むかし、むかし全国の大学には、学生による「自治会」というものがあった。各クラス(選択する語学により分けられたもの)から自治委員が選出され、それを構成メンバーとする自治委員会総会がいわば立法機関で、自治会の正副委員長、書記長は直接選挙で選ばれ、彼らが自治会の執行委員会を構成し、いわば行政機関となる。
学内の問題への関わりはもとよりであるが、当時の自治会は政治に対するアクションが多かったような気がする。学内には立て看板(タテカン)が置かれ、いつも騒然としていた。しかしそれが学生生活であり、学生の熱気をつくりだしていた。
サークル活動も盛んで、いろいろな研究団体が雨後の竹の子のようにあり、ボクも「裁判問題研究会」に属していた。語学とゼミ以外の大学の講義は最初だけ出席し、聴く価値があるかどうかを判断した。価値があると判断された講義は積極的にでたが、それ以外はほとんど聴いていない。サークルでの勉強こそが重要であった。
当時のボクらは、学問研究というのは自らが行うものであるという認識があった。学問は与えられるものではなく、自らが学びとるものだという意識、それが大学の「自治」というものの基盤であったような気がする。
さてその頃、大学の自治は「教授会の自治」であると非難され、学生も含めた全構成員の自治が主張された。実際、大学の学長(総長)選挙に、学生の意見を取り入れる制度を導入した大学もあった。だがそれはすぐに消え去った。「教授会の自治」はその後も存続していたが、最近はそれも形骸化し、大学の学長周辺の権限が強化されているというのが実態だ。おそらく近いうちに「教授会の自治」も消える。そのあとにくるのは、「上意下達」の大学運営である。「下意」は「上達」しなくなる。
そして大学は、外の社会と同様の自由競争、弱肉強食の風潮に覆われることであろう。
なぜこんなことを記すかというと、学生時代の後輩である水島朝穂早稲田大学教授から、彼が公開している「平和憲法のメッセージ 直言」を更新したという知らせがあり、それを読んだら「学生自治会」を
「学生会」という名に変更するという提案が、学生の圧倒的多数の投票で通過した、ということが記されていたのだ。学生は「自治」を捨てても良いという判断をしたのだ。実際自治会規約から「自治」ということばが放逐されているようだ。
http://www.asaho.com/jpn/index.html
「自治」=self-government 。英英辞典をみると、政治的な概念の他に、self-government は self-control であると記されている。学生は、みずからが管理することより、他者による管理を選択したようだ。高校の「生徒会」程度の「学生会」でよいとしたのだろう。
地方自治体も、広域合併により「自治」が実質的に機能しなくなり、大学からも「自治」が消えていく。これからは、こうした中間団体がなくなり、人々は中央の国家権力の前に個人として立つことになる。すでに国民背番号制度は成立し、国家権力からひとりひとりに番号がつけられる。その番号により、個人はほぼ完全に国家権力に掌握される。個人の秘密は消え、国家権力の秘密だけが肥大化していく(秘密保護法の成立)。
「自治」が消える、ということは、本当はとても恐ろしいことなのに。