前略、ハイドン先生

没後200年を迎えたハイドン先生にお便りしています。
皆様からのお便り、コメントもお待ちしています。
(一服ざる)

マーラー 交響曲第2番ハ短調『復活』 (N響定期)

2010-11-21 00:48:03 | NHK交響楽団
N響定期公演で
マーラーの交響曲第2番ハ短調『復活』
を聴いてきました。

マルクス・シュテンツ指揮
クリスティアーネ・リボーア(ソプラノ)
アンケ・フォンドゥング(アルト)
東京音楽大学(合唱)


『復活』は一時期よく聴きましたが、久しぶりの生演奏です。

ですから、すっかり忘れていました。
『復活』がとんでもない曲だということを・・・。


第1楽章はもともと
『葬礼』という名の交響詩として作曲されました。
マーラー自身のピアノによる演奏を聴いた
指揮者のハンス・フォン・ビューローは
「これが音楽なら、私には音楽がわからない」
と語ったそうです。


ハイドン先生、そしてモーツァルトが創り上げた
交響曲の概念を大きく変えたのはベートーヴェンです。
おそらくベートーヴェンによって
交響曲に「意味」が付加されたのでしょう。


今日、『復活』の第1楽章を聴いて、
「マーラーが、再び交響曲の概念を変えたのだ」
そう感じました。
まさに、この交響曲第2番ハ短調『復活』によって。

ビューローの感覚は正しかったのだと思います。
恐ろしいほどの緊迫感をもって迫りくる、
そして、緊張感を聴き手に強いる曲です。

シュテンツの指揮は
音量の強弱、テンポの緩急共に振り幅が大きく、
それがこの楽章の緊張感、緊迫感を増大させます。


第1楽章終了後、指揮者が椅子に座って休みをとりました。
さすがに指示通りの「5分以上」とはいきませんでしたが。


第4楽章「原光」は、
普段、単独で聴いても特に感慨はないのですが、
コンサートで聴くと、必ずといっていいほど
"ぐっ"と胸にくるものがあります。
それまでの緊張感から開放され心が癒されるからでしょうか。


そして第5楽章。
トロンボーンとテューバによる「怒りの日」のコラールと
「復活」の動機が登場した後、展開部に入る部分の
ティンパニのクレッシェンドするトレモロの異様な長さ!

巨大オーケストラの嵐が過ぎ去った後の力強く壮麗な合唱。

 生まれて来たものは、滅びなければならない
 滅び去ったものは、蘇らねばならない
 死ぬのだ、再び生きるために
 蘇る、そう、汝は蘇るのだ・・・

堪えきれず、涙が溢れ出てきました。


改めて「凄まじい曲」であることを実感しました。



ところで
「マーラーを観る」のエントリーでは書きませんでしたが、
随所にでてくる木管楽器群の「ベルアップ」も異様です。

あと、CDで聴いている時はあまり気が付きませんでしたが
コール・アングレが大活躍します。
N響のコール・アングレは女性(池田昭子さん?)ですが、
いつも、安定感抜群の美しい音色で奏でてくれます。


定期公演で、初顔合わせの若き指揮者と
これだけの演奏ができるN響の実力はやはり凄いと思います。
それと、自分の持ち味を存分に出してN響を纏め上げた
指揮者マルクス・シュテンツも。

ショルティ&シカゴ響の美学 その2

2010-11-17 08:42:24 | クラシック音楽
遊歩道さんにブログ(a one-minute coffee break)のコメントで
御賛同?頂けたので、調子に乗って第2弾です。


例えば2時間の映画があって
一般的にはほとんど見所のない駄作だったとしても、
一箇所でも自分の琴線に触れる科白やカットがあれば、
私にとっては何度も見返す"名作"になります。

500頁の中で1行でも、
自分が考えもしないような"思想"や
目を開かせてくれるような"価値観"が書いてあれば、
他の部分が凡庸であってもその本は"名著"になります。


