日本と世界

世界の中の日本

ニ・二六事件と寺内粛軍

2023-03-25 18:45:06 | 日記
南方軍総司令官寺内元帥之墓
1879(明治12)年生ー1946(昭和21)年没

山口県出身。明治の元勲寺内正毅(てらうち まさたけ)の長男で、明治、大正、昭和に生きた軍人。
父と同じく陸軍大将、元帥となる。台湾軍司令官、軍事参議官、北支方面軍事司令官を歴任し、1941年には南方軍総司令官に着任して太平洋戦争の南方作戦を指揮した。
1945(昭和20)年敗戦の年、サイゴン郊外で病にたおれ、英国軍マウントバッテン将軍の配慮でジョホール州レンガムのヒギンス氏別邸にて療養。
その為、日本軍の降伏式にも参加出来ず脳溢血で死去。
遺骨はマウントバッテン将軍の指示により、軍刀その他の遺留品と共に特別機で東京の遺族の元に送られ、この墓には、寺内元帥の遺髪、爪、襟章、肩章が納められている。

(説明板より)
 シンガポール日本人墓地公園

【ニ・二六事件と寺内粛軍】

2・26事件の当時、現役の陸軍大将は10名いた。
このたびの叛乱の責任を取って全員辞職すべきであると、阿部信行(陸士9期)が発言したが、異論があり、陸士10期以下の3名は現役に留まることになった。
西義一(陸士10期)、植田謙吉(陸士10期)、寺内寿一(陸士11期)の3人である。
このうち寺内が一番好運をつかんだ。

寺内は元帥で内閣総理大臣にもなった長州人・寺内正毅の長男で、禿頭童顔のため好人物の印象を人に与えた。
実際、坊ちゃんらしい一面もあった。
原田熊雄述『西園寺公と政局』を見ると、寺内は毛並みの良さに加えて元老・重臣に受けがよく、前年の天皇機関説問題で政局が紛糾し、川島陸相の進退が云々された時、後任に「やはり寺内が一番強い」と杉山参謀次長が言っている。
この書物で見る限り、寺内はしばしば西園寺の坐漁荘へ報告に行っている。
社交にたけた一面が伺える。

こうして、全軍の輿望を荷って寺内は広田弘毅内閣の陸相になった。
広田内閣誕生の際は、陸軍がさんざん横槍を入れ、さすがの硬骨漢の広田も一時、組閣を断念するか、とまで危ぶまれたほどであった。
その陸軍横暴の先頭に立ったのが寺内であり、その寺内を自在に操ったのは省部の中堅幕僚であり、その中堅幕僚の中心的存在は陸軍省軍務局の高級課員・陸軍中佐武藤章(陸士25期)であったことはもはや通説になっている。

2・26事件の蹶起将校たちは、一君万民の理想国家を目指してクーデターを敢行した。
彼らの叫びは尊皇討奸、天皇絶対であり、天皇への叛逆などは夢にも考えていない。
しかし、天皇の激怒のさまは、奉勅命令と共に伝わり、去就の定かでなかった中央幕僚たちの態度を一変させた。
蹶起将校たちは叛徒となり、短時日の形式的な裁判を経て死刑になった。
昭和11年3月からはじまる陸軍の不当な政治介入は、天皇の御立腹の結果として起こった。
天皇の御意志は、いわゆる統制派の幕僚たちに勇気を与えた。

陰湿な謀略の上に、寺内陸相の粛軍人事が遂行された。
いかに国家にとって、須用欠くべからざる人材であっても、2・26事件の同調者、あるいは皇道派と目された人々は、すべて左遷、粛正の対象となった。
台湾軍司令官・陸軍中将柳川平助、陸軍大学校校長・陸軍少将小畑敏四郎は、その尤なるものであった。
内務省警保局が、各県の特高警察を通じて国内の情報を集めた極秘資料が『週報』と名付けられて国立国会図書館に保管されている。
その中に、7月7日頃、刑死を目前にした安田優、高橋太郎、2人の元少尉が、家族に語った聞き書きが報告されている。
「陸軍切ってのロシア通小畑の待命は、軍として大なる損失である。反面ロシアは喜んでいるだろう」(『週報』昭和11年17号)
9年後の昭和20年2月、ヤルタ協定によってソ連は対日参戦を決定する。
アッという間に全満洲を席巻し、北鮮に侵入、日本降伏後も遮二無二千島列島を占領、あげくの果ては北海道をも要求して、マッカーサーに断られている。
小畑はこうしたソ連の強引な侵略的な体質をよく知っていたのだ。
陸軍から寺内粛軍によって小畑敏四郎を失ったことは全国民の不幸であった。

(参考:須山幸雄 著 『二・二六事件 青春群像』 芙蓉書房 昭和56年第1刷発行)
(平成29年2月3日 追記)
【二・二六事件裁判(日本のドレフュース事件】

この裁判が、軍司法権の独立を抑圧した徹頭徹尾、軍法会議長官である、陸軍大臣の指揮権発動にもとづく政治裁判であったことはあきらかである。
各法廷の審理が進められ、そろそろ判決を下そうというころ、突然、寺内陸相から各裁判長に対し集合命令が下った。
各裁判長が指定された陸相官邸に集合すると、まず寺内陸相は各裁判長に対し審理の進行状況と各被告に対する処断の見解を質問する。

民間人を受け持っていた吉田裁判長(吉田恵・少将)が『北一輝と西田税は、2・26事件に直接の責任はない』という見解のもとに、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁錮刑を言い渡すべきことを主張した。
ところが寺内陸相は、『両人は極刑に処すべきである。両人は、証拠の有無にかかわらず黒幕である』と、極刑の判決を示唆した。
良心的な吉田裁判長は梅津陸軍次官ならびに阿南兵務局長に上申書をもって、同趣旨のことを意見具申している。

また、昭和29年2月7日号の『週刊読売』の追跡調査によると、匂坂家にある2・26調書によれば、軍首脳部では初めから事件に参加した将校は全員死刑の方針だったようで、予め死刑と刷り込んだ判決予定書を法廷関係者に配布した。
その押し付けられた判決予定に良心的な裁判官は苦慮した。
匂坂検察官も苦慮しながらも、結局、良心に恥じながら死刑の判決に同意した。

2・26事件の後、真崎甚三郎大将を投獄した統制派軍人の真崎弾圧は、単に真崎の社会的生命を葬るというだけのものにとどまらず、その肉体的生命までも奪ってしまうという凄まじいものであった。
これは2・26事件後に広田内閣の陸軍大臣になった寺内の強硬なる意図であった。
寺内が真崎を銃殺するんだと言っていたことは単なる憶測や風説ではない。
真崎の実弟、真崎勝次海軍少将の著書によれば「終戦の時の陸軍大臣であった阿南大将が語ったところによると、寺内大将は2・26事件のとき参内して、天皇陛下に、この事件の黒幕は真崎大将であると上奏してあるため、何としても真崎大将を有罪にするか、官位を拝辞させねばならぬ羽目におち入ったのである」と言ったという。

