大阪東教会 2014年6月1日主日礼拝説教
マタイによる福音書4章18~22節
「あなたは何を捨てますか」 吉浦玲子伝道師
今日の聖書箇所の主イエスのお言葉はただひとつ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」です。この言葉は、2000年前の4人の漁師たちだけに語られた言葉ではありません。いま会堂にいるわたしたちすべてが神によって「わたしについてきなさい」と声をかけられた者たちです。意識なさっていようとそうでなかろうと、わたしたちはすでに神に召され、「わたしのあとについてきなさい」といわれているのです。だからこそ、いま、わたしたちはここにいるのです。
しかし、今日の聖書箇所を読んで、私自身がどうしてもひっかかるのが、呼ばれた漁師たちがすぐに網をすてて従った、というところです。また、舟と父親を残して従った、というところです。漁師にとって網を捨てること、あるいは舟を残す、この残すという言葉も捨てるという言葉と同じ意味なのですが、舟を捨てるというのは、生活のすべてを捨てるということに他なりません。それまでの生活の基盤をすべて放棄するということです。それもすぐに、です。何年かかけて準備をして、ということではないのです。
私たちには私たちの生活があり、その生活基盤を根底から変えることは容易ではありませんし、もし、神がそのように何もかも捨てて自分に速やかに従うことを求められるのであれば、そんなことは到底できないという反発も覚えます。
昔、ある牧師が自分が牧師になるために献身した時の話をなさいました。先生は、献身した当時、普通に会社に勤めておられたそうです。30代の半ばで、学校に行っているお子さんが三人おられた。ちょうど家も買って、3800万円のローンを抱えた直後のことだったそうです。さあこれからますますはりきって家族のために働くぞ、そんな家庭も仕事も充実した壮年期に入ったところでの、召命、牧師になれという神の召しだったそうです。でもその方は、その神の召しにしっかりと応えられました。
また、昨年、大阪東教会に夏期伝道実習に来られたS神学生からも似たような話を聞きました。S神学生の同級生の話でした。その方は小さなお子さんを抱え、奨学金と借金でほそぼそと一家で生活をしながら神学校に通っておられるそうです。
こういう話を聞くと、すごいなと思います。すべてを捨てて献身をする、本当にすごいことだと思います。わたし自身も会社を辞めて献身をしたものです。ある意味、それまでの生活すべてを変化させたともいえるのですが、わたしの場合は子供も大きかったですし、それなりに準備の期間もありました。だから今日の聖書箇所のペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネが、すぐさま、すべてを捨ててイエスさまに従った、そこを読むと、すごいなあとちょっとコンプレックスを感じます。お子さんを抱えて献身した方々を偉いなあと思います。
でも、今日の聖書箇所は、ペトロはえらかったな、アンデレはえらかった、わたしたちも少しは見習いましょうね、というだけのお話しではありません。
そもそも神は必要な時に必要な人を召されます、それは断固としてそうされます。伝道者としての献身という場合は特にそうです。
神様がそう決めたらもうそうなってしまうんです。
人間の側の覚悟の問題ではありません。人間には拒否することはできません。
教会学校でお話しすることが多い物語にヨナ書のヨナの話があります。たいへん廃頽した大都会、罪に溢れた町ニネベにいって伝道しなさいという神の召しから逃げていくヨナの話です。海に放り出されて魚にのみこまれてしまうちょっとユーモラスなヨナの話は、物語としてもおもしろく、子供たちに話がしやすいところがあります。
実際、そのヨナのように、わたしたちもほんとうに神から召しを受けている時、逃げても逃げても神は追いかけてきます。神様はある意味、執念深いです。
ひとりひとりに召しを与えられる神様はその召しから絶対に逃がさない神でもあります。
そのような召しを「強いられた恩寵」という言葉で表す時もあります。ある意味、人間からみると有難迷惑ともいえます。でもそんな有難迷惑の恵みとしての召しからわたしたちは逃れることができません。
