の弱さを知りました。罪を知りました。
 神様、こころみにあわせないでください。誘惑にあわせないでください、そう私たちは祈ります。しかしなおこころみに神様はあわせられます。しかし、そのこころみにあう、そのことにも意味があるのです。
 私自身、キリスト者になってある大きなこころみに会い、負けました。それはある教会を去ることになった出来事でした。私はたいへん苦しみました。自分が悪いことはもちろんわかっていたのです。自分が悪いことはわかっていながら、苦しみの中で私は神に問いました。「自分が悪いことはわかっています。でもほんとうに本質的に悪いことは何ですか、わたしの何が具体的に悪いのですか?」その答えは、驚くべきものでした。「あなたが苦しむことが悪いのだ」ということでした。そのときわかったのは神は人間が苦しむことを良しとされない、仮に本人の自業自得のようなことであっても、神は人間が苦しまれることをご自身の苦しみとされる神であると。私が苦しむとき、神は私以上に苦しまれる神であるということがわかりました。一方で神はこころみにあわせられる神です。でも高みから人間を試して喜んでいる神ではないのです。こころみに負けて苦しむ人間、痛む人間をみずからも苦しみつつ痛みつつご覧になられる。そしてそこから救い出そうとされる神です。そのような神であるからこそ、私たちはこころみにあい、仮に負けても、そこからふたたび立ち上がっていくことができるのです。悔い改め、あたらしく生きていくことができるのです。

 神が人間の苦しみを人間以上に苦しまれるお方であると申し上げました。その苦しみの最たるものが十字架でした。十字架において主イエスは、肉体と精神において、最大限の苦しみを受けられました。それは私たちの罪のためでした。十字架は主イエスにとって、こころみでありました。主イエスはそのこころみをお避けになろうとしなかったのです。つまり主イエスは荒野で誘惑をうけ、ふたたび十字架の試みにも合われました。そして打ち勝ってくださいました。私たちのためです。私たちがこころみにあって負けても、罪にかられとられても、ふたたび立ち上がることができるように、救われるためにです。人間の苦しみをすべてご存知の神である主イエスであるからこそ、わたしたちと同様にこころみにあわれた主イエスであるからこそ、こころみに負けてしまう私たちを救ってくださることができるのです。

 そのことを覚え、わたしたちはこころみにあっても、主イエスにより頼みつつ、平安をいただいて歩んでいきましょう。


2014年5月4日マタイによる福音書3:13-17

2014-06-13 16:49:24 | マタイによる福音書

2014年5月4日マタイによる福音書3:13-17
大阪東教会 2014年5月4日主日礼拝説教
マタイによる福音書3章13~17節
「祝福が降りそそぐ」    吉浦玲子伝道師

  ここにはまだ洗礼を受けておられない方もありますが、今日は洗礼というものについて少し考えてみたいと思います。宗教改革者で偉大な信仰者であったルターですが、ルターといえども、その人生の中にあって信仰が揺らぐときはあったようです。もうだめだ、と信仰が崩れ去るように思える時もあったようです。そのような危機の時、彼を支えたのは「自分は洗礼を受けたのだ」ということであったそうです。苦難の中にある時、自分の信仰が崩れてしまいそうな時、ルターはノートに「わたしは洗礼を受けた」という言葉を何度も何度も書いたといいます。

  わたしたちからみたら偉大な信仰者であったルターですが、そのルターでも自分自身の信仰に自信がもてず、揺れている時、それでも、ただひとつ確実なこととして「自分は確かに洗礼を受けたのだ」という事実があるとルターはいうのです。もちろん洗礼というのは、洗礼という儀式を受けることによって、呪術的な魔法のような力が働くわけではありません。洗礼をさずける牧師の言葉に特別な力があるわけではありません。

  しかし、それでありながらなお、洗礼とは決定的な神の恵みが与えられる出来事です。現実的には、自分でキリスト教のことを知り、学び、信仰告白して洗礼式に臨んだ、自分の意思で洗礼を受けた、そうであっても、実は洗礼というのは決定的に受け身の出来事なのです。一方的な神の恵みの出来事なのです。わたしたちが自分でキリスト教の教理を正確に理解をした、その対価として洗礼を授かるわけではありません。ただただ神の恵みであり、聖霊の働きなのです。