また、真崎と特別の関係にあって私淑している山口富永の著書によれば「磯村年大将は真崎大将より先輩である。寺内大将より更に先輩の筈であるが、この磯村大将を真崎裁判の判士長にするとき、寺内は『何でもかまわぬから、真崎を有罪にしろ』と言ったというが、磯村大将は『そんな、調べもせんで有罪にしろというような裁判長を、自分は引き受けられん』と強く断ったということである。

(参考:田崎末松 著 『評伝 真崎甚三郎』 芙蓉書房 昭和52年12月 第1刷発行)
(平成30年12月28日 追記)
陸軍大臣 寺内寿一の「衛生省」設置の提唱

寺内寿一が陸軍大臣時代、兵力の根源である壮丁(兵士)の体格は年々低下し、また結核死亡率は年々増加の傾向にあった。
満洲事変で、陸軍2個師団(約2万名)の兵隊を満洲に送ったところ、1個大隊に相当する約500名が結核を発病して帰還してしまった。
これらの現象は、英米による経済圧迫、浜口内閣の金輸出解禁の失敗、アメリカの恐慌の余波による生糸の暴落などによって、都市、農村ともに失業者が増加し、日常生活にもこと欠く家庭が続出したことによるものである。
よって、昭和11年7月の閣議に陸軍大臣寺内寿一は保健国策樹立の必要性を提唱し、健兵健民政策の必要上、強力な衛生行政を行なう主務官庁として「衛生省」を作ることを提唱した。
しかし、この案は内務省をはじめ各省が、機構の不備な点を突いて反対したので撤回された。
翌年6月、第一次近衛内閣が成立すると、「保健社会省」と名前が変わって提出され、日中戦争の開始がこれに拍車をかけて、昭和13年1月、「厚生省」という名称の下に、日の目を見るに至った。
参考文献:関亮著「軍医サンよもやま物語」
(平成17年7月23日追記)
【幕僚ファショ】

昭和13年秋、私は上海、北支方面の情況視察の旅に出た。
私は軍司令部に寺内元帥を訪問した。
いつもの通り極めてほがらかであり、童顔を輝かしていた。
参謀長は山下中将であり、参謀副長が武藤(章)大佐であった。
山下と武藤のコンビ、これは彼らの立場においては名コンビであり、我らの立場においては悪コンビであった。
それは、両人共に鼻っ柱が人並外れて強く、いわゆる積極論者であり、全然幕僚型ではないのである。
幕僚型とは必ずしも御殿女中であるべきではないが、主人を尻に敷くのでは困るのである。
それを幕僚ファショとも言う。
寺内将軍は「政子」と「淀君」とを同時に持ったのであり、彼が堂々たるロボットとなり終ったことは当然であり、中央部人事の不明を物語るものである。

(参考:樋口季一郎 著 『アッツ、キスカ・軍司令官の回想録』 昭和46年10月 第1刷発行 芙蓉書房)
(令和元年12月14日 追記)
【フィリピンの寺内】

昭和19年の夏に入り、いよいよ戦局は不利になり、ルソン島にも危険が迫ったことは誰の目にも明らかとなったある日、私たちの部隊の兵隊が、自動車で街を通行中の寺内総軍司令官に停止敬礼を怠ったかどで、重営倉にぶちこまれるという事件が起こった。
停止敬礼というのは、中隊長以上の直属上官、つまり、自分の所属する連隊長、師団長、軍司令官などに出会ったときは、事の如何を問わず、不動の姿勢をとって敬礼しなければならないのである。
寺内元帥は南方総軍の司令官であるから、この人に行き会ったら、ルソン島の全軍人は一人残らず立ち止まって敬礼しなければならないわけだ。
もちろん、その兵隊は、寺内元帥の自動車と知れば停止敬礼をしたであろうが、暑さ加減やその他でぼんやりしていたらしい。
総司令官を乗せた自動車が、彼をふんづかまえるために目の前で停車するまで気が付かなかった。
そこで彼は、寺内元帥から、直接激しい叱責を受けた。
部隊へは、厳重に処罰せよという命令がきた。
そこには、弛んだ軍紀を引き締めるという意図があったには違いない。
しかし、私は4年間の軍隊生活を通じて、故意にではなく敬礼し損ねたという理由だけで、重営倉にぶち込まれた兵隊を見たのは、後にも先にもこの時だけである。
南方海域に散らばる全日本軍を指揮する司令官が、不注意から自分に敬礼しなかった一兵卒を処罰することで、戦意昂揚を果たそうと考える頭脳の哀れさが身に染みた。

(江崎誠致 著 『ルソンの挽歌』 光人社NF文庫 1996年発行)
(令和元年10月29日 追記)
フィリピン戦線を離脱した許しがたい倫理観

南方総軍総司令官・寺内寿一(大将・昭和18年元帥)は、サイゴンに司令部をおき、旧フランス総督の大邸宅で優雅に生活し、フィリピン戦線が緊張するとマニラに移動した。
だが、彼は、あくまでも(マニラは)前線指揮所であるとしてサイゴンの総司令部をマニラに移そうとはしなかった。
そして、フィリピンに火がつきはじめるとすぐマニラの「前線指揮所」を去った。
行き先はもちろん、「東洋のパリ」といわれたサイゴンである。
依然、贅沢な公館での優雅な生活を続けていた。
その彼の指揮のもと、牟田口廉也は、数万の兵士を(インパールで)全滅させ、山下奉文は部下たちとともに空腹でフラフラしながらフィリピンの山中の複郭陣地でアメリカ軍と戦ったのである。

その寺内が、驚くなかれ、自分の愛人(お妾さん)の芸妓を、陸軍軍属として、輸送機で自分の総司令部の官舎に連れ込んでいたのだ。
もちろん、日本軍の上級幹部には、現地の敵性国人(たとえばオランダ)の女性を“現地妻”ないしは愛人として囲った人間はいただろう。
だが、本土から赤坂の美貌の芸妓を軍用機に搭乗させて呼びよせたという人間は、寺内以外にまずいなかったのではあるまいか?

