浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

再読

2023-09-30 13:03:42 | 

 山本義隆の『私の1960年代』(「金曜日」)を再読した。2016年に、すでにこの本を紹介している

 最近、たくさんの本を処分した。それでもまだまだ多くの本が残されている。未読の本もいっぱいある。残された人生でどれだけの本を読むことができるか。捨てた本は、もう読むこともないだろうと判断したものだ。時事的な本は、とっておく必要がないものが多かった。やはり、歴史の流れに抗して生き残った本は、残さざるを得なかった。

 本書は、捨てられなかった。そしてもう一度読もうと思った。その理由は、私がまだ希望を持てていた時代、それは1960年代から70年代にかけてであるが、その時代を先進的に駆け抜けていたひとりが山本義隆であり、その時代を私も何かを求めて生きていたという共通の体験をもっているからだ。

 そしてもう一つは、山本が、科学技術を中心とした近代日本のありかたに大きな疑問を持ち、それをきちんと問う作業を行っているからで、それは現在の原発問題にも直結している。

 私は、2015年、某所で5回の講座を行った。その趣旨は次のようなものだった。

 「 家 康 公 四 百 年 祭 」の 事 業 趣 旨 に「 家 康 公 が 礎 を 築 い た「 世 界 史 上 例 を み な い 平 和 国 家 」」と い う 文 言 が あ り ま す 。 確 か に 徳 川 時 代 の 約 260 年 間 は 戦 乱 の な い 平 和 な 時 代 で し た 。し か し そ の 平 和 な 徳 川 時 代 も 幕 末 維 新 の 動 乱 の な か で 崩 壊 、 そ の 後 に 樹 立 さ れ た 近 代 日 本国 家 は そ の 初 発 か ら 対 外 的 に 膨 張 政 策 を と り ま し た 。 1945 年 の 敗 戦 ま で 、 近 代 日 本 国 家は 海 外 に 植 民 地 を 持 ち 、 軍 隊 を 海 外 に 駐 留 さ せ る と い う 、 い わ ば 「 戦 争 国 家 」 で あ っ た ので す 。 そ し て 1945 年 以 降 は 、 再 び 平 和 憲 法 の 下 、「 平 和 国 家 」 の 道 を 歩 ん で き ま し た 。 この 平 和 - 戦 争 - 平 和 の 変 遷 を 、 巨 視 的 に 、 世 界 史 、 と り わ け 欧 米 の 動 向 と 関 連 さ せ な が ら考 え て い き た い と 思 い ま す 。

 その際、山本の『一六世紀文化革命』全2巻(みすず書房)はたいへん役に立った。山本が膨大な書物をもとに描いた16世紀の文化革命に、私は強く触発された。山本の学問研究は、明確な問題意識をもち、またきわめて誠実であるからだ。

 私は、この『私の1960年代』にも、その鋭い問題意識と誠実さを読み取る。それは、現在の山本にも貫かれている。

 かつていろいろな大学闘争を担った者たちが、すべてその後の人生で問題意識を維持し続けているわけではない。情けない人生を送っている者が、実際は多い。あのなかでもった問題意識を持ち続けている少数者に、私は大いに共感する。

 国家権力は、無数の抵抗を抑圧し、さらに抵抗精神を生まないような子どもにするという文教政策のもとで、その意味ではおとなしい社会をつくりあげた。そういう時代に生きる人びとは、おとなしく、体制と順応して生きる。いろいろな集会においては、白髪の人たちを見ることが多く、若者の姿は少ない。

 私も日本史という分野でいろいろ研究してきたが、鋭い問題意識を持つ研究成果こそよいものができる、という実感を持っている。そしてその問題意識は、いろいろな闘いのなかでこそ研ぎ澄まされるのだ。

 本書を読むたびに、志というものの力を感じるのだ。

 

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文科省の職員

2023-09-30 08:20:11 | 政治

 文教政策を担ってきた文部科学省。文教行政で彼らが行ってきたことは、戦前の教育勅語体制を憧憬し、できるだけ民主主義的要素をなくし、教員や子どもたちを統制し、政府の言いなりになるような人間作りをしてきた。

 そういう職場にいる者たちの心性は、上意下達、服従、上司にたてつかず、異論を唱える者たちを白い目で見て排斥するというものであろう。学校も、そうした人間を育成するために、様々な施策を展開してきた。

