私の心に春よ来い「共に生き 共に生かされ 日々感謝」 心と体のカウンセリングルーム 春よ来い      

見える力と見えない力に支えられて、日々〝なんちゃって哲学〟を楽しみながら、刻々と過ぎて行く今を楽しんでいます    

365日の紙飛行機

心と体のカウンセリングルーム * 春よ来い *

心と体のカウンセリングルーム * 春よ来い * は、来談者中心療法と輸気法を用いて心と体の弾力を取り戻します。心と体はひとつですから                                                   

【 パーソンセンタードアプローチ(来談者中心療法)】

パーソンセンタードアプローチ(来談者中心療法)は、カール・ロジャーズとその共同研究者たちにより提唱され、展開している心理療法の一派です。 ロジャーズによって、非指示的療法 → 来談者中心療法 → 人間中心療法す。(Person Centered Approach)へと改名されています。『人は誰も成長し、発展し、適応へと向かう資質を持っている。』クライエント自身の体験に心を寄せて、その体験を尊重することが重要。カウンセラーの「クライエント中心」の態度によって、クライエントは本来の力を十分に発揮し、問題を解決していく、とするもの。カウンセラーの態度条件【共感的理解=クライエントの感情に巻き込まれることなく、クライエントの私的世界を自分自身も感じること。】【無条件の肯定的配慮=クライエントを受容する。評価はしない。】 【自己一致(真実性・純粋性)=カウンセラー自身の感情と表現が一致していること。役割行動や防衛的態度を取らない。】 カウンセラーとクライエントの人間関係の「質」が重視される。カウンセラーとクライエントの関係そのものがセラピーとなる。     

【 輸気法 】 左の骨盤を締めて、右の骨盤を上げれば、身体の7割が整います。

「輸気」とは、掌(てのひら)に「気」を集注(集め注ぐ)し、感応が起こることにより、体に内蔵されている本能的な自然治癒の力を呼び起こし、体の中の働きを高め、元気を呼び覚ます方法です。手当て療法とか気功のことを指すのではありません。 左の骨盤を締めて(交感神経)、右の骨盤をあげる(副交感神経)ことで自律神経(交感神経・副交感神経)のバランスが取れて、免疫力が上がります。結果として、身体(身・心)の70%が整います。体調不良の主たる原因は【身体の冷え・食べ過ぎ・ストレス・偏り疲労】です。            【河野十全の言葉】人は心を尊んで、肉体を卑(いや)しむ癖がありますがとんでもないことです。肉体こそ生命の根本です。働きをなすのは肉体です。細胞の健全ということは、細胞の収縮作用がしっかりしているということであり、これが生命の根源である。 どんな空気の悪い所でも、細胞は、よく働いてくれる。 いい空気に合えば、もちろん、はつらつとするし、しっかりとした呼吸法によって、細胞を生き生きさせることができる。いつでも肉体を新鮮に保つには、眠りと呼吸作用、そうして細胞の収縮運動のための体全体の自然運動を行うことである。食べ物などは、何でも、よく噛んで、腹八分に食べさえすれば、おそらく病気をすることなどはないはずである。 それは、細胞によってつくられるものである。人間は、気分転換するために、遊んだり食べたりして、さらに細胞を弱めてしまう。気分転換するには、体を投げ出して、生かされているという状態になって、細胞の生命力から気分の転換をする。意識的な気分転換法と、肉体生命の根本から命を変えるということは、非常な違いがある。

骨格・筋肉 ~ 人の身体の骨格と筋肉です (^^)b ご自身の身体をイメージしてみて下さい ~

   

暖かい

2010年11月27日 09時34分40秒 | 心と体と日々の暮らし
脚にお日さまがあたってとても暖かい
でも外の空気は冷たい。

今朝は3時半に夫と同時に起きた。
夕べ寝たのが9時なので、睡眠時間は十分だ。

夕べの食器の片づけをして(もうこれがスタイルになっている)
モーニングコーヒーを飲んで
早起きはゆっくりと朝の時間を過ごすことが出来るので好きだ。

今日は黄色く熟した柚の収穫を予定している。
私はこういう作業が苦手なので憂鬱だ
うつ病人が憂鬱なことをするのだから、体にいい分けないと思っている。

収穫した柚は何人かの人に送ることになっている。
以前の私なら苦にならなかったが、今は荷物を作るのも億劫だ

ああそれにしてもポカポカと暖かい

殆ど何もしない毎日を送っていると、日にち・曜日が分からなくなってくる。
最近は西暦や平成もわからない。
カレンダーも見ない、鏡も見ない、ないない尽くしの生活だ。
それでもなんとも思わない。

今思うのは、薬を止めて「素」の自分はどうなのだろうということ。
もしかしたら、薬を飲まない方がいいのではと思ったりするのだ。
ありのままの自分が知りたい。



パジャマの日

2010年11月26日 09時05分02秒 | 心と体と日々の暮らし
今日は起きてからそのままパジャマの一日だ
ホットカーペットを暖かくして、ゴロゴロ、ゴロゴロといい気持ちだ。
こんなことが出来るのも、パパが居てくれるお陰なのです
今日は昨日よりも気分は上向き
一喜一憂はしないと決めているけど、やっぱり、このままどんどん良くなって欲しいとおもってしまう。

