浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「風よ あらしよ」

2024-03-31 22:33:24 | 大杉栄・伊藤野枝

 映画「風よ あらしよ」が上映された。しかし私は観なかった。テレビでも放映された。でも私は見なかった。

 私は、伊藤野枝について、野枝が書いた文、野枝について書かれた文のほとんどを読んでいる。だから私には、野枝をはじめ、大杉や辻潤らのイメージをすでにもっている。私はそのみずからがつくりあげたイメージを大切にしたいと思う。だから見ない。

 子どもの頃、NHKの大河ドラマを見ていた。だから豊臣秀吉を思い浮かべようとすると緒形拳の顔が出てくる。

 だから映像化された歴史は、見ない方がよいという結論を持つに至った。とはいえ全く見ないわけではない。「朴烈と金子文子」の映画は見た。でも、朴烈のイメージと映画の男優とは重ならなかった。でも、朴烈を想起するとき、あの男優の顔が浮かび上がってしまう。

 「風よ あらしよ」を観た友人から、劇場で販売されていた『風よ あらしよ (劇場版)』が送られてきた。ずっと前に送られてきていたのだが、母の死などがあって今まで読んでいなかった。

 今日、読んでみた。

 野枝を演じた吉高由里子さんの「伊藤野枝を演じて」を読んでみて、吉高さんは野枝という人間の本質をとらえている、と思った。私がもつ野枝像と重なるからだ。吉高さんは野枝について書いているが、そこに書かれている野枝は、まさに伊藤野枝という存在であった。しかし野枝のイメージと、吉高さんはイコールではない。

 この映画にでてくる大杉も辻潤も、私のイメージとは大きく異なっている。みなくてよかったと思った。

 ブレイデイ・みかこさんの文はよかった。訪日したバートランド・ラッセルが野枝に会い、訪日中に会った日本人でもっとも「好ましい人物」として野枝をあげたことが記されている。ラッセルは、強い印象を野枝から受けたのだ。

 野枝の「奴隷になるな」という呼びかけは、今も尚生きていることをみかこさんは強調している。野枝が書いた文は、いまも読む価値がある、と私も思う。

 加藤陽子さんの文は、大杉と野枝、橘宗一が殺された「時」を解説している。私も、どこかに書いたことがあるが、1917年のロシア革命、その後のシベリア出兵、朝鮮の3・1独立運動で体験した権力者の意思が、大杉らの殺害の背後にあると考えている。だから、権力者は、いつか大杉らを抹殺しようと考えていたはずだ。

 私は、野枝は、こういう時代だからこそ、振り返らなければならないと思っている。今、他の仕事をしている関係で、野枝に関する書籍などは実家に置いてあるが、「時」が来たら、もう一度すべてを読み直してみようと思っている。

 この映画のパンフレットは、よい。

 この映画を制作した柳川さんがいつごろから野枝の魅力にとりつかれたのかは知らないが、私の場合はもう50年もまえだ。私のほうが先輩である。

 

 

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フェイクに囲まれる現代

2024-03-31 20:33:42 | 社会

 フェイクが身のまわりに迫っている。リアルとフェイクを、私たちは見破ることが出来るのか、というと、それは無理のようだ。

 こういう時代に、私たちはどう対処したらいいのかを考えておく必要がある。

 この動画を見て欲しい。

「人間はもう見破れないと思った方がいい」 専門家も見破れない“AIフェイク動画”最前線 バイデン大統領の“フェイク”制作者に直撃【大石が聞く】

 

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歴史の進み方

2024-03-31 06:56:21 | 歴史

 東京の各所で、公園などで樹木が次々と切り倒されている。ただでさえ東京は緑が少ないのに、残されている公園の緑も消されている。背景にあるのは、カネにならない市民の憩いの場所としての公園ではなく、カネを稼ぐことが出来る場への転換である。資本はブルドーザーの如く、「公共」を蹴散らしてカネ儲けの場へと転換していく。公共機関としての地方自治体も国も、その資本に手を貸している。

 東京では、建物群が上へ上へと伸びていることがわかる。マンションも、どんどん高層化している。それは地方の主要都市にも波及し、背の高さを競っている。背の高さは統一されているのではなく、バラバラ。都市計画は、資本の攻勢の前に沈黙している。

