goo blog サービス終了のお知らせ 

前略、ハイドン先生

没後200年を迎えたハイドン先生にお便りしています。
皆様からのお便り、コメントもお待ちしています。
(一服ざる)

『ニーベルングの指環』 ~ 『ラインの黄金』 をとりあえず聴いてみた

2011-02-21 21:26:29 | クラシック音楽
『ニーベルングの指環』の序夜『ラインの黄金』を聴きました。
第2幕までは家で半ばBGMとして、残りは通勤途中にipodで。


私の買ったノイホルト盤ですが、オーケストラの音が聴き辛いところも若干ありますが、
歌声ははっきりとしてよく聴こえます。

ライブ盤特有のミスもいろいろあるようですが、
「元」を知らないので、その点は全く気にならない、というかわかりません。
(知っているのは精々「ワルキューレの騎行」管弦楽版くらいで、
"歌声入り"の演奏は、映画「地獄の黙示録」で聴いたことがあるだけです)

でも、オーケストラも派手ですし歌声も迫力がありますので、
聴いていて面白かったです。


登場人物が誰なのか、何人いるのかもわかりませんし、そもそもストーリーも、
wikipediaなどを"ちら見"した程度で、予備知識はゼロに等しいですが・・・。
(なんか力のある指環をめぐって、三つ巴、四つ巴の争いが・・・て感じ?)

『ラインの黄金』は四部作の中でもっとも短いですが、
この後も躓かずになんとか完走できればよいのですが、まだ油断はできませんね。


ところで、街中で音楽を聴いていると曲によって気分というか精神状態が変わります。

例えば、バッハ大先生の「マタイ受難曲」を聴いているときは
なにかとても清らかな気持ちというか、全てを赦せるような気がしてきます。
("気がする"だけです。車内で携帯で話している人がいれば"イラ"っとします)

ハイドン先生の場合は、(曲にもよりますが)やはり楽しい、温かい気持ちになります。


『ニーベルングの指環』はその点、他のクラシックとはかなり違いますね。
どこかロックを聴いているような気分というか・・・。

ミッシェル・ガン・エレファントのように、ちょっと自分が"カッコよく"なったような、
「俺いま、リング聴いてるぜっ!」的な。

サラリーマンですから着ているのはスーツですが、気分はライダースです。

ワーグナー 楽劇『ニーベルングの指環』

2011-02-19 21:08:47 | クラシック音楽
遊歩道さんのブログに触発されて、
ワーグナー『ニーベルングの指環』全曲のCDを買ってしまいました。


クラシック歴は永いですがオペラはどうも不得手で、なかなか手を出せませんでした。
しかし『ニーベルングの指環』は、やはり「クラシック音楽」の一つの頂点であり、
「いずれ必ず」という思いもありました。


昔はCDにして12~14枚、時間にして14~15時間、
という長大さ(とCDの値段)に恐れをなしていましたが・・・。

でも、今やハイドン先生の交響曲全集と弦楽四重奏曲全集を制覇?し、
コンサートでもバッハ大先生のマタイ受難曲、マーラーの交響曲第3番を経験したので
もはや怖いものなし!


・・・怖いものなしですが、一応、廉価版の一番安い全集を買いました。

  ギュンター・ノイホルト指揮
  バーデン州立歌劇場管弦楽団
  (1993~95年のライブ)

CD14枚組で、値段は2,290円です。

1枚あたり163円。もう100円ショップの世界です。
こんな値段で「クラシック音楽の頂点」を聴いていいのでしょうか?


色々なレビューを見ますと「値段の割には・・・」という評と
「聴く価値なし」という評が混在していますね。
まあ超初心者の私にはどちらでもあまり関係ないのですが・・・。


併せて、ショルティ指揮の「ライトモティーフ集」(2枚組)も買いました。
もともと同指揮者の「指環」(世界初の全曲スタジオ録音!)に「おまけ」?として
ついていたものの分売のようです。

マーラーの交響曲第10番の補筆版で知られる、デリック・クックが監修しています。



『ニーベルングの指環』は「ライトモティーフ」によって組み立てられた「言語」のようですが、
難しいことは考えず、石川遼君おススメの「スピードラーニング」方式で
とりあえず何度も聴き流してみようと思っています。


