浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

ブッダはいない?

2025-04-07 09:29:53 | 社会

 昨日の『東京新聞』、草薙龍瞬さんの「ブッダを探して」は、ミャンマーの地震に関わって、草薙さんがミャンマーに行った頃のことが書かれていた。

 草薙さんは、2008年にミャンマーに入った。ちょうどそのころ、オルギス台風で多くの人々が罹災した。海外からの大量の援助物資は、人びとにはわたらなかった。スナック菓子一箱だけだった。

 ミャンマーは軍政府が支配し、海外からの物資を軍が山分けしてしまう。民主的でない政府が支配していると、人びとは救われない。

 これは日本も同じ。北陸で大きな地震が起こり、一年以上たっても復興しないのは、カネにまみれた自由民主党という、民主主義とは縁もゆかりもない政党が支配し続けているからだし、それを仏教政党である公明党が支えているからだ。

 ミャンマーで、草薙さんが尋ねた。多くの人々が罹災し苦しんでいる姿について、一方では軍政府を批判する人たちもいたが、「死んだ人たちは前世の行いが悪かった」からだという。

 日本の庶民が物価高で苦しんでいても、仏教政党・公明党は「前世の行いが悪かったから」だと思っているのだろうか。

 草薙さんはこう書いている。

ひたすら堅実に生きてきた人々にとって、自分たちの平安を最後まで妨害しているのは、上に圧(の)しかかる権力者たちであって、その心に巣食う際限なき強欲と、それを正当化する妄想ゆえの視野狭窄だ。彼らはその妄想を“仏教”と呼んでいる。

 なるほど、わが家の近所には祖先の墓を持つ人びとの苦しみの声が聞こえてくる。何々をなおしたから〇〇万円、今度はホールを建てたから〇〇万円・・・・・際限なく「寺」からの催促がくる。それが“仏教”なのか。現世で苦しければ、「前世の行いが悪かったから」か。“仏教”はミャンマーでも、日本でも、いいようにつかわれている。

 草薙さんは、こうも書いている。

いまだに時代錯誤の妄想にとりつかれ、その巨体を人々の上にはべらせて、欲望赴くままの贅と惰民を貪り続ける者たちがいる。

 と。そういう輩が庶民にのしかかっている。それを取り除かなければならない。“仏教”など宗教の力では取り除くことはできない。

 草薙さん、こういう。

人災は闘って変えてゆくしかない。

 

 

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台湾で考えたこと

2025-04-05 21:11:15 | 近現代史

 2000年末に台湾に行った。台湾へはこの一度しかないが、そこでいろいろ考えさせられた。そこで考えたことは今も古くはなってはいないと思うので、ここに掲載する。

*******************************

(1) 昨年末台湾に行った。静岡県に生をうけた一人の日本軍兵士・中谷が、1930年10月、台湾中部の深い山の中、先住民たちが起こした日本人襲撃に始まる事件(霧社事件)に関わっていたことがわかり、その「現場」を見に行ったのである。

 台湾は初めての訪問であった。朝鮮人強制連行、「在日」の歴史などを研究してきた私は、韓国は何度も訪問した。その朝鮮半島(韓国)と比べると、台湾は大きく違っていた。ともかく台湾には「日本」がいっぱいであった。車はトヨタ、ニッサン、ホンダなどが走り回り、三越、高島屋などのデパートがある。コンピュータ関連の日本商品が店先に並び、各地のセブンイレブン(本当にたくさんあった!)に置いてある菓子類は、ほとんどが日本製である。そして、植民地支配の象徴である鳥居が今以て残存していた(朝鮮半島ではあり得ない)。

 朝鮮と台湾のこの違いは、植民地にされる前の状況、植民地化の契機の正当性の問題、民族的抵抗のあり方、植民地支配のあり方、そして戦後の歴史など、様々な要因があろう。

 しかし私は、ここで、その違いの理由を書こうとは思わない。そうではなく、ある種の共通性を描こうと思うのだ。それは「戦後」についての、私たちの認識の問題、フレームの狭隘性が、認識すべきことを認識させてこなかったのではないか、という問題群である。

(2)戦後、韓国や中国に関わる情報は、数多く流されている。少なくとも台湾よりずっと多いはずである。戦後の日台関係がきわめて強い絆で結ばれていたにもかかわらず、である。現在でも、台湾を訪れる外国人の4割が日本人で、日本を訪れる外国人の第一位が台湾人であること、輸出入についても日本は台湾の最大の輸入相手国、台湾は日本の第二の輸出相手国、であるという(柳本通彦『台湾革命ー緊迫!台湾海峡の21世紀』集英社新書)ほどに、関係は深い。しかし台湾認識は弱いのだ。

 戦後の台湾について、なぜ情報が少ないのだろうか。台湾は、韓国・北朝鮮ともども、日本の植民地であったのに、なぜかくも差があるのか。その理由として、「一つの中国」問題があるのだろう。

(3)日本の植民地であった台湾は、日本の敗戦とともに中国国民政府により接収され、大陸から中国人が入ってきた(その時の、引き上げていくきちんとした日本兵と、上陸する中国兵の「みすぼらしさ」との対比は、本省人がよく語るところである)。その後中国本土における国共内戦に敗れた国民党・政府関係者などが多数逃げ込み、台湾は日本統治時代からの「本省人」(もちろんその中には先住民も含まれる)と、中国本土から「戦後」やってきた「外省人」とによって構成されることとなった。戴國煇『台湾ー人間・歴史・心性』(岩波新書)によると、当時の人口(本省人)約560万人のところへ、「外省人」が約200万人が入ってきたという。そしてその「外省人」は、ただ単に入ってきただけではない。まさに「統治者」として入ってきたのである。

 中国大陸に「中華人民共和国」が成立してから、台湾は「中華民国」として、蒋介石・国民党政府が独裁的な支配権を掌握してきた。「中華民国」は国際連合の常任理事国としてあったが、1971年「中華人民共和国」が国連に加盟すると同時に「中華民国」は脱退。また1972年に日本と「中華人民共和国」との間で国交が回復すると、台湾とは国交断絶となるなど、台湾は国際的には孤立状態にあった。そのためか、1998年に日本のマスコミの支局が開設されるまで、台湾にかんする情報はほとんど提供されてこなかったのである。

(4)しかしである。もし情報がたくさん入ってきていたなら、私たち日本人の関心は台湾にむかっていたであろうか。答えは、否、というしかない。それは、韓国・朝鮮の例をみれば明らかであろう。

 敗戦直後から南北に分断された朝鮮半島、朝鮮戦争の勃発、そして「南」の独裁政権による抑圧的な政治(朴正煕政権など)、低賃金・長時間労働で苦しむ韓国労働者、その象徴としてあった抗議のための焼身自殺事件、そして光州事件など、韓国の人々には、私たちが、日本国憲法などの民主主義的諸制度や経済成長など、肯定的かつプラスイメージで想起する「戦後」はなかったのだ(もちろん、日本帝国主義の植民地支配からの解放=光復はあったから、全く否定的というわけではない)。

 韓国が抑圧的な政治体制からほぼ解放されたのはまさに80年代であり、南北分断に至っては解決にはまだまだ多くの時間をかけなければならない状態にある。他方北朝鮮は、金日成、金正日体制のもと、民主的な制度からはるかに隔たったところにあり、食糧難などもあり、今もって庶民は苦しみのなかにある。

  そのような韓国・北朝鮮の姿を知りながら、私たちはどのような関与をしてきたのだろうか。情報はたくさんあった。韓国・北朝鮮の苦しみは報道されてはいた。しかし、日本は、日本の人々はどのような関与をしてきたのであろうか。

(5)台湾はどうか。台湾の多数をしめる「本省人」の状態はどうであったのか。台湾では1949年5月20日から1987年7月15日までの長期間、戒厳令のもとにあった。

 日本の植民地のもとで「帝国臣民」とされてきた人々が、日本の敗戦と同時に「日本国民」ではないとされ、大陸から来た戦勝国=「中華民国」に支配される。もちろん、日本による支配が終わったことに、人々は「光復」を覚えた。しかしその後は、1947年2月28日の「2・28事件」(「本省人」と「外省人」との衝突事件。事件後多くの「本省人」が弾圧され、殺害された)を経て、「本省人」は、世界的な「冷戦」体制の下、蒋介石・蒋経国による抑圧的な支配に耐えて生きていかざるを得なかったのである。

  侯孝賢監督の台湾映画「悲情城市」は、1945年から1949年にかけての台湾全体の歴史の推移が、どのように一家族を翻弄していったのかを、淡々と描く。そこでは、家族の構成員が、歴史の渦に巻き込まれながら、一人ずつ消えていくのだ。日本帝国主義による植民地支配の終焉が、即台湾の人々に幸せをもたらしはしなかったのである。

 私が台湾で会った人々(「本省人」)は、平穏な生活が到来したのは李登輝以降だ、と語る。やっと自分たちの歴史が始まる、というのである。

(6)これら韓国、台湾の状態についての日本の関与は、経済的発展の支援(といってもその発展は同時に日本の経済発展につながる)と抑圧的な政治体制の擁護であった。また日本の経済界も、低コストを求めて企業進出を強化してきた。また台湾に関しては、旧日本軍による「中華民国」軍隊の養成が特記されるべきであろう。

 もちろん、韓国の民主化闘争については、日本の良識的な人たちによる支援などが行われていた。しかし台湾については情報はあまりに少なかった。多くの日本人の脳裏には、旧植民地の人々のことを思いやることなど、ほとんどなかったのである。

(7)日本で「もはや戦後ではない」と言われたのは、1956年のことである。朝鮮戦争やヴェトナム戦争などアジアの戦争を「肥やし」として発展してきた経済大国日本、その国民として、私たちはその豊かさを享受してきた。そして一定の民主的な制度のもとで、自由などを謳歌してきた。「戦後」に生まれてよかったという感懐もある。

 だが、1945年までわが国の植民地として支配されていた朝鮮、台湾などの人々について、私たちは情報を集め、どのように生きているのか、に思いを馳せたことがあるのだろうか。
  戴國煇は、正当にもこう記している。「植民地化の目的は、もちろん植民地利潤をあげること、南進基地を台湾に確保することなどにあった。あらゆる植民地政策と台湾での投資や施設は、日本帝国主義への奉仕にこそ置かれても、台湾に居住する被植民地側の人びとのためを考えたものでないことは、自明のことだ」(前掲、p.146)と。この言説は、朝鮮に対する植民地支配にも妥当する。「南進基地」を、「北進基地」ないしは「対中侵攻の基地」とすればよい。