 カネ儲けを原動力とする資本という暴力が、「公共」をなぎ倒している。それが今の「歴史」の特徴である。

 平和主義を建前として保持していた日本国は、ついに戦闘機などの武器を輸出するという暴挙に出て来た。資本の意思としての、武器でカネを稼ぐという明確な宣言である。武器でカネを稼ぐということは、人を殺傷してカネを稼ぐということでもある。資本の暴力があからさまに出現する時代が、現代という「歴史」の特徴である。

 そこには、倫理や道義などということばは消される。人間にはしてはいけないことがあるという、人間の悪しき行動を制御する精神的遺産が歴史的につくられてきたはずであるが、それも蹴散らされていく。そしてその悪しき主体である資本の集積体(経団連など)や国家権力や地方自治体の教育部門が、「道徳」を人びとに強制する。

 そのような人びとを食い尽くす資本の暴虐を前にして、人びとはそれに抗うどころかその資本の意図に従属する。

 最近、様々な詐欺事件が多発している。SNSをつかって、カネ儲けのために詐欺に遭う人が増えているようだ。そのような事件が報じられる度に、その金員の多額に驚く。そんなに持っていたのか、と。ある程度カネを保持する人が、さらに「簡単に」カネを儲けようとして詐欺に遭う。もちろん被害者には同情を禁じ得ないが、しかし、なぜそんなことをしてまでカネを稼ごうとするのか、私にはわからない。

 今や、カネ儲けのためには、倫理や道義、さらにはきちんとした手続きはない。額に汗して得たカネほど尊いものはないというような正当な考えも消されている。資本に追随して国家権力(国家や地方自治体など)が、カネ儲けにはしる姿を見て、人びともそれに追随する。カネ、カネ、カネ・・・・・・

 新自由主義という最悪の資本主義が、世界を席巻し、武器を製造し、人びとを殺傷し、地球環境を破壊している。地球を生きていけない惑星にする最後の仕事として、世界中の資本家や権力者が協力している。それを人びとがながめ、なかにはオレもカネ儲けしようと焦っている人もいる。もちろん、それに抵抗する人びともいるが、その数は少ない。

 ひとりの人間の終末をみつめた私は、今や地球の終末を予想するようになった。終末へと向かう現代の歴史を記述する歴史家は、おそらく存在しないだろう。新自由主義は、歴史をも消していくのだ。

 

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【演劇】前進座「くず~い屑屋でござい」

2024-03-29 19:06:30 | 演劇

 浜松演劇鑑賞会の例会、前進座の「くず~い 屑屋でござい」を見た。落語の「井戸の茶碗」をもとにしたものだから、わかりやすくて面白かった。ただし、カネに困って屑屋に仏像を売った者、落語では娘と暮らす浪人であるが、劇では娘とその母であった。また屑屋の清兵衛は、パーフェクトな善人ではないが、その他の人びとは落語と同じように清廉潔白な者ばかりだ。

 しかしこういうわかりやすい演劇は、誰もが、わかりやすく面白かった、という感想をもつだろう。あるいは、江戸時代には、清廉潔白な人がいたんだねえなどという感想をいだく者もいるかもしれない。しかしそれ以外の感想をもつことは、おそらくない。

 話の筋はわかりやすく、話の展開も相応の動きがあってドラマになっていた。それはそれでいい。だが、私は、いろいろな感想がでてくる演劇が好きだ。だから、前進座の出し物より、新劇系のものが好きだ。

 

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消費者の怒りを継続させるべき

2024-03-29 09:00:49 | 社会

 小林製薬製造販売のサプリで、亡くなる人も出ている。同社が被害を認知したのは1月、しかしそれを公表したのは3月22日だった。あまりにも遅い対応である。また同社の対応もひどいようだ

 もうそれだけで、小林製薬が販売しているものは買うべきではない。製薬会社として、あるいは機能性サプリは食品であるから食品会社として、同社には責任感や倫理が欠けているというしかない。

 同社のサプリ、カルシウムを購入しているが、同社の対応をみて、これは使うべきではないと判断した。以後、小林製薬のものは買わない。

 以前、雪印が問題を起こしたことがあった。雪印は公には謝罪したが、裁判では居直った。それ以降、雪印製品はいっさい買わない。

 怒りを持続させて、「不買」という抵抗を続けるべきだ。

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「浜松新球場」?

