2000年8月21日から28日まで「満洲」に行った。目的は、静岡県出身の一兵士の足跡を追うこと、もう一つは「満洲移民」に関わる現地を見てくること、であった。一人旅であった。私は歴史に関わる海外調査を何度か行っているが、いつも一人である。自由勝手に動き回るためには、一人が一番である。グループで行くと、グループ内で完結し、現地の人々との直接的な交流になかなか進まないのがふつうである。一人だと、現地の人々と交流せざるを得ない。それに、通訳はわたし専属となる。
この旅で見聞したこと、感想などを、以下に書き綴ろうと思う。なおこの地域を「満洲」と記す。そうされていた時期の研究のために訪ねたからである。
21日
21日10時40分、JAL781便は成田空港を離陸した。途中眼下に遼東半島を見る。「関東州」についても行ってみたいところだ。
現地時間13時30分頃北京に到着、国内線のハルビン行き17時発を空港内で待つ。17時になりやっと機内へ。同じゲイトの先発成都行きが、乗客が来ないということで遅れたのだ。CJ-6218ハルビン行きのの離陸は17時30分、30分遅れである。
上空から見る「満洲」は、豊穣な農地が拡がり、関東軍=日本帝国主義が欲しがった理由がわかった気がした。ハルビンへは19時到着、すぐホテルへ。空港からホテルまでは40分近くかかった。今まで南京、杭州、天津、北京などを訪れたが、自転車の数が少ないように思えた。自動車の数はやはり多い。主要道路は自動車がぎっしり。
22日
(1)ハルビンにて
22日午前中、私と同行する通訳(黒竜江省中国国際旅行社所属)が大連から帰ってこれないからということで、ホテル周辺を散策。ホテル近くの松花江を眺め、旧ロシア人街=中央大街を歩く。歩行者天国になっており、夏休み中の子どもたちが多い。商店が並び、書店があったので入るが、日本のようには本は並んでいない。学習参考書が多かった。周辺を散策したとき、自動車も歩行者も交通規則を守っていないことに気づいた。規則を守らせるために、紅いベストを着た老人たちが交通整理をしていたが、多くは無視である。
ホテルに戻り待っていると、ガイドが来て、担当通訳がまだ着いていないので代わりに市内を案内するという。その時、私を知っている日本人がいる、というので、その集団のバスに近づくと、「中国人戦争被害者の要求を支える会」の尾花知美さん、10月15日に開かれる国際シンポジウム「戦争と紛争の世紀の終わりにー今なぜ、真相究明なのか」の担当者=小川さんが、出てきた。初対面ではあったが、尾花さんとは中国人強制連行被害者の聞き取りの関係、小川さんとはシンポの関係でメールを交換していた。731部隊について調査に来たとのことで、世の中は狭い。そこで別れ、24日朝の再会を約す。
昼食をとって「東北烈士紀念館」に。そこでは宣教部副主任の邢継賢女史に説明を受ける。ここは「満洲」地域における反満抗日運動「烈士」の業績が展示されているところで、澤地久枝『もう一つの満洲』(文春文庫)で知られた楊靖宇(東北抗日連軍第一軍軍長)などの戦歴が讃えられている。女性革命家の子どもに宛てた遺言が感動的であった(次号で紹介する)。そして一昨年の洪水の写真展も見る。大変な洪水であったことを知る。その後、「満洲」時代の建築物のいくつかを見る。各所に残されているのは、韓国と同様である。
(2)夜行列車に乗る
密山へ行くためにハルビン駅にいく。旅行社の事務所が駅前にあり、ここで通訳と一緒になる。27日午前中まで一緒に行動することになる同年齢の男性、許さんである。福井県に住んだことがあるということで、道中そこでの体験をいろいろ聞いた。彼は、歴史に対する興味が特に強いわけではなくその点で不満が残った。しかしどういう手配をしてあったのか、私の調査が円滑に出来るように、行く先々で地方政府機関が協力してくれた。
さてハルビン駅での出来事を記さなければならない。待合室にいると日本語が聞こえてくるのであった。高齢の女性たちを中心とした16人、最高年齢89歳の集団であった。一人は腰が曲がり、杖がないと歩けないおばあさん。若い人は日本人女性が二人、日本在住の中国人(梁新勇さん)とそのいとこの中国人男性、12人は老人で平均年齢は70代だろうということであった。私と同じ密山へまで行くというのである。ハルビンから密山までは夜行で12時間ほどかかる。たいへんな道のりである。
