浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

市井の人びと

2013-01-31 22:54:42 | 日記
 家人が奥田英朗の『噂の女』を借りてきてくれた。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を図書館から借りられるように手続きをしているのだが、まだこないので、これを読み始めた。

 最近は小説をたくさん読んでいる。その関係で他の種類の本を読むスピードがどっと落ちている。

 奥田の小説は面白い。彼は市井の人びとがどんな思考をしているのかがよくわかっている。「噂の女」という一人の女性をめぐってのいろいろなストーリーが展開されるのであるが、そこに確実にあるものは、市井の人びとの感覚であり、思考であり、行動である。それが見事に浮き彫りにされているのだ。

 奥田もなかなかの才能である。『ララピポ』と通じるものがある。

 今日、岩波新書の『トラウマ』を買ってきた。これも読まなければならない。今月の岩波新書は、あと『百年の手紙』を買うつもりでいる。ひょっとして、『信長の城』、『出雲と大和』も買うかもしれない。今月、岩波書店は10冊も発刊した。
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【本】奥田英朗『ララピポ』

2013-01-31 09:12:49 | 日記
 新聞の書評に奥田英朗の『噂の女』があった。それをみて読みたいなと思った。こういう小説は一度読むだけだから図書館から借りようと思って調べてみたら、140人がついている。浜松市図書館では11冊買っている。にもかかわらず140人だ。

 このことを家人に話したところ、奥田の『ララピポ』という本ならあるという。文庫本だ。読み始めた。

 ここには市井に生きる雑多な人びとの姿が「活写」されている。高学歴のさえないフリーライター、スカウトマンの若者、倦怠期を迎えた主婦、カラオケボックス店員、ポルノ小説作家、太ったぱっとしない女、彼らがフツーに生きている。もちろん登場人物は彼らだけではない。女子高校生や郵便局員、ホームレスなどもでてくる。

 彼らにほぼ共通するのは、これまたセックスだ。登場人物は、ただひたすら日常を生きている。生きるためにカネを稼ぐ、別にそこに喜びや意義を感じているわけではない。ただ生きるために、ただ働いている。

 そういう日常にとっての「花」は、セックスしかないようだ。そういうものに、登場人物は集まり、まったく無関係に生きている彼らが、セックスを通じて関わり合う。

 これらの登場人物も社会の真実の姿なのだろうと思う。時代が閉塞しているという思いを強くする。

 本来人間は、みずからの行動や人生に意義を見出そうとする動物だと、そういう本を読んだことがある。あるいは、ナチスの収容所で、無意味に穴掘りをさせられ、そしてそれを埋め戻すことを命じられ、そしてまた掘ることを命じられ・・・こういうことを繰り返させられた人間が狂気に襲われたことも思い出された。

 人間にとって、生きる意味、何かに付随する意義は、必要なのだ。

 しかし今の時代、生きていくためには、人生の意味なんか考えていられないのだ。一時的、部分的な仕事を転々とさせられ、将来を展望できない刹那的な生を強いられている。とにかくただ生きる。

 「泣いても笑っても、どの道人生は続いていくのだ。明日も、あさっても」(325頁)

 「みんな、しあわせなのだろうか。」(325頁)

 そういう刹那的な、一時的なセックスでしか、生きている感覚を確かめられない人びと。

 「ララピポ」は、A lot of people。市井の人びとという意味だ。

 今日の新聞の一面。昨日衆議院の代表質問への答弁で、安倍首相が改憲を明言したそうだ。いつだったか、どこかの「食堂」でテレビをみていたら、自衛隊を国防軍にするべきだと、評論家と言われる人やタレントが大きな声で叫んでいた。

 このようなことを叫んでいる人びとは、絶対に戦場にはいかない。戦場に行くのは、市井の人びとであり、家族を亡くして悲しむのも市井の人びとだ。そういう歴史を、近代日本は刻んできた。

 刹那的な生を生きているララピポの人生の先に何が待っているのか、ララピポは生きるのに、あるいは一時的な喜びに身を任すのに精一杯で、知らないし、見ようともしない。余裕がないのだから仕方がない。それがララピポの普遍的な生き方ともいえるのかもしれない。

 歴史は繰り返す。マルクスも、「歴史は二度繰り返す。最初は悲劇として、二度目は喜劇として」と書く。「喜劇」だと笑っていられるならいい。だが、喜劇は一瞬に悲劇となることもある。
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【本】村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』

2013-01-30 21:54:53 | 日記
 さあさあ、お入りなさい。ここは村上ワールドですよ。この世界に入ってきたら、とにかく、ダンス、ダンス、ダンスですよ。いや疑問を持ってはいけません。ただダンス・ダンス・ダンスなのです。

 ○○さんも、□□さんも、入っていった。ボクもその後をそっとついていった。二人とも、入るとすぐにダンス・ダンス・ダンス。だけどボクは、ダンスなんかできなかった。少し冷めた眼で辺りを見つめた。そして最初から最後まで、ダンス・ダンス・ダンスのなかを見て回った。

 その世界は、確かに魅力的だった。最初から最後まで、とにかくダンスからダンスへのつながりがどうなっていくのか、推理小説を読むように、ボクはダンスの軌跡を追った。

 だがボクは、ダンスから次のダンスへとのつなぎ目のところで、おやっと思ってしまうのだ。ハワイでのダンスに、キキというダンスが入ってきた。なぜハワイ?

