日本と世界

世界の中の日本

工場勤務の兵隊たち

2023-03-08 17:54:14 | 日記
2010 秋冬号 No.125


ふるさと秘話

工場勤務の兵隊たち        

エッセイスト 道下 淳
 中部4部隊(岐阜市長森・歩兵68連帯留守隊)から名古屋へ、「分遣」という名目で放り出された。昭和19年(1944)11月下旬のこと。

10月1日入隊の同年兵ばかり、10名足らずであった。

出発前日、被服係の下士官から、現在より少しはましな軍服と軍靴を支給された。これでちょっと兵隊らしくなったと、うれしかった。

 このときまで筆者の兵科は歩兵だと思い込んでいたが、技術兵であることを知った。

どうせ死ぬなら歩兵でと、徴兵検査のとき「歩兵」と申告したが認められなかったのだ。

すでに野戦(戦場)に出発した同期の人たちに対し、申し訳なく思った。

それと同時にひょっとしたら、生きて帰ることが出来るかもしれないと思った。

 名古屋は覚王山付近にあった紡績工場(閉鎖中)の寄宿舎に入った。ここに全国から徴集された11月1日入隊の技術兵が500人ほど集った。

また将校や下士官たちもそろった。

「千種中隊」と名付けられ、予備役の老中尉が中隊長となった。

ノモンハン事変(昭和14年の夏、中国東北部で発生した日ソの紛争)に従軍したという元気な准尉が、庶務と訓練全般を見ることになった。

 新兵たちはわずか1カ月早く入隊しただけで威張る古兵に引率されて、千種製造所へ通った。

筆者は名古屋の地理に明るかったためか、糧秣(りょうまつ)担当の石川寿軍曹とともに、主要食糧の買い出しに西三河・尾張北部の農協を回った。

当時は銃後(一般社会)も食糧難で、どこの農協でも余分な保有米など、全くなかった。

でも東海軍の命令書があるため、2~3の農協が連絡し合い、必要量を確保してくれた。

もちろん、大豆とかダイコンなどの野菜類も、主食としていただいた。

西三河を回っていたとき、ある農協で海軍航空隊の食糧係りと出合ったことがある。

トップが中年の海軍中尉だった。

雑談のなかで、海軍は昔の連合艦隊ではない。

ミッドウェー海戦(昭和17年6月)で、航空母艦を4隻も失った。

いまでは基地航空部隊を頼るより方法がない―と、しんみりとした口調で語られた。

わが国の陸海軍とも、もう開戦当初の戦力が無いと思うと、頭が真っ白になった。

 1期の検閲(入隊後4ヵ月で実施)が済み1人前の兵士として扱われ出したころ、空襲のため紡績工場内の兵舎は全焼。

支給されていた小銃なども焼失した

これが原隊だったら、営倉(犯罪者を収容する施設)だと准尉殿からきつく叱られた。

しかし全員消火活動に出払っていたときの出来事なので、不問となった。

この火災で軍人として最高の名誉である金鵄(きんし)勲章を焼き、しょげている下士官もいた。

このあと千種隊は中央線千種駅に近い鉄道学校の宿舎に移った。

同学校は空襲を受け半壊状態であり、永くとどまることは出来なかった。

同学校に半月ほどいて、春日井市にあった東洋一と言われる銃器工場鳥居松製造所の寄宿舎に移った。

同所にはやはり技術兵約500名が駐留、鳥居松中隊を名乗っていた。

そこで千種中隊と鳥居松中隊が合併、新鳥居松中隊となった。兵隊たちは作業に動員された。

それは鳥居松製造所での銃器生産と、工場疎開作業であった。

 名古屋造兵廠は本部を熱田区六野町に置き、同所に1.熱田、道路向いに2.高蔵、千種区に3.千種、春日井市に4.鳥居松、5.鷹来、現岐阜市に6・柳津とそれぞれ製造所を持っていた。

筆者は食糧確保係を下番(交代)、鳥居松製造所長 龍見南海雄(たつみなみを)大佐の当番となった。

当番というのは高級将校に軍務として仕え、身の回りの世話・連絡などをする兵隊のこと。

おかげで造兵廠内は、ほとんど見学することが出来た。各製造所で造っている兵器には、下記のようなものがあった。(製造所名は1~6で)