 そういう人物にとって、不祥事を訴える者を許すことができない。文科省は、廃止すべきであると、ずっと前から思っている。 

情報提供者の氏名を漏えい 所属の公益財団法人に―内閣府

 

 

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こんな自民党でも・・・・

2023-09-29 13:58:18 | 政治

 日本人の生活を破壊して多額のカネを韓国の教祖周辺に集めるという特異な宗教団体である統一協会とべったりとくっついている自民党。

 そんな自民党に、今も尚投票を続ける国民たち。

 こんなニュースが舞い込んだ。自民党には、こういう問題ある輩しかいないということを示す。また杉田某をこうした職に平気でつけるということは、自民党という政党は、杉田某の野蛮な発言を党として認めているということだ。あるいは、自民党というのは、杉田某と同じように考えている野蛮な人たちの集まりであるということだ。

<速報>松川るい氏を副幹事長 杉田水脈氏は環境部会長代理に フランス研修や差別言動で批判 自民党人事

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政治的選択

2023-09-28 08:11:53 | 社会

 YouTubeチャンネルで、ワクチンの功罪についての議論をみた。偶然見つけた番組で、4時間以上にもなるもので、医者や研究者をあつめての熱心な議論であった。

 そこでは名古屋大学名誉教授の小島勢二さんらが、ワクチンについてそれぞれの研究に基づいて意見を交換していた。

 共通した意見をまとめると、すでにコロナウィルスは毒性が低くなっているので、ワクチンを打つ必要はない、というものであった。そこでは、オミクロン株をマウスに投与しても死ぬマウスはない、ワクチンを何度も打ち続けることはからだには害悪であること、ワクチンを接種するから超過死亡が増えるのだ・・・・という意見が交わされていた。

 ウィルスとか細菌は、当初毒性が強く多くの感染者を殺していくが、しかしそうなるとウィルスや細菌はみずからをも殺してしまうことになるので、子孫を残すことができるように毒性を減らして人類と共存できるように変異を繰り返していく、というのが一般的な考え方である。したがって、人類を皆殺しにするウィルスや細菌はないのである。

 昨日所用で区役所に行った。となりに産業展示館があるが、いつもよりも多くの車が駐車していて、車を誘導する人もいた。調べてみたら、浜松市のコロナワクチン集団接種が行われていたのだ。

 私は、コロナワクチンについて調べていくなかで、小島勢二さんの、ワクチンが増加する超過死亡の背景にあるのではないか、という意見は、傾聴すべきではないかと判断している。

 その議論の中で、YouTubeでは、コロナワクチンについてその問題点を指摘した場合、見られなくなる、ということが言われた。そういえば、この4時間以上にわたる議論は、今は見られない。探してもでてこない。私が見たのは、一昨日なのに、消されているのである。

 私はテレビを見ないので、YouTubeで民放のニュースなどを見ているが、コロナワクチンの問題を報じているのは、CBCだけである。「大石解説」では、コロナワクチン接種後に副反応などで苦しんでいる人びとに取材して、ワクチンがもたらす問題点をきちんと指摘しているが、そのようなニュースを報じているのは、CBCだけである。

 同番組は、ワクチンについてこう考えるべきだということは言わないが、ワクチンを接種した後に体調を乱され、ひどく苦しんでいる姿を映し出し、ワクチン接種をどうするかはしっかりと考えてほしいというスタンスで報じているので、これは見ることができる。

 つまりコロナワクチンを批判する情報は、もちろんテレビメディアや新聞もあまり報じないから、人々には到達していないのである。

 私は以前にも書いたが、これだけ物価が上昇し、しかし賃金や年金もあがっていないことに、政府は有効な施策をまったくしていない、つまり人びとの生活がどうなろうと知らない、という姿勢を堅持しているにもかかわらず、なぜかワクチン接種だけは積極的にすすめている、まったく整合性はない。ワクチン接種は、人びとの為ではなく、ワクチン製造会社などを儲けさせるためにやっているのではないかと勘繰りたくなるのだ。あるいは、超過死亡は高齢者が多いので、高齢者に現世から去ってもらって、年金を減らし、医療費を削減しようとしているのではないかと疑ってしまうのだ。

 それにコロナワクチン批判の番組は、YouTubeから消されているが、YouTubeを運営しているGoogleは、政府の見解に沿っていないものは制限をかけていることを明言しているという。

