前略、ハイドン先生

没後200年を迎えたハイドン先生にお便りしています。
皆様からのお便り、コメントもお待ちしています。
(一服ざる)

NHK『トップランナー 画家 松井冬子』

2010-08-30 22:59:28 | 美術関係
NHK『トップランナー 画家 松井冬子』を観ました。


松井冬子さんの作品はまだ実物を観たことはありませんが、
以前、やはりNHKのETV特集を観たりして大変興味がありました。

今回の放送を観て、以前から疑問に思っていたことへのある種の「解答」が得られたような気がしました。
(そして新たな「疑問」も・・・)



一つは、松井さんに対するものではなく、
写真家・やなぎみわさんの『マイ・グランドマザーズ』展を観た際に思ったことです。

『マイ・グランドマザーズ』は応募してきた一般女性をモデルに
「50年後の自分、理想のおばあさん像」を写真にするという作品ですが、
その時「女性にしか創れない作品だと感じた」と書きました。

その感覚を自分でも不思議に感じていたのですが、今回トップランナーを観て、

  女性(芸術家)は『"女性"と"女性としての自分自身"のみで完結する世界を創造することができる』

ということに気づきました。


先日観たタマラ・ド・レンピッカも「表現」は異なりますが、同様に作品世界を構築していたように感じます。

松井さんの今までの作品に登場する人物は全て女性で、男性は登場しません。
やなぎさんの写真も主人公は女性です("添え物"として男性が写っていることはありますが)。
タマラは男性の絵も描いていますが、やはり題材の中心は女性です(自分自身も含めて)。



一方、男性(芸術家)で
『"男性"と"男性としての自分自身"のみで完結する世界』を創り上げている方(作品)を、
私は今まで観たことがありません。

作品の中に自分を投影することはあっても、もっと対象物を客観視して(というか距離をとって)
作品世界を構築しているのではないでしょうか?
だからこそ、普通に作品世界に「女性」を登場させられるのではないでしょうか?
(松井さんは、男性が普通に女性のヌードを描くことに"カチン"とくる、とおっしゃっていました。)

もちろん、芸術家一人ひとり"別の人間"ですから、一概に「男性・女性」で分けることは無意味かもしれませんが、
「男性にとって女性は永遠の謎である」という以上に、ラカン的な「女性性」の不可思議さを感じずにはいられません。



もう一つは、松井さんに対するもの、というか誰かに問うてもらいたい、と思っていたことです。

それは(誤解を恐れずにいえば)

  松井さんが「自分自身の(外見的な)美しさをどう受け止めそれが作品にどう反映しているのか」

ということです。


(美醜について)人の感じ方は千差万別ですが、松井さんを「美しき女流画家」と評することに異論はないと思います。
もちろん、作者の外見と作品とは別物ですし、
「作品に対する評価」の前に「作者自身に対する評価」をすることは、馬鹿げたことだと十分理解しています。
少なくとも「美術」に携わる方でしたら、決してそんな質問はしないし、できないでしょう。

でも、松井さんの作品内容を考える(あるいは「理解」する)には、その点が非常に重要なのではと感じていました。

(作者が自作について語っているのを聴く・読むのは好きではないので、
 評論雑誌や対談なども読んではいませんが、もしかしたらどこかで語っていたのかもしれません。)



図らずも、この点については司会の一人、女優の田中麗奈さんの質問によってある「解答」が得られました。

番組最後に、田中麗奈さんは松井さんに対して、

  「もし男性だったらどうなっていたか?」と質問し、「格闘家になりたかった」という言葉を引き出しました。
  田中さん自身もそう考えていたらしく、その答えに納得していました。

この答えは
「(生物学的に)女性よりも優れていると思われる能力(筋力や体力)を最大限に活かしたい」
という意味です。
であるならば、今は
「(一般的に)男性よりも優れていると思われる能力(美しさ)を最大限に活かして作品を創造している」
ということの証左ではないでしょうか。


田中麗奈さんのこの質問と洞察力には驚きました。



そして、新たな「疑問」です。それは、

  「彼女が観ている世界」は「私が観ている世界」と違うのだろうか?

とういことです。

確かに松井さんの作品世界は、私が観ている世界とは異なります。ですが彼女自身「その世界」を観ているのでしょうか?

今のところ、そうは思いません。観ている世界は同じだと思います。
作品世界は、松井さん自身がそうありたいと願う世界、観たいと切望している世界ではないか、と感じます。
(表面的な美の世界の向こう側にある「本当の」美の世界を観たいという願望が表現されているのでは?)

