久しぶりのブログです。
読んでいただいている方には大変ご心配おかけ致しました。
義母が亡くなりました。
まだ気持ちが落ち着いておりません。
この一週間、ずっと泣いて過ごしている気がします・・
思えば、約2年前。
義母の病が発覚し、そこから義母は病と闘う日々でした。
病気発覚と共に、
私達の宇都宮行きが決まり・・
引越と手術が重なり、立ち会うこともできませんでした・・
宇都宮に行ってからは夏休みに帰省、
私が約一週間、義実家に泊まりでお手伝いに行ったり。
できる範囲のことを、自分なりに、してきました。
その後、義母の状態は良くならず・・
進行していきました。
今回、夫婦で話し合い、
夫の会社に無理を言い、去年兵庫県に転居させていただきました。
これも全て聞き入れてもらえる訳ではないので・・
夫の会社には本当に感謝しております。
我が夫ながら、会社でどんな評価であるか、
どんな風に人から思われているのか・・立場面であるとか・・痛感しました。
義母は強い人でした。
少なくとも、私達の前では弱音を吐かず。
寝たきりの状態になっても自分なりのリハビリを続け。
「病人っぽくなりたくない」との強い意志で。
本当に頑張っていました。
その後、「あら~私、病人なのにねぇ~」とあの、明るい関西弁で。
いつもいつも明るく笑わせてくれました。
私が宇都宮からお手伝いに行った時も。
「せっかく関西に来たのだから、お昼ご飯を食べたらすぐでかけなさいね、
大阪は楽しいわよ」と送りだしてくれたり・・
出かけたものの、私も義母へのお土産ばかり頭に浮かんでしまい・・
結局、すぐ戻ってきたり。
「○○ちゃん、ゆっくりしてきたらいいのに!」
「いえいえ、お義母さん、おみやげを食べましょう~」
「おみやげなんて、いいのに、ゆっくりしなさい!」
・・そんなことを二人で想いあったり。
私が宇都宮に戻る日
「○○ちゃんが来てくれて、本当に助かった、ありがとう・・」と泣く義母と抱き合ったり。
関西に来てからは、平日、私が病院に行ったり、
土日は夫と病院に行ったり。
義実家へ寄り、義父へ食事を持っていったり。
「○○ちゃんの作ったお料理は本当においしい」と
毎回、とても喜んでもらって・・
大したものは、作っていないはず・・
それなのにとても、毎回喜んでもらえました。
それだけで、幸せでした。
去年、義母の余命を宣告され
年末年始、外泊許可をもらい、外泊。
それに伴い、私は去年、下の世話の勉強。
義母は片方の足が動けないので、私も・・苦戦。
慣れたらそうでもないのですが、こういうことは、本当に難しいと感じました・・
私は初めてだったので、とてもいい経験になりました。
ただ、それが義母にとっては、
とても辛いことだったようで・・
私に何度も「○○ちゃんにこんなことをさせたくなかったのに、ごめんね・・」
と会う度に泣きながら話していました。
夫も
その話の時にいたのでとても気持ちは複雑だったそうです・・
私には申し訳ないと思うし、
義母のあの泣く姿も、辛かったのだと思います。
大晦日、元旦と一緒に過ごしました。
義母にとっては、
最後のお正月でした。
私の打ったお蕎麦、
義母が食べる最後のお蕎麦となりました・・
心を込めて打ちました。
生前
「自分のことより人のこと」ばかりだった義母。
自分がこんなになって人に迷惑をかけたくない、と。
眠りにつく方法(治療)を選択しました。
自分は今のまま、尊厳を持って死にたいと。
ボロボロになって死にたくない、と・・。
それから私と義父で交代で病院に泊まり・・
ずっと眠る義母を見ていました。
最後に話たのは、
義母が眠りながら、ぶつぶつと。
「○○ちゃん、
暗くなったから早く帰りなさいね、心配よ・・」と
それが、義母の、私に対する、最期の言葉でした。
最期まで人の心配ばかりでした。
お義母さんが、私達に伝えたかったこと。
「何があっても自分自身に負けてはいけない」
この先、いつ何があるか分からない・・
その時に、自分にだけは負けてはいけないのよ、と。
それを私達に伝えたかったから
その姿を残したかったから頑張ったと。
そう話しておりました。
早朝、連絡をもらい、駆けつけた時は。
義父が泊まった翌日だったので義父が側についていて。
・・2人で見送りました。
夫はすぐかけつけましたが、間に合いませんでした。
義父がいる日に逝けるように義父が来るまで待っている、頑張る、と生前話していた義母。