 つまり、YouTubeも、あるいはTwitter、今ではXも、政府批判の意見を抑えている、というわけだ。ネットでは、運営会社による政治的選択を経たうえでの情報しか提供されないということなのである。

 

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【本】ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)③

2023-09-27 05:15:45 | 

  次は、群衆は、「威厳」をもつ人物に服従するという。

「威厳は、事実、ある個人なり、ある事業なり、ある主義なりが、我々の心に働きかける一種の魅力なのである。この魅力が、我々のあらゆる批判能力を麻痺させて、驚嘆と尊敬の念をもって、我々の心を満たすのである。」

「威厳こそは、およそ支配権の最も有力な原動力 である。」

「威厳の特徴は、事物をありのままに見るのを妨げて、判断を麻痺させる点にある。群衆は 常にそうであるが、個人も、多くの場合、既成の意見を要求する。これらの意見の成否は、それに含まれている真実や誤謬の部分とは無関係であって、もっぱらその威厳如何にかかっている。」

 「威厳」をどう解するかわからないが、現在の群衆は、テレビに出ている、有名人である、そういう人物を信じるようだ。〇○がそう言っていたから・・・というように、テレビにでている「有名人」の意見にみずからを沿わせる。現代の「威厳」づくりに、テレビは大きな影響を与えている。そういえば、「維新」のリーダーは、関西のテレビにしょっちゅう出演しているという。

 メディアは、今もこうだ。

「新聞雑誌は、単なる報道機関に化して、どんな思想もどんな主義も強制しなくなり、ただ世論のあらゆる変化に追随する。それも、同業者との競争の必要上、読者を失うのを恐れて、余儀なくそうするのである。以前の、由緒深い、堂々たる有力な機関紙ー前代の人々は、その託宣を襟を正して聞いたものであるがーは、姿を消してしまったか、さもなければ、娯楽記事や世間のゴシップや金儲け目当ての広告を多く取り入れた報道機関紙に化してしまった。」

 この本が書かれたのは19世紀の末、人間はまったく進歩していないことがわかる。そういう「群衆」の現状を認識しながら、変革を求める人びとは「良き社会」の建設のために動かなければならない。

 

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【本】ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)②

2023-09-27 04:37:34 | 

「群衆にあっては、 同感は直ちに崇拝となり、反感は生まれるや否や憎悪に変わる。

「優越者と目される人物に対する崇拝心、その人物が有すると思われる権力に対する畏敬の念、彼の命令に対する盲目的服従、彼の説く教義を論議することの不可能なこと、その教義を流布しようとする欲望、それの認容を拒む者を全て敵対したとみなす傾向、などである。」

「人は、単に、神を礼拝する時に宗教的であるのみならず、感情と行為の目標や指導者となった人物あるいは主義のために、あらゆる精神力を捧げ、意志を完全に 服従させ、熱狂的信念の熱情を傾け尽くす時にもまた、宗教的なのである。偏狭さと狂信とは、普通、宗教的感情にはつきものである。 現世の幸福なり永遠の 幸福の秘訣を握っていると確信している人たちにあっては、偏狭さと狂信とは避けがたいものである。この二つの特色は、集団中のあらゆる人々が何らかの確信に駆り立てられるときにも見出される。」

 この部分を読んでいると、いわゆるネトウヨの言動は、まさにこの「群衆」のあり方と通ずるものがあると思うのは、私だけだろうか。

 関西地区で、あの「維新」を熱狂的に支持している人びとも、この「群衆」のあり方とよく似ている。

「これまで群衆が真実を渇望したことはなかった。群衆は、自分らの気に入らぬ明白な事実の前では、身をかわして、むしろ誤謬でも魅力があるならば、それを神のように崇めようとする。群衆に幻想を与える術を心得ている者は、容易に群衆の支配者となり、群衆の幻想を打破しようと試みる者は、常に群衆の生贄となる。」

  私からみれば万博といい、カジノといい、そしてまた「身を切る改革」といい、まったくの「誤謬」の施策であると考えるのだが、関西の支持者達には、それがまったく伝わらない。まさに「宗教的」なのであり、統一教会の信者(「食口」)と同様に見える。

 

「群衆は、推理には影響されず、粗雑な連想しか理解しないのである。それゆえ、群衆の心を動かす術を心得ている弁士は、その感情に訴えるのであって、決して理性に訴えはしないのである。合理的な論理の法則は、群衆には何の作用をも及ぼさない。」

