Happy-sanになろう!

Happy-sanな日々をご紹介するブログ。旅のお話もいっぱい♪

梅屋庄吉とトクの、お墓まいり

2015年08月15日 | memory
今日は
とても久しぶりに
曾祖父母、梅屋庄吉とトクのお墓まいり。

生まれ故郷の長崎には
毎月、いや
最近は毎週行っているのに

本人たちが眠っているところに
なかなかご挨拶に行っていないことが
いつもココロに引っかかっていた。





夏のお花をいっぱい抱えて
お参り。


母もそうであったように、
私も
梅屋のおじいちゃま、おばあちゃまに
恥ずかしくないように、
といつも思っているし、

辛い時や
助けてほしい時は
梅屋のおじいちゃま、おばあちゃまに
話しかける。


私にとっては
神様だし、
一番頼りにしていて、
一番近くに感じる存在。






今日は
長崎では
museumも出来て、
銅像も長崎と上海にあって、

東京書籍の世界史Bの教科書を持参しながら
教科書にも
載るようになったことを報告。


イッサイ コウガイシテハ ナラズ

と遺言した庄吉は

曾孫の私に
何やってんだか…と、溜息をつきそうだが、

来週も始まるけれど
《孫文梅屋塾》
のような、
若い世代の交流に役立つことであれば

笑いながら
許してくれるような、気もする。


あー、
お会いしてみたいなぁ。

墓前に暫し座り込んで
色々お話した。


そんな、
8月15日の、昼過ぎの、こと。

2014年、Thank youuuuuu!

2014年12月31日 | memory
<2014年、Thank youuuuu!>


FBでの更新を真面目にしているのですが
Blogのほうは旅報告中心で、毎日チェックしている皆様、ごめんなさい!!でした。

現在、21時30分。
なんとか2014年中に今年の振り返り、が出来そうです。


今年は振り返ると
ずいぶん、大きなお仕事をいっぱいした一年でした。

年初、ワインジャーナリストの青木冨美子先生から
”2014年は充実した素晴らしい年になりそうです。”と
教えていただいたのですが、
こうして、写真を観ていると
そのとぉりでした。



青木先生と。2月に行われた青木先生のイベントにて。


ココロの中はいつも細かいことで
揺れ動いているのですが
断片的にこうした写真だけを観ていると
すごく充実した1年であったなぁ、と客観的に思っています。


では時系列どおりではありませんが
今年の出来事、備忘録的に綴っていきたいと思います。



<今年一番の、旅>



神様の島、久高島。
まっすぐなこの道は神様に通じる道。。。
そして、その先は自分のココロなんだって
そんなことを思いながら、この道をひたすら自転車で走りました。





久高島にある、神秘的なイシキ浜。





とってもお洒落な民宿、海坐のオーナーご夫妻と




<今年の本業>


今年は本業、頑張った年でもあります。
横浜ジョイナス店のリニューアルオープン、
立教大学セントポールズ店のオープン、と
9月、10月続きました。



立教大学校友会の皆様と。



横浜ジョイナス店OPEN! 軌道にのるまで、とても大変でしたが
大変勉強になった大きなお仕事でした。



<里山十帖>

新潟南青沼にある、里山十帖で
秋のひと時、静かに暮らしました。
里山十帖での時間は、また改めてBlogでご紹介しますね。










<愛知大学オープンキャンパスでの、講演会>

今年も講演会やラジオ収録など多くの場所で
梅屋庄吉のお話をさせていただく機会をいただきました。






<壱岐商業高校での、講演会>

私が今年、一番嬉しかったお仕事は
こどもたちへの講演会を多く出来たこと。。。
これはこれからも続けたくて、
ライフワークにしていきたいと思っています。








<梅屋庄吉 読書感想文コンクール>

今年3月に小学生高学年向けに出版された<長崎の偉人 梅屋庄吉>を読んだ
長崎県内の小学生たちが寄せた感想文は力作ぞろい。
授賞式では二胡奏者の里帰地さん、長崎JALシティホテル社長 陳先生との
トークショーも行われました。









<長崎東中学校 全校生徒に講演>

長崎東中学校は、長崎市内の中高一貫校。
全校生徒360名に孫文と梅屋の話をさせていただきました。











<佐世保北中学校  全校生徒に講演>

佐世保北高校は今年、
心が痛む事件のあった学校です。
中高一貫校、佐世保では有名な進学校です。

つらい事件があっても、キラキラした瞳をもつ生徒たちに
私が勇気をいただいた、時間でした。









<オーベルジュあかだまでの、ひととき>

長崎東中学、佐世保北中学の講演の合間を縫って
長崎の西海にある、オーベルジュあかだま、さんにお世話になりました。
長崎にこのような素敵なオーベルジュがあること
もっと皆さんに知っていただきたいです。
(あらためて、Blog詳細書きますね