  私たちが、植民地支配を本当に「清算」すべきであったと考えるなら、戦後に於いても旧植民地の人々の生活に思いを馳せるべきであった。日本は、戦時下、帝国主義的侵略をカモフラージュするため表向き「大東亜共栄圏」などと叫んでいたのに、戦争が終わればそのようなことばすら思い出すこともなく、「自国のことのみに専念」するようになった(戦時下の「大東亜共栄圏」がそれこそ虚妄であったことは、「戦後」の日本のあり方をみれば一目瞭然である。「大日本独栄圏」とでも名付ければよかったのだ)。

(8)日本国憲法にはこうある。
 「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」

 私たち「日本国民」は、「全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成すること」をしてきたのだろうか。ただ単に「憲法を守れ!」と唱えるだけではなく、私たちは具体的な行動を起こすことが必要であったのだ。道義的には、私たち「日本国民」が、旧植民地をはじめ、日本帝国主義が支配した地域について、その後の状況につき情報を収集し、関心を示し、人々の生活のありように思いを馳せるべきだったのだ。

(9)日本では「戦後」という期間は、もう55年にもなる。「戦争」から半世紀が経過して、抑圧的な政治体制からやっと解き放たれたアジアの人々が、「戦後」に私たちが享受してきたものを、やっと享受できるようになってきた。

 朝鮮にも、台湾にも、日本国憲法はなかった。私たちには、日本国憲法のなかの平和主義や人権尊重などの普遍的な原理を、日本国内だけではなく、旧植民地、アジア、そして世界へと広げていくこと、「戦後」を日本国だけのものではなく、名実とともに普遍性をもったものとしていくことが要請されていたのだ。朝鮮でも、台湾でも、80年代に「戦後」が始まったばかりなのである。

 

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想像していたが・・・やはり ワクチン後遺症

2025-04-04 20:22:09 | コロナ

 日本でも、コロナ・ワクチンを接種したことにより、様々な、なかには重篤な副作用に遭い、苦しい日々を送っている人びとがいる。しかし、そのことは、あまり報道されない。唯一、名古屋のCBCだけが、「大石解説」として、報じている。

 その大石さんが、アメリカに取材に行き、アメリカでもワクチン後遺症に苦しむ人びとが、なんと3万6000人もいるのだという。

 日本でも苦しんでいる人がいるのだから、世界各国でも、コロナワクチン後遺症の人びとがいることは想像していた。

 その「大石解説」がこれである。

アメリカ取材緊急解説「深刻なワクチン禍」

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「満洲」を訪問して

2025-04-04 16:54:22 | 近現代史

 2000年8月21日から28日まで「満洲」に行った。目的は、静岡県出身の一兵士の足跡を追うこと、もう一つは「満洲移民」に関わる現地を見てくること、であった。一人旅であった。私は歴史に関わる海外調査を何度か行っているが、いつも一人である。自由勝手に動き回るためには、一人が一番である。グループで行くと、グループ内で完結し、現地の人々との直接的な交流になかなか進まないのがふつうである。一人だと、現地の人々と交流せざるを得ない。それに、通訳はわたし専属となる。


  この旅で見聞したこと、感想などを、以下に書き綴ろうと思う。なおこの地域を「満洲」と記す。そうされていた時期の研究のために訪ねたからである。

21日
 21日10時40分、JAL781便は成田空港を離陸した。途中眼下に遼東半島を見る。「関東州」についても行ってみたいところだ。

 現地時間13時30分頃北京に到着、国内線のハルビン行き17時発を空港内で待つ。17時になりやっと機内へ。同じゲイトの先発成都行きが、乗客が来ないということで遅れたのだ。CJ-6218ハルビン行きのの離陸は17時30分、30分遅れである。

 上空から見る「満洲」は、豊穣な農地が拡がり、関東軍=日本帝国主義が欲しがった理由がわかった気がした。ハルビンへは19時到着、すぐホテルへ。空港からホテルまでは40分近くかかった。今まで南京、杭州、天津、北京などを訪れたが、自転車の数が少ないように思えた。自動車の数はやはり多い。主要道路は自動車がぎっしり。

22日
(1)ハルビンにて
 22日午前中、私と同行する通訳(黒竜江省中国国際旅行社所属)が大連から帰ってこれないからということで、ホテル周辺を散策。ホテル近くの松花江を眺め、旧ロシア人街=中央大街を歩く。歩行者天国になっており、夏休み中の子どもたちが多い。商店が並び、書店があったので入るが、日本のようには本は並んでいない。学習参考書が多かった。周辺を散策したとき、自動車も歩行者も交通規則を守っていないことに気づいた。規則を守らせるために、紅いベストを着た老人たちが交通整理をしていたが、多くは無視である。

  ホテルに戻り待っていると、ガイドが来て、担当通訳がまだ着いていないので代わりに市内を案内するという。その時、私を知っている日本人がいる、というので、その集団のバスに近づくと、「中国人戦争被害者の要求を支える会」の尾花知美さん、10月15日に開かれる国際シンポジウム「戦争と紛争の世紀の終わりにー今なぜ、真相究明なのか」の担当者=小川さんが、出てきた。初対面ではあったが、尾花さんとは中国人強制連行被害者の聞き取りの関係、小川さんとはシンポの関係でメールを交換していた。731部隊について調査に来たとのことで、世の中は狭い。そこで別れ、24日朝の再会を約す。

 昼食をとって「東北烈士紀念館」に。そこでは宣教部副主任の邢継賢女史に説明を受ける。ここは「満洲」地域における反満抗日運動「烈士」の業績が展示されているところで、澤地久枝『もう一つの満洲』(文春文庫)で知られた楊靖宇(東北抗日連軍第一軍軍長)などの戦歴が讃えられている。女性革命家の子どもに宛てた遺言が感動的であった(次号で紹介する)。そして一昨年の洪水の写真展も見る。大変な洪水であったことを知る。その後、「満洲」時代の建築物のいくつかを見る。各所に残されているのは、韓国と同様である。

(2)夜行列車に乗る
  密山へ行くためにハルビン駅にいく。旅行社の事務所が駅前にあり、ここで通訳と一緒になる。27日午前中まで一緒に行動することになる同年齢の男性、許さんである。福井県に住んだことがあるということで、道中そこでの体験をいろいろ聞いた。彼は、歴史に対する興味が特に強いわけではなくその点で不満が残った。しかしどういう手配をしてあったのか、私の調査が円滑に出来るように、行く先々で地方政府機関が協力してくれた。
  

 さてハルビン駅での出来事を記さなければならない。待合室にいると日本語が聞こえてくるのであった。高齢の女性たちを中心とした16人、最高年齢89歳の集団であった。一人は腰が曲がり、杖がないと歩けないおばあさん。若い人は日本人女性が二人、日本在住の中国人(梁新勇さん)とそのいとこの中国人男性、12人は老人で平均年齢は70代だろうということであった。私と同じ密山へまで行くというのである。ハルビンから密山までは夜行で12時間ほどかかる。たいへんな道のりである。

 私はもと「満洲移民」の人たちであろうと思い尋ねると、違うという。グループの男性の一人が戦時中佳木斯(チャムス)の部隊で軍医をしていたということで、その地を訪ねるという。梁新勇さんが日本留学時、福岡在住のその医者にお世話になったので、恩返しということで中国を旅行して回っていて、これで三回目。その医者が中国旅行をしているということを聞きつけ、次々と参加してきて、今回がいちばん多いという。梁さんは、3人分くらいの荷物を背負い、待合室から階段を下り上りする際には、杖をついたおばあさんの後をゆっくりと付き添っていた。また高齢になっても、海外へ旅行しようという意欲にも感心した。この日は、731部隊の関係施設を訪問し、その医者は、こんなことがあったのか、知らなかったと驚いていたという(医者とは話す機会がなかった。列車では食後すぐに寝たとのこと)。
 

 16時02分、密山行きの夜行列車は動き出した。コンパートメントで、いろいろな人と話をした。
  動き出して間もなく通訳の許さんが、密山の小学校の校長先生を連れてきた。密山についての情報を聞いたが、中国の学校についての話が面白かったのでそれを紹介しよう。

 中国では今までの教育を反省して自由化教育に進んでいる、今までは長時間子どもを拘束して、一律に学習を強要してきたが、そうではなく個性に対応した教育、子どもたちの意欲などを生かした教育にしようとしている、というのだ。日本の動きとたいへんよく似ているので驚いた。そこで、どういう変化が現れているかを尋ねたら、少数の勉強する子とそうでない子の二極分解がでている、という。それは一人っ子政策の影響もあるが、文革の影響もある、というのは文革期に子どもであった現在の親は、きちんとした教育を受けていないので、子どもたちに何も教えられない、だから自由主義的教育はさらにその格差を広げてしまう、教育はたいへん難しい状況にある、とのこと。現象面では日本とよく似ている。教員には本当に優秀な人はなりたがらないから人材確保がたいへんだ、ともいう。教育はいつの時代も、どこでも難問なのである。

 食後、前述のグループの梁さん、山田知恵子さん(福井県敦賀市在住)たちと話した。山田さんは既に中国各地を訪れていて、延吉などにも行き北朝鮮との国境もみてきたという。また女学校時代に「満洲」へ行く義勇軍の少年たちを見送りした時の光景が忘れられないという。戦争世代には、そこに行っていなくてもそれぞれ「満洲」の思い出がある。

 その後、私は眠られず夜中まで読書。私のコンパートメントのみ、なぜか、私一人。数時間眠ったかどうかという頃目が覚めた。あたりは明るくなっていた。私は窓の外をずっと眺め続けた。線路の両側に植栽された並木の向こうに、豊かな田畠が広がる。この付近は「満洲移民」として静岡県民が入植したところでもある(哈達河開拓団など)。私は二度「満洲移民」について書いたことがあるが、移民からの便りのなかの「肥沃な大地」、「作物は肥料なしでも良く育つ」は、より多くの移民を参加させるための宣伝であろうと思いこんでいたが、そうではないことがわかった。豊かである。冬になると凍結してしまうのだろうが、夏は豊穣そのものである。
 昨日まで雨が降っていたということで、緑は太陽により映えていた。

