浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「○○らしい○○」

2016-03-10 20:14:23 | 読書
 昨日、『世界』4月号、『Journalism』3月号、そして単行本2冊が送られてきた。そして今日は『週刊金曜日』。

 昨日から『世界』を読んでいるが、なかなかよい内容が多いので紹介しようと思っていた。思っていたというのは、今夜夕食後にふと『Journalism』を手に取ったら、そこに稲垣えみ子さんの文が目にとまった。稲垣えみ子さんは、もと朝日新聞記者。報道ステーションに一度出演されていた。そのときのコメントや風采が気に入った。ユニークだったのだ。

 ボクは「○○らしい○○」というのは好きではない。たとえば「先生らしい先生」。自分のことを「先生はね・・・」と語る教員。ボクは羽目を外した生き方をする人が好き。体制にすっぽりと埋もれてしまっているような人、また上ばかりみている人は嫌い。面白くないからだ。
 面白い人生を生きている人、いろいろなことにぶち当たって苦しんだり、泣いたり、大笑いしたり・・・自由に生き生きと生きている人が好きだ。そういう人と会うと、嬉しくてたまらない。

 稲垣えみ子という人を見た時、ボクの嗅覚は、ふむこれは変わり者の記者だ、と思った。「○○らしくない○○」。稲垣さんが朝日を退社する時のコラムを読んだ。

  http://www.asahi.com/articles/ASH975CJLH97ULZU00B.html

 いい文章だった。稲垣さんのコラムをいくつか読んだ。情がこもっていた。人間が、人間のことを書いていた。苦しみ、悩み、悲しみ、笑う、そういう人間の姿が記されていた。

 そして今日、『Journalism』で、「怒りも悩みも個人の言葉もみえない それでもマスコミで働きたいですか」という文に接した。これもとてもいい文章だ。居丈高に、上から目線で文を展開していくのではなく、ひとりの人間としての自分の目線で、思ったことを、経験したことを綴っていく。難しいことを書いているのではない、鋭い主張をするのではない、でも説得力があり、訴える力がある。こういう人が朝日を退社した?朝日はもったいないことをしたなあと思う。

 ここに記されている文を、『世界』の内容より先に紹介したくなった。

 稲垣さんの姿やその考えは、以下のサイトでも記されている。

http://www.geocities.co.jp/asahi_roso53/cast_26_int_inagaki.html

 稲垣さんの主張は、要するに、自分自身が心の奥底から訴えたいもの(「おもしろい!」「許せない!」)をもった文でないとダメだと言っているのだ。「絶対にこのことは何が何でも伝えなければならぬ」という、パトスが必要だと言っているのだ。

 それは、ボクが行っている歴史研究にも通じる。この研究で、何を訴えたいのか、何を明らかにしようとしたいのか、それがないとよいものにはならない。ボクは、鋭角的な問題意識を持てと、一定の人には伝えてきた。ボクが今まで研究するなかで、現代的な意義を持つものをテーマにしてきた。自治体史であっても、そうした内容を綴ってきた。

 稲垣さんの文に戻る。

 そして「慰安婦」問題を契機に、「萎縮」(ボクにはそうみえる)している朝日新聞のあり方を問題にする。「読者目線」。それは「一方的な価値観の押しつけをせぬよう両論併記を心がける。社外の識者に定期的に紙面を点検してもらい、批判に謙虚に耳を傾ける。」そうすると「記事はどんどんひっかかりのない、つるんとしたものになっていく。つるんとしていればいるほど抗議を受けることもない。」

 稲垣さんは、そしてこう続ける。「しかしですね。だったらそもそも新聞なんて発行しないのが一番だ。何も発信しなければ絶対に苦情も抗議も来ない。・・抗議を受けないってことは、いつしか大きな者、力の強い者の代弁者になってしまう可能性をはらんでいる。マスコミが先頭に立ってモノ言えぬ社会をリードすることになりかねない。」

 ボクが稲垣さんの文でもっとも共感したことは、「世の中の苦しみとつながることだ」である。「「つるん」とした情報や、声の大きさを競うような主張が氾濫する裏側で、今みんなが本当に苦しんでいることは何なのか、その根っこを見つめることだ」と稲垣さんは綴る。

 そういう「苦しみ」とつながるとき、「中立」とか「両論併記」なんて考えることはない。そしてそれがないからといって抗議され、批判されたっていいじゃないかと、ボクは思う。

 稲垣さんも、「世に言う閉塞感とはつまるところ、人間が人間であることを許さない社会なのではないだろうか。契機も社会も行き詰まる中で、全体が生き残るためには個はどこまでも後回しにされ、誰もがおいていかれないよう、切り捨てられないようビクビクしながら生きている。今求められているのは「立派な見解」でも「正しい意見」でもない、ふつうの弱い人間同士が共感し励まし合える場なのではないか」と書く。

