前略、ハイドン先生

没後200年を迎えたハイドン先生にお便りしています。
皆様からのお便り、コメントもお待ちしています。
(一服ざる)

『薔薇の名前』 (ウンベルト・エーコ)

2012-04-21 19:48:53 | 
ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を読みました。

言わずと知れた「今世紀(20世紀)最大の問題小説」です。
帯の惹句には
「全世界を熱狂させた、文学史上の事件ともいうべき問題の書」
とあります。


キリスト教世界に住む人々、日常生活とキリスト教が深く結びついている人々、
あるいは学問としてキリスト教を学んだ人ならともかく、
現代日本に住み、なにかにつけ仏教・神道が生活基盤となっている者にとって
果たしてこの長大な物語を読み通すことができるか?

多少の不安を感じつつ読み始めましたが、十分楽しめましたし刺激的でした。
("熱狂"とまではいきませんが)

一種の謎解き仕立てにはなっていますが、
この物語をミステリーとして捉える人はほとんどいないでしょう。

唯々、次々と語られる私たちの"知らない世界"(主に中世キリスト教会)に関する知識に
幻惑され酔いしれるだけです。


『薔薇の名前』は作者のウンベルト・エーコが記号論哲学者であることから
そういった側面(記号論/記号学)も指摘されますが、
そもそも「記号論/記号学」という学問がどういったものなのかがよくわかりません。

ただ、ソシュールの言語学も広い意味での「記号論/記号学」であるならば
それは言わば「構造の学問」(構造主義)ではないでしょうか。

一見すると異なる事象に見える物事の、その奥深くに潜む共通の"構造"を明らかにする・・・


キリスト教の叡智も、異端者、異教徒のそれも、
ありとあらゆる"知識"が詰まった、迷宮の如き文書館を擁する「異形の建物」。

物語の最後でそれら"知識"のほとんどは焼け落ち、「異形の建物」はその"構造"を晒します。
それがあたかも、この物語の記号論的側面を象徴しているように感じました。


主人公である見習修道士"アドソ"と、師である"バスカヴィルのウィリアム"の言葉。

  「・・・一巻の書物が述べていることを知るために、
    別の書物を何巻も読まなければいけないなんて?」

  「・・・書物はしばしば別の書物のことを物語る。・・・」

正に『薔薇の名前』こそが「書物のための書物」となるのでしょう。
中世という縦軸からもキリスト教という横軸からも大きく隔てられた者にとっては
この物語は(知の)集大成ではなく、(新たな知への)出発点です。