23日
(1)饒河へ
 朝5時20分頃、密山に着く。駅には密山市旅游公司総経理・市旅游副局長馬樹東さんが待っていた。とりあえずホテルに行ってシャワーを浴びる。朝食をとりすぐに出発である。目指すは饒河である。饒河はロシアとの国境付近、ウスリー河沿いのハバロフスクに近いところにある。密山から車で4時間くらいと聞いていた。ここは1943年1月、富士市周辺の「満蒙開拓青少年義勇軍」(植松中隊)が清渓義勇隊開拓団として入植したところである。「ソ満国境」であるから、敗戦時は悲惨であった。

  広々とした田園地帯を走り続ける。道路の両側は白樺の並木である。舗装はされていない。道路の片側には延々と盛られた土が並んでいる。紅いジャケットを身につけた人々が、その土を道路に入れ補修している。昨日まで強い雨が降っていたからか、とにかく多くの人が道路補修に従事していた。いわば人海戦術で、道路を守るのだ。その道を時速80㌔㍍で突っ走る。警笛は多用された(中国での使用は当たり前。規則を守らないから、警笛なしには安全は保てない)。アヒルの集団まで道路を横断するのであるからたいへんだ。

 さて順調に走ってきたところ、月牙というところに「公安検査駅」があり、そこには軍の国境監視隊が常駐していて検問を行っていた。そこで足止めを食らった。日本人は通過させないというのだ。密山で通過許可証をもらってこい、というのである。そんな時間はない。そこで密山の現地ガイドは、あちこちと連絡をとり(携帯電話が普及している)、近くの虎林市のトップ(そのような説明を受けた)に来てもらい、交渉の末、通過できることとなった。通訳の許さんは、中国は法の支配ではなく、人の支配によるのだとポツリとこぼした。兵士も混乱するだろう、とも。この間待つこと1時間30分余。

 待っている間、現地のスイカや瓜を食べた。道ばたで農産物を売っているのである。人々が集まり、アヒルが餌をつつく。そこに一人の老人が座っていた。通訳の許さんに質問してもらった。その老人の戦争体験の一つは、反満抗日の7人の学生が、日本軍により池に放り込まれ、銃で撃ち殺されたのを見たというものであった。戦時下を生き抜いたすべての人々が、日本軍(兵士)の蛮行を見、記憶している。

 さてそこからは悪路となった。ほとんど原生林ではあったが、荒れ地、湿地帯、人家があるところには畠。そして時折スコールのような雨が襲う。延々と続く原生林は、虎でも出てきそうな感じである。途中何度か深い轍ができていて通過できるかどうか危ぶまれるような箇所もあった。

 それでも午後2時過ぎ、饒河に着いた。7時間ほどかかった。饒河も広々とした田園に囲まれていた。通過してきた原生林とはまったく違う世界である。到着したところは饒河県賓館、そこには県旅游局々長の韓基勝さん、局員の楊忠明さんのお二人が待っていた。

(2)饒河にて
 賓館では昼食を出された。はるばる日本人が来るというので、県長は今まで待っていたのだという。県長からは、しっかりともてなすようにと言われているという。話のなかでは、どうも日本と何らかの関係を持ちたいということのようであった。戦後ここに来た日本人は商売人が二人、もと移民の人々が二回、女性一人で来た時と集団で来たときがあった、という。女性は帰国後、本を送ってきたという。集団は懐かしい、懐かしいと言って、帰っていったという。
 

 食後、清渓開拓団の入植地へ行った。そこで老人と会わせていただいた。郭英臣、金清松のお二人である。金さんは72歳の朝鮮人である。「開拓団が住んでいたままの住居ですか」という質問に、「(開拓団が入る前から)この通りで、私たちはその前から住んでいた」と答えた。「ウスリー河畔満鮮原住民の内国移民の跡に入植す。関東軍の要請により国境地区に村創りを始め、満鮮人の家屋及び耕作地を接収して」(静岡県『静岡県送出元満洲開拓民の概要』)というのが実状であるから、そう答えるのは当然であろう。接収は満州国政府機関の命令により行われ、補償金はもらわなかったという。日本の敗戦は開拓団が突然いなくなった後に知った。いなくなった後にもとの家に戻った。接収された後、郭さん、金さんらは近くの未開拓地へ移り住んでいた。日本人との交流はほとんどなかったという。

 聞き取りを終わって、県庁舎に行った。そこでは県誌編纂室長の姚中晋さんと会い、『饒河県誌』をいただく。B5・1000頁近い本である。また自伝小説『東大山伝』もいただく。山東省出身である姚さんの家族の伝記である。今後も様々な交流をすることを話し合った。

 再び賓館に行き、夕食をとる。姚さん、横浜のパン屋さんで修業したことのある賓館総経理王玉良さんも交えての楽しい語らいであった。
 

 18時40分、密山に向けて出発。道中のことを考えると不安であった。あの原生林を通過しなければならない。途中ドライバーがダウン、疲れてもう運転できないと言う。ほかに運転できるのは私しかいないので、国際免許証を持たないまま左ハンドルの車を密山近くまで走らせた。車幅がよくわからないので対向車が来る(ほとんど来ない)と徐行しなければならない。舗装のない道を時速約80㌔㍍で走らせたが、ライトは道の両側の白樺だけを浮き上がらせ、上からは漆黒の闇がのしかかるような圧迫感を受けながらのドライブであった。ホテルに着いた時の時刻は、0時40分。6時間かかったことになる。途中の小休憩時、雲の間から見えた無数の星の乱舞は見事であった。いつか「満天の星」を見たいと思う。
 

24日
(1)平陽鎮を訪ねる
 この日は平陽鎮にいくことになっていた。密山のホテルから、広々と広がる肥沃な田園地帯を眺めながら走る。大豆、とうもろこし、ひまわり、コウリャン、そして米。水田は各所にあった。「満洲」の水田稲作は、朝鮮半島から移住してきた人々(出稼ぎや、日本の帝国主義支配を嫌って、あるいは植民地支配の結果生活を破壊された人々、そして植民地支配に抵抗する人々)が始めたという。もちろん現在は中国人も米を作っている。水田もかなり多い。

 平陽鎮も国境地帯にある。連なる山に国境線が走っている。「満洲国」はここに平陽鎮国境監視隊を置いた。そのなかに朝鮮人だけで編成された中隊があった。最初の中隊長が静岡県出身の中谷であった。中谷はそこで病死したが、その後朝鮮人部隊は3度反乱事件を起こした。1930年代半ばのことであるから、その事件そのものについての調査は現地では不可能と思い、ただその周辺の風景を見ておこうと思ったのだ。そしてできれば朝鮮人の集落を訪れようと思っていた(時間不足でできなかった)。

 平陽鎮の役所を訪ねた。そこでは平陽鎮政府・中国共産党書記の郭宝成さん、鎮長の王□□さん、それから昔のことを良く知っている王永仁さん(もと教師、72歳)が出迎えてくれた。ここでの聞き取りは割愛するが、話を聞いた後に昼食をとった。食事の際には必ずアルコールが出される。アルコールに弱い私は困惑するのだが、中国料理はビールと一緒に食べないといけないようだ。味の点からも(濃い!)そういえる。

 ここでは驚くべき事があった。中国のどこでも米を食べるが、決しておいしくはない。しかしここのはとてもおいしかった。日本の銘柄米のレベルで、米粒に輝きがあった。日本の技術を導入しているようなのだ。また蚕もだされた。さなぎのまま食べるのだ。もちろん油で炒めてある(今回の旅行では、豚の耳、アヒルの水かき、ナマズ、フナなどを食べた。私は郷には入れば郷に従えで、だされたものは基本的には食べることにしている)。

 なお会話の中で、日本の農業後継者不足に触れ、中国ではどうかと問うたら、後継者はいっぱいいる、現にロシアの農業労働力として出稼ぎにも行っている、日本にも行ける、と応答があった。日本も中国の農業労働力を導入するのだろうか。

 もっとここで調査をしたかったのだが、16時22分ハルビン行きの夜行寝台を予約してあったので、やむなく駅へ。

 この密山で風邪をひいた。移動はすべて車であり、窓を開けて走る(通訳、運転手ともタバコを吸う。私は煙に極めて敏感で、そのためにのどを痛めることがよくあり、換気のために開けるのだ)。道路は基本的に舗装されていないから、ほこりが舞い込んでくる。そのため鼻と喉をやられてしまったのだ。

(2)夜行列車のなかで
 列車に乗る。私が入るコンパートメントでは、すでに一人の老人が書き物をしていた。話を聞くと80歳だという。名前は時林さん。戦争中は何をしていたかを問うと、新四軍の兵士だったという。華中の紅軍、日本軍と戦った中国共産党の軍隊である。新四軍では輸送業務に携わっていたという。物資はどのように調達したのかと問うたら、地主から、という。なぜ新四軍に加わったのかを尋ねたら、食えなかったからだと答えた。このような問答を繰り広げながら、思った。国家は不条理なものだ、と。国家は、戦時には勝手に人々を敵味方に分ける。しかし本来民族や国籍が違おうとも、このように語らいの相手となるのである。私たち二人は、「平和はよい」と確認しあった。江蘇省如皋市出身の老人は中華人民共和国成立後の1950年に牡丹江に移り住み、そこで農民として生きてきた。この旅行は古参党員への慰安旅行で、若い人がずっと付き添っていた。老人が眠れば静かにし、老人が語りかければ応じる、という対応であった。 

 この列車でも日本人がいた。私はこんなところは日本人も行かないだろうと思っていたし、日本の旅行社もそういう認識であった。しかしハルビンー密山の行き帰りで会ったのだ。日本人はどこにでもいる。ここであったのは大鳳商事の阿部松夫さん。穀物の輸入などの業務を担当しているとのことである。「満洲」の農業について話した。

 「満洲」は豊かで、開拓して三年間は無肥料で作物は育つ、その後は有機栽培であること、日本の農業技術が導入され、日本人技術者も来ていることなどを伺った。今回の訪中は、会社の人たちに「満洲」地域の農業の実態を見せるためであったとのこと、6人のグループであった。

  その後、私は風邪気味であったため、コンパートメントで横になる。眠れなかったが、とにかく横になり、水分をひたすら補給した。

 25日午前5時頃、列車はハルビンに着いた。

25日

   まずホテルでシャワーを浴び、9時出発。1934年8月30日におこった匪賊による列車襲撃事件の現場を確定し、撮影することである。場所は、当時の新聞報道によると、ハルビンを南下し、五家(子)駅を経て双城堡駅に近いところ、線路が橋を越え、両側が線路より高くなっているところである。