1.山砲▽対戦車砲▽偵察機のエンジン
2.火砲の薬きょう▽砲弾
3.機関銃▽機関砲▽99式小銃
4.99式小銃▽100式機関短銃▽99式狙撃(そげき)銃▽拳銃
5.99式小銃実砲(弾丸)▽機関銃実砲
6.20ミリ機関砲

 このほか各製造所とも、フ号兵器(風船爆弾)用の気球を作っていた。

気球に爆弾をつり下げ、飛ばす。

すると偏西風に乗って太平洋を越えアメリカに到着、爆発するというもの。

気球の材料は最上の和紙。

美濃紙の産地である本県は、懸命に紙の生産をした。

コンニャク糊(のり)で何重にも張り合せる。戦後米国側の記録によると、山火事が発生したのみで、ほとんど被害は無かったという。

 陸軍に制式銃器として自動小銃のあったことを知る人はほとんどいない。

南方のニューギニアや、フィリピンの激戦地レイテ島などで使われた。

機関短銃とも、短機関銃とも呼ぶ。口径は8ミリで、拳銃の弾丸を。

長さは86センチ。木製の銃床がつく。扇型弾倉には、30発収納出来る。

交換性に欠けることが、一番の欠点。それぞれの銃に合わせた弾倉を使わないと、射撃が出来なかった。

 レイテ島の攻防戦(昭和19年末から翌年)には岐阜県人の多い泉(いすみ)部隊も加わっていた。

苦戦する友軍のため、空挺(くうてい)部隊が増強された。この部隊は機関短銃で装備されていた。

作家大岡昇平氏の代表作のひとつ「レイテ戦記」で、このときのありさまを下記のように記している。

 『兵はみな100式短機関銃を持っていた。(中略)命中率は悪いが1分間に900発発射出来るので、接近戦には極めて有効であった』

 筆者も鳥居松製造所の射場で、試射をしたことがあるが、跳弾が出たり、機関部の円筒が弾倉に食い込んだりした。

これで使いものになるのかと思うと、やりきれない思いがした。

落下傘部隊用のラテ銃も、鳥居松製造所で生産していた。

中央から銃身と円筒部が分離するので、ズックのケースに入れる。降下のとき肩にかけた。

昭和17年2月。

陸軍の落下傘部隊がスマトラ島(インドネシア)の油田確保に降下、大成功だった。

このとき機関短銃も使用されたらしいが、詳しいことは聞かれなかった。

 昭和20年8月14日、龍見大佐は兵器本部(東京)へ出かけられた。

当番兵の筆者は同製造所の本部棟で、事務員たちと戦争の成り行きについて話し合っていた。

昼ごろ本部棟に近い所外の水田に、1トン爆弾が落とされた。鉄筋コンクリートの本部棟が浮き上がったように感じられた。

室内の書類棚は全部倒れほこりでいっぱい。

筆者は反対側の壁にたたき付けられ、胸を打った。

爆撃が済んだ後から、空襲警報のサイレンが鳴った。

このときの打撲で復員後床についた。が、当時は張り切っており、応急手当てのまま動いていた。

戦後、この爆弾攻撃は原子爆弾攻撃の事前調べだったと聞いて、びっくりした。

龍見大佐は明け方に帰って来られた。終戦の情報を持って。玉音放送当日の朝のことであった。

名古屋造兵廠の中心となった熱田製造所の工場群。広場では工員たちの訓練中。




ゾルゲ事件の県人たち エッセイスト 道下 淳

2023-03-08 17:40:49 | 日記
2010 春季号 No.123


ふるさと秘話 No.87

ゾルゲ事件の県人たち 

エッセイスト 道下 淳
 
このほど久しぶりに出会った友人と、お茶を飲みながら長話をした。話題は先の戦争中に検挙された国際スパイ団「ゾルゲ事件」についてだった。その中心人物のひとり尾崎秀実(ほずみ)氏は刑死(1944)した。父親は、加茂郡白川町の出身だった。それだけにこの事件の関係者には、岐阜県出身者も多かった。それに筆者は岐阜市北長森にあった引き揚げ者寮に入居しておられた秀実氏の父親を訪ねたことがある。そんな話をしているうちに、時間が過ぎてしまった。筆者はこのとき引き揚げ者寮の前身、中部4部隊(歩兵68連隊留守隊)のことを思い出した。
 引き揚げ者寮に尾崎秀実の父秀真(ほずま)氏を訪ねたとき、旧兵舎の内務班(分隊)をそっくりベニヤ板で仕切り、1世帯ずつ入室者に割り当てていた。兵舎時代は廊下側に鉄砲を置く銃架があった。それが敗戦により、民間に解放され、感慨無量だった。
 筆者が中部4部隊の第7中隊1班に入ったのは、昭和19年(1944)10月のこと。入隊当日はお客様扱いだったが、翌日から待遇が一変し、ひどい仕打だった。同期の兵隊は約1,000人いたが、半月ほどたった真夜中にたたき起こされ、新品の軍服に竹の水筒を持ちひっそり出発した。もちろん見送りは許されなかった。このなかに2人の友人がいたが戦死した。戦後に調べたらこの部隊は、中国南部で戦ったそうである。
