絶対に勝ち目のない対米戦争を、日本がだらだらと続けてしまった情けない理由政府首脳がこだわった「一撃和平」
PRESIDENT Online
手嶋 泰伸歴史学者、龍谷大学文学部 講師
日本は1941年から太平洋戦争に突入したが、1943年には客観的にみて敗北・降伏は避けられない状況に陥っていた。なぜ戦局が悪化する前に降伏できなかったのか。歴史学者の手嶋泰伸さんは「当時の首脳部は、無条件降伏ではなく和平を目指していたため、『一撃』にこだわっていた」という――。
なぜ日本はいつまでも無条件降伏をしなかったのか
一九四三年十一月、エジプトのカイロに連合国軍の首脳、すなわちアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主席蒋介石の三人が集い、対日政策について話し合いが行われました。
これがカイロ会談です。この会談で、連合国は日本が無条件降伏をするまで戦うことを宣言します(カイロ宣言)。
日本は、すでに一九四三年に入った段階から各地の戦局において目立った勝利を得られていない状況で、客観的にみれば、すでに敗北・降伏は避けられない状況でした。
最終的に、一九四五年八月に日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏をしますが、その事実を知っている現在の我々は、なぜ日本はいつまでも無条件降伏をしなかったのかと考えてしまいがちです。
敗北が避けられないならば、もっと早く、戦局が悪化する前に降伏し、被害を最小限度に抑えることができただろうと考えてしまいます。
一九四四年の頭頃から、首相経験者などのいわゆる重臣と、昭和天皇の弟である高松宮宣仁(海軍大佐)らを中心とした皇族グループによる東條英機内閣の倒閣工作が水面下で進行します。
こうした動きも、一般的には和平交渉を行うための動きととらえられていますが、実態としては戦局の挽回を目指して行われたものであったことが明らかになっています。
和平の前に、まず「一撃」が必要だというのは、当時の首脳陣が等しく抱いていた考えだったのです。
「一撃和平」を諦め、ソ連を仲介とした和平交渉を模索
その後、日本は一九四四年六月のマリアナ沖海戦、七月のサイパン攻防戦にも敗れ、東條内閣では「一撃」となる戦果は挙げられず、七月十八日に内閣は総辞職します。
代わって朝鮮総督の小磯國昭が首相となりますが、その小磯内閣でも「一撃」は得られませんでした。
同年十月のレイテ沖海戦で手痛い打撃を受けるなど、戦果は挙げられず、小磯内閣は発足から約八カ月の一九四五年四月に総辞職。
代わって海軍出身で侍従長も務めた鈴木貫太郎が内閣を発足させますが、この鈴木内閣でも、当初は「一撃」を模索していました。
鈴木貫太郎(1868-1948)(『歴代首相等写真』/憲政資料室収集文書1142/PD-Japan-oldphoto/before 1946/Wikimedia Commons)
一九四五年五月、ドイツが連合国軍に無条件降伏します。
そして、同年三月に始まった沖縄戦では、五月二十九日に首里城が陥落し、軍司令部が占拠されるなど、戦況は著しく悪化します。
このあたりで、国家首脳部の多くは「一撃」をあきらめ、和平を模索するようになります。
しかし、六月八日の御前会議において、「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」が決定されました。
沖縄戦の敗北が決定的であるにもかかわらず、この御前会議では「七生尽忠ノ信念ヲ源力トシ地ノ利人ノ和ヲ以テ飽ク迄戦争ヲ完遂シ以テ国体ヲ護持シ皇土ヲ保衛シ征戦目的ノ達成ヲ期ス」と、戦争継続が強く訴えられました。
そんななか、内大臣の木戸幸一が、政府を和平交渉へ転換させようとするようになります。
木戸らは戦争が圧倒的不利のまま長期化することによる、「国体」(天皇中心の国家体制)の崩壊への危機感から、こうした動きをしたと理解されています。
宮中グループに同調した海軍大臣
こうしたことから、木戸を中心とした宮中グループの政治的影響力の強さが、これまで注目されてきましたが、現在では、木戸の持つ「権限」の問題からこうした経緯が再検討され、和平交渉への転換過程における各政治主体の役割が明らかになってきています。
木戸が、天皇の権威を背景に、国家意思の決定に強い影響力を持っていたのは事実です。
しかし、執行権は内閣が保持しているため、自らの意見を政策に反映させるためには、内閣との合意形成を必要としていました。
本来は権限を持っていない内大臣が、閣外から関係閣僚全員との意見調整を行うことは、極めて困難です。
したがって、閣内に木戸の方針に同調して意見調整を行う協力者が必要でした。
一方、宮中グループとともに和平交渉に動いたとされる海相の米内光政は、軍人は「和平への転換」といった政治的決定に介入すべきではないという考えでした。
米内は「政治家」(軍人ではない文官程度の意味)と認識する木戸から和平交渉への転換を持ちかけられることで、それに同調。
木戸をサポートしつつ、鈴木や外相の東郷茂徳との意見調整を行ったのです。
ちなみに東郷は回想録でこうした意思決定に関係があったと主張していますが、この点に関しての東郷の回想には矛盾も多く、実態としてはそれほど深く関われてはいないことが指摘されています。
そして一九四五年六月二十二日の御前会議で、ソ連を仲介とする和平交渉への転換が決定されます。
ソ連の参戦で日本は降伏を決意した
日本にとって、ソ連は日本と戦争状態にない唯一の大国でした。
この時点でも、降伏は考慮されておらず、目指されていたのはあくまでも交渉による和平であり、そのため、ソ連を仲介とした和平交渉に望みを託すという流れができたわけです。