彼はまた、現地人に対して温情的だった今村均大将を非難している。
また、250マイルのビルマ・ロードの開発(ふつうなら5ヶ年かかる)を18ヶ月で完成させることによって、連合軍の捕虜5万のうち3分の1を死亡させている。
おそらく終戦の年の9月、脳溢血で倒れなかったら、戦犯として絞首刑はまちがいなかっただろう。

(参考:佐治芳彦 著 『太平洋戦争・封印された真実』 日本文芸社 平成9年4月10日第4刷発行) 

大東亜戦争以前の日本の近代史を大きく動かしたのは軍部大臣現役武官制であると思われる」

2023-03-25 18:35:40 | 日記

広田弘毅
近代日本人の肖像
二・二六事件後の広田弘毅内閣が成立。陸相に選ばれた寺内寿一大将は軍部大臣現役武官制度の復活を広田首相に要求し、これに応えた。このことがのちに取り返しのつなかい大問題に発展する。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第四章・第7回。
時間:08:43
収録日:2015/01/19
追加日:2015/08/31

ジャンル:
  • 歴史・民族
  • 日本史(大正~現代)

タグ:
  • 二・二六事件


≪全文≫
 二・二六事件後に岡田啓介内閣が総辞職したあと、近衛文麿を元老西園寺は推薦したが、彼は病気と称して断ったので、広田弘毅内閣(昭和11年〈1936〉3月9日~12年〈1937〉2月2日)が成立した。広田首相は組閣の際、陸軍大臣に寺内寿一大将(のち元帥)を選んだ。ところが、広田首相は外務大臣に吉田茂を入閣させたかったのだが、寺内大将は「そんな自由主義者は駄目だ」と言い出し、組閣に干渉したのである。

 寺内が陸相に選ばれたのは、二・二六事件後に陸軍では粛軍と呼ばれる大規模な人事異動が行なわれたためであった。つまり、粛軍の名のもとに皇道派を一掃しなければならなかったのだが、そこで「この人なら問題にならないのではないか」と白羽の矢が立ったのが、長州出身の寺内寿一大将だった。

 寺内大将の父である寺内正毅元帥は首相も務め、伯爵にもなっているから、名門中の名門の出である。二・二六事件のあとの陸軍を誰がまとめていくのかというとき、最も差し障りがなかったのが、名門出身である寺内大将を担ぎ出すことだった。

 当時、長州閥の将校は中央には置かず、地方で勤務させることが不文律になっていた。寺内大将も第五師団長、第四師団長、台湾軍司令官を歴任したあと、昭和10年(1935)12月2日から軍参議官の役職にあった。そして彼は、昭和11年(1936)3月9日に成立した広田内閣の陸軍大臣として入閣するのである。

 寺内陸相は育ちが良く、厳しい交渉も難しい仕事も平気でこなせるところがあった。その彼が広田首相に要求したことの中に、軍部大臣現役武官制度の復活があった。つまり、第一次山本権兵衛内閣時代に木越安綱陸相がしたこととは逆のことを行なったのである。

 寺内陸相は広田首相を説得するため、「真崎大将は二・二六事件後に予備役になりましたが、彼のように現役でない軍人が陸軍大臣になってしまった場合、総理はどうしますか」と話したという。そこで広田首相は考え込んで、「陸海軍大臣は現役に限る」と制度を元に戻した。これがのちに取り返しのつかない大問題になったことは、すでに述べた通りである。その後の日本政治はいうまでもなく、軍部に反対されたら何もできないような状態に陥った。

 たとえば、米内光政海軍大将を首班とする米内内閣(昭和15年〈1940〉1月16日~7月22日)は日独伊三国同盟に反対で、陸軍が三国同盟の締結に善処するよう求めたが、米内首相は拒否した。すると陸軍大臣の畑俊六大将が辞職し、陸軍が後継の陸相を出さなかったため、米内内閣はあえなく総辞職している。

 私には、大東亜戦争以前の日本の近代史を大きく動かしたのは軍部大臣現役武官制であると思われてならない。陸海軍大臣を現役に限るか、退役した民間人でも陸海軍大臣になれるかという、この差が非常に大きかった。

 その意味で、日本が大東亜戦争に突き進んでいくことになった一つの主因として、軍部大臣現役武官制が挙げられるとするならば、広田首相はその責任を免れることはできないだろう。寺内陸相が陸海軍大臣を現役から選ぶように求めたとき、広田首相があくまでそれをはねつけていれば、三国同盟を結ばずにすんだであろう。アメリカが対日戦に踏み出す口実の一つが三国同盟だったから、日本が三国同盟を結ばなければ、アメリカとの戦争を回避することも不可能ではなかったのではないか。

 昭和12年(1937)2月に広田内閣が総辞職すると、後継首相として組閣の大命が降下したのが宇垣一成大将であった。軍部の政治干渉が激しくなり、国際情勢も緊迫化する中で、それらに対して適切な手を打てるであろうと力量を恃まれてのことである。

 だが、この宇垣内閣は、陸軍が軍部大臣現役武官制を盾に陸相を出さなかったため流産してしまう。

 その経緯を詳しく説明すると、昭和12年(1937)1月24日、宇垣大将が宮中に参内して組閣を命じられたという情報が流れると、陸軍省の首脳たちは陸相官邸に集まり、宇垣大将が組閣を試みた場合、陸軍大臣を出さないことを決定した。その席に、当時参謀本部の第二課長を務めていた石原莞爾大佐と中島今朝吾憲兵司令官もいた。同日深夜に中島憲兵司令官が宇垣大将に会い、大命を辞退するよう勧告している。翌25日に大命が降下し、宇垣大将は組閣に着手するのだが、先に述べたように陸相を得られず、同29日に組閣を断念した。



小畑 敏四郎 陸軍三羽烏の一人

2023-03-25 18:23:33 | 日記
陸軍中将
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小畑 敏四郎(おばた としろう、1885年(明治18年)2月19日 - 1947年(昭和22年)1月10日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人で陸軍中将。栄典は、正四位・勲一等(昭和20年8月19日時点)。高知県出身。
いわゆる皇道派の中心人物とされる。同じ陸軍士官学校16期生である岡村寧次、永田鉄山と共に陸軍三羽烏の一人とされている。妻は第24代衆議院議長元田肇の娘。その妹は第56代衆議院議長船田中の妻。

来歴・人物[編集]

