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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

台湾で考えたこと

2025-04-05 21:11:15 | 近現代史

 2000年末に台湾に行った。台湾へはこの一度しかないが、そこでいろいろ考えさせられた。そこで考えたことは今も古くはなってはいないと思うので、ここに掲載する。

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(1) 昨年末台湾に行った。静岡県に生をうけた一人の日本軍兵士・中谷が、1930年10月、台湾中部の深い山の中、先住民たちが起こした日本人襲撃に始まる事件(霧社事件)に関わっていたことがわかり、その「現場」を見に行ったのである。

 台湾は初めての訪問であった。朝鮮人強制連行、「在日」の歴史などを研究してきた私は、韓国は何度も訪問した。その朝鮮半島(韓国)と比べると、台湾は大きく違っていた。ともかく台湾には「日本」がいっぱいであった。車はトヨタ、ニッサン、ホンダなどが走り回り、三越、高島屋などのデパートがある。コンピュータ関連の日本商品が店先に並び、各地のセブンイレブン(本当にたくさんあった!)に置いてある菓子類は、ほとんどが日本製である。そして、植民地支配の象徴である鳥居が今以て残存していた(朝鮮半島ではあり得ない)。

 朝鮮と台湾のこの違いは、植民地にされる前の状況、植民地化の契機の正当性の問題、民族的抵抗のあり方、植民地支配のあり方、そして戦後の歴史など、様々な要因があろう。

 しかし私は、ここで、その違いの理由を書こうとは思わない。そうではなく、ある種の共通性を描こうと思うのだ。それは「戦後」についての、私たちの認識の問題、フレームの狭隘性が、認識すべきことを認識させてこなかったのではないか、という問題群である。

(2)戦後、韓国や中国に関わる情報は、数多く流されている。少なくとも台湾よりずっと多いはずである。戦後の日台関係がきわめて強い絆で結ばれていたにもかかわらず、である。現在でも、台湾を訪れる外国人の4割が日本人で、日本を訪れる外国人の第一位が台湾人であること、輸出入についても日本は台湾の最大の輸入相手国、台湾は日本の第二の輸出相手国、であるという(柳本通彦『台湾革命ー緊迫!台湾海峡の21世紀』集英社新書)ほどに、関係は深い。しかし台湾認識は弱いのだ。

 戦後の台湾について、なぜ情報が少ないのだろうか。台湾は、韓国・北朝鮮ともども、日本の植民地であったのに、なぜかくも差があるのか。その理由として、「一つの中国」問題があるのだろう。

(3)日本の植民地であった台湾は、日本の敗戦とともに中国国民政府により接収され、大陸から中国人が入ってきた(その時の、引き上げていくきちんとした日本兵と、上陸する中国兵の「みすぼらしさ」との対比は、本省人がよく語るところである)。その後中国本土における国共内戦に敗れた国民党・政府関係者などが多数逃げ込み、台湾は日本統治時代からの「本省人」(もちろんその中には先住民も含まれる)と、中国本土から「戦後」やってきた「外省人」とによって構成されることとなった。戴國煇『台湾ー人間・歴史・心性』(岩波新書)によると、当時の人口(本省人)約560万人のところへ、「外省人」が約200万人が入ってきたという。そしてその「外省人」は、ただ単に入ってきただけではない。まさに「統治者」として入ってきたのである。

 中国大陸に「中華人民共和国」が成立してから、台湾は「中華民国」として、蒋介石・国民党政府が独裁的な支配権を掌握してきた。「中華民国」は国際連合の常任理事国としてあったが、1971年「中華人民共和国」が国連に加盟すると同時に「中華民国」は脱退。また1972年に日本と「中華人民共和国」との間で国交が回復すると、台湾とは国交断絶となるなど、台湾は国際的には孤立状態にあった。そのためか、1998年に日本のマスコミの支局が開設されるまで、台湾にかんする情報はほとんど提供されてこなかったのである。

(4)しかしである。もし情報がたくさん入ってきていたなら、私たち日本人の関心は台湾にむかっていたであろうか。答えは、否、というしかない。それは、韓国・朝鮮の例をみれば明らかであろう。

 敗戦直後から南北に分断された朝鮮半島、朝鮮戦争の勃発、そして「南」の独裁政権による抑圧的な政治(朴正煕政権など)、低賃金・長時間労働で苦しむ韓国労働者、その象徴としてあった抗議のための焼身自殺事件、そして光州事件など、韓国の人々には、私たちが、日本国憲法などの民主主義的諸制度や経済成長など、肯定的かつプラスイメージで想起する「戦後」はなかったのだ(もちろん、日本帝国主義の植民地支配からの解放=光復はあったから、全く否定的というわけではない)。

 韓国が抑圧的な政治体制からほぼ解放されたのはまさに80年代であり、南北分断に至っては解決にはまだまだ多くの時間をかけなければならない状態にある。他方北朝鮮は、金日成、金正日体制のもと、民主的な制度からはるかに隔たったところにあり、食糧難などもあり、今もって庶民は苦しみのなかにある。

  そのような韓国・北朝鮮の姿を知りながら、私たちはどのような関与をしてきたのだろうか。情報はたくさんあった。韓国・北朝鮮の苦しみは報道されてはいた。しかし、日本は、日本の人々はどのような関与をしてきたのであろうか。

(5)台湾はどうか。台湾の多数をしめる「本省人」の状態はどうであったのか。台湾では1949年5月20日から1987年7月15日までの長期間、戒厳令のもとにあった。

 日本の植民地のもとで「帝国臣民」とされてきた人々が、日本の敗戦と同時に「日本国民」ではないとされ、大陸から来た戦勝国=「中華民国」に支配される。もちろん、日本による支配が終わったことに、人々は「光復」を覚えた。しかしその後は、1947年2月28日の「2・28事件」(「本省人」と「外省人」との衝突事件。事件後多くの「本省人」が弾圧され、殺害された)を経て、「本省人」は、世界的な「冷戦」体制の下、蒋介石・蒋経国による抑圧的な支配に耐えて生きていかざるを得なかったのである。

  侯孝賢監督の台湾映画「悲情城市」は、1945年から1949年にかけての台湾全体の歴史の推移が、どのように一家族を翻弄していったのかを、淡々と描く。そこでは、家族の構成員が、歴史の渦に巻き込まれながら、一人ずつ消えていくのだ。日本帝国主義による植民地支配の終焉が、即台湾の人々に幸せをもたらしはしなかったのである。

 私が台湾で会った人々(「本省人」)は、平穏な生活が到来したのは李登輝以降だ、と語る。やっと自分たちの歴史が始まる、というのである。

(6)これら韓国、台湾の状態についての日本の関与は、経済的発展の支援(といってもその発展は同時に日本の経済発展につながる)と抑圧的な政治体制の擁護であった。また日本の経済界も、低コストを求めて企業進出を強化してきた。また台湾に関しては、旧日本軍による「中華民国」軍隊の養成が特記されるべきであろう。

 もちろん、韓国の民主化闘争については、日本の良識的な人たちによる支援などが行われていた。しかし台湾については情報はあまりに少なかった。多くの日本人の脳裏には、旧植民地の人々のことを思いやることなど、ほとんどなかったのである。

(7)日本で「もはや戦後ではない」と言われたのは、1956年のことである。朝鮮戦争やヴェトナム戦争などアジアの戦争を「肥やし」として発展してきた経済大国日本、その国民として、私たちはその豊かさを享受してきた。そして一定の民主的な制度のもとで、自由などを謳歌してきた。「戦後」に生まれてよかったという感懐もある。

 だが、1945年までわが国の植民地として支配されていた朝鮮、台湾などの人々について、私たちは情報を集め、どのように生きているのか、に思いを馳せたことがあるのだろうか。
  戴國煇は、正当にもこう記している。「植民地化の目的は、もちろん植民地利潤をあげること、南進基地を台湾に確保することなどにあった。あらゆる植民地政策と台湾での投資や施設は、日本帝国主義への奉仕にこそ置かれても、台湾に居住する被植民地側の人びとのためを考えたものでないことは、自明のことだ」(前掲、p.146)と。この言説は、朝鮮に対する植民地支配にも妥当する。「南進基地」を、「北進基地」ないしは「対中侵攻の基地」とすればよい。

  私たちが、植民地支配を本当に「清算」すべきであったと考えるなら、戦後に於いても旧植民地の人々の生活に思いを馳せるべきであった。日本は、戦時下、帝国主義的侵略をカモフラージュするため表向き「大東亜共栄圏」などと叫んでいたのに、戦争が終わればそのようなことばすら思い出すこともなく、「自国のことのみに専念」するようになった(戦時下の「大東亜共栄圏」がそれこそ虚妄であったことは、「戦後」の日本のあり方をみれば一目瞭然である。「大日本独栄圏」とでも名付ければよかったのだ)。

(8)日本国憲法にはこうある。
 「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」

 私たち「日本国民」は、「全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成すること」をしてきたのだろうか。ただ単に「憲法を守れ!」と唱えるだけではなく、私たちは具体的な行動を起こすことが必要であったのだ。道義的には、私たち「日本国民」が、旧植民地をはじめ、日本帝国主義が支配した地域について、その後の状況につき情報を収集し、関心を示し、人々の生活のありように思いを馳せるべきだったのだ。

(9)日本では「戦後」という期間は、もう55年にもなる。「戦争」から半世紀が経過して、抑圧的な政治体制からやっと解き放たれたアジアの人々が、「戦後」に私たちが享受してきたものを、やっと享受できるようになってきた。

 朝鮮にも、台湾にも、日本国憲法はなかった。私たちには、日本国憲法のなかの平和主義や人権尊重などの普遍的な原理を、日本国内だけではなく、旧植民地、アジア、そして世界へと広げていくこと、「戦後」を日本国だけのものではなく、名実とともに普遍性をもったものとしていくことが要請されていたのだ。朝鮮でも、台湾でも、80年代に「戦後」が始まったばかりなのである。

 


「満洲」を訪問して

2025-04-04 16:54:22 | 近現代史

 2000年8月21日から28日まで「満洲」に行った。目的は、静岡県出身の一兵士の足跡を追うこと、もう一つは「満洲移民」に関わる現地を見てくること、であった。一人旅であった。私は歴史に関わる海外調査を何度か行っているが、いつも一人である。自由勝手に動き回るためには、一人が一番である。グループで行くと、グループ内で完結し、現地の人々との直接的な交流になかなか進まないのがふつうである。一人だと、現地の人々と交流せざるを得ない。それに、通訳はわたし専属となる。


  この旅で見聞したこと、感想などを、以下に書き綴ろうと思う。なおこの地域を「満洲」と記す。そうされていた時期の研究のために訪ねたからである。

21日
 21日10時40分、JAL781便は成田空港を離陸した。途中眼下に遼東半島を見る。「関東州」についても行ってみたいところだ。

 現地時間13時30分頃北京に到着、国内線のハルビン行き17時発を空港内で待つ。17時になりやっと機内へ。同じゲイトの先発成都行きが、乗客が来ないということで遅れたのだ。CJ-6218ハルビン行きのの離陸は17時30分、30分遅れである。

 上空から見る「満洲」は、豊穣な農地が拡がり、関東軍=日本帝国主義が欲しがった理由がわかった気がした。ハルビンへは19時到着、すぐホテルへ。空港からホテルまでは40分近くかかった。今まで南京、杭州、天津、北京などを訪れたが、自転車の数が少ないように思えた。自動車の数はやはり多い。主要道路は自動車がぎっしり。