 またこのダンスのさなかに、メイというダンスが亡くなり、ジューンというダンスが消え、さらにキキというダンスが亡くなっていることが判明し、さらに五反田というダンスも亡くなってしまう。

 そしてなぜか、ダンス・ダンス・ダンスが始まる前に亡くなっていた鼠までもが、このダンスのさなかに亡くなったものと一緒に数えられてしまうのだ。

 ダンス・ダンス・ダンスが始まる前と始まった後とをつなぐのは、羊男、キキ、そして主人公である「僕」だ。だが、このダンス・ダンス・ダンスのなかでそれらはつながっているのだろうか。羊男は一度しかダンスに出てこないし、キキもすでに亡くなっていたのに、ハワイでなぜか出てくるし・・・キキは確かに鼠が生きているときにどこかへ消えてしまった(だからといって亡くなってはいなかった)のだが、だけど「僕」が映画でキキと五反田が「共演」している映画を見た時には、実際キキは亡くなっていた。だとすると、ダンス・ダンス・ダンスの以前と以後とを結ぶのは、「僕」と羊男だけど、羊男はこのダンスの中では、脇役中の脇役で、ドルフィンホテルのなかに時空を異にしたいるかホテルに迷い込む時にのみ出てくる。

 つまり現実と時空を異にするいるかホテルの存在に気がついた3人、「僕」とユミヨシ、そしてユキ、それらをつなぐためにいるかホテル(羊男)があった。ユミヨシはそこに迷い込んだことをドルフィンホテルの上司に話したところ、他言するなといわれている、とするなら、その上司も時空を異にしたいるかホテルの存在に気がついていたのか。

 そして最後、ドルフィンホテルにユミヨシに会いに行った「僕」は、現実と異なる時空への往復を空想する(体験する?)。

 ダンス・ダンス・ダンス以前と以後とはきちんとつながっていないと思う。

 そしてここにも、村上のテーゼ。現実を実感するものとして、あるいは存在を確認するものとして、さらには「とどまる」証しとしての、セックスがある。

 村上ワールドに引き込まれた人たちは、疑問もなくダンス・ダンス・ダンス。だが、ボクは、ダンス・ダンス・ダンスには疑問符をつける。

 若い頃、前衛劇をみたことがある。二人の人物が会話している。

 一人は虫めがねで何かを探している。おそらく虫めがねで探さなければならないほどだから、よほど小さなものだろう。

 「おい、何を探しているんだ」

 「困った、困った。僕は地球を売ってしまったのだ」

 「誰に?」

 「だからさ、地球を買ってくれた人を探しているんだ」

 こういう舞台を見ると、ボクたちはそこに何らかの意味があるのではないかと思って、考えようとする。何かの暗喩?それとも何かをシンボライズしているのか、などと・・・

 だが、その戯曲を書いた人はそんなこと何も考えてはいなかった。とにかく、観客を喜ばせること、笑わせることを思いながら、書いていた。

 村上の作品も、そういう側面があるのではないか。ストーリーは、推理小説を読むように、引き込まれてしまう。そして何かわからないようなところがあると、なぜか人はそこに意味を考えようとしてしまうのだ。でもひょっとしたら意味なんか何もないかもしれない。そんな意味なんか考えずに、ただ楽しめ。つまり、この小説を読みながら、さあ村上ワールドで、ダンス・ダンス・ダンス!!

 それでよいのではないか。
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2013-01-30 11:34:31 | 日記
 書くということは、なかなかたいへんなことだ。こうしてブログを書くことも、一定の時間が必要だ。その時間を確保しなければならない。また書くためにはテクニックが求められる。そのなかには、初歩的な文法がある。句読点の打ち方や、形容詞の置き方など。また表現するためのことば、すなわち語彙をあるていど知識としてもっていなければならない。さらに読む人びとへの優しさもなければならない。読む人に理解できるように書くことだ。人を見て法を説けということばがあるが、やはり書く場合は、どういう人が読むのかを想定しなければならない。

 以上のことを前提にして、ボクはもっとも必要だと思うことは、何を書くかということだ。書かなければならないことを書く。伝えなければならないことを書く。そういう意思が強ければ強いほど、文は力をもつ。

 そのためには、まず鮮烈な問題意識をもつことだ。問題意識は、問題を抉る刃先だ。鋭利な刃先でなければそれによって料理されるもの、つまり調べられ、検討され、書かれる内容は、たいしたものであるわけがない。

 そしてあとは、カネと時間である。カネと時間をかけなければよいものは生まれない。投入すればするほど良いものとなる。

 さて偉そうなことをまず記したが、ボクの調査の方法を以下に紹介したい。

 最近、戦時下の朝鮮半島からの強制的な労務動員について、あまりたいしたことはなかったなどという言説がはびこっている。あるいは、それを否定することに躍起になっている人もいる。だが、いくら騒いでも、歴史の真実は消えない。