指揮者ショルティの日本での評価は、決して高くはありません。
特に宇野功芳氏およびその流れをくむ「批評者」方は、
"憎悪"に近い感情をお持ちのようです。

しかし、障害があるほど恋人達の愛の炎は燃え上がるように、
私のショルティへの想いも増すばかりです。


マーラーの交響曲第6番「悲劇的」と並んで、
同じくマーラーの交響曲第9番にも
私の琴線に触れる「ショルティ&シカゴ響の美学」があります。

第1楽章冒頭から3分ほど経った辺りです。

「悲劇的」と同様、
オーケストラの音量が増していくにつれ徐々にテンポを落としていき、
緊張感が頂点に達した瞬間、全てが消えるように"平穏"が訪れます。


もちろん、そのように楽譜が書かれているのですが、
ショルティの表現は、他とは明らかに異なります。


例えるなら

 声を限りに何かを叫ぼうとした瞬間、
 その言葉を「ん」と飲み込んだような・・・
 その想いが「ふっ」と消えてしまったような・・・

あるいは

 永らく失われていた「情熱」が湧き上がってきたけれど、
 しかしそれは、若き日のように何かを形作ることなく、
 (消える直前の炎の揺らめきだったのか・・・)
 諦観にも似た心の静けさが訪れるような・・・

そう、まるで打ち寄せた大波が消えるかの如く・・・


いろいろな演奏を聴きましたが、やはりこの感覚だけは
ショルティ&シカゴ響でしか味わえない独特の表現です。


第6番第1楽章(アレグロ・エネルジコ)の勇壮さと
第9番第1楽章(アンダンテ・コモド)の穏やかさ。
正反対の音楽ですが、ショルティが表現しようとする美意識は同じです。


マーラーの交響曲第9番には多くの名演・名盤があります。
バルビローリ、カラヤン、バーンスタイン・・・
どれもいい演奏だと思います。
今では「伝説」となっている、
バーンスタイン&イスラエル・フィルの演奏も生で聴いています。

しかし、80分を超えるこの長大な曲の「あの瞬間」。
第1楽章のあの一瞬があるが故に、
ショルティ&シカゴ響の演奏は私にとって「絶対」なのです。


前回も書きましたが、宇野氏をはじめとする「批評者」が
ショルティを毛嫌いする理由の"ある一部分"は
わからないではありません。

私も正直、
ショルティのブルックナーを好んで聴くことはありません。


でも、"その人たち"にはわからない「美」を私は知っているのです。
それは、大袈裟かもしれませんが、
自分だけが、まだ誰も知らない宇宙の真理を発見したような、
「優越感」なのです。

『ラヴズ・ボディ-生と性を巡る表現 』 (東京都写真美術館)

2010-11-08 08:48:05 | 美術関係
東京都写真美術館で
『ラヴズ・ボディ-生と性を巡る表現 』と
『写真新世紀東京展2010』
を観てきました。

正直に言いますが
心を動かされるものは何もありませんでした。


『ラヴズ・ボディ-生と性を巡る表現 』は
エイズ問題や性的マイノリティなどテーマは深刻ですが、
ドキュメンタリーなのかアートなのかもハッキリしません。

エイズに罹った恋人の連作写真はコメントつきで、
私には単なる「ブログ」の日記にしか見えません。


『写真新世紀東京展2010』は
優秀賞受賞者の作品や審査員が選んだ佳作作品が
展示されていましたが、感想は同様です。


私自身の『写真』に対する見方が確立していない、
あるいは他の方々と違うのかもしれません。

私は昔から
「写真は『芸術』ではなく『技術』である」
と思っています。

だからといって写真を低く見ているわけではありませんが。


写真には(その種類にもよると思いますが)、
撮影者が、大量に撮影した中からいいものを「取捨選択する」
という作業が含まれます。
そのことに何がしかの"引っかかり"を感じています。
うまく説明できませんが。


若い女性の日常のスナップショットのような展示も、
そこから「内面」だとか「感情」だとかを
見出すことはできません。
("意味"を見出す必要もありませんが)
やはり「ブログ」と同じです。

どうしても「作品そのものだけ」で完結せず、
それに対する「(言葉での)説明」を
必要としているものばかり、と感じました。

それは私にとって「芸術」ではありません。


「表現」ということでいえば、
ファッション雑誌のグラビアなどの商業写真の方が、
言葉での説明を必要としないという点で、
「作品」として優れていると思います。

以前に観た「報道写真展」の方が遥かに面白かったです。


これは単に好みの問題なのかもしれません。
ただ、好む好まないに関係なく、
色々なものを観ることは大切だなとは感じました。
なぜ「心動かされないのか」を考えるきっかけになりますし、
逆に自分が好きなもの、心動かされるものを
改めて考えることにも繋がりますので。