おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

何になったか、よりも何をしたかが重要

2009年12月06日 20時03分21秒 | Weblog
現代に置き換えれば、形式主義者=公家側というのは、憲法をどうしろだの、教育基本法をどうしろだのという教条主義者である。教条主義者は常に善悪中毒とワンセットにあり、低レベルな波長同士が共鳴しあうので、いつもネガティブ志向にある。目くそ、鼻くそを笑うと言うように彼らは自分の真逆の思想を無視できず常に気になってしょうがない。真逆思想の悪口をグダグダ並べることによって彼らは満足する。


ブラックジャーナリストや、政府の不正を見つけて喜ぶ者たちで、彼らは他人の欠点をよく見ていて、己の欠点には気づいていない。他人の欠点を指摘している内容が、全くそのままその主張者本人にバッチリ当てはまるのだが、本人には全く自覚がない。そしてこういう人は脳内にストレスを貯めるので病気になりやすい。己は社会のためにやっているつもりだろうが、人を呪わば穴2つの原理が否応なく彼らに押し寄せる。私はこういうブラックジャーナリストや市民運動家の末路をよくみてきたが、それは実に哀れなものである。ほとんどの人間は死ぬまで自分の間違いに気付かない。


彼らは常に形式主義にあり、法律を変えさえすればそれが改革になると信じているのである。すなわち形式を先行させることによって、実態は実現されるだろうという考えを持つ。上からの改革をなせば、下まで行き届くと考えている。これがお公家さん発想である。


民主党は野党時代に、自分たちに政権が回ってこないので政策の実現が不可能であるからと言って逃げてきた。しかし今や与党となった。つまり上からの、形式からの政権獲得をなしたので、これからは実態がついてくると信じているだろう。だから民主党も公家発想である。

自民党もまた公家発想で、上からの改革をやるが、常に下まで行き渡らない。下に行く途中にいくつもの抵抗にあう。

政治をどう変えようとも、行政がついてこない。行政がついてきても国民がついてこないということが起きる。

これが乱世にしばしば起きる。

この状態が長く続き、これまで長らく続いてきた制度が一挙に崩壊し、新たな時代を迎えるのである。

崩壊側の最大の特徴としては、伝統を重んじるというところにある。「今までこうだったんだから今後もこれを残していかなければならない」というところにこだわる。しかし、民にとってはその伝統こそが生活の足かせになっており、その形式的空虚な伝統を破壊することが新しい時代のリーダーたちに求められることである。

その破壊とは、実態によってなされる。先に示したように、伝統でこの土地は誰々が支配していますとなっているのだが、武人たちによってその形式は無視され実態によって変革がなされる。実態が先行し、法的根拠を後から作り出す。実態がまずあり、形式は追認であるのだ。


時代の切り替わりのときに常に生じているのは「政権を取ったから変革がなされた」のではなく「変革がなされたから政権を取った」という実態先行にある。

つまり、平和党政権になったから自然主義経済が実現されるのではなく、自然主義経済が実現されたから平和党政権になったということになろう。

人は何の地位になったかということよりも、何を実際にやったかということが重要であるのだが、治世においてはこうはならず、乱世においてはなされる。

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