前略、ハイドン先生

没後200年を迎えたハイドン先生にお便りしています。
皆様からのお便り、コメントもお待ちしています。
(一服ざる)

メンデルスゾーン 交響曲第4番イ長調『イタリア』 を解説して戴く

2011-06-29 00:26:14 | クラシック音楽
先日、私が所属するサークルで「勉強会」がありました。
といっても決して堅苦しいものではありませんが、内容は大変充実していました。

なにしろ"講師"の方は、
在京有名オーケストラに在籍される現役バリバリの一流演奏家ですから。


メンデルスゾーンの交響曲第4番イ長調『イタリア』の第1楽章を題材に、
ソナタ形式についての解説をして戴きました。

ソナタ形式は、長年クラシック音楽を聴いている者にとってはよく目にする馴染みのある言葉ですし
その意味するところも何となくわかっています(のつもりでした)。
ただそれは「まず提示部があって、次に展開部がきて、また提示部が再現する」
という程度のものですが・・・。


提示部で示された第一主題および第二主題を再現部で如何に展開させるかが作曲家の腕の見せ所であり、
そのためベートーヴェン以降、再現部がどんどん複雑になっていったこと、
マーラーやブルックナーなど再現部を拡大して曲が更に長大になっていったことなどなど
「なるほど。なるほど。」と頷くばかり。
逆にモーツァルトは非常に展開部が短いなど、普段あまり気に留めていない点も・・・。


メンデルスゾーンの作品はかなり古典派的な色合いが強いようです。
以下は私が覚えている(理解できた)範囲での解説?です。
(もっと細かい指摘も多数ありましたが・・・)

 <提示部>
  ヴァイオリンで生き生きとしたイ長調の第一主題が現れます。
  第二主題は木管を中心に奏でられますが、第一主題と対比させるためにホ長調で現れます。

 <展開部>
  展開部では通常、提示部で登場した第一主題と第二主題を使用しますが、
  ここでメンデルスゾーンにとっての誤算?が。
  第一主題と第二主題は"表情"はかなり違いますが、音型が若干似ているため、
  この二つでは展開させ辛いのです。

  そこで第二主題に代えて新たな旋律を登場させ、この旋律でフーガを展開させます。
  そこに第一主題の冒頭部分(断片)も顔を出し、最後ではフーガ主題と第一主題断片が連なります。   

  ※第一主題断片も転調しながら繰り返し出てきますので「二重フーガになるのですか」
   と質問しましたが、第一主題はあくまでも"断片"なので「二重フーガとまでは言えない」
   とのことでした。なるほど、納得。
   (二つの主題が"同時"に出てくるわけではないので、そもそも「二重」ではありませんが)

  そしてオーボエのロングトーンに導かれて転調しながら再現部へと移行します。
  (この転調を導くオーボエが絶妙とのこと)

 <再現部>
  イ長調の第一主題は同じですが、第二主題はここではホ長調ではなく同じイ長調で現れます。
  曲を終わりへと導くためです。
  そしてコーダでは第一主題と展開部のフーガ主題が組み合わされます。

講師の方は、曲に合わせて「第一主題」、「フーガ主題」など"字幕"が出るよう
ご自分で編集したDVDを用意されており、至れり尽くせりです。


メンデルスゾーンはマタイ受難曲をはじめバッハ大先生の作品の発掘に力を注ぎました。
(それがバッハ大先生の再評価へと繋がります)
もともとバロック、古典派など過去の偉大な作曲家に影響を受けていた人です。

私も昨年N響でメンデルスゾーンを聴いたとき、
それまではもっとロマン派的な作曲家という印象を持っていましたが
楽器編成も含めて、意外と古典派的だなあと感じました。
今回、改めてこのように解説してもらいその理由がわかりました。

メンデルスゾーンは幼少期から音楽の才能を発揮し夭折しましたが、
モーツァルトがいなければ、真っ先に「天才作曲家」として名前があがったのでは、
とおっしゃっていました。