<博多での九州経済界のシンポジウムに参加>


今年は、博多で大きなお仕事をたくさん経験させていただきました。
2月にはシンポジウムやG1サミット、
年間を通じて、西日本新聞の<堤論>のコラムを書かせていただいたり。。。














2月、グロービス主催のG1サミットに登壇






<香港VIP ジョナサンチョイ氏を大分県広瀬知事にご紹介>


孫文つながりをたどって
大分県と香港財界の絆を深めるお手伝いをさせていただきました。









<自由学園 高校3年男子にテーブル&デートマナー講座>

自由学園の高校3年生の男子諸君に
テーブルマナーとデートのマナーをお教えしました。
みんな、真剣に聞いてくれて、
質問も多くて、楽しく充実した時間となりました。






<3月、上海と無錫へ。>

無錫で行われた、日中韓 3か国の桜祭り、に行きました。
3か国の関係が政治的には難しい状況ですが、
現地の方々との交流がとても大切と感じた訪問でした。



やはり、白酒乾杯しないと、ですね



無錫のテレビ番組にも出演して、日中友好の大切さをお話しました



無錫市長と。




<孫文梅屋庄吉Museum オープン!>

2014年4月、長崎の旧香港上海銀行内に、孫文梅屋庄吉Museumがオープン。
アジア各国からオープニングに参加してくださいました!
感動の1日となりました。














チリ大使もご来館されました。







<日中21世紀委員会、長崎で開催>


日中の政治的な緊張が続いており、この会議もなかなか開催できずにおりましたが
長崎で6月に行われました。  グアンシ、を感じた数日間です。




キャスターの国谷さまと中国で有名な作家の先生と









宇宙飛行士の毛利さま、東大の高原先生に孫文梅屋ミュージアムを紹介










中国側座長の唐家セン先生にMuseum、孫文と梅屋庄吉夫妻の3人像をご案内











<軽井沢で田中さまご夫妻と楽しいひと時>












<GLOBIS あすか会議に登壇>

7月、京都で開催された
あすか会議に、ライフネット生命出口さま、
GLOBIS 吉田さまと登壇させていただきました。



出口さま、広瀬前佐賀県知事と乾杯




セッションの模様




<きらめき未来塾>

今年の、私の一番充実したお仕事はこの、きらめき未来塾。

全国から70名強の高校生が集まり、
4泊5日、さまざまなテーマの講義を聴き、ディスカッションを行います。
この未来塾で、登壇。

高校生たちと充実した時間を過ごしました。
そして、
きらめき未来塾の主催者である
アフラック創業者大竹さまはじめ、京都大学アメフト名監督水野先生ら、
素敵な出会いをいただいたのも、感激でした。




















・・・・・ということで
ざっとではありますが
私の2014年の活動の一部をご紹介させていただきました。



こうして振り返ると、ほんとぉに
キラキラした日々でした。


皆様に
支えられ、導かれた365日でした。


ただ、<リア充>ばかりではないことも、もちろんあることを
少しだけ、書いておきますね。

疲れ果てて、立ち上がれない日も
ココロが凍るくらい、信じられないことがおこる日も、
涙がとまらない夜も、
心配で、寝汗と動機が続き眠れない夜も。。。


365日の中にはありました。


でも、振り返ると、やはり感謝しかないのね。
すべてに。


さあ、あと1時間超で、2015年が始まる。


今、決めていることはただ、ひとつだけ。


2015年は

<質の高い人びとと 質の高い仕事を していく。>

っていうこと。

勉強もしたい、
踊りもやりたい、
そして
遠くにも行きたいけど・・・



皆様にとりまして
これからやってくる2015年がしあわせいっっっっぱいの、
日々となりますように。。。




2014年、Thank youuuuuuuuuuuu!
そして、
Love You All!!!!






今、を生きるということ

2012年04月02日 | memory
今、を生きるということ



たった今、メールである方がお亡くなりになられた、というお知らせをいただいた。

その方は
昨年、ちょうど一年くらい前に
その方が主催する会で私に<孫文と梅屋庄吉>の講演の機会を下さった方だった。


そんなにご高齢でもなく、
講演会の後の飲み会でも楽しそうにお酒を召し上がれていて、
一緒に
杭州を旅しましょう、と約束もしていた。
7月にメールでお誘いがあった時に、私は別の出張が入っていてご一緒出来なかった。
その時に<また、今度。>という言葉を使った。