私はもと「満洲移民」の人たちであろうと思い尋ねると、違うという。グループの男性の一人が戦時中佳木斯(チャムス)の部隊で軍医をしていたということで、その地を訪ねるという。梁新勇さんが日本留学時、福岡在住のその医者にお世話になったので、恩返しということで中国を旅行して回っていて、これで三回目。その医者が中国旅行をしているということを聞きつけ、次々と参加してきて、今回がいちばん多いという。梁さんは、3人分くらいの荷物を背負い、待合室から階段を下り上りする際には、杖をついたおばあさんの後をゆっくりと付き添っていた。また高齢になっても、海外へ旅行しようという意欲にも感心した。この日は、731部隊の関係施設を訪問し、その医者は、こんなことがあったのか、知らなかったと驚いていたという(医者とは話す機会がなかった。列車では食後すぐに寝たとのこと)。
16時02分、密山行きの夜行列車は動き出した。コンパートメントで、いろいろな人と話をした。
動き出して間もなく通訳の許さんが、密山の小学校の校長先生を連れてきた。密山についての情報を聞いたが、中国の学校についての話が面白かったのでそれを紹介しよう。
中国では今までの教育を反省して自由化教育に進んでいる、今までは長時間子どもを拘束して、一律に学習を強要してきたが、そうではなく個性に対応した教育、子どもたちの意欲などを生かした教育にしようとしている、というのだ。日本の動きとたいへんよく似ているので驚いた。そこで、どういう変化が現れているかを尋ねたら、少数の勉強する子とそうでない子の二極分解がでている、という。それは一人っ子政策の影響もあるが、文革の影響もある、というのは文革期に子どもであった現在の親は、きちんとした教育を受けていないので、子どもたちに何も教えられない、だから自由主義的教育はさらにその格差を広げてしまう、教育はたいへん難しい状況にある、とのこと。現象面では日本とよく似ている。教員には本当に優秀な人はなりたがらないから人材確保がたいへんだ、ともいう。教育はいつの時代も、どこでも難問なのである。
食後、前述のグループの梁さん、山田知恵子さん(福井県敦賀市在住)たちと話した。山田さんは既に中国各地を訪れていて、延吉などにも行き北朝鮮との国境もみてきたという。また女学校時代に「満洲」へ行く義勇軍の少年たちを見送りした時の光景が忘れられないという。戦争世代には、そこに行っていなくてもそれぞれ「満洲」の思い出がある。
その後、私は眠られず夜中まで読書。私のコンパートメントのみ、なぜか、私一人。数時間眠ったかどうかという頃目が覚めた。あたりは明るくなっていた。私は窓の外をずっと眺め続けた。線路の両側に植栽された並木の向こうに、豊かな田畠が広がる。この付近は「満洲移民」として静岡県民が入植したところでもある(哈達河開拓団など)。私は二度「満洲移民」について書いたことがあるが、移民からの便りのなかの「肥沃な大地」、「作物は肥料なしでも良く育つ」は、より多くの移民を参加させるための宣伝であろうと思いこんでいたが、そうではないことがわかった。豊かである。冬になると凍結してしまうのだろうが、夏は豊穣そのものである。
昨日まで雨が降っていたということで、緑は太陽により映えていた。
23日
(1)饒河へ
朝5時20分頃、密山に着く。駅には密山市旅游公司総経理・市旅游副局長馬樹東さんが待っていた。とりあえずホテルに行ってシャワーを浴びる。朝食をとりすぐに出発である。目指すは饒河である。饒河はロシアとの国境付近、ウスリー河沿いのハバロフスクに近いところにある。密山から車で4時間くらいと聞いていた。ここは1943年1月、富士市周辺の「満蒙開拓青少年義勇軍」(植松中隊)が清渓義勇隊開拓団として入植したところである。「ソ満国境」であるから、敗戦時は悲惨であった。
広々とした田園地帯を走り続ける。道路の両側は白樺の並木である。舗装はされていない。道路の片側には延々と盛られた土が並んでいる。紅いジャケットを身につけた人々が、その土を道路に入れ補修している。昨日まで強い雨が降っていたからか、とにかく多くの人が道路補修に従事していた。いわば人海戦術で、道路を守るのだ。その道を時速80㌔㍍で突っ走る。警笛は多用された(中国での使用は当たり前。規則を守らないから、警笛なしには安全は保てない)。アヒルの集団まで道路を横断するのであるからたいへんだ。
