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絶対に勝ち目のない対米戦争を、日本がだらだらと続けてしまった情けない理由政府首脳がこだわった「一撃和平」

2023-03-05 17:59:23 | 日記
絶対に勝ち目のない対米戦争を、日本がだらだらと続けてしまった情けない理由政府首脳がこだわった「一撃和平」

PRESIDENT Online

手嶋 泰伸歴史学者、龍谷大学文学部 講師

日本は1941年から太平洋戦争に突入したが、1943年には客観的にみて敗北・降伏は避けられない状況に陥っていた。なぜ戦局が悪化する前に降伏できなかったのか。歴史学者の手嶋泰伸さんは「当時の首脳部は、無条件降伏ではなく和平を目指していたため、『一撃』にこだわっていた」という――。 

なぜ日本はいつまでも無条件降伏をしなかったのか
一九四三年十一月、エジプトのカイロに連合国軍の首脳、すなわちアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主席蒋介石の三人が集い、対日政策について話し合いが行われました。
これがカイロ会談です。この会談で、連合国は日本が無条件降伏をするまで戦うことを宣言します(カイロ宣言)。
日本は、すでに一九四三年に入った段階から各地の戦局において目立った勝利を得られていない状況で、客観的にみれば、すでに敗北・降伏は避けられない状況でした。
最終的に、一九四五年八月に日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏をしますが、その事実を知っている現在の我々は、なぜ日本はいつまでも無条件降伏をしなかったのかと考えてしまいがちです。

敗北が避けられないならば、もっと早く、戦局が悪化する前に降伏し、被害を最小限度に抑えることができただろうと考えてしまいます。

一九四四年の頭頃から、首相経験者などのいわゆる重臣と、昭和天皇の弟である高松宮宣仁(海軍大佐)らを中心とした皇族グループによる東條英機内閣の倒閣工作が水面下で進行します。

こうした動きも、一般的には和平交渉を行うための動きととらえられていますが、実態としては戦局の挽回を目指して行われたものであったことが明らかになっています。

和平の前に、まず「一撃」が必要だというのは、当時の首脳陣が等しく抱いていた考えだったのです。

「一撃和平」を諦め、ソ連を仲介とした和平交渉を模索
その後、日本は一九四四年六月のマリアナ沖海戦、七月のサイパン攻防戦にも敗れ、東條内閣では「一撃」となる戦果は挙げられず、七月十八日に内閣は総辞職します。

代わって朝鮮総督の小磯國昭が首相となりますが、その小磯内閣でも「一撃」は得られませんでした。

同年十月のレイテ沖海戦で手痛い打撃を受けるなど、戦果は挙げられず、小磯内閣は発足から約八カ月の一九四五年四月に総辞職。

代わって海軍出身で侍従長も務めた鈴木貫太郎が内閣を発足させますが、この鈴木内閣でも、当初は「一撃」を模索していました。

鈴木貫太郎(1868-1948)(『歴代首相等写真』/憲政資料室収集文書1142/PD-Japan-oldphoto/before 1946/Wikimedia Commons)

一九四五年五月、ドイツが連合国軍に無条件降伏します。

そして、同年三月に始まった沖縄戦では、五月二十九日に首里城が陥落し、軍司令部が占拠されるなど、戦況は著しく悪化します。

このあたりで、国家首脳部の多くは「一撃」をあきらめ、和平を模索するようになります。

しかし、六月八日の御前会議において、「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」が決定されました。

沖縄戦の敗北が決定的であるにもかかわらず、この御前会議では「七生尽忠ノ信念ヲ源力トシ地ノ利人ノ和ヲ以テ飽ク迄戦争ヲ完遂シ以テ国体ヲ護持シ皇土ヲ保衛シ征戦目的ノ達成ヲ期ス」と、戦争継続が強く訴えられました。

そんななか、内大臣の木戸幸一が、政府を和平交渉へ転換させようとするようになります。

木戸らは戦争が圧倒的不利のまま長期化することによる、「国体」(天皇中心の国家体制)の崩壊への危機感から、こうした動きをしたと理解されています。

宮中グループに同調した海軍大臣

こうしたことから、木戸を中心とした宮中グループの政治的影響力の強さが、これまで注目されてきましたが、現在では、木戸の持つ「権限」の問題からこうした経緯が再検討され、和平交渉への転換過程における各政治主体の役割が明らかになってきています。