 ちょうど運転手さんの出身が五家であったので、彼の親戚をまず訪問した。その家の老人が案内に立つことになった。最初案内されたのは、おそらく日本軍の鉄道守備隊が駐留したところだろうと思われる、沿線に壊れた煉瓦の建物があった。老人は「ここだ」という。しかしここは、周囲より線路が高い。ここではない。通訳も、炎天下、といっても風は初秋であった、もう引き上げたいという風情であったが、私は「ここではない。第一地形的にもあわないし、五家駅にも近すぎる。説明した地点が判明しなければ、わざわざここに来た意味はない!」と話し、双城堡に向けて更に探すことを強調した。

 中国など、外国での調査は優柔不断は禁物である。断固として要求すべきである。通訳は基本的に歴史に興味を持っているわけではない、説明したら分かってくれるだろうというような、通訳の善意に期待する方法には限界がある。目的を完遂する決意が大切である。

 線路に沿って、ぬかるんでいる農道を、ゆっくりと進む。果たして車が通ることができるのか危ぶまれるようなところを何とか進んで行くと、古い橋脚があった。現在の線路と並行している。昔使用されていた鉄道の橋脚だという。そこからしばらく行くと、周りが高台になっているところがあった。現在鉄道の両側には鉄条網が張ってあり、入れないようになっている。しかし、鉄条網の隙間をみつけて侵入し、高いところに登ると、確かに襲撃にはうってつけの所である。私はほぼここだろうと断定した。そして、列車が走る姿を写真におさめることができた。

 これで一応旅の目的は達成した。
 

 なお、ここで面白いエピソードを書いておこう。この調査の途次、五家駅にたくさんの人が集まっていた。黒竜江省視察を終えた江沢民の列車が駅を通過するので、その列車を見るために集まっているというのだ。その時は「ふーん」と思っただけだったが、私たちはその被害を受けた。駅をすぎてしばらく行ったところに線路を横断する地下道があるのだが、江沢民の列車が通過するまでは通さないと言うのだ。公安警察が見張っている。地下道周辺には、トラック、自動車はもとより、たい肥などを載せた馬車(?)などが停車させられていた。人民の生産活動がストップさせられているのだ。通訳氏は「江沢民は皇帝ではないのにおかしい」としきりに同意を求めた。私は、日本でも天皇家の移動の際に同様なことが行われていると説明した。

 私たちはここで1時間ほど待たされた。江沢民の乗る列車は美しく青色に輝き、窓を覆うレースのカーテンは真っ白であった。あの窓からは人々の生活は見えないだろうと思った。そして列車は待たされている人民を一顧だにせずに足早に走り去っていった。

26日
 この日、平房に行った。言うまでもなく関東軍731部隊である。731部隊については説明を省くが、実際行って驚いた。731部隊は証拠を隠滅するために施設を徹底的に破壊したと聞いていたが、いくつかが残されているのである。主要部分はもちろん破壊されたようだが、本部建物、小動物地下飼養場、黄鼠飼養槽、ボイラーの煙突など、実際に見ることができた。
 

 「侵華日軍第731細菌部隊罪証陳列館」に到着すると、靖福和さんが待っていた。靖さんは、戦時中、731部隊の近くに住んでいた(メモを取らなかったので正確ではないが、部隊が設立される時に移転させられた?)。部隊が破壊された後、ペストが流行し、靖さんの家族は4人を残して(ここは間違っているかもしれない)ペストによって「殺された」という。現在は陳列館で、訪問してくる人々に、731部隊の実態を説明している。

 この日も、戦後、地域住民が部隊跡から持っていった水槽が届けられたという。そして現在、731部隊の「罪証」を後世に伝えていくべく、破壊された主要部分の跡を発掘している。

 陳列館での説明を受けた後、私たちは靖さんに連れられて、前述の残存しているところを案内していただいた。ボイラーの煙突に関わるコンクリートの建物は、本当に頑丈に造られていた。おそらく、毒ガス・細菌戦について、ずっと研究・開発・実験・実施していくつもりで建設されたのだろう。その後、地下飼養場、黄鼠飼養槽を見た。飼養槽は、まさにそのまま残されていた。残されている施設は、学校に利用されている本部建物を除いて周囲に柵があり、鍵がないと入れなくなっているが、靖さんは丁寧に私たちを案内してくれた。この731部隊関係の「遺跡」は十分見る価値がある。靖さんは、別れるとき、大勢の日本人を連れてきて下さい、と語った。この731部隊問題は、過去の日本の犯罪と言うだけではなく、「薬害エイズ」とも関わる現代的な問題でもある。また731部隊が行った細菌戦の被害者が日本国を被告として訴訟を起こしている。
 過去の犯罪ではなく、今も生きている犯罪なのである。

27日 
 午前中はホテルで帰国の整理などをして過ごした。おそらく発熱していたと思うが、風邪がなおらなかったためである。のど飴と風邪薬を購入したが、日本円で300円くらいであった。日本の薬は、高い。
 

 昼食後、14時40分の飛行機で北京へ。やっと帰る時が来た。風邪をひいてしまったので、いつもの「何でも見てやろう」という気力は、失われていた。

28日
 いよいよ帰国である。20日に家を離れているので、8日ぶりの帰宅となる。北京時刻14時50分発のJL782便に搭乗するも、しかしなかなか離陸しない。しばらく経ってアナウンスがあった。大連付近で中国空軍が演習を行っているため、1時間ほど遅くなると言うのだ。満席の乗客がじっと離陸を待つ。軍はこのようにして庶民を苦しませる。この日は河野外務大臣が訪中する日である。彼に対する示威行動なのか。

  16時頃やっと動き始める。しかし飛び立ったのはそれから20分後。成田到着は19時10分の予定であったが、とてもその時刻には着かない。結局成田へは、20時15分くらいに着いた。この時刻では、最終の新幹線には間に合わない。成田に泊まろうか、それとも鈍行(ムーンライトながら)で帰ろうか悩んだが、結局帰ることにした。指定席をとろうとしたが満席、駅員が小田原からならとれるから小田原で乗りなさいと教えられ、少し早い鈍行を利用して小田原で待っていた。しかし、だめ。中は学生でいっぱいであった。やむなくデッキで過ごす。29日午前3時40分頃浜松到着。中国軍の演習は、私の帰宅を一日遅らせた。軍隊はないほうがよい。
 長い旅は終わった。

 

【旅行を振り返って】
 旅の目的は、歴史に関する調査であった。その目的はいちおう達成した(ただし、平陽鎮ではもう一日欲しかった)。ここではそれ以外の感想を記す。
 まずタバコである。中国では、タバコを吸う男性が多い。日本以上に喫煙天国である。日本でも、まだまだではあるが、公共の場所での喫煙が許容されなくなってきている。しかし、中国はそのような配慮がまったくない。この点は改善して欲しいものだ。
 それからゴミ問題。中国では、ビニールなど分解しにくいゴミが散乱しているところをよく見かける。砂漠化の問題や有害な煙の排出などが問題とされるが、このゴミ問題も早くに取り組んだ方がよいと思った。列車に乗っている時、いろいろなゴミが窓から捨てられる姿を見た。おそらく線路付近はゴミだらけだろう。丹藤佳紀『中国 現代ことば事情』(岩波新書)を読んでいたら、「白色汚染」という語の説明があった。列車から発泡スチロール製品(弁当箱)が無造作に捨てられる様をそう表現したのだそうだ。「白色長廊」という言葉もあるという。なるほど、である。ちなみに同書によると、インターネットは「因特網」と書き、ハッカーは「黒客」、携帯電話が「手機」、小型化・軽量化したものは「小姐小」(若い女性のこと)・・いずれにしても外来の製品を中国語、つまり漢字で表現することは大変だ。日本はカタカナを発明してあったおかげでその苦労から免れている。
 また中国の若い女性が、茶髪で、日本で流行している厚底靴を履いているのを見て驚いた。悪しき日本の真似はやめて欲しいと思った。
 まだまだ書きたいことはあるが、紙数の関係でここで止めることとする。

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「死者は語らないー「戦争の記憶」をめぐってー」

2025-04-04 10:09:34 | 近現代史

 以下は、2000年に歴史講演会で話したものを文章化したものである。

1.はじめにー戦争への眼差しー


 1945年6月21日、21歳の中央大学学生、溝口幸次郎が沖縄の海に向かって飛び立って行きました。後に遺書が残されました。「美しい祖国はおおらかなる益良夫を生み おおらかなる益良夫はけだかい魂を残して新しい世界へと飛翔し去る 我を思う我が父母はいかがあらん 強気を信じ我はゆくなり 日の本の早乙女たちを知らざりし 我は愛機と共に散るなり」とありました。これは浅羽町郷友会が編纂した『あけぼの』に載せられていたものです。これを読んだとき、私は溝口の「無念」を感じました。この遺書に、「死にたくない!!」という叫びを聞いたからです。しかし、彼は特攻隊員です。彼はとにかく死ななければならなかったのです(1944年11月、中島正少佐の言葉は「特攻の目的は戦果にあるんじゃない。死ぬことにあるんだ」でした。生出寿『一筆啓上瀬島中佐殿』徳間文庫1998,8)。


  特攻攻撃で陸海軍兵士6952人が、若い命を散らしたといわれます。

 去る3月下旬、私は有名な特攻基地知覧に行ってきました。その「特攻平和会館」の中には「英霊コーナー」があります。そこには、死を強制された陸軍特攻隊員の写真が掲げられていました。日本人だけではありません。そのなかに、少なくない数の朝鮮青年たちの写真も飾ってありました。

 1910年から植民地支配されていた朝鮮人は、「大日本帝国臣民」でした。戦時下、朝鮮人も戦時動員の渦中に放り込まれました。兵士として、軍属として、労働者として、そしてまた「従軍慰安婦」として。しかし、「帝国臣民」として動員された朝鮮の人々に、日本国民は戦後どのような対応をしてきたのでしょうか。

  現在60以上もの「戦後補償裁判」が提起されています。戦時下の日本国家が引き起こした戦争による被害に対して補償を求める、というものです。

 例えば石成基(ソク・ソンギ)さんの裁判があります。石さんは、 1921年12月生まれの78歳、韓国・慶尚南道出身、1942年7月、海軍軍属として徴用され、釜山港からマーシャル群島へ。第四海軍施設部に工員として配属され、1944年5月マーシャル群島ウォッチェ島で陣地構築に従事中、米軍戦闘機の機銃掃射を受け、負傷。 右上腕を15センチ残し切断。1991年1月28日 厚生省に障害年金請求、同年6月7日 厚生省、請求を却下、同年7月30日 請求却下に対し異議申立、92年6月23日 厚生大臣、異議申立を棄却。そこで 1992年8月13日、 東京地裁 民事2部に提訴。1994年7月15日敗訴(秋山寿延裁判長)の判決。1994年7月23日控訴しました。 