さて順調に走ってきたところ、月牙というところに「公安検査駅」があり、そこには軍の国境監視隊が常駐していて検問を行っていた。そこで足止めを食らった。日本人は通過させないというのだ。密山で通過許可証をもらってこい、というのである。そんな時間はない。そこで密山の現地ガイドは、あちこちと連絡をとり(携帯電話が普及している)、近くの虎林市のトップ(そのような説明を受けた)に来てもらい、交渉の末、通過できることとなった。通訳の許さんは、中国は法の支配ではなく、人の支配によるのだとポツリとこぼした。兵士も混乱するだろう、とも。この間待つこと1時間30分余。
待っている間、現地のスイカや瓜を食べた。道ばたで農産物を売っているのである。人々が集まり、アヒルが餌をつつく。そこに一人の老人が座っていた。通訳の許さんに質問してもらった。その老人の戦争体験の一つは、反満抗日の7人の学生が、日本軍により池に放り込まれ、銃で撃ち殺されたのを見たというものであった。戦時下を生き抜いたすべての人々が、日本軍(兵士)の蛮行を見、記憶している。
さてそこからは悪路となった。ほとんど原生林ではあったが、荒れ地、湿地帯、人家があるところには畠。そして時折スコールのような雨が襲う。延々と続く原生林は、虎でも出てきそうな感じである。途中何度か深い轍ができていて通過できるかどうか危ぶまれるような箇所もあった。
それでも午後2時過ぎ、饒河に着いた。7時間ほどかかった。饒河も広々とした田園に囲まれていた。通過してきた原生林とはまったく違う世界である。到着したところは饒河県賓館、そこには県旅游局々長の韓基勝さん、局員の楊忠明さんのお二人が待っていた。
(2)饒河にて
賓館では昼食を出された。はるばる日本人が来るというので、県長は今まで待っていたのだという。県長からは、しっかりともてなすようにと言われているという。話のなかでは、どうも日本と何らかの関係を持ちたいということのようであった。戦後ここに来た日本人は商売人が二人、もと移民の人々が二回、女性一人で来た時と集団で来たときがあった、という。女性は帰国後、本を送ってきたという。集団は懐かしい、懐かしいと言って、帰っていったという。
食後、清渓開拓団の入植地へ行った。そこで老人と会わせていただいた。郭英臣、金清松のお二人である。金さんは72歳の朝鮮人である。「開拓団が住んでいたままの住居ですか」という質問に、「(開拓団が入る前から)この通りで、私たちはその前から住んでいた」と答えた。「ウスリー河畔満鮮原住民の内国移民の跡に入植す。関東軍の要請により国境地区に村創りを始め、満鮮人の家屋及び耕作地を接収して」(静岡県『静岡県送出元満洲開拓民の概要』)というのが実状であるから、そう答えるのは当然であろう。接収は満州国政府機関の命令により行われ、補償金はもらわなかったという。日本の敗戦は開拓団が突然いなくなった後に知った。いなくなった後にもとの家に戻った。接収された後、郭さん、金さんらは近くの未開拓地へ移り住んでいた。日本人との交流はほとんどなかったという。
聞き取りを終わって、県庁舎に行った。そこでは県誌編纂室長の姚中晋さんと会い、『饒河県誌』をいただく。B5・1000頁近い本である。また自伝小説『東大山伝』もいただく。山東省出身である姚さんの家族の伝記である。今後も様々な交流をすることを話し合った。
再び賓館に行き、夕食をとる。姚さん、横浜のパン屋さんで修業したことのある賓館総経理王玉良さんも交えての楽しい語らいであった。
18時40分、密山に向けて出発。道中のことを考えると不安であった。あの原生林を通過しなければならない。途中ドライバーがダウン、疲れてもう運転できないと言う。ほかに運転できるのは私しかいないので、国際免許証を持たないまま左ハンドルの車を密山近くまで走らせた。車幅がよくわからないので対向車が来る(ほとんど来ない)と徐行しなければならない。舗装のない道を時速約80㌔㍍で走らせたが、ライトは道の両側の白樺だけを浮き上がらせ、上からは漆黒の闇がのしかかるような圧迫感を受けながらのドライブであった。ホテルに着いた時の時刻は、0時40分。6時間かかったことになる。途中の小休憩時、雲の間から見えた無数の星の乱舞は見事であった。いつか「満天の星」を見たいと思う。