私の泊まった日ではなく、計画したかのような見事な最期でした。
義父を待っていたのだと、そう思います。
お通夜、葬儀が終わり
遺骨となって・・やっと、義母は自宅へ戻ってきました。
お墓も、戒名も決め、葬儀も事前に相談し、
形見分けも全て自分でしていた義母。
冷静に。
残されたものが困らないように。
立派すぎる最期でした・・
夫は私に
「本当に、ありがとう。
ここまでしてくれて・・本当にありがとう・・」と・・
畳に頭をこすりつけながら。
たくさん言葉をかけてくれました。
関西に来て、義母を見送ることができ、
夫婦共々、良かったねと話しています。
私が経験したことは、
少しだけ、早かったかもしれませんが・・
これも・・きっと、意味があること。
誰かが同じような立場になった時は
心の支えになれるよう、寄りそれたらと。
あなたが教えてあげるのよ、と言われてる気がします。
きっと、その為に私が経験したのでしょうね。
お義母さん、あちこち痛かったですね・・
本当に辛かったですね・・
たくさんの優しさと、愛情と。
多くの言葉をありがとうございました。
「何でもできる自慢のお嫁さんだから安心なの」と周囲に話してくださったこと。
本当に、本当に嬉しかったです。
2年間、お疲れ様でした。
ゆっくり、休んでくださいね・・
ここにどうやって書こうか悩みましたが、
私なりに考え、残しておこうと、記録した次第です。
色々と意見もあるかもしれませんが・・
ご了承ください。
そして・・この場を借りて。
色々と気遣ってくれたお友達。
相談にのってくれたお友達。
本当にどうもありがとう。
こちらに来て、そういう話はできなかったので
遠く離れた友達が私の支えでした・・
お友達がいなかったら、
私はとっくにつぶれていたと思います・・
また改めて、ゆっくりお話しようね。
また通常通り、ブログ更新していこうと思います。
よろしくお願いいたします。
最後に。
私にとっても、自慢のお義母さん!!
そんな人の息子が
私の夫であることを、誇りに思います。
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本日も読んでいただきありがとうございました
読んでいただいている方には大変ご心配おかけ致しました。
義母が亡くなりました。
まだ気持ちが落ち着いておりません。
この一週間、ずっと泣いて過ごしている気がします・・
思えば、約2年前。
義母の病が発覚し、そこから義母は病と闘う日々でした。
病気発覚と共に、
私達の宇都宮行きが決まり・・
引越と手術が重なり、立ち会うこともできませんでした・・
宇都宮に行ってからは夏休みに帰省、
私が約一週間、義実家に泊まりでお手伝いに行ったり。
できる範囲のことを、自分なりに、してきました。
その後、義母の状態は良くならず・・
進行していきました。
今回、夫婦で話し合い、
夫の会社に無理を言い、去年兵庫県に転居させていただきました。
これも全て聞き入れてもらえる訳ではないので・・
夫の会社には本当に感謝しております。
我が夫ながら、会社でどんな評価であるか、
どんな風に人から思われているのか・・立場面であるとか・・痛感しました。
義母は強い人でした。
少なくとも、私達の前では弱音を吐かず。
寝たきりの状態になっても自分なりのリハビリを続け。
「病人っぽくなりたくない」との強い意志で。
本当に頑張っていました。
その後、「あら~私、病人なのにねぇ~」とあの、明るい関西弁で。
いつもいつも明るく笑わせてくれました。
私が宇都宮からお手伝いに行った時も。
「せっかく関西に来たのだから、お昼ご飯を食べたらすぐでかけなさいね、
大阪は楽しいわよ」と送りだしてくれたり・・
出かけたものの、私も義母へのお土産ばかり頭に浮かんでしまい・・
結局、すぐ戻ってきたり。
「○○ちゃん、ゆっくりしてきたらいいのに!」
「いえいえ、お義母さん、おみやげを食べましょう~」
「おみやげなんて、いいのに、ゆっくりしなさい!」
・・そんなことを二人で想いあったり。
私が宇都宮に戻る日
「○○ちゃんが来てくれて、本当に助かった、ありがとう・・」と泣く義母と抱き合ったり。
関西に来てからは、平日、私が病院に行ったり、
土日は夫と病院に行ったり。
義実家へ寄り、義父へ食事を持っていったり。
「○○ちゃんの作ったお料理は本当においしい」と