 その決定的な恵みの出来事を自分はたしかに経験した。そこにただひとつの確実なものがある、そうルターは考えたのです。自分の力で手に入れたものであるなら、まぐれってこともあるでしょう。その力はやがて衰えることもあるでしょう。そうではなく神の一方的な恵みとしてただ一度洗礼を受けた、そのことこそが信仰の唯一の確信である、そうルターは考えたのです。

  さて、今日は、マタイによる福音書のなかで、主イエスがご自身の意思で活動を開始された最初の場面となります。そこで主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を授かられます。

  先週、わたしたちが救われるために、天の国に入るためには、悔い改めないといけないと申しました。悔い改めとは、神様の方を向くことだと申しました。洗礼者ヨハネの洗礼はまさに当時の人々が悔い改めたしるし、神様の方を向いたしるしとしての洗礼でした。

  しかし、天の国に入るためにはわたしたちが悔い改めるだけでは十分ではありません。ヨハネの洗礼だけでは不十分なのです。神様の方を向いた私たちは、神様ご自身から罪をゆるしていただかないといけないのです。ヨハネの水の洗礼は神様の方を向いた、つまり悔い改めたしるしではありますが、それだけでは罪は許されず、救いにも至りません。ヨハネは偉大な預言者ではありましたが、人間です。人間には人間の罪を赦すことはできません。ですからヨハネは、自分の後から自分より偉大な方が来ると言っていました。あとから来る方は「聖霊と火で洗礼を授けられる」とヨハネは言いましたが、まさにその聖霊と火の洗礼によってこそ、罪が赦され、救いへと至る、神の国へ入るものとされるのです。

  今日の聖書箇所はそのヨハネの洗礼を、「あとから来られる偉大な方そのもの」であった主イエスが受けられるという場面です。

  ヨハネはヨルダン川のところまで主イエスがこられたとき、<この方こそ自分の後から来られる偉大な方だ>とわかったんでしょう。ヨハネにしてみれば、むしろ自分の方がこの方から洗礼を授けて頂きたいと思ったのは当然でしょう。

  「ヨハネは、それを思いとどまらせようとしていった「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」」

  ヨハネの言うことはある意味もっともです。主イエスこそ、神から遣わされた神の御子ですから、罪を赦す洗礼を授けるのは主イエスのほうであると考えるのが当然です。

  しかしイエスはお答えになります。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」

  今は、とめないでほしい、とおっしゃる言葉の中の「今は」という「今」は、まだ主イエスの十字架と復活による救いの業が成就されていない「今」です。洗礼者ヨハネはこのときはまだ、主イエスがこれからどのような救いの業のなさるのか、そのためにどのような歩みのなさるのか知りませんでした。主イエスは、これから公の神の国の宣教生活にはいられますが、その道は十字架への道でした。その道がまっとうされたとき、罪の赦しの業は成就するのです、その十字架への歩みをまっとうすること、それが主イエスがここでおっしゃっている「正しいことをすべて行うこと」です。

  しかし尚不思議です。十字架への道を歩まれる主イエスがなぜわざわざ洗礼を授かる必要があったのか、やはりそれだけではわかりかねます。

  しかし、それはわたしたちのためでした。主イエスはヨルダン川での洗礼をうけたのち、<正しいこと>をすべて行われ、十字架による救いの業を成就されたのち、マタイによる福音書28:19「だからあなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」と言われます。救いの業が成就されたとき、まさに洗礼者ヨハネがいっていた聖霊と火による洗礼が実現したのです。そして主イエスは弟子たちへ「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言われています。すべての人たちが父と子と聖霊の名によって洗礼をうけ、救いにあずかるように、すべての人が洗礼を受けるようにと主はおっしゃいました。その洗礼ということを主イエスは、ご自身の公の宣教生活の最初において、先取りしてご自身の身を持ってお示しになったのです。私たち自身の、神と共にあるあたらしい生活の第一歩が洗礼から始まったように、主イエスご自身の宣教活動も洗礼によってお始めになったのです。わたしたちと同じような者となってくださり、洗礼をお受けになってくださった。罪びとであるわたしたちと同じ立場になってくださったのです。

  主イエスが洗礼を受けられ、水から上がると「天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降ってくるのをご覧になった」とあります。