2024-03-25 15:43:45 | 社会

 浜松市民である私は、現在ある浜松球場で十分だと思っている。新球場なんかいらない。

 現在ある浜松球場は、遠州鉄道西鹿島線の上島駅から歩いていける。便利なところにある。浜松球場に隣接して陸上競技場がある。高校野球の大会などでは、上島駅から浜松球場へと向かう長い列が出来る。

 浜松市と浜松の財界は、突然、その浜松球場をなくして、陸上競技場を拡充させたいと言うようになった。

 その背後で操るのが、SUZUKIアスリートクラブを擁するSUZUKI自動車のドン、鈴木修氏である。SUZUKIにとっては、野球なんかどうでもよく、陸上競技を発展させたいのだ。

 浜松陸上競技場を拡充させるためには、球場をどこかに移転させなければならない。SUZUKIは多額のカネを寄付して、新浜松球場建設を、静岡県と浜松市に働きかけた。現知事の川勝も、前浜松市長も、後援会長は鈴木修氏であった。県も、市も、鈴木修氏の意向に沿って動き始めたが、今までなかなか進捗しなかった。

 当たり前だ、現在の浜松球場は交通の利便性もあり、長い間市民等に親しまれてきた。新野球場の予定地は、車でしか行けない海岸に近いところ、交通の不便さは当然だが、毎年強い風が吹く。野球場の適地とはいえないところだ。

 しかし、浜松と財界、そして静岡県はそれを強行しようとする。

 ところが、海岸に近いということから、いろいろな問題が生じてきた。まず希少生物のウミガメの産卵地としての遠州灘海岸の問題として、「光」に注目が集まるようになった。

 それに大地震が起きれば津波が襲来する、わざわざ海岸に近いところに巨大施設をつくるのは妥当なのか、という問題。

 鈴木修氏はじめ、浜松市と浜松の財界は、全天候型ドームの球場を建設して欲しい、しかしそれには多額の建設費、維持費がかかる。いまだその問題が結着していない。

 要するに、SUZUKIアスリートクラブという陸上競技部をもつSUZUKIが、強引に浜松市と県に建設を要求しているのが、浜松新球場である。県の中部、東部の人びとにはメリットはまったくない。浜松市民にとっても、野球観戦が途轍もなく不便になる。新野球場が建設されて喜ぶのは、SUZUKIのみ。建設をやめたらどうか。

追記 

 昨日、このブログを読んだSUZUKIの従業員の方から、なぜSUZUKIが野球やサッカーではなくて、陸上かというと、カネがかからないからだと連絡が来た。

 野球は、設備なんかにお金が掛かるじゃないか!マラソンや駅伝などの競技なら、先頭を走れば、テレビがズーッと映してくれて、安く宣伝ができるじゃないか。ケチな会社が、野球チームなんか持つはずないよ!

 SUZUKIの考えそうなことだ。

 

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ことば

2024-03-22 17:13:14 | 日記

 ことばは、魅力的である。いろいろな文章を読んでいると、ことばに関しての新鮮な知識を与えられるし、また刺激を与えられる。

 『世界』4月号で、韓国の作家・翻訳家であるチョン・スヨンさんと、日本の翻訳家である斎藤真理子さんが「往復エッセイ」をはじめた。斎藤さんは、韓国の文学を翻訳したりしている。斎藤さんについては、このブログでも書いたことがある。だから、関心を持って読みはじめたら、「蚊」のことが記されていた。あの「蚊」である。

 チョン・スヨンさんは、日本に留学しているとき、谷中霊園で「蚊」にであった。「蚊」を、日本では「文を読む虫という漢字をつかう」とある。なるほど、「蚊」の野郎は、耳元で「ブンブン」と羽音を立てる。「蚊」の野郎は、耳元で「文を読んでいる」のであろうか。そんなことはあるまい。「文を読む」のではなく、血を吸いに来ているのである。

 この字、中国からきたのか、それとも「凩」や「颪」のような和製漢字なのか。調べてみたら、そうでもないようだ。漢和辞典を調べたら、中国発祥の字である。「正字」は虫二つを並べて、その上に「民」という字が来る。「民」は「「か」の羽音の擬声語」だとのこと。私は“虫に苦しめられる民”という意味ではないかと思ってしまう。