木戸が、天皇の権威を背景に、国家意思の決定に強い影響力を持っていたのは事実です。

しかし、執行権は内閣が保持しているため、自らの意見を政策に反映させるためには、内閣との合意形成を必要としていました。

本来は権限を持っていない内大臣が、閣外から関係閣僚全員との意見調整を行うことは、極めて困難です。

したがって、閣内に木戸の方針に同調して意見調整を行う協力者が必要でした。

一方、宮中グループとともに和平交渉に動いたとされる海相の米内光政は、軍人は「和平への転換」といった政治的決定に介入すべきではないという考えでした。

米内は「政治家」(軍人ではない文官程度の意味)と認識する木戸から和平交渉への転換を持ちかけられることで、それに同調。

木戸をサポートしつつ、鈴木や外相の東郷茂徳との意見調整を行ったのです。

ちなみに東郷は回想録でこうした意思決定に関係があったと主張していますが、この点に関しての東郷の回想には矛盾も多く、実態としてはそれほど深く関われてはいないことが指摘されています。

そして一九四五年六月二十二日の御前会議で、ソ連を仲介とする和平交渉への転換が決定されます。

ソ連の参戦で日本は降伏を決意した

日本にとって、ソ連は日本と戦争状態にない唯一の大国でした。

この時点でも、降伏は考慮されておらず、目指されていたのはあくまでも交渉による和平であり、そのため、ソ連を仲介とした和平交渉に望みを託すという流れができたわけです。

一九四五年七月二十六日には、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国政府主席の名において、日本に降伏を要求するポツダム宣言が発表されますが、ソ連を仲介とした和平交渉に望みを託していた日本は、当初ポツダム宣言を「黙殺」してしまいます。

しかし、ソ連はすでに一九四五年二月のヤルタ会談で、ドイツ降伏後三カ月以内の対日参戦をアメリカに約束しており、日本の和平交渉を仲介する意思はまったくありませんでした。

それを知らない日本は、ソ連との和平交渉が継続していると考え、結果として無条件降伏を選択しない(できない)状態にあったわけです。

八月六日には広島に原子爆弾が投下されます。

それでも、わずかな可能性に期待して、降伏についての話し合いは八月六日~八日の間には行われていません。

そして、八月九日未明のソ連参戦が判明してから、ようやく九日午前中に、降伏についての話し合いが始まります。

長崎に原子爆弾が投下されたのは、その会議中のことでした。

広島への原爆投下が、降伏決定に大きな意味を持っていたというイメージは広くいきわたっていますが、原子爆弾の投下だけでは八月上旬というタイミングで降伏が話し合われた可能性は極めて低く、ソ連の参戦があったからこそ、日本は降伏を決意したわけです。

即時和平派と反対派の対立

ポツダム宣言の受諾による無条件降伏=終戦は、昭和天皇の「聖断」によってなされたと、一般的には理解されています。

しかし、だとすれば、なぜ「聖断」は二回も必要だったのかという疑問が残ります。

「聖断」に至るまでには、即時和平派と反対派の主張がぶつかっていたとされますが、実は、降伏をめぐる議論の参加者全員、降伏自体に反対していたわけではありません。「国体護持」の確信度合いで議論が分かれたわけです。

即時降伏派は、ポツダム宣言で「国体護持」が可能だと考えました。

したがって、「国体護持」を条件とすることで、降伏を受け入れるというスタンスです。

一方、即時降伏反対派は、ポツダム宣言で「国体護持」はできず、「自主的武装解除」「戦争犯罪人の自主的処罰」「保障占領の範囲極小化」により、軍隊を保全してこそ降伏は可能となると考えていました。

彼らの判断の背景にあるのは、部下の暴走をどのように抑えるのかという懸念でした。

降伏を発表すれば、軍が暴走して内乱状態となる危険もある。

しかし、「国体護持」以外の三条件が整えば、降伏受け入れも可能となると考えた即時降伏反対派は、逆にそれが認められなければ、本土決戦によりその確証を引き出すべきだと主張したのです。

終戦には昭和天皇の「二度の聖断」が必要だった

この「聖断」に至る過程において、木戸と昭和天皇は当初、問題を国務と統帥の分離とみていました。外相である東郷茂徳が即時和平を主張し、軍部が本土決戦を主張しているという図式でとらえていたわけです。