 ボクが静岡県史で担当した中に、朝鮮人・中国人のいわゆる強制連行の問題があった。ここでは朝鮮人の労務動員について記す。

 内務省や厚生省の資料から、静岡県内にも多くの朝鮮人が動員されたことは否定できない。どこの事業所にどれくらいの朝鮮人が動員されてきたかはすぐにまとめることができる。でもボクは、そのような資料を並べるだけの記述はやめようと思った。実際に静岡県に動員されてきた人の体験を載せようと思った。

 ボクは釜山フリー3日間のツアーに申し込んで渡韓した。そのツアーはボク一人であった。半日だけの釜山ツアーに韓国人の女性がつき、案内してくれた。それが終わった時、ボクは彼女に今からボクがしゃべることをハングルで書いてほしいと頼んだ。その内容は、「ボクは歴史の研究をしています。戦時中に静岡県に強制動員された韓国人を捜しています。協力してください」であった。

 そしてそれをもって釜山市庁に行った。いろいろな人が対応してくれた。しかし、結局今回は対応できないということだった。ボクは、残された二日間、梵魚寺を訪れたり、倭城(秀吉の朝鮮侵略時に建設された城)に行ったりした。

 帰国した翌日、韓国から電話があった。イムホンニョンさんからだ。釜山の観光協会の人だ。次にいつ韓国に来るかという問い合わせだった。ボクは、2月下旬に行くというと、そのときに調査に協力するということだった。

 2月28日、釜山に行き、ホテルのロビーでイムさんにあった。3月1日は、韓国では独立運動の日、祝日だ。ちょうど良い時に来たといわれた。

 3月1日、ホテルのロビーで待っているとイムさんが入っていた。さあ行こうというのだ。ホテルの前にはパトカーが待っていた。これに乗っていくというのだ。

 3月1日は、老人たちが各地域の集会所に集まる、だからそこで聞いてみよう、ということだった。集会所に行く、すると、パトカーの警察官が老人たちに低く低く頭を下げて、事情を説明する。ボクは韓国での、老人への敬意の表し方を知った。そしてボクの日本語を、イムさんが通訳してくれる。このようにしていくつかの集会所をめぐった。

 ある集会所に行った。そのなかに、確か自分が行ったところは静岡県だったという老人に出あった。全さんだ。ボクは、そこでどんな仕事をしましたかと尋ねた。全さんは、「ドン」と言った。イムさんは「銅を掘った」と通訳してくれた。静岡県で銅を掘るといったら、佐久間町の久根銅山か、龍山村の峰の沢銅山しかない。そこでボクはさらに尋ねた。

 坑口は高いところにありましたか、それとも川のすぐ上にありましたか、と。全さんは高いところにあった。坑口からは川がはるか下に見えたと言った。これで確定だ。峰の沢鉱山である。

 その後、ボクは全さんからいろいろなことを聞いた。面事務所から日本に働きに行けと言われたこと。当時は拒否はできなかった。日本の警察官は強い権限を持っていた。

 どこに行くかはまったく知らされなかったこと、全さんは日本語が出来たのでグループのリーダーにされたこと、仕事はなかなかたいへんだったこと、鉱山では朝鮮人が何度も何度も日本人に殴られるところを見たこと、鉱山が火事になって採鉱ができなくなったので運よく帰ることができたこと、帰還してからは一度も日本人にあったことはないことなどであった。

 日本でいちばん強く思ったことは、なぜ日本人はやたらに暴力をふるうのかということだったと、これは全さんがまっ先に話したことだ。

 ボクは、韓国での調査結果をもって帰国した。そして県史に、その一部を書いた。

 書くテーマは決まっていた。問題は何を書くかである。このような現地調査をし、国籍を超えた多くの人々の協力を得ることによって調査されたことについて、書かなければならない、伝えなければならないという意思は、より強固になる。それにこの旅費などは、もちろん自腹である。

 カネと時間をかけたこと、多くの人々とのつながりのなかで調査できたこと、これはボクが短い原稿を書くことだけではなく、ボクのかけがえのない、見えないけれども大きな財産となっている。

 他の自治体史では、せいぜい朝鮮半島からどこに動員されてきたかくらいしか記述がない。しかし静岡県史には、実際に動員された体験が記されている。

 全体から見れば、書いた字数は、まったく微々たるものだ。しかし、ボクが書いた文の行間には、韓国での多くの出会いが凝縮されている。

 表現される文それ自体の量はとるに足らないものでも、その背後には大きく広がる世界がある、そういう文でありたい。

 力がある文、というのは、背後に広大な世界を抱えているのだと思う。
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リンゴ

2013-01-29 09:59:53 | 日記
 今日、長野県中川村からリンゴが届いた。中川村の富永農園がつくったリンゴだ。驚いた。箱を開いたら、籾殻が詰まっていた。籾殻の中にリンゴが顔を出していた。