22日
(1)ハルビンにて
 22日午前中、私と同行する通訳(黒竜江省中国国際旅行社所属)が大連から帰ってこれないからということで、ホテル周辺を散策。ホテル近くの松花江を眺め、旧ロシア人街=中央大街を歩く。歩行者天国になっており、夏休み中の子どもたちが多い。商店が並び、書店があったので入るが、日本のようには本は並んでいない。学習参考書が多かった。周辺を散策したとき、自動車も歩行者も交通規則を守っていないことに気づいた。規則を守らせるために、紅いベストを着た老人たちが交通整理をしていたが、多くは無視である。

  ホテルに戻り待っていると、ガイドが来て、担当通訳がまだ着いていないので代わりに市内を案内するという。その時、私を知っている日本人がいる、というので、その集団のバスに近づくと、「中国人戦争被害者の要求を支える会」の尾花知美さん、10月15日に開かれる国際シンポジウム「戦争と紛争の世紀の終わりにー今なぜ、真相究明なのか」の担当者=小川さんが、出てきた。初対面ではあったが、尾花さんとは中国人強制連行被害者の聞き取りの関係、小川さんとはシンポの関係でメールを交換していた。731部隊について調査に来たとのことで、世の中は狭い。そこで別れ、24日朝の再会を約す。

 昼食をとって「東北烈士紀念館」に。そこでは宣教部副主任の邢継賢女史に説明を受ける。ここは「満洲」地域における反満抗日運動「烈士」の業績が展示されているところで、澤地久枝『もう一つの満洲』(文春文庫)で知られた楊靖宇(東北抗日連軍第一軍軍長)などの戦歴が讃えられている。女性革命家の子どもに宛てた遺言が感動的であった(次号で紹介する)。そして一昨年の洪水の写真展も見る。大変な洪水であったことを知る。その後、「満洲」時代の建築物のいくつかを見る。各所に残されているのは、韓国と同様である。

(2)夜行列車に乗る
  密山へ行くためにハルビン駅にいく。旅行社の事務所が駅前にあり、ここで通訳と一緒になる。27日午前中まで一緒に行動することになる同年齢の男性、許さんである。福井県に住んだことがあるということで、道中そこでの体験をいろいろ聞いた。彼は、歴史に対する興味が特に強いわけではなくその点で不満が残った。しかしどういう手配をしてあったのか、私の調査が円滑に出来るように、行く先々で地方政府機関が協力してくれた。
  

 さてハルビン駅での出来事を記さなければならない。待合室にいると日本語が聞こえてくるのであった。高齢の女性たちを中心とした16人、最高年齢89歳の集団であった。一人は腰が曲がり、杖がないと歩けないおばあさん。若い人は日本人女性が二人、日本在住の中国人(梁新勇さん)とそのいとこの中国人男性、12人は老人で平均年齢は70代だろうということであった。私と同じ密山へまで行くというのである。ハルビンから密山までは夜行で12時間ほどかかる。たいへんな道のりである。

 私はもと「満洲移民」の人たちであろうと思い尋ねると、違うという。グループの男性の一人が戦時中佳木斯(チャムス)の部隊で軍医をしていたということで、その地を訪ねるという。梁新勇さんが日本留学時、福岡在住のその医者にお世話になったので、恩返しということで中国を旅行して回っていて、これで三回目。その医者が中国旅行をしているということを聞きつけ、次々と参加してきて、今回がいちばん多いという。梁さんは、3人分くらいの荷物を背負い、待合室から階段を下り上りする際には、杖をついたおばあさんの後をゆっくりと付き添っていた。また高齢になっても、海外へ旅行しようという意欲にも感心した。この日は、731部隊の関係施設を訪問し、その医者は、こんなことがあったのか、知らなかったと驚いていたという(医者とは話す機会がなかった。列車では食後すぐに寝たとのこと)。
 

 16時02分、密山行きの夜行列車は動き出した。コンパートメントで、いろいろな人と話をした。
  動き出して間もなく通訳の許さんが、密山の小学校の校長先生を連れてきた。密山についての情報を聞いたが、中国の学校についての話が面白かったのでそれを紹介しよう。

 中国では今までの教育を反省して自由化教育に進んでいる、今までは長時間子どもを拘束して、一律に学習を強要してきたが、そうではなく個性に対応した教育、子どもたちの意欲などを生かした教育にしようとしている、というのだ。日本の動きとたいへんよく似ているので驚いた。そこで、どういう変化が現れているかを尋ねたら、少数の勉強する子とそうでない子の二極分解がでている、という。それは一人っ子政策の影響もあるが、文革の影響もある、というのは文革期に子どもであった現在の親は、きちんとした教育を受けていないので、子どもたちに何も教えられない、だから自由主義的教育はさらにその格差を広げてしまう、教育はたいへん難しい状況にある、とのこと。現象面では日本とよく似ている。教員には本当に優秀な人はなりたがらないから人材確保がたいへんだ、ともいう。教育はいつの時代も、どこでも難問なのである。

 食後、前述のグループの梁さん、山田知恵子さん(福井県敦賀市在住)たちと話した。山田さんは既に中国各地を訪れていて、延吉などにも行き北朝鮮との国境もみてきたという。また女学校時代に「満洲」へ行く義勇軍の少年たちを見送りした時の光景が忘れられないという。戦争世代には、そこに行っていなくてもそれぞれ「満洲」の思い出がある。

 その後、私は眠られず夜中まで読書。私のコンパートメントのみ、なぜか、私一人。数時間眠ったかどうかという頃目が覚めた。あたりは明るくなっていた。私は窓の外をずっと眺め続けた。線路の両側に植栽された並木の向こうに、豊かな田畠が広がる。この付近は「満洲移民」として静岡県民が入植したところでもある(哈達河開拓団など)。私は二度「満洲移民」について書いたことがあるが、移民からの便りのなかの「肥沃な大地」、「作物は肥料なしでも良く育つ」は、より多くの移民を参加させるための宣伝であろうと思いこんでいたが、そうではないことがわかった。豊かである。冬になると凍結してしまうのだろうが、夏は豊穣そのものである。
 昨日まで雨が降っていたということで、緑は太陽により映えていた。

23日
(1)饒河へ
 朝5時20分頃、密山に着く。駅には密山市旅游公司総経理・市旅游副局長馬樹東さんが待っていた。とりあえずホテルに行ってシャワーを浴びる。朝食をとりすぐに出発である。目指すは饒河である。饒河はロシアとの国境付近、ウスリー河沿いのハバロフスクに近いところにある。密山から車で4時間くらいと聞いていた。ここは1943年1月、富士市周辺の「満蒙開拓青少年義勇軍」(植松中隊)が清渓義勇隊開拓団として入植したところである。「ソ満国境」であるから、敗戦時は悲惨であった。

  広々とした田園地帯を走り続ける。道路の両側は白樺の並木である。舗装はされていない。道路の片側には延々と盛られた土が並んでいる。紅いジャケットを身につけた人々が、その土を道路に入れ補修している。昨日まで強い雨が降っていたからか、とにかく多くの人が道路補修に従事していた。いわば人海戦術で、道路を守るのだ。その道を時速80㌔㍍で突っ走る。警笛は多用された(中国での使用は当たり前。規則を守らないから、警笛なしには安全は保てない)。アヒルの集団まで道路を横断するのであるからたいへんだ。

 さて順調に走ってきたところ、月牙というところに「公安検査駅」があり、そこには軍の国境監視隊が常駐していて検問を行っていた。そこで足止めを食らった。日本人は通過させないというのだ。密山で通過許可証をもらってこい、というのである。そんな時間はない。そこで密山の現地ガイドは、あちこちと連絡をとり(携帯電話が普及している)、近くの虎林市のトップ(そのような説明を受けた)に来てもらい、交渉の末、通過できることとなった。通訳の許さんは、中国は法の支配ではなく、人の支配によるのだとポツリとこぼした。兵士も混乱するだろう、とも。この間待つこと1時間30分余。

 待っている間、現地のスイカや瓜を食べた。道ばたで農産物を売っているのである。人々が集まり、アヒルが餌をつつく。そこに一人の老人が座っていた。通訳の許さんに質問してもらった。その老人の戦争体験の一つは、反満抗日の7人の学生が、日本軍により池に放り込まれ、銃で撃ち殺されたのを見たというものであった。戦時下を生き抜いたすべての人々が、日本軍(兵士)の蛮行を見、記憶している。

 さてそこからは悪路となった。ほとんど原生林ではあったが、荒れ地、湿地帯、人家があるところには畠。そして時折スコールのような雨が襲う。延々と続く原生林は、虎でも出てきそうな感じである。途中何度か深い轍ができていて通過できるかどうか危ぶまれるような箇所もあった。

 それでも午後2時過ぎ、饒河に着いた。7時間ほどかかった。饒河も広々とした田園に囲まれていた。通過してきた原生林とはまったく違う世界である。到着したところは饒河県賓館、そこには県旅游局々長の韓基勝さん、局員の楊忠明さんのお二人が待っていた。

(2)饒河にて
 賓館では昼食を出された。はるばる日本人が来るというので、県長は今まで待っていたのだという。県長からは、しっかりともてなすようにと言われているという。話のなかでは、どうも日本と何らかの関係を持ちたいということのようであった。戦後ここに来た日本人は商売人が二人、もと移民の人々が二回、女性一人で来た時と集団で来たときがあった、という。女性は帰国後、本を送ってきたという。集団は懐かしい、懐かしいと言って、帰っていったという。
 

 食後、清渓開拓団の入植地へ行った。そこで老人と会わせていただいた。郭英臣、金清松のお二人である。金さんは72歳の朝鮮人である。「開拓団が住んでいたままの住居ですか」という質問に、「(開拓団が入る前から)この通りで、私たちはその前から住んでいた」と答えた。「ウスリー河畔満鮮原住民の内国移民の跡に入植す。関東軍の要請により国境地区に村創りを始め、満鮮人の家屋及び耕作地を接収して」(静岡県『静岡県送出元満洲開拓民の概要』)というのが実状であるから、そう答えるのは当然であろう。接収は満州国政府機関の命令により行われ、補償金はもらわなかったという。日本の敗戦は開拓団が突然いなくなった後に知った。いなくなった後にもとの家に戻った。接収された後、郭さん、金さんらは近くの未開拓地へ移り住んでいた。日本人との交流はほとんどなかったという。

 聞き取りを終わって、県庁舎に行った。そこでは県誌編纂室長の姚中晋さんと会い、『饒河県誌』をいただく。B5・1000頁近い本である。また自伝小説『東大山伝』もいただく。山東省出身である姚さんの家族の伝記である。今後も様々な交流をすることを話し合った。

 再び賓館に行き、夕食をとる。姚さん、横浜のパン屋さんで修業したことのある賓館総経理王玉良さんも交えての楽しい語らいであった。
 

 18時40分、密山に向けて出発。道中のことを考えると不安であった。あの原生林を通過しなければならない。途中ドライバーがダウン、疲れてもう運転できないと言う。ほかに運転できるのは私しかいないので、国際免許証を持たないまま左ハンドルの車を密山近くまで走らせた。車幅がよくわからないので対向車が来る(ほとんど来ない)と徐行しなければならない。舗装のない道を時速約80㌔㍍で走らせたが、ライトは道の両側の白樺だけを浮き上がらせ、上からは漆黒の闇がのしかかるような圧迫感を受けながらのドライブであった。ホテルに着いた時の時刻は、0時40分。6時間かかったことになる。途中の小休憩時、雲の間から見えた無数の星の乱舞は見事であった。いつか「満天の星」を見たいと思う。
 