正直、今まであまり好きではない作曲家でしたが、俄然興味が湧いてきました。


ソナタ形式の解説以外にも、
スメタナが交響詩『モルダウ』の楽譜に書いた注釈(情景描写)を字幕付きで聴いたり、
(川辺の風景が過ぎ去って行く様子を音量で表現している・・・などの説明も)
ベルリオーズの幻想交響曲の「イデー・フィクス(固定観念)」の変化や
第5楽章での情景描写を管弦楽でどう表現しているか等々、興味深い話ばかりです。

特にグレゴリオ聖歌の「怒りの日」を初めて引用したのが幻想交響曲らしく、
フランス人作曲家ならでは、ともおっしゃっていました。
(キリスト教が盛んな国では軽々しく引用などできなかったかも・・・)


大変参考になる、そしてなにより極めて贅沢な「勉強会」でした。
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久々に、ハイドン先生大量購入

2011-06-12 02:05:20 | ハイドン先生の作品
ディスクユニオンとタワーレコードをはしごして、久々にハイドン先生のCDを大量購入しました。


まずはディスクユニオンから。

◎『交響曲第34番、第39番、第40番、第50番』
 トーマス・ファイ指揮/ハイデルベルグ交響楽団

大好きな第39番は聴いたことのない指揮者のを見つけたら即買いです。


◎『ナポリ王のための8曲のリラ・オルガニザータ・ノットゥルノ』(2枚組)

輸入盤CDでタイトルには「Eight Nocturnes」となっていたので購入しましたが、
以前に買った「6つのノットゥルノ」と同じでした。

ただ前のは8曲中6曲の抜粋ですが、今度のは2枚組の"完全版"ですので良しとしましょう。
演奏はThe Music Party。


◎『Six Feldparthien(6つのフェルトパルティ)』

楽器編成からすると木管八重奏曲ですが、作品分類ではディヴェルティメントに含まれるようです。


◎『鍵盤楽器のための小品全集』(5枚組)

フォルテピアノはバルト・ファン・オールトです。
私が持っているピアノ・ソナタ全集は5人の演奏者が弾いていますが、その中のお一人です。
変奏曲などの小品や、交響曲、弦楽四重奏曲からの編曲など前から聴きたかったものです。


◎『ディヴェルティメント全集』(4枚組)
 エミール・クライン指揮/ハンブルク・ソロイスツ

これも後で調べてわかりましたが、弦楽四重奏曲第1番から第12番です。
まだディヴェルティメントやセレナーデと弦楽四重奏曲第が未分化だった時代のもので、
弦楽四重奏曲全集にも含まれています(し聴いています)。

でもこちらは弦楽合奏による演奏ですので、また雰囲気が違います。


1枚につき10%~30%引き、5点まとめ買いで500円引きとかで思ったより安く入手できました。


続いてタワーレコードへ。

最近、ピアノ三重奏曲を聴いているので、
好きになった作品をモダン楽器で演奏しているものを探したのですが、見当たらず。

代わりにこんなのを見つけました。

◎『弦楽四重奏曲の2台のギター編曲版 Vol.2』(Vol.1は在庫なし)

CD裏面を見ても第何番の編曲か書いておらず、中を見てもよくわからず・・・。
後ろの方にゴチャゴチャと小さく載っていてやっぱりよくわからない。
Vol.1を入手してからゆっくり確認しようと思います。


全部でCD15枚のまとめ買い。
両方の金額を合わせたら、ちょうど5,000円ぴったり!

