能の「蝉丸」を、くるみざわしんが改作して「蝉丸と逆髪」を書いた。わたしの手元にあるのは、活字だけの台本である。声や音が不可欠である演劇空間を体験していないわたしにとって、この劇を論じるのは、冒険であり、また難しいと言わざるをえない。
それでもあえて、この台本について書いていこうと思う(以下、台本と記す場合は、くるみざわの改作をさす)。
まず、一景はウソで始まる。藤原清貫(ふじわらのきよつら)は、醍醐天皇の廷臣であり、落雷事件で亡くなるまで昇進を重ねた公卿である。能の「蝉丸」でも、清貫が「蝉丸」を逢坂山に連れて行くのだが、清貫はそこまで悪人として描かれてはいない。そこまで、と記したのは、台本では、「蝉丸」を、大坂浪速の四天王寺に連れて行くとウソを言って連れ出している。四天王寺では「目の病を治す祈祷師が集まるお祭り」があるからというのである。
四天王寺にそのような祭りがあったのかを、友人に四天王寺関係者がいたので問い合わせたら、そういうことは聞いたことがないということだった。四天王寺と「目の病を治す」ということなら、能の「弱法師」(よろぼし)に盲目の乞食がでてくるので、謡曲をたくさん読んできたというくるみざわは、それにヒントを得たのかもしれない。
いずれにしても、清貫はウソを言って「蝉丸」を連れ出しているのである。
しかし「蝉丸」は、西に向かっているのではなく、東に向かっていることを察知する。そして逢坂山に到着する。清貫は荷車から降ろす。その際、清貫は「降りろ」と命じ、荷車を「蹴る」。このことばと行為に、すでに醍醐天皇の第三皇子である「蝉丸」への敬意はない。
台本では、清貫は、典型的な官僚として描かれている。権威や権力を有する者には、本心からではなく、やむなく追従するが、そうする必要がなくなった際には、即座にそうした態度を捨てる。おのれの地位や出世が第一なのであって、天皇や皇子に対しても、それに関わる場合にのみ追従し、敬意を表すのである。
清貫は、「蝉丸」を「捨てる」のは、醍醐天皇の命令であることを伝える。これは能の「蝉丸」でも同じである。「蝉丸」は、「なぜだ」と問う。ここで、清貫は、皇室典範の第3条を示す。「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる。」が、現行の皇室典範の条文である。1889年の旧皇室典範では、第9条である。「皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シ前数条ニ依リ継承ノ順序ヲ換フルコトヲ得」がそれである。もちろん能の「蝉丸」にはない。
醍醐天皇が「延喜の治」を行うのは10世紀である。その時代に、現行の皇室典範を登場させるのだ。わたしには驚きであった。シュールレアリスムの方法でもある。「ものをその日常の環境から切り離して、別の環境の中に入れる」(高階秀爾)、現行の皇室典範を10世紀に登場させたのである。きちんと皇室会議の議をへて、「蝉丸」を「捨てる」ことが正式に決まったというわけである。
そして能の「蝉丸」と同じように、台本でも、頭を丸め「出家」させる。つまり「乞食坊主」にする。清貫は、「蝉丸」の服を脱がせて蓑を着せ、笠と杖を「蝉丸」に与える。
この場面で、台本には、能の「蝉丸」にはないことが書かれている。清貫は「蝉丸」の、「物狂い」となった姉を、清貫がこの逢坂山に捨てたことを語る。そこでの清貫の台詞。
「物狂いとはいえ天皇の娘です。寺に預けたりしたらよからぬ連中に利用され父上に御迷惑をかけないとも限らない。道に置き、乞食に落とすしか。」
ここには、清貫と天皇との関係に関する認識が記されている。つまり、利用する対象としての皇族。操作される存在としての天皇家。
そしてさらに、清貫のほんとうの心が語られる。これこそ官僚的精神の真実なのだろう。
「頭を丸め道に残されてしまえばもはや天皇家の人間ではありません。清貫と呼ばれても答える筋合いはもう(ない)」
「この清貫は蝉丸さまが天皇の実子ゆえにお世話して差し上げただけのこと、すべて天皇の御命令に従っただけでございます。」
「・・・・今までどれほどこの清貫、御所の者どもに迷惑をかけたか、それを当たり前にしてありがたいとも思わず、喜んで世話をしてくれていると思い込んだ。その自分を見つめ直すところから」
「この逢坂山で修行に励みなされ。生まれてから今日までどれほどわがままに振る舞い、まわりに迷惑をかけ、それを知らずにあぐらをかいてきたか。ひとつひとつ点検してこころを作り直さないといけませんぞ」
「苦労しますな、生まれが高すぎると。」
「天皇になってはならぬ者が天皇に戻ろうとしたら謀反ですぞ。なれば今度こそ。その命は(なくなる)。」
そして清貫は去っていく。
わたしは天皇家の面々がどのような生活をしているのか知らない。現在でも天皇家の世話をしている多くの人々がいるのだろうが、どのような心構えで接しているのだろうか。想像すらしたことはない。また現実の生活の中で、皇族はまわりにいる者たちに「迷惑をかけ」ているのだろう。
さて最後の台詞は、三景への伏線となる。これで一景は終わる。
(この項続く)