1885年(明治18年)、男爵小畑美稲の四男として生まれる。兄は男爵小畑大太郎、小畑厳三郎(陸軍少将)。京都府立第一中学校、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)に陸軍士官学校を卒業(16期優等)。少尉任官後、近衛歩兵第1連隊、歩兵第49連隊、真岡守備隊長を経て、1911年(明治44年)に陸軍大学校を卒業(23期優等)。この時期、陸士の1期後輩にあたる東條英機が陸大受験に失敗しており、彼のために小畑が自宅で勉強会を開き、陸士同期の岡村寧次、永田鉄山も集まっている。1913年(大正2年)、大尉任官、参謀本部勤務。1915年(大正4年)、ロシア駐在、第一次世界大戦下のロシア軍に従軍。軍務局課員、参謀本部員を経て、1920年(大正9年)、ロシア大使館付武官。しかし日本軍がシベリア出兵中であったために入国できず、ベルリンに滞在。
この間、1921年(大正10年)10月頃、永田鉄山、岡村寧次と共に、ドイツ南部の温泉地バーデン=バーデンにおいて、陸軍の薩長閥除去を目指す「バーデン=バーデンの密約」を行なったという。これらの顔ぶれから、陸士16期は「俊秀雲の如し」と呼ばれた。1922年(大正11年)、参謀本部員、1923年(大正12年)には中佐に進級、陸大教官となる。
1926年(大正15年)に参謀本部作戦課長に抜擢され、荒木貞夫第1部長のもと、部下の鈴木率道と共に「包囲殲滅戦+短期決戦」を軸とする「統帥綱領」の大幅改訂に携わる。これはその後1928年に正式改訂されている。1927年(昭和2年)に大佐に進み、1928年(昭和3年)8月、岡山歩兵第10連隊長となる。このときの部下として、作家の棟田博がいる。聨隊長としての小畑は、初年兵への私的制裁を徹底的に禁止する一方、軍規には厳しく、どしどしと違反者を営倉に送ったため、「営倉聯さん」というあだ名がついたという。1930年(昭和5年)8月陸軍歩兵学校研究部主事、1931年(昭和6年)8月陸大教官を歴任。
1931年(昭和6年)12月、犬養内閣の陸相に荒木が就任すると、翌1932年(昭和7年)2月、同じロシア通で信頼の厚い小畑を再び参謀本部作戦課長に起用する異例の人事を行う。小畑は同年4月に少将に進み参謀本部第3部長に就任(作戦課長の後任は鈴木率道)、荒木の盟友である真崎甚三郎参謀次長の腹心として、皇道派の中枢と目されることになる。しかし同時期に参謀本部第2部長となった永田鉄山と対ソ連・支那戦略を巡って鋭く対立、1933年(昭和8年)6月の陸軍全幕僚会議で対ソ準備を説く小畑に対し、永田は対支一撃論を主張して譲らなかった。この論争が皇道・統制両派確執の発端となる。同年8月、永田と共に参謀本部を去り、近衛歩兵第1旅団長に転出した。
1934年(昭和9年)1月に荒木陸相が辞任、後継を期待された真崎も閑院宮載仁参謀総長の反対により教育総監に回り、皇道派は大幅な後退を余儀なくされる。小畑は同年3月に陸大幹事、1935年(昭和10年)3月に陸軍大学校長となるが、陸軍内部の抗争は激化し、同年7月には真崎教育総監が更迭され、相沢事件で永田が斬殺される事態となる。1936年(昭和11年)2月、二・二六事件が勃発、部下である陸大教官の満井佐吉が事件に連座しており、小畑も監督責任を問われることになる。またこの際、当時女学生だった姪が小畑に密書を運んだ。これは女学生なら怪しまれないという理由だった。同年3月には中将に進むが、粛軍人事により皇道派の一掃が図られ、小畑も同年8月に予備役に編入された。その後1937年(昭和12年)には、日中戦争にあたって召集を受け留守第14師団長に任ぜられたが、健康上の問題で召集解除となった。
太平洋戦争の戦局が悪化すると、かねて親しい近衛文麿の、東條内閣打倒による終戦工作に関与し、憲兵隊の監視下に置かれる。敗戦によって1945年(昭和20年)8月17日、東久邇宮内閣が成立し、近衛や緒方竹虎の意向に沿って国務大臣に就任、約2カ月にわたり下村定陸相を補佐して軍部の収拾に当たる。1947年(昭和22年)1月10日死去。満61歳没。

戦術思想[編集]

陸大校長としての小畑は、徹底した戦機の看破と好機の捕捉による積極攻勢思想を持論としており、防勢のみによって敵を屈服することは絶対にあり得ず、攻勢!攻勢!ただ攻勢あるのみ。たとえ防勢にたっても攻勢に転ずる機会を待つべきであると陸大で教えていた。
このため、学生達は当時陸大幹事(副校長格)であった岡部直三郎と比較し、積極攻勢な小畑と堅実戦法の岡部がそれぞれ司令官であったなら、同じ戦況であっても違う判断を下すのではないかと雑談していたという[2]。

秘話[編集]

1945年(昭和20年)9月2日の太平洋戦争降伏文書調印式に、陸軍参謀総長の梅津美治郎が出席を渋って居るのを見て、「今更敗けた陸軍に何の面目があるのだ。降伏の調印に参謀総長が行くのが嫌なら、陸軍の代表として私が行っても良いぞ」と梅津を叱り飛ばし、梅津に降伏調印式出

南方軍総司令官寺内元帥之墓 【ニ・二六事件と寺内粛軍】

2023-03-25 17:43:52 | 日記
寺内寿一 てらうち・ひさいち
明治12年(1879年)8月8日~昭和21年(1946年)6月12日
山口県出身。
寺内正毅元帥の長男。
近衛歩兵第3連隊長、朝鮮軍参謀長を経て第4師団長を務める。
2・26事件後、広田内閣の陸相(陸軍大臣)に就任して粛清人事を行なう。
1937年(昭和12年)、”腹切り問答”で政党と衝突し、内閣総辞職の原因を作る。
日中戦争時は北支那方面軍司令官に任ずる。
太平洋戦争では南方軍総司令官。
敗戦後、シンガポールで抑留中に病死する。




 南方軍総司令官寺内元帥之墓 
 (シンガポール・シンガポール日本人墓地公園)

 (旅日記参照)


(平成26年6月11日)
【説明板】 

南方軍総司令官寺内元帥之墓
1879(明治12)年生ー1946(昭和21)年没

山口県出身。明治の元勲寺内正毅(てらうち まさたけ)の長男で、明治、大正、昭和に生きた軍人。
父と同じく陸軍大将、元帥となる。台湾軍司令官、軍事参議官、北支方面軍事司令官を歴任し、1941年には南方軍総司令官に着任して太平洋戦争の南方作戦を指揮した。
1945(昭和20)年敗戦の年、サイゴン郊外で病にたおれ、英国軍マウントバッテン将軍の配慮でジョホール州レンガムのヒギンス氏別邸にて療養。
その為、日本軍の降伏式にも参加出来ず脳溢血で死去。
遺骨はマウントバッテン将軍の指示により、軍刀その他の遺留品と共に特別機で東京の遺族の元に送られ、この墓には、寺内元帥の遺髪、爪、襟章、肩章が納められている。