でも、その<また、今度。>は来なかった。




<いつか出来たらいいね。>
<いつか行けたらいいね。>
<いつか行ってみたいね。>

その、
あいまいな<いつか>というのは
来ないかもしれない。

だから、私は
可能な限り、行ってみたいところに行ってみる。
可能な限り、会ってみたい人には会いに行ってみる。

そして、そのあいまいな<いつか>という言葉は、
あまり
好きではない。











毎日、忙しく過ごしているうちに時間は過ぎ
一年はあっという間、という言葉を良く口にする、あるいは
耳にするけれど

<時>を生きることについて
実は本当に
すごい偶然の重なりで、ありがたいことだということを
感じながら
大切にしたいと改めて思った。。。


私は特に曽祖父 梅屋庄吉関連の活動をしていて
さまざまなプロジェクトが持ち上がり、
実際に成ったものと、
成らなかった幾つかのものがあった。


成ったプロジェクトに関して言えば

その時、その人が、そこにいなければ
成らなかった。。。ということである。

つまり、いつでも、誰でも、出来ることではなく
すごい偶然で引き合わされたメンバーが
そこに思いを同じく出来てはじめて、
形になるのであって、

そこにその誰かが欠けても、形にはならなかったとつくづく思う。


だから、
同じ思いを抱いて、引き寄せられた目の前に現れた人を大切にしたい、と思うので、ある。


その人が
いつまでも、目の前にいるわけではない。
今、
大切にしなければ・・・。


だから、
私はそのあいまいな<いつか>という言葉が
あまり
好きではない。









桜の花の季節は
母が天国に行った季節でも、ある。


母は私にとって

この世で一番、ココロも姿も美しい人であった。

ココロが美しすぎて
にごり水を流すことが出来ず、自分の中にため込んでしまって
リンパの癌になってしまった。

私が子供のころから
母が元気でいた姿はあまり見たことが無い。

いつも身体が弱く、
どこか具合が悪かった。
でも、
いつもとても美しかった。


身体が弱い母は
それゆえにあまり、旅をしなかった。

父は昔の日本の男性なので
自分は世界中の美味しいものを食べて、旅行をしているのに
母を連れていくことはなかった。


母の晩年、
私は小さい息子と母と3人で良く旅をした。
本当はもっともっと
色々なところに連れて行ってあげたかった。

母は
<またいつか、行けるといいね。>

と言っていた。

でも、もう、その<いつか>は無い。


だから私はそのあいまいな<いつか>という言葉は
あまり
好きではない。








今を生きる、というのは
人によっては難しい、と感じることもあるだろう。


世間体とか、
家族とか、
まわりを気にして

自分が
<今>大切にしたい人や
<今>行きたい場所や
<今>やりたいことを選択しない・・・ことのほうが

正しい、

とされている、あるいは思いこんでいるから。



自分が自信を持って
<今>自分が求めているものに正直に生きること。

そうしているうちに
周りの人や世間の言うことなんて
そのうち消えていく。

天国に行った時、
悔いるのは

世間体を気にして
本当に自分が求めていたことをしなかったことだと思う。


ああ、世間様に逆らわずに
周りに波風立てずに
自分の大切にしたい人、自分の大切にしたいものを選ばなくて良かった。。。。とは

決して思わないと思う。




私も母が生きている時には
周りの人の言うこと、
とりわけ家のこととか、考えすぎて選ばなかった、選べなかったことが、ある。


母の死が教えてくれたもののひとつに、

<今>はもうやってこない、ということが、ある。





それからは、

たとえば、周りの人に何か言われても
<今>行きたいところに行ける範囲で行き、
<今>会いたい人に可能な限り会いに行き、

せっかくの大切な時間は
好きな人と過ごしたいと思うようになった。


忙しくても、
本当に会いたい人とは何とかして会う時間は作れるということも
わかった。


だから私は
そのあいまいな<いつか>という言葉が
あまり
好きではない。



・・・突然の、訃報のメールと
咲き始めた桜が母を思い出させて

<今>は
今しかない、ということをあらためて感じた、
午後の、独り言。






 

夏のアルバムから~花火大会2010

2010年10月10日 | memory
夏のアルバムから~花火大会2010




この夏、上海万博の準備で忙しく
ブログ更新が滞ってしまったために

季節はずれになってしまいましたが
夏のアルバムから、思い出をご紹介。




ナガノ先生と。ヴァンブルーの特設テラスにて



8月半ば。

ブログでもおなじみの自由が丘ワインスクールのナガノ先生が
竹芝にもっていらっしゃる
素敵なレストラン<ヴァン・ブルー>にて
目の前で花火大会、という贅沢なひと時を過ごした。


花火大会のために特別にテラス席が用意された。

東京湾の潮風が心地よく

しっかり冷えたビールや
白いワインと一緒に
シェフが腕によりをかけた素敵なお重のお料理が供された。






中国茶の先生、アオヤギさんは
広州から夏休みで帰国されていらしたご主人とご一緒に参加。





3月、広州・中山・マカオの旅で
アオヤギご夫妻にすっかりお世話になった
私と息子。

この日は同じテーブルを囲んで
美味しいお食事と花火と会話を楽しんだ。




私のお気に入りはこのパエリア!




