遊歩道さんにブログ(a one-minute coffee break)のコメントで
御賛同?頂けたので、調子に乗って第2弾です。
例えば2時間の映画があって
一般的にはほとんど見所のない駄作だったとしても、
一箇所でも自分の琴線に触れる科白やカットがあれば、
私にとっては何度も見返す"名作"になります。
500頁の中で1行でも、
自分が考えもしないような"思想"や
目を開かせてくれるような"価値観"が書いてあれば、
他の部分が凡庸であってもその本は"名著"になります。
指揮者ショルティの日本での評価は、決して高くはありません。
特に宇野功芳氏およびその流れをくむ「批評者」方は、
"憎悪"に近い感情をお持ちのようです。
しかし、障害があるほど恋人達の愛の炎は燃え上がるように、
私のショルティへの想いも増すばかりです。
マーラーの交響曲第6番「悲劇的」と並んで、
同じくマーラーの交響曲第9番にも
私の琴線に触れる「ショルティ&シカゴ響の美学」があります。
第1楽章冒頭から3分ほど経った辺りです。
「悲劇的」と同様、
オーケストラの音量が増していくにつれ徐々にテンポを落としていき、
緊張感が頂点に達した瞬間、全てが消えるように"平穏"が訪れます。
もちろん、そのように楽譜が書かれているのですが、
ショルティの表現は、他とは明らかに異なります。
例えるなら
声を限りに何かを叫ぼうとした瞬間、
その言葉を「ん」と飲み込んだような・・・
その想いが「ふっ」と消えてしまったような・・・
あるいは
永らく失われていた「情熱」が湧き上がってきたけれど、
しかしそれは、若き日のように何かを形作ることなく、
(消える直前の炎の揺らめきだったのか・・・)
諦観にも似た心の静けさが訪れるような・・・
そう、まるで打ち寄せた大波が消えるかの如く・・・
いろいろな演奏を聴きましたが、やはりこの感覚だけは
ショルティ&シカゴ響でしか味わえない独特の表現です。
第6番第1楽章(アレグロ・エネルジコ)の勇壮さと
第9番第1楽章(アンダンテ・コモド)の穏やかさ。
正反対の音楽ですが、ショルティが表現しようとする美意識は同じです。
マーラーの交響曲第9番には多くの名演・名盤があります。
バルビローリ、カラヤン、バーンスタイン・・・
どれもいい演奏だと思います。
今では「伝説」となっている、
バーンスタイン&イスラエル・フィルの演奏も生で聴いています。
しかし、80分を超えるこの長大な曲の「あの瞬間」。
第1楽章のあの一瞬があるが故に、
ショルティ&シカゴ響の演奏は私にとって「絶対」なのです。
前回も書きましたが、宇野氏をはじめとする「批評者」が
ショルティを毛嫌いする理由の"ある一部分"は
わからないではありません。
私も正直、
ショルティのブルックナーを好んで聴くことはありません。
でも、"その人たち"にはわからない「美」を私は知っているのです。
それは、大袈裟かもしれませんが、
自分だけが、まだ誰も知らない宇宙の真理を発見したような、
「優越感」なのです。
御賛同?頂けたので、調子に乗って第2弾です。
例えば2時間の映画があって
一般的にはほとんど見所のない駄作だったとしても、
一箇所でも自分の琴線に触れる科白やカットがあれば、
私にとっては何度も見返す"名作"になります。
500頁の中で1行でも、
自分が考えもしないような"思想"や
目を開かせてくれるような"価値観"が書いてあれば、
他の部分が凡庸であってもその本は"名著"になります。
指揮者ショルティの日本での評価は、決して高くはありません。
特に宇野功芳氏およびその流れをくむ「批評者」方は、
"憎悪"に近い感情をお持ちのようです。
しかし、障害があるほど恋人達の愛の炎は燃え上がるように、
私のショルティへの想いも増すばかりです。
マーラーの交響曲第6番「悲劇的」と並んで、
同じくマーラーの交響曲第9番にも
私の琴線に触れる「ショルティ&シカゴ響の美学」があります。
第1楽章冒頭から3分ほど経った辺りです。
「悲劇的」と同様、
オーケストラの音量が増していくにつれ徐々にテンポを落としていき、
緊張感が頂点に達した瞬間、全てが消えるように"平穏"が訪れます。
もちろん、そのように楽譜が書かれているのですが、
ショルティの表現は、他とは明らかに異なります。
例えるなら
声を限りに何かを叫ぼうとした瞬間、
その言葉を「ん」と飲み込んだような・・・
その想いが「ふっ」と消えてしまったような・・・
あるいは
永らく失われていた「情熱」が湧き上がってきたけれど、
しかしそれは、若き日のように何かを形作ることなく、
(消える直前の炎の揺らめきだったのか・・・)
諦観にも似た心の静けさが訪れるような・・・
そう、まるで打ち寄せた大波が消えるかの如く・・・
いろいろな演奏を聴きましたが、やはりこの感覚だけは
ショルティ&シカゴ響でしか味わえない独特の表現です。
第6番第1楽章(アレグロ・エネルジコ)の勇壮さと
第9番第1楽章(アンダンテ・コモド)の穏やかさ。
正反対の音楽ですが、ショルティが表現しようとする美意識は同じです。
マーラーの交響曲第9番には多くの名演・名盤があります。
バルビローリ、カラヤン、バーンスタイン・・・
どれもいい演奏だと思います。
今では「伝説」となっている、
バーンスタイン&イスラエル・フィルの演奏も生で聴いています。
しかし、80分を超えるこの長大な曲の「あの瞬間」。
第1楽章のあの一瞬があるが故に、
ショルティ&シカゴ響の演奏は私にとって「絶対」なのです。
前回も書きましたが、宇野氏をはじめとする「批評者」が
ショルティを毛嫌いする理由の"ある一部分"は
わからないではありません。
私も正直、
ショルティのブルックナーを好んで聴くことはありません。
でも、"その人たち"にはわからない「美」を私は知っているのです。
それは、大袈裟かもしれませんが、
自分だけが、まだ誰も知らない宇宙の真理を発見したような、
「優越感」なのです。
マーラーの第9番、ショルティの研ぎ澄まされた演奏に魅入られて以来、バーンスタインやカラヤンが遠い存在となってしまいました(≧∇≦)
この曲で虚無と現実を行き来するような趣、これはショルティ&シカゴに匹敵するものをまだ知りえません。
某氏のように、「これがあれば、他はいらないくらいだ」とは言いませんが(爆)、この曲に震撼を求める時には、ショルティ&シカゴとなります(^-^)/
わからないではないですね。
私もブルックナーなどにはあまり向かないかなと感じます。
ただ、マーラーの作品は音楽自体が作曲者の思想や感情を雄弁に物語っていますので、
感情むき出しの演奏よりも、かえって伝わるものが多いと思います。
そこにショルティ独特の美学が加われることで、
私にとっての「理想のマーラー像」になります。