(説明板より)
 シンガポール日本人墓地公園
【ニ・二六事件と寺内粛軍】

2・26事件の当時、現役の陸軍大将は10名いた。
このたびの叛乱の責任を取って全員辞職すべきであると、阿部信行(陸士9期)が発言したが、異論があり、陸士10期以下の3名は現役に留まることになった。
西義一(陸士10期)、植田謙吉(陸士10期)、寺内寿一(陸士11期)の3人である。
このうち寺内が一番好運をつかんだ。

寺内は元帥で内閣総理大臣にもなった長州人・寺内正毅の長男で、禿頭童顔のため好人物の印象を人に与えた。
実際、坊ちゃんらしい一面もあった。
原田熊雄述『西園寺公と政局』を見ると、寺内は毛並みの良さに加えて元老・重臣に受けがよく、前年の天皇機関説問題で政局が紛糾し、川島陸相の進退が云々された時、後任に「やはり寺内が一番強い」と杉山参謀次長が言っている。
この書物で見る限り、寺内はしばしば西園寺の坐漁荘へ報告に行っている。
社交にたけた一面が伺える。

こうして、全軍の輿望を荷って寺内は広田弘毅内閣の陸相になった。
広田内閣誕生の際は、陸軍がさんざん横槍を入れ、さすがの硬骨漢の広田も一時、組閣を断念するか、とまで危ぶまれたほどであった。
その陸軍横暴の先頭に立ったのが寺内であり、その寺内を自在に操ったのは省部の中堅幕僚であり、その中堅幕僚の中心的存在は陸軍省軍務局の高級課員・陸軍中佐武藤章(陸士25期)であったことはもはや通説になっている。

2・26事件の蹶起将校たちは、一君万民の理想国家を目指してクーデターを敢行した。
彼らの叫びは尊皇討奸、天皇絶対であり、天皇への叛逆などは夢にも考えていない。
しかし、天皇の激怒のさまは、奉勅命令と共に伝わり、去就の定かでなかった中央幕僚たちの態度を一変させた。
蹶起将校たちは叛徒となり、短時日の形式的な裁判を経て死刑になった。
昭和11年3月からはじまる陸軍の不当な政治介入は、天皇の御立腹の結果として起こった。
天皇の御意志は、いわゆる統制派の幕僚たちに勇気を与えた。

陰湿な謀略の上に、寺内陸相の粛軍人事が遂行された。
いかに国家にとって、須用欠くべからざる人材であっても、2・26事件の同調者、あるいは皇道派と目された人々は、すべて左遷、粛正の対象となった。
台湾軍司令官・陸軍中将柳川平助、陸軍大学校校長・陸軍少将小畑敏四郎は、その尤なるものであった。
内務省警保局が、各県の特高警察を通じて国内の情報を集めた極秘資料が『週報』と名付けられて国立国会図書館に保管されている。
その中に、7月7日頃、刑死を目前にした安田優、高橋太郎、2人の元少尉が、家族に語った聞き書きが報告されている。
「陸軍切ってのロシア通小畑の待命は、軍として大なる損失である。反面ロシアは喜んでいるだろう」(『週報』昭和11年17号)
9年後の昭和20年2月、ヤルタ協定によってソ連は対日参戦を決定する。
アッという間に全満洲を席巻し、北鮮に侵入、日本降伏後も遮二無二千島列島を占領、あげくの果ては北海道をも要求して、マッカーサーに断られている。
小畑はこうしたソ連の強引な侵略的な体質をよく知っていたのだ。
陸軍から寺内粛軍によって小畑敏四郎を失ったことは全国民の不幸であった。

(参考:須山幸雄 著 『二・二六事件 青春群像』 芙蓉書房 昭和56年第1刷発行)
(平成29年2月3日 追記)
【二・二六事件裁判(日本のドレフュース事件】

この裁判が、軍司法権の独立を抑圧した徹頭徹尾、軍法会議長官である、陸軍大臣の指揮権発動にもとづく政治裁判であったことはあきらかである。
各法廷の審理が進められ、そろそろ判決を下そうというころ、突然、寺内陸相から各裁判長に対し集合命令が下った。
各裁判長が指定された陸相官邸に集合すると、まず寺内陸相は各裁判長に対し審理の進行状況と各被告に対する処断の見解を質問する。

民間人を受け持っていた吉田裁判長(吉田恵・少将)が『北一輝と西田税は、2・26事件に直接の責任はない』という見解のもとに、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁錮刑を言い渡すべきことを主張した。
ところが寺内陸相は、『両人は極刑に処すべきである。両人は、証拠の有無にかかわらず黒幕である』と、極刑の判決を示唆した。
良心的な吉田裁判長は梅津陸軍次官ならびに阿南兵務局長に上申書をもって、同趣旨のことを意見具申している。

また、昭和29年2月7日号の『週刊読売』の追跡調査によると、匂坂家にある2・26調書によれば、軍首脳部では初めから事件に参加した将校は全員死刑の方針だったようで、予め死刑と刷り込んだ判決予定書を法廷関係者に配布した。
その押し付けられた判決予定に良心的な裁判官は苦慮した。
匂坂検察官も苦慮しながらも、結局、良心に恥じながら死刑の判決に同意した。

2・26事件の後、真崎甚三郎大将を投獄した統制派軍人の真崎弾圧は、単に真崎の社会的生命を葬るというだけのものにとどまらず、その肉体的生命までも奪ってしまうという凄まじいものであった。
これは2・26事件後に広田内閣の陸軍大臣になった寺内の強硬なる意図であった。
寺内が真崎を銃殺するんだと言っていたことは単なる憶測や風説ではない。
真崎の実弟、真崎勝次海軍少将の著書によれば「終戦の時の陸軍大臣であった阿南大将が語ったところによると、寺内大将は2・26事件のとき参内して、天皇陛下に、この事件の黒幕は真崎大将であると上奏してあるため、何としても真崎大将を有罪にするか、官位を拝辞させねばならぬ羽目におち入ったのである」と言ったという。

また、真崎と特別の関係にあって私淑している山口富永の著書によれば「磯村年大将は真崎大将より先輩である。寺内大将より更に先輩の筈であるが、この磯村大将を真崎裁判の判士長にするとき、寺内は『何でもかまわぬから、真崎を有罪にしろ』と言ったというが、磯村大将は『そんな、調べもせんで有罪にしろというような裁判長を、自分は引き受けられん』と強く断ったということである。