だんだん日が沈み、
いよいよ花火がスタートする。


目の前に浮かび上がっては消えていった
大輪の華たち・・・。







































”夏はやっぱり花火だよ。”


息子は私譲りの花火好き。

そのうち、この特等席で花火を見るのは
私とでは無くなるでしょうね。。。


その前に、私も見つけなきゃ、です。




夏のアルバムから

美しい花火の夜の、お話。





EFiL.net オフィシャルブロガー

母の着物

2008年07月28日 | memory
母の着物




明日から連日パーティーだ。

さすがに着ていくものに困る。


そこで、私は思い切って
着物なんて着ちゃおうかしら?と思いつく。


夏に呂の帯しめて・・・カッコイイじゃない


そして、
そそくさと母の部屋に行き、夏の着物を探してみる。


母は大の着物好きだった。

必ずパーティーなどの席には着物を着ていくので
外国の方からも、日本の方からもとても人気があった。

家でもよく着物を着ていた。

そんな母のたくさんの着物、

実は母の香りがするし、思い出して
泣けてくるので、虫干しもしないでそのままにしてあった。


あまりに大量にあるので
どこから手をつけていいのかわからない、というのが本当のところだ。

とりあえず、勇気を出して
夏の着物を探す。




丸い茄子の模様の単衣 発見



母はお人形さんのように
色が白く、目が大きく、

いえば、本当に綺麗な人だったので

選ぶ着物は、とっても、とっても地味なものばかり。


自身が華やかな顔立ちなので
自身を包む着物はあくまでも控えめ。

それが、母の美的感覚。


母が着ていると、丁度バランスがとれて美しいのだけれど
着物そのものを見てみると

まあ、どれも<お地味>。

グレイに、茶に、ベージュに、濃紫。

そこに小さな、小さな、季節の柄が少しだけ散らしてある・・・

殆どの着物がそう。


そして、帯で少し遊びを入れるのが母の着方。


・・・派手なお顔の母はそれでいいけど

私の場合、

地味 ON 地味

になってしまうため、どれを羽織っても<ババくさい・・


せめて、姉くらい色が白ければまだいいのだけれど

私のように色白ではないものが
グレイやこげ茶の着物を着ると・・・・




すこし華やかな呂の帯は見つけたのだけれど・・・




私にはやっぱり

ハワイのムームーや、タヒチのパレオが似合うのだ。


で、泣く泣く

この暑さの中、颯爽と着物を着こなす・・・ことをあきらめた。



・・・こういう時、聖書の言葉を思い出す。


”何を着ようか・・・ということを思い煩ってはならない。”


そう、そんなことで悩んではいけない、と
キリスト様はおっしゃったようだ。


そう、自分に言い聞かせて
今日はもう寝ることに、する。















音楽音響療法

2008年05月29日 | memory
音楽音響療法




私は、音楽を信じている。


心の深いところまで寄り添ってくれる。

勇気を与えてくれる。
元気が出てくる。


脳科学者で有名な、茂木さんも
音楽の果てしない可能性について
よく文章を書かれている。


私は昨日、

持ち前の好奇心とフットワークの軽さで

<音楽音響療法>のサロン、Sound Fortunaに出かけた。









まるで、誰かのお家に伺ったような佇まいのサロン。

玄関では優しそうな女性が迎えてくださる。

リビングのようなところでまず、カウンセリング。


目の前に置かれたパンフレットで
そのサロンが国際音楽音響療法研究会のものであり、
癌・白血病・C型肝炎・糖尿病・心の病の方の
病状の改善が目的のサロンであることを、知る。