しかし、わたしたちの人生にはそのような神からの一見強制的な激しい召しだけがあるわけではありません。多くの場合、もっと静かな召しをうけています。日々、受けています。
そしてその召しの前に主イエスはわたしたちをご覧になります。18節に「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった」とあります。主イエスはありのままの、ごく普通の彼らの生活をご覧になったのです。彼らは特別な能力や技術があったわけではありません、ごく平凡な漁師として日々つつましく生活をしていた。そのありのままの姿をご覧になったのです。21節にも「ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると」とあります。その主イエスのまなざしは私たちにも注がれています。ありのままの私たちをご覧になります。ペトロたちの人生は変わり映えのしない日々の連続だったかもしれません。先週も少しお話ししましたが、ガリラヤ地方、ガリラヤ湖のまわりはそれなりに土地としては豊かな土地でした。荒れ野ではなく、花が咲き、果物が実っていました。主イエスは植物を良く例え話に使われたのはそのような背景があるからかもしれません。そしてガリラヤ湖にも漁をできるだけの魚がいたのです。ですからパレスチナ地方としては自然の豊かな場所だったのです。そんな自然に恵まれた素朴な町で、つつましく暮らしていたであろうペトロたちです。極貧ではなかったかもしれませんが、だからといって豊かではなかったでしょう。人生の先に大きな希望があるわけでもない、そのような生活だったでしょう。彼らのそんな日々の辛さや悲しみ、そして折々の喜びも主イエスはわかっておられたでしょう。
そして、私たちの悲しみも喜びもまた主イエスはご覧になられます。
そしてそのうえで私たちにおっしゃいます。「わたしについて来なさい」と。
その言葉は、ホイッスルを鳴らして、「さあ来なさい、集まりなさい」という号令ではありません。ひとりひとりに個別にかけられる言葉です。
わたしたちは日々、その言葉に従い、主イエスのあとをついていかねばなりません。主イエスのうしろなのです。前ではありません。自分で歩いていて、困った時にはわたしのあとから急いでやってきて助けてください、というのではありません。
でもここのところがやはり難しいのです。
私たちはなるべく自分で歩きたいのです。そんな自分で歩きたい自分を捨てるというのが信仰の歩みといえます。私たちが捨てないといけないのは、網や舟や家族ではなく、まず第一に自分です。自分のプライドであり、やり方です。<私はぜんぜんだめな人間でプライドなんてありません>とおっしゃる人もあるかもしれません。でも逆に自分はだめだという思い込みに縛られていませんか?そのように自分を自分で勝手に規定してしまう、制限してしまう自分も捨てないといけません。
一生懸命生きているとき、どうしてもこだわりもできてきます。わたしもどちらかというと、いろんなことにこだわります。これはこうでなくてはいけない、そんな自分自身のこだわりも捨てないといけません。
自分で自分の人生に縛りをかけてしまう、そのような考え方も捨てないといけません。現実的には介護がある、子供がいる、住宅ローンがある、さまざまな縛りがたしかにあるのです。でもそれを絶対視するのではなく、そこから人生を考えるのではなく、主イエスに聞きながら歩むのです。そうするとき、主イエスの光が差し込みます、がんじがらめのように見えた生活に別の視点、光が入ってきます。先週の聖書箇所で「暗闇に住む民は大きな光を見」とありました、その光は私たちの生活に射し込んで来る光でもあります。
でも、もちろんそれはとても難しいことでもあります。しかし少しずつ主イエスの後についていく歩みをしていくとき、私たちはわかっていくのです。昨日まで<私は自分はこうだ>と<こんな人間だ>と考えていた、その姿は本当の自分ではなかった、<これが自分の生活だ>と思っていた生活は本来の自分の生活ではなかった、と。ここはこうしないといけないと思い込んでいた、でも違うやりかたもあった、そういうことを主イエスに従っていくとき、わかってきます。そして、どんどんとわたしたちは自由に、大胆に生きていけるようになります。