 「正字」であるその字がなぜ「蚊」になったのか。やはり、「ブンブン」という羽音の擬声語として使われるようになったのだろう。

 「蚊」の読み方は、漢音では「ブン」、呉音では「モン」だそうだ。

 韓国では「蚊」のことを、모기(モギ)というそうだ。呉音の「モン」から来ているのではないだろうか。

 「蚊」とよく似た字に「虻」がある。「正字」は虫二つの上に「亡」がくる。「亡」は、あぶの羽音の擬声語だとのこと。

 山口誓子の句に、「虻翔(か)けて静臥の宙を切りまくる」がある。私は「蚊翔けて静臥の闇を切りまくる」としたい。

 ちなみに虫偏に工をつけた「虹」(にじ)という字がある。この場合の「虫」は蛇の意だという。「工」はつらぬく、という意味だそうで、「天空をつらぬく蛇」。虹はきれいだが・・・・・

 

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「入植者植民地主義」

2024-03-21 21:41:00 | 

 「入植者植民地主義」ということばを何度かみるようになった。その背後には、イスラエルによるパレスチナ人に対するジェノサイド的行動がある。

 ユダヤ人国家であるイスラエルは、なにゆえにそんなにも残酷になることが出来るのか、と思う。

 さて『世界』4月号で、酒井啓子さんがこの「入植者植民地主義」についての本を紹介している。いくつかの本を紹介しながら、イギリスがニュージーランドで行ったマオリ族に対する暴虐行為(まさにジェノサイドであった!)などを指摘し、「アメリカが、スペインが、イギリスが、新大陸で先住民を追い出して自分たちの国をつくることにまったくの罪悪感をもたない、どころか「開拓精神」などという美談に変えてしまうのなら、イスラエルが同じことをやって、何が悪い?」と書く。

 本当にそう思う。ついでに記しておけば、明治初期、日本人によるアイヌ民族に対する迫害は、アメリカのその「開拓精神」を真似たものだ。だから日本人の手も汚れている。

 酒井さんは、デイン・ケネディの『脱植民地化ー帝国・暴力・国民国家の世界史』から「ヨーロッパ人が海外で従属下に置いた諸人民に対し長年にわたってとり続けてきた容赦ない根本方針や政策、それとまったく同じものをヒトラーはヨーロッパというアリーナに適用した」を引き、「ユダヤ人がナチに迫害されたのは、まさに、欧米が行ってきた植民地支配が内化されたものだ」という指摘があることを記す。

 なるほど。そういう考えの存在をはじめて知った。

 歴史は繰り返している。人間は、歴史から学ばず、同じことを繰り返す。そこには「倫理」はない。野蛮な欲望があるばかりだ。

****************

 やっと本を読めるようになった。仲よくしていた学者がすべて他界してしまい、知的な話をする相手がいなくなった。本を読むことでしか知的触発がなされなくなったのが悲しい。

 

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社会的な倫理観

2024-03-21 21:16:59 | 日記

 『週刊金曜日』最新号の新刊紹介には、読みたくなるような本が並ぶ。

 まず『ケアの論理』(岩波新書)の紹介文を読み、これは読まなければならないと思った。というのも、ここに「リベラリズムの倫理においては、理性的で自律した個人が集まって普遍的正義に基づく社会を作る」に対しての「ケアの倫理」として、「誰もが生まれたばかりの時には他人に完全に頼りきっていたように、他人に依存するという形での「つながり」こそが人間の普遍的な条件であるという認識から出発する」が記されていたからである。

 私は、まさにその「リベラリズムの倫理」を意識的に追求し、それに沿った倫理観をつくってきたし、生きてきた。できうる限り感情や欲望をおさえて理性的に行動し、自律的に生きる、そのためには自立を図らなければならない、その自立には経済的自立はいうまでもなく、生活的自立(だから私は家事万般を行うことができる)も求められ、できうるかぎりあらゆる場面で他人に依存しないということ、それを実践してきた。学問的な面でも、他人に頼るのではなく(他人からはサジェスチョンしか受けない)、自ら学び理解する(自分自身が分かるまで学ぶ、考える)、思想的、学問的な自立である(だから多方面の書物を購入し読んできた)。