  このように在日韓国・朝鮮人の場合、いくら戦死しても、傷痍軍人であっても、補償は一切ありません。「1995年度の国家予算では、70兆円のうち1兆6369億円が、日本人の元軍人・軍属への恩給・年金として計上されました。恩給・年金・その他の戦後補償をあわせると、1952年に援護法ができてから、これまでに、すでに40兆円近いお金が、日本人の元軍人・軍属のために支払われてきました。在日韓国・朝鮮人も日本人とまったく同じように税金を払っています。それなのに、戦後補償は何も受けていません。同じ戦争犠牲者に対するこの差は何なのでしょうか。」(「在日の戦後補償を求める会 」のホームページから)

 また、特攻機のすべてではありませんが、しっかり飛べる戦闘機などは「本土決戦」のためにとっておいたと言われます。特攻機として練習機も使われました。練習機の翼は麻布です、それに銀箔をはったそうです。その麻布を織った労働者の中には、日本人の女学生もいましたが、朝鮮から東京麻糸紡績沼津工場に動員された12歳から17,8歳位の女子勤労挺身隊の少女たちがいました。彼女たちは、空襲におびえながら麻布を織り続けました。戦争が終わったあと帰還しましたが、未だにその間の賃金は支払われていません(日本人には払われたのに)。その賃金を支払って欲しいと元女子挺身隊が提起した裁判の判決が、1月27日、静岡地裁で出されましたが、敗訴でした。

 1945年に終わった戦争は、「大東亜戦争」と言われました。「大東亜共栄圏」を目指す、という名目で行われました。その言説を、当時の日本人の多くは信じていました。

 当時の浅羽地域の青年たちは、青年団の雑誌にこう書きました、安間ふみは「米英の圧迫によるアジア10億の民を救う大東亜建設」を、と書き、廣岡三浦は「亜細亜諸民族の膏血を搾取し来たったアングロサクソンの白人鬼を今こそアジアの天地より一掃すべきときが来た」と書きました。

 しかし、そういう日本こそが朝鮮、台湾に対する植民地支配を強化していました。強制連行、創氏改名、日本語強要などなど。また日本は、帝国主義諸国家に苦しめられていた中国民衆を救うどころか、残虐な侵略戦争をおこなっていました。

 「大東亜共栄圏」は「嘘」でした。百歩譲ってそういう面があったという方もいるかも知れません。では、日本国家のために「闘った」もと軍属、もと女子挺身隊に対する「無視」「放置」は、いったい何なのでしょうか。

 私は、今こそ、1945年に終わった戦争をきちんと総括し、謝罪すべきは謝罪し、補償すべきは補償するべきだと思います。今まで、それが出来ないで来たのは、日本人の戦争に対する眼差しが、極めて一面的なものであったからだと思うのです(アジアへの眼差しがない!!)。

2.拭えない「戦争の記憶」

 戦争は哀しいと、戦争体験を綴ったもの、何を読んでもそう感じます。戦死した遺族が記したものを紹介しましょう。浅羽町史の通史編に書いたものです。

  二人の息子を戦場に送った豊住の岡本ことじは、こう謳った。「二葉の若葉/散りに し母の/思いぞ 誰れぞ知る」、「戦い終えて/三十有余年/遺骨帰らず/子供等の魂 は/今いづこに」と。岡本太郎は自宅で戦病死、二二歳。関東軍兵士だった憲成は、ソ ビエト連邦抑留中に戦病死した。諸井の久保田忠夫は、終戦後他の父親は復員している のに、なぜ自分の父は帰ってこないのだろうと訝しく思っている時に「戦死公報」が届 けられた。一九五四年四月二十八日の葬式の際、謝辞のなかの「もう自分には父親がい ない」を泣けて読めなかったという思い出を持つ。父親は「満州」牡丹江で戦死、三二 歳。

  諸井の富田幸男は、弟勝朗の思い出を記す。勝朗は「出征」する際、何も言わず女性 の写真を残していった。戦後、一人の女性から「無事帰還の節は結婚を堅く約束した者 です。勝朗さんから連絡がこないのです。」という書簡が届けられた。既に葬儀をすま している旨の返事を出すと、後日その女性の来訪を受けた。位牌に額ずいて合掌する姿 に、弟が残していった写真を見せると、「私です」。富田は「弟の胸中察し、彼女の心 情を思い、感無量、戦争の非情さが身にしむ」と書く。勝朗はビルマ・マンダレーで戦 傷死した。二四歳だった。

  河原一男(浅羽)の弟操はサイパン島で戦死した。四三年十一月頃、「俺の死ぬ日は 何時になるだろう」と尋ねられた。それに返事ができなかった一男はそのことばを忘れ ず、あどけない弟の写真を見ながら毎朝合掌するという。そして「心の中では未だ戦争 は終わっていない」と思う(「あの一言が忘れられない」、『文芸浅羽』第十号所収)。

  豊住の大石幾久朗(二○歳)は沖縄で戦死した。その母は「私は神々様に、手足一本 くらい無くとも帰って来ますようにとお祈りしていました。祈った甲斐もなく、ついに 帰らぬ人となってしまいました。(中略)三十年過ぎた今でも、元気いっぱいで家を出 ていったあの子の姿は、私の目の前に浮かんで来ます」と書く。大石の遺書には「父母 様、長生きしてください」とあった。

 そのあとに、私はこう書きました。
 「遺された人々は、悲しみを背負いながら戦後の混乱期を生きていかなければならなかった。戦争により強いられた別れ、それは今も人々の胸に痛切な思い出として残っている。そのような体験から生み出された平和への希求の念は強い。しかし忘れてはならないのは、日本軍が進んでいったアジア太平洋各地でも、このような強いられた別れが無数につくりだされたことである。そしてその別れは、今も償われてはいないのである。」

 日本人は戦争で310万人が死んだと言います。しかしアジア各地では2000万人以上が命を落としたと言われます。日本人以上にたくさんの別れがあったのです。その「別れ」を、日本人はどれほど見つめてきたのでしょうか。

  最近私は中国に3回行きました。南京などで何人かの中国人から話を聞きました。そこで語られる被害体験は極めて生々しく、あたかも事件が起こったその「時」が佇(たたず)んでいるようでした。中国、韓国、シンガポールなど、どこで聞いても、アジア地域の戦争被害者の記憶は、極めて詳細で鮮明、具体的です。

※講演では、証言をビデオで再生。

  ヴァミク・ヴォルカンは『誇りと憎悪-民族紛争の心理学』(毎日新聞社、1999)でこう記しています。

 「人々は過去の出来事と現在のそれを知的には区別しても、時間の崩壊の影響のもとでは両者を感情的に一体化する」、「心的外傷後ストレス性障害(PTSD)では、内在化された心的外傷が圧倒的な物理的危険性の消滅後もずっと被害者の心の中に残りつづける。被害者は白昼夢や夜の夢の中で心的外傷を再体験し、記憶喪失にかかり、あるいは危険の観念に極端に過敏になるかまったく無関心になることがある。」

  私たち日本人は、PTSDに苦しんでいるこのようなアジアの人たちに思いを馳せてきたのでしょうか。日本人の「戦争の記憶」だけではなく、無視されてきた、アジア各地の人々の「戦争の記憶」に耳を傾ける必要がある、と思わざるを得ません。

3.「戦争死」を考える

 さてここで日本兵の戦争死について考えてみたいと思います。私たちは、戦争を記す際にはいつ、どこで死んだのかの統計をとります。その統計の作成は、むつかしくはありません。しかしどのように死んだのかは、ほとんどわかりません。

 以前、澤地久枝の『滄海(うみ)よ眠れ』(毎日新聞社、文春文庫)を読んだことがあります。1942年6月のミッドウエイ海戦における日米の死者を訪ね歩き、その生と死を書き綴ったものです。大変感動的なものですが、そのなかに、アメリカの遺族はどのように死んだのかを調べるため、今なお戦闘の生存者を訪ね歩いているとありました。日本の場合はどうなのでしょう。国家から戦死の知らせが来た後、遺族は兵士がどのように生き、そして死んだのかを尋ねることをしたのでしょうか。おそらくしていないのではないかと思うのです。

 そのような指摘を読んだ後、私は、日本兵がどのように死んだのか、戦死の諸相をいろいろ調べてみました。結論的に言えば、日本兵は無駄死にがすごく多かったということがわかりました。まず、アジア太平洋戦争で死んだ兵士の7割は栄養失調などの餓死でした。そしてそのほとんどが下級兵士でした。ガダルカナル戦、ニューギニア戦、インパール作戦など。その背景には、日本軍の兵站軽視があります。食糧がなくても「大和魂」がある、というのです。また作戦自体もきわめてずさんなものでした。日本軍兵士は、日本軍に殺されたと言ってもいいくらいです。

 戦死のなかには、勿論銃弾に当たって死んだ兵士もいます。また激しい砲爆撃の中で死んだ者もいます。日本陸軍の仮想敵国はソ連でしたから、陸軍は大陸において行われるであろう対ソ戦の研究・訓練は行っていましたが、太平洋地域での対英米戦については全くしていなかったのです。何と太平洋地域での対米戦の教育が考え始められたのは、1943年後半のことでした。このことからも、いかに無謀な戦いであったかがわかります。

  また戦死の中には、海没が多いのです。日本軍は海上護衛を軽視しました。米軍は、日本軍が兵員など海上輸送に依存せざるをえないことを予想し、各所に潜水艦を配置していました。台湾・フィリピン間のバシー海峡では、多くの兵士が海中に沈んでいきました。静岡県の兵士も海没が多いのです。例えば県西部の歩兵も召集された豊橋18聯隊は、マリアナへ派遣される途中で雷撃を受け2000人以上が死にました。その後静岡118聯隊が急遽マリアナへ送られましたが、この部隊も雷撃により2000名以上が海没、生き延びた兵士がサイパンへ上陸するとすぐに米軍の攻撃が始まり、そこで「玉砕」しました。フィリピンへ送られた独立歩兵13聯隊も、バシー海峡で海没しています。        