<ガンウィルス、血液の病を改善します>

という文言が目に飛び込む。

そう、母は悪性リンパ腫で闘病の末、亡くなった。

まず、<母を連れてきてあげたかった

の気持ちでいっぱいになってしまった。


抗がん剤を打ちながらも病状が悪化していく中で
何とか他の療法が無いものか、と
色々な病院や民間治療、漢方医などにも行った。
あの頃のことが、ふと頭をよぎる。


・・・とはいえ、このサロンがOPENしたのは
ほんの2ヶ月前なので
当時はまだ存在していなかったのだが。


そして、このサロンはどうやってそれらを改善するのか、というと

脊髄と細胞に音楽を響かせ、体温を38度に高めるというのだ。

この38度、というのは私たちが胎内にいた時の体温。
そして、脊髄で音を聞く、というのは
私たちが胎内で音を聞いてきたのはなんと

耳からではなく、
脊髄で聞いていたのだそうだ。 

つまり、<赤ちゃんにもどる>療法







私たちは母親の愛情を羊水の中で揺られながら
波紋の響きを脊髄で感じ、愛情を感じていたのだ。

<呼吸音><血液音><鼓動>の響きをカラダで感じ
共鳴しながら、心に安らぎをえて、成長する。

胎児音感は音響療法の原点なのだという。

音楽の波動エネルギーを治療効果の高い
<經脈><ツボ><脊髄>に響かせ
カラダを発熱させ、血液を温め
血流と臓器を活性し
自己治癒力を高め、生命力を蘇らせるという。



オーラソーマのペンダントをかけていた
スタッフの女性に説明を伺う。

私は、”オーラソーマやっていらっしゃるのですね。”と
声をかける。

”はい。このペンダントはB74です。”と彼女。

”トライアンフ(勝利)ですね。”と私。

”私みたいな健常者はここにはいらっしゃらないのですか?”と私。

”いいえ、リラクゼーションや予防医学の面でも効果があります”と彼女。



そんな会話の後、
いよいよ、私もその胎児期の体験から
免疫力をあげる、という音楽音響療法にトライ。









まず、体温を測定。 36.6度。少し高め。

そして、ゆったりとした革張りのソファに横たわるだけ。


しばらくすると、

息子がお腹にいた時に
超音波エコーの機械から聴こえてきた胎内の音が聞こえてくる。

胎内の音が
脊髄にも刺激が伝わり、やがてうっすらとヴォーカルも聴こえてくる。


胎内音が聴こえてきたことと、
先ほど、病気の母のことを思い出した私は

だんだん感極まってきて涙があふれてきた。


私の母は若い頃から病弱だったため、
第2子である私を妊娠したときに
まわりから

”産むの、やめたら。”といわれたそうだ。

しかし母は、

”どうしても、この子は産むんだ。
産まなければいけない”と

そういう気がして、貴女を産んだのよ。

母の言葉を思い出す。


細い体で、私のような骨太な子供を産むのは大変だっただろう・・・


そう、胎児からスタートした気持ちになり
ひたすら、母への感謝の想いがあふれてくる。


溜めている、潜んでいる、忘却された感情が
涙となってあふれるのも、浄化。


その間も、脊髄への刺激と胎内音と静かな音楽は続き

いつしか私はコトン、と眠りにつく。








目覚めたのはまだ静かに響く胎内音。
それがいつしか、止まる。

カラダは、ただソファにもたれていただけなのに
ぽかぽかしている。

岩盤浴の後のような汗は出ないけれど
カラダの芯からぽかぽかしている。


スタッフの女性がまた体温計を持って
部屋に入ってくる。


体温を測ると、37,5度。

”しっかり、体温、上がりましたね。”


そのぽかぽか感はその後も
3~4時間ほど自覚症状が、あった。

音の響きで体温が高くなるって本当だ。

すごいっ



”またこの音をカラダが必要と感じた時に、来てください。”

そう言われて、サロンを後にした。


これを長時間あるいは継続的にやることによって
あるいは本当に母のような免疫系の病気は改善されるかもしれない。

あと、恐らく
私は母との関係は良好だったのだけれど

拒食症やぜんそくなど、母子間の関係性が原因とされる
病状をもつ方や、

何か前向きになれないなど、心にもやがかかっている方などにも

本当に胎児の記憶に戻るところから体験できるので
何か良い方向に向かうきっかけになるかも、しれない。


このブログを読んでいる方の中に

ご家族が病気療養中という方もいらっしゃるかもしれない。

かつての私のように
出口の見えない家族の病気を支える中で

こういう療法もあるのだということが、お伝えできれば幸いでもある。


実は、お値段も高くない。
なので、通う事の出来る、お値段だ。



はじめての音楽音響療法の体験の、お話。














秋の日には・・・

2007年10月14日 | memory
秋の日には・・・





毎朝飲んでいるミルクティーが

”美味しいなあ・・”と感じると

それは、

私にとって、”秋”を意味することに、なる。




ひんやりとした空気とミルクティーの
相性がよいのは

すこし雲の厚い
イギリスの空気を思い出すからだろうか。








もう一つ、秋にぴったりなものが、ある。


村松 健の、ピアノだ。


村松 健のピアノは、とってもシンプルなタッチで

まるで、子供が弾いているバイエルみたいなのだが

秋の静かで 透明な空気には

かえって、心地よく、キモチにぴったりとくる。

私が好んでこの時期、毎年、

聴きたくなるのは、<Calender>というアルバム。



秋の空と、ミルクティーと、村松 健のCalender・・・。


遠い記憶が、そのシンプルなメロディーにのって
蘇ってくる。










その秋は、殆ど大学へ行くこともなく
(・・・というのは卒業に必要な
単位を全て前年で終了してしまっていたから)