即時降伏反対派が懸念する部下の統制という問題は、国家方針ではなく執行過程の問題であるので、各国務大臣に任せるしかないわけです。

そして八月九日深夜の御前会議において、第一回の「聖断」が下されます。

天皇は国務と統帥の分離を調整し、国務に重点を置いて降伏を決定します。

しかし、本質的な論点は部下統制という執行過程の問題であったため、この「聖断」は議論を収束させる効果を持ちませんでした。

天皇が国務を支持するというかたちで降伏を決定しても、実際には軍首脳部の「部下の統帥に責任が持てない」という懸念は全く解消していないわけです。

一方、第一回の「聖断」を受けて、天皇の国法上の地位存続のみを条件とする外相案でポツダム宣言を受諾する回答が連合国に対してなされましたが、これに対し、アメリカ国務長官のバーンズを中心に作られた、いわゆる「バーンズ回答」が打ち返されます。

これは、天皇や日本政府の国家統治の権限は、連合国軍最高司令官に「従属する」という内容でした。

このバーンズ回答によって、改めて「国体護持」に疑念が抱かれ、再び議論が紛糾します。

「二度目の聖断」が意味するもの

そして、八月十四日正午の御前会議において、第二回の「聖断」が下されます。

ここでは、天皇が自ら部下統制にあたると、代替する執行方法を提示しました。

これは、本来は天皇・宮中グループが関与しない執行過程への介入なのですが、結果として議論は収束することになります。

その内容は、下村海南『終戦記』(鎌倉文庫、一九四八年)には次のように描かれています。

陸海軍将兵には更に動揺も大きいであらう。

この気持をなだめることは相当困難なことであらうが、どうか私の心持をよく理解して陸海軍大臣は共に努力し、良く治まる様にして貰ひたい。必要あらば自分が親しく説き諭してもかまはない。此際詔書を出す必要もあらうから政府は早速其起案をしてもらひたい。
亀田俊和、倉本一宏、千田嘉博、川戸貴史、長南政義、手嶋泰伸『新説戦乱の日本史』(SB新書)


議論を収束させ、無条件降伏が実現したのは、この二回目の「聖断」において、天皇が「部下の統制」にも必要があれば関与するという意志を表明したからであることが、よくわかります。

これによって、「無条件降伏」という国家の意思決定を、具体的に実現するための執行過程の問題がクリアされる見通しがついたわけです。

「聖断」が二回必要だったのは、権限関係をめぐる議論と混乱があったためであることが、ご理解いただけるかと思います。

以上のように、国家の意思決定にかかわる各政治主体が、それぞれいかなる権限を持っていたかという点に注目することで、終戦に至る過程で何が問題となり、なぜ解決に至ったのかが見えてくるわけです。

こうした「権限」に着目して政治・外交過程を見直すことは、おそらく今後とも必要な研究視点になるのではないかと、私は考えています。


“暴動”も起きた韓国のマンションバブル崩壊 国民の借金体質が金融・通貨危機を招く

2023-03-05 13:38:51 | 日記
“暴動”も起きた韓国のマンションバブル崩壊 国民の借金体質が金融・通貨危機を招く

鈴置高史 半島を読む 国際 韓国・北朝鮮

2022年12月20日

世界一の家計負債

 高金利は別の経路を通じても韓国経済に打撃を与え始めました。

マンションを買おうと借金をしていた個人が破産する例が出てきたのです。

これが続けばおカネを貸していた金融機関の経営がおかしくなります。

 先ほど申し上げたように、マンションバブルに乗り遅れまいと焦った人々がおカネを借りまくって購入費用に充てた。

ところが基準金利の引き上げで支払うべき利息も膨れ上がり、生活ができなくなりました。

 マンションを売って返済しようにも値下がりしていて借金も返せない。そもそも市場が凍てついていて、買ってくれる人を見つけるのが大変です。

 ちなみに韓国の不動産ローンの70%強が変動金利です。政策金利が0・5%の時は3%前後の利払いで済んでいたのに、政策金利が3・5%に上がった今、ローンの金利は7%に達します。