 「玉砕」というのも、勝利の見込みが全くない中で、ただ死ぬためのみに「敵」の弾幕に突入していく、というわけですから、無駄死にではなかったのか、と思います。日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」(「戦陣訓」)というように、降伏を許しませんでした。白旗を掲げるくらいなら死ね、というわけです。     

  こうして見てくると、日本兵は死ななくても良いところで死を強制され、無駄な死を強いられたのです。だから私は、日本軍兵士の死を悼むのです。こんな無謀な戦争で死ななくてもよかったのに、と。私は、今、日本軍兵士の死を凝視することも必要なのだと思います。

4.戦争体験の継承を

  浅羽町では、浅羽町郷友会『あけぼの』という戦争体験記を作成しています。以前私が村史編纂に関わった磐田郡豊岡村でも、戦後50年を記念して『うつせみのこえ』を編集しました。いずれも、体験者が記していることは、戦争の悲惨さ、悲しみ、そしてこのような体験を子どもや孫にさせたくない、というものです。

  今の子どもたちは、戦争体験世代からはるかに隔たっています。戦争体験を聞かないままに成長してきています。平和のためには戦争体験の継承に積極的に取り組むべきだと思います。子どもたちに正確な「戦争の記憶」を残してあげるべきだと思います。

 戦争体験世代は、すでに70歳を越えているでしょう。今がその最後の機会だと思います。この中川根はそのような戦争体験集がありません。是非作成していただきたいと思います。

5.おわりに -「死者は語らない」か-

 戦争で死んでいった人々は、何も語ろうとしません。しかし、私たちは死者の声を聞かなければなりません。死者は何を語ろうとしているのか、を。

  それは、「無意味な死」を繰り返さないこと、だと思います。私は戦争で死んでいった、例えば特攻隊の溝口さんの遺書に、痛切な「生きたかった!!」という声を聞きます。また先ほど紹介した遺族が書いた文に、「生きていてほしかった!!」という声を聞きます。

 戦争を繰り返させないことが「死者の声」だと、私は思います。

  最後に 有名な詩人、萩原朔太郎が記した「戦争における政府と民衆」(『虚妄の正義』1929、『萩原朔太郎全集』第4巻、筑摩書房 p.275~6)を紹介します。

     復讐や、正義やの純な感情が、民衆を戦争に駆り立てる。丁度我々の個人間で、侮辱への決闘を意志する如く、そのやうに民衆は、彼等の敵国を人格視し、戦争を倫理化しているのである。
 一方で、戦争の主動者たる者どもー官僚や、政府や、軍閥や、資本家やーの観念は、ずっとちがったものに属している。彼等にとって、戦争は全く打算的に決行される。たとへば領土の野心から、金融上の関係から、人口移植の必要から、もしく内乱や危険思想の転換から、政府当局の都合と虚栄心から、その他のさまざまな事情による利益と損失の合算が、彼等の「戦争への意志」を決定する。そして戦争は、かく功利的打算による投機の外、彼等にまで、何の倫理的意義を有していない。正義とか?復讐とか?もとよりこの種の感傷的な言語は、ただ素朴な民衆にだけ、民衆を扇動する目的にだけ、太鼓によってやかましく宣伝される。(中略)されば戦争の終った後までも、民衆の間には、尚久しくあの愚劣な興奮ー敵愾心を指すのであるーの残火が燃え  ているのに、一方では、それの扇動者等が、丸でけろりとしてしまっている。丁度、ゲームを終った同士のやうに、彼等は互に笑顔をつくり、次の新しき打算のために、いそいそとして敵に近づき、心底からの親睦を始めるのである。それによって民衆が、いつでも馬鹿面をし、呆気にとられてしまふ。

 私たちは、この指摘を噛みしめてみる必要があるのではないでしょうか。死者が何を語りたかったのか、それがここに記されていると言えるのではないでしょうか。

 

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コロナ・ワクチンのこと

2025-04-03 13:40:48 | メディア

 コロナ・ワクチンの問題を報じていたのは、ただひとつ、名古屋のテレビ局CBCであった。「大石解説」では何度も、はっきりとは明言することはなかったが、事実を提示することによって、コロナ・ワクチンの問題点、その副作用、接種による効果はあるのか、など、多岐にわたって報じていた。

 しかし、新聞やテレビは、コロナ・ワクチンの問題は、取り上げてこなかった。雑誌もである。

 人びとは、コロナ・ワクチンはどうもおかしいぞ、という疑問を持ち始めた。ワクチンを何度もうった人がコロナに何度もかかり、重篤な副作用に見舞われたり・・・・しかし大手メディアは報じない。

 そうなると、人びとはネットで情報を得ようとする。

 大手メディアをオールドメディアとして不信感を抱き、オールドメディアは本当のことを伝えないという意識を人びとにつくりだしたのは、コロナ・ワクチンについて、きちんと報じてこなかったことにあるのではないかと思う。

 コロナ・ワクチンに関しては、人びとが可笑しいぞと思い始めた後も、メディアは批判的にとりあげることなく、政府・厚労省の立場をとりつづけた。もちろん、CBCを除いてでではあるが。

 さて、雑誌も、やっとコロナ・ワクチンについてとりあげるようになった。遅すぎる、というしかないが、それは今月号の『地平』である。

 最初に医師の山田真さんへのインタビュー。

 今回のメッセンジャーRNAワクチンのような新しいワクチンが使われる際には、本来は接種した人について抗体を調べなければいけないし、調べればワクチンが効いたかどうかわかるわけです。そんな基本的なことを行っていない。緊急輸入ということで、ファイザーなど製薬会社の言いなりになってしまった。このような新しいワクチンを効果も副作用も分からないままうつのは、壮大で危険な人体実験です。

最近のメッセンジャーRNAワクチンのように、従来の素朴なワクチンでなくなってしまうと、体の中で何が起きるかわからなくなってしまう。

 新型コロナワクチンについては、そもそも、いまだに効果があったのかどうか、わかっていません。

 世界的には日本のように5回も6回もうつようにすすめている国はないようで、アメリカやヨーロッパでもせいぜい2回、3回うつことがすすめられたようです。

 コロナなど頻繁に型が変わり、そうするとワクチンの効果は消え、新しい型に対するワクチンをうたなければなりません。

医療費を削るためには子供を病気にさせないことが一番良い、あらゆる病気にワクチンを作り、防いでいくのが良いのだ、というように考え方が変わってきた。

なぜワクチン接種を勧めるお医者さんが多いかというと、病院にとって大きな収入になるから。

 ちなみに山田真さんの家族は、いちどもコロナ・ワクチンをうっていないという。

 次は、天笠啓祐さん。

相次ぐワクチンワクチン推進政策の内実をつぶさに見ていくと、安全性や人々の健康より、製薬会社の利益が優先されているように思える。

新型コロナワクチンは、特例承認という枠組みで、安全性も有効性もきちんと確認されないまま大規模に接種が進められた。この特例承認が承認審査の簡略化をもたらした。今回のレプリコンワクチンは、審査が簡略化されてから承認されたものである。とても人間への接種を行う段階にはない。ワクチンが本来の感染症予防というあり方を逸脱し、あらゆる病気への予防薬として、新たなワクチン開発が進められている。そこにはワクチンが、人々の健康を守るという本来の目的から逸脱し、医薬品産業の利益を優先して開発が進められているように思えてならない。

 次は、楊井人文さん。

 楊井さんの文の標題は、「未曾有の健康被害 ワクチン死亡認定1000人に」である。ワクチンを接種することによって、こんなにも健康被害がでたのははじめてのことで、医者たちも接種を働きかけることに積極的で、テレビなどにも、そのような立場の人が出演し、結局コロナ・ワクチンの問題をとりあげるメディアはほとんどなかった。そして

 コロナワクチンの負の側面を検証することは依然として「タブー」のようだが、このままで多くの人が口に出さないまでも心の奥底に不信感を募らせ、それが本当に必要な予防接種に悪影響が出ることにならないか。

 と書く。現実にワクチンへの不信感が強まり、インフルエンザワクチン接種者数は減っているという。

 次は、田島輔さん。

 田島さんによると、厚労省は大手PR会社と契約して、「新型コロナウイルス感染症のワクチン広報プロジェクト」を立ち上げたという。そして政府の方針に反対するような情報を、「ファクトチェック」して消していったようなのだ。田島さんは、このプロジェクトの資料を入手しようとしたが、黒塗りのまま開示された。そのプロジェクトは、どんなことをしていたのか。予想するに、ワクチン接種に都合の悪い情報を消去していったのだろう。そしてメディアもネットも、それに協力した。

FacebookやYouTubeでは、国やWHOといった保健衛生当局の見解を「正しい情報」と定義し、これに反する情報は「誤情報」として削除される可能性がある。

と田島さんは書いているが、実際削除されていた。

 いずれにしても、政府、医療界、マスコミ、ネット、あらゆる組織がコロナワクチン接種推進に協力したのだ。

 日頃、日本政府について怒り、不信感を示している方々が、なぜかこのコロナワクチンについては、何度もうっていたことを、わたしは不思議な現象だと思っていた。

 何度も書くが、日頃、国民生活がどうなろうと興味も関心もない自由民主党、官僚、政治家どもが、なぜかコロナワクチン接種については積極的であったが、それはやはりカネ=利権につながっていたからなのだろう。彼らが、コロナに苦しむ国民を救済するためにワクチン接種をすすめたとは、とても思えないのである。

 

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やっぱり、そうだろうな、と思った。

2025-03-31 21:20:35 | 政治

 『東京新聞』第一面は、「PFAS重要122文献 不採用」「国、リスク過小評価の可能性」「摂取量上限の決定会議」という記事であった。「摂取許容量の評価を示した際、内閣府食品安全委員会が、参照文献のうち専門家が「最重要」と位置づけた文献を大量に不採用にして結論を出していた」、「リスクが過小評価された可能性もある」と、書いている。

 同委員会の専門家会議は「257件の研究を参照文献として提示」したが、その中から「半数以上の190件を不採用にし、代わりに201件を追加し268件を参照文献として採用した」とある。

 社会面には、「不採用となった「最重要文献」」が掲げられていて、不採用となった文献の内容はPFASの危険性を指摘するものである。

 不採用にした結果か、「欧州食品安全機関と比べると、60倍以上の緩さ」で数値が決定された。

 なるほど、なるほど。政府がやりそうなことだ。国民の健康よりも、PFASを排出している米軍や企業を「大切」にするのは、きわめて日本政府らしい。

 そう考えると、コロナ・ワクチンを、なぜ無料で国民に接種をすすめたのか。疑うべきことではないだろうか。

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大阪万博会場の現状

2025-03-31 09:41:05 | 社会

 大阪万博を主導したのは、堺屋太一、橋下徹、松井一郎、安倍晋三、菅義偉、彼らが酒席で決定していった。

 目的には、大阪にカジノを導入すること、カジノのために税金を投入することができないために、万博を開催することを口実にカジノに関する各種のインフラを整備しようとしたことだ。