「聴衆の思考ではなく、自分の思考のみを追う弁士は、単にそれだけの事実で、 一切の影響力を失ってしまうのである。」

「常に大衆は、強固な意志を具えた人間のことばに傾聴するものである。群衆中の個人は、全く意志を失って、それを具えている者の方へ本能的に向かうのである。」

「 群衆の精神を常に支配しているのは、自由への要求ではなくて、服従への要求である。服従に対する渇望が、群衆を、その支配者と名乗る者へ本能的に屈服させるのだ。」

 なるほど、統一協会の「真の父母様」は、そして「維新」のリーダーは、「強固な意志を具え」ているようだ。

「群衆の精神に、思想や信念(中略)を染み込ませる場合、指導者たちの用いる方法は 、種々様々である。指導者たちは、主として次の三つの手段に頼る。すなわち、断言と反復と感染である。」

「この断言は、たえず、しかもできるだけ同じ言葉で繰り返されなければ、実際の影響力を持てないのである。」

「断言された事柄は、反復によって、人々の 頭の中に固定して、ついにはあたかも論証済みの真理のように、承認されるにいたるのである。」

 人びとを動かす政治家たちは、確かにこれを利用する。小泉元首相は、あの「郵政選挙」のとき、「郵政民営化」はすべき施策であると、何度も断言し、それを繰り返し、選挙で勝利した。しかしそれにより、日本郵便はオーストラリアで多額の損失をだし、土曜日日曜日の配達はなくなり、また配達に日時がかかるようになり、郵便局での現金による送金には手数料を払わなければならなくなるなど、国民へのサービスはみるみる低下していった。まったく「誤謬」の施策であるにもかかわらず、人びとは熱狂的に支持した。

 小泉元首相の「断言と反復」に、野党や自民党内の反対派は、負けた。論理的に反論したからだ。

「断言と反復に対抗できるほど強力なものは、これまた断言と反復あるのみである。」

 

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【本】ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)①

2023-09-26 13:49:25 | 

 「群衆」とはこういうものだ、という内容で、人びとを愚民としてみているようにも思えるが、指摘されていることは、なるほどその通りだなあと思うところがたくさんあった。1895年に刊行されたそうだが、今でも十分通用することに怖さを感じてしまう。

 のっけから、「人間は決して純粋理性の命令に従って行動するものではない」という指摘。では何にしたがって行動するのかという問が生まれる。その答えが本書で書かれている。

 

「集団的精神の中に入り込めば、人々の知能、したがって彼らの個性は消え失せる。異質的なものが同質的なもののなかに埋没してしまう。そして、無意識的性質が支配的になるのである。

「群衆はいわば智慧ではなく凡庸さを積み重ねるのだ。」

「 群衆においては、どんな感情もどんな行為も感染しやすい。個人が集団の利益のためには自身の利益をも実に無造作に犠牲にしてしまうほど、感染しやすいのである。」

「孤立していた時には、おそらく教養のある人であったろうが、群衆に加わると、本能的な人間、したがって野蛮人と化してしまうのだ。」

「 単独の個人は、自己の反射作用を制御する能力を持っているが、群衆はこの能力を欠いている。」

「群衆は、思考力を持たないのと同様に、持続的な意志をも持ちえないのである。」

 「 群衆の中に入れば、愚か者も無学者も妬み深い人間も、おのれの無能無力の感じを脱し、その感じに取って代わるのが、一時的ではあるが絶大な暴力の観念なのである。」

「群衆は、弱い権力には常に反抗しようとしているが、強い権力の前では卑屈に屈服する。」

 

「思想は、極めて単純な形式を帯びたのちでなければ、群衆に受け入れられないのであるから、思想が一般に流布するようになるには、しばしば最も徹底的な変貌を受けねばならないのである。」

「 群衆が、正しく推理する能力を持たないために、およそ批判精神を欠き、つまり真偽を弁別し、的確な判断をくだす能力を欠いていることは、付け加えるまでもない。」

「 群衆は、熟考と推理の能力を欠いているために、真実らしくないことを弁別することができないのである、」

「 民衆の想像力を動かすのは、事実そのものではなくて、その事実の あらわれ方なのである。それらの事実が、こう言っていいならば、いわば凝縮して、人心を満たし、それにつきまとうほどの切実な心象を生じねばならない。群衆の想像力を刺激する術を心得ることは、群衆を支配する術を心得ることである。」