24日
(1)平陽鎮を訪ねる
この日は平陽鎮にいくことになっていた。密山のホテルから、広々と広がる肥沃な田園地帯を眺めながら走る。大豆、とうもろこし、ひまわり、コウリャン、そして米。水田は各所にあった。「満洲」の水田稲作は、朝鮮半島から移住してきた人々(出稼ぎや、日本の帝国主義支配を嫌って、あるいは植民地支配の結果生活を破壊された人々、そして植民地支配に抵抗する人々)が始めたという。もちろん現在は中国人も米を作っている。水田もかなり多い。
平陽鎮も国境地帯にある。連なる山に国境線が走っている。「満洲国」はここに平陽鎮国境監視隊を置いた。そのなかに朝鮮人だけで編成された中隊があった。最初の中隊長が静岡県出身の中谷であった。中谷はそこで病死したが、その後朝鮮人部隊は3度反乱事件を起こした。1930年代半ばのことであるから、その事件そのものについての調査は現地では不可能と思い、ただその周辺の風景を見ておこうと思ったのだ。そしてできれば朝鮮人の集落を訪れようと思っていた(時間不足でできなかった)。
平陽鎮の役所を訪ねた。そこでは平陽鎮政府・中国共産党書記の郭宝成さん、鎮長の王□□さん、それから昔のことを良く知っている王永仁さん(もと教師、72歳)が出迎えてくれた。ここでの聞き取りは割愛するが、話を聞いた後に昼食をとった。食事の際には必ずアルコールが出される。アルコールに弱い私は困惑するのだが、中国料理はビールと一緒に食べないといけないようだ。味の点からも(濃い!)そういえる。
ここでは驚くべき事があった。中国のどこでも米を食べるが、決しておいしくはない。しかしここのはとてもおいしかった。日本の銘柄米のレベルで、米粒に輝きがあった。日本の技術を導入しているようなのだ。また蚕もだされた。さなぎのまま食べるのだ。もちろん油で炒めてある(今回の旅行では、豚の耳、アヒルの水かき、ナマズ、フナなどを食べた。私は郷には入れば郷に従えで、だされたものは基本的には食べることにしている)。
なお会話の中で、日本の農業後継者不足に触れ、中国ではどうかと問うたら、後継者はいっぱいいる、現にロシアの農業労働力として出稼ぎにも行っている、日本にも行ける、と応答があった。日本も中国の農業労働力を導入するのだろうか。
もっとここで調査をしたかったのだが、16時22分ハルビン行きの夜行寝台を予約してあったので、やむなく駅へ。
この密山で風邪をひいた。移動はすべて車であり、窓を開けて走る(通訳、運転手ともタバコを吸う。私は煙に極めて敏感で、そのためにのどを痛めることがよくあり、換気のために開けるのだ)。道路は基本的に舗装されていないから、ほこりが舞い込んでくる。そのため鼻と喉をやられてしまったのだ。
(2)夜行列車のなかで
列車に乗る。私が入るコンパートメントでは、すでに一人の老人が書き物をしていた。話を聞くと80歳だという。名前は時林さん。戦争中は何をしていたかを問うと、新四軍の兵士だったという。華中の紅軍、日本軍と戦った中国共産党の軍隊である。新四軍では輸送業務に携わっていたという。物資はどのように調達したのかと問うたら、地主から、という。なぜ新四軍に加わったのかを尋ねたら、食えなかったからだと答えた。このような問答を繰り広げながら、思った。国家は不条理なものだ、と。国家は、戦時には勝手に人々を敵味方に分ける。しかし本来民族や国籍が違おうとも、このように語らいの相手となるのである。私たち二人は、「平和はよい」と確認しあった。江蘇省如皋市出身の老人は中華人民共和国成立後の1950年に牡丹江に移り住み、そこで農民として生きてきた。この旅行は古参党員への慰安旅行で、若い人がずっと付き添っていた。老人が眠れば静かにし、老人が語りかければ応じる、という対応であった。
この列車でも日本人がいた。私はこんなところは日本人も行かないだろうと思っていたし、日本の旅行社もそういう認識であった。しかしハルビンー密山の行き帰りで会ったのだ。日本人はどこにでもいる。ここであったのは大鳳商事の阿部松夫さん。穀物の輸入などの業務を担当しているとのことである。「満洲」の農業について話した。