 最近のリンゴは、箱を開けると、リンゴを並べられる紙製のつくりものにきれいにならべられているのがふつうだ。ボクが歴史的事実を調査して協力しているおばあさんから、山形のリンゴを箱でいただいたけど、それにも籾殻はなかった。

 でも昔は、リンゴは木製の箱に籾殻が詰められ、そのなかにリンゴがあった。

 さっそくリンゴを食べた。とてもおいしいかった。10㌔送料込みで3500円、品種はふじである。贈答用ではない「自家用ふじ」である。

 以前、富永農園から玄米も購入したことがある。良心的な農家である。

http://nagano-kudamono.com/

 なぜ富永農園か。それは富永農園が中川村にあるからだ。中川村の村長さんは、なかなか良い仕事をしている。良い仕事をしている村長さんを擁している中川村を支えなければならないと思ったからだ。

http://www.vill.nakagawa.nagano.jp/index.php?f=hp&ci=10685

 中川村は天竜川の上流にある。中川村にも天竜川は流れている。ボクの地元中野町にも天竜川は流れている。天竜川はふるさとの川だ。どこからか帰ってくる時、天竜川をみると「ああ帰ってきたなあ」と思う。幼い時から、天竜川で遊びながら育ってきたから、天竜川には特別の思い入れがある。

 天竜川の対岸に、豊岡村があった。今は磐田市に合併してしまったが、そこでボクは徴兵書類や兵事関係の書類を発見した。そのことは『朝日新聞』の全国版でも報道された。戦争末期、日本軍部は戦争責任を免れようと、全国各地にあった戦争関係の書類の焼却を命じた。全国各地で、書類を焼く煙が長い間立ち上っていた。しかし、戦争関係の書類を燃やさなかった町村がいくつかあった。富山県でひとつ、そして中川村、さらに豊岡村だ。

 そういう縁も感じた。

 こうして中川村のリンゴ農家からリンゴなどを購入できるのも、インターネットがあるからだ。中山間地域には、こうした農産物がある。農産物を全国各地に販売するためには、インターネットは重要な手段になる。昨日も、市の担当者に中山間地においてインターネットのインフラ整備は必須であることを指摘した。当局ももちろんそういう認識をもっていた。

 どこに住んでいても、普通の生活を営むことが出来るようにすることが政治だと思う。大都市ばかりに注目が集まるのは、どこか歪んでいる。そういう歪みは、正さなければならない。

 中山間地から農産物を購入するのも、その一環である。

 そういえば、お茶は大井川上流の川根茶を通販で購入している。

 
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スピーカー

2013-01-28 23:20:37 | 日記
 イヤホンで音楽を聴きながら原稿を書いていたら、家人から「話しかけても返事がない!」と怒られたので、スピーカーを購入した。2階のボクの部屋にはパソコン用のスピーカーがあるが、部屋が寒いので、最近はずっとリビングで仕事をしたり本を読んだりしている。

 アマゾンでの評判をみながら注文したのが、クリエイティヴ2.1チャンネルステレオアクティヴPCスピーカーSP-SBS-A120である。1800円である。

 これをパソコンにセットして、ベートーベンのピアノ協奏曲第五番皇帝を聴いている。アマゾンでの評判通り、なかなかいい音だ。

 1800円という価格でこれくらいの音質なら損はないと思う。

 村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を借りてきた。なかなか厚い。しかし村上春樹ファンは、ボクのように彼の作品をこれほど読んでいるのだろうか。

 Yさんからは、『ねじまき鳥クロニクル』が良いと言われている。そこまでいくのはなかなかたいへんだ。Yさん、そしてHさん、あなたたち、全部読んだの?と聞きたくなる。

 明日から、音楽を聴きながら読み始めよう。今度はどんな世界が見せられるか、ある種の楽しみと共に、ああたいへんだという気持ちもある。

 
 
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過疎

2013-01-28 20:55:47 | 日記
 これからの人口予想を調べてみたら、もうすでに日本の人口は急激に減りつつあるとのこと。2004年12月にピークであった人口(1億1784万人)は、2050年には約9500万人となり、2100年には5000万人前後となるようだ。

 こういう状態では、日本はもう右肩上がりの発展は無理だ。ずっと以前から、少子化対策を進めなければといいながら、何もしていない。若い人の収入が増えず、結婚も出来ない状況を作り出していても、為政者は平気でいるのだから、未来は暗いとしか言いようがない。

 となると、地方はどうなるか。日本の居住地域の6割以上のところで、2050年には人口が半減するという。となると、現在過疎地域、あるいは中山間地域と呼ばれるところはほとんど人が住まない地域になるだろう。人が住まなければ、中山間地域は荒れるしかない。中山間地域、すなわち河川の上流部が荒れるとなると、下流部も海も荒れる。

 今日、浜松市の過疎対策について、市の担当者から話をきいた。高齢化率70パーセントを超える集落が、旧水窪町、旧佐久間町、旧春野町、旧龍山村に多い。過疎の現状を何とかしたいと、あちこちで地域づくりの動きが始まっているが、浜松市内の当該地域では、いまだ取り組みがないようだ。