 ところで尾崎氏ときみ夫人が入寮した部屋であるが、広さ20畳ほどで、床は軍隊当時の板張りのままであった。隣りとの境の壁には、ベニヤ板で片開きの扉をつけた整理棚が8個ほど造り付けられ、ふとん、衣類、身回り品から食器類まで収納していた。片隅に木造のベッドがあった。筆者らは鉄製のベッドを使用したが、それらは全部木造と換えられたらしい。入居する時ベッドは買ったそうだ。
 尾崎夫妻はだだっ広い感じの板の間中央に、4枚ほどのムシロを敷いて座っておられた。よく見るとムシロは畳代わりの上物でなく、穀物などを入れるカマスを解いたものであった。炊事は廊下にコンロを置いて行ったが、水を運ぶのが大変と言っておられた。
 夫人は岐阜市内の繊維工場へ通い、わずかな労賃で一家を支えておられた。フロは軍隊時代からの「六八湯」があるものの、生活のことを考えると、たまにしか行けないと、笑われた。
 尾崎家へ取材に行くとき、手みやげになにか食材になるものをと、上司からなにがしかのお金をいただいた。古いことなので、全額は覚えていない。早速駅前のハルピン街でヤミのメリケン粉(小麦粉)を1斤(600グラム)か2斤、買って出かけた。上司も同家の家計の苦しいことを、知っていたからであろう。この手みやげにきみ夫人はよほどうれしかたとみえ、何度もお礼を言われた。
 2回目にはやはりハルピン街でヤミで売られているジャガ芋を求めた。手みやげにジャガ芋を選んだのは、次の理由があったためである。同居人に末子で中学のスエ子さんがいた。学校では給食が出るが、遠足のときは各家庭でおにぎりとかいなりずしなどを用意した。ところが尾崎家では当日弁当にするような食材がなく、きみ夫人はうでたジャガ芋に食塩を添え、弁当代りにした。スエ子さんは何も言わなかった。母親に悲しい思いを、させたくないためではなかったろうか。この話は前回訪問したとき、夫人から聞いた。末子さんの兄で上京していた秀樹(ほずき)氏の初期の作品で、ゾルゲ事件に関する自伝的な「生きているユダ ―ゾルゲ事件― その戦後への証言」のなかでもこのことが思いを込めて記されている。
 ある日、引き揚げ者寮でばったり、病身らしい秀樹氏に会ったことがある。3回目か4回目の訪問のときである。早速初対面のあいさつをした。東京の新聞社に勤めているが、胸が悪いため人並みの活動が出来ない。兄秀実氏の友人が、何かと親切にしてくれると語られた。そのなかで、川合貞吉氏(大垣市出身)や伊藤律氏(瑞浪市出身)らの名前が出た。うち伊藤氏は戦後米陸軍省が発表したゾルゲ事件の報告のなかで取調べのとき、同志の名前をもらし、それが事件発覚の糸口になったとされる。当時は秀樹氏もこの情報を知らなかったとみえ、伊藤氏に対し、さほど批判がましい発言は聞かれなかった。
 川合氏はやはりゾルゲ事件に連座し、10年の刑を受けた。しかし戦後の政治犯釈放で出獄した。秀実氏らゾルゲ事件関係の話をよく聞かしてもらったと、秀樹氏は語った。「生きているユダ」にも川合・秀樹両氏が同じ寮に住んだことがあり、川合氏の語る事件に関係した同志の話は『たしかに生きていた。川合の愛情のこもった言葉のなかで、かれらは躍動していた』と、記している。また『秀実のことを語るとき、川合の言葉は力点をつけたようにひびく』とか、『尾崎以上に愛情の豊かな人間はざらにはいません。その愛情があったからこそ、私は励まされ導かれて最後まで闘えたのです』と、印象的な文章で結ばれている。
 秀樹氏が上京するとき頼ったのは、東京・目黒に住んでいた秀実氏夫人の英子さんだった。しかし期待したほどのめんどうは見てもらえなかった。そのため職と住を転々とし、苦労したわけである。長女の楊子さんは戦争中岐阜に移り、しばらく加納高等女学校に通っていた。学校でも父のことが気になるのか、ひとりぼっちでいることが多かった。と、かつてのクラスメートから聞いたことがある。秀実氏が獄中から英子さんや楊子さんに宛てた書簡を集めた「愛情はふる星のごとく」は、戦後ベストセラーになった。このなかには子を思う秀実氏の気持ちがあふれ、涙無しには読めない。
 秀樹氏が追及していた伊藤氏は公職追放の際、身を隠し中国に渡った。同55年(1980)帰国したがゾルゲ事件などについて何も語らぬまま、平成元年8月に、また同事件を追及していた秀樹氏は同11年9月、それぞれ死去された。秀樹氏は、61歳の働き盛り。大衆文学研究に大きな足跡を残されただけに、その訃報は悲しかった。 