24日
(1)平陽鎮を訪ねる
 この日は平陽鎮にいくことになっていた。密山のホテルから、広々と広がる肥沃な田園地帯を眺めながら走る。大豆、とうもろこし、ひまわり、コウリャン、そして米。水田は各所にあった。「満洲」の水田稲作は、朝鮮半島から移住してきた人々(出稼ぎや、日本の帝国主義支配を嫌って、あるいは植民地支配の結果生活を破壊された人々、そして植民地支配に抵抗する人々)が始めたという。もちろん現在は中国人も米を作っている。水田もかなり多い。

 平陽鎮も国境地帯にある。連なる山に国境線が走っている。「満洲国」はここに平陽鎮国境監視隊を置いた。そのなかに朝鮮人だけで編成された中隊があった。最初の中隊長が静岡県出身の中谷であった。中谷はそこで病死したが、その後朝鮮人部隊は3度反乱事件を起こした。1930年代半ばのことであるから、その事件そのものについての調査は現地では不可能と思い、ただその周辺の風景を見ておこうと思ったのだ。そしてできれば朝鮮人の集落を訪れようと思っていた(時間不足でできなかった)。

 平陽鎮の役所を訪ねた。そこでは平陽鎮政府・中国共産党書記の郭宝成さん、鎮長の王□□さん、それから昔のことを良く知っている王永仁さん(もと教師、72歳)が出迎えてくれた。ここでの聞き取りは割愛するが、話を聞いた後に昼食をとった。食事の際には必ずアルコールが出される。アルコールに弱い私は困惑するのだが、中国料理はビールと一緒に食べないといけないようだ。味の点からも(濃い!)そういえる。

 ここでは驚くべき事があった。中国のどこでも米を食べるが、決しておいしくはない。しかしここのはとてもおいしかった。日本の銘柄米のレベルで、米粒に輝きがあった。日本の技術を導入しているようなのだ。また蚕もだされた。さなぎのまま食べるのだ。もちろん油で炒めてある(今回の旅行では、豚の耳、アヒルの水かき、ナマズ、フナなどを食べた。私は郷には入れば郷に従えで、だされたものは基本的には食べることにしている)。

 なお会話の中で、日本の農業後継者不足に触れ、中国ではどうかと問うたら、後継者はいっぱいいる、現にロシアの農業労働力として出稼ぎにも行っている、日本にも行ける、と応答があった。日本も中国の農業労働力を導入するのだろうか。

 もっとここで調査をしたかったのだが、16時22分ハルビン行きの夜行寝台を予約してあったので、やむなく駅へ。

 この密山で風邪をひいた。移動はすべて車であり、窓を開けて走る(通訳、運転手ともタバコを吸う。私は煙に極めて敏感で、そのためにのどを痛めることがよくあり、換気のために開けるのだ)。道路は基本的に舗装されていないから、ほこりが舞い込んでくる。そのため鼻と喉をやられてしまったのだ。

(2)夜行列車のなかで
 列車に乗る。私が入るコンパートメントでは、すでに一人の老人が書き物をしていた。話を聞くと80歳だという。名前は時林さん。戦争中は何をしていたかを問うと、新四軍の兵士だったという。華中の紅軍、日本軍と戦った中国共産党の軍隊である。新四軍では輸送業務に携わっていたという。物資はどのように調達したのかと問うたら、地主から、という。なぜ新四軍に加わったのかを尋ねたら、食えなかったからだと答えた。このような問答を繰り広げながら、思った。国家は不条理なものだ、と。国家は、戦時には勝手に人々を敵味方に分ける。しかし本来民族や国籍が違おうとも、このように語らいの相手となるのである。私たち二人は、「平和はよい」と確認しあった。江蘇省如皋市出身の老人は中華人民共和国成立後の1950年に牡丹江に移り住み、そこで農民として生きてきた。この旅行は古参党員への慰安旅行で、若い人がずっと付き添っていた。老人が眠れば静かにし、老人が語りかければ応じる、という対応であった。 

 この列車でも日本人がいた。私はこんなところは日本人も行かないだろうと思っていたし、日本の旅行社もそういう認識であった。しかしハルビンー密山の行き帰りで会ったのだ。日本人はどこにでもいる。ここであったのは大鳳商事の阿部松夫さん。穀物の輸入などの業務を担当しているとのことである。「満洲」の農業について話した。

 「満洲」は豊かで、開拓して三年間は無肥料で作物は育つ、その後は有機栽培であること、日本の農業技術が導入され、日本人技術者も来ていることなどを伺った。今回の訪中は、会社の人たちに「満洲」地域の農業の実態を見せるためであったとのこと、6人のグループであった。

  その後、私は風邪気味であったため、コンパートメントで横になる。眠れなかったが、とにかく横になり、水分をひたすら補給した。

 25日午前5時頃、列車はハルビンに着いた。

25日

   まずホテルでシャワーを浴び、9時出発。1934年8月30日におこった匪賊による列車襲撃事件の現場を確定し、撮影することである。場所は、当時の新聞報道によると、ハルビンを南下し、五家(子)駅を経て双城堡駅に近いところ、線路が橋を越え、両側が線路より高くなっているところである。

 ちょうど運転手さんの出身が五家であったので、彼の親戚をまず訪問した。その家の老人が案内に立つことになった。最初案内されたのは、おそらく日本軍の鉄道守備隊が駐留したところだろうと思われる、沿線に壊れた煉瓦の建物があった。老人は「ここだ」という。しかしここは、周囲より線路が高い。ここではない。通訳も、炎天下、といっても風は初秋であった、もう引き上げたいという風情であったが、私は「ここではない。第一地形的にもあわないし、五家駅にも近すぎる。説明した地点が判明しなければ、わざわざここに来た意味はない!」と話し、双城堡に向けて更に探すことを強調した。

 中国など、外国での調査は優柔不断は禁物である。断固として要求すべきである。通訳は基本的に歴史に興味を持っているわけではない、説明したら分かってくれるだろうというような、通訳の善意に期待する方法には限界がある。目的を完遂する決意が大切である。

 線路に沿って、ぬかるんでいる農道を、ゆっくりと進む。果たして車が通ることができるのか危ぶまれるようなところを何とか進んで行くと、古い橋脚があった。現在の線路と並行している。昔使用されていた鉄道の橋脚だという。そこからしばらく行くと、周りが高台になっているところがあった。現在鉄道の両側には鉄条網が張ってあり、入れないようになっている。しかし、鉄条網の隙間をみつけて侵入し、高いところに登ると、確かに襲撃にはうってつけの所である。私はほぼここだろうと断定した。そして、列車が走る姿を写真におさめることができた。

 これで一応旅の目的は達成した。
 

 なお、ここで面白いエピソードを書いておこう。この調査の途次、五家駅にたくさんの人が集まっていた。黒竜江省視察を終えた江沢民の列車が駅を通過するので、その列車を見るために集まっているというのだ。その時は「ふーん」と思っただけだったが、私たちはその被害を受けた。駅をすぎてしばらく行ったところに線路を横断する地下道があるのだが、江沢民の列車が通過するまでは通さないと言うのだ。公安警察が見張っている。地下道周辺には、トラック、自動車はもとより、たい肥などを載せた馬車(?)などが停車させられていた。人民の生産活動がストップさせられているのだ。通訳氏は「江沢民は皇帝ではないのにおかしい」としきりに同意を求めた。私は、日本でも天皇家の移動の際に同様なことが行われていると説明した。

 私たちはここで1時間ほど待たされた。江沢民の乗る列車は美しく青色に輝き、窓を覆うレースのカーテンは真っ白であった。あの窓からは人々の生活は見えないだろうと思った。そして列車は待たされている人民を一顧だにせずに足早に走り去っていった。

26日
 この日、平房に行った。言うまでもなく関東軍731部隊である。731部隊については説明を省くが、実際行って驚いた。731部隊は証拠を隠滅するために施設を徹底的に破壊したと聞いていたが、いくつかが残されているのである。主要部分はもちろん破壊されたようだが、本部建物、小動物地下飼養場、黄鼠飼養槽、ボイラーの煙突など、実際に見ることができた。
 

 「侵華日軍第731細菌部隊罪証陳列館」に到着すると、靖福和さんが待っていた。靖さんは、戦時中、731部隊の近くに住んでいた(メモを取らなかったので正確ではないが、部隊が設立される時に移転させられた?)。部隊が破壊された後、ペストが流行し、靖さんの家族は4人を残して(ここは間違っているかもしれない)ペストによって「殺された」という。現在は陳列館で、訪問してくる人々に、731部隊の実態を説明している。

 この日も、戦後、地域住民が部隊跡から持っていった水槽が届けられたという。そして現在、731部隊の「罪証」を後世に伝えていくべく、破壊された主要部分の跡を発掘している。

 陳列館での説明を受けた後、私たちは靖さんに連れられて、前述の残存しているところを案内していただいた。ボイラーの煙突に関わるコンクリートの建物は、本当に頑丈に造られていた。おそらく、毒ガス・細菌戦について、ずっと研究・開発・実験・実施していくつもりで建設されたのだろう。その後、地下飼養場、黄鼠飼養槽を見た。飼養槽は、まさにそのまま残されていた。残されている施設は、学校に利用されている本部建物を除いて周囲に柵があり、鍵がないと入れなくなっているが、靖さんは丁寧に私たちを案内してくれた。この731部隊関係の「遺跡」は十分見る価値がある。靖さんは、別れるとき、大勢の日本人を連れてきて下さい、と語った。この731部隊問題は、過去の日本の犯罪と言うだけではなく、「薬害エイズ」とも関わる現代的な問題でもある。また731部隊が行った細菌戦の被害者が日本国を被告として訴訟を起こしている。
 過去の犯罪ではなく、今も生きている犯罪なのである。

27日 
 午前中はホテルで帰国の整理などをして過ごした。おそらく発熱していたと思うが、風邪がなおらなかったためである。のど飴と風邪薬を購入したが、日本円で300円くらいであった。日本の薬は、高い。
 

 昼食後、14時40分の飛行機で北京へ。やっと帰る時が来た。風邪をひいてしまったので、いつもの「何でも見てやろう」という気力は、失われていた。

28日
 いよいよ帰国である。20日に家を離れているので、8日ぶりの帰宅となる。北京時刻14時50分発のJL782便に搭乗するも、しかしなかなか離陸しない。しばらく経ってアナウンスがあった。大連付近で中国空軍が演習を行っているため、1時間ほど遅くなると言うのだ。満席の乗客がじっと離陸を待つ。軍はこのようにして庶民を苦しませる。この日は河野外務大臣が訪中する日である。彼に対する示威行動なのか。

  16時頃やっと動き始める。しかし飛び立ったのはそれから20分後。成田到着は19時10分の予定であったが、とてもその時刻には着かない。結局成田へは、20時15分くらいに着いた。この時刻では、最終の新幹線には間に合わない。成田に泊まろうか、それとも鈍行(ムーンライトながら)で帰ろうか悩んだが、結局帰ることにした。指定席をとろうとしたが満席、駅員が小田原からならとれるから小田原で乗りなさいと教えられ、少し早い鈍行を利用して小田原で待っていた。しかし、だめ。中は学生でいっぱいであった。やむなくデッキで過ごす。29日午前3時40分頃浜松到着。中国軍の演習は、私の帰宅を一日遅らせた。軍隊はないほうがよい。
 長い旅は終わった。

 