今日もまた13年前の話
引っ越してきて半年後、息苦しくなって、台所に立っていられなくなった。同じことが続くので、タウンページで心療内科を標榜しているところを探して、受診した。自宅から少し離れたところを選んだ

ドクターの前で問われるままに話をしていたら、涙が溢れてきて、わんわん泣いたことを鮮明に覚えている。
後にも先にもこんなに泣いたことはない。
人に話を聞いて貰えるのは薬に匹敵するものだと思った
診察の結果は、軽いうつ病だった。

この医院に数ヶ月通った。元気になったので自然と行かなくなってしまったが、この時、ドクターのOKが出るまで通っていれば現在はまた違ったものになっていたかもしれない。
あくまでも、かもしれないの話。
その後の暮らしは大変なことが増えていったから




今日は朝まで

2010年11月26日 05時01分05秒 | 心と体と日々の暮らし
今日は朝まで眠れました。とてもうれしい
夜中に一度目が覚めたが、そのまま再び眠れたのでホッとした。

外回りの用事は昨日済ませたので、今日はのんびり過ごせる。
気持ちにプレッシャーがないのはいいな
私ののんびり法はホットカーペットの上で寝ることなのです
近くにパパがいるとホッとします。

13年前こんなことがありました。当時私は心療内科で(現在とは別)うつ病のため夜寝る前の安定剤を処方されていました。それによる影響など思いもせず、息子を助手席に乗せて高速を走り始めました。始めは良かったのですが、2車線になってからアクセルをグングン踏み始めたのです。まるで隣の車と競うかのように。スピードは140キロでていました。しかも軽自動車で・・・今思うと脂汗がでます。神様に助けられました。一般道では普通に落ち着いて運転できたのですが、あの時は悪魔の囁き?
今は一切運転していません。恐くて出来ないのです。今は夫に助けられています。

でもあんな小さな一粒で・・・恐いですねぇ。




回想・うつ病

2010年11月25日 09時11分11秒 | 心と体と日々の暮らし
私はとても心配性だ。
2年前まで、義母のお世話(グループホーム)、帰りの不規則な仕事の夫を心配しながら待つ、専門学校生の息子の送迎をしていた。
義母のお世話を10年くらい、心配しながら夫を待つのを5年くらい、息子の送迎を2年していた私はとても疲れていた。疲れが蓄積していた
体はだるく、朝が来るのが恐かった。

ある時息子のお弁当を作っているときに「もう作れない!」状態になってしまった。
食事も作れなくなった。息子にはコンビニ弁当の夕飯が続いた。夕飯の時間になってもテーブルに何もない。寒々しいテーブル。これが一生続くのかとその時は涙が出た。私が最後に作った料理は、肉じゃがだった。

私のあまりの調子の悪さに、夫が会社を急遽休みそれまで通院していた心療内科に私を連れて行った。生憎院長は不在だったので留守番医に紹介状を書いて貰い、自宅近くの心療内科にいった。診察を受け、私はうつ病患者になった。
この1ヶ月後、夫は専業主婦になった。それから早くも、1年8ヶ月。ありがとう

回想

2010年11月25日 02時56分58秒 | 心と体と日々の暮らし
困ったことに今夜も午前2時に目が覚めてしまった。
今日は少し回想をして時を過ごそう。
きつかったことや張り切っていたことなどを・・・。

此処に引っ越してきて13年が過ぎた。
嫌で嫌でたまらない引っ越しで、心は死んでいた
主人の家族が総出で引っ越しの手伝いをしてくれていたが感謝の気持ちすら浮かばなかった。
今思うと失礼なことをしたと反省している。感謝の余裕もなかった。

義母が10年間住んでくれていた我が家は義母の持ち物で溢れ、私たちの荷物を入れることは難しかった。毎日が片づけの連続になった。家の内外をだ。申し訳ないとは思ったが、使っていない義母の物は捨てさせて貰った。そうしなけれが自分たちの暮らしが出来なかった。
いつまでも義母の家で暮らすことになる。片づけは大変で、40才の若さで乗り切れた。

車。ペーパードライバー歴20年の私に車があてがわれた。後は自分で何とかがんばりなさいということだ。勇気を出してスーパーと銀行に行ってみた。帰ってきたときは脱力感だ。
しばらくは自転車を使うことの方が多かった。
嫌がおうにも遠出をしなければならないことが起こった。その頃整形外科に入院していた母が退院をしたのだ。お迎えは私だ。隣市にある病院まで車で迎えに行かなければならない。このときのことを思い出すと惨めさがこみあげてくる。手に汗を握りながら病院の駐車場に着いたときには頭は真っ白だったと思う。
この日から、義母と私と車の関係がはじまる。主に通院だ。週に1.2回。たまに家までのドライブ。私の母に会いにも行った。

この頃は張り切ることもあった。中一の息子のラグビーだ。週1回。車で1時間の練習場までつれていっていた。最初は練習場が分からず延々と探したことを思い出す。此処かなと思いその度に車を悪戦苦闘させて動かしたな。「今日はこの練習場です」と言われれば、ドキドキしながら、地図を見て行った。張り切れていた
その息子も26才になり、自分の車を持つようになった。


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