毎日、行くところは、神宮だった。


お昼過ぎに友達や、先輩と待ち合わせをして
神宮へ向かう。

すこーん、と晴れ渡った空が高い。

応援団の太鼓がどんどんどんっと響き渡る。

そう、6大学野球の応援だ


私達の学年は、優れた野球少年が多かったらしく

高校時代も甲子園に出場、

そして、6大学野球でも数十年ぶり、という
優勝ラインに来ていた。


私は、野球そのものはあまり興味がない。


私のお楽しみは、<応援団>だ


すんごっく、オモシロイ。

相手に点をとられると

後輩らしき応援団員はなぜか

<スミマセン>と謝って、バケツの水を自らかぶったり、

神宮の外回り一周のランニングをしたり、

腕立て伏せをしたり・・・。

別に、応援団のせいぢゃないのに・・・


エールの仕方も色々あって、

だんだん試合が盛り上がってくると

まるで、丹頂鶴の求愛のポーズみたいな

不思議な応援が出てきたり・・・。


だいたい、バブルの全盛期で男子学生の殆どが

大きなルイ・ヴィトンのバッグを肩にしょって
通学しているというのに

角切り君で、襟の高い学ランを着ているだけでも

最高に、”いい感じ”だったのだ。



応援団の傍らの、<吹奏楽部>の隊長さんが
私の、当時の憧れの人だった

体育会のトップも務めていたので
人望も厚く、とっても目立つ先輩だった。

私は、入学したてのフレッシュマン・キャンプで
先輩のグループにいたので
入学当初から、先輩のことを知っていたのだが

憧れるようになったのは、

神宮で応援団の指揮をとっているのを見てからだった。









神宮での試合が終了すると

私達は、決まったように

青山のベルコモンズへ行き、お茶をした。


当時、そこには毛糸の可愛いお店があった。


今の学生さんたちは、

好きな人にセーターやマフラーをやっぱり編むのかしら?


私達の高校・大学時代は
クリスマスやバレンタインのプレゼントは
お決まりのように<手編みもの>だったけれど・・・。


私は、大柄の先輩に似合いそうな

素朴な生成りの毛糸を沢山買いこんで

セーターを編み出した。


村松 健の、カレンダーを聞きながら。

そして、傍らに、ミルクティーを
カップにたっぷり注いだものを用意して。



ざっくりと編みあがったセーターは
先輩の最後の吹奏楽部のコンサートの日に
あげようと、用意をしていた。


コンサート会場には
吹奏楽部のメンバーに渡すために設けられた机があって

そこには、花束やプレゼントがいっぱいだった。


私は、暫く・・・

そう暫くの間、そこに立ちすくんでいた。


結局、編んだセーターを置いてくることが出来ず、

先輩宛に書いた簡単なお手紙だけを置いてきた。



先輩への想いが形になったセーターは
私にはすこし大きすぎたが

自分で着ることにした。



・・・しばらくして、先輩から
丁寧なお手紙が届いた。

男性にしては、珍しいほど
きれいな字だった。

コンサート、観に来てくれて
ありがとう。

という内容だった。

何だか、それだけで、とっても嬉しかった





秋の日の、

ミルクティーと村松 健のカレンダーは

いつもその頃の私を連れてくる。



神宮の高い空に響く応援団の音と

ベルコモンズでのたわいないおしゃべりと

渡せなかった生成りのセーター・・・。




大切な、秋の日の思い出。






わんにゃんストーリー

2007年09月30日 | memory
わんにゃんストーリー






”貴方はどんな猫?”


にゃんにゃん分析でやってみたら・・・








きゃーっ、なんと可愛い

そうそう、そのとおり

ゴロリと寝るのが好きなところがちゃんと出てるし
コロコロ具合も・・・



気を良くした私は、わんわん分析にもトライ。










う~ん 私の見えざるセンシティヴな部分が
そのまま表現されているぢゃない 




このブログでは、お花や風景の写真が多く
ペットらしき写真が登場しないので

私のことをご存じない方は

”もしかしたら、動物嫌いなのかな?”と

思われているかも、しれない。



・・・とんでもないのだ。


実は、我が家には永年にわたり
とっても沢山のワンとニャンが住んでいた。


最初にマルチーズのコロちゃんが
我が家に来たのは私が小学2年生の時。

以来、30年間
ずーっと、ワンとニャンがそれぞれ
大往生するまで

(9年前まではマンションに住んでいたにもかかわらず)