 行政がまず動いて、というよりも、地域おこしを活発化させているところは、そこに住む人びとが自主的に動き始める。

 いずれは住民の数が激減していくだろうが、いま住んでいる人びとが誇りを持って、安全安心の中で生きていけるようにすること、そして出来うる限りそこで収入を得ることが出来るようにすること、そういう方策を探る必要がある。

 浜松市におけるこの問題を追究していきたいと思う。
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2013-01-28 00:30:28 | 日記
 送られてきた文を、家人の前で読み上げていた。

 「最近、良い文が送られてくるんだ」と言って、メールを開けてすぐに読み始めた。

 ところが、あるところにさしかかったとき、ボクは不意に落涙してしまった。ボクは、涙もろいたちだ。でも、今までボクは、落涙するかもしれないと予想することができたから、その心構えを持ちつつ落涙していた。だが今回は、できなかった。それは不意にきた。

 おそらくそれは、ボクも同じような体験をしていたからだろう。

 ボクは、子どもの頃、決して「よい子」ではなかった。今体罰が問題となっているが、ボクは様々な体罰を受けて育ってきた。スリッパでの往復ビンタ、運動場100周のランニング、職員室に座らせられて、頭を蹴られたこともあった。また、中学一年生のとき、なぜかは誰も思い出せないが、母が菓子折を持って校長に謝罪に行っている。

 だが、最終的には「グレ」ないで、通常の生活をおくることになった。それはなぜか。

 家族の力というか、家族がお互いに気遣いをもって、信頼し合い、支え合うという意思があったからだろう。その意思は、別に表現されたわけではない。心の奥底に、そういう意思が潜在していたのだろうと思う。

 送られてきた文には、たった二行ではあるが、その意思がはっきりと表わされていた。ボクと同じような状態にいた少年が、明確な意思表示をしていた。

 男というのは、そういう意思を表面にはだすことはない。おそらく彼は、その後、このことに言及することはないだろう。だがその二行の文は、端的に家族に力を与えた。

 “ことば”というのは、ほんとうに力を持つ。あるいは力を与えることができる。

 ボクは、送られてきた文に、そのことを教えられた。
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裸男

2013-01-27 10:29:19 | 日記
 針葉樹の緑も寒さに耐えるのが精一杯で、くすんだ色になっていた。落葉樹は寒風に枝をふるわせていた。道ばたの草も枯れ、生気は凍りついていた。

 山の中は、風の音だけが唸りをあげていた。ふとみると、裸の男が枯れ草の下から顔を出していた。これはたいへんだと、同乗の友人が携帯電話を出して警察に連絡を取ろうとした。ボクは男に声をかけた。

 「どうしたのですか」
 
 男は顔を上げてこちらを見て言った。「別に、ただ寝ているだけだ」

 「大丈夫ですか、車の中に入りませんか」
 「別にここでいい。俺はここにいたいからいるんだ」
 「そんなこと言わずに、そんなところにいたら死んでしまいますよ」
 「俺は死なない」

 そう答えてから裸男は、一気にしゃべり始めた。あまりの早口に、ボクはよく聞き取ることができなかった。

 「人間、生まれた時は裸・・・・・・・ずっと普通に生きてきた・・・・・・山の中に入り・・・・・自由・・・・・・生まれた時もひとり・・・・・・・・死んでいく・・・・・誰にも世話・・・・・結局・・・人間の世界は・・・・・・・」

 その饒舌に唖然としているとき、目が覚めた。裸男は消えた。

 寒さに耐えながら着替えをしてパソコンの前に座った。あるニュースが目に入った。

郵便局長会、参院選で自民回帰 民営化以来8年ぶり 2013年1月27日 02時19分

 2005年に当時の小泉純一郎首相の郵政民営化方針に反発して自民党支持から離反した「郵政」団体が、夏の参院選で8年ぶりに自民党支持に回帰する方針を固めたことが分かった。現在の全国郵便局長会(全特)で、比例代表での組織内候補の擁立も検討している。関係者が26日、明らかにした。今後の税制措置などを念頭に、与党に復帰した自民党との関係修復が必要と判断した。

 政権復帰に伴い業界団体の支持回帰が相次ぐ自民党にとって、さらに追い風となるのは確実だ。ただ組織内には、激しく対立した自民党への全面回帰に慎重論もあり、候補擁立まで踏み込まない可能性もある。


 小泉自民党・公明党が推し進めた郵政民営化は、中山間地域や過疎地域を切り捨て、郵便局で働く人たちを苦しめる悪政であった。だから私も反対したし、全国各地で小規模な郵便局を維持している全国郵便局長会も激しい反対運動を展開した。実際、郵便局が閉鎖され、中山間地域の困惑が伝えられてもいた。だが郵政民営化に反対した議員も自民党に復党し、今また郵便局長会も自民党に回帰する。問題は何も解決されていないにもかかわらず。

 そういえば裸男はこうも言っていた。「所詮人間なんて、目の前に・・・・・・利益だけをみながら生きてる・・・・」
 
 そうかもしれない。際限なくカネを求めて蠢く人間。そのために手段を選ばない人たち。そういうなかで、ボクたちはいつも試されている。




 
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『芸術新潮』2月号

2013-01-26 16:45:16 | 日記
 『芸術新潮』2月号の特集が、小林秀雄であることはすでに紹介した。冷たい風に閉ざされて戸外にでることなく、ボクはその特集を読んだ。