 しかしこういう生き方は、なかなか厳しいものであった。しかし近代的人間類型こそが民主社会の主体として存在可能であるという認識をもって、生きてきた。

 今になって、確かに「ケアの倫理」がいうように、他人に依存しながら生きていくことこそが「普遍的」ではないかと思うようになってきたが、いまだ「依存する」ことが体質的にできない。「依存する」のは、家族だけである。

 とりあえず『ケアの倫理』を購入しておこうと思う。

 

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ベトナムのこと

2024-03-21 18:07:57 | 

 『週刊金曜日』の最新号が今日届いた。本田雅和記者の「「本多勝一のベトナム」を行く」という連載が、今号で終わる。

 何度も書いているが、私が若い頃、ベトナムではアメリカという巨大な軍事国家が、ベトナムに最新兵器で襲いかかっていた。そのあまりの理不尽に、多くの若者が怒り、ベトナム戦争反対の声を挙げた。私も高校生の頃から、ベ平連の一員としてベトナム戦争反対運動に加わった。

 ベトナムの民衆は、大きな犠牲をはらいながらも、アメリカ帝国主義という巨大な怪物を追い払った。戦争は終わったけれども、アメリカ軍による空爆、とりわけ枯葉剤の撒布により、ベトナムの国土は荒廃していた。しかし、ベトナムの民衆は、そうした困難があっても、少しずつ国土を建設していった。

 私も日常生活をおくりながらも、ベトナムのことを気にかけていた。そして一度だけ、関空からベトナムを訪問したことがある。当時、静岡市に住んでいたもと朝日新聞記者の臼井茂さんがベトナムで学校建設の援助をしていたことから、その関係者と連絡を取り、ベトナム戦争の戦跡などを案内してもらった。クチトンネルも入ることができた。

 カンボジアのポルポト政権の侵攻、中国との戦争があったりしたが、私はベトナムを支持し、ベトナムの未来にいつも期待をかけてきた。

 『週刊金曜日』が、「本多勝一のベトナム」の連載をはじめたとき、たいへん喜んだ。本多勝一こそ、ベトナムに取材に入り、ベトナム戦争の真実を報じていた。彼のルポルタージュは今も尚処分せずに手元にもっている。

 本多勝一が報じた「現場」がどうなっているか、そこに住む人びとは何を経験し、考えているか、実際に本田雅和さんが訪問して、現在を報じている。素晴らしい企画であった。ぜひ加筆して書籍化して欲しいと思う

 ベトナム戦争はわが青春であった。ベトナム戦争反対の経験が、今の私を形成したと思っているからである。ベトナムの人びとは、わが青春時代の「師」であった。

 「社会主義」国としてのベトナムの今はどうなっているのか。今号は国会議員であったズオン・チュン・クオックさんからの聞き取りであるが、これがなかなかよかった。

 「社会主義」とは「今日よりもよりよい社会」であり、「目標は平和、統一、独立、民主、豊かさを実現する国の建設」であって、それを共産党が「自分たちが指導してこれをつくる」としている国がベトナムなのだ。

 最後に引用されていた、通訳をしていた鈴木勝比古さんの「戦争の中でもその後の曲折の中でも、ベトナム人民は持ち前の明るさと知恵で、都度、賢明な選択をしてきた。これからも必ず・・・・」ということば、戦い続けてきたベトナムの人びとと歩んできた者が言うことのできる内容だと思う。私も鈴木さんと同じように、ベトナムの人びとを信じ、期待するひとりである。ベトナムの未来に幸運を!と願う。

 

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あなたは幸福?

2024-03-21 07:40:41 | 社会

世界幸福度ランキング 日本は51位 20日は国際幸福デー

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【本】蜷川讓『パリに死す 評伝・椎名其二』(藤原書店)

2024-03-20 21:08:04 | 

 不思議な本である。椎名其二という人物を、彼が書いた文章をそのまま載せ、あるいは椎名と交流があった人の文を並べ、それらをつなぐことによって浮き彫りにするという手法での評伝であるから、読んでいてドラマがあるわけではない、むしろ淡々と椎名という人物を描くのであるが、しかしなぜか魅力があり、読み続けさせるのだ。それは椎名という人物が、その生の軌跡が、いつも金欠で苦しんでいるのに、魅力的であることに起因する。