家族同様、暮らしていた。

今は府中にある慈恵院という犬猫専門の
寺院の立派な我が家のわんにゃん専用墓地があり、
皆で仲良く眠っている。


その子たちが・・・これだ








この絵は、ヤマナカさんという
動物を描く画家の方(よく聖路加画廊で展示会やっておられます)に

今まで家にいたワン・ニャンのアルバムをお預けして
1年近くかかって描きあげていただいた
”大作”。

ヤマナカさんも、それぞれ1匹ないしは
2~3匹は同時に書いたことがあるけれど
こんなに沢山の子たちを1枚に描くのは初めて、と
おっしゃっていらした。


お気づきのように、マルチーズのコロちゃん以外は

いわゆる”普通”の犬と猫たち。

今のペットブームで飼われている
20万~もするペットたちでは、ない。

ほとんど、出身地は公園あるいは家の周り。


家に来る経緯は大体、こんなふう。


まず、母と目が合う。

すると母が気になりだし、
次の日くらいには、名前をつける。

何日かすると、私の知らない間に
家の住人になっている・・・

といった具合。


絵の中のお耳のたった白い犬”ユキ”などは
目があった後、

しばらくして、わざわざ
保健所に調べに行って、
お迎えにいって家に連れてきた。

そして、その連れてきた ”ユキ”は
なんと、身ごもっていたのだ


2週間もしないうちに、
とうとう、ベランダで産気づいた。

最初の2匹くらいは、
獣医さんが来て、とりあげてくださったが

”まだ、沢山おなかの中にいますねえ。
私は、忙しいので・・・。”

と言って、病院に帰ってしまった。


実は ”ユキ”のお腹の中には
9匹も赤ちゃんがいて、

残りの7匹は、気丈な姉が取り上げ、
へその緒を切り、体を拭く・・・

というお産婆さん的作業を一人でこなしたのだった。


(・・・ちなみに、私は
そういうの、ダメ。 フナの解剖も出来ない。


かくして、当時
家には猫が4匹、犬が1匹、子犬が9匹という状態。

家族で手分けをして
子犬1匹、1匹にスポイトでミルクを飲ませて

里子に出せるまで3ヶ月間、育て上げた。

そのうちの、1匹が、絵の中央にいる茶色の犬
”チャーちゃん”だ。













動物はただ、可愛いだけでは、ない。

年をとってくると、

人間と同様の病気もする。


糖尿病のココちゃんには毎朝決まった時間に
注射をして、20歳以上も生きた。

肝臓病や、心臓肥大、てんかん、癌・・・。

母が丁寧に飼うので
それぞれが、大往生した。


動物保護管理協会から母には
沢山の表彰状が贈られた。





全てのわんにゃんが天国に行った後、
母も天国へ行った。

天国の入り口では

わんにゃんたちがとっても嬉しそうに
母を出迎えていたのが

目に浮かぶ。








軽井沢など別荘地には
捨て犬や猫が多いという。

流行の犬が、ファッションとして
飼われていて
飽きると捨てられると、いう。


今でも、1匹1匹の顔を思い出すと
涙がこぼれそうになる私からすると

そう簡単にペットを手放す人の気持ちが
まったく分からない。


気持ちをこめて、

大切な友達が

天国に行くその日まで、

一緒に過ごしてあげようね







ひとりの人が、出来ること

2007年07月21日 | memory
ひとりの人が、出来ること



昨日、ホテルオークラにあふれるほどの
人の列が出来た。

平安の間に入るまでに6列に並び、
その列が、階段をどんどん上がり、階上まで続く・・・。


4日に亡くなった飯田深雪先生のお別れの会だ。








私は、その行列の中で静かに思った。

”ひとりの人が、
こんなに沢山の人の心に生きているなんて・・・。”


当然、
飯田深雪先生は、103歳でお亡くなりになったのだから
私の母のように、
先生に教わった生徒であっても
先立っている人も大勢いるわけで、ある。


”ひとりの人がこの世で出来ること・・・”

止まらない人の流れの中で
飯田深雪先生のエネルギーの大きさをただ、感じていた。

殆どの方が、
私の母よりも年上に見受けられる年代の女性・・・

戦後の貧しい時代に
飯田先生が送り込んだエレガンスとロマンは

どれだけ多くの日本人女性に夢と希望を与え
世界のトップレベルの教養を身につけるきっかけを与えたのだろう。

”美しきものの大切さ”
”本当の豊かさ”