でもそのように歩む人は少ないのです。聖書の中でも主イエスの奇跡を目の前で見たり、自分自身が癒された人でも、イエスのあとについていった人は少ないのです。わたしたちもまた、おりおりに自分勝手な道を歩んでしまいます。せっかく自由にだいたんに朗らかに生きていく道を、主イエスが先だって歩んでくださっているのに、窮屈で暗い方向に私たちは歩んでしまいます。しかし、道を外れたとしても、主イエスは探しに来てくださいます。ですから安心していいのですが、できれば、主イエスのすぐ後を歩んでいきたいものです。
そしてその歩む目的は「人間をとる漁師にしてあげよう」ということです。人間をとる漁師、それは人間を神の方へ、救いの方へ導く漁師ということです。それはなにも直接的に伝道をする、教会に導くということだけではありません。それぞれの生活の中で、わたしたちの家族を、また隣人を神の光の方へ導くということです。
私はむかし、いまでも多少そうなんですが、自分みたいなものがクリスチャンだというのは、かえって反伝道的なことなのではないかと思っていました。あんな人がクリスチャンなの~?!と、かえって私を見た人がキリスト教に反発を覚えないかと思っていました。ですから、できるかぎり隠れキリシタンというか、あんまり人前ではそういう話はしないようにと思っていました。
でもそういう心配はしなくていいのです。なぜなら、「あなたは人間をとる漁師になりなさい」と主イエスはおっしゃっているのではありません。「人間をとる漁師にしてあげよう」とおっしゃているのです。主イエスご自身が私たちを漁師にしてくださるのです。私たち自身が努力をして漁師になるのでもなく、漁師にふさわしくならねばならない、ということではないのです。だから安心していいのです。
ただ、もちろん主イエスが私たちを漁師にしてくださるのですが、私たちもまた私たちと出会うひとりひとりの姿と向き合わないといけなくなります。主イエスがわたしたちひとりひとりのありのままの姿をご覧になってくださったように、わたしたちも、ひとりひとりと真実に出会い、交わらないといけなくなります。
ビジネスライクな付き合い、形式的な付き合いでは、すまされなくなります。私たちは本当の意味での人間関係を要求されるようになります。肩書きや立場ではなく、その人そのものと出会わないといけなくなります。でもそれは幸いなことでもあります。会社に長くいて感じたことですが、もちろん優秀な人、力のある人は、影響力が大きいです。たくさんの人が周りに集まります。しかし、それほど役職も高くない、目立っている人でもない、でも、なんとなく周りに人がたくさん集まってくる人というのもいます。そういう人というのは地位や立場ではなくその人自身の人間的な力で、豊かな交わりができる人なのです。定年退職をしたあと、つまり肩書きや立場がなくなったとき、そういう人はたぶん役職が上で優秀だった人より、豊かな人生を送るだろうなと思います。
私たちも人をとる漁師となる時、自分自身の本来のあるべき人間として人と向き合う存在とされていくでしょう。しかもそれは自分自身の力でそうなるのではなく、主イエスがそうしてくださるのです。そして、それは家族や身近な人に対してもそうです。自分の子供だ、だからこうあるべきと見ていた子供の本当の姿を見ることになります、自分の親なんだからという枠で見ていたけれど、そうではなく一人の人間として見ていく、ようになります。それは場合によっては苦しいことであるかもしれません。しかし、そのような漁師として私たちは召されていくのです。
そのためにも大事なことは、「主イエスについていくこと」です。自分自身を捨てて、ただただ主イエスに従っていくことです。
その姿、、、仮に時に道に迷い、自分本位な歩みをして、繰り返し失敗をしたとしても、そのような歩みをしているあなたをきっとだれかが見ているでしょう。そのような私たちであっても、そんな私たちの歩みの前におられる方へ、わたしたちに先立って歩まれている方へと、やがて目を向けてくださる人が起こされるでしょう。なぜなら、主イエスご自身が、わたしたちをそのように召して人間をとる漁師としてくださっているからです。