 大阪万博の準備は、圧倒的に遅れているという。こういう記事がある。

視察した府議は「思わずぼうぜん」 開幕まで3週間「大阪万博」のパビリオン建設が終わらない! 「骨組みがむき出しで、資材が積み上がり…」

 万博に関する報道をみていると、万博を成功させたいという意気込みは、ほとんどない。大阪維新の政治勢力も、万博協会も・・・・である。

 要は、カジノのためのインフラ整備が目的であって、万博はそのための手段であるのだから、主導していた政府や大阪維新の会、万博関係者も、成功するかどうかにはあまり関心がないのである。

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リニアはいらない

2025-03-31 09:15:28 | 政治

 リニアはいらない。

 今まで、鉄道や道路が整備されればされるほどに、地方から人口が流出していった。鉄道や道路が整備されれば、地方に住む人びとは便利になるといわれていたが、しかしそうではなく、鉄道や道路は地方から人びとを都会へ押し出す手段となっていた。

 政府は、一貫して首都圏への一極集中政策をとりつづけてきた。地方の人口が減り続けるのは当たり前である。

 今度のリニア新幹線建設の発想も、中京圏、関西圏を首都圏につなぐという一極集中政策の一環だと思う。そのために、地下深く掘削するというのだ。

 すでにその工事で、いろいろな支障が発生している。岐阜県瑞浪市では井戸やため池の水位低下、住宅地の地盤沈下がある。これからも工事に伴う支障が次々と現れてくることだろう。

 静岡県では、山奥の地下をトンネルが通ることになっている。しかし前知事の川勝氏は、リニア建設にブレーキをかけ続けた。今の県知事は、浜松市長時代、SUZUKIのトップである鈴木修の言うとおりの市政を行ってきた、みずからの定見がない人だ。ただ、浜松市でやったように、鈴木修をトップとする産業界のための施策を、おそらく全県的にやっていくのだろう。そういう知事であるから、川勝氏のようにリニアに対する知見をもつことなく、流されていくことだろう。

 さて、リニア建設により、もっとも大きな影響は、南アルプスや大井川流域にあらわれる。南アルプスの自然は大きな改変に見舞われるだろう。そしてトンネルを掘削して出る土砂を大井川河川敷に置くようだが、山間部の大井川流域は、山崩れが激しい。寒暖差が大きく、岩石は割れやすくなっている。林道を通したところから山は崩れ、その激しさは見た者にしかわからないだろう。そして水の問題。トンネル掘削により、地下水の流れは大きく変動するだろう。

 リニア新幹線の建設は、本州の地下の自然を大胆に改変する事業である。自然からの報復を考えない暴挙である。

 わたしは、おそらくリニア新幹線は、完成しないだろうと思っている。それは本来不要なものだからだ。

 

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「変な力」

2025-03-30 21:10:25 | 近現代史

 『世界』四月号の「「民主韓国」と日本」(金容奭)を読んでいたら、こんな文に出会った。

 国家存亡の危機に際して国を救ってきたのは、「義兵」、「独立運動」、「民主化運動」など常に「民」の側だった。豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に逃げた王、朝鮮戦争の際に民を残して逃げた大統領、帝国主義に抗することなく、日本に国権を明け渡し、植民地支配に協力したのは権力エリート層だ。このような歴史観が民主韓国に位置付けられている。

 なるほどその通りである。韓国では、「民」の運動により、政治権力が倒されたりしている。ひるがえって日本では、一定の「民」の運動はあるが、しかし政治権力を倒すまでにはいかない。ここに大きな違いがある。

 韓国映画「ハルビン」は、安重根を描いたものだ。果たして日本で上映されるのかどうかわからないが、そのなかに、伊藤博文がこう語る場面があるという。

「朝鮮という国は愚かな王と腐敗した儒者たちが支配してきた国だが、・・・・国難のたびに(民が)変な力を発揮する」

 確かにその通りである。日本では、その「変な力」がでてこない。

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『世界』四月号をほぼ読み終えた

2025-03-30 20:45:20 | 社会

 雑誌を購読していると、なかなか自分の研究が進まない。雑誌に掲載されている文を読んでいると、それに関わるものをさらにさがし出して読むということがあるからだ。だから、なかなかすべてを読むことはできなくなる。それでも、と思い、少しずつ読んでいくのだが、ほぼ読み終わる頃、新しい月になり、『地平』や『世界』の新しい号が送られてくる。しかし、読んでいないと、現在の政治社会状態について、気づきができない。

 たとえば、地方から若い女性が東京など首都圏に流れていき、地方に若い女性がいなくなり、結婚できない男性が増えていく・・・・地方は衰退していく、などということが指摘され、何とか対策をたてようと自治体が考えはじめているという。

 それに対して、片山善博さんは、政府が推進してきた地方行革を自治体が積極的におこない、役所の正規職員を減らし、非正規に依存するようになったことが原因だという。

 浜松市でも、鈴木修の強い要請によって、現在の静岡県知事・鈴木康友は、積極的に市職員の定数削減に励んできた。だから、浜松市役所やその出先で熱心に働いているのは、非正規の女性である。それは図書館も同じである。民間委託していて、それぞれの図書館長は委託された民間会社の社員であるが、実際に働いている司書らはその会社の非正規労働者である。

 片山さんは、こう書いている。

 政府はこれまで自治体に対して職員定数削減などの地方行革を求め、自治体はそれに応じた。業務が減らない中で定数削減を行うため、正規職員を非正規職員に置き換えたり、公共施設の管理を指定管理制度により民間事業者に委託したりして、名目上でのみ削減した。

 いずれにしても、そこで働く人たちは不安定な雇用と低賃金の官製ワーキングプアになる。例えば図書館の司書は本来は知的で魅力のある仕事であり、特に若い女性に人気が高いが、最近ではそれが軒並み官製ワーキングプアと化している。司書資格を得て、ぜひ郷里の図書館で働くことを願う女性がいたとしても、生涯非正規職にとどまるとしたら、きっと二の足を踏むに違いない。

 図書館司書に限らない。保育所の保育所しかり、最近では教員の非正規化も目立つ。ともあれ自治体は政府の要請に応えて地方行革に邁進した。政府から行革先進自治体など持ち上げられ、悦に入っていたところ、ふと足元を見たら「女性や若者に選ばれない」地域になっていた。こんな戯画的なことがあちこちで現実に起こっている。

 片山さんの言うとおりである。

 ただでさえ魅力が少ないところで、非正規労働者としてシコシコと仕事をして生きていくより、東京などで華やかな生活をしてみたい、という気持ちになるのはある意味で当然である。

 若い人たちを引き留められる魅力はあるのか、あるいは正規として働く場があるのか、それが地方には問われているのだろう。

 国からの要請に素直に従っていったら、地方の状態はさらに悪化する。政府は、ずっと前から、東京一極集中政策をとってきた、その一環として地方で暮らせなくさせてきたのだ。地方行革もその一つであった。

 上から言われることに唯々諾々と従うのではなく、自分のアタマで考えろ、ということである。

 

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【本】吉見俊哉『アメリカ・イン・ジャパン』(岩波新書)

2025-03-29 20:39:22 | 

 アメリカと日本との関係を歴史的に考えようとしているわたしにとっては、なかなか刺激的かつ衝撃的な本であった。

 最後の第九講「アメリカに包まれた日常」は、とりわけ衝撃的であった。わたしは脱アメリカを志向しているのだが、ディズニーランドに関する記述を読んで、「はしがき」に書かれていた「近現代の日本人は、そのようなアメリカに全力で一体化しようとしてきた」が、今も続いているのだと思わざるをえなかった。

 第九講は、星条旗、「自由の女神」、「ディズニーランド」をとりあげて、日本がいかにアメリカに「包まれ」ているかを論じていくのだが、星条旗についてはふむふむと読み進んで、「自由の女神」については、う~んと唸ってしまった。

 「自由の女神」像は、言うまでもなくニューヨークにある。そのもともとのモデルは、フランスの画家ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」である。この絵が東京国立博物館に来たときは、朝早くから上野に行って、博物館のまわりに並んだ記憶がある。

 そして「自由の女神」は、フランスの自由の象徴であり、それがフランスの市民により、1886年、アメリカに贈られた。

 ところで、その「自由の女神」像、日本の各地で見られる。今あるかどうかはわからないが、浜松インターの近くにあるホテルの屋根にそれがあった。それだけではなく、静岡県の静波海岸にも、そして観光地として有名な奥入瀬(おいらせ)にも、そこには巨大な「自由の女神」像があるという。近隣に米軍三沢基地があるからだという。

 日本に於ける「自由の女神」像は、「自由」という理念とはおそらく無関係に建てられている。

 吉見はこう書く。

 日本では戦後、国内各地に「自由の女神」が設置されてきたのですが、その背景は諸外国と大きく異なりました。日本以外の多くの国で、自由の女神像の建設は、「自由」「共和国」「独立」「革命」といった観念と結び付けられていました。ところが日本では、自由の女神像の建設でそのような観念上のことが問われたことはなく、むしろ日本にある自由の女神は、アメリカ的な豊かさやギャンブルやセックスの自由奔放、さらには流暢な英語や米軍文化との結びつきを示す記号として受け入れられてきたのです。日本人にとって自由の女神はとてつもなく通俗的な記号なのです。(253)

 そしてディズニーランド。30年ほど前だったか、ロサンゼルスのディズニーランドには一度だけ行ったことはあるが、浦安のそれには一度も行ったことはない。だからディズニーランドの内部がどうなっているのかまったく記憶がない。

 そのディズニーランドについて、吉見はこう書いている。

 東京ディズニーランドを訪れる入園者たちは、19世紀の北米大陸に入植して先住民たちを駆逐し、虐殺し、記憶から抹消してきた白人プロテスタントのアメリカ人たちのふるまいに自らを重ね、さらにはハワイや南太平洋も支配下に収めていった蒸気船の乗員を再演しているのです。(264)