「ビンゴ!」という声が頭の中で響きました(映画「ハンニバル」のメイスン風)。


ただ・・・これも家に帰ってから調べてみてわかったのですが、
『6つのフェルトパルティ』(木管八重奏曲)はどうも偽作のようです。

まあそれはそれとして、そろそろ持っているハイドン先生のCDをリスト化しないと
今後もダブって買ってしまう恐れが多分にあります。

とにかく作品数が多すぎますので。
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ハイドン ピアノ三重奏曲第21番ハ長調 (第35番)

2011-06-08 22:27:32 | ハイドン先生の作品
ハイドン先生のピアノ三重奏曲第21番ハ長調(ランドン版/第35番)を聴きました。

作曲は1795年頃ですので、最後の交響曲と同じ時期です。


いきなりですが、曲を聴いていて、ふと名前が思い浮かびました。

  ピアノ三重奏曲第21番ハ長調 ≪名誉会長≫(仮題)

第1楽章冒頭の序奏部の雰囲気からです。
現役を引退して、厳しさ、激しさはないけれども"威厳"がある・・・みたいな。
(主部が始まると全然違うんですけど)

「Adagio pastorale」となっていますから、"田園風"の方が近いかもしれませんが。


主部の第1主題は、序奏部の旋律から派生したものと思われます。
短い跳ねるように上昇する音型があって、すぐオクターブ上がって、といった感じで、
とても気持ちのいい旋律です。

途中、弦楽器の持続音("ドローン"というのでしょうか)の上で
ピアノが同じような音型を繰り返すところが度々出てきます。

ちょっとベートーヴェンっぽい、といったらいいのかな?


第2楽章は親しみ易い、心和む旋律です。

第3楽章の主題も、第1楽章序奏部の主題からの展開だと思われます。
いかにも"室内楽"といった感じでいいです。
思わず「は~」という溜息と、「ほ~」という感嘆が漏れてしまいます。


ハイドン先生は、交響曲、弦楽四重奏曲といった形式の確立に大きく寄与し、
かつ、すぐれた作品を膨大に残したため、
「交響曲の父」、「弦楽四重奏曲の父」と呼ばれていることはご承知の通りです。

そのほかのジャンルでも多数の曲を残していますが、作品数が多いために
かえって有名な曲しかあまり聴かれる機会がありません。

でも、こういう(ピアノ三重奏曲第21番のような)"普通"に素敵な曲も沢山あります。


知らない曲を聴かされて「この中からハイドン先生の作品を当てろ」と言われても
私はそこまで音楽的特徴を理解しているわけではありません。

それでもこの曲を聴いていると「ハイドン先生だ~」と思ってしまいます。
もっと言えば「音楽だ~」と。「音楽」という言葉本来の意味において。



THE 虎舞竜の歌ではありませんが「何でもないようなことが幸せだったと思う」ことは
ちょっとした怪我や病気をした時にも感じます。
いつも通りに生活し、しゃべったり笑ったり、音楽を聴ける幸せを。

ハイドン先生のピアノ三重奏曲第21番は、
例えばマーラーやブルックナーのような鮮烈な感動とも、
ベートーヴェンやショスタコーヴィチのような深淵さとも無縁です。

言わばこの曲は「日常」です。何でもないような(でも幸せを感じる)「日常」の音楽です。


このような曲も、ハイドン先生は膨大に残したのです。
"偉大"と言わずして何と言いましょう。

  ピアノ三重奏曲第21番ハ長調 ≪日々の幸せ≫

この方がいいかもしれませんね。


(追記)
≪日常≫ではちょっと味気ないので≪日々の幸せ≫にしてみました。
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シベリウス 交響曲第7番ハ長調 (N響定期公演)

2011-06-05 00:28:41 | NHK交響楽団
N響定期公演に行ってきました。

  プロコフィエフ 組曲『3つのオレンジへの恋』
  プロコフィエフ ピアノ協奏曲第2番ト短調
  シベリウス 交響詩『大洋の女神』
  シベリウス 交響曲第7番ハ長調

