何をしても世界は変わらない、と思う?
自分の受け止め方が変わるだけで、世界は簡単に変わる。
がらっと変わる。
駒込病院やマギーズ東京で活躍する栗原幸江先生が、ナラティブ・メディスンの講義で鮮やかにそれを実演して見せてくれた。
使った材料は一枚の絵、それと私たちの目、脳。
スライドにはワイエスのあの絵。
草はらに体をねじって座る「クリスティーナの世界」
どこか不自然なその体勢からは、現実と気持ちが引き裂かれたような葛藤が強く迫ってくる。
みんながそれぞれに感じたことを言う。
「あの家に行きたいけれど行けないみたい」
「もしかして見えない馬車から落ちた?」
「恨み、諦めを感じる」
その後、栗原先生は私たちに一つの情報を開示する。
この絵のモデルのクリスティーナはシャルコー・マリー・トゥース病で半身が不自由にもかかわらず、毎日欠かさず自力で草はらと自宅を往復していたこと。
それを見た画家にぜひにと請われて絵に描かれた、と。
すると一瞬で絵の印象が変わる。
何も変わらないはずなのに、私たちの解釈が変わることで複数の人には「空の色まで明るく見える」。
クリスティーナの体のねじれは最初から彼女の内にある戦いを表していた。
行きたい気持ちがあるのに、動かない体。
多くの人が叶わない願い、あきらめ、無念さを感じるかもしれない。
でも彼女の体が、そもそも不自由で動かないものであったのなら。
その体をひきずって這ってでも進む、という強い意志の勝利の物語に転換するのだ。
まるで手品のように「空の色まで明るく見える」。
栗原先生が見せてくれたのは、実は、特別なことではない。
そんなことは日々あること。
私たちが常にしていること。
だってそうやって私たちは自分の認知の仕方で自分の住む世界を形作っている。
そしてそれは非言語的に一瞬で伝わり、相手の世界をも変えてしまう。
「私」と「世界」とは、相互作用的な創造的なプロセスだから。
絵だから楽しい驚きの経験ですむけれど、
相手が絵じゃなくて人間だったら?
怖いでしょう?
自分の受け止め方が変わるだけで、世界は簡単に変わる。
がらっと変わる。
駒込病院やマギーズ東京で活躍する栗原幸江先生が、ナラティブ・メディスンの講義で鮮やかにそれを実演して見せてくれた。
使った材料は一枚の絵、それと私たちの目、脳。
スライドにはワイエスのあの絵。
草はらに体をねじって座る「クリスティーナの世界」
どこか不自然なその体勢からは、現実と気持ちが引き裂かれたような葛藤が強く迫ってくる。
みんながそれぞれに感じたことを言う。
「あの家に行きたいけれど行けないみたい」
「もしかして見えない馬車から落ちた?」
「恨み、諦めを感じる」
その後、栗原先生は私たちに一つの情報を開示する。
この絵のモデルのクリスティーナはシャルコー・マリー・トゥース病で半身が不自由にもかかわらず、毎日欠かさず自力で草はらと自宅を往復していたこと。
それを見た画家にぜひにと請われて絵に描かれた、と。
すると一瞬で絵の印象が変わる。
何も変わらないはずなのに、私たちの解釈が変わることで複数の人には「空の色まで明るく見える」。
クリスティーナの体のねじれは最初から彼女の内にある戦いを表していた。
行きたい気持ちがあるのに、動かない体。
多くの人が叶わない願い、あきらめ、無念さを感じるかもしれない。
でも彼女の体が、そもそも不自由で動かないものであったのなら。
その体をひきずって這ってでも進む、という強い意志の勝利の物語に転換するのだ。
まるで手品のように「空の色まで明るく見える」。
栗原先生が見せてくれたのは、実は、特別なことではない。
そんなことは日々あること。
私たちが常にしていること。
だってそうやって私たちは自分の認知の仕方で自分の住む世界を形作っている。
そしてそれは非言語的に一瞬で伝わり、相手の世界をも変えてしまう。
「私」と「世界」とは、相互作用的な創造的なプロセスだから。
絵だから楽しい驚きの経験ですむけれど、
相手が絵じゃなくて人間だったら?
怖いでしょう?