(参考:田崎末松 著 『評伝 真崎甚三郎』 芙蓉書房 昭和52年12月 第1刷発行)
(平成30年12月28日 追記)
陸軍大臣 寺内寿一の「衛生省」設置の提唱

寺内寿一が陸軍大臣時代、兵力の根源である壮丁(兵士)の体格は年々低下し、また結核死亡率は年々増加の傾向にあった。
満洲事変で、陸軍2個師団(約2万名)の兵隊を満洲に送ったところ、1個大隊に相当する約500名が結核を発病して帰還してしまった。
これらの現象は、英米による経済圧迫、浜口内閣の金輸出解禁の失敗、アメリカの恐慌の余波による生糸の暴落などによって、都市、農村ともに失業者が増加し、日常生活にもこと欠く家庭が続出したことによるものである。
よって、昭和11年7月の閣議に陸軍大臣寺内寿一は保健国策樹立の必要性を提唱し、健兵健民政策の必要上、強力な衛生行政を行なう主務官庁として「衛生省」を作ることを提唱した。
しかし、この案は内務省をはじめ各省が、機構の不備な点を突いて反対したので撤回された。
翌年6月、第一次近衛内閣が成立すると、「保健社会省」と名前が変わって提出され、日中戦争の開始がこれに拍車をかけて、昭和13年1月、「厚生省」という名称の下に、日の目を見るに至った。
参考文献:関亮著「軍医サンよもやま物語」
(平成17年7月23日追記)
【幕僚ファショ】

昭和13年秋、私は上海、北支方面の情況視察の旅に出た。
私は軍司令部に寺内元帥を訪問した。
いつもの通り極めてほがらかであり、童顔を輝かしていた。
参謀長は山下中将であり、参謀副長が武藤(章)大佐であった。
山下と武藤のコンビ、これは彼らの立場においては名コンビであり、我らの立場においては悪コンビであった。
それは、両人共に鼻っ柱が人並外れて強く、いわゆる積極論者であり、全然幕僚型ではないのである。
幕僚型とは必ずしも御殿女中であるべきではないが、主人を尻に敷くのでは困るのである。
それを幕僚ファショとも言う。
寺内将軍は「政子」と「淀君」とを同時に持ったのであり、彼が堂々たるロボットとなり終ったことは当然であり、中央部人事の不明を物語るものである。

(参考:樋口季一郎 著 『アッツ、キスカ・軍司令官の回想録』 昭和46年10月 第1刷発行 芙蓉書房)
(令和元年12月14日 追記)
【フィリピンの寺内】

昭和19年の夏に入り、いよいよ戦局は不利になり、ルソン島にも危険が迫ったことは誰の目にも明らかとなったある日、私たちの部隊の兵隊が、自動車で街を通行中の寺内総軍司令官に停止敬礼を怠ったかどで、重営倉にぶちこまれるという事件が起こった。
停止敬礼というのは、中隊長以上の直属上官、つまり、自分の所属する連隊長、師団長、軍司令官などに出会ったときは、事の如何を問わず、不動の姿勢をとって敬礼しなければならないのである。
寺内元帥は南方総軍の司令官であるから、この人に行き会ったら、ルソン島の全軍人は一人残らず立ち止まって敬礼しなければならないわけだ。
もちろん、その兵隊は、寺内元帥の自動車と知れば停止敬礼をしたであろうが、暑さ加減やその他でぼんやりしていたらしい。
総司令官を乗せた自動車が、彼をふんづかまえるために目の前で停車するまで気が付かなかった。
そこで彼は、寺内元帥から、直接激しい叱責を受けた。
部隊へは、厳重に処罰せよという命令がきた。
そこには、弛んだ軍紀を引き締めるという意図があったには違いない。
しかし、私は4年間の軍隊生活を通じて、故意にではなく敬礼し損ねたという理由だけで、重営倉にぶち込まれた兵隊を見たのは、後にも先にもこの時だけである。
南方海域に散らばる全日本軍を指揮する司令官が、不注意から自分に敬礼しなかった一兵卒を処罰することで、戦意昂揚を果たそうと考える頭脳の哀れさが身に染みた。

(江崎誠致 著 『ルソンの挽歌』 光人社NF文庫 1996年発行)
(令和元年10月29日 追記)
フィリピン戦線を離脱した許しがたい倫理観

南方総軍総司令官・寺内寿一(大将・昭和18年元帥)は、サイゴンに司令部をおき、旧フランス総督の大邸宅で優雅に生活し、フィリピン戦線が緊張するとマニラに移動した。
だが、彼は、あくまでも(マニラは)前線指揮所であるとしてサイゴンの総司令部をマニラに移そうとはしなかった。
そして、フィリピンに火がつきはじめるとすぐマニラの「前線指揮所」を去った。
行き先はもちろん、「東洋のパリ」といわれたサイゴンである。
依然、贅沢な公館での優雅な生活を続けていた。
その彼の指揮のもと、牟田口廉也は、数万の兵士を(インパールで)全滅させ、山下奉文は部下たちとともに空腹でフラフラしながらフィリピンの山中の複郭陣地でアメリカ軍と戦ったのである。

その寺内が、驚くなかれ、自分の愛人(お妾さん)の芸妓を、陸軍軍属として、輸送機で自分の総司令部の官舎に連れ込んでいたのだ。
もちろん、日本軍の上級幹部には、現地の敵性国人(たとえばオランダ)の女性を“現地妻”ないしは愛人として囲った人間はいただろう。
だが、本土から赤坂の美貌の芸妓を軍用機に搭乗させて呼びよせたという人間は、寺内以外にまずいなかったのではあるまいか?

彼はまた、現地人に対して温情的だった今村均大将を非難している。
また、250マイルのビルマ・ロードの開発(ふつうなら5ヶ年かかる)を18ヶ月で完成させることによって、連合軍の捕虜5万のうち3分の1を死亡させている。
おそらく終戦の年の9月、脳溢血で倒れなかったら、戦犯として絞首刑はまちがいなかっただろう。

(参考:佐治芳彦 著 『太平洋戦争・封印された真実』 日本文芸社 平成9年4月10日第4刷発行) 

寺内寿一 寺内正毅元帥の長男。

2023-03-25 17:31:23 | 日記
寺内寿一 てらうち・ひさいち

明治12年(1879年)8月8日~昭和21年(1946年)6月12日

山口県出身。

寺内正毅元帥の長男。
近衛歩兵第3連隊長、朝鮮軍参謀長を経て第4師団長を務める。
2・26事件後、広田内閣の陸相(陸軍大臣)に就任して粛清人事を行なう。
1937年(昭和12年)、”腹切り問答”で政党と衝突し、内閣総辞職の原因を作る。
日中戦争時は北支那方面軍司令官に任ずる。
太平洋戦争では南方軍総司令官。
敗戦後、シンガポールで抑留中に病死する。




 南方軍総司令官寺内元帥之墓 
 (シンガポール・シンガポール日本人墓地公園)

 (旅日記参照)