 そうした群衆の特性を認識して、政治家たちはうごめいているように思う。

 このあとには、そうした特性を、どのように利用することができるかが記されている。

 

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貧乏国日本を続ける日銀

2023-09-25 14:27:46 | 政治

 アベの時代から続く日銀の異次元の金融緩和策、総裁がかわってもそれが続く。要するに、格差拡大政策であり、輸出企業を儲けさせ、株価をあげる、他方物価がどんどんあがっていく、そして賃金はあがらない。それが続いている。

 結果、日本国民は、すでに先進国とはいえない貧しい日々を過ごすしかない状態だ。それでも国民は、選挙に行かないし、行っても統一教会に支持されている自民党や創価学会の公明党に投票する。これではよくなるわけがない。

 自民党、公明党は利権政党であり、利権があるところにだけ財政を支出する。もう自民党や公明党からおさらばしよう。それとも貧乏を続けたい?

イタリアに行くと「日本は超貧乏国」と痛感… 豊かになるために転換するしかない“政策”は

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堕落への道を走るテレビ

2023-09-24 16:33:24 | メディア

 テレビのない生活は静かな日々である。長年テレビを見ない生活をしているのに、友人のなかには、私にテレビの話をする。その都度、「ボクはテレビを見ていないから」と口をはさむ。

 こんなにも、こんなにも、テレビがくだらないことを流し続けているのに、なぜ人はテレビを見続けるのか。

 「良い番組もある」という意見をする人がいるが、ではその割合はどのくらいかと、私は問う。ほとんどないに等しいではないか。テレビを捨て去れば、日本は少しはよくなるのではないかと思う。

 ジャニーズに関する問題が報じられているという。カネ儲けに目が眩んでいるメディア、それには新聞もはいるのだが、ジャニーズ所属のタレントをつかえばテレビでは視聴率が稼げて、雑誌なら売り上げが伸びるのだという。

 朝日新聞が発行していた『週刊朝日』、ジャニー喜多川が亡くなったとき、「追悼 ジャニーさん ありがとう」という特集号を出していたという。2019年7月だ。

 読んでいないのでわからないが、最近朝日新聞社は、社説でこの問題を厳しく断罪していたらしい。しかし、『週刊朝日』や『アエラ』がジャニーズ事務所と手を結んできたことをどう考えるのか。

 朝日新聞社は、私にとってはいかがわしい新聞だという認識がある。たしかに良き記者はいる。だが、リベラルであるかのようなそぶりを見せながら、本質はいかなる体制をも、社としては批判しない。批判は、社と関係ない文化人に書いてもらう。

 今や新聞は、私の目が届く範囲でいうと、『東京新聞』のみジャーナリズムの範疇に入る。

 テレビなんぞは、ジャーナリズムのジャもない。見る価値はない。テレビを棄てて書を読もう。

 さて、テレビ批判の文書をみつけた。その通りだと思う。

ジャニーズ性加害問題の本質はテレビ局の堕落 「視聴者がそういう番組を欲しているから」の言い訳はもはや通用しない

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福祉を食い物にする「恵」

2023-09-23 08:04:16 | 社会

 最近私は、「性善説」を放棄しなければならないと思っている。この世の中には、悪い奴がいっぱいいる。とりわけ、社会的弱者を食い物にして金もうけをするろくでもない奴が跋扈していることに、腹が立つ。

 老人福祉施設や生活保護受給から保護費をせしめている輩・・・・こういうやつらが跋扈する背景には、自治体職員の人減らし、自治体が民間企業に福祉事業を丸投げしているからだ。

 

 国も自治体も、国民や住民を守らずに、利権を企業にばらまいている。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/279190

https://www.chunichi.co.jp/article/774671

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コロナワクチン・・私は打たない

2023-09-22 20:41:34 | コロナ

 ワクチン後遺症を熱心に報じてるのは、CBCのみ、これこそ異常なメディア状況。

“ワクチン後遺症”「事実を国民に伝えて」「早く救済を」 全国患者の会が厚労省で悲痛の訴え【大石が聞く】

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「五十四の瞳」を理解するために(3)