 白人プロテスタントのアメリカ人は、自分たちの祖先が犯した犯罪的な行為を反省することなく生きている。アメリカは、他国に対しておこなった非道な行為を謝罪したことはない。たとえばベトナム、アメリカ軍によって大量の枯葉剤を撒布されたベトナムの民衆には、いまも様々な障がいがあるどころか、新たに生まれ出る子どもにも回復不可能な障害を伴う。ベトナムの民衆に、アメリカ政府は謝罪し、補償したか。ノーである。アフガニスタンに、高空から爆弾を落として無辜の民を殺傷したことに、謝罪したか。ノーである。

 吉見はこう書く。

 ディズニーランドに入った人びとは、「例えばベトナムやアフガニスタンを空爆し、パレスチナを徹底的に痛めつけるイスラエルを支援し続けるアメリカに寄り添い、「日米同盟」が自らのアイデンティティの支えであると信じる現代日本人の心理において上演され続けるでしょう。」と。

 ディズニーランドで楽しんでいる人びとは、アメリカがおこなってきたことを、みずからがアメリカ人であるかのように体験する。アメリカと「一体化」するのである。

 日本人は、脱アメリカより、アメリカの51番目の州になることの方を選ぶのだろうか。

 

 本書は、たいへん有意義な内容を持っている。教えられたことは数限りない。もっともっと勉強しなければならないことを教えられた。

 

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ストライキが足りない

2025-03-29 09:11:45 | 社会

 『女性セブン』という雑誌がある。そこに斎藤幸平が「夜明けのコモン」と題する連載を持っている。4月10日号の標題が、「ストライキが足りない」である。

 斎藤は今、ドイツにいるようだ。ある朝、フィンランドに行くことになっていたところ、空港のストライキでキャンセルとなった。ドイツのその労働組合は8%の賃上げ、ボーナス増額、休暇の拡大を要求していた。

 斎藤は、「マルクス主義者として、労働者たちのストライキを支持しないわけにはいかない」と書く。

 「ドイツ社会はストライキに寛容だ」と斎藤は書くが、ドイツ社会だけではなく、ヨーロッパはほとんどそうだろう。日本のように、ストライキを毛嫌いすることこそおかしい。

 だいたい、関西生コン労働組合のように、労働者として、労働組合として、日本国憲法や労働組合法に準拠して組合活動を行うと、政治権力(検察、警察)が大挙して襲いかかるのが、この日本という国の特徴だ。

 わたしが学生の頃、国鉄や私鉄など、ストライキがしばしば行われていた。ところが、国鉄の分割民営化、連合の創設により、労働組合の力は奪われた。今では、ストライキが行われることはほとんどなくなっている。

 在職中、わたしも何度かストライキを行ったが、その度に処分をくらい、そのため同期より給料が下げられ、それは退職金にまで反映されている。損をしても、すべきことをすることが、権利を守ることになる。

 さて斎藤のこの文の最後の方に、「政府に消費税減税や103万円の壁撤廃を求めて、必要な社会保障までも削ってしまう羽目になる前に、もっと金をよこせと会社に強気に出る労働者をみんなで応援する社会の方が、明るい未来を開くだろう。」とある。

 残念ながら、日本の組合は、ほとんどが「御用組合」で、組合は会社側と協調し、組合幹部が社内で昇進していく。それは多くの公務員職場でも同様だ。労働者諸君は、「出た杭は打たれる」ということばにあるように、目立たないように仕事に励んでいる。

 斎藤の文の末尾は、「万国の労働者よ、団結せよ!」である。労働者は、経営者と団結するのではなく、あくまで労働者同士が手を組まなければならない。それが万国の労働者の鉄則である。

 

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知らないままに・・・

2025-03-28 18:58:20 | 

 吉見俊哉『アメリカ・イン・ジャパン』(岩波新書)を読んでいる。それを読んでいて、驚いたことがある。

 戦争末期、米軍が日本へ激しい空襲を行ったことは誰でも知っている。どこに落とすべきか、アメリカ軍は何度も空から写真を撮って、分析していた。その際に撮影した写真は、今、国土地理院だったと思うがみることができる。

 その撮影の詳細が、本書には記されている。

 (写真偵察機)F13の機体はB29を改造し、数種の大型カメラを装備していました。第一は、地上の30ー50キロ四方の比較的広い範囲を撮影するトライメトロゴン用カメラ3台です。「トライメトロゴン」というのは地図製作用の技術で、中央のカメラは下方、左右のカメラは水平面から30度傾け、各カメラで撮影された写真をカメラの位置を光源として水平面上に投影することで正確な地図を作成できました。第二に、F13は同じ範囲に照準して鉛直軸からわずかに傾く2台のカメラも装備していました。これらのカメラで約3キロ四方を撮影し、そのフィルムを合成して地上の高低や建物の高さを計算し、それらの凸凹を立体視できる写真を作成できたのです。さらに、より広い範囲を直下で撮影するため、もう1台の直下撮影用のカメラも搭載されていました。加えて、F13には夜間撮影用のカメラも載せられ、照明弾とセットで使用されました。

 このF13が、東京上空に最初に飛来したのは1944年11月1日です。午後一時頃に房総半島から東京に侵入し、東京近郊の航空関連工場、京浜の軍事工場や横浜近郊の海軍施設を撮影しました。その後も同機は、11月に27回、12月にも27回出撃し、東京と名古屋を上空から精密撮影しました。こうして44年から45年にかけての頻繁な飛行で撮影された膨大な枚数の航空写真は、サイパンにあったアメリカ空軍第三写真偵察隊で現像され、組織的な分析と地図や模型の製作が進められました。この部隊は、45年5月には1000人を擁するまでに膨れあがったそうで、F13の写真が米軍の日本空爆でいかに重視されていたかがわかります。東京上空は、敗戦一年近く前からすでに「占領」されていたようなものだったのです。

 米軍が技術開発を進めていたのは、F13による航空写真だけではありません。爆撃の効果を正確に予測し、その結果を検証する仕組みも発達させていました。1943年10月に作成された『日本ー焼夷攻撃資料』では、米軍は日本の20都市を空爆対象として選定し、それらの都市を焼き尽くすのに必要な焼夷弾の量を計算しています。そのため、各都市の構造、建物配置、消失可能性、人口密度等についてのデータが集められ、爆撃の対象地域が三種の焼夷区間にゾーニングまでされていました。

(中略)

 このような地区選定には、さまざまな社会学的データも利用されていました。とりわけこのゾーニングでは、1940年に日本政府が実施した国勢調査の結果が利用され、地区ごとの精密な人口密度が算出されていました。米軍は、日本政府が実施した調査を利用し、日本空爆のための基礎データを得ていたのです。これに加え、彼らは日本の諸都市での火災保険データも入手していましたから、家屋の保険料から地区ごとの「もえやすさ」を算出していました。これらと航空写真から得られる建物物のデータを総合すれば、各地区でどのくらいの焼夷弾を投下すれば、どれだけ火災が広がるかを統計的に予測できたわけです。(137~140)

 結局、日米戦争の最中にあっても、日本人は自分たちの都市や国土が徹底して観察・分析されていることに気づかず、「鬼畜米英」という幻想的な標語によってアメリカの実体を視界の外に追いやり、相手を直視することを避けて内閉していきました。日米の間には、軍事的・経済的な不均衡ばかりでなく、こうした圧倒的なまなざしの不均衡が存在したのです。(144)

 その文の前に、こういう記述がある、

 日本人は、「アメリカとは何か」をまるで理解も認識もしないまま、よく知らない巨大な相手に無謀な戦争を仕掛けていったのです。(144)

 この最後の記述は、現在もそのままだと思った。日本は、アメリカがいかなる国家であるかを観察・分析することなく、「日米同盟」とか、「日米パートナーシップ」と言い、全面的にアメリカを信じ、従っている。アメリカが中国を敵視すれば、日本も同じように敵視し、沖縄県の諸島に自衛隊の軍事施設を積極的に建設し、アメリカへの忠勤に励む。冷戦時代は、北海道に自衛隊の主要部隊があった、ソ連がアメリカの敵であったからだ。

 アメリカは、きわめて独善的な国家である。気にくわなければCIAをつかって他国の政権転覆など、平気でおこなう。独善的だけではなく、きわめて好戦的な国家でもある。

 日本が、アメリカにべったりとくっついていることの意味を、しっかりと認識すべきである。トランプが何を考えているかを分析することなく、どうか日本の自動車には関税をかけないで、などと懇願する日本政府の姿勢には失望するしかない。

 

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人間としての情感

2025-03-28 07:22:01 | その他

 浜松市で4人の女子小学生が自転車に乗っていたところ、軽トラックが突っ込んできて、一人は亡くなり、一人は意識不明、2人は軽傷だという事件が起きた。軽トラックも運転手は78歳、なぜ子どもたちの列に突っ込んだのかはわからない、一時的に意識がとんだという説明がされているようだ。

 とても、とても悲しい事故だ。ご両親、ご家族の悲しみ、怒りは、想像をこえる。こういう痛ましい事故を知ると、何とも言えず、ただただ頭を垂れるだけだ。おそらくこの事件を知った人びとは、悲しみを共有していることだろう。

 ひとりの人が亡くなるということ、それは悲痛としかいいようがないことである。

 ところで兵庫県では、県政に関わって自死された方がいる。これもやるせない悲しいことだ。自死に追い込んだ経過はすでに周知のことであるが、追い込んだ人びとは、何の痛痒も感じない方々であるようで、人間としての感情が欠落しているように思える。

 テレビを見ないので、兵庫県政に関してはユーチューブの民放などのニュースなどである程度知ってはいるが、あの県知事に投票したのは兵庫県民であるから、おそらく県民は人間としての情感をもたない方々を県政の中心に置いておくのがよいと思っているのだろう。

 安倍晋三という政治家がいたが、彼が首相となって以降、他者の意見を聴かずに強引に政治を推し進めるという政治手法が日本で成立した。政治家の多くはそうしたやり方をとっている。それはまた世界各地でみられる現象となっている。

 トランプに処世術を教えた、弁護士がいた。彼はトランプに、「勝ちたいならなんでもやれ!」、「非を絶対に認めるな!全否定しろ」、「勝利を主張し続けろ!」の三ヶ条を教えた。トランプはそれを実践し続けているが、日本でもその真似をする人が増えた。このような処世術で生きている者には手の施しようがない。対話が成立しないからだ。

 そういう対話が成立しない人を時折見かけるが、政治家=権力者になったら手がつけられなくなる。そういう人物が政治を行うような時代になっている。そしてそういう人を「良い」として支持する人びともいる。

 イヤな時代である。

 

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