(平成26年6月11日)
【説明板】 

南方軍総司令官寺内元帥之墓
1879(明治12)年生ー1946(昭和21)年没

山口県出身。明治の元勲寺内正毅(てらうち まさたけ)の長男で、明治、大正、昭和に生きた軍人。
父と同じく陸軍大将、元帥となる。台湾軍司令官、軍事参議官、北支方面軍事司令官を歴任し、1941年には南方軍総司令官に着任して太平洋戦争の南方作戦を指揮した。
1945(昭和20)年敗戦の年、サイゴン郊外で病にたおれ、英国軍マウントバッテン将軍の配慮でジョホール州レンガムのヒギンス氏別邸にて療養。
その為、日本軍の降伏式にも参加出来ず脳溢血で死去。
遺骨はマウントバッテン将軍の指示により、軍刀その他の遺留品と共に特別機で東京の遺族の元に送られ、この墓には、寺内元帥の遺髪、爪、襟章、肩章が納められている。

(説明板より)
 シンガポール日本人墓地公園
【ニ・二六事件と寺内粛軍】

2・26事件の当時、現役の陸軍大将は10名いた。
このたびの叛乱の責任を取って全員辞職すべきであると、阿部信行(陸士9期)が発言したが、異論があり、陸士10期以下の3名は現役に留まることになった。
西義一(陸士10期)、植田謙吉(陸士10期)、寺内寿一(陸士11期)の3人である。
このうち寺内が一番好運をつかんだ。

寺内は元帥で内閣総理大臣にもなった長州人・寺内正毅の長男で、禿頭童顔のため好人物の印象を人に与えた。
実際、坊ちゃんらしい一面もあった。
原田熊雄述『西園寺公と政局』を見ると、寺内は毛並みの良さに加えて元老・重臣に受けがよく、前年の天皇機関説問題で政局が紛糾し、川島陸相の進退が云々された時、後任に「やはり寺内が一番強い」と杉山参謀次長が言っている。
この書物で見る限り、寺内はしばしば西園寺の坐漁荘へ報告に行っている。
社交にたけた一面が伺える。

こうして、全軍の輿望を荷って寺内は広田弘毅内閣の陸相になった。
広田内閣誕生の際は、陸軍がさんざん横槍を入れ、さすがの硬骨漢の広田も一時、組閣を断念するか、とまで危ぶまれたほどであった。
その陸軍横暴の先頭に立ったのが寺内であり、その寺内を自在に操ったのは省部の中堅幕僚であり、その中堅幕僚の中心的存在は陸軍省軍務局の高級課員・陸軍中佐武藤章(陸士25期)であったことはもはや通説になっている。

2・26事件の蹶起将校たちは、一君万民の理想国家を目指してクーデターを敢行した。
彼らの叫びは尊皇討奸、天皇絶対であり、天皇への叛逆などは夢にも考えていない。
しかし、天皇の激怒のさまは、奉勅命令と共に伝わり、去就の定かでなかった中央幕僚たちの態度を一変させた。
蹶起将校たちは叛徒となり、短時日の形式的な裁判を経て死刑になった。
昭和11年3月からはじまる陸軍の不当な政治介入は、天皇の御立腹の結果として起こった。
天皇の御意志は、いわゆる統制派の幕僚たちに勇気を与えた。

陰湿な謀略の上に、寺内陸相の粛軍人事が遂行された。
いかに国家にとって、須用欠くべからざる人材であっても、2・26事件の同調者、あるいは皇道派と目された人々は、すべて左遷、粛正の対象となった。
台湾軍司令官・陸軍中将柳川平助、陸軍大学校校長・陸軍少将小畑敏四郎は、その尤なるものであった。
内務省警保局が、各県の特高警察を通じて国内の情報を集めた極秘資料が『週報』と名付けられて国立国会図書館に保管されている。
その中に、7月7日頃、刑死を目前にした安田優、高橋太郎、2人の元少尉が、家族に語った聞き書きが報告されている。
「陸軍切ってのロシア通小畑の待命は、軍として大なる損失である。反面ロシアは喜んでいるだろう」(『週報』昭和11年17号)
9年後の昭和20年2月、ヤルタ協定によってソ連は対日参戦を決定する。
アッという間に全満洲を席巻し、北鮮に侵入、日本降伏後も遮二無二千島列島を占領、あげくの果ては北海道をも要求して、マッカーサーに断られている。
小畑はこうしたソ連の強引な侵略的な体質をよく知っていたのだ。
陸軍から寺内粛軍によって小畑敏四郎を失ったことは全国民の不幸であった。

(参考:須山幸雄 著 『二・二六事件 青春群像』 芙蓉書房 昭和56年第1刷発行)
(平成29年2月3日 追記)
【二・二六事件裁判(日本のドレフュース事件】

この裁判が、軍司法権の独立を抑圧した徹頭徹尾、軍法会議長官である、陸軍大臣の指揮権発動にもとづく政治裁判であったことはあきらかである。
各法廷の審理が進められ、そろそろ判決を下そうというころ、突然、寺内陸相から各裁判長に対し集合命令が下った。
各裁判長が指定された陸相官邸に集合すると、まず寺内陸相は各裁判長に対し審理の進行状況と各被告に対する処断の見解を質問する。

民間人を受け持っていた吉田裁判長(吉田恵・少将)が『北一輝と西田税は、2・26事件に直接の責任はない』という見解のもとに、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁錮刑を言い渡すべきことを主張した。
ところが寺内陸相は、『両人は極刑に処すべきである。両人は、証拠の有無にかかわらず黒幕である』と、極刑の判決を示唆した。
良心的な吉田裁判長は梅津陸軍次官ならびに阿南兵務局長に上申書をもって、同趣旨のことを意見具申している。

また、昭和29年2月7日号の『週刊読売』の追跡調査によると、匂坂家にある2・26調書によれば、軍首脳部では初めから事件に参加した将校は全員死刑の方針だったようで、予め死刑と刷り込んだ判決予定書を法廷関係者に配布した。
その押し付けられた判決予定に良心的な裁判官は苦慮した。
匂坂検察官も苦慮しながらも、結局、良心に恥じながら死刑の判決に同意した。

2・26事件の後、真崎甚三郎大将を投獄した統制派軍人の真崎弾圧は、単に真崎の社会的生命を葬るというだけのものにとどまらず、その肉体的生命までも奪ってしまうという凄まじいものであった。
これは2・26事件後に広田内閣の陸軍大臣になった寺内の強硬なる意図であった。
寺内が真崎を銃殺するんだと言っていたことは単なる憶測や風説ではない。
真崎の実弟、真崎勝次海軍少将の著書によれば「終戦の時の陸軍大臣であった阿南大将が語ったところによると、寺内大将は2・26事件のとき参内して、天皇陛下に、この事件の黒幕は真崎大将であると上奏してあるため、何としても真崎大将を有罪にするか、官位を拝辞させねばならぬ羽目におち入ったのである」と言ったという。

