水泳のバタフライの第一人者・松田丈志選手は、
10月に新たなスポンサーが付いたばかりですが、
東京辰巳国際水泳場で行われた
FINA競泳ワールドカップ東京2010、
200㍍バタフライに出場し
短水路(25㍍プール折り返し)の
日本新記録をつくって優勝しました。
また、日本水連のホームページによりますと
ベストパフォーマンス賞(FINAポイント最高賞)を獲得、
とあります。実に幸先良いスタートを切ったと思います。
朝日新聞スポーツ面のコメントを引用しますと、
>日本新記録だと確認すると、
珍しく大きなガッツポーズを繰り返した。
序盤から積極的に出て、100㍍までは世界新のペース。
「今までにない力強さとスピードを感じて泳いだ」。
キックと腕のかき方のタイミングを考え、
上下動の少ない泳ぎを志向している最中で、
「うまくいきました」。
新所属先も決まったばかり。
「いいタイミングで記録が出た。
次へ向かっていけます」
先日当ブログでオファーがあったことを書きました。
きっとスイミングキャップにスポンサー名が入ると、
予想していました。
が、しくわ~し(しかし)、
残念ながらコスモス薬品のスポンサー名、
私は見つけることができませんでした。
前方にアリーナかアシックスかのマークは確認しましたが、
まぁ、これからでしょうか。
では経済的にどうか、
一昨日のコスモス薬品(一部上場)の株価に注目してますと
年初来高値を記録してました。
これってひょっとして“松田効果”
などと密かに期待してた私でした。
一方、パ・リーグCSを制した
ロッテの西村徳文監督の話題にも先日触れました。
新聞の「ひと」の欄に登場するかも、
などと期待してました。
朝日新聞しか取っていませんが、
載っていました。
こちらは20日付2面に
西村監督の「人となり」が紹介されています。
ロッテ一筋の生え抜き監督。
朝日の「ひと」欄を一部引用。
>低い前評判を覆したチームの姿は、
エリートコースとほど遠かった自身の選手歴と重なる。
県立福島高校から鹿児島鉄道管理局を経て、
1982年、ロッテに入団。
「無名校、無名チーム(ノンプロ・鹿鉄)の出てしょ。
プロで頼れる先輩もいなかった」。
凡退してベンチに戻ると、
「誰だよ、こんなやつを取ってきたのは」。
首脳陣からわざと聞こえる声でののしられた。
-とありました。
その後、スイッチヒッター(両打席打ち)に転じて
球場近くのホテルに泊り込んでバットを振り、
86年から4年連続盗塁王、90年に首位打者と
この時代はすっかりパ・リーグを代表する選手に。
西村監督や福良ヘッド(現日本ハム)の時代からですかね、
プロ野球で活躍する郷土出身者宮崎県人会が組織されたのも、
その後、後輩達がセ・パ両リーグに入団して活躍し始めました。
その礎を築いたのがこの二人ではなかったかな。
と記憶しています。
宮崎の野球界の発展のために。
後に田中幸雄さんらが続き、
木村拓也さんや黒木知宏さんの時代へと続きます。
10月に新たなスポンサーが付いたばかりですが、
東京辰巳国際水泳場で行われた
FINA競泳ワールドカップ東京2010、
200㍍バタフライに出場し
短水路(25㍍プール折り返し)の
日本新記録をつくって優勝しました。
また、日本水連のホームページによりますと
ベストパフォーマンス賞(FINAポイント最高賞)を獲得、
とあります。実に幸先良いスタートを切ったと思います。
朝日新聞スポーツ面のコメントを引用しますと、
>日本新記録だと確認すると、
珍しく大きなガッツポーズを繰り返した。
序盤から積極的に出て、100㍍までは世界新のペース。
「今までにない力強さとスピードを感じて泳いだ」。
キックと腕のかき方のタイミングを考え、
上下動の少ない泳ぎを志向している最中で、
「うまくいきました」。
新所属先も決まったばかり。
「いいタイミングで記録が出た。
次へ向かっていけます」
先日当ブログでオファーがあったことを書きました。
きっとスイミングキャップにスポンサー名が入ると、
予想していました。
が、しくわ~し(しかし)、
残念ながらコスモス薬品のスポンサー名、
私は見つけることができませんでした。
前方にアリーナかアシックスかのマークは確認しましたが、
まぁ、これからでしょうか。
では経済的にどうか、
一昨日のコスモス薬品(一部上場)の株価に注目してますと
年初来高値を記録してました。
これってひょっとして“松田効果”
などと密かに期待してた私でした。
一方、パ・リーグCSを制した
ロッテの西村徳文監督の話題にも先日触れました。
新聞の「ひと」の欄に登場するかも、
などと期待してました。
朝日新聞しか取っていませんが、
載っていました。
こちらは20日付2面に
西村監督の「人となり」が紹介されています。
ロッテ一筋の生え抜き監督。
朝日の「ひと」欄を一部引用。
>低い前評判を覆したチームの姿は、
エリートコースとほど遠かった自身の選手歴と重なる。
県立福島高校から鹿児島鉄道管理局を経て、
1982年、ロッテに入団。
「無名校、無名チーム(ノンプロ・鹿鉄)の出てしょ。
プロで頼れる先輩もいなかった」。
凡退してベンチに戻ると、
「誰だよ、こんなやつを取ってきたのは」。
首脳陣からわざと聞こえる声でののしられた。
-とありました。
その後、スイッチヒッター(両打席打ち)に転じて
球場近くのホテルに泊り込んでバットを振り、
86年から4年連続盗塁王、90年に首位打者と
この時代はすっかりパ・リーグを代表する選手に。
西村監督や福良ヘッド(現日本ハム)の時代からですかね、
プロ野球で活躍する郷土出身者宮崎県人会が組織されたのも、
その後、後輩達がセ・パ両リーグに入団して活躍し始めました。
その礎を築いたのがこの二人ではなかったかな。
と記憶しています。
宮崎の野球界の発展のために。
後に田中幸雄さんらが続き、
木村拓也さんや黒木知宏さんの時代へと続きます。