旧歩兵68連隊で、中央の2階建てが6・7中隊だった。引き揚者寮は左、平屋建て物の辺りにあった。(昭和30年代中ごろ写す)




ゾルゲ事件の県人たち

2023-03-08 17:21:40 | 日記
2010 春季号 No.123

ふるさと秘話 No.87

ゾルゲ事件の県人たち 

エッセイスト 道下 淳

 このほど久しぶりに出会った友人と、お茶を飲みながら長話をした。話題は先の戦争中に検挙された国際スパイ団「ゾルゲ事件」についてだった。その中心人物のひとり尾崎秀実(ほずみ)氏は刑死(1944)した。父親は、加茂郡白川町の出身だった。それだけにこの事件の関係者には、岐阜県出身者も多かった。それに筆者は岐阜市北長森にあった引き揚げ者寮に入居しておられた秀実氏の父親を訪ねたことがある。そんな話をしているうちに、時間が過ぎてしまった。筆者はこのとき引き揚げ者寮の前身、中部4部隊(歩兵68連隊留守隊)のことを思い出した。
 引き揚げ者寮に尾崎秀実の父秀真(ほずま)氏を訪ねたとき、旧兵舎の内務班(分隊)をそっくりベニヤ板で仕切り、1世帯ずつ入室者に割り当てていた。兵舎時代は廊下側に鉄砲を置く銃架があった。それが敗戦により、民間に解放され、感慨無量だった。
 筆者が中部4部隊の第7中隊1班に入ったのは、昭和19年(1944)10月のこと。入隊当日はお客様扱いだったが、翌日から待遇が一変し、ひどい仕打だった。同期の兵隊は約1,000人いたが、半月ほどたった真夜中にたたき起こされ、新品の軍服に竹の水筒を持ちひっそり出発した。もちろん見送りは許されなかった。このなかに2人の友人がいたが戦死した。戦後に調べたらこの部隊は、中国南部で戦ったそうである。
 ところで尾崎氏ときみ夫人が入寮した部屋であるが、広さ20畳ほどで、床は軍隊当時の板張りのままであった。隣りとの境の壁には、ベニヤ板で片開きの扉をつけた整理棚が8個ほど造り付けられ、ふとん、衣類、身回り品から食器類まで収納していた。片隅に木造のベッドがあった。筆者らは鉄製のベッドを使用したが、それらは全部木造と換えられたらしい。入居する時ベッドは買ったそうだ。
 尾崎夫妻はだだっ広い感じの板の間中央に、4枚ほどのムシロを敷いて座っておられた。よく見るとムシロは畳代わりの上物でなく、穀物などを入れるカマスを解いたものであった。炊事は廊下にコンロを置いて行ったが、水を運ぶのが大変と言っておられた。
 夫人は岐阜市内の繊維工場へ通い、わずかな労賃で一家を支えておられた。フロは軍隊時代からの「六八湯」があるものの、生活のことを考えると、たまにしか行けないと、笑われた。
 尾崎家へ取材に行くとき、手みやげになにか食材になるものをと、上司からなにがしかのお金をいただいた。古いことなので、全額は覚えていない。早速駅前のハルピン街でヤミのメリケン粉(小麦粉)を1斤(600グラム)か2斤、買って出かけた。上司も同家の家計の苦しいことを、知っていたからであろう。この手みやげにきみ夫人はよほどうれしかたとみえ、何度もお礼を言われた。
