今月号の『現代思想』の特集は、「科学者」、副題は「科学技術のポリティカルエコノミー」である。
小保方氏に関わるSTAP細胞騒動に関わっての特集である。
この中で、野家啓一氏の「既視感の行方」は、この問題がはらむまさに政治的経済的背景が記されている。
まず研究不正はしばしば起きていることを示す。画像の切り貼り、実験条件が異なる画像の使い回し、実験ノートの不備など、今回の小保方騒動と同じような例を野家氏はみている。
野家氏は「職業倫理」に言及するのだが、それが現在では顧慮されていない現実を示していく。研究費を入手しやすい研究テーマへの集中、「共著論文」により「責任をとれる著者」が見えなくなる(共著者の多さは、歴史研究の立場から見ると驚きである)こと、そしてカネと欲に論を進める。
ボクの学生時代は、「産学協同」という路線に反対の姿勢を示していたが、今や「産学協同」は当たり前。それだけではなく、大学や研究機関が特許を持ち、起業して金儲けができるようになった。「アカデミック・キャピタリズム」というそうだ。大学の学問研究は、金儲けの手段になっているわけだ。
さらに国立大学が法人化され、「規制緩和」もすすみ、大学運営交付金が削減されると共に、どこからかカネを調達することが当たり前となり、大学は企業経営のアナロジーで捉えられるようになった。
そしてそのしわ寄せを最も受けているのが、若手研究者。非正規雇用、任期制などにより若手研究者の雇用が著しく不安定化しているというのだ。安定化させるためには、業績づくり、研究の評価獲得に邁進する。短期的成果が出る、社会的インパクトがある研究テーマにいきおい入り込んでいかざるをえない。
「研究不正に手を染めた若手研究者は、現行の研究評価システムに押し潰された犠牲者にほかならない」ということばは、重要だと思う。
いずれにしても、新自由主義の思考が学問研究の世界をも席巻し、そこで生きる人々の安定を奪っていると言えよう。
小保方騒動をそれだけでみるのではなく、客観的に、構造的に考えることが必要なのである。
小保方氏に関わるSTAP細胞騒動に関わっての特集である。
この中で、野家啓一氏の「既視感の行方」は、この問題がはらむまさに政治的経済的背景が記されている。
まず研究不正はしばしば起きていることを示す。画像の切り貼り、実験条件が異なる画像の使い回し、実験ノートの不備など、今回の小保方騒動と同じような例を野家氏はみている。
野家氏は「職業倫理」に言及するのだが、それが現在では顧慮されていない現実を示していく。研究費を入手しやすい研究テーマへの集中、「共著論文」により「責任をとれる著者」が見えなくなる(共著者の多さは、歴史研究の立場から見ると驚きである)こと、そしてカネと欲に論を進める。
ボクの学生時代は、「産学協同」という路線に反対の姿勢を示していたが、今や「産学協同」は当たり前。それだけではなく、大学や研究機関が特許を持ち、起業して金儲けができるようになった。「アカデミック・キャピタリズム」というそうだ。大学の学問研究は、金儲けの手段になっているわけだ。
さらに国立大学が法人化され、「規制緩和」もすすみ、大学運営交付金が削減されると共に、どこからかカネを調達することが当たり前となり、大学は企業経営のアナロジーで捉えられるようになった。
そしてそのしわ寄せを最も受けているのが、若手研究者。非正規雇用、任期制などにより若手研究者の雇用が著しく不安定化しているというのだ。安定化させるためには、業績づくり、研究の評価獲得に邁進する。短期的成果が出る、社会的インパクトがある研究テーマにいきおい入り込んでいかざるをえない。
「研究不正に手を染めた若手研究者は、現行の研究評価システムに押し潰された犠牲者にほかならない」ということばは、重要だと思う。
いずれにしても、新自由主義の思考が学問研究の世界をも席巻し、そこで生きる人々の安定を奪っていると言えよう。
小保方騒動をそれだけでみるのではなく、客観的に、構造的に考えることが必要なのである。