・・・をアートフラワーや料理を通して
私達のハートに教えて下さった。


ホテルオークラの会場内にいる全ての人が

飯田深雪先生に教えをうけたことを
何よりも誇りに思っているようだった。







ホテルオークラは先生の大好きだったホテル



飯田深雪先生のご子息のご挨拶があった。


”・・・・母は、身の回りの世話を
してくださる方や、家族には
大変厳しく、わがままなところも、ありました・・・

・・・こんなに多くの方が慕ってくださる母も
ひと皮むけば、赤子のような人でした・・・・


・・・それでも、私は、
そんな人間らしいところのある、母が大好きでした。・・・


と述べられた。


私はその言葉を聞いて、

”愛される人”とは、そういう

ひと皮むくと、赤ちゃんみたいな

そのまんま、なところがある人なのかもしれない、と思った。


ただひたすらに、

尊敬され、言動も全くスキがなく、
誰にでも配慮があり、自分を無にしても、
相手のために尽くす・・・


いわば、人間として完成した理想を生きようと
心がけている人も多いし、
実際、そのような立派な方も沢山いらっしゃるはず。


・・・でも、

欠点があるとしても
ちょっと困ったちゃんのところがあるとしても、

なぜか多くの人に慕われる、頼られる、愛される人・・・というのは


”ひと皮むけば、赤子のような人”

なのかも、しれない。



・・・実は、私の父が、そんなタイプの人間だ。・・・・











先生は、ご自身のブループリントを
精一杯生きられた。

厳しく、強く、美しく・・・。



”ひとりの人が、出来ること。”


この世に何をするために生まれてきたのか、

それをどう表現していくのか・・・。




それは”今この時”を自分として
生きていくことで

自然と、見えてくるものなのかも、しれない。












追悼 飯田深雪先生

2007年07月06日 | memory
追悼 飯田深雪先生




今朝、新聞で、飯田深雪先生が
お亡くなりになったことを知る。

昨年夏くらいから
殆どお食事も摂られず、点滴で
お過ごしだったことんどを伺ってはいたけれど

この世から旅立たれたというと
寂しさでココロがいっぱいになり、

涙があふれる


きっと沢山の光に包まれて
多くの天使がお出迎えして

先生が手がけられたような美しい花が咲きそろう

天国への道を歩かれていらっしゃることだろう。












飯田深雪先生は、

私の最も尊敬する方。


103才でお亡くなりになられた。


私の母も飯田深雪先生のお料理教室で学んだ。

親子2代で、先生にお世話になった。



私が先生の教えを受けるようになったのは
大学3年の頃から。

大学でのサークル活動とやらが
どうも向いていなくて、

その頃の私は

飯田深雪先生のお料理教室や国際教養セミナー、

裏千家の櫻井宗養先生(元家元 千 玄室先生のお姉様)、

・・・と一流の方々のお稽古に励んでいた。


今、高い立場の方々にお会いしたりする機会があっても
どんな立場の方々とお食事する機会があっても
おそらく堂々としていられる自信があるのは、

この頃にしっかりと、飯田深雪先生の教えを受けたからに他ならない。

飯田深雪先生のお教室に通うことを
後押ししてくれた、母と
高いお月謝を出してくれた、父に、感謝している。



飯田深雪先生のお料理やマナー教室では
当時、おそらく最年少だったように、記憶する。

親子2代で先生に教えを受ける・・ということや
イギリスの私の母校を先生が訪れたことがあったということや
先生のご子息と父が同窓で友人であることなどから

先生はとても私を可愛がってくださった。



”可愛がる”といっても

飯田深雪先生はとても厳しい方でもあったので
やみくもに笑顔をふりまいたり
特別扱いをする、ということではない。
















今、103歳でいらっしゃったので
私が生徒だった頃でもすでに、85歳前後くらいでいらした。

90歳になられても
お教室で、メレンゲを泡立てたり
生クリームを泡立てたり

(この作業がいかに大変なことであるかは
 お菓子作りがお好きな方ならお分かりになるだろう)


Teaの授業では、自らが
全員にお紅茶をついだりしていらした。



先生のお心が一番伝わるのが、”お手紙”だった。


先生は暑中お見舞いのお手紙を書いても
必ず、直筆で、即日、お返事を下さる。


そして、
私が離婚して一人で子育てをしていく報告のお手紙をお出した時、


なんと、速達で

10枚くらいにもなる
長い長い、お心のこもったお手紙を送ってくださったのだ。



おそらく、家族以外の誰かにこの話が伝わって、

誰より早く、一番のりで

励ましてくださったのが、飯田深雪先生だった。








飯田深雪先生。


沢山の教えと愛を、ありがとうございました。


先生の高い高い魂と出会たこと・・・

それは、


私の、一生の財産。