おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

資本主義は自然界にそぐわない。ではどうしたらいいか。

2006年09月26日 02時15分39秒 | Weblog

http://heiwatou.com

 

連合国と同盟国の経済思想の違いが、第二次世界大戦の一つの要因であるとした。こんにちでは、国際連合をあがめ、英米型・アングロサクソンの経済が国際的に主流になりつつある。日本の企業もM&Aやら、ホリエモンやら村上ファンド、あるいは王子製紙などなど経済の風潮が変わりつつある。日本やドイツの企業は銀行から借りるという間接金融であり、米国や英国の企業は株式など証券で調達する直接金融である。 間接金融というのは、銀行に預ける人がいて、それを仲介するのが銀行。銀行が企業に融資する。直接金融というのは、企業に対して株主が直接融資するという意味である。 今後、日本は米国政府の圧力・あるいはそれが改革なのだという自民・民主などの発想により、より英米型に近くなってくると思われる。しかし、日本人には肌が合わないので、長くない期間に拒否されるだろうと予測する。 自然主義経済における金融はどうなろうか。まずは、金融というものがなぜゆえに存在しているのか自体を考えなければならない。結論から言うと、お金がモノ・サービスよりも上回った力を持っているからである。お金というものは一円持っているよりも一万円持っているほうが力がある。一万円は一円の一万倍ではない力がある。一億円は一円の一億倍以上の力がある。指数関数的に力は増大する。現行の経済制度は、資本が集中しているときにはじめて大きな力を生み出す。世間では、資本主義経済と呼ぶが、企業の弱肉強食競争をやると資本主義で、政府に資本を集中させることを社会主義と呼ぶが、どちらも資本の集中力を利用して運営しているため、どちらも資本主義経済である。自然主義経済は、資本が集中してもなんのメリットもないことを作り出す。 自然界の中には、例えば水はダムなど貯留させて、一気に排水すると大きな力を持つ。これには役立つ事もあるが、それは資本主義経済がそれを利用しているからである。自然界に則した水の利用は、ちょろちょろと分散させて、農業を行うことである。いっぺんに大量に使用すると破壊が生まれる。 電力などは、一箇所で集中的に生産してそれを膨大な送電ロスを計算して送られてくる。しかし、太陽や風力による発電は、各々の場所において発電され、地産地消型となる。これと同じことが、自然主義経済でも行われる。 資本主義経済では、地産地消型社会をつくるには限界があるからだ。 資本主義経済のまま維持するのであれば、現行のシステム、すなわち一箇所で作る、「資本の集中」力を利用するしかない。しかし、これが最終的には破壊をもたらすことは目に見えている。 先月であったか、東京・杉並区の地域センターにおいて、青森・六ヶ所村の原発問題に関しての映画会及びパネルディスカッションがあった。 ようは原発反対の人々の集会なのだが、私はここ数年こうした人たちと行動をともにしなくなった。反対を唱えてはいるが、それではどうやって食べていくのかについて言及されないからである。危険なのは誰でもわかる。むしろ、危険であるのに安全であるかのように取り繕わなければならない経済構造に問題があるのであって、「原発が危険だ」と百万回念仏のように唱えても打開されるわけではない。 自然エネルギーにすればよいというが、「経済と環境の調和」は、資本主義経済を前提とする限り、プラス利子の構造上、不可能なのである。 だから、原発反対という政治活動には、明るい未来は隠されていない。 各々の政策課題の中に解決方法があるのではなく、政策分野をグローバルに考えて、大本に問題がある。 人間は表面上にとらえられてしまうが、六ヶ所村にも、原子力発電にも、その原因の種があるのではなく、貨幣という制度に種がある。 原発を賛成する、あるいは賛成しなければならない人たちというのは、原発によって産業が成り立つからである。経済というのは波及するものなので、発電所の労働者が増えれば、その地域でごはんも食べるし、ゲームもやるし、服が汚れればクリーニングにだすなどなど、ずーっと波及していくのである。 海が何千万年汚れようと知った事ではないと、このようになるがハッキリ言わず、いろいろ言い方を変えて正当性を打ち出さなければならなくなるのである。 こういう人たちの気持ち、そして反対する人たちの気持ち、みなが幸せになる方法を考えなければならない。つねに政治とはどちらかの立場に立って、相手を非難するものだから、一向に片付かないことだらけである。だから、それよりも平和党の提唱する自然主義経済が、環境問題以外の政策であっても、すべてはここに帰結するのである。 「資本は集中してこそ力を持つ」という、この命題を根底からひっくり返さなければならない。これについては、今まで当然と思っていた事に対して、柔軟に頭を切り替えないと難しくなる。 冒頭に話を戻すと、金融に存在価値があるのは、モノは時間とともに腐るが、お金は増えていく(低金利・ゼロ金利であっても間接的に)というものが逆になる。すなわち自然界にあるそのままの姿となる。 今まで、株主が企業に投資するのは、お金を持っていても増え方が少ないので、より多く増えるように企業に融資する。 企業はモノ・サービスを売ってお金に変えて株主に分配する。 