 2回目にはやはりハルピン街でヤミで売られているジャガ芋を求めた。手みやげにジャガ芋を選んだのは、次の理由があったためである。同居人に末子で中学のスエ子さんがいた。学校では給食が出るが、遠足のときは各家庭でおにぎりとかいなりずしなどを用意した。ところが尾崎家では当日弁当にするような食材がなく、きみ夫人はうでたジャガ芋に食塩を添え、弁当代りにした。スエ子さんは何も言わなかった。母親に悲しい思いを、させたくないためではなかったろうか。この話は前回訪問したとき、夫人から聞いた。末子さんの兄で上京していた秀樹(ほずき)氏の初期の作品で、ゾルゲ事件に関する自伝的な「生きているユダ ―ゾルゲ事件― その戦後への証言」のなかでもこのことが思いを込めて記されている。
 ある日、引き揚げ者寮でばったり、病身らしい秀樹氏に会ったことがある。3回目か4回目の訪問のときである。早速初対面のあいさつをした。東京の新聞社に勤めているが、胸が悪いため人並みの活動が出来ない。兄秀実氏の友人が、何かと親切にしてくれると語られた。そのなかで、川合貞吉氏(大垣市出身)や伊藤律氏(瑞浪市出身)らの名前が出た。うち伊藤氏は戦後米陸軍省が発表したゾルゲ事件の報告のなかで取調べのとき、同志の名前をもらし、それが事件発覚の糸口になったとされる。当時は秀樹氏もこの情報を知らなかったとみえ、伊藤氏に対し、さほど批判がましい発言は聞かれなかった。
 川合氏はやはりゾルゲ事件に連座し、10年の刑を受けた。しかし戦後の政治犯釈放で出獄した。秀実氏らゾルゲ事件関係の話をよく聞かしてもらったと、秀樹氏は語った。「生きているユダ」にも川合・秀樹両氏が同じ寮に住んだことがあり、川合氏の語る事件に関係した同志の話は『たしかに生きていた。川合の愛情のこもった言葉のなかで、かれらは躍動していた』と、記している。また『秀実のことを語るとき、川合の言葉は力点をつけたようにひびく』とか、『尾崎以上に愛情の豊かな人間はざらにはいません。その愛情があったからこそ、私は励まされ導かれて最後まで闘えたのです』と、印象的な文章で結ばれている。
 秀樹氏が上京するとき頼ったのは、東京・目黒に住んでいた秀実氏夫人の英子さんだった。しかし期待したほどのめんどうは見てもらえなかった。そのため職と住を転々とし、苦労したわけである。長女の楊子さんは戦争中岐阜に移り、しばらく加納高等女学校に通っていた。学校でも父のことが気になるのか、ひとりぼっちでいることが多かった。と、かつてのクラスメートから聞いたことがある。秀実氏が獄中から英子さんや楊子さんに宛てた書簡を集めた「愛情はふる星のごとく」は、戦後ベストセラーになった。このなかには子を思う秀実氏の気持ちがあふれ、涙無しには読めない。
 秀樹氏が追及していた伊藤氏は公職追放の際、身を隠し中国に渡った。同55年(1980)帰国したがゾルゲ事件などについて何も語らぬまま、平成元年8月に、また同事件を追及していた秀樹氏は同11年9月、それぞれ死去された。秀樹氏は、61歳の働き盛り。大衆文学研究に大きな足跡を残されただけに、その訃報は悲しかった。 