 椎名は、アナキストである。しかしアナキストを「無政府主義者」というレッテルを貼るだけでは、アナキストを知ることにはならない。アナキストとは、要するに自由人であるということだ。自由人であるということは、アナキストといっても一人ひとり異なった個性豊かな自立した人物であるということであって、一括りにすることはできないのである。したがって、生き方や思想もそれぞれ別で、要するにアナキストとは、「一括りにできない」人間のグループとしか言いようがない。

 さてこの本は図書館から借りたもので、書き込みなどできないので、付箋を貼りながら読んでいった。あんがい付箋をつけたところが多かった。その一部を書いておく。

 「・・・君、大きな荷物をしょい込むな。妻、子供、地位、車・・・みんなそれなんだよ」(51)

 「・・だが昔から孤独な感じー砂漠の中にいるような感じ・・・深夜星空を眺めているような感じ・・・の僕だ・・・離別、生死は大した問題ではない」(56)

 「梢にさえずる小鳥はそこで死にはしない。藪の中へ入って死ぬ。僕は死場が床の中だけだとは思っていない。」(65)

 椎名はラクロワの『出世をしない秘訣』を翻訳出版している。その「あとがき」にこう書いている。

 「あの人たちは正確無比な時計、電話、メモによって駆け回る。彼らは流れる雲や軽やかなスカートや幼児の思い出などに注意深い自由人のあのそぞろ歩きの自由さえも、また離脱と呼ばれる単純な魂のあの柔らかさも失っている。一言でいえば、彼らは生きることを忘れてしまったのである。それは一体誰のことか。それは成り上がった人々のことである。ジャン=ポール=ラクロワはこうした勝利者、こうした有名人らの、陰さんな描写をしている。彼らは彼らの唯一の偶像ー虚栄と金銭に仕えるべく余儀なくされている。こうした惨めな者どもの身上たる堕落や不幸の注意深い研究が、ラクロワを駆って、資料に基づいた堅実の研究『出世をしない秘訣』を書かせたのである・・・。」(89)

 私もこの本を読んでみるつもりである。調べたら図書館にあった。

 椎名がアメリカ時代に知ったタイラー教授について、晩年こう書いている。

「・・・質を無視する大量生産のアメリカでさえ、今なおタイラー氏のような人間のしばしば見られるのは、隔世遺伝とでもいうか、昔の高貴な反抗精神の現れであろう。これあってのみ、民主主義は意味を持つ。なんとなれば真の民主主義は、この精神なくして生まれることはできないからである。またこれあってのみ、人間は個人としても集団としても、解放を望み、自主自律を期することができるのである。」(122)

 大杉栄がファーブルの『昆虫記』を翻訳したことは知られているが、しかしすべてではない。すべてを翻訳する前、大杉は1923年9月16日、虐殺される。その後を継いで翻訳したのが椎名であった。椎名は、「変則者」としてのファーブルを高く評価していた。ファーブルは大学で研究室をもっていたわけではない。「百姓の子として生まれ、生涯百姓を以て終始した」科学者であった。

 椎名はルグロの『ファブルの一生ー科学の詩人』を翻訳している。ファーブルの伝記を読みたくなった。

 椎名は、1927,8年頃パリでO社巴里支店に現地雇いの事務員として勤務していた。しかし彼は、生活に困窮することがわかっていてもその会社を辞めた。O社が、日本に武器を売っていたからだ。椎名は「私は大砲を日本に売ったりする商売はいけないことだと思う」といってやめた。

 椎名は、野見山暁冶だけでなく、佐伯祐三とも親しく交際していた。本書には、佐伯が胸を冒され、さらに死の恐怖から精神の安定を欠いていった経緯が記されている(234)。 佐伯祐三は巴里の街角などをよく描いている。

 椎名は、プルードンの思想に感銘を受け、ほかの世界的なアナキストとも交流した。エルゼ・ルクリュなど。

 椎名は、フランス人のポンテを評価していた。ポンテとは、善良さであるが、単なる善良さではなく、人間の底から出てくる善良、(他者に)働きかける善良さのことである。

 椎名は、貧しき日々を生きながら、個性豊かに生きた。彼が残した数々の文からは、いろいろな示唆を、直截的ではないが、得られる。

 椎名其二という人を、野見山暁冶を読む中で知った。

 