「満洲」は豊かで、開拓して三年間は無肥料で作物は育つ、その後は有機栽培であること、日本の農業技術が導入され、日本人技術者も来ていることなどを伺った。今回の訪中は、会社の人たちに「満洲」地域の農業の実態を見せるためであったとのこと、6人のグループであった。
その後、私は風邪気味であったため、コンパートメントで横になる。眠れなかったが、とにかく横になり、水分をひたすら補給した。
25日午前5時頃、列車はハルビンに着いた。
25日
まずホテルでシャワーを浴び、9時出発。1934年8月30日におこった匪賊による列車襲撃事件の現場を確定し、撮影することである。場所は、当時の新聞報道によると、ハルビンを南下し、五家(子)駅を経て双城堡駅に近いところ、線路が橋を越え、両側が線路より高くなっているところである。
ちょうど運転手さんの出身が五家であったので、彼の親戚をまず訪問した。その家の老人が案内に立つことになった。最初案内されたのは、おそらく日本軍の鉄道守備隊が駐留したところだろうと思われる、沿線に壊れた煉瓦の建物があった。老人は「ここだ」という。しかしここは、周囲より線路が高い。ここではない。通訳も、炎天下、といっても風は初秋であった、もう引き上げたいという風情であったが、私は「ここではない。第一地形的にもあわないし、五家駅にも近すぎる。説明した地点が判明しなければ、わざわざここに来た意味はない!」と話し、双城堡に向けて更に探すことを強調した。
中国など、外国での調査は優柔不断は禁物である。断固として要求すべきである。通訳は基本的に歴史に興味を持っているわけではない、説明したら分かってくれるだろうというような、通訳の善意に期待する方法には限界がある。目的を完遂する決意が大切である。
線路に沿って、ぬかるんでいる農道を、ゆっくりと進む。果たして車が通ることができるのか危ぶまれるようなところを何とか進んで行くと、古い橋脚があった。現在の線路と並行している。昔使用されていた鉄道の橋脚だという。そこからしばらく行くと、周りが高台になっているところがあった。現在鉄道の両側には鉄条網が張ってあり、入れないようになっている。しかし、鉄条網の隙間をみつけて侵入し、高いところに登ると、確かに襲撃にはうってつけの所である。私はほぼここだろうと断定した。そして、列車が走る姿を写真におさめることができた。
これで一応旅の目的は達成した。
なお、ここで面白いエピソードを書いておこう。この調査の途次、五家駅にたくさんの人が集まっていた。黒竜江省視察を終えた江沢民の列車が駅を通過するので、その列車を見るために集まっているというのだ。その時は「ふーん」と思っただけだったが、私たちはその被害を受けた。駅をすぎてしばらく行ったところに線路を横断する地下道があるのだが、江沢民の列車が通過するまでは通さないと言うのだ。公安警察が見張っている。地下道周辺には、トラック、自動車はもとより、たい肥などを載せた馬車(?)などが停車させられていた。人民の生産活動がストップさせられているのだ。通訳氏は「江沢民は皇帝ではないのにおかしい」としきりに同意を求めた。私は、日本でも天皇家の移動の際に同様なことが行われていると説明した。
私たちはここで1時間ほど待たされた。江沢民の乗る列車は美しく青色に輝き、窓を覆うレースのカーテンは真っ白であった。あの窓からは人々の生活は見えないだろうと思った。そして列車は待たされている人民を一顧だにせずに足早に走り去っていった。
26日
この日、平房に行った。言うまでもなく関東軍731部隊である。731部隊については説明を省くが、実際行って驚いた。731部隊は証拠を隠滅するために施設を徹底的に破壊したと聞いていたが、いくつかが残されているのである。主要部分はもちろん破壊されたようだが、本部建物、小動物地下飼養場、黄鼠飼養槽、ボイラーの煙突など、実際に見ることができた。
「侵華日軍第731細菌部隊罪証陳列館」に到着すると、靖福和さんが待っていた。靖さんは、戦時中、731部隊の近くに住んでいた(メモを取らなかったので正確ではないが、部隊が設立される時に移転させられた?)。部隊が破壊された後、ペストが流行し、靖さんの家族は4人を残して(ここは間違っているかもしれない)ペストによって「殺された」という。現在は陳列館で、訪問してくる人々に、731部隊の実態を説明している。