また、真崎と特別の関係にあって私淑している山口富永の著書によれば「磯村年大将は真崎大将より先輩である。寺内大将より更に先輩の筈であるが、この磯村大将を真崎裁判の判士長にするとき、寺内は『何でもかまわぬから、真崎を有罪にしろ』と言ったというが、磯村大将は『そんな、調べもせんで有罪にしろというような裁判長を、自分は引き受けられん』と強く断ったということである。

(参考:田崎末松 著 『評伝 真崎甚三郎』 芙蓉書房 昭和52年12月 第1刷発行)
(平成30年12月28日 追記)
陸軍大臣 寺内寿一の「衛生省」設置の提唱

寺内寿一が陸軍大臣時代、兵力の根源である壮丁(兵士)の体格は年々低下し、また結核死亡率は年々増加の傾向にあった。
満洲事変で、陸軍2個師団(約2万名)の兵隊を満洲に送ったところ、1個大隊に相当する約500名が結核を発病して帰還してしまった。
これらの現象は、英米による経済圧迫、浜口内閣の金輸出解禁の失敗、アメリカの恐慌の余波による生糸の暴落などによって、都市、農村ともに失業者が増加し、日常生活にもこと欠く家庭が続出したことによるものである。
よって、昭和11年7月の閣議に陸軍大臣寺内寿一は保健国策樹立の必要性を提唱し、健兵健民政策の必要上、強力な衛生行政を行なう主務官庁として「衛生省」を作ることを提唱した。
しかし、この案は内務省をはじめ各省が、機構の不備な点を突いて反対したので撤回された。
翌年6月、第一次近衛内閣が成立すると、「保健社会省」と名前が変わって提出され、日中戦争の開始がこれに拍車をかけて、昭和13年1月、「厚生省」という名称の下に、日の目を見るに至った。
参考文献:関亮著「軍医サンよもやま物語」
(平成17年7月23日追記)
【幕僚ファショ】

昭和13年秋、私は上海、北支方面の情況視察の旅に出た。
私は軍司令部に寺内元帥を訪問した。
いつもの通り極めてほがらかであり、童顔を輝かしていた。
参謀長は山下中将であり、参謀副長が武藤(章)大佐であった。
山下と武藤のコンビ、これは彼らの立場においては名コンビであり、我らの立場においては悪コンビであった。
それは、両人共に鼻っ柱が人並外れて強く、いわゆる積極論者であり、全然幕僚型ではないのである。
幕僚型とは必ずしも御殿女中であるべきではないが、主人を尻に敷くのでは困るのである。
それを幕僚ファショとも言う。
寺内将軍は「政子」と「淀君」とを同時に持ったのであり、彼が堂々たるロボットとなり終ったことは当然であり、中央部人事の不明を物語るものである。

(参考:樋口季一郎 著 『アッツ、キスカ・軍司令官の回想録』 昭和46年10月 第1刷発行 芙蓉書房)
(令和元年12月14日 追記)
【フィリピンの寺内】

昭和19年の夏に入り、いよいよ戦局は不利になり、ルソン島にも危険が迫ったことは誰の目にも明らかとなったある日、私たちの部隊の兵隊が、自動車で街を通行中の寺内総軍司令官に停止敬礼を怠ったかどで、重営倉にぶちこまれるという事件が起こった。
停止敬礼というのは、中隊長以上の直属上官、つまり、自分の所属する連隊長、師団長、軍司令官などに出会ったときは、事の如何を問わず、不動の姿勢をとって敬礼しなければならないのである。
寺内元帥は南方総軍の司令官であるから、この人に行き会ったら、ルソン島の全軍人は一人残らず立ち止まって敬礼しなければならないわけだ。
もちろん、その兵隊は、寺内元帥の自動車と知れば停止敬礼をしたであろうが、暑さ加減やその他でぼんやりしていたらしい。
総司令官を乗せた自動車が、彼をふんづかまえるために目の前で停車するまで気が付かなかった。
そこで彼は、寺内元帥から、直接激しい叱責を受けた。
部隊へは、厳重に処罰せよという命令がきた。
そこには、弛んだ軍紀を引き締めるという意図があったには違いない。
しかし、私は4年間の軍隊生活を通じて、故意にではなく敬礼し損ねたという理由だけで、重営倉にぶち込まれた兵隊を見たのは、後にも先にもこの時だけである。
南方海域に散らばる全日本軍を指揮する司令官が、不注意から自分に敬礼しなかった一兵卒を処罰することで、戦意昂揚を果たそうと考える頭脳の哀れさが身に染みた。

(江崎誠致 著 『ルソンの挽歌』 光人社NF文庫 1996年発行)
(令和元年10月29日 追記)
フィリピン戦線を離脱した許しがたい倫理観

南方総軍総司令官・寺内寿一(大将・昭和18年元帥)は、サイゴンに司令部をおき、旧フランス総督の大邸宅で優雅に生活し、フィリピン戦線が緊張するとマニラに移動した。
だが、彼は、あくまでも(マニラは)前線指揮所であるとしてサイゴンの総司令部をマニラに移そうとはしなかった。
そして、フィリピンに火がつきはじめるとすぐマニラの「前線指揮所」を去った。
行き先はもちろん、「東洋のパリ」といわれたサイゴンである。
依然、贅沢な公館での優雅な生活を続けていた。
その彼の指揮のもと、牟田口廉也は、数万の兵士を(インパールで)全滅させ、山下奉文は部下たちとともに空腹でフラフラしながらフィリピンの山中の複郭陣地でアメリカ軍と戦ったのである。

その寺内が、驚くなかれ、自分の愛人(お妾さん)の芸妓を、陸軍軍属として、輸送機で自分の総司令部の官舎に連れ込んでいたのだ。
もちろん、日本軍の上級幹部には、現地の敵性国人(たとえばオランダ)の女性を“現地妻”ないしは愛人として囲った人間はいただろう。
だが、本土から赤坂の美貌の芸妓を軍用機に搭乗させて呼びよせたという人間は、寺内以外にまずいなかったのではあるまいか?

彼はまた、現地人に対して温情的だった今村均大将を非難している。
また、250マイルのビルマ・ロードの開発(ふつうなら5ヶ年かかる)を18ヶ月で完成させることによって、連合軍の捕虜5万のうち3分の1を死亡させている。
おそらく終戦の年の9月、脳溢血で倒れなかったら、戦犯として絞首刑はまちがいなかっただろう。

(参考:佐治芳彦 著 『太平洋戦争・封印された真実』 日本文芸社 平成9年4月10日第4刷発行)