ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

塩竈の遊女屋・・・遊女番付

2011年10月16日 07時18分10秒 | 塩竈の散歩道
鹽竈神社を調べる為に、塩竈市史を見ていると遊女の記述がありました。
簡単に纏めてみます。

遊女の名前や出生地、遊女屋の屋号などが塩竈市雲上寺の過去帳などから、その背景が見えてきます。

心中した者も記録に残っています。
遊女・・・・が正然了覺信士と云う者と「両人相対自殺」と注記され、誰人からかの廻向料手形三十枚寄進により「正忌年忌當山而可弔也」と過去帳に記入されている。

もう一件は、安政五年十二月の安倍屋治良右衛門下女千代治で、速室妙脱信女の法名には彼女は江刺郡伊手村百姓庄治方の幸治と云う者と心中した。

出生を記しているものには、最上・庄内・秋田・伊達などがあり、仙臺領内以外に他領からも流れて来た者が居たことがわかります。

法名ですが、上記の二名以外は全部二文字となっています。
一般の人は4字、下人・下女などは二字と云うのが法名の通例のようです。
雲上寺の住職も二字名は遊女と聞いているそうです。

法名には、生前の容姿や行動をほうふつさせるようなものも見受けられます。
貞倫信女・妙軟信女・楽法信女・妙蓮信女・荷香信女・紅蓮信女・善容信女などが存在します。

また、幼少で買い取られたと思われる、麗香童女・専光童女など童女を附したものがあり、私達が時代劇などで観るこの世界は現実のものと実感させられますね。

それから、子持ちの遊女がいたこともわかる記載があります。
「大浦屋卯吉下女子供珠光童子」とあります。

多種多様な遊女達がこの塩竈の門前町や港町にいたことが推察されます。

遊女屋の屋号

長居屋傅七・山形屋文之丞・阿部屋勘助・安部屋七十郎・阿部屋玄助・阿邉屋久作・
阿部屋勘左衛門・餅屋興兵衛・安部屋治両右衛門・林屋清治・丹野屋三蔵・松本屋又三郎・
田中屋太兵衛・佐藤屋千太郎・大浦屋卯吉・ゑびす屋清重郎  などが見える。

なんか、今でも末裔の方が商人として現存していそうな苗字が見当たりますが?

遊女は塩竈と石巻に限って許可が出ていたようです。
特に塩竈は仙台の城下から近い為、繁盛を極めていたそうです。
塩竈街道(今の岩切から多賀城の政庁跡や多賀城碑の前を通り塩竈に出る道です)をせっせと通ったそうですよ。
「電狸翁夜話」には当時遊女屋の数が七十二件あった云う記述があります。
中でも田中屋・大友屋・餅屋などは遊女の数が三十人から五十人余命に及び、他にも三十四名から十余名を抱え込んでいたと云います。
この数はかなり多いので藩政末期頃だと認められます。

塩竈町遊女番付



こんなのがあったとは、一枚には四十名の遊女が名を連ね。
遊女屋としては、田中・餅・新店・大友・小竹・佐藤・大竹・鈴木・平賀・橋本・石や・宮き・丸一の十三軒の名が見えます。

写真は無いのですが、もう一枚には遊女五十七人の名前が載っているそうです。

明治十三年の娼婦方留という、文書綴りによると、当時塩竈で営業を許されていた貸座敷業者は、安部治郎右衛門・大浦卯吉・佐藤仙太郎・大友たい・藤元吉・田中辰之助・市川利吉・餅與左衛門・千賀よの、の九人であり、番付にも名を連ねた古い遊女屋は姿を消している。

近年になると違反者続出し、お咎め覚悟の営業者も現れたそうです。
文政九年に遊女黙認主義を取り消され、塩竈町に大きな衝撃を与えた。
この頃、藩の財政は切迫していたようだ文献によると藩主伊達斉義は大阪富商に金を借り二十年の分割払いをしている。(漢文なので多分)
それで家臣生計の回復を計るため「風習の一新」を意図としたのです。
つまり、家臣達の無駄遣いを無くす為なのでしょうで。

しかし、これだけ盛んになった風習は簡単になくなりません。

その頃の塩竈には二百十六人の賣女と二十六軒の遊女屋、六軒の貸遊女屋、十四軒の小宿貸座敷があった。

二十六軒は表面は旅籠となっているが、実際は遊女屋であり、十四軒は他人に借して遊女屋を経営させていた。
小宿貸座敷とは、自分の家には遊女を抱えないで、ただ遊興の場所だけを提供するところです。