【旅行を振り返って】
 旅の目的は、歴史に関する調査であった。その目的はいちおう達成した(ただし、平陽鎮ではもう一日欲しかった)。ここではそれ以外の感想を記す。
 まずタバコである。中国では、タバコを吸う男性が多い。日本以上に喫煙天国である。日本でも、まだまだではあるが、公共の場所での喫煙が許容されなくなってきている。しかし、中国はそのような配慮がまったくない。この点は改善して欲しいものだ。
 それからゴミ問題。中国では、ビニールなど分解しにくいゴミが散乱しているところをよく見かける。砂漠化の問題や有害な煙の排出などが問題とされるが、このゴミ問題も早くに取り組んだ方がよいと思った。列車に乗っている時、いろいろなゴミが窓から捨てられる姿を見た。おそらく線路付近はゴミだらけだろう。丹藤佳紀『中国 現代ことば事情』(岩波新書)を読んでいたら、「白色汚染」という語の説明があった。列車から発泡スチロール製品(弁当箱)が無造作に捨てられる様をそう表現したのだそうだ。「白色長廊」という言葉もあるという。なるほど、である。ちなみに同書によると、インターネットは「因特網」と書き、ハッカーは「黒客」、携帯電話が「手機」、小型化・軽量化したものは「小姐小」(若い女性のこと)・・いずれにしても外来の製品を中国語、つまり漢字で表現することは大変だ。日本はカタカナを発明してあったおかげでその苦労から免れている。
 また中国の若い女性が、茶髪で、日本で流行している厚底靴を履いているのを見て驚いた。悪しき日本の真似はやめて欲しいと思った。
 まだまだ書きたいことはあるが、紙数の関係でここで止めることとする。


「死者は語らないー「戦争の記憶」をめぐってー」

2025-04-04 10:09:34 | 近現代史

 以下は、2000年に歴史講演会で話したものを文章化したものである。

1.はじめにー戦争への眼差しー


 1945年6月21日、21歳の中央大学学生、溝口幸次郎が沖縄の海に向かって飛び立って行きました。後に遺書が残されました。「美しい祖国はおおらかなる益良夫を生み おおらかなる益良夫はけだかい魂を残して新しい世界へと飛翔し去る 我を思う我が父母はいかがあらん 強気を信じ我はゆくなり 日の本の早乙女たちを知らざりし 我は愛機と共に散るなり」とありました。これは浅羽町郷友会が編纂した『あけぼの』に載せられていたものです。これを読んだとき、私は溝口の「無念」を感じました。この遺書に、「死にたくない!!」という叫びを聞いたからです。しかし、彼は特攻隊員です。彼はとにかく死ななければならなかったのです(1944年11月、中島正少佐の言葉は「特攻の目的は戦果にあるんじゃない。死ぬことにあるんだ」でした。生出寿『一筆啓上瀬島中佐殿』徳間文庫1998,8)。


  特攻攻撃で陸海軍兵士6952人が、若い命を散らしたといわれます。

 去る3月下旬、私は有名な特攻基地知覧に行ってきました。その「特攻平和会館」の中には「英霊コーナー」があります。そこには、死を強制された陸軍特攻隊員の写真が掲げられていました。日本人だけではありません。そのなかに、少なくない数の朝鮮青年たちの写真も飾ってありました。

 1910年から植民地支配されていた朝鮮人は、「大日本帝国臣民」でした。戦時下、朝鮮人も戦時動員の渦中に放り込まれました。兵士として、軍属として、労働者として、そしてまた「従軍慰安婦」として。しかし、「帝国臣民」として動員された朝鮮の人々に、日本国民は戦後どのような対応をしてきたのでしょうか。

  現在60以上もの「戦後補償裁判」が提起されています。戦時下の日本国家が引き起こした戦争による被害に対して補償を求める、というものです。

 例えば石成基(ソク・ソンギ)さんの裁判があります。石さんは、 1921年12月生まれの78歳、韓国・慶尚南道出身、1942年7月、海軍軍属として徴用され、釜山港からマーシャル群島へ。第四海軍施設部に工員として配属され、1944年5月マーシャル群島ウォッチェ島で陣地構築に従事中、米軍戦闘機の機銃掃射を受け、負傷。 右上腕を15センチ残し切断。1991年1月28日 厚生省に障害年金請求、同年6月7日 厚生省、請求を却下、同年7月30日 請求却下に対し異議申立、92年6月23日 厚生大臣、異議申立を棄却。そこで 1992年8月13日、 東京地裁 民事2部に提訴。1994年7月15日敗訴(秋山寿延裁判長)の判決。1994年7月23日控訴しました。 

  このように在日韓国・朝鮮人の場合、いくら戦死しても、傷痍軍人であっても、補償は一切ありません。「1995年度の国家予算では、70兆円のうち1兆6369億円が、日本人の元軍人・軍属への恩給・年金として計上されました。恩給・年金・その他の戦後補償をあわせると、1952年に援護法ができてから、これまでに、すでに40兆円近いお金が、日本人の元軍人・軍属のために支払われてきました。在日韓国・朝鮮人も日本人とまったく同じように税金を払っています。それなのに、戦後補償は何も受けていません。同じ戦争犠牲者に対するこの差は何なのでしょうか。」(「在日の戦後補償を求める会 」のホームページから)

 また、特攻機のすべてではありませんが、しっかり飛べる戦闘機などは「本土決戦」のためにとっておいたと言われます。特攻機として練習機も使われました。練習機の翼は麻布です、それに銀箔をはったそうです。その麻布を織った労働者の中には、日本人の女学生もいましたが、朝鮮から東京麻糸紡績沼津工場に動員された12歳から17,8歳位の女子勤労挺身隊の少女たちがいました。彼女たちは、空襲におびえながら麻布を織り続けました。戦争が終わったあと帰還しましたが、未だにその間の賃金は支払われていません(日本人には払われたのに)。その賃金を支払って欲しいと元女子挺身隊が提起した裁判の判決が、1月27日、静岡地裁で出されましたが、敗訴でした。

 1945年に終わった戦争は、「大東亜戦争」と言われました。「大東亜共栄圏」を目指す、という名目で行われました。その言説を、当時の日本人の多くは信じていました。

 当時の浅羽地域の青年たちは、青年団の雑誌にこう書きました、安間ふみは「米英の圧迫によるアジア10億の民を救う大東亜建設」を、と書き、廣岡三浦は「亜細亜諸民族の膏血を搾取し来たったアングロサクソンの白人鬼を今こそアジアの天地より一掃すべきときが来た」と書きました。

 しかし、そういう日本こそが朝鮮、台湾に対する植民地支配を強化していました。強制連行、創氏改名、日本語強要などなど。また日本は、帝国主義諸国家に苦しめられていた中国民衆を救うどころか、残虐な侵略戦争をおこなっていました。

 「大東亜共栄圏」は「嘘」でした。百歩譲ってそういう面があったという方もいるかも知れません。では、日本国家のために「闘った」もと軍属、もと女子挺身隊に対する「無視」「放置」は、いったい何なのでしょうか。

 私は、今こそ、1945年に終わった戦争をきちんと総括し、謝罪すべきは謝罪し、補償すべきは補償するべきだと思います。今まで、それが出来ないで来たのは、日本人の戦争に対する眼差しが、極めて一面的なものであったからだと思うのです(アジアへの眼差しがない!!)。

2.拭えない「戦争の記憶」

 戦争は哀しいと、戦争体験を綴ったもの、何を読んでもそう感じます。戦死した遺族が記したものを紹介しましょう。浅羽町史の通史編に書いたものです。

  二人の息子を戦場に送った豊住の岡本ことじは、こう謳った。「二葉の若葉/散りに し母の/思いぞ 誰れぞ知る」、「戦い終えて/三十有余年/遺骨帰らず/子供等の魂 は/今いづこに」と。岡本太郎は自宅で戦病死、二二歳。関東軍兵士だった憲成は、ソ ビエト連邦抑留中に戦病死した。諸井の久保田忠夫は、終戦後他の父親は復員している のに、なぜ自分の父は帰ってこないのだろうと訝しく思っている時に「戦死公報」が届 けられた。一九五四年四月二十八日の葬式の際、謝辞のなかの「もう自分には父親がい ない」を泣けて読めなかったという思い出を持つ。父親は「満州」牡丹江で戦死、三二 歳。

  諸井の富田幸男は、弟勝朗の思い出を記す。勝朗は「出征」する際、何も言わず女性 の写真を残していった。戦後、一人の女性から「無事帰還の節は結婚を堅く約束した者 です。勝朗さんから連絡がこないのです。」という書簡が届けられた。既に葬儀をすま している旨の返事を出すと、後日その女性の来訪を受けた。位牌に額ずいて合掌する姿 に、弟が残していった写真を見せると、「私です」。富田は「弟の胸中察し、彼女の心 情を思い、感無量、戦争の非情さが身にしむ」と書く。勝朗はビルマ・マンダレーで戦 傷死した。二四歳だった。

  河原一男(浅羽)の弟操はサイパン島で戦死した。四三年十一月頃、「俺の死ぬ日は 何時になるだろう」と尋ねられた。それに返事ができなかった一男はそのことばを忘れ ず、あどけない弟の写真を見ながら毎朝合掌するという。そして「心の中では未だ戦争 は終わっていない」と思う(「あの一言が忘れられない」、『文芸浅羽』第十号所収)。

  豊住の大石幾久朗(二○歳)は沖縄で戦死した。その母は「私は神々様に、手足一本 くらい無くとも帰って来ますようにとお祈りしていました。祈った甲斐もなく、ついに 帰らぬ人となってしまいました。(中略)三十年過ぎた今でも、元気いっぱいで家を出 ていったあの子の姿は、私の目の前に浮かんで来ます」と書く。大石の遺書には「父母 様、長生きしてください」とあった。

 そのあとに、私はこう書きました。
 「遺された人々は、悲しみを背負いながら戦後の混乱期を生きていかなければならなかった。戦争により強いられた別れ、それは今も人々の胸に痛切な思い出として残っている。そのような体験から生み出された平和への希求の念は強い。しかし忘れてはならないのは、日本軍が進んでいったアジア太平洋各地でも、このような強いられた別れが無数につくりだされたことである。そしてその別れは、今も償われてはいないのである。」

 日本人は戦争で310万人が死んだと言います。しかしアジア各地では2000万人以上が命を落としたと言われます。日本人以上にたくさんの別れがあったのです。その「別れ」を、日本人はどれほど見つめてきたのでしょうか。

  最近私は中国に3回行きました。南京などで何人かの中国人から話を聞きました。そこで語られる被害体験は極めて生々しく、あたかも事件が起こったその「時」が佇(たたず)んでいるようでした。中国、韓国、シンガポールなど、どこで聞いても、アジア地域の戦争被害者の記憶は、極めて詳細で鮮明、具体的です。

※講演では、証言をビデオで再生。

  ヴァミク・ヴォルカンは『誇りと憎悪-民族紛争の心理学』(毎日新聞社、1999)でこう記しています。

 「人々は過去の出来事と現在のそれを知的には区別しても、時間の崩壊の影響のもとでは両者を感情的に一体化する」、「心的外傷後ストレス性障害(PTSD)では、内在化された心的外傷が圧倒的な物理的危険性の消滅後もずっと被害者の心の中に残りつづける。被害者は白昼夢や夜の夢の中で心的外傷を再体験し、記憶喪失にかかり、あるいは危険の観念に極端に過敏になるかまったく無関心になることがある。」

  私たち日本人は、PTSDに苦しんでいるこのようなアジアの人たちに思いを馳せてきたのでしょうか。日本人の「戦争の記憶」だけではなく、無視されてきた、アジア各地の人々の「戦争の記憶」に耳を傾ける必要がある、と思わざるを得ません。