でも、この点は実際に作品を観てからでないと、なんともいえませんが・・・。



美術でも音楽でも、(今までは)「女性芸術家」よりも「男性芸術家」の方が圧倒的に多いです。
もちろん、その原因の一つとして、長い歴史における男性と女性の「地位の差」も大きく影響しているでしょう。

でも、作品世界と自分自身との関係性、
『"女性"と"女性としての自分自身"のみで完結する世界を創造できる/創造してしまう』
("男性"と"男性としての自分自身"のみで完結する世界を創造できない)
という点も、優れた芸術家の性差に影響していたのかもしれない、と考えてしまいます。


だからこそ、女性がそのような「完結する世界」で優れた作品を創り上げたときは、
松井さんの作品のように、男性など到底及ばない遥かな高みへと到達するのでしょう。



(追記)
過去に何度も書いていますが、「私」が芸術作品を観る(聴く・読む)際に最も重要視しているのが、
「私が観ている世界」と「作者が観ている世界」が違うか、「作者だけが観ている世界」を観せてくれているか、
という点です。
但し、ここでいう「私」とは、このブログを書いている「"この"私」(ウィトゲンシュタイン的「私」)です。
他の方が作品を観る際の「手械・足枷」にする意図はありませんし、作品の「価値」が変化するわけでもありません。
あくまでも「私」の問題です。


(追記2)
『"男性"と"男性としての自分自身"のみで完結する世界』を創り上げている方(作品)を観たことがない、
と書きましたが、「三島由紀夫」がそれに近いかもしれません。
(あまり作品を読んでいませんがイメージとして・・・)

タブロオ・マシン【図画機械】 中村宏の絵画と模型

2010-08-28 21:46:49 | 美術関係
『タブロオ・マシン【図画機械】 中村宏の絵画と模型』を
練馬区立美術館で観てきました。



久々に、強烈な衝撃を受けた展覧会でした。


中村宏さんは1932年生まれの御年78歳、練馬区在住の画家です。
多くの作品が練馬区立美術館に収蔵されています。


60年代の「モンタージュ絵画」
70年代の「青色・空気遠近法」
80年代の「タブロオ・マシン」
機関車、飛行機、セーラー服、立入禁止・・・

絵柄や技法は異なりますが、作者の「妄想」は一貫しています。

一貫したエロティシズムを感じます。


セーラー服は
上着が水兵の制服(男性)、下はスカート(女性)であり
両性具有的である・・・
こんなこと誰が思うでしょう。

機械化していくセーター服の少女を描いた『似而非機械』。
なんという妖しさ。




壁に作者のものと思われる言葉がいくつか書かれていました。

その一つ、

 事件性がないとほとんど描く気がしない。いわゆる「癒し」の絵など私には描けません。

全面的に首肯できる言葉です。
「事件性」という言葉を「狂気」に置き換えても差し支えないと思います。


この作者は明らかに「違う世界」を見ています。


2000年代の作品も展示されていましたが、
手法は異なるものの「妄想」は全くぶれていません。



観ていて涙が出そうになるほどの衝撃でした。



入館料500円。練馬区立美術館恐るべし!

アントワープ王立美術館コレクション展

2010-08-18 00:02:22 | 美術関係
東京オペラシティアートギャラリーで

 『アントワープ王立美術館コレクション展』
 アンソールからマグリットへ ベルギー近代美術の殿堂

を観てきました。


副題に「アンソールからマグリットへ」とありますが、
作品数は少ないので、まあ"客寄せ"用の宣伝文句でしょうか。


東京オペラシティアートギャラリーに行くのは
昨年9月の「鴻池朋子展」以来、約1年ぶりです。

美術館自体は静かで広々としているのでとても好きです。
ただ、今回のような「○○美術館展」のような企画は、
正直あまり好きではありません。

色々な時代、流派?のものを"広く浅く"観ることになり、
全体としてあまり印象に残らないなあ、という感じになります。


そんな中で、ヴァレリウス・デ・サデレールの

 《フランドルの雪景色》(1928年)

という作品が気に入りました。

画面の半分以上を空が占めています。日没寸前でしょうか。
夕日のオレンジから深い緑、黒へと移りゆくグラデーションが
とても印象的です。


マグリットの作品には、お得意?の巨大な岩が登場していました。

マグリットの絵のタッチは、
どこかイラスト的というか、それほど写実的ではないのですが、
なぜかこの巨大な岩だけは、いつ観ても恐怖感を覚えます。
逆にもっと写実的に、リアルに描かれていたら、
これほど怖く感じないと思います。不思議です。



ところで、
ベルギーという国はフランスとドイツに挟まれており、
ベルギー近代美術はその両国の影響を受けつつ
独自の発展を遂げていったらしいのですが、
これは音楽の面でも当てはまります。


私の大好きな作曲家、セザール・フランクは
活動拠点がフランスだったためフランスの作曲家とされてますが、
生まれはベルギーです。
(ベルギーワッフルで有名なリエージュ出身)


彼の作品は、フランス流の美しい華麗な旋律や神秘的な音色と
ドイツ伝統の重厚な響きや対位法的技法が組み合わされており、
それが独特の雰囲気を醸し出しています。

ヴァイオリン・ソナタの終楽章などよい例でしょうか。
親しみやすく美しい旋律を用いて、見事なカノンを創り上げています。