2023-09-22 19:43:35 | 演劇

 戦後の在日朝鮮人の子どもに対する教育は、在日朝鮮人連盟が積極的に取り組んだ。劇中の朝鮮人学校は、静岡県でもつくられた。

 以下、自治体史の記述である。

 1945年8月の解放は、今まで奪われていた朝鮮の文化、そして朝鮮語を子どもたちが学習する画期となった。

 日本在留を決意した朝鮮人たちは全国各地で学校を創設した。静岡県でも1945年11月、浜松市に夜学として開校され、翌年2月には浜松朝連学院(のち浜松朝鮮人学校と改称)となった。その頃三島市にも三島朝連学院が設立され、また小笠郡掛川町などでは国民学校の教室を借りての民族教育が始められた。また静岡市では民青学院が創設され、県下青年たちを集めての民族的かつ政治的教養教育の機関として動き始めた。

 1947年4月、文部省は朝鮮人の子どもも日本人の子どもと同様に就学させる義務があるが、強制は困難であるので適切に措置すること、また朝鮮人が自ら学校を新設することについて都府県が認可することは差し支えない、との通知を伝達した。

 このように朝鮮人の民族教育は一応容認されてはいた。ところが1948年1月、文部省は朝鮮人に対し日本の法令に服することを要求し、朝鮮人児童・生徒に日本人と同様の教育を受けることを強制した。 同時に朝鮮語の教育は正課外でのみ可能であるとして民族教育を否定した。

 さらに1949年10月、政府は在日朝鮮人連盟を解散させた後、朝連などが設置した民族学校の閉鎖を命令した。朝鮮人の子どもに対する義務教育は公立学校で行い、 無認可の朝鮮人学校は認めないというのである。これにより三島朝連学院は警察と県職員の手により閉鎖されたが、浜松の浜松朝鮮人中小学校では激しい抵抗により閉鎖を免れた。また沼津市在留の朝鮮人は学校閉鎖に対して反対闘争を行った。

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「五十四の瞳」を理解するために(2)

2023-09-22 19:43:35 | 演劇

 日本に併合された朝鮮人は、日本人と同様に「大日本帝国臣民」であった。ただし、日本人は戸籍法に基づいて戸籍に登録されるが、朝鮮人は日本の戸籍法の適用を受けず、独自の戸籍が創出された。

 1945年8月、日本の敗戦により朝鮮は植民地支配から解放された。以下、自治体史に書いたものを掲載する。

 在日朝鮮人について、占領軍は1945年11月の「基本指令」において、一方では「軍事上の 安全の許す限り解放民族として取り扱い」、 他方では「必要な場合には敵国人として処遇してよい」としたが、この曖昧な規定は、結果的に彼らを無権利状態に置くこととなった。

 これは、日本政府による治安優先の朝鮮人処遇策を占領軍が許容したところに発現した。すなわち日本政府は、日本国籍を持つとされた在日朝鮮人の選挙権や 外国人登録については「外国人」として扱い、他方、義務教育や司法警察権、刑事裁判権などについては「日本人」として処遇したのであった。 これを具体的に見てみよう 。

 まず男女平等の選挙権・被選挙権が実現した戦後初の衆議院議員選挙において、在日朝鮮人のそれは剥奪されたのである。1945年12月に公布された改正「衆議院衆議院議員選挙法」の付則が「戸籍法の適用を受けざる者の選挙権・被選挙権は 当分の内之を停止す」と規定したように、「戸籍法」の適用を受けない旧植民地出身者たる「外地人」の参政権は提出された。したがって彼らは日本国憲法の制定に参加できなかった。

 そして1947年5月2日、すなわち日本国憲法が施行される前日、政府は 最後の勅令により「外国人登録令」を公布施行した。政府は旧植民地出身者については講和条約が発効するまでは日本国籍を持つとしていたが、この第11条で彼らを当分の間「外国人」と見なす、としたのである。

 「外国人登録令」そのものの内容は、外国人の入国についての原則禁止、在留外国人について登録を実施すること、外国人の登録証明書常時携帯義務、さらに無許可入国や登録手続に違反して司法処分を受けた者についての国外退去強制というものであった。

 当時この「外国人登録令」 が対象とした者のうち90%は朝鮮人であった。したがって「外国人登録令」は朝鮮人を管理しようという目的のもとに公布されたと言ってよい。治安当局も目的は「治安確保にある」と明言していた。