3.「戦争死」を考える

 さてここで日本兵の戦争死について考えてみたいと思います。私たちは、戦争を記す際にはいつ、どこで死んだのかの統計をとります。その統計の作成は、むつかしくはありません。しかしどのように死んだのかは、ほとんどわかりません。

 以前、澤地久枝の『滄海(うみ)よ眠れ』(毎日新聞社、文春文庫)を読んだことがあります。1942年6月のミッドウエイ海戦における日米の死者を訪ね歩き、その生と死を書き綴ったものです。大変感動的なものですが、そのなかに、アメリカの遺族はどのように死んだのかを調べるため、今なお戦闘の生存者を訪ね歩いているとありました。日本の場合はどうなのでしょう。国家から戦死の知らせが来た後、遺族は兵士がどのように生き、そして死んだのかを尋ねることをしたのでしょうか。おそらくしていないのではないかと思うのです。

 そのような指摘を読んだ後、私は、日本兵がどのように死んだのか、戦死の諸相をいろいろ調べてみました。結論的に言えば、日本兵は無駄死にがすごく多かったということがわかりました。まず、アジア太平洋戦争で死んだ兵士の7割は栄養失調などの餓死でした。そしてそのほとんどが下級兵士でした。ガダルカナル戦、ニューギニア戦、インパール作戦など。その背景には、日本軍の兵站軽視があります。食糧がなくても「大和魂」がある、というのです。また作戦自体もきわめてずさんなものでした。日本軍兵士は、日本軍に殺されたと言ってもいいくらいです。

 戦死のなかには、勿論銃弾に当たって死んだ兵士もいます。また激しい砲爆撃の中で死んだ者もいます。日本陸軍の仮想敵国はソ連でしたから、陸軍は大陸において行われるであろう対ソ戦の研究・訓練は行っていましたが、太平洋地域での対英米戦については全くしていなかったのです。何と太平洋地域での対米戦の教育が考え始められたのは、1943年後半のことでした。このことからも、いかに無謀な戦いであったかがわかります。

  また戦死の中には、海没が多いのです。日本軍は海上護衛を軽視しました。米軍は、日本軍が兵員など海上輸送に依存せざるをえないことを予想し、各所に潜水艦を配置していました。台湾・フィリピン間のバシー海峡では、多くの兵士が海中に沈んでいきました。静岡県の兵士も海没が多いのです。例えば県西部の歩兵も召集された豊橋18聯隊は、マリアナへ派遣される途中で雷撃を受け2000人以上が死にました。その後静岡118聯隊が急遽マリアナへ送られましたが、この部隊も雷撃により2000名以上が海没、生き延びた兵士がサイパンへ上陸するとすぐに米軍の攻撃が始まり、そこで「玉砕」しました。フィリピンへ送られた独立歩兵13聯隊も、バシー海峡で海没しています。        

 「玉砕」というのも、勝利の見込みが全くない中で、ただ死ぬためのみに「敵」の弾幕に突入していく、というわけですから、無駄死にではなかったのか、と思います。日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」(「戦陣訓」)というように、降伏を許しませんでした。白旗を掲げるくらいなら死ね、というわけです。     

  こうして見てくると、日本兵は死ななくても良いところで死を強制され、無駄な死を強いられたのです。だから私は、日本軍兵士の死を悼むのです。こんな無謀な戦争で死ななくてもよかったのに、と。私は、今、日本軍兵士の死を凝視することも必要なのだと思います。

4.戦争体験の継承を

  浅羽町では、浅羽町郷友会『あけぼの』という戦争体験記を作成しています。以前私が村史編纂に関わった磐田郡豊岡村でも、戦後50年を記念して『うつせみのこえ』を編集しました。いずれも、体験者が記していることは、戦争の悲惨さ、悲しみ、そしてこのような体験を子どもや孫にさせたくない、というものです。

  今の子どもたちは、戦争体験世代からはるかに隔たっています。戦争体験を聞かないままに成長してきています。平和のためには戦争体験の継承に積極的に取り組むべきだと思います。子どもたちに正確な「戦争の記憶」を残してあげるべきだと思います。

 戦争体験世代は、すでに70歳を越えているでしょう。今がその最後の機会だと思います。この中川根はそのような戦争体験集がありません。是非作成していただきたいと思います。

5.おわりに -「死者は語らない」か-

 戦争で死んでいった人々は、何も語ろうとしません。しかし、私たちは死者の声を聞かなければなりません。死者は何を語ろうとしているのか、を。

  それは、「無意味な死」を繰り返さないこと、だと思います。私は戦争で死んでいった、例えば特攻隊の溝口さんの遺書に、痛切な「生きたかった!!」という声を聞きます。また先ほど紹介した遺族が書いた文に、「生きていてほしかった!!」という声を聞きます。

 戦争を繰り返させないことが「死者の声」だと、私は思います。

  最後に 有名な詩人、萩原朔太郎が記した「戦争における政府と民衆」(『虚妄の正義』1929、『萩原朔太郎全集』第4巻、筑摩書房 p.275~6)を紹介します。

     復讐や、正義やの純な感情が、民衆を戦争に駆り立てる。丁度我々の個人間で、侮辱への決闘を意志する如く、そのやうに民衆は、彼等の敵国を人格視し、戦争を倫理化しているのである。
 一方で、戦争の主動者たる者どもー官僚や、政府や、軍閥や、資本家やーの観念は、ずっとちがったものに属している。彼等にとって、戦争は全く打算的に決行される。たとへば領土の野心から、金融上の関係から、人口移植の必要から、もしく内乱や危険思想の転換から、政府当局の都合と虚栄心から、その他のさまざまな事情による利益と損失の合算が、彼等の「戦争への意志」を決定する。そして戦争は、かく功利的打算による投機の外、彼等にまで、何の倫理的意義を有していない。正義とか?復讐とか?もとよりこの種の感傷的な言語は、ただ素朴な民衆にだけ、民衆を扇動する目的にだけ、太鼓によってやかましく宣伝される。(中略)されば戦争の終った後までも、民衆の間には、尚久しくあの愚劣な興奮ー敵愾心を指すのであるーの残火が燃え  ているのに、一方では、それの扇動者等が、丸でけろりとしてしまっている。丁度、ゲームを終った同士のやうに、彼等は互に笑顔をつくり、次の新しき打算のために、いそいそとして敵に近づき、心底からの親睦を始めるのである。それによって民衆が、いつでも馬鹿面をし、呆気にとられてしまふ。

 私たちは、この指摘を噛みしめてみる必要があるのではないでしょうか。死者が何を語りたかったのか、それがここに記されていると言えるのではないでしょうか。

 


「変な力」

2025-03-30 21:10:25 | 近現代史

 『世界』四月号の「「民主韓国」と日本」(金容奭)を読んでいたら、こんな文に出会った。

 国家存亡の危機に際して国を救ってきたのは、「義兵」、「独立運動」、「民主化運動」など常に「民」の側だった。豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に逃げた王、朝鮮戦争の際に民を残して逃げた大統領、帝国主義に抗することなく、日本に国権を明け渡し、植民地支配に協力したのは権力エリート層だ。このような歴史観が民主韓国に位置付けられている。

 なるほどその通りである。韓国では、「民」の運動により、政治権力が倒されたりしている。ひるがえって日本では、一定の「民」の運動はあるが、しかし政治権力を倒すまでにはいかない。ここに大きな違いがある。

 韓国映画「ハルビン」は、安重根を描いたものだ。果たして日本で上映されるのかどうかわからないが、そのなかに、伊藤博文がこう語る場面があるという。

「朝鮮という国は愚かな王と腐敗した儒者たちが支配してきた国だが、・・・・国難のたびに(民が)変な力を発揮する」

 確かにその通りである。日本では、その「変な力」がでてこない。


女性天皇

2025-02-14 07:25:00 | 近現代史

 頑迷な保守層が主張する「伝統」というものは、近代日本がつくりだしたものが多い。たとえば一つの氏名がそれである。

 日本列島に住む人びとには様々な名前があった。幼名、通称、名乗(なのり)・・・名前は一定していなかった。たとえば武田信玄、幼い頃は太郎、正式には源晴信、出家後が信玄である。名乗とは、公家や武家の男子が元服する際にあらたにつけられるもので、「実名(じつみょう)」ともいう。

 1872年、戸籍法が制定され、戸籍(壬申戸籍)がつくられた。太政官は、今後はひとりの者にはひとつの名前にせよ、と命じた。

 さて、この時代の人びとは、苗字を使用することがなかった。必要がなかったのである。1870年、太政官は苗字の使用を許したのだが、庶民は使用しなかった。太政官は、困った。なぜか。兵役に困るからだ。徴兵制により男子を兵籍に記載しなければならないが、同じ名がたくさんあって、個人を特定することに困難が生じたのである。

 そこで、1875年に、太政官は、苗字を使ってもよいとしたがおまえたちはつかっていないじゃないか。これからは苗字を使用せよ、祖先の苗字が「不分明」なら「新たに苗字を設け」なさい、とした。

 ここに現在いうところの「氏名」が誕生したのである。ちなみに、夫婦同姓も、1898年の民法の制定によるもので、それまでは別姓であった。源賴朝の奥さんが北条政子であるように。夫婦別姓は、日本の古来からの伝統であった。

 さて、『週刊金曜日』の「風速計」で、田中優子さんが、国連・女性差別撤廃委員会からの勧告について書いている。同委員会から、皇位を「男系男子」に限るというのは女性差別撤廃条約と相容れないと言ってきたのだ。それに対して、恥ずかしいことに、日本政府は、皇位を「男系男子」にすることは基本的人権に含まれない・・・などと抗議した。そんなことを勧告するなら分担金を払わないぞ、と脅した。

 しかし、天皇を「男系男子」に限るという制度は、近代日本の創作なのである。1889年につくられた「皇室典範」で、「第一條 大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス」としたのである。

 もちろんそれまでは女性天皇は存在した。皇極、推古、持統、孝謙・・・・・

 田中さんは、近代日本における「家父長的家族制度の維持のために、天皇は男系男子」としたのであると書いているが、その通りなのだ。

 近代日本は、「新しい伝統」をたくさん生みだした。それもきわめて権力的な手段で。伝統、伝統・・・というのなら、古来からの伝統を言うべきではないのか。日本政府をはじめ、自民党の政治家や日本会議にあつまる方々は、近代日本を理想型としているから、「新しい伝統」に固執するのだ。かれらは、大日本帝国憲法体制下の日本に戻したい、そしてその時代に受けた様々な特典を享受したいのである。

 


「平成」を振り返る(6)

2024-12-11 20:40:51 | 近現代史

 先に、「何が正しくて何が間違っているかという基準がない。価値論や倫理の問題が脱落」したことを指摘した。そのなかで、虚偽がはびこり、「無知」の「無恥」が幅をきかすようになった。

〇安倍晋三~青木理『安倍三代』(朝日文庫)をもとに考える
安倍晋三は、成蹊大学法学部政治学科卒業

▲「可もなく不可もなく、どこまでも凡庸で何の変哲もないおぼっちゃま」(225)

▲ ゼミ担当教授=成蹊大学法学部・佐藤竺(あつし) 地方自治制度などの研究者
「(ゼミで)そもそも発言したのを聞いた記憶がないんですから。他のゼミ生に聞いても、みんな知らないって言うんです。彼が卒業論文に何を書いたかも「覚えていない」って佐藤先生がおっしゃっていました。「立派なやつ(卒論)は今も大切に保管してあるが、薄っぺらなのは成蹊を辞める時にすべて処分してしまった。彼の卒論は、保存してる中には含まれていない」」(255)