  ピアノ:アレクサンダー・ガヴリリュク
  指揮:ウラディーミル・アシュケナージ


以前にも書きましたが、私はN響で聴く指揮者アシュケナージが大好きですし、
素晴らしい指揮者だと思っています。

一般的な評価では、ピアニストとしての輝かしいキャリアの方が上だと思いますが、
正直、ピアニストとしては好きではありませんでした。

録音でしか聴いたことがないのでそのせいもあるかもしれませんが、
どの曲もスケールの大きさが感じられないというか・・・。
少々早めのテンポも好みではありません。
(指揮するときもテンポはやはり早めですが、こちらは余り気にならない・・・)


多分に独りよがりな発言、独断と偏見を書きますが、

  NHK交響楽団を指揮するアシュケナージは世界最高の指揮者の一人である
  アシュケナージが指揮するNHK交響楽団は世界最高のオーケストラの一つである

今日の演奏でそう確信しました。


『3つのオレンジへの恋』は、第3曲「行進曲」(のチェロ版?)を聴いたことがあるだけで
組曲全体は初めてです。

チューニングが終わるや否や小走りで登場したアシュケナージは、
ペコンとお辞儀をするとすぐに指揮台に上がり、佇む間もなく腕を振り始めます。
その瞬間、激しくエキセントリックな音が響き渡ります。
"アシュケナージ・マジック"とでも言いましょうか?一瞬で引き込まれました。

脇を絞めて両手を震わすように小刻みに動かす姿は、
決して華麗な指揮振り、威厳漂う指揮姿とは言い難く、むしろコミカルな感じです。
それがN響から素晴らしい演奏を引き出すのですから不思議?です。
相性でしょうか?


プロコフィエフのピアノ協奏曲第2番は初めて聴く曲です。
第1楽章の冒頭の静かなピッツィカート。
いつものことながらアシュケナージが指揮する時の弦のアンサンブルは見事です。

神秘的な旋律や民謡風の旋律と、目まぐるしく表情を変える激しい音響が混在する、
何とも魅力的な曲で、一遍で好きになりました。
ガヴリリュクの演奏も素晴らしかったです。


後半戦は打って変って、後期シベリウスの抑制された世界です。

解説によると、シベリウスは交響曲を"凝縮"させることに腐心し、
そのためには緻密な動機労作と内的論理が重要だったと書かれていました。

そのようにして到達した「単一楽章」の交響曲第7番ですが、
決して論理的な難解さはなく、第5番と同様の漂うような透明感です。

私がシベリウスの作品で一番好きなのは交響曲第5番なのですが、
今日、この交響曲第7番を聴きながら

  この曲をもっと理解したい
  心からこの曲を愛せるような人間になりたい

そのような想いにかられました。


交響曲第7番の完成は1924年ですが、1925年以降、1957年に亡くなるまでの約30年間、
シベリウスはほとんど作曲をしませんでした。

それだけの期間があれば、第8番、第9番の交響曲も作れたのでは、とも言われますが、
この第7番で「交響曲の究極の形」に到達したのでしょう。
それはブルックナーともマーラーとも、ショスタコーヴィチとも違う世界です。

いずれは到達したいと憧れる世界、一つの境地です。


今年2月の定期公演について「N響定期公演史上屈指の名演」と書きました。
もちろんその思いは変わっていませんが、
マーラーの交響曲第3番という大曲、指揮も客演のチョン・ミョンフンでしたので、
どこか「特別公演」の趣もあります。

今回の定期公演は、曲目も"通好み"というか"渋い"ラインナップで、
指揮も前音楽監督(現桂冠指揮者)のアシュケナージです。

「N響は日本で一番うまいオケというけど実際は・・・」とか
「やっぱり海外の一流オケと比べたら・・・」などと思っている方々に
是非とも聴いてもらいたいような演奏でした。



終演後、拍手に促されて舞台に出てくるアシュケナージの姿は、どこか「北野武」を彷彿とさせます。
「ビートたけし」としてではなく映画監督、芸術家として公の場に立った時の
ちょっと居心地の悪そうな、恥ずかしそうな感じに。

アシュケナージも恥ずかしそうにして、盛んにオーケストラを称えていました。
そんな謙虚なところも、彼を好きな理由の一つです。
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