追記
これをエントリー中に1枚目のCD(第2幕まで)を聴き終わりました。
完全にBGMと化していました。しかしこれが「スピードラーニング」。
ある日突然、会話?が聴き取れるようになる・・・

改めて、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィル

2011-02-11 20:17:22 | クラシック音楽
チャイコフスキーの交響曲を聴いたのは高校生の時です。

その当時はまだ、指揮者や演奏の違い、良し悪しなどよくわからず、
とりあえず最初に聴いて耳に馴染んだ演奏が、自分にとって"一番いい"ものでした。


そんな時、教えてもらったのが、
ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの演奏です。
グラモフォンから出ていた1960年録音盤です。

チャイコフスキーの交響曲第4番~第6番の演奏としては、
まさに"定番中の定番"とされていました。


私の高校時代(1980年代)、まだまだ"ソビエト"は
ヴェールに包まれた謎の国、恐ろしい?国、という印象でした。

レニングラード・フィルの演奏についても、「テンポが速いな」とか
金管(特にトランペット)の音に「やっぱ、ソ連はすげえな」とかなんとか、
そんな程度の感想です。


その後、いろいろな作曲家、指揮者や演奏家を聴き、
コンサートにもいろいろ行くようになって、自分なりの"好み"や"評価"も
できあがってきました。

生意気に一端の評論めいたことも語り合うようになりました。


先日、著作権が切れた昔の録音を無料でダウンロードできるサイトで、
ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルのチャイコフスキーを聴きました。
録音は1956年です。

目から(耳から?)鱗が落ちるようでした。
一点の迷いも無い演奏、自信と確信に満ち溢れた演奏、というのでしょうか。

  ロシアが生んだ偉大なる作曲家、チャイコフスキーの交響曲の演奏は
  我々ソビエト人が一番に決まっている!

そんな想いがストレートに伝わってくるような"潔い"演奏でした。


ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの生演奏を聴く機会はありませんでしたが、
もし聴いていたら、好き嫌いにかかわらず、きっと圧倒的な感動を覚えたでしょう。

音楽に限らず、自分なりにいろいろと見聞を広げてきたつもりですが、
"作者の思い"だとか"精神性"だとか、"苦悩"だなんだ・・・といった小賢しい議論など
全部吹っ飛びます。



ヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』の中で、ショスタコーヴィチは
ソビエトの英雄であり自分の交響曲の初演も行ったムラヴィンスキーを
「耳なしも同然」と言ったとされています。

この『証言』の真偽についてはいろいろ言われていますが、
改めてムラヴィンスキーの演奏を聴いて、この発言は"偽"だと感じました。

作曲者が認めないはずがない、と思うのですが・・・。

ブルックナーの交響曲を聴く醍醐味

2011-02-09 22:14:24 | クラシック音楽
ブルックナーの交響曲についてもう少し・・・。


 ブルックナーの交響曲を聴く醍醐味を一つだけ示せと言われたら
 クナッパーツブッシュ指揮、ミュンヘン・フィル演奏の
 交響曲第8番第4楽章のコーダを挙げる・・・


永い間愛読していた、クラシックの名曲名盤紹介本の中で、
ある評論家がこんなコメントを書いていました。


その"真意"の程は私にはわかりませんが、
確かに上記の演奏には他にはない魅力を私も感じます。
事実、交響曲第8番でもっとも頻繁に聴くのは同盤です。

ヴァイオリンの幽かな上昇音型の中、テノールテューバの旋律が出てくるところは、
いつもゴヤの『巨人』という絵を思い出します。
地の底からゆっくりとその姿を現してくるような・・・


(近年、弟子の作との報告書が・・・)

徐々に音量が増していく中、しかしクナッパーツブッシュは爆発をギリギリまで延ばし、
トロンボーンの咆哮で全てが音で満たされます。



しかし、最近はこの第8番のコーダ以上に
交響曲第3番「初稿」(第一稿版)の第1楽章冒頭こそが
ブルックナーの交響曲を聴く醍醐味を最も表しているのでは、と思うようになりました。


弦楽器の蠢きの中、彼方からトランペットが奏でる主題が幽かに聴こえ、
それをホルンが引き継ぎます。
管楽器同士の掛け合いが繰り返されながら徐々に音量を増していき、
やがてホルティッシモに達しますが「初稿」でのそこまでの息の長さ!