 その背景には、今まで差別構造の中にあった朝鮮人が敗戦により解放され、自らの権利を堂々と主張し始めたという社会状況、そして一度帰還した朝鮮人の日本「密入国」があった。すべての在日朝鮮人を管理しながら、これらを取り締まろうとしたのである。

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「五十四の瞳」を理解するために(1)

2023-09-22 19:33:32 | 演劇

 在日コリアンが何故に民族教育を強調するのか、それは日本の植民地支配が朝鮮民族の文化やことばを抹殺するものであったこと、そういう歴史を体験しているからである。

 下記は、私が自治体史に書いたものの一部である。

 1910年の韓国併合は、朝鮮の民族文化に対する抑圧の開始でもあった。1911年8月に公布された朝鮮教育令は、「忠良なる国民の育成」を教育の「本義」とし、普通教育の目的については「特に国民たるの性格を涵養し国語を普及すること」とした。その結果、学校教育では日本語が重視されることになり、朝鮮の地理や歴史などは教育されなかった。また朝鮮人のための学校は貧弱で子どもたちの就学率は高くはなかったが、他方で民族的な教育を行う書堂や私立学校に通学する者が多かった。植民地化された朝鮮の教育はこのようにして始まった。

 植民地支配に対する1919年の三・一独立運動には多くの学生が参加した。そこで朝鮮総督府は同化政策を推し進め、「一視同仁」のもとに朝鮮人の「日本人化」を図ろうとした。その後1937年に勃発した日中戦争が本格化する中で、「皇国臣民の誓詞」が定められるなど、「内鮮一体」の「皇国民錬成」教育が始められた。特に日本語の常用が強要されるなど、民族意識を奪い、朝鮮民族の文化そのものの抹殺が図られたのである。

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【演劇】文学座「五十四の瞳」

2023-09-22 17:05:46 | 演劇

 在日コリアン史をかじったことのある私にとって、この演劇は身につまされる内容であった。コリアンに対するヘイトが行われているこの時代に、こうしたテーマを文学座がとりあげたことに敬意を表したい。

 さて、この劇で描かれた世界の歴史的背景を知る人はあまり多くはないだろう。しかし演劇は、描かれた時代背景を知らなくても楽しめるものでなければならない。この演劇は、劇として十分に楽しめ、考えさせる内容をもっていた。笑ったり、強く心を動かされたり・・・して。

 姫路市に近い瀬戸内海の島の話だ。西島、家島諸島でもっとも大きな島、そこには家島朝鮮人学校があった。西島の採石業では朝鮮人が多く働いていた。朝鮮人の子どももたくさんいて、その子どものために学校がつくられたのだ。西島には日本人も、もちろん住んでいたが、島には小学校がなく、日本人の子どもも、朝鮮人学校に通っていた。

 教室で机を並べていた三人の男子と一人の女子。そして教員二人、子どもたちの父と母。全部で8人だけ、舞台上でダイナミックに動き回るので、なぜかもっと多いように見えてしまう。

 こんな離島でも、政治や社会が押し寄せてくる。GHQの支配下にある日本政府の朝鮮人学校の閉鎖通達、1948年の大阪や兵庫で闘われた阪神教育闘争、朝鮮戦争、日本共産党が行っていた武装闘争(1950年代初期)、北朝鮮への帰国運動・・・そうしたものに関わりながら、話は展開する。

 男子3人は、二人が朝鮮人、一人が日本人で、三人はチング(友だち)である。3人は阪神教育闘争に参加、その後一人は朝鮮戦争に志願し帰ることなく、日本人のひとりは採石中に亡くなる。

 この劇について考えるなら、離島での日々が、外部から入り込んでくる政治などに、若者は掻き回され、しかし親世代はこれまで続いてきた生活を淡々と続ける。世代間の葛藤、そして日本人青年と女性教員との結婚問題に母親が反対する構図には、民族差別があったのか。その母親も、最後には朝鮮人と結婚するのだが。

 それとも、在日朝鮮人の置かれた苦難を、西島という離島を舞台にして描くという意図のもとに制作されたのだろうか。私は、なまじ在日コリアンの歴史を知っているが故に、そういうことに関心が向いてしまった。

 いやいや、そんなことを考えずに、舞台を見ていて、笑ったり、ちょっと感動したり、それだけでいいじゃないか、という気もしてくる。

 鑑賞会のパンフレットには、日朝(韓)関係の年表が簡単に掲載されていたが、それについて、少し詳しく記しておきたい。

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