その屋号の名前と抱遊女の数は次の通りです。

旅籠屋 表向きの遊女屋

杉坂町 阿部屋勘六   下女 四人 杉坂=表御坂(男坂)
 〃  久右衛門    〃  八人
 〃  西屋庄七    〃  六人
 〃  阿部屋一右衛門 〃  七人
西 町 大竹屋甚蔵   〃 十二人   西町=今でも変わりませんね。
 〃  福蔵      〃  八人
 〃  菊地屋九蔵   〃  五人
 〃  勘助      〃  四人
 〃  佐藤屋勇蔵   〃 二十人
 〃  庄司屋七蔵   〃  九人
新井町 残間屋清十郎  〃  四人   まだ見つけていません「新町?」「ニ井町?」
 〃  鈴木屋與十郎  〃  六人
 〃  宮城屋長五郎  〃  二人

「旅籠屋無之外々かし遺候由」の者 

法蓮寺門前 佐藤屋仲之丞  下女  二人  裏坂でしょうね。
  〃   鈴木屋與治平  〃   三人
  〃   山形屋勘次郎  〃   三人
  〃   森屋長吉    〃   三人
  〃   海老屋亀之助  〃   四人
  〃   田中屋太兵衛  〃 二十六人
  〃   丹野屋こま   〃   四人
  〃   丹野屋喜兵衛  〃   九人
  〃   萬屋徳(清)兵衛 〃  十二人
  〃   千葉屋養之助  〃   三人
  〃   餅屋與右衛門  〃  十三人
  
本 町   千賀屋三四郎  下女 十二人   現在と同じです。

海岸新屋敷 丸一屋長之助  下女  四人
  〃   佐藤屋市太郎  〃   五人

新 町   南條屋善四郎  下女  二人

杉坂町   白坂屋千 蔵  〃   一人
 〃    清水屋後家女  〃   一人

入口橋本茶屋 大入屋富蔵  下女  二人

御釜前横町橋本 田中屋重右衛門 下女 四人

小宿貸座敷

塩竈町入口赤坂  長五郎
杉坂富屋     清四郎
清川屋      文蔵
小松屋      善兵衛
新井町      きせ
大竹屋      久蔵
海岸新屋敷    喜太郎
石や       喜戸治
杉坂井戸中    仲兵衛
杉坂、富屋    甚三郎
小松屋      金次郎
西町、河倉    三蔵
豆腐屋      銀助
海老屋      藤蔵
新屋敷      又三郎
 
割愛しますが、後に厳しくなり、百二十五人を退去させ、其々の郷に帰した。
近くで隠れて営業しないように新築や建物に制限があり、不相応な物は許可されなかった。
また、石巻に鞍替えしないようにチェクがあった。
七十六人は病気、身元不持、などの理由で残留した。

今もまだ建物が一部残っている内に記録しておきたいと思います。
老朽化が激しくなり、壊されていますので急がないと・・・

この記事については以前尾島町・遊郭と塩竈で書いています。

  

また、杉入
元禄十三年(1700)頃の仙臺海道の開通に伴い、牛尋淵と呼ばれた入江の最奥部を埋立て、利府海道と共に新たに形成された街区で、下級の遊郭街となっていた。杉林が深く茂る一森山のたもとであることが名の由来。




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4 コメント

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くだまきでは・・ (酔漢です)
2011-10-16 10:18:48
九月に祓川の跡地を旧道から見た写真を掲載しました。実は、建物を後ろ側から見たとき、遊郭跡の建物が見えるかなとも思いました。
川跡ですので、今では横丁ごとに橋が架かっており、家々の勝手口に繋がっているのでした。
表参道からの道が区画整理されて、嘗ての面影も少なくなりました。
あの辺り(山勘酒造の周辺)に遊郭が集中していた。と聞いたことがございます。
さて、以前にもお尋ねしたのですが、「女郎山」の由来が分からないでいます。
信号灯のある岬の突端のような山で、北浜~小松崎へつながる最初のところ。「一森寿司」の丁度後方「喜久屋」(ラーメン屋さん)が入口となります。あの急な階段を登って、段々畑のように家々が立ち並ぶ。あの辺りを僕らはこう呼んでおりました。
記録(塩竈市史、風俗記録など)を調べましたが、名前が出てきませんでした。
返信する
酔漢さんへ (ひー )
2011-10-16 15:40:38
女郎山は通称ですが一般に使われていた地名ですね。
間違いなく女郎に関係するのでしょう。

何度か足を運んで調べるつもりですねで 、気にかけておきます 。 私も知りたいので。
j
返信する
お~ (維真尽(^^♪)
2011-10-16 18:11:44
番付なんてものがあるんですね
それに~
まだ建物が残ってるんですね
返信する
維真尽さんへ (ひー )
2011-10-16 19:00:38
まぁAKBみたいなものでしょうね。
写真があったら楽しいかも?
当時好まれている容姿がわかりますね。
返信する

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