銀行であれば、企業に融資して、利子をつけて返済してかせぐのである。 しかし、自然主義経済では、お金よりもモノ・サービスに高い価値を置くので逆転する。 お金を貸すと、返済時には減額されて返されるわけであるから、誰も融資もしないし預貯金もしない。 ケネディ論 http://www.geocities.jp/seitouheiwatou/set-sizensyugikeizai.html では、 百年先、千年先に経済的収穫があるものが、その価値をなくす。 したがって、自然通貨の保有者は、このような投資行動はせず、消費に廻す。 こうなるとどういうことが生まれるか。 例えば、今までいやいやながら労働させられていた人たちに朗報となる。 フリーターもニートもいなくなる。政府も野党もニート対策はとてつもなくとんちんかんである。 自然主義経済を実行すれば、自分の就きたい職業に就ける。 作家になりたい人は本を書き、絵を描きたい人は絵を描いて生活できる。 勿論、質が悪ければ売れないのは同じであるが、こういうものは同質ではないから、 資本主義時代と違って、全く売れないということはない。 科学技術の分野では、投資しても採算のとれない可能性があるため、不況時には研究費削減となり、儲からない技術開発はできないものであったが、これも自然主義経済で解決される。 なぜなら、企業は投資よりも消費に廻すからである。また、投資するにしても、お金そのものではなく、技術開発など、より実質的なものに自然通貨は回っていく。 企業が得た利益は、減価される直前までに使わなければ意味はなくなる。 そこで売上は、研究開発にまわされることとなる。株主も銀行もいらない。 だから、お金ではない投資の方法、すなわち技術開発のための諸費用、高齢者・障害者のための寄付などに回る。 したがって最終的には政府はいらなくなる。 自然主義経済というのは、仲介を必要としない。すべてが直接ということになる。 政府の存在は、仲介する事によって権力を得て、これが自分のものなのだとして他国と戦争を始める。 縄文時代に戦争はなく、弥生時代に殺し合いが行われたのは、富を蓄積させる方法を知ったからである。 成功するか失敗するかわからないものに、企業はなるべく冒険したくはない。 しかし、自然主義経済は、ありとあらゆる冒険が可能になってくる。 支払ったお金は、受け取った人にとってみれば、またすぐ使わなければならない。 お金がババ抜きのジョーカー化するわけで、流通速度は速まる。 ここでよく聞かれることは、「そんなに流通速度が速まったら環境破壊が促進されるのではないか」ということ。 しかし、よく考えていただきたいのは、環境破壊というのは、自然界に戻らないものを資本主義経済が作ってきたからである。それが一番いい方法だからだ。 いちはやく、お金に変換しなければならないから、経済的には効率のよいものに走ることとなる。 例えば、プラスチックは低コストでできるが、環境破壊につながる。 プラスチックをリサイクルするのにもコストがかかる上に、さらなる二酸化炭素を排出する。 この悪循環は、企業の体質が悪いのでもなく、政府が悪いのでもなく、市民が悪いのでもない。 彼らを糾弾したりしても何も始まらない。でもそういうのが好きな政治家も民主党や社民党、共産党にはいるから勝手にやらせておけばよい。 このようなことを是とする経済のシステムがおかしいのである。 それを許しているのは、自民党であり、民主党であり、官僚であり、学者である。 あるいは、この制度の利権にあぐらをかいている企業である。 自然主義経済では、資本主義経済上の低コストとは、自然界に負荷を与えない低コストになる。 なぜか、それはお金よりもモノに力を与えたためである。 したがって、西洋医学から生まれた治療方法、ようするに自然界にそぐわない、自然征服型の治療方法は今後見直さざるを得なくなる。 東洋医学では、新薬が開発される事はほとんどない。(資本主義の常識が加わってくれば別) 次々に新薬を作らなければならなくなるのは、資本主義上、フルモデルチェンジを必要としてそのために儲けを出さなければならないということからきている。 もう一つは、人類が次々に新薬を開発するため、自然界はそれに抵抗する菌が生まれてくるということにある。 そこで新薬を飲用した排泄物は、肥料などには全く適さず、大地に害を与えるばかりだ。 医食同源に基づく医療・薬事のシステムにする必要がある。これは東洋本来がもっていたアイデンティティである。 西洋医学は、病原菌を破壊していくことを考えるが、その破壊した薬の成分はいずれ報復にあう。東洋医学は、全体的に調和することを目的とするため、時間はかけても調和していく。このため、あらたな開発を必要としない。 欧米から「発展途上国」などと呼ばれるのも、このような背景がある。東洋の文明とは停滞しているのではなくて、自然界と調和しているのである。 コンクリートで埋めていく事が発展であると勘違いした世界観はもうすぐ終わらざるをえないほど地球は汚染されている。それから、自然主義経済導入のはじめのころは、すでにある自動車の燃料をバイオにするとか菜種にするとか、あるかもしれないが、エンジンという動力そのもののやり方も、技術的には大きく変わるかもしれない。


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