 さいしょに洗礼をうけたからといって何か特別なことがおこるわけではないといいました。肉体的に、また物理的にはそうです。しかし、実際に天は開けるのです。それは主イエスの洗礼だけではなく、わたしたちひとりひとりの洗礼においてもそうだったのです。天が開ける、まさに天の国の扉がわたしたちに向かって開いたのです。神の恵みによって洗礼を受ける者は救われるのです。実はわたしは天が開いたのを目撃しました。というと変な話ですが・・・。

  わたしがある教会で役員をさせていただいていましたときのことです。その教会ではだいたい年に数名の受洗者が与えられていました。役員としてわたしが洗礼式のサポートを初めてさせていただいたときのこと、はじめてのことでわたしはたいへん緊張していました。礼拝の中で洗礼式が近付いてくると、幾たびも頭の中で<受洗される方がひざまづくときのひざあてを、このタイミングでさしだして>、とか<洗礼盤をこうもって牧師の横に立って>・・とかいろいろ緊張しつつ頭の中で反復しながら、受洗される方方と並んで座っていました。いよいよ洗礼式が始まり、牧師が、おそらく教団の式文の序詞の、はじめの言葉を読み始めた時、「あ、天が開けた」ってわたしは思いました。本当にそう感じたんです。別に会堂の天井に穴があいて光が差し込んできたわけではありません。うまくいえませんが、でも、いままさに、天の国の扉が開いたって思ったのです。現実に光は指してきていませんが、いま恵みの光が上からさーっと射しているいると感じました。まさに鳩のように霊が降ってきている、そう感じました。ぱっと聞くと怪しげに思われるかもしれません。しかし洗礼を授かるってこういうことなんだ、とその時思いました。

  実際、すべての人が洗礼をさずかったとき、天は開いたんです。皆さんの上に救いの光が差し込んできたのです。鳩のように霊が降って来たのです。ルターが洗礼を受けた、それだけが自分の支えだと語るような奇跡が起こったのです。まだ洗礼を受けておられない方が洗礼をおうけになるときもそうです。天が開け、光がさし、霊が降り注がれます。

  そして今日の聖書箇所で言いますと、その天が開けたのち「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえます。これは、イエスさまだから、神様がおっしゃったのでしょうか。もちろん、そうです。でも、イエスさまはさきほどもいいましたように、ご自身が洗礼をさずかられたのは、自分ののちに生きる弟子たちに手本を示すためでした。主イエスを信じて救い主と受け入れて、主イエスを手本として洗礼を授かる者にも、やはり同じように天の声はいうのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。

  主イエスに従い、主イエスと共に歩く時、わたしたちもまた神に愛される神の子とされるのです。神の心に適う者とされるのです。主イエスのゆえに、わたしたちは、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神に言っていただけるのです。そんな祝福がわたしたちにも注がれるのです。 

 しかし洗礼をさずかったのち、わたしたちはやはり罪を犯します。神を悲しませることを幾度も行います。だからといって、じゃあそんなあなたをわたしはもう愛さないとはおっしゃらないのです。そんな罪を犯したあなたは、もう今日からわたしの心に適わないとはおっしゃらないのです。

  ひとたび主イエスを救い主を受け入れ、主イエスを手本として洗礼を授かったのちは、その人のことを、神は変わらず「愛する子」としてくださり、「心に適うもの」といってくださるのです。罪にまみれた私たちを、なお父と子と聖霊の名によって洗礼を授かったものとして、丸ごと、責任を負ってくださる、すでにその責任を十字架によって取ってくださったいるそれが神の救いの業です。そのことのゆえにわたしたちは神の「愛する子」であり、「心に適うもの」です。そのことは永遠に揺るぎないことです。わたしたちのほうが、わたしなんてもう神様から愛されるに値しない、神様の心には到底適わないと思っていても、神の目からは違います。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」です。

  ですから、現在、洗礼を授かっておられない方が、いつの日かその恵みにあずかれますようにと祈ります。天が開け、神の祝福が降りそそぐ恵みにあずかっていただけますように。神様が良き時を備えてくださいますよう祈ります。ただし、いま洗礼をうけておられないことを負い目のようにお感じにはなられませんように。お一人お一人の上に、神の道が必ず備えられています。そしてすでに洗礼を受けている方々は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の祝福が片時も離れることのないことを覚えてください。そしていっそう神へ感謝をしつつ日々を過ごしていただきたいと思います。