 小林秀雄は、かつて国語の教科書にも載せられ、また『無常といふこと』は、確か読まされた記憶がある。しかし、熱心に読んだ覚えはない。若く血気にはやる時期には、あまりフィットしない文章であったような気がする。

 ところが、この特集を読んでいると、美術や音楽、あるいは陶器など、それぞれの作品について小林が記した文を読んでいくと、何とも味わいがある文なのだ。それぞれの作品そのものが芸術であるのに、それについて記した小林の文もまた芸術なのだ。
 
 素晴らしい文章である。若い時には気がつかなかった。こういう文は、本当に書けないなあと思った。

 語彙の豊かさ、表現された文の奥に秘められた深い思索。

 もちろん、小林の思想そのものについては厳しい指摘がなされていることは知っている。だが文は、とにかく上手い。

 学ぶべきところはたくさんある。


 
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『芸術新潮』

2013-01-26 11:36:43 | 日記
 『芸術新潮』は、ボクが毎月購読している雑誌の一つだ。その2月号が今届けられた。

 昨日から、冷たい風が吹きつける。日本海を渡ってくる雪雲の断片が、遠州地方の空にも到達し、太陽の光をさえぎる。老いたボクは、外に出る元気もなく、ひたすら活字と対面し、またインターネットでいろいろな情報を集める。今日中にA4一枚の時評を書かなければならない。さて何を書くべきか。昨年末の総選挙以降、石川啄木ではないが、どうも「時代閉塞」の感を強めていて、その「閉塞」状態からの打開策を見出しかねている。しかしまだまだ諦観の境地にはなれない。

 さて『芸術新潮』の特集は、小林秀雄だ。文芸評論家ということでいいのだろうが、彼もまた日本近代の知の巨人である。この特集はさておいて、ぱらぱらと頁をめくっていたら、若き頃の小田実の写真があった。小田実は作家であると共に、活動家でもあった。

 作家としての作品で、ボクがもっとも好きなのは、『「アボジ」を踏む』だ。それ以外にも、ボクはたくさん小田実の作品、とくに評論を読んでいる。

 小田の著書のなかで読んで欲しい本はたくさんあるが、とくに若い人には、『何でも見てやろう』は、読んでほしいと思う。フルブライト奨学金でアメリカに留学した後、日本に帰るまでの無銭旅行を綴ったものだ。

 説明を忘れたが、小田実の写真は、美術史家である辻惟雄の連載、「奇想の発見 ある美術史家の回想」のなかにあった。辻と小田は同年同月生まれで、東大時代からの知り合いだったのだそうだ。60年安保の闘いにも参加したようだ。その関係で、小田についての言及がなされた。

 辻の美術史家としての業績は面白い。『奇想の系譜-又兵衛、国芳』、『奇想の図譜 からくり・若冲・かざり』(いずれもちくま学芸文庫)などは、通常の美術史にないものとなっている。辻の著作によって教えられたものは多い。

 『芸術新潮』の辻の文中、自殺したO君のことが書かれている。村上春樹の『ノルウェイの森』にも若くして自殺した人が描かれていたが、自殺や行方不明は、ボクの学生時代にもあった。人生の不可思議さは、そういう実例によっても、教えられた。

 失恋した○○君は、そのまま大学からいなくなった。今、どうしているのだろうか。生きていく途上のどこかに、『ノルウェイの森』の冒頭部分に書かれているような「野井戸」があって、時にそこにはまり消えていく、そういう人がいる。

 人生不可解!
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死にまとわりつかれた生からの脱出(【本】『ノルウェイの森』)

2013-01-25 22:33:28 | 日記
 今日、「クラシック音楽へのおさそい」に、ベートーベンの第九がアップされていた。昨日から読み始めた『ノルウェイの森』の第八章あたりから(?)、イヤホンで聴きながら読み進めた。第九はさすがにボクの読書世界のなかに入り込み、みずからの存在を示し続けていた。しかしいつのまにか、ベートーベンは読書空間に入り込むのをやめ、ボクはひたすら活字を追うようになっていった。

 この本が出版された時、ボクはこれを一度読んでいる。だが、その時、ボクの心はまったく(本当に全く!)動かされることはなかった。

 だが今回はそうではなかった。いろいろ感じるところがあった。

 この本が発売されたのは、1987年。このとき、ボクは家庭でも、職場でも忙しい日々を送っていた。小説を味わうような余裕はなかったのかもしれない。

 この小説に流れているのは、一つは生と死の問題だ。そしてもう一つは性の問題だ。

 「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という太字があった。だがこの小説の生と死の問題は一つではない。直子が抱える生と死の問題と、緑の体験した生と死の問題は、イコールではない。前者は「死にまとわりつかれた生」であり、後者では死が生のうちに潜んではいたとしても、その生は死にまとわりつかれてはいない。