▲学歴詐称 「1997年成蹊大学法学部政治学科卒業、引き続いて南カリフォルニア大学政治学科に2年間留学」

▲神戸製鋼時代の安倍の上司・矢野信治(同社、もと副社長)「彼が筋金入りのライト(右派)だなんて、まったく感じませんでした。普通のいい子。あれは間違いなく後天的なものだと思います。・・・・(政界入り後)に周りに感化されたんでしょう。まるで子犬が狼の子と群れているうち、あんな風になってしまった。僕はそう思っています」(281~2)

▲宇野重昭・もと成蹊大学学長(国際政治学)「・・彼を取り巻いているいろいろな人々、ブレーン、その中には私が知っている人もいますが、保守政党の中に入って右寄りの友人や側近、ブレーンがどんどん出来ていったのも大きかったのでしょう。彼の場合、気の合った仲間をつくり、その仲間内では親しくするけれど、仲間内でまとまってしまう。情念の同じ人とは通じ合うけれど、その結果、ある意味で孤立していると思います。・・・・彼ら(自民党)の保守は「なんとなく保守」で、ナショナリズムばかりを押し出しますが、現代日本にあるべき保守とは何か。民衆は生活のことを第一に考える穏健の保守を望んでいる層が大半でしょう。自民党がもっとまともな保守に戻って、そうした民衆の想いを引っ張っていってほしい。」(302~305)

▲2013年3月29日(問)「総理、芦部信喜さんという憲法学者、ご存知ですか?」(答)「私は憲法学の権威ではございませんので、存じ上げておりません」

◎まっさらな「白紙」(無知)状態で、政治家になって後、「仲間」からいろいろなこと(情報)を受け容れていった。今まで蓄積された「知」を持っていないが故(無知)に、また仲間から受容した「知」しかないが故に、さらに「仲間」と思う人だけを信じて共に行動することが当たり前となった。そしてそうした自分自身に羞恥心をもたない(「無恥」)。


◎国のトップに準じて、人々は「知」を蔑視ないし無視するようになった。そしてそれを恥ずかしいことだと思うこともなくなった。

 


聴力障害をもった子どもたちの戦争

2024-12-10 15:14:07 | 近現代史

 以下の文は、2009年に書いたものである。
                      

 1945年4月16日付『静岡新聞』に、「天晴れ聾唖生徒」という見出しの記事がある。浜松聾唖学校の生徒が1944年9月から「職場に進軍」し、増産に励んでいる、というものである。この記事については既に『静岡県史』(通史編6 近現代二)で、「戦時下の障害児」(足立会員執筆)という項に「学徒動員」の一つとして紹介されている。


 だが驚くことに、動員されたのは、初等部の子どもたちであった。『静岡新聞』1945年4月15日付の記事には、「聾唖学徒が「翼」生産」という見出しで、静岡聾唖学校中等部の生徒9名が静岡飛行機工場で働いているという記事がある。このように、軍需工場に動員されたのは、中等部以上というのが一般的な理解である。

 浜松聾唖学校は、1923年4月、私立浜松盲学校内に併設(浜松市鴨江町在)され、1945年7月財団法人浜松聾唖学校となり、1948年県に移管され静岡県立浜松聾学校となった。戦時下、同校には初等部(1~6年)、中等部(1~5年)があり、校長は湯浅輝夫であった。

 子どもたちが動員されたのは、名古屋造兵廠関係の工場で、浜松市野口町にあった三協機械製作所(『浜松市戦災史』資料四)と馬込町にあった大日本機械製作所(聞き取りによる)である。三協機械は『浜松市戦災史』によると工作機械をつくる従業員230人の工場であるが、大日本については詳しいことはわからない。

 三協機械に動員されたのは、10歳(初等部5年から18歳(中等部5年)までの31名、1944年9月1日から。大日本機械には、10歳から14歳までの15名で、同年11月1日からであった。

 その証言をまず記しておこう。

 太田二郎さん(1934年1月生、5年)は三協機械に動員された。1944年9月1日に登校すると、今日から工場に働きに行くと言われ、その日から働き始めた。労働時間は8時30分から16時30分、初等部の子どもはヤスリがけ、中等部は部品づくりであった。月給は5円であった。

 花村光雄さん(1934年9月生、4年※聾唖学校は、入学時の年齢が一定していない)は、大日本機械に行った。1944年11月1日からで、当初午後だけであったが、途中から一日中働くこととなった。男子は弾丸のヤスリがけ、女子は50ずつ算えて箱に入れるという作業であった。
  1945年5月19日の空襲では二人の子ども(女)が亡くなった。三協機械構内にあった防空壕への直撃であった。

 ところでなぜ小学生が軍需工場に動員されたのか。推測ではあるが、まず湯浅校長の功名心である。4月16日付の記事中、湯浅校長談話に「私は彼等を全国に率先職場入りをさせた」とあり、また聞き取りからそのような傾向をもった人物であったようだ。そしてもう一つ。1941年8月から翌年8月にかけて旧浜北市を中心に15人が殺傷されるという強盗殺人事件(通称「浜松事件」)が起きている。その犯人は、同校生徒(検挙時は中等部1年。但し年齢は20歳か)であった。1942年10月浜松聾唖学校内で逮捕され、1944年2月静岡地裁浜松支部で死刑が言い渡され、同年6月大審院で死刑が確定、7月には刑が執行された(『静岡県警察史』下巻)。この事件の後から、工場への動員が始まる。事件の「汚名挽回」という面があったのかもしれない。

※柴田敬子『聴力障害者たちの戦中戦後』を参考にした。


「平成」を振り返る(5)

2024-12-10 08:25:53 | 近現代史

 「知性が衰退する時代」として「平成」を捉えたが、それは「令和」になってさらに加速している。

 G・オーウェルは、「全体主義の真の恐怖は、「残虐行為」をおこなうからではなく、客観的真実という概念を攻撃することにある。それは未来ばかりか過去までも平然と意のままに動かすのだ。」(「思いつくままに」、『オーウェル評論集』岩波文庫、所収)と書いているが、その通りの時代の中にわたしたちは入っている。

まず「百田尚樹現象(『ニューズウィーク日本版』2019年6月4日号)」を紹介する。


①百田尚樹=1956年、大阪市生れ。同志社大学中退。放送作家として「探偵!ナイトスクープ」等の番組構成を手掛ける。2006年『永遠の0』で作家デビュー。他の著書に『海賊とよばれた男』(第10回本屋大賞受賞)『モンスター』『影法師』『大放言』『フォルトゥナの瞳』『鋼のメンタル』『幻庵』『戦争と平和』『日本国紀』などがある。彼は、右派思想の持ち主・改憲論者である。


②百田尚樹はなぜ読まれるか?
ⅰ)読みやすさ ⅱ)山場をいくつもつくるストーリー展開と構成力 ⅲ)おもしろさ ⅳ)反権威主義 ⅴ)アマチュア ⅵ)「感動」を重視 ⅶ)「普通の人々」に

 したがって、そこでは、事実や学問研究の成果を重視しない。近年の動向として、事実や学問研究(知的営みによる成果)を無視ないし軽視する文化がはびこっているように思える。

 
③加藤典洋の指摘
 加藤は、島尾敏雄・吉田満『新編 特攻体験と戦後』(中公文庫、2014年)の「解説」で、両者の対談と『永遠の0』とを比較する。そしてこう記す。
※島尾は奄美・加計呂麻島で特攻用の「震洋」隊の隊長、吉田は戦艦大和の生き残り。戦後は日本銀行勤務。
「いまは、誰しも、特攻に関連し、また戦争の意味に関連し、賛否いずれのイデオロギーなりともたやすくある意味ではショッピングするように自在に手にすることができる。それだけではない。着脱可能と言おうか、小説を書くに際し、その感動が汎用的な広がりを持つよう、そのイデオロギーをそこに「入れる」こともできれば、「入れない」でおくことすらできる。イデオロギー、思想が、いよいよそのようなものなってきたというだけでなく、私たちがある小説に感動するとして、その「感動」もまたそのような意味で操作可能なものとなっているのである。」「私は『永遠の0』を読んだ。そしてそれが、百田の言うとおり、どちらかといえば反戦的な、感動的な物語であると思った。しかしそのことは、百田が愚劣ともいえる右翼思想の持ち主であることと両立する。何の不思議もない。今ではイデオロギーというものがそういうものであるように、感動もまた、操作可能である。感動しながら、同時に自分の「感動」をそのように、操作されうるものと受け止める審美的なリテラシーが新しい思想の流儀として求められているのである。」
 島尾、吉田、ふたりの対談を読み、加藤はこのように思う。
「言葉を変えれば、特攻体験をそのまま受けとめる限り、そこから「感動」に結びつく物語は生まれてこない、ということになる。」


 現在は、思想や、イデオロギー、感動が、ショッピング可能な、操作できるものとして登場する時代なのである。
 「アイデンティティ」ということばがある。「自己同一性などと訳される。自分は何者であるか,私がほかならぬこの私であるその核心とは何か,という自己定義がアイデンティティである。何かが変わるとき,変わらないものとして常に前提にされるもの (斉一性,連続性) がその機軸となる。」(『ブリタニカ国際大百科事典』)と説明されるが、石戸諭による百田尚樹の人物像から考えると、「私がほかならぬこの私であるその核心」がない、その時代時代の時流に沿って変化していく、それはカネ儲けのためでもあるし、権力とつながるためでもあるし、名誉を得るためでもある。いわば「アイデンティティ」の流動化ともいうべき様相を見せているのである。それが「平成」という時代の特徴かも知れない。

 学問的知が無視ないし軽視される時代のなか、権威というものも崩壊への道をたどった。それは学問の分野でも起きたことである。「ポストモダン」というある種の「流行」があった。 

(1)「ポストモダン」という考え方
● “現代は「大きな物語」が消え、歴史の終焉に入ったと考える。普遍性が破壊されたこの状況下では、「小さな無数のイストワール(物語=歴史)が、日常生活の織物を織り上げ」(『ポスト・モダン通信』)、言説は多様化する。”(リオタール)

●近代哲学の問題の構図は「主観」と「客観」との一致→言語論的転回=主観ー言語ー客観。「世界の正しい認識は可能か」=「言語はその認識を正しく表現できるか」。

●相対主義(「唯一絶対の視点や価値観から何ごとかを主張するのではなく,もろもろの視点や価値観の併立・共存を認め,それぞれの視点,価値観に立って複数の主張ができることを容認する立場」『世界大百科事典』第2版)→何が正しくて何が間違っているかという基準がない。価値論や倫理の問題が脱落。

●ポストモダンとは、「近代」を相対化した。そのなかで、近代が獲得してきた個人主義原理、人権、民主主義などのポジティヴな価値の相対化。※「個人主義原理」=個人の尊厳(権利の主体)と自己決定(自立と自律)

 今まで、共通だと思われていた価値に疑いがもたれるなか、倫理的なことさえも疑われるようになり、普遍的な価値観や倫理観が、個々バラバラに解体されていき、「何でもあり」という時代に突入した。

 

 

 


「平成」を振り返る(4)

2024-12-09 18:38:26 | 近現代史

◎「構造改革」の展開 

 日本の政治社会構造を新自由主義的に「改造」する改革がすすめられた。
  一般に新自由主義とは、「政府などによる規制の最小化と、自由競争を重んじる考え方。規制や過度な社会保障・福祉・富の再分配は政府の肥大化をまねき、企業や個人の自由な経済活動を妨げると批判。市場での自由競争により、富が増大し、社会全体に行き渡るとする」(「デジタル大辞泉」)考え方である。