一九四五年七月二十六日には、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国政府主席の名において、日本に降伏を要求するポツダム宣言が発表されますが、ソ連を仲介とした和平交渉に望みを託していた日本は、当初ポツダム宣言を「黙殺」してしまいます。
しかし、ソ連はすでに一九四五年二月のヤルタ会談で、ドイツ降伏後三カ月以内の対日参戦をアメリカに約束しており、日本の和平交渉を仲介する意思はまったくありませんでした。
それを知らない日本は、ソ連との和平交渉が継続していると考え、結果として無条件降伏を選択しない(できない)状態にあったわけです。
八月六日には広島に原子爆弾が投下されます。
それでも、わずかな可能性に期待して、降伏についての話し合いは八月六日~八日の間には行われていません。
そして、八月九日未明のソ連参戦が判明してから、ようやく九日午前中に、降伏についての話し合いが始まります。
長崎に原子爆弾が投下されたのは、その会議中のことでした。
広島への原爆投下が、降伏決定に大きな意味を持っていたというイメージは広くいきわたっていますが、原子爆弾の投下だけでは八月上旬というタイミングで降伏が話し合われた可能性は極めて低く、ソ連の参戦があったからこそ、日本は降伏を決意したわけです。
即時和平派と反対派の対立
ポツダム宣言の受諾による無条件降伏=終戦は、昭和天皇の「聖断」によってなされたと、一般的には理解されています。
しかし、だとすれば、なぜ「聖断」は二回も必要だったのかという疑問が残ります。
「聖断」に至るまでには、即時和平派と反対派の主張がぶつかっていたとされますが、実は、降伏をめぐる議論の参加者全員、降伏自体に反対していたわけではありません。「国体護持」の確信度合いで議論が分かれたわけです。
即時降伏派は、ポツダム宣言で「国体護持」が可能だと考えました。
したがって、「国体護持」を条件とすることで、降伏を受け入れるというスタンスです。
一方、即時降伏反対派は、ポツダム宣言で「国体護持」はできず、「自主的武装解除」「戦争犯罪人の自主的処罰」「保障占領の範囲極小化」により、軍隊を保全してこそ降伏は可能となると考えていました。
彼らの判断の背景にあるのは、部下の暴走をどのように抑えるのかという懸念でした。
降伏を発表すれば、軍が暴走して内乱状態となる危険もある。
しかし、「国体護持」以外の三条件が整えば、降伏受け入れも可能となると考えた即時降伏反対派は、逆にそれが認められなければ、本土決戦によりその確証を引き出すべきだと主張したのです。
終戦には昭和天皇の「二度の聖断」が必要だった
この「聖断」に至る過程において、木戸と昭和天皇は当初、問題を国務と統帥の分離とみていました。外相である東郷茂徳が即時和平を主張し、軍部が本土決戦を主張しているという図式でとらえていたわけです。
即時降伏反対派が懸念する部下の統制という問題は、国家方針ではなく執行過程の問題であるので、各国務大臣に任せるしかないわけです。
そして八月九日深夜の御前会議において、第一回の「聖断」が下されます。
天皇は国務と統帥の分離を調整し、国務に重点を置いて降伏を決定します。
しかし、本質的な論点は部下統制という執行過程の問題であったため、この「聖断」は議論を収束させる効果を持ちませんでした。
天皇が国務を支持するというかたちで降伏を決定しても、実際には軍首脳部の「部下の統帥に責任が持てない」という懸念は全く解消していないわけです。
一方、第一回の「聖断」を受けて、天皇の国法上の地位存続のみを条件とする外相案でポツダム宣言を受諾する回答が連合国に対してなされましたが、これに対し、アメリカ国務長官のバーンズを中心に作られた、いわゆる「バーンズ回答」が打ち返されます。
これは、天皇や日本政府の国家統治の権限は、連合国軍最高司令官に「従属する」という内容でした。
このバーンズ回答によって、改めて「国体護持」に疑念が抱かれ、再び議論が紛糾します。
「二度目の聖断」が意味するもの
そして、八月十四日正午の御前会議において、第二回の「聖断」が下されます。
ここでは、天皇が自ら部下統制にあたると、代替する執行方法を提示しました。
これは、本来は天皇・宮中グループが関与しない執行過程への介入なのですが、結果として議論は収束することになります。
その内容は、下村海南『終戦記』(鎌倉文庫、一九四八年)には次のように描かれています。
陸海軍将兵には更に動揺も大きいであらう。
この気持をなだめることは相当困難なことであらうが、どうか私の心持をよく理解して陸海軍大臣は共に努力し、良く治まる様にして貰ひたい。必要あらば自分が親しく説き諭してもかまはない。此際詔書を出す必要もあらうから政府は早速其起案をしてもらひたい。
亀田俊和、倉本一宏、千田嘉博、川戸貴史、長南政義、手嶋泰伸『新説戦乱の日本史』(SB新書)
議論を収束させ、無条件降伏が実現したのは、この二回目の「聖断」において、天皇が「部下の統制」にも必要があれば関与するという意志を表明したからであることが、よくわかります。
これによって、「無条件降伏」という国家の意思決定を、具体的に実現するための執行過程の問題がクリアされる見通しがついたわけです。
「聖断」が二回必要だったのは、権限関係をめぐる議論と混乱があったためであることが、ご理解いただけるかと思います。
以上のように、国家の意思決定にかかわる各政治主体が、それぞれいかなる権限を持っていたかという点に注目することで、終戦に至る過程で何が問題となり、なぜ解決に至ったのかが見えてくるわけです。
こうした「権限」に着目して政治・外交過程を見直すことは、おそらく今後とも必要な研究視点になるのではないかと、私は考えています。