 そして、「耳を貸さぬ人を説得する言葉を必死で紡ぎ続けられるか」、権力の背後にいる「国民に「違う」と叫ぶことができるか」、「これからは、ものを言う人間はどんどんキツくなる。」

 「どんなに批判されても、給料が出なくなっても、自分たちがお金を出し合って印刷することになっても言わなきゃいけないことを持ち続けることができるか」。

 稲垣さんのことばは、厳しい。しかし、メディアの世界に入ることは、そうした決意が、本当は必要なのだ。

 Mくん、君には、「言わなきゃいけないこと」があるか?

 「言わなきゃいけないこと」は、鋭い感受性と、問題を問題として認識できる知性が必要だ。ぜひそれを鍛えて欲しい。

 今月号の『Journalism』の特集は、「若者よ、ジャーナリストを目指せ!」である。


 
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福島はまだまだ汚染されている

2016-03-10 09:29:44 | 政治
 こういう記事を読むと、絶望的になる。福島の学校における高汚染の実態。福島県民は怒りなさい!!!自由民権期の三島通庸の暴虐にこうして闘った歴史を是非思い出して欲しい。いや近世における百姓一揆の伝統もある。


http://lite-ra.com/2016/03/post-2046.html
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広島県での中学生自殺

2016-03-10 09:12:25 | 社会
 まず驚いたことは、中学校一年生からの触法行為により、進学への「推薦」をしないという「内規」があったことである。子どもはいつまでも触法行為を続けるわけではない。一時的にそういう行為におよぶことがあっても、その子どもの未来のために、進学に際しての「不利」を与えるべきではないということである。

 そしてその内規は、校長が変更したとのこと。学校でも、経営的な手法トップダウンの仕組みが文科省・教育委員会の後押しですすめられ、教職員の声が学校経営に反映されなくなって久しい。職員会議は形骸化し、教職員間の議論もなくなっているという。事なかれ主義がはびこり、立身出世競争に血道を上げる職場と化しているようだ。同時に教職員はきわめて多忙な日々を送っている。

 今回の場合も、当該生徒ととの「面談」は廊下で行われたという。廊下での立ち話を、ふつう「面談」とはいえない。子どもの将来にとって重要な話が、廊下での立ち話で行われたということに驚くと同時に、教員の多忙かが進んでいることを思う。

 今回の事件は、いろいろな分野で起きている事件の一環であると思う。

 正規職員の減少と非正規職員の増加、それによりただでさえ忙しいのに正規職員の多忙化はすすむ。トップダウンの、民間企業の経営をまねる経営の仕方。新自由主義とそれに伴う民間企業の経営が公的な組織にも取り入れられ、民主的な手続きが消えているという現実。

 こうした「変化」が、大きな事件を日常の狭間から噴出する。

 問われてるのは、日本に於ける各レベルでの民主主義の問題である。


付記 この事件で、担任であった女性教師に激しい攻撃が行われているようだ。しかしそれでは問題の解決にならない。普通、推薦書や内申書には子どもにとって不都合なことは書かない。そうしたことを可能とするシステムをつくった学校全体の責任であり、もとよりそうした事態の最高の責任は学校長にある。

 学校長によるトップダウンの学校運営をシステムとして導入しているのであるから、当然学校長にすべての最終的な責任がおわされなければならない。そのために学校長は管理職手当が支給されているのだ。

 

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統制下の裁判所

2016-03-10 08:59:12 | 政治
 政府の方針に逆らう判決が、ときに出される時がある。すると、最高裁はすぐに報復人事をやる。おそらく今度の高浜原発稼動差し止めの仮処分決定をした山本善彦裁判官も左遷されるだろう。

 残念ながら、教科書では日本の政治制度は三権分立をうたっているが、実際は行政権優位で、行政権が立法権、司法権を支配している。

 良心的な判決を書いた裁判官の左遷は、以下のサイトにその例が記載されている。

http://gendai.ismedia.jp/articles/premium01/43093

 明日で東日本大震災5年となる。その際に起きた福島原発事故。政府や東電は、何ごともなかったようにしたいという意向が強いし、実際そうした行動を展開している。

 しかし、甲状腺に異常がみつかる人が多く、震災前の居住地から離れざるを得なかった人びと、それが契機で家庭が崩壊した人など、原発事故により多くの人が被害を受け、その被害者に対して誰も責任を取らず、したがって原発をなくしていくという政策も行われない。

 当たり前のことだが、原発は停止すべきであり、もう原発はいらない、そういう方向に動いていくことが「正義」である。
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