岐阜連隊での新兵日記

2023-03-08 16:04:07 | 日記
2011 春季号 No.126


ふるさと秘話 No.90

岐阜連隊での新兵日記        

エッセイスト 道下 淳

 物置を整理していたら、軍隊時代の日記帳が出てきた。30年ほど前に、どこにかたづけたか、分からなくなったものである。ポケットに入る手帳型で、「昭和19年甲申(きのえさる)略暦」なども付けられている。軍隊では上官の目を避けて、書いていたものである。もし見られた場合を考え、批判的なことは書かなかった。読んでみて、忘れていた出来ごとが数多くあった。そこで当時を思い出しながら、岐阜連隊(中部4部隊)時代の1ヵ月間の新兵生活ぶりを紹介する。
 当時愛知県春日井市にいた筆者に、昭和19年9月22日教育召集令状が来たと、高山市の実家から電報が届いた。現役兵の召集年齢は21歳からであるが、太平洋戦争の戦線拡大と各地での苦戦やサイパン島など玉砕が続出したため、兵員補充のため年齢を満1歳繰り下げた。それに筆者の世代が該当したもの。それまで現役兵の入隊準備期間は1ヵ月ほどあったものの、今度は10月1日入隊なので準備期間も短く驚いたしだい。
 大あわてで職場や下宿を片付け、24日に高山へ帰った。それから町内や親類へのあいさつ回り。1番仲がよく親友だった金物屋の息子下本利夫君に会ったところ、彼にも召集令状が来ていた。27日には飛騨護国神社で、10月1日に入隊する若者たちの武運長久祈願祭が行われた。高山市関係の24名が集まり、おはらいを受けた。
 9月30日朝町内の人たちに見送られて出発、鎮守の辻ヶ森三社で武運を祈り、高山駅へ向かった。途中子供たちが歌う軍歌や鼓笛隊の演奏などが、筆者の気持ちをより高ぶらせた。高山駅の広場は見送りの人でいっぱい。ばんざいの声と、つぎつぎに声をかけて下さる知人たちで、筆者もだれとあいさつしたのか分からなくなった。その日のうちに岐阜市美園町の福島旅館に入る。
 10月1日気楽だったシヤバに別れをつげ、美濃町線で中部4部隊(歩兵68連隊の留守部隊)の錬兵場に集合した。なんでもこの日入隊するのは約1,000人だと週番の腕章をした伍長が話していた。人員調べのとき「チカシタ」「ドーシタ」「ドーゲ」など呼ばれたが、気付かなかった。最後に本籍を言われ、あわてて返事をした。「自分はミチシタであります」、するとその下士官は「読み方はどうでもよい。自分だと思ったらすぐ返事をせよ」と、しかられた。
 どうしたわけか入隊者のうち25名が、破れた軍服、型のくずれた軍靴などが支給された。筆者もそのひとりであった。他の大多数は新品の軍装を支給された。うらやましく思っていると、周番士官の中尉が「諸子は野戦要員である。今回は正門から各中隊へ入ってもらう」と指示され、歩調をとって正門をくぐった。ボロ服組も後に続いた。同日の日記『今日より兵隊さんだ。聞きしに勝るところ』(以下『』の場合、日記引用)と記す。これは練兵場で使役に出ていた兵隊2人が上司にビンタをとられているのを見たためである。
 10月1日から3日まで内務班ではお客さま扱い。理由は分からなかった。3日は午後から不動の姿勢とか敬礼の仕方などを教わった。初年兵係りの川島上等兵殿が君たちのめんどうを見る旨、あいさつをされた。君たちとはボロ軍服を支給された25名で、兵科は技術兵。本土決戦に備え、兵器の補給や修理を担当するとのこと。歩兵だと思っていただけに、内心ホッとした。
 10月11日『シラ公ニマイッタ』シラ公とはシラミのこと。川島上等兵殿は、これは内務班になじんだ証拠と笑われた。同様にナンキン虫にも悩まされた。10月16日面会日。ネライは野戦上番(出動)の同僚たちのためのもの。筆者たちはそのおこぼれといえる。親姉妹ら顔をそろえた。母の作った『羊かんはうまかった。ぼた餅も』と、うれしかったことを短く記す。
 10月19日防毒マスクを付けての教練、日野方面までかけ足。息苦しくて、脱落しそうになった。日野河原で大休止。川島上等兵殿の指示で、それぞれが好きな歌をうたう。筆者は「同期の桜」を披露した。帰隊夕食のとき、酒とスルメが出た。海軍が『台湾沖海戦』で大勝利をした、そのお祝いだとのこと。正しくは台湾沖航空戦で海軍が米航空母艦10隻、戦艦2隻を沈め大勝利を得たお祝いであった。このため勅語も出され、これで戦争は日本の勝利で終わると、筆者らは早合点した。戦後の調べで、この戦果は虚報と分かった。夜、野戦上番の同期の者たちが夜中に出発するので、面会を許可する旨連絡があった。まだ手をつけてないスルメを持ち、下本君の中隊へ走った。彼は身辺整理を済まし、同僚と雑談していた。営庭に出た彼と酒はないが別れのスルメを食べながら「死ぬなよ」「どんなことがあっても生きて会おう」と彼の手をにぎり別れた。この後いとこの数崎敏三君とも別れを告げた。
 10月22日日曜日なので洗たく。午後から写真。25人全部の集合写真と単独のものを。川島上等兵殿が「お前らが兵営を逃げても、写真付きで指名手配できる」と笑われた。脱営した兵隊について話された。入隊前には本巣署、敗戦後は稲葉署に勤務されており、その辺の事情は詳しかった。脱営者といえば、10月いっぱいに3人あった。うち8日と9日の出来ごとは、筆者らも捜索に狩り出された。2人とも自殺で結着した。10月下旬にもう1人あったが、どうなったか記憶にない。
 訓練は厳しかったが、休憩のときなど、会話がはずみ楽しかった。これも川島上等兵殿の人柄だと言えよう。訓練に出かけたとき、東中島の農家でさつま芋をふかしてもらった。14日と22日の2回で、その代金は徴集されなかった。10月24日、始めて奉給をもらった。6円50銭だった。そのとき上等兵殿は10円50銭、いかにも少ない。戦後奉給のことを知り、川島上等兵殿に申し訳けなく思った。
 10月30日、われわれ技術兵に対し、31日付けで名古屋分遺の命令が出た。