毎回、とても喜んでもらって・・
大したものは、作っていないはず・・
それなのにとても、毎回喜んでもらえました。
それだけで、幸せでした。
去年、義母の余命を宣告され
年末年始、外泊許可をもらい、外泊。
それに伴い、私は去年、下の世話の勉強。
義母は片方の足が動けないので、私も・・苦戦。
慣れたらそうでもないのですが、こういうことは、本当に難しいと感じました・・
私は初めてだったので、とてもいい経験になりました。
ただ、それが義母にとっては、
とても辛いことだったようで・・
私に何度も「○○ちゃんにこんなことをさせたくなかったのに、ごめんね・・」
と会う度に泣きながら話していました。
夫も
その話の時にいたのでとても気持ちは複雑だったそうです・・
私には申し訳ないと思うし、
義母のあの泣く姿も、辛かったのだと思います。
大晦日、元旦と一緒に過ごしました。
義母にとっては、
最後のお正月でした。
私の打ったお蕎麦、
義母が食べる最後のお蕎麦となりました・・
心を込めて打ちました。
生前
「自分のことより人のこと」ばかりだった義母。
自分がこんなになって人に迷惑をかけたくない、と。
眠りにつく方法(治療)を選択しました。
自分は今のまま、尊厳を持って死にたいと。
ボロボロになって死にたくない、と・・。
それから私と義父で交代で病院に泊まり・・
ずっと眠る義母を見ていました。
最後に話たのは、
義母が眠りながら、ぶつぶつと。
「○○ちゃん、
暗くなったから早く帰りなさいね、心配よ・・」と
それが、義母の、私に対する、最期の言葉でした。
最期まで人の心配ばかりでした。
お義母さんが、私達に伝えたかったこと。
「何があっても自分自身に負けてはいけない」
この先、いつ何があるか分からない・・
その時に、自分にだけは負けてはいけないのよ、と。
それを私達に伝えたかったから
その姿を残したかったから頑張ったと。
そう話しておりました。
早朝、連絡をもらい、駆けつけた時は。
義父が泊まった翌日だったので義父が側についていて。
・・2人で見送りました。
夫はすぐかけつけましたが、間に合いませんでした。
義父がいる日に逝けるように義父が来るまで待っている、頑張る、と生前話していた義母。
私の泊まった日ではなく、計画したかのような見事な最期でした。
義父を待っていたのだと、そう思います。
お通夜、葬儀が終わり
遺骨となって・・やっと、義母は自宅へ戻ってきました。
お墓も、戒名も決め、葬儀も事前に相談し、
形見分けも全て自分でしていた義母。
冷静に。
残されたものが困らないように。
立派すぎる最期でした・・
夫は私に
「本当に、ありがとう。
ここまでしてくれて・・本当にありがとう・・」と・・
畳に頭をこすりつけながら。
たくさん言葉をかけてくれました。
関西に来て、義母を見送ることができ、
夫婦共々、良かったねと話しています。
私が経験したことは、
少しだけ、早かったかもしれませんが・・
これも・・きっと、意味があること。
誰かが同じような立場になった時は
心の支えになれるよう、寄りそれたらと。
あなたが教えてあげるのよ、と言われてる気がします。
きっと、その為に私が経験したのでしょうね。
お義母さん、あちこち痛かったですね・・
本当に辛かったですね・・
たくさんの優しさと、愛情と。
多くの言葉をありがとうございました。
「何でもできる自慢のお嫁さんだから安心なの」と周囲に話してくださったこと。
本当に、本当に嬉しかったです。
2年間、お疲れ様でした。
ゆっくり、休んでくださいね・・
ここにどうやって書こうか悩みましたが、
私なりに考え、残しておこうと、記録した次第です。
色々と意見もあるかもしれませんが・・
ご了承ください。
そして・・この場を借りて。
色々と気遣ってくれたお友達。
相談にのってくれたお友達。
本当にどうもありがとう。
こちらに来て、そういう話はできなかったので
遠く離れた友達が私の支えでした・・
お友達がいなかったら、
私はとっくにつぶれていたと思います・・
また改めて、ゆっくりお話しようね。
また通常通り、ブログ更新していこうと思います。
よろしくお願いいたします。
最後に。
私にとっても、自慢のお義母さん!!
そんな人の息子が
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本日も読んでいただきありがとうございました