まるで濃い霧や靄の中から巨大な山脈が、あるいは大伽藍が姿を現すような
いや、巨神のゆっくりとした足音が徐々に近づいてきて、
その全貌を見せるような"神々しさ"、"畏怖"さえ感じさせる始まりです。


その巨神は、ブルックナーにとって神の如き存在だったワーグナーでしょうか?
それともブルックナー自身の姿でしょうか?


エーザー版やノヴァーク版に比べて、確かに初稿は混沌としていますが、
逆にそこが、なかなか全貌を捉えきれないこの曲の巨大さを感じさせます。

他の作曲家の作品、
例えばシベリウスのヴァイオリン協奏曲や交響曲第5番など、
現行版と初稿を比較すれば、当然、現行版の方が纏まっています。
(最初に現行版に馴染んでいるというのもありますが・・・)

ブルックナーも基本的には同じなのですが、この交響曲第3番の第1楽章は
単に交響曲の一つの楽章ではなく、この楽章だけで「単独の曲」、
この曲だけで"ブルックナーそのもの"を表しているかのようです。


その瞬間、「ブルックナー宇宙」に引き込まれます。

名曲探偵アマデウス「ブルックナー交響曲第7番」

2011-02-08 22:42:21 | クラシック音楽
先日、NHKハイビジョンで放送した名曲探偵アマデウスで
ブルックナーの交響曲第7番ホ長調が取り上げられていました。

この番組にしてはかなり渋い選曲です。

この曲を聴くとなぜか眠くなる・・・という切り口で
ブルックナーの交響曲の特徴と魅力が紹介されていました。


主題がどれも長くしかも途中で何度も転調を繰り返す。
(逆に言うと)何度も転調するため基の調に戻るまで時間がかかる。

それ故、初めて聴く人はどこへ行くのか先がわからず、
退屈に感じてしまう・・・。

しかし、一度理解した者は、その長さを快く感じ、
ブルックナーの巨大な音楽に身を任せる・・・


動機の繰り返しを多用しながら徐々に高揚していき、
やがて壮絶な頂点に達する・・・というのも同様です。

今までブルックナーの音楽の魅力をうまく説明できませんでしたが、
なるほどなあ、と思いました。



以前にも書きましたが、N響首席オーボエ奏者の茂木大輔さんは
ブルックナーの交響曲を「シンフォニー・オーケストラの目標の一つ」
と著作の中で語っています。

ある評論家は、
「ブルックナーの音楽は他の作曲家の作品と決定的に違う」
と言っています。

またある評論家は、
この第7番について「こんな曲がほかにあるだろうか」
と書いています。

言葉は違えど、皆同じ気持ちなのではと感じます。


長い西洋音楽の歴史の中で、
多くの偉大な作曲家たちがき築き上げ、磨き上げてきたもの・・・。
ブルックナーの交響曲群はその一つの"極み"にあるのではないか、
そんなことを考えてしまいます。

最初に書き上げた「初稿」も、いくつもの改訂稿も含めて
その「全て」が巨大な山脈を形作っている・・・


音楽に限らず、小説でも絵画でも、
それをどのように鑑賞し、何を感じるかは人それぞれです。
そしてその感じ方に「良い(感じ方)/悪い(感じ方)」はありません。

クラシック音楽を聴いているから"偉い"わけでもなく、
ブルックナーを愛聴する人だけが"真のクラシックファン"なわけでもありません。


そのような意味ではなく、でも(何らかの意味で)
ブルックナーの交響曲は一つの「試金石」であるような気がします。


決して器用ではなく(むしろ不器用)、
同時代の指揮者や弟子達からも、いろいろ「ダメ出し」をされて
その度に何度も何度も作品を修正して、それでも中々認められない。

そうやって残された作品群に私達はこんなにも心を震わせる・・・

"そこ"にあるのは一体なんなのでしょう。