中部4部隊みやま隊(7中隊)の技術兵たち。前列中央が川島上等兵殿。




佐倉連隊にみる戦争の時代

2023-03-08 15:52:39 | 日記
佐倉連隊にみる戦争の時代

この夏、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館で「佐倉連隊にみる戦争の時代」と題した企画展が催された。筆者は少年時代を佐倉で過ごし、今でも両親の墓が佐倉にあることから、しばしば佐倉を訪れるが、そんな折にこの展示のあることを知り、立ち寄ってみた。

佐倉に連隊が置かれていたことは、郷土の歴史の一こまとして知っていたし、我が少年時代たる昭和30年代後半まで、兵営の跡やそれを利用した結核療養所が、現在の博物館の敷地に残っていたので、自分の記憶の中では、確固たる重みを持った事実であったのだが、連隊がいかなるものであったか、その詳細については、うかがい知ることがなかった。このたび、この展示を通じて、連隊の歴史に触れるに及び、その実像のすさまじさに圧倒された。

近代国家日本に徴兵制度がしかれたのは明治6年(1873)、その際陸軍第一師団第2連隊が佐倉に置かれた。同時期に東京赤坂に第1連隊が、麻布に第3連隊が置かれている。第2連隊は、千葉、茨城、栃木の出身者から成り、成員は常時ほぼ3000人であった。すべて歩兵からなる連隊である。明治十年に西南戦争が勃発すると、第2連隊は九州に転戦し、西郷軍と死闘を繰り広げている。明治国家が養成した軍隊の、それなりに華々しいデビューといえるものであった。