 日本円に換算すれば、5000万円借りていた人の年間の利子は150万円から一気に350万円に膨れ上がったのです。

1カ月に直せば、12万5000円から30万円弱に。これでは生活が立ち行きません。

――でも、借金している韓国人ばかりではないでしょう。

鈴置:そこが、日本人の想像を超える点です。韓国人は「借金している人ばかり」なのです。韓国は異様な借金大国です。
 OECDの統計によると、韓国の家計債務は可処分所得の206・48%(2021年)。日本の115・37%(2020年)、米国の101・10%(同)と比べ突出しています。

 国全体で見ても、韓国は家計負債が世界で唯一、GDPよりも大きい国とされています。

国際金融協会(IIF)の2022年第1四半期のデータによると、韓国のGDPに対する家計債務の比率は104・3%。
 米国が76・1%、日本が59・7%なので、韓国という国自体が借金で回っていることが分かります。

ハンギョレの「韓国の家計債務、GDP比104%…依然として世界1位」(6月6日、日本語版)から引用しました。


 韓国の家計債務の大きさは日本人の想像を絶する規模です。そして「借金が返せない人」が増えています。

韓国メディアも今後、「金融システム不安」に焦点を当ててくると思われます。

悪魔の二者択一
――こんなに大きな副作用があるのに韓国はなぜ、金利を急速に上げたのでしょうか。

鈴置:それしか手がなかったのです。先ほど申し上げたように、上げなければドルとウォンとの間で金利差が生まれ、資本逃避が起きてしまったでしょう。

 韓国は1997年と2008年の2回、資本逃避による通貨危機に陥りました。1997年の危機では「IMFの統治」を受け入れざるを得ませんでした。「2度と恥はかきたくない」というのが韓国民のコンセンサスです。
が、日本人は韓国人ほど心配しなかった。日本は豊富なドル建ての資産を持つうえ、政府も企業もドルの借金に頼っていないからです。韓国の国債は原則ウォン建てですが、企業はまだドル建てで借金しています。

――利上げの悪影響がこれだけ出ている韓国。今からでも金利を下げることはできないのですか?

鈴置:ドル金利は2023年も高止まりする模様です。下手にウォン金利を下げれば、資本逃避が起きます。韓銀も利下げどころか「依然として高水準の物価が続く以上、当面は利上げ基調を継続する必要がある」(12月8日のイ・サンヒョン副総裁補の発言)との姿勢を打ち出しています。

 韓国は悪魔の二者択一を迫られてきました。ドル不足に陥ってデフォルトするか、ウォン不足に陥ってデフォルトするか、の二択です。とりあえずはドル不足を避けるという道を選びました。しかし、そのためにウォン不足に陥っている。

 今後、高金利のために金融システムが動揺すれば、振り出しに戻ってドル不足に陥る可能性があります。金融システムが動揺する――金融機関の経営がおかしくなれば、外国の金融機関もドルをさっさと引き上げるからです。
 2回の通貨危機も根には金融システムの動揺がありました。1997年は起亜自動車など財閥の相次ぐ倒産、2008年は円キャリ―トレードの失敗によるノンバンクの破綻ラッシュです。
 金融不安が資本逃避を呼んだら元も子もありません。韓国は米国の動向をにらみながら、金融緩和のチャンスをうかがうでしょう。
運否天賦の韓国
――それまでに「金融システム不安」が現実化しないでしょうか。
鈴置:韓銀は企業のCP(コマーシャル・ペーパー)の買い入れを増やすなど、積極的に資金を供給しています。経営が悪化した金融機関に対する強制的な資本注入を可能にする法案も準備中です。
 対症療法ではありますが、できることは手を打って嵐が過ぎ去るのを待つ、ということでしょう。韓国は運否天賦(うんぷてんぷ)の国なのです。

鈴置高史(すずおき・たかぶみ)
韓国観察者。1954年(昭和29年)愛知県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。日本経済新聞社でソウル、香港特派員、経済解説部長などを歴任。95~96年にハーバード大学国際問題研究所で研究員、2006年にイースト・ウエスト・センター(ハワイ)でジェファーソン・プログラム・フェローを務める。18年3月に退社。著書に『韓国民主政治の自壊』『米韓同盟消滅』(ともに新潮新書)、近未来小説『朝鮮半島201Z年』(日本経済新聞出版社)など。2002年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。
デイリー新潮編集部