 話は、キズキの自死が、直子と主人公であるワタナベの生を縛りながら展開する。そして結局、直子の生は、キズキの死にとりこまれてしまう。そして直子の自死は、ワタナベに極度の喪失感を抱かせる。

 だが、最終的に、ワタナベは、緑のもつ死にまとわりつかれていない生へと転回していく。最後の「僕は今どこにいるのだ?」ということばのなかの「どこ」は、前者から後者への転回を示すものといってよいだろう。「どこ」という場は、前者の生死の問題の終着であると同時に、後者の生死の問題の出発なのではないか。

 そしてもう一つの性の問題。これについても、二つの性がある。一時的な肉体の交わりとしての性と、人間と人間との根源的な結びつきとしての性である。

 村上の小説は、性を取り上げることが多い。その際、性は難しい問題としては扱われていない。基本的に、男女とも、それぞれのもつ性欲は自然なものとして肯定され、その意味では性は違和感なく登場人物の生活の中に入り込んでいる。ボクは、村上の作品が若い女性によく読まれる理由の一つがここにあるのではないかと思う。それが一つの理由というか、大きな理由ではないかと思う。

 そのような性が前提となり、その上に性はより高次な質を持つものとしても設定される。性欲を一時的に満足させる性ではなく、人間をつなぐ根源的なものとしての性。キズキと直子との交わらない性、ワタナベと直子との性、ワタナベと緑との未だ交わらない性、レイコとワタナベとの間の性・・・。性は、まったくの他人同士を結びつけるものとして存在する。性の問題は、決して小さな問題ではない。それが、この小説の大きなテーマになっている。

 性の問題が、二種類の生死の問題と絡み合いながら、物語は展開していく。性的な挫折が生死の問題とからみあい、その問題が饒舌に語られる。そしてその背後に、人間の孤独の問題がある。孤独者として存在する人間は他者を求める。そして他者との根源的なつながりを性が介在する。しかしキズキと直子、ワタナベと直子との間の性(20歳の誕生日の一回を除き)は、そういうものとして成り立たなかった。また永沢とハツミとの性は、永沢にとってそれは一時的なものでしかなかったが、ハツミが求めたのは根源的なつながりとしてのそれだったのだ。その齟齬が、ハツミを死に追いやった。

 この小説の主人公は学生である。ボクは、この小説を読みながら、村上が卒業した早稲田大学の界隈を思い出していた。そしてボク自身の学生時代を想起していた。学生時代は、まさに疾風怒濤の時代である。その時代、いろいろなことを考えた。だが社会に出て仕事に専念し、家庭を営むようになると、疾風怒濤の時代に考えたことはいつのまにか脳裏から去っていった。今ボクは、そういう忙しい日常の些事に覆われるような生活から離れ、時間的ゆとりをもって生きている。だからこそ、村上がこの作品に書き込んだ問題を考えることができるようになっているのだろう。それが今回、この作品を読んでいろいろ考えさせられるようになった原因ではないかと思う。

 村上は、疾風怒濤の時代に抱いたいろいろな問いを、この小説に書き込んでいるのではないか。それが今の若い人にも、考えさせるものがあるのだろう。

 村上の作品は、自己否定的ではなく、自己肯定的だ。ボクが若い頃は、「自己否定」ということばもはやった(ボクはこの自己否定をつきつめていくと自己の存在を否定しないといけなくなると思っていた。弁証法的な自己否定ならより高次の自分自身を創ることになる)が、「克己心」などということばもあった。現在の己を否定して、より高次の自分自身をつくらなければならないという焦燥感があった。

 村上の作品には、そういう人物はでてこない。基本的には自己肯定。そして自己を否定する可能性があるものは、死だけだ。その意味で自然体なのだ。難しくはない。

 村上ファンであるYさんが、村上のよさがわかったか?などと言ってきた。まだボクは、全部を読んでいないから、何とも言えないが、村上の文才は、もちろん大いに認め、賞賛する。


 
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税制「改正」

2013-01-25 11:32:31 | 日記
 以下は、今日の『中日新聞』の社説。まっとうな意見である。しかし、こうなることはわかっていた。格差を広げた自公政権が復活したのだから、富者はますます富み、貧者は貧に生きるという社会が、一面のアリバイ的な制度が導入されても、さらに推進されるのは当たり前。国民は、総選挙でそういう政治を招いた。選挙制度に問題があることは今までも指摘してきたが、それぞれの選挙区で、多くの人は自民党を選んだ。大企業のための政治、アメリカのための政治、それが強められる政治を国民の多くが求めたのだ。その結果責任は、国民が甘受するしかない。

税制改正大綱 負担の公平性に疑問だ  2013年1月25日

 自民、公明両党が二〇一三年度税制改正大綱を決めた。消費税増税での負担増を考慮し、減税項目が前面に多く並んだ。相対的に低中所得層への配慮が乏しく、不公平感が残るのが問題だ。