これ以降、佐倉の連隊は、日本が行った対外戦争の節々で戦い続け、連隊の中核となった千葉県出身の戦死者は、敗戦の日に至るまでの間、実に57000余名に達したのである。他の連隊のことはつまびらかにしないが、通常の成員3000人からなる連隊としては、その数字の重さは想像を絶するものがある。たとえていえば、兵士たちの死体の山を築くために、連隊の歴史はあったともいえるのである。

まず、その歴史をたどってみよう。

佐倉の第2連隊は、日清戦争においては旅順攻略に参戦し、日露戦争においては遼東半島に転戦、旅順総攻撃、奉天会戦に際して多くの死傷者を出した。

明治42年、第2連隊は水戸へ移駐し、佐倉には千葉県出身者のみからなる第57連隊が置かれた。展示ではこのことを称して、郷土の軍隊といっている。郷土の軍隊といっても、その内実は牧歌的とはいえないものだったようだ。野間宏原作の「真空地帯」が映画化された際には、佐倉の連隊が舞台となったが、そこに描かれた兵営での生活は、兵士にとっては過酷な一面もあったようで、内務班におけるリンチや兵士の上下関係などが描かれていた。

昭和11年(1936)、第57連隊は佐倉兵営をたって、ソ満国境を固めるための任についた。ノモンハン事変の際には、連隊中の速射砲中隊が出動して全滅している。第57連隊はソ満国境にとどまり続け、その間、佐倉の兵営は兵士を補給するための、兵士製造工場というべきものに化した。

太平洋戦争の進展にともない、佐倉の兵営からは臨時的な部隊が次々と編成され、中国や南方の各戦線に送られた。

太平洋戦争末期、第57連隊は、ソ満国境から南方に転戦、グアム島とレイテ島において米軍との死闘を繰り広げた。レイテ島において、第57連隊は、圧倒的な戦力差にかかわらず果敢に戦い、米軍司令官をして、「敵のもっとも顕著なる特徴は、射撃の組織的なこと、あらゆる武器の使用の統御にある」と言わしめたほどであった。この絶望的な戦いの中で連隊はほぼ全滅、敗戦の日に生存した者は、わずかに114名だったという。

佐倉に連隊があったことはいまでは大方忘れ去られ、遠い過去のことになってしまったようだ。戦争を憎むものにとっては、兵営は軍国主義の象徴でもあり、そんなことにかかずらうのは、忌々しいことかもしれない。しかし、一国の歴史を正しく認識するためには、こうした部分にも光をあて、絶えず問題意識のうえに取り上げる必要があるのではないか。

少なくとも、佐倉に住む人々にとっては、兵営があったことは、比較的最近まで、多くの人の意識の中心部を占めていたようだ。佐倉では毎年秋に、招魂祭というものが催され、戦死者の霊を弔ってきた。現在では廃止されて行われなくなったようだが、これなどは町と兵営の記憶をつなぐ象徴的な行事であった。筆者の少年時代には、現在佐倉市役所のたっている場所で祭が催され、県下一円から参列者が集まる一方、ロクロ首やヘビ女など、おどろおどろした出し物がかけられていたことを思い出す。

この例のみによらず、佐倉がかつては、まさに兵営を中心に成り立つ町であったということを、この展示を通じて改めて知らされた。兵営は旧佐倉城跡に立地し、その場所は街の中心を占めるものであったために、兵営を取り囲むようにして町屋が展開し、それらの多くは兵営を相手にして生業をたてていた。また、千葉県内の鉄道網を見ると、佐倉を基点にして県内のあらゆる部分と結ばれていることがわかるが、それは兵士とその家族をつなぐための施設であったことが、改めて納得されるのである。

兵営が消えるのと機を一にして、佐倉の町はさびれた。筆者が佐倉に越してきた昭和30年代なかば、佐倉は首都圏では珍しく人口減少地域に分類されていたのである。今日の佐倉は、東京へ通勤するサラリーマンのベッドタウンとして、人口も増え続けつつある。彼らの多くは無論、佐倉に連隊があったことなど、何の興味もないことに違いない。