 先鞭を付けたのは、イギリスのサッチャーだった。

サッチャー(1925~2013)は、1979年に首相となり、それから1990年まで新自由主義的な改革を断行した。

 サッチャーは「小さな政府」を志向した。「小さな政府」を実現するため、彼女は政府支出の削減と減税を行った。彼女が最初に行ったことは、教育、社会福祉、公衆衛生、住宅等への政府支出の切り詰め、公営企業等への援助金などの縮小であり、その一方で軍人と警官の優遇、軍事費の増額であった。減税は所得税に対して行われ、他方支出税(消費税)が増税された(高所得者への優遇と中・低所得層への冷遇)。


 ところでイギリスでは1984年から1985年にかけて、炭鉱の大幅な合理化案に反対する全国炭鉱組合による大規模なストライキが行われた。サッチャーは対決姿勢を鮮明にし、ストライキを組合側の全面的な敗北に導いた。この炭鉱争議は、サッチャーにとって、労働運動を衰退させるための突破口であった。この争議を抑圧するために、サッチャーは政府支出の削減を唱えているにもかかわらず、巨額の費用を投入した。1982年にはアルゼンチンとフォークランド諸島をめぐって戦争が開始されたが、彼女はこれにも巨費を投入した。

 サッチャーのものの見方は単純で、すべてを善か悪か、正か邪かで判断する二元論で、悪(邪)とみなしたものを徹底的に攻撃する。彼女にとって「悪」は福祉制度であり、公衆衛生であり、労働組合なのである。そして「善」は納税者である。納税者は政府の株主であり、大金持ちは大株主でもあるから、サッチャーは大口の納税者(大金持ち)の発言には耳を傾ける(「納税者の理論」)。かくて政府は、金持ち階級の「御用政府」となる。(森嶋通夫『サッチャー時代のイギリス』岩波新書、1988年を参照した。)

 日本でも、このような改革が推進された。まず「労働規制の撤廃」である。
例:派遣労働の規制緩和(自由化) 労働者派遣法の展開
1985年 専門業務派遣13業種のみ
1996年 専門業務26業務に拡大
1999年 原則自由、臨時的・一般的業務も解禁(期間1年)
2003年 専門業務派遣(原則3年、更新可能)、臨時的・一般的業務(原則1年、3年まで)、製造業派遣も可能
2012年 規制を強化,派遣期間が 30日以内のいわゆる日雇派遣は原則禁止,期限付きで働く派遣労働者が無期限の雇用者となれるよう派遣元が支援すること,派遣労働者と派遣先の労働者との待遇の均衡化に努めること。
2015年 専門26業務の区分が廃止され,すべての業務に関して,派遣先の同一の事業所における派遣労働者の受け入れの上限が原則 3年。派遣元には,派遣先への直接雇用の依頼など雇用安定措置や派遣労働者のキャリアアップ措置の実施が義務づけられた。

 またサッチャーの炭坑労働組合への強圧的な動きは、日本では国鉄の分割民営化としてあらわれた(1987年)。このなかで、国鉄労働組合は、徹底的に差別され、抑圧された。

 小泉内閣は新自由主義的改革を推進した。「構造改革なくして日本の再生と未来はない」と、小泉は叫んで推進した。その内容は、
①不良債権処理(貸し渋り、貸し剥がし)→倒産、失業
②民営化(「民間部門の活動の場と収益機会を拡大する」)
③「小さな政府」→公務員の減少  しかし、「官製ワーキングプア」
④「規制緩和」
       新規参入の自由化
       構造改革特区
 ⑤歳出抑制(財政健全化) 

  そのような改革の背後にいたのが、経団連などの財界、そしてアメリカであった。

その結果はどうだったのか。

①  経済成長せず
②  大企業だけが内部留保をため込む       「法人企業統計」 大和総研
 2016年 社内留保 30兆円+内部留保(利益余剰金)406兆円 +法人企業統計上の内部留保 48兆円(その状態=投資有価証券 304兆円(179兆円)+現預金211兆円(147兆円) 有形固定資産455兆円(464兆円)) ※( )内の数字は2006年の数字
③  格差社会
④  人口減少

「日本はもはや、誰もが豊かさを享受する国でも世界の先端を行く国でもない。失敗と迷走を重ねる不安と課題でいっぱいの国なのだ」(吉見俊哉『平成時代』岩波新書、2019年)

 


 

 

 


「平成」を振り返る(3)

2024-12-09 09:10:12 | 近現代史

◎「企業に奉仕する公共」(政治)

  残念ながら、何度も書いてきたように、政府や自治体は、集められた税金を企業へばらまいている。本来、「公共」とは、provided by the government from taxes to be available to everyone: とされています。誰もが利用できるように、税金を政府が提供することなのであるが、実際は企業や自民党、公明党の「お友だち」に税金が拠出されている。

  消費税が10%となり、庶民は重税に「ゼイ、ゼイ」と苦しんでいるが、「法人税実効税率」は、  1988年には 51.55%であったものが、2019年には29.74%と減らされている。また「所得税最高税率」も、 1988年では60%であったものが、2019年には45%となっている。1988年、消費税は0%であったが、2019年からは10%である。つまり累進課税である所得税を減らし、大衆課税である消費税に徴税の軸足を移してきているのである。

 それに、消費税が導入されてから、2022年までの消費税総額が224兆円、法人税の減税額がそれとほぼ同じの208兆円、つまり、法人税の減税分を消費税が埋めているという現状なのだ。

 また自治体も、企業への補助金支出を行っている。浜松市の例を示す。

 浜松市は、自動車メーカーのSUZUKIへ約35億円の企業立地補助金(県を含めると52億円)を交付した。SUZUKIによる検査不正が行われた時期なのに、浜松市はSUZUKIに補助金を支出したのである。

 浜松市にはかつて「行財政改革推進審議会」があり、そこでは鈴木修が積極的に動いていた。そこでの彼の発言を紹介しよう。

 「補助金の件数を減らすことも重要ですけど、絶対金額を減らすことがもっと重要」 「(日赤浜松病院に対する市の補助金について)僕は他の病院は移転しても、もらってるかもらってないか知らないが、今後こういう5年にも10年にもわたって何十億円なんていう補助金の出し方、企業誘致だとか何とかという問題についても、40億円の補助金をもらって企業誘致を受けたなんて会社はないでしょう。あるいは、釣った魚にエサはやらないってことで、今市内にある企業が1千億円設備投資したって市は1銭も払ってないわけです。だから、47億円というのは重要な問題。そういうことが二度と起きない取り決めというか、ルールを作っておくことも私は必要ではないかと思います。」(第二次、第四回)

 補足しておくと、浜松市の基幹病院のひとつである日赤浜松病院はほぼ中心部にあり、拡張することはできないために、郊外へ移転することになり、浜松市が補助金をだしたのである。それに鈴木修は噛みついたわけである。

 鈴木修が中心となってまとめられた『第二次行革審答申』(2008年3月19日)には、「補助金は、過去のしがらみを断ち切り統一的な制度のもと、公益性、公平性の視点により、行政が税金で負担すべきものか徹底的に事業内容を検証することが重要である。さらに市民は補助金に頼るのではなく、何ができるか、何をすべきか自ら考え行動する必要がある。」と書かれていた。

 しかし、なんと、SUZUKIは補助金を受けとったのである、補助金削減を強硬に主張していた鈴木修、自分(自社)への補助金はいいのか。ちなみに、この答申により、浜松市が支出していた公益団体その他への補助金は廃止されたり減額されたりしたという。

 このように、この例のように、国も地方自治体も、企業(とりわけ大企業)に補助金を交付したり、税制上優遇したりして厚遇しているのである(研究開発減税、受取配当益金不算入制度、外国子会社配当益金不算入制度、連結納税制度・・・)。さらに「消費税還付制度(輸出免税制度)」がある。例えば、50万円の商品を下請けから仕入れたとき、メーカーは消費税率10%を上乗せし、55万円を下請けに支払う。下請けはこの売り上げから5万円を税務署に納める。メーカーはそれを加工し、税込み110万円の商品を作ったとする。国内では販売に際し、消費税10万円を消費者から受け取る。10万円から、仕入れの際下請けに払った5万円を引き、残る5万円をメーカーが税務署に納める。これを年間でまとめて計算して支払う。一方、海外に輸出する場合は輸出免税により価格は税抜きの100万円となるため、仕入れの際に支払った5万円が相殺できない。これを国庫から還付金として補填する制度。消費税還付金には、年率1.6%の利息に相当する「還付加算金」が上乗せされるから、2018年度分で3683億円の還付を受けるトヨタは、単純計算で約59億円が利息として入ってくる。
 輸出企業にとって、消費税は多額の「益税」なのである。

◎「平成」におきたこと

 〇まず日経連が「新時代の『日本的経営』-挑戦すべき方向とその具体策」(1995)を提出したことである。それには労働者を三つのグループに分けることが提案されている。
①「長期蓄積能力活用型グループ」( 期間の定めのない雇用契約/管理職・総合職・技能部門の基幹職/月給制か年俸制・職能給/昇給制度あり/賞与=定率+業績スライド/年金 あり/役職昇進 職能資格昇進
②「高度専門能力活用型グループ」(有期雇用契約/専門部門(企画、営業、研究開発等)/年俸制・業績給/昇給無し/賞与・成果配分/年金 なし/業績評価
③「雇用柔軟型グループ」(有期雇用契約/一般職 技能部門 販売部門/時間給制・職務給/昇給なし/賞与・定率/年金 なし
 これによると、正社員は①のみで、②③は非正規となる。目的は、人件費の抑制であり、その結果、低賃金の非正規労働者は増え続け、全労働者の約4割が非正規となっている。

 その効果は1997、8年から出始め、その頃から賃金の下降、全世帯の所得金額が減り始めた。

 〇されにそれを推進したのが、1997年の転換、「橋本行革」であった。
 1996年1月 第二次橋本龍太郎内閣が誕生し、「構造改革」を打ちだした。「財政構造改革」(歳出抑制見直し)、「教育改革」、「社会保障構造改革」(給付と負担の均衡)、「経済構造改革」(規制緩和)、「金融システム改革」(金融の自由化)、「行政改革」(中央省庁再編、公務員減らし)が実施され、①消費税増税(3%から5%へ)、所得税・住民税の特別減税廃止、②公共投資の抑制、③不良債権処理→金融機関の破綻、④アジア通貨危機→輸出の減により、賃金減少、消費の減退、景気悪化が進んでいった。

 その「構造改革」がどういったものであるかは、次回に綴る。

 

 

 

 


「平成」を振り返る(2)

2024-12-08 21:37:36 | 近現代史

 「平成」の時代、どんなことが起きたかを記しておこう。

〇中曽根康弘内閣(1982年11月~1987年11月)
1983年1月「日米は運命共同体」、「日本列島不沈空母化」発言。/1985年7月「戦後政治の総決算」主張。/1985年8月、靖国神社公式参拝/1985年9月、プラザ合意→円高・ドル安へ/1985年10月、国鉄分割民営化、閣議決定。/1986年4月、経済構造調整研究会、「前川レポート」(内需拡大)/1986年12月、防衛費がGNPの1%枠突破。
1987年4月、国鉄分割民営化。/臨調「行革」路線=「個人の自立・自助」、「小さな政府」