この日も、戦後、地域住民が部隊跡から持っていった水槽が届けられたという。そして現在、731部隊の「罪証」を後世に伝えていくべく、破壊された主要部分の跡を発掘している。
陳列館での説明を受けた後、私たちは靖さんに連れられて、前述の残存しているところを案内していただいた。ボイラーの煙突に関わるコンクリートの建物は、本当に頑丈に造られていた。おそらく、毒ガス・細菌戦について、ずっと研究・開発・実験・実施していくつもりで建設されたのだろう。その後、地下飼養場、黄鼠飼養槽を見た。飼養槽は、まさにそのまま残されていた。残されている施設は、学校に利用されている本部建物を除いて周囲に柵があり、鍵がないと入れなくなっているが、靖さんは丁寧に私たちを案内してくれた。この731部隊関係の「遺跡」は十分見る価値がある。靖さんは、別れるとき、大勢の日本人を連れてきて下さい、と語った。この731部隊問題は、過去の日本の犯罪と言うだけではなく、「薬害エイズ」とも関わる現代的な問題でもある。また731部隊が行った細菌戦の被害者が日本国を被告として訴訟を起こしている。
過去の犯罪ではなく、今も生きている犯罪なのである。
27日
午前中はホテルで帰国の整理などをして過ごした。おそらく発熱していたと思うが、風邪がなおらなかったためである。のど飴と風邪薬を購入したが、日本円で300円くらいであった。日本の薬は、高い。
昼食後、14時40分の飛行機で北京へ。やっと帰る時が来た。風邪をひいてしまったので、いつもの「何でも見てやろう」という気力は、失われていた。
28日
いよいよ帰国である。20日に家を離れているので、8日ぶりの帰宅となる。北京時刻14時50分発のJL782便に搭乗するも、しかしなかなか離陸しない。しばらく経ってアナウンスがあった。大連付近で中国空軍が演習を行っているため、1時間ほど遅くなると言うのだ。満席の乗客がじっと離陸を待つ。軍はこのようにして庶民を苦しませる。この日は河野外務大臣が訪中する日である。彼に対する示威行動なのか。
16時頃やっと動き始める。しかし飛び立ったのはそれから20分後。成田到着は19時10分の予定であったが、とてもその時刻には着かない。結局成田へは、20時15分くらいに着いた。この時刻では、最終の新幹線には間に合わない。成田に泊まろうか、それとも鈍行(ムーンライトながら)で帰ろうか悩んだが、結局帰ることにした。指定席をとろうとしたが満席、駅員が小田原からならとれるから小田原で乗りなさいと教えられ、少し早い鈍行を利用して小田原で待っていた。しかし、だめ。中は学生でいっぱいであった。やむなくデッキで過ごす。29日午前3時40分頃浜松到着。中国軍の演習は、私の帰宅を一日遅らせた。軍隊はないほうがよい。
長い旅は終わった。
【旅行を振り返って】
旅の目的は、歴史に関する調査であった。その目的はいちおう達成した(ただし、平陽鎮ではもう一日欲しかった)。ここではそれ以外の感想を記す。
まずタバコである。中国では、タバコを吸う男性が多い。日本以上に喫煙天国である。日本でも、まだまだではあるが、公共の場所での喫煙が許容されなくなってきている。しかし、中国はそのような配慮がまったくない。この点は改善して欲しいものだ。
それからゴミ問題。中国では、ビニールなど分解しにくいゴミが散乱しているところをよく見かける。砂漠化の問題や有害な煙の排出などが問題とされるが、このゴミ問題も早くに取り組んだ方がよいと思った。列車に乗っている時、いろいろなゴミが窓から捨てられる姿を見た。おそらく線路付近はゴミだらけだろう。丹藤佳紀『中国 現代ことば事情』(岩波新書)を読んでいたら、「白色汚染」という語の説明があった。列車から発泡スチロール製品(弁当箱)が無造作に捨てられる様をそう表現したのだそうだ。「白色長廊」という言葉もあるという。なるほど、である。ちなみに同書によると、インターネットは「因特網」と書き、ハッカーは「黒客」、携帯電話が「手機」、小型化・軽量化したものは「小姐小」(若い女性のこと)・・いずれにしても外来の製品を中国語、つまり漢字で表現することは大変だ。日本はカタカナを発明してあったおかげでその苦労から免れている。
また中国の若い女性が、茶髪で、日本で流行している厚底靴を履いているのを見て驚いた。悪しき日本の真似はやめて欲しいと思った。
まだまだ書きたいことはあるが、紙数の関係でここで止めることとする。