 やはり、と思わざるを得ない内容である。一四年四月の消費税率引き上げや、「決戦」と位置付ける今夏の参院選をにらみ、自動車取得税廃止や住宅ローン減税の拡充など減税項目が目立つ。そればかりか「道路特定財源」を復活させる方針に至ってはかつての古い自民党への回帰かと受け取られても仕方あるまい。

 道路特定財源は、自動車重量税と、ガソリンにかかる揮発油税の税収を財源に、その大半を道路整備に充てていた。しかし、「無駄な道路建設の温床」との批判から麻生政権の〇九年度に、使い道を特定しない「一般財源」に変えた経緯がある。

 政権復帰した途端に、それを「先祖返り」させ、道路の維持管理や更新に充てるのでは、地方や特定業界への利益誘導ととられ「自民党は変わっていない」と印象づけるだけである。

 自動車取得税の廃止にしても、消費税増税による販売減を懸念する自動車業界への配慮なのは明らかだ。取得税は「地方税」のため、廃止すれば税収減となる地方自治体が困ってしまう。そこで重量税を地方の道路整備などに充てる事実上の特定財源にしたわけだ。業界にも、地方にも配慮したということだ。

 なるほど経済再生を最優先に掲げるだけに、雇用や賃金を増やしたり設備投資する企業の法人税を減税する制度など、新しい工夫も見られる。今年末までの住宅ローン減税を延長・拡充するのも景気の下支えになるだろう。

 だが、消費税増税が実施されれば、負担増が重くのしかかる低所得者対策は結局あいまいなままだ。生活必需品などの税率を軽くする軽減税率は、一五年十月の税率10%引き上げ時に導入を目指すとしただけである。

 対照的に、消費税増税の不公平感を和らげるための富裕層への課税強化では、教育資金の名目で孫一人当たり千五百万円までの贈与を非課税とする「お金持ち」配慮の制度を設けた。

 税制は国民生活の重要な基盤となる。政権がどこを向き、どういう社会を目指しているのかがよく表れる。残念ながら、この大綱からは低中所得層の負担感がより増すような不公平感が漂っている。
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感動

2013-01-25 08:35:40 | 日記
 瀬戸内寂聴さんの『美は乱調にあり』、『諧調は偽りなり』は、1923年の9月、関東大震災に紛れて、憲兵隊の甘粕らに虐殺された大杉栄・伊藤野枝・橘宗一らの生き方を描いた作品だ。

 かつてボクはこの本を読んでいたく感動した。そこには、一度しかない生を、それこそ個性的に、みずからの生を拡充せんと生きようとした人びとの群像が描かれている。

 その感動は、おそらく今でも読む人に与えられるはずだ。

 ボクは、時にこの本を推薦する。今年1月、ある若人がこれを読んだという。書店にはなく、図書館で借りて読んだとのこと。大きな感動を与えられた彼は、それを手紙にかいてきた。

 大杉を始め、登場人物の個性的でかつ強烈な生き方は、とても真似は出来ない。だがそういう人生を送った人びとが、「大正時代」に存在したのだ。彼らの生は、今でも強烈な光を放つ。

 ボクは、学生時代、「青鞜社」に関する本を読んでいて伊藤野枝を知った。ボクには伊藤野枝がきわめて魅力的に映った。当時つきあっていた女性も伊藤さん。野枝と同じ福岡県出身。大学卒業とともに離れてしまったけれども、その伊藤さんに野枝を二重写しにしていたことを覚えている。

 『諧調は偽りなり』が刊行される頃、静岡市に講演に来られた瀬戸内さんの送迎を担当したことがあった。伊藤野枝が好きだということを言ったら、瀬戸内さんは「野枝なんかと結婚したら、それは苦労するわよ!およしなさいよ」などと言われた。

 瀬戸内さんも、この本に描かれた人びとと同じように、強烈に個性的に生きてきた人だ。だから、そういうような女性の伝記みたいなものをいくつか書いている。『かの子繚乱』、『遠い声』など。

 ボクたちは、過去に生きた人びとの生を知ることによって、その生を自分自身の生の滋養にすることができる。

 感動は、ボクたちに、生きようとする力を与える。生まれてきて良かったーこのことを確認するのである。
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鼓動

2013-01-25 00:02:59 | 日記
 価格コムでみたら、3000円以上するイヤホンが、通販で980円だったので購入した。それが今日届いた。

 早速「クラシック音楽へのおさそい」にアクセスして、モーツアルトのホルン協奏曲を聴き始めた。ところが、モーツアルトの音楽とともに、規則正しい鼓動が聞こえるのだ。

 ドドッ、ドドッ・・・・

 最初、これは何だろうと思った。その音に照準を合わせて聞いていると、それがボクの心臓の鼓動であるとわかった。

 ボクは、原稿は、音楽を聴きながら書くことが多い。イヤホンを耳にあて、いろいろな曲を聴きながら原稿を書く。たとえば、ラフマニノフのピアノコンチェルト第二番の第二楽章は、情感のこもった文を書こうとするときに聴く。

 このイヤホンが届くまで使っていたものからは、心臓の鼓動は聞こえなかった。

 これからは、ボクは自分自身が生きていることを確認しながら、音楽を聴き、また原稿を書くことになるようだ。

  
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