1989年
4月 3%の消費税実施(約6兆円) 6月 天安門事件 9月 日米構造協議始まる  11月 連合発足・総評解散

1990年
6月 日米構造協議決着(公共投資10カ年計画、総額430兆円、大店法改正など) 8月 イラク、クウェート侵攻 10月 東証株価2万円を割る(バブル崩壊へ)

1991年
1月 湾岸戦争(湾岸戦争支援として90億ドル約1兆2,000億円援助)4月 自衛隊掃海艇ペルシャ湾へ、12月 ソ連崩壊 ※バブル(1986~91)崩壊
※ 1985年のプラザ合意(ドル安円高政策)を反映した金融緩和政策のため日本では資金の過剰流動性が生じ,低金利が長く続き,株式や土地に資金が集中してこれらの価格をつり上げた。1989年以降日銀が金融引締めに転じたため,株価や地価が急落,バブルは崩壊し,その後遺症で金融システムが機能しなくなり,景気も極端に悪化,人々はその影響に苦しめられた。

1992年
1月 大店法改正(規制緩和)施行 6月 国際平和維持活動(PKO)協力法成立

1993年 
8月 細川護煕非自民連立内閣成立

1994年
1月 政治改革4法案成立、衆議院議員小選挙区比例代表並立制決定
6月 松本サリン事件発生  6月 村山内閣 10月1995~2004年度の公共投資計画、総額630兆円に。

1995年
1月 阪神・淡路大震災発生 3月 地下鉄サリン事件発生 4月 1ドル=80円を切る 5月 日経連「新時代の『日本的経営』」 11月 windows 95 日本発売

1996年
1月 橋本龍太郎内閣 4月 安保再定義 9月 民主党結党 10月 第41回総選挙(初の小選挙区比例代表並立制)

1997年
4月 消費税の税率、3%から5%に引き上げ   9月 新ガイドライン 12月 介護保険法公布

1998年
1月 大蔵省不良債権金額76兆円と発表 4月 周辺事態法案など閣議決定 7月小渕内閣

1999年
5月 周辺事態法などの新ガイドライン3法成立。7月 憲法調査会設置の改正国会法成立。8月 国旗・国歌法成立。通信傍受法、組織犯罪処罰法、改正住民基本台帳法成立。
12月 労働者派遣法改正、派遣対象事業を原則自由化

2000年
4月 介護保険制度開始 森内閣 12月 教育改革国民会議、教育基本法見直しを提言。
2001年
1月 中央省庁再編成 4月小泉内閣 6月 経済財政諮問会議、「聖域なき構造改革」の具体策まとめた基本方針決定 9月 アメリカ同時多発テロ 10月 テロ対策特別措置法、成立

2002年                                                                                              1月 1府12省庁、始動     5月 日韓共催のサッカーW杯開催    7月 郵政関連法成立、「日本郵政公社」2003年4月発足 9月 「日朝平壌宣言」に署名

2003年
3月 イラク戦争 SARS集団発生 5月 個人情報保護法 6月 有事関連3法、改正労働者派遣法成立、経済財政諮問会議、三位一体改革と規制改革決定 7月 国立大学法人化法など関連6法成立、イラク復興支援法成立 

2004年
1月 陸上自衛隊先遣隊がイラク・サマワ到着  5月 小泉訪朝、拉致被害者の家族が帰国  6月道路公団民営化関連法成立 10月 新潟県中越地震で死者40人 12月スマトラ沖地震

2005年
4月 JR福知山線脱線事故 9月 宮城県南部地震 10月 郵政民営化関連法が成立

2006年
1月 日本郵政株式会社が発足 6月 厚生労働省、2005年の人口動態統計で出生率は1.25と過去最低と発表   9月 安倍晋三内閣が発足 12月 改正教育基本法成立

2007年
2月 「年金記録漏れ」5000万件判明 7月 新潟県中越沖地震、死者15人、参院選で自民歴史的惨敗、民主第1党に。9月 安倍首相が突然の退陣、後継に福田首相 10月 民営郵政スタート

2008年
4月 後期高齢者医療制度発足 6月 秋葉原通り魔事件 9月 リーマンショック(株価大暴落)

2009年
6月 新型インフルエンザ流行 9月 民主党政権成立  10月 厚労省、日本の貧困率を15.7%発表(先進国最悪)

2010年
1月 日本航空破綻 3月 平成の大合併終了 6月 鳩山内閣退陣→菅直人政権  

2011年
3月 東日本大震災・原発事故 9月 野田内閣 10月 歴史的円高、一時1ドル=75円32銭(政府・日銀円売り介入。介入額は1日としては最大の7兆7000億円程度)

2012年
8月 社会保障と税の一体改革の柱である消費増税法成立(8%へ。民主、自民、公明)。
12月 第二次安倍政権

2013年
12月 特定秘密保護法成立(施行は2014年)

2014年
4月 消費税5%から8%へ 5月 内閣人事局設置 7月 安倍内閣、集団的自衛権行使容認の閣議決定(解釈改憲)  

2015年
9月 安全保障関連法が成立

2016年
4月 熊本地震 5月  オバマ大統領が広島を訪れる。8月 天皇が「象徴としての務め」で見解表明 

2017年
1月 トランプ米大統領に 6月 「共謀罪」法が成立 ※森友・加計・南スーダン国連平和維持活動日報問題

2018年
3月 財務省、森友文書改ざん認める

2019年 
10月 消費税10%へ 12月 中国で新型コロナウイルス


「平成」を振り返る(1)

2024-12-08 21:23:31 | 近現代史

 1995年について『世界』が特集したことを、先に紹介した。1995年に焦点をあてて講演したこともあったが、今そのレジメがどのUSBメモリーにあるのか捜し当てていない。そこで、「「平成」を振り返る」というテーマで話したこともあるので、それを紹介していこうと思う。

 「平成」とは、 1989年1月8日から2019年4月30日までの期間である。約30年、その30年について、わたしは、 Ⅰ「企業に奉仕するシステム」(政治・経済)、Ⅱ「知性が衰退する時代」(社会)、Ⅲ「対米従属から自発的対米隷属へ」(政治・外交)として、3回に分けて話した。

 「平成」という時代においては、内閣は短期間で変わっていた。小泉内閣、安倍内閣は長かったが、それ以外は短命内閣であった。それを示すと、次のようになる。

  竹下登            1987(昭和62)年11月6日~1989(平成元)年6月3日   
  宇野宗佑          1989年6月3日~1989年8月10日                      
  海部俊樹          1989年8月10日~1991年11月5日
  宮沢喜一          1991年11月5日~1993年8月9日                     
  細川護熙          1993年8月9日~1994年4月28日
  羽田孜            1994年4月28日~1994年6月30日                  
  村山富市          1994年6月30日~1996年1月11日
  橋本龍太郎        1996年1月11日~1998年7月30日                 
  小渕恵三          1998年7月30日~2000年4月5日                 
  森喜朗          2000年4月5日~2001年4月26日
     小泉純一郎        2001年4月26日~2006年9月26日
  安倍晋三          2006年9月26日~2007年9月26日
  福田康夫          2007年9月26日~2008年9月24日
  麻生太郎          2008年9月24日~2009年9月16日
  鳩山由紀夫        2009年9月16日~2010年6月8日
     菅直人            2010年6月8日~2011年9月2日
  野田佳彦          2011年9月2日~2012年12月26日
  安倍晋三          2012年12月26日~2020(令和2)年9月16日

 「平成」という時代について、吉見俊哉編『平成史講義』(ちくま新書)では、「失敗の30年」、「戦後日本社会が作り上げてきたものが崩れ落ちていく時代」、「苦難の30年間」、「失われた30年」、「沈滞した時代」などと否定的なことばで総括される。わたしは、「平成」を、「庶民を切り棄てるシステムを構築した時代」として捉えたい。グローバル資本主義、新自由主義(民営化・規制緩和)、政治改革、自己責任、「小さい政府」など、すべてが「庶民を切りすてるシステム」につながっていると考えるからだ。


「忘れられた皇軍」

2024-11-24 16:51:59 | 近現代史

 大日本帝国は、1910年から朝鮮を植民地として支配していた。しかし、アジア太平洋戦争の激化のなかで、大日本帝国政府は不足する労働力を確保するべく、朝鮮人を強制的に労務動員に駆り立て、また中国人を拉致・連行して日本の鉱山などで働かせた。それだけでなく、軍属として戦地にも派遣した。さらに、朝鮮人を兵士にもした。大日本帝国政府は、反抗精神ある朝鮮人を兵士にすることにためらいはあったが、1938年2月、朝鮮陸軍特別志願兵令、43年2月には海軍特別志願兵令、同年10月には陸軍特別志願兵臨時採用施行規則が公布され、朝鮮人学徒も動員されることとなった。

 日本兵が戦死したり戦傷を受けたりしたと同様に、朝鮮出身の軍人・軍属も、戦死したり戦傷を受けたりした。

 1945年8月、敗戦。日本国政府は、戦死し、戦傷を受けたもと日本兵に対しては国家補償を行った。「戦傷病者及び戦没者遺族への援護」の各種制度である。しかし、1952年に制定された「法律第百二十七号 戦傷病者戦没者遺族等援護法」の付則には、「戸籍法(昭和二十二年法律第二百二十四号)の適用を受けない者については、当分の間、この法律を適用しない。」とあり、大日本帝国下、戸籍法に登載されなかった大日本帝国臣民であった朝鮮や台湾などの軍人、軍属には、援護がなされず、それは今も一貫している。

 戦時下では、朝鮮人や台湾人らは「大日本帝国臣民」として戦場に送られたのに、戦争が終わってみれば、「あんたらは大日本帝国臣民ではあったが、戸籍法に登載されていなかったから援護はしないよ」というわけである。

 だからこういう映画が、大島渚監督によってつくられた。

 「忘れられた皇軍」である。

 


歴史は記憶され続ける

2024-11-03 21:37:31 | 近現代史

 第二次大戦前、スターリンのソビエト連邦とヒトラーのドイツは、ポーランドを分割してみずからの支配下に置いた。そして

 「1939年9月から41年6月にかけて、ドイツとソ連は合わせて推計20万人ものポーランド人を殺害し、およそ100万人を強制追放した。」(247頁)

 ソ連もドイツも、ポーランド人を殺したが、その殺人行為には正当性はまったくなかった。みずからの支配に都合がよくなるように、「意図的にポーランド社会の上層部を抹殺して従順な大衆だけを残そうとした」のである。

 『ブラッドランド』のブラッドとは、bloodである。血、である。無数の血が流された。その血を流させたのは、ソ連でありドイツであった。『ブラッドランド』を読み進めているのだが、ソ連のスターリンが極悪人であることは当然であるが、その命令を受けて積極的にポーランド人その他を殺しまくった輩がいる。

 官僚制は、今の役所でもそうだが、上からの命令を素直に実行することが役人の仕事となる。役人は、すべきではないことであっても、命令があれば実行する。そうした輩によって、官僚組織は運営されている。

 スターリンが処刑する計画数を呈示する、すると官僚はそれを上回る数の人間を処刑する。そうした事例がたくさん記されている。

 中東欧で起きていた事態の詳細を、わたしは知らなかった。中東欧の諸民族の動きは、虐殺の歴史を背負っていたことを知った。それはまた、今後も背負い続けるだろう。ドイツとソ連による虐殺は、20世紀の出来事だから、虐殺された人びととつながる人びとは、決して忘れていない。

 この本『ブラッドランド』上巻を、まもなく読み終える。

 次々に登場する悲惨な現場に読者は立ち会うことになる。悲惨な現場をへて今がある。中東欧の動きは、過去の悲惨な現場抜きには、理解し得ないことがよくわかった。