 

 

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利権政治の顛末

2024-03-20 17:53:33 | 政治

 自民党の裏金問題、関係者は口をつぐみ、「オレ、知らない」とウソをつきつづける。それでも、選挙民は、そういう自民党の議員を選出し続けることを、かれらは知っている。

 裏金は何に使用されたかというと、「政治活動」という名の選挙活動に費消されたようだ。要するに、選挙民に何らかのかたちで裏金が配られたのだろう。

 裏金をもらった議員は、そのカネを自由につかう。しかし税務署・国税庁は脱税として調査対象としない。自民党議員は、ウハウハである。

 長く続いた自民党政治により、利権でつながる関係が確立しているのである。自民党国会議員、自民党地方議員、各種企業(国や自治体からおいしい仕事をもらう)、そして選挙民との間で、カネでつながった関係があるというわけだ。

 この世は、カネ、カネ・・・・。最近報じられる投資詐欺。いとも簡単にだまされている。投資をすればカネが簡単に増殖していくと信じこまされ、多額のカネを犯罪者にプレゼントする。どうしてそんなバカな話にだまされるのかと私には不思議なのだが、しかし多くの人びとは、カネ、カネ、カネ・・・・・・を求め続ける。

 生活できるカネがあればいいと欲を持たない私には、そうしたさもしい人びとに驚くばかりだ。

  悪しき自民党政治が終わらない背景に、カネにすがりつく日本人の心性があると思う。少しでも、少しでもカネが欲しい・・・・今日生きることも難しい人がそういう気持ちになることは理解できるが、たくさんもっている人が、さらにカネを求める。

 投資詐欺で明らかになる金額の大きさに、私は驚く。そんなカネをもっているのか、と。それだけもっているのに、まだ増やしたいのか・・・と。

 

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考えること・・

2024-03-19 20:49:26 | 日記

 作家の立松和平に、一度だけ会ったことがある。某高校の記念講演会の講師として立松が立ったとき、ある人物と共にその仲介を行った。講演のあと、3人でいろいろなことを会話した。

 とても有名な作家であったけれども、驕り高ぶることもなく、楽しい会話であった。しかし立松も、62歳という若さで亡くなった。2010年2月であった。

 立松の本をたくさん読んでいるわけではないが、立松は好きだった。彼が田中正造(渡良瀬川鉱毒事件)や中国人の強制連行事件に関心を持っていたこと、会話の中でそういう話をした記憶があり、問題関心に共通するところがあったからでもある。

 最近、『現代日本人の「死生観」』という雑誌を入手した(アーツアンドクラフツ)。そこにはいろいろな人の「死生観」が記されているのだが、立松のそれもあった。

 立松は、死の予兆を感じたとき、そのときは元気であったが、こう書いている。

 私は幸福であった。いい人生であったなあと、心から思っている。思い残すことはない。もう一度いう。私は幸福であった。

 これを書いたのは2003年。2007年には、こう書いている。

 死ねば、もちろん書くことはできない。書くことが生きることだったのだ。

 生きているあいだは、生きるのだ、その人なりの日常を生きる、それしか死ぬ存在である人間の生きようはない。

 いつまで、こうして考え、読み、書くことができるのだろうか。

 

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ロマン・ロラン

2024-03-17 21:33:40 | 

 『パリに死す 評伝・椎名其二』を読んでいる。そこに、ロマン・ロランの名が出て来た。

 ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」は、高校時代、全集の確か1~4だったと記憶しているが、それを買ってひたすら読みふけった。読んでいてこれは!と思ったところは、ノートに書きつけた。あのノートはどこに行ったのか、そしてあの全集はどこに行ったのか。ひょっとして処分してしまったのか、記憶がない。

 「ジャン・クリストフ」は、理想主義的な、若い者に、生き方についていろいろな示唆を与えるものであった。老年になってもはやあの細かい、二段組みのあの小説は読めないだろう。しかしあれを読んだとき、精神は大いに高揚した。何か積極的に生きていこうという意欲みたいなものが湧いてきたように思う。

 あの頃の精神の鼓動は、もはや過去のものとなってしまったが、そこには戻れない。

 若い頃、未来はひろがっていた。でも、この歳になると、みずからの